年譜・プッタタートの80年





1906年  グアム、あるいは後のプッタタート比丘は、午年7月7日に当たる5月27日、夫シエン パーニットと妻クルアンの子として、当時チャイヤー県庁があったプムリエンの中心街で生れる。

1908年  8月12日、弟ジークーイが生れる。

1909年  チャイヤー県が廃止されバーンドーン県になる。

1914年  八歳になると、両親は伝統的な教育を受けさせるため、三年間プムリエン寺にグアムを預ける。

1917年  グアムは家に戻り、ポーターラーム寺小学校へ入学し、中等部まで学ぶ。

1921年  タラートに店を出した父と暮らすために、タラートにあるサーラピーウティット中学校二年に編入する。

1922年  父の急死によって、グアムは中学校を退学して母の商売を援ける。

 この時、弟ジークーイは沙彌として出家し、スラータニー県にある中学校で学ぶ。

1925年  プムリエンにナックタムの学校が開校される。

1926年  年頭に弟ジークーイがチュラーロンコン医学校に入学。

       雨季の前にグアムは出家し、7月29日に「インタパンヨー」という戒名を授かり、プムリエン寺で雨安居をする。

       年末にナックタム(僧試験)三級に合格。予定していた還俗をしなかった。

       年度末休暇で帰郷したジークーイは、兄のプラグアムに出家と学習を続ける機会を与えるため、学校に戻らず、家業を継いだ。

1927年  プラグアムはナックタム二級に合格。

1928年  年頭にプラグアムはバンコクの学校に入学。初めはパトムコンカー寺へ行ったが、わずか二か月でプムリエンに戻り、雨安居をする。

       ナックタム(僧試験)一級に合格する。

1929年  ボロマタートチャイヤー寺のナックタム学校の教師になる。

       ジークーイは、「チャイヤー商行」のタンマの本箱を開放して無料で貸し出し、法施会の原型を作る。この頃から、海外から英語の仏教雑誌を取り寄せて読み始める。

1930年  パーリ語を学ぶために、再びバンコクのパトムコンカー寺へ行く。

       戒師の火葬式に印刷して配るために、「布施の利益」という文を書く。内容は、それまでの布施のあり方に疑問を感じ始めた現代人の質疑応答である。

       「在家の仏教」という長い論文を書き、現代の言葉で仏教の価値を説き、現代でも聖向聖果涅槃に、本当に到達できるという見解を示し始めた。この文章は、ボロマタートチャイヤー寺のナックタム学校の祝賀会の際に印刷して配られた。

       年末のパーリ語試験三段に合格し、プラマハーグアム・インタパンヨーとなる。

1931年  非常に勉強に厭き、教科書以外の探求と学習をするうちに、理想の考えを確信し始める。年末パーリ語試験四段に落ち、理想に従って働くために帰郷の準備をする。

1932年  4月6日、帰郷。

       5月12日、スアンモークの出発点であるトラバンチックの荒れ寺に入る。

       母クルアンが6378バーツを寄贈し、パーニット家基金を設立し、利子をスアンモークと法施会の維持育成のために使う。

       法施会が事業として発足する。ナンヌンの家を「法施の部屋」として開放し、毎月ワンプラの日と陰暦の8日には、僧を招いて食事を施し、説教を行う。

       8月「阿羅漢の後を追って」を書き始める。

1933年  季刊新聞「佛教」を発行する。

       タンマヨード、チナワート等の筆名で、仏教と僧の状況を批判した文章を書き始める。「なぜプラローガナートと同行しないのか」を執筆し、プラチャーティッパタイ、1933年11月24日号に掲載する。

1934年  法施会が印刷機を購入する。

       「カンタトゥラとヴィパッサナートゥラはの関係」を執筆する。

       「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を翻訳し始める。

       パーリ「大念処経」を翻訳する。

       ソッドクーラマ ローヒッドが北京から書き送った文章全文を「佛教」に掲載する。

       雨安居前に、ナコンシータンマラートへ行き、スアンモークに倣ってスアンパンタラームを開基したプラドゥラヤパーク スワマンたちのために、「タンマの実践の振興」と「仏教の教え」という説法をする。

