仏教の様々な宗派について知るべきこと

 

                                         1950年12月29日

                                     タイ中華仏教協会にて

お集まりのみなさん、私は、まだお会いしたことのない同朋である、仏教教団員のみなさん、特に中国人の仏教教団員にお目にかかる機会が得られましたことを、嬉しく思います。このように強い団結があるとは考えたことがありませんでした。本日、説法をするためにお招きいただきましたことを、非常に誇りに思い、協会のみなさんに感謝申し上げます。

 そしてもう一つ、初めに申し上げてしまいますが、今日の説法は、親戚同士のように、つまり、遠慮しないで何でも好きなように、あるいはあまり言葉に注意しすぎないで、率直にお話させていただきます。政治的に包み隠すものは何もありません。私たちは真実仲間なのですから。この世界のすべての苦から脱すために、学んで実践している仲間です。

大きな仏教を捉えれば、私も仏教教団員、みなさんも仏教教団員で、人種を基準に言えば、私の先祖の何人かは中国人ですから、私にも中国人の血が混じっています。ですから、率直に包み隠さず話すのを妨害するもの、そして耳障りな言葉があったとしても、みなさんのお許しを阻むものがあるでしょうか。

 今回が初めてであること、そして時間があまり長くないので、初心者が知っておくべき概要についてお話するのが良いと思います。その方が、大きくて複雑で細かい話より、時間的にもふさわしいと思います。

それに、私たちが大きな教えとして一致できるかどうか、そして二つの言語、つまりタイ語と中国語の、通訳を介した講演がどんな結果になるか、ということを知る実験であり、テストにもなります。もし良い結果になったら、このような講演会を定期的に開催してくださるよう希望します。タイ人と中国人の仏教教団員の知識の交流になり、すべてが喜ばしい方に向かいます。

 

 これからお話する初めの項目は、仏教の様々な宗派、特に大乗と小乗ですが、その違いに関した問題です。そして一つの大きな宗派は、非常に多くの小さな宗派に分かれています。いろんな宗派がそれぞれ違うことを言うので、一方にとって正しければもう一方にとって間違いになり、どちらを信じていいか分からないと考え、理解できない人たちの気持ちを重くします。

あるいは自分たちが以前から信じているものにこだわるあまり、他の人たちを誹謗する部派もあります。このような害がもしあれば、宗派間の問題に関する誤解から生じます。ですから私は、まず初めにお話ししなければならない問題と捉えています。

 これは単純に考えてみてください。燈火と呼ばれるものは何でも、当然掲げている人の道を照らします。赤いランプ、白いランプ、あるいは何色のランプを使っても、どれも当然、みなさんが歩いて行こうとする道を照らします。ただ明るさが欲しいだけで、赤や白などの色が、道に迷わせることも、道を見えなくすることもありません。

目的地に到達した時、ランプの色の違いは何も問題ではありません。時には違う国に住んで、色の違うランプを使うことで、つまり望みに合わせて、あるいは自分たちにふさわしくすることで、更に賢くなるかも知れません。誰もが、心や教育や住む場所が違うのに、他人と同じにするために真似るより良いことです。

 みなさんは、大乗も小乗も、どちらも同じ燈火、あるいは仏教と見えています。違いは、人種も違い、風俗習慣も違い、彼らを取り囲んでいる必要性も違う場所で布教した、宗教指導者の枝葉のような要求に関する、些細な外面的要素です。しかしどちらの宗派も宗教であり、燈火です。

二千年以上の時が経っているのですから、厳密にどちらのランプが古いと、誰が示すことできるでしょうか。そして、古いランプと違えば明るくないと、誰が主張できるでしょうか。灯したランプの光を、多少でも消すことができる人がいるでしょうか。そして色つきガラスのランプを使うと、道を照らす価値が無いと反論する人がいるでしょうか。

 チベット仏教は、中国の仏教と違い、中国の仏教も日本の仏教と同じではなく、日本の仏教は尚のことインドの仏教と違い、インドのはビルマのと違い、ビルマのはスリランカのと違い、スリランカの仏教も、タイの仏教と全部が同じではありません。しかしそれもこれも、違うのはランプだけ、あるいはランプのガラスの色だけと、どうぞ理解してください。どのランプの光も、私たちの周囲にある物を照らします。