       雨安居中の三か月間、口を利かない念処に入り、タンマの実践の日記を書く。

       2月13日、長論文「タンマの実践」を執筆する。

1935年  郡役所がプムリエンから、タラート・リムターンロットファイに移転する。法施会と法施印刷もタラートへ移転する。

       「ブッダの言葉による四聖諦」を翻訳し、「佛教」に掲載する。

       タイの最南端の地方に遊説し、帰郷して「タイ南部の仏教」を執筆する。

       プラローガナート(イタリア人僧)と一緒にインドへ歩いて旅したただ一のタイ人である、沙彌であったカルナー クサラーサイ(後のアーチャーンカルナー・クサラーサイ)と連絡を取り始める。

1936年  翻訳作品の一部から、強烈な僧批判である「スコンヤック」という詩を書く。

       「パリヤット(三蔵の学習〕の価値」を執筆し、仏教の理論と実践を統合する重要性を指摘した。

       「結集は頭に塗りつける」を書き、三蔵をタイ語に翻訳するよう要求し、過去の結集を批判した。

       パンヤーナンタ プララーチャカウィーと沙彌サムルーンがスアンモークを訪ね、雨安居を共にする。

       「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」初版印刷。

       法施会がプッタニコム学校を開校。 1937年  6月15日、マハークダラーチャ大学の教科書局長が、「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」を教科書として採用することを発表。

       大乗の経「入楞伽経」を翻訳し、「佛教」に掲載する。

       6月26日。大長老協会の会長であるテープシリントーン寺プのプッタコーサーチャーン殿下と、僧王の代理である僧代表委員会の総督がスアンモークを訪れ宿泊する。

       12月16日、サンガ王クロムルアンチナウォーラシリワット殿下崩御の際に、追悼のために「アピターナッパティーパニカー評論」と「戒条規定」を書く。

1938年  現代的な布教者育成のために、沙彌の教育を始める。(この企画はその後挫折した)。

       1月11日、青少年のためのブッダの伝記「ブッダの栄誉」を編集し、発行する。

       長編「ブッダの空」を執筆する。

       高等裁判所判事長プラヤーラップリープラカン、高等裁判所判事プラヤーパロットラーチャスピット、そしてサンヤータンマサック氏が初めてスアンモークを訪れる。

1939年  弟ジークーイが「タンマタート」と改名する。

       チャヤ―ラーム寺に、事務所兼宿泊所である法施図書室を建設する。

       「仏教に見られるクリシュナ神」に関する文章を佛教に掲載する。

       55頁に及ぶ長編、神様への篤い信仰を終わらせる「神父の質問に答える」を「佛教」に 掲載する。

1940年  ヨーロッパで戦争が始まり、紙不足と価格高騰のため、「佛教」を2号まとめて発行する。

       反戦論文「仏教時代前半の世界の延焼」を「佛教」に連載し始める。

       7月13日、ブッタダンマ協会(1941年にタイブッダ協会と改名)の要請により、「ブッダダンマを理解する方法」という講義をバンコクで行う。

1941年  政府が新年を4月1日から1月1日に変更する。

       訳文「ブッダヴァチャナの宝箱」を「佛教」に連載し始める。

1942年  チャヤーラーム寺に法施クラブを建設する。

       「佛教」に、大乗仏教に関した記事の掲載を始める。

       タイブッダ協会で「タンマを理解した結果である静けさ」という法話を行う。

1943年  3月18日、ターンナムライ一帯の土地をルアンプラムパンヤーから購入するための手付金を支払う。

       チャイヤーの考古学に関した相談をするために、代理人ルアンボリバーンプリパンが、プラヤータムロンラーチャヌパーブ殿下を訪ねる。

       8月22日、プラワンラット殿下の火葬の際に、「涅槃のある不思議な状態」という法話を行う。

       スアンモークの仕事と生活に関する「スアンモークの10年」という文章を書く。

1946年  1月22日、スラータニー県の布教部長に任命される。

       ターンナムライのプッタトーン山(現在地)の新しいスアンモークで雨安居をする。

       プラヤーラップリータンマプラカン一行が二度目の訪問をする。

1946年  「プラクルーインタパンヨーチャーン」という栄誉名を国王より拝受する。

       3月2日、タイブッダ協会で「タンマと平和」と題した講義を行う。

       プムリエンのスアンモークを閉鎖する。(それまでは僧が常在していた)

       タイ中華仏教徒協会で「様々な宗派について知るべきこと」と題して講義を行う。

1947年  11月11日、タイブッダ協会で「タンマと民主主義の精神」と題した講義を行う。国の成功者であるプリーディー パノムヨンも聴いた。

       チエンマイにプッタニコム会ができる。

       5月31日、チュラーロンコン大学大講堂で、「仏教はどう現代人を助けるか」という講義を行う。

       「慧能経(法宝壇経)」を翻訳して「佛教」に連載し始める。

1948年  4月24日、母死亡。

       プッタニコムチエンマイの運営をアドバイスするために、初めてチエンマイに行く。

       サムイ島、パガン島周辺で遊説する。

       6月5日、タイブッダ協会で「ブッダダンマの道の山」と題した講義を行う。コミュニストという非難攻を受け始める。

       雨安居明け、パンヤーナンタ氏がチエンマイに駐在する。

1949年  五地方(南部14県)布教部長に任命される。

       3月30日、ボロマタートチャイヤー寺の住職に任命される。

1950年  「バーンドン湾周辺の遺跡」を執筆するために、チエンマイのチエンダーオ郡ケンパ ンタオ村に近いスアンチャーに二十日間滞在する。

       国立博物地スラータニー支部の館長に任命される。

       仏教式心理学に関する実験的提言論文、「優越感」を執筆する。

       プラヤーアマラリッティタムロンと南部の都市を遊説する。

       12月6日、ボロマタートチャイヤー寺にて、ラーマ九世の聖水注頂礼の祭主を任じられ、国王よりプラアリヤナンタムニーという栄誉名を拝受する。

1951年  9月20日、バンコクの法務省次官事務所の職員研修で、「トゥッカカッパナヌータナカター」を講義する。

       プラヤーアヌマーンラーチャトンが法施図書室に本を寄贈すると表明する。

1952年  2月、クラーブ サーイプラディット氏がスアンモークを訪問する。 

       チエンマイのプッタニコムが、ウィサーカ祭の日に仏教徒新聞を発行する。

       スアンモークの最初で最後のカティン祭が行われる。

       「20周年を記念して」を執筆し「佛教」に掲載。この年の発行は一回のみ。

       スアンモークの比丘・沙彌を薫陶するために、雨安居の間毎晩法話を行う。 

1953年  2月21日、僧病院内にプラブッタコーサーチャーンビル竣工の際に、「仏教は世界の病院」という講義を行う。

       11月24日、法施会が財団として認可される。

       新たに印刷機と裁断機の寄贈を受ける。

       スアンモークでスライド写真の映写会を行う。スライド写真導入によりタンマの布教方が改新された。

1954年  雨安居の間、地域から出ないことを誓願する。

       初めて、翻訳読経本を印刷する。

       12月6日、ビルマで行われた第6回結集に、タイサンガ代表として派遣され、「テーラワーダ仏教の幾つかの不思議なこと」と題した講演を行う。

       3月8日、「恩を知ることで世界は危機を脱せるかもしれない」を執筆。生態学の状態がある、仏教の世界観を示した秀作の一つである。

1955年  ネーティバンディタヤサパー講堂に於いての、第一回判事研修で、「仏教の要旨」と題した講義を行う。タンマコートには、「判事のタンマ第一冊」という名で印刷された。この講義シリーズは、その後十四回行われた。

1957年  2月、僧病院にて「タンマは世界の薬」と題した講義を行う。

       仏歴24世紀記念として、ボロマタートチャイヤー寺で、「現代の悪を滅す方法」と題した講義を行う。

       プッタニコムチエンマイが仏教徒財団を設立する。

       雨安居中に「正しいタンマの学習」と題した講義を行う。その後スアンモークの重要な基本の本となる。

       「プララーチャチャイカウィー」という栄誉名を拝受する。

1958年  バンコクに、スアンモークの新しい機関であるタンマの実践施設、スアンウソムとスアンウソム財団を設立する。

       スアンモークが実施しているように、アーサーラハ祭は仏教の重要な日と公的に発表された。

       カンボジアへ旅行しアンコールワットとアンコールトムを見学する。

1959年  芸術局から、チャイヤーから出土した石碑の複製のすべてを寄贈される。

       パンヤーナンタ氏が、トンラプラターンランサリット寺で雨安居をする。

       プッタニコムの所長であるチャオチューン シローロットがスアンモークで雨安居を共にする。

       PCS7 トンブリラジオ局が、雨安居中の毎朝6時30分に、判事研修の「仏教の教え」の朗読を放送する。

       「ブッダの言葉による四聖諦」初版印刷。

       雨安居中、スアンモークで「アーナーパーナサティ」を講義する。

1960年  プッタニコム学校が理想教育の幼児部を開校する。

12月28日  「チュラーロンコン大学仏教と風俗学習クラブ」の支援者であるプララーチャチョンニー殿下の要請を受け、チュラーロンコン大学で、「誰もが知るべき仏教の重要点」と題した講義を行う。聴衆は約三千人。