光の量に多少の違いはあっても、それらの光景を真実と違うように見せることはできません。たとえば一が二に、机が椅子に見えることは絶対にありません。信じられないなら、みなさん試しに、赤や緑や紫や白、あるいは何色でも、色の光で本を読んで見てください。読み取る意味はみんな同じです。

だからつまり、私たちが疑念を抱いている、あるいは嫌悪までしている宗派間の問題はないということです。中国、あるいはタイの仏教教団員に、世界の人をすべての苦から脱出させる道を照らす仏教の光が届かないことはありません。中国の仏教、あるいはタイの仏教は、このような理由で一つです。

どのブッダも、ブッダが何百万人いても、すべて同じに教えるように、ブッダの仏教は、何の宗派であろうと、当然同じ目的を教えるので、光の価値は同じです。だからお答えするべき問題は、宗派の違いの問題ではなく、問題は、それらのブッダが、どのように明かりを与えるか、という点にあります。

在家か出家かということは問題ではありませんが、明かりを求めるか求めないかが問題です。男性か女性か、子供か大人か、お金持ちか貧乏か、賢いか愚かかは問題ではありませんが、明るさへの道を旅する意志があるかどうかが問題です。

この明かりはすべての人間から、果ては幸福を知り、苦を嫌う畜生も含めたすべての生き物のものです。なぜなら、すべての生き物は同じ発生源から生まれるからです。だから仏教教団員には区別がありません。世俗の問題である食べることと、結婚と、政治だけは区別するべきです。

仏教教団員は、世界全体が同じ一つの社会です。人々が世界は三万あると言っている見積もりに従って、自分と三万世界全体の同朋が、何を求めているかを考えてみます。これが、私がこれからお話する二つ目の項目で、今日のお話の重要点とします。

 先ず、「自分は何を求めているのか」と自問して、しっかりと理解しなければなりません。生まれてから休まず勉強して、何でもして、いつでも駈けまわって、そして今日ここに集まり、いろんなことを疲れも惜しまずするのは、いったい何を求めてでしょう。何かに満足したこと、あるいはジッと休んだことがありません。

まだこれからも何かをしたいと望んでいて、これで終わりと考えたことはありません。こういうのは、何を望んでいるのでしょう。誰かがお金をくれたとしても、あるいはどんなに有名にしてもらっても、みなさんが休もうと考えることはなく、掻き集めるばかりで、果てしなく転げ続けます。

 子供の頃のことを良く思い出してください。今望んでいることと同じではありません。若い時の望みもまた、子供の頃と違い、中年になるとまた望みが変わり、老人になるまで望みは常に変化しつづけます。仮に寿命があと千年あれば、みなさんは五十年ごとに望みを変えるかも知れません。あるいは百万年寿命があるとしても、きっと五十年ごとに望みが変わるに違いありません。

自分はいったい何を望んでいるのか、考えてみてください。そして何歳になったら、本当の自分と見なすでしょうか。自分自身を見つけたいなら、何歳になったら、満足して自分自身と認める自分があるのか、示すのが好きです。

みなさんはきっと、自分はバカで悪事を働いて困るとは認めないでしょう。しかし結局、賢くて善だけを行い、いつでも満足できる幸福な自分を見つけることはできません。だから、自分が何を望んでいるかを知っていると言わないでください。自分は何か、いったい自分は誰なのか、自分でも見つけることができません。

 私たちの宗教は、大乗も小乗も、賢くなって本当に善い行いをし、いつでも自分で満足できる幸福を見つけられるよう、明かりで照らしてくれます。そればかりか、もう一段高い、つまり至高のもの、自分があることに飽き飽きした人が望むものを教えています。

  しかしこのレベルは、もしかしたら崇高すぎて、一般の人が望むものではないかもしれません。だからとりあえず、自分がある段階にいるすべての生き物のレベルを基準にします。完全に理解でき、実践できたら、次に自分があることに倦怠した人のためのレベルに昇級します。

 みなさんが国の良い国民であり、紳士淑女であり、人々が望むようにお金も名誉も揃っているなら、みなさんの行動はあるレベルに到達したと見なします。しかしまだ、本当の自分を知ることができない段階です。なぜなら時には、思い掛けなく、それらの豊かさや幸福に対して倦怠が生じ、まだおかしな悪事を働きたくなることもあるからです。このようなら、まだ「本当の自分」には出会っていないという意味で、騙す幽霊と同じ、騙す自分に会っただけです。

そんなことでは、「本当の自分が何を望んでいるのか」を見つけることはできません。自分がいったい何を望んでいるのかが分からないうちは、ただひたすら目をつむって、自己欺瞞の威力で行動し続けるしかありません。

そして極めて正確に言えば、甚大な被害であり、欺瞞の牢に繋がれること、生きながら欺瞞地獄に落ちるのと同じです。だから良く注意してください。つまり自分があると捉えている段階で、捉えて基準にすることができる本当の自分とは何か、自分は何を望んでいるのかを知ることです。

 純潔な自分、穏やかな幸福の自分、明るく澄みきっている自分だけを、本当の自分、本来の自分、あるいは自分の本当の顔と見なすことができます。まだ野望を追っていて、暑苦しく不潔で真っ暗な自分を、誰も自分と認めたくありません。暑苦しくしているもの、汚くしているもの、闇にしているものを取り出してしまえば、純潔なもの、そして澄みきった幸福が残るからです。

これらは別々のもので、切り離せます。だから私はいつでも、純潔な方を自分としています。自分の心を支配して、自分自身を見えなくさせ、自分が何を望んでいるのか見えなくさせているものは、ただ自分に付いた泥、あるいは汚れのようなもので、自分でも、自分の本来の顔でもありません。宗教の力でそれらを洗い落してしまえば、「自分の本来の顔」が見えます。あるいは自分と捉えて愛すにふさわしい、本物の正しい自分を知ることができます。

 本当の自分、元々の自分は全部同じで、中国人とか、タイ人とか、西洋人と分けることはできません。塗料、あるいは表に貼ってあるレッテルを洗い落してしまうので、善人、悪人と分けることもできません。土を洗い、泥を洗い、汚い垢を洗い落すので、区別できるほど違いや特徴はありません。

肉体である体は自分ではありません。作り上げている様々な元素に威力で変化するもの、と私は言います。だから身体は自分の外部を覆っている皮でしかありません。全部取り除いてしまえば、男も女もありません。性の感覚を生じさせる器官がなければ、男女という感覚はないので、本当の私たちには、男も女もありません。たったこれだけの例で、今皆さんが考えているいろんな考えは本来の純粋な自分の考えではないという、十分な説明です。

それは無明、あるいは後から塗られた愚かさの結果にすぎません。完全に封印するように塗り付けられたので、元々の自分の正しい姿を現わす機会がありません。新しく来た人が主人として居座っているので、古い人は、「中にいる私の方が正しい純粋な人だ」と言って、姿を現す機会がありません。前を遮っている新しい人が譲ろうとしないので、古い人はずっと中に籠っていなければなりません。

 みなさん、「自分の元々の顔」を見てください。中国人、タイ人、西洋人、あるいはインド人であることを表す、頭や耳や口や鼻はなく、男も女もなく、大人も子供もなく、富豪も乞食もなく、愚かな人も賢い人もいません。本当に見えた時には、「ああ、私は!」と、嘆きの声を漏らします。

 こうなれば、本当の自分とは何かを知ることができます。と同時に、自分が何を望んでいるのか、本来の本当の自分が何を望んでいるのか、自分と、自分の外皮が同じものではないことなどが自然に分かります。

 女の人を欲しがるのは、男性の感覚で、男の人を欲しがるのは、女性の感覚です。人形を欲しがるのは子供の感覚で、新しい車や家を欲しがるのは大人の感覚です。この女性、男性、子供、大人などという感覚が自分になければ、男の人や女の人や、人形や車や家などを欲しがりません。そこでみなさん考えてみてください。何を欲しがるでしょうか。

 本来の私たちは、何も欲しがりません。なぜならサンカーラ(作られた物。行)、あるいは名形(心と体)である自然より上にいるからです。あれこれ欲しがるのは、体のため、そして煩悩欲望に支配されている心を潤すためです。言い方を変えれば、願望とは、執着でいっぱいの名と形です。

男性、女性という性から脱した本来の自分は、肉体である身体がないので、食べ物も着る物も欲しがりません。食事や衣服などを求めるのは体だけの要求、あるいは体を「自分」又は「自分のもの」と捉える心の要求、あるいは最初の煩悩で、俗人が更に高い聖果に到達するために、必ず捨てなければならない「有身見」と呼ばれるものです。