1961年  雨安居中、僧と沙彌の研修のために、「俺、俺の物」について話す。

       11月26日から12月22日までの間に7回に渡り、チュラーロンコン大学で「大学での仏教教育」というテーマのゼミに参加する。

1962年  精神の娯楽館(スアンモーク式映画館)と、世界の初期のブッダの伝記の彫塑のための彫像館の建設が始まる。どちらも十年の年月を経て完成した。

1963年  12月6日、教職員議会講堂で、王族クックリット プラモートと第一回目のタンマ論議風の討論会が行われる。テーマは「働くことはタンマの実践」。プイローチュナブーラノン氏と、チャンティット クラセーシン氏が同席した。

1964年  2月12日、第二回(最終回)のクックリット プラモートとの討論会が教職員議会講堂で開かれる。テーマは「空っぽの心で働く」。

1965年  1月21日、バンコクのタイブッダ協会に於いて、「まだ誤解していること」と題した講義を行う。

       4月27日、教職員議会定例集会にて「青少年の道徳を高める」という講義を行う。

1966年  5月27日、初めての「齢を笑う」会を始める。

       11月8日 プッタサターンチエンマイでの世界仏教徒連盟大会に於いて、「まだ関心が少なすぎること」という講義を行う。

       11月14日、スアンモークのプッタトーン山で行われた全国青年仏教と会議の出席者に「お化けが人間を笑う」と題した講義を行う。

1967年  海外布教に行く第一回仏教大使研修の教育長に任命される。

       チエンマイキリスト教大学にて「キリストのタンマ、ブッダのタンマ」と題した講義を行う

       雨安居中のスアンモーク内の僧と沙彌に「パ-ティモッガ」の連続講義を行う。(1971年まで、雨安居には毎年続けられた)。

1968年  12月1日、スアンモークに隣接したタンマの子ボーイスカウトで行われた第16回全国仏教徒協会の集会で、議長を務める。

       「タンマの友第一号」であったプラヤーラッブリー タンマプラカンが死去し(4月19日)、二十万バーツが法施財団に贈与された。

       タンマコートの刊行が企画される。

1969年  暑季の大学生僧に対して、「ボロマタム」の連続講義を行う。

1971年  土曜法話を始め、今日まで続いている。

       12月5日、国王より「プラテープウィスッティメーティー」という栄誉名を拝受する。

       6月30日、「縁起の学習についての解説録」を執筆する。

1972年  シリラート病院で「仏教の教え」を講義する。

       スアンモークで「聖書を通して仏教を教える」というテーマの連続講義を行う。

1973年  8月30日、スアンモークを訪れたマヒドン大学医学部の教授たちに対して、「大学と心に関する知識」と題した講義を行う。

       プッタコーサーチャーン殿下生誕百年の本を出版するために、プラドゥラヤパー スワマンの要請に応じて、長編エッセイ「私の心の中の殿下」を執筆する。

       11月11日、スアンモークで「社会主義的な民主主義」について講義する。

       12月、講義中に倒れ、シリラート病院で療養する。

1974年  暑季の大学生僧に対して「大地のタンマ」を講義する。

       9月15日、「仏教の教えの社会主義」と題した講義を行う。

1975年  暑季の大学生僧のために「モークタムの応用」と題した連続講義を行う。

       「ブッダには社会主義の理想があった」を講義する。

       5月27日、28日、「世界を救うことができる社会主義」を講義する。

1978年  毎月第三日曜日に、法話のラジオ放送が始まる。

1979年  「仏教教団員が知っておくべきキリスト教のタンマの要旨」という連続講義を行う。

       マハーチュラーロンコンラーチャ大学より名誉博士号を授与される。

1983年  スアンモークが五十周年を迎え、「スアンモークの五十年」を発表する。

       ウィサーカ祭の日に「仏教教団員の法令」を発刊。

1984年  「ブッダの言葉による四聖諦」完全版を発刊。

1985年  年頭より病が重くになる。

1986年  シンラパコン大学文学部(宗教と哲学)より名誉博士号を授与される。

       ラームカムヘン大学教育学部より名誉博士号を授与される。

プッタタート自伝より




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