 ですから、実践の初歩の段階で重要な教えは一つだけです。つまり、もし本当の自分があるなら、どんな状態か、どんな状態が本当の自分で、どんな状態が偽物か煩悩か分かるよう、熟慮して選ぶことを知ることです。それが分かれば、煩悩に従うのを止め、煩悩を支配することができます。その結果幸福で軽快で、純潔で明るくなります。

というのは、本当の自分と仮定したものは何も欲しがらないので、受け取るべきものは何も不足せず、いつも有り余っているからです。このようになれば、ある段階の実践が終わったと見なします。つまり名と形(心身のこと)から自分という感覚を抜き取ることができたので、以後名(体)を自分、あるいは自分のものと見ることはありません。

そして「自分」は、名形(心身)の中に一時的に存在する欺瞞するだけのものと見ます。「自分は偽物を捨てることができ、その後は未練も何もない。本物に到達することを目指し、確実に涅槃へ向かって実践をする人であり、失敗はない」と捉え、一級の実践、つまり本物に出合ったと見なされます。

 本物、あるいは純潔な元々の顔に注目できたら、次の実践は、その本物はいったい自分なのか、その本物を本当の自分と捉えるのか、あるいは元々の自分の顔、つまり煩悩のない顔、あるいは煩悩のないものと捉えるのかどうか、もう一度真剣に考えなければなりません。

なぜならこの段階の実践は、非常に重要な段階と見なされているからです。私たちが涅槃に到達できるかできないかは、この段階の実践に掛っています。この段階の考察は、つまり、「新たに発見した素晴らしい本物は何なのか。つまり自分なのか、自分ではないのか。ただ本物だけで、自分の物でも、誰のものでもないのではないか。それとも本当の自分なのか」と、熟慮熟考します。

 まだ取や煩悩が多少残っていれば、その人はその後もしばらくは、その本物を自分と捉えつづけます。智慧で本物を推測しても、完全に本物に到達することはできません。なぜなら、せっかく画面は見えても、あるいは一部分に触れられても、心には執着する取が残っていて、その人が本物に到達するのを妨害するからです。

 ちょうど鉄格子の檻の中にいるように、檻の外の空間は良く見ることも、手を伸ばして外の空を掴むこともできます。檻の外には何も閉じ込める物はないと明らかに見えるのに、それでも檻の外に出ることができません。

この項目も同じです。本物を見ることは出来ても、厳密に真実に到達することはできません。本物が自分だ、という取があるからです。取は私たちを閉じ込めて自由にさせない、真実に到達させない鉄格子と同じです。だから私たちは涅槃に到達できません。この眼で見えていても、手を伸ばして掴めても、檻の中にいるように、手を伸ばして檻の外を掴んでも、全身が出ることはできないのと同じです。

 だからみなさん、注意してください。本当の顔、つまり煩悩の混じっていない状態を見るばかりで、いつまでも涅槃に到達できない訳ではありません。それはまだ、ほんの少し取が残っているために、煩悩のないものを「自分」と捉えているので、最後にもう一度賢くならなければなりません。つまり、その本物も自分ではないと知ります。無為の側の自然であり、純粋なタンマであり、何もかもタンマばかりです。

それ自体で存在し、生れも死にもしないので、普通にそういう状態なので、自分ではないし、自分と呼ぶべきではありません。自分という言葉、あるいは自分という感覚は、煩悩の感覚であり、私たちを包んでいる泥のようなものなので、すっかり落ちるまで洗いつづけます。私という感覚、あるいは取がなければ、格子をすべて折ってしまったも同然なので、檻の外に出ることができます。

心が脱出したと言います。心が取から脱出するだけで、自分はなくなります。その心は自分ではありません。その心は、それ自体を自分と捉えないので、脱すことができます。ブッダは「その解脱はあるが、解脱した人はいない」と言っています。これが仏教の解脱です。

 仏教教団員であるみなさんは、仏教の解脱を良く理解しなければなりません。小乗であれ、大乗であれ、仏教は当然厳格な解脱です。わずかな煩悩の名残も残っていません。自覚できない煩悩がわずかに残っている厳密でない解脱は、他の人たちの解脱で、仏教の解脱ではありません。その種の解脱は、粗い取から解脱しただけで、微妙な取から解脱できていません。もう一段階実践をすれば、涅槃に到達します。

しかし大丈夫です。最高でない解脱も、後で最高のものに到達します。この段階まで来れば、もうどこへも行きません。当然同じ道を追ってきます。つまり最後には同じように涅槃に至ります。ただ多少時間がかかるだけです。その後最後の賢さが生じるまで、彼らは大分道に迷わなければなりません。

 要するに、実践している煩悩のくもりを除いて、煩悩のない本来の顔が見えるようにできる人は、その元々の顔もただの純粋な自然であり、自分ではないと明らかに知らなければなりません。本来の顔が見えた人の心は、その後何かを自分と捉えることがない、十分純潔な心です。

この段階で言う「自分」とは、他に使う言葉がないので言っているだけです。その純潔な物を自分だと、強く抱きしめて執着していません。執着から解放された心には、苦はありません。苦は、執着のある心にしかないからです。どんな方法でも、心から執着を無くしてしまえば、それは苦の消滅であり、「苦の終わり」、あるいは涅槃と呼びます。

 だからもう一度ご忠告させていただきます。誰の心でも、少しずつ煩悩を減らしていって、自分の本来の顔が見えるようになったら、もう一度注意深く熟慮します。最後の重要な段階です。元来の純潔な状態も自分ではないと、真実ありのままに見えるまで、もう一度熟慮してください。ただの純粋なタンマであり、無為の状態です。言葉を変えれば、すべての苦の消滅である涅槃です。

 ここまででも、時間を超過しているようです。もう一度大きな教えをまとめさせていただきます。

(1) 仏教はどの宗派も、すべて涅槃への道を照らすものです。

(2)すべての生き物は涅槃に到達するにふさわしく、中国、タイという区別はありません。

(3)初歩の段階の実践は、心から大きな愚かさを洗い落して、煩悩が付いていない元々の顔が見えるようにすることです。

(4) 最終段階の実践は非常に難しく微妙なので、注意しなければなりません。つまり、純粋なタンマを自分と捉える煩悩を残さないよう注意します。これが自分の本来の顔だと遊び半分に仮定するだけでも、行き過ぎです。

 最後に、みなさんが中国人やタイ人であること、大乗や小乗であること、仏教やキリスト教であることは、ただ表面だけのこと、本物を覆っている皮だという真実を見ていただけることを願っています。皮、あるいは貼り付いている汚い泥を落としてしまえば、中国人だ、タイ人だ、大乗の人だ、小乗の人だ、仏教だ、キリスト教だと決めつける物は何もありません。三万世界、すべて同じ純潔な心が残るだけだからです。

純潔なタンマ、あるいは涅槃に到達したことから生じるヴィムッティスッカ(解脱の幸福)を、原因が無くなるまで味わえば、最後の消滅です。残るのは純粋なタンマ、つまり涅槃、際限のない無我である時間だけです。智慧のある生き物が感情として引き止めておき、自分を深い泥沼から引き抜くというのは、誤解であり、自分への執着でしかありません。

 みなさんが、素晴らしい機会を掴むことを望みます。つまり、誰もが望む涅槃に到達するために互いに励む代わりに、騙して仲違いしたり苦しめたりさせるものに夢中ならないよう望みます。その素晴らしい機会があったら、急いで世界、あるいは体、そして欺瞞するいろんな物を、本物のタンマと見抜いてください。

欲と怒りと陶酔と、その他の間違った考えは、ブダの尻尾についた泥と同じ、後からついた泥です。だから洗い落とせないことはありません。これらの不潔なものが落ちてしまえば、心は自然に明るくなり、自然にすべてを知ります。その後は、今日のように知識を求めて集まり、勉強する必要はありません。

 ブッダの性質は私たちにあり、菩薩の性質も私たちにあり、阿羅漢の性質も私たちにあります。支配している煩悩がすべて消滅すれば、ブッダであること、菩薩であること、阿羅漢であることが自然に現れます。私たちは、「私は私であり、ブッダでも菩薩でも阿羅漢でもない」と勘違いしているだけです。幽霊や煩悩が、智慧や知識の代わりに入り込んでいるので、「本人」になっていないからです。

だから「私」である、この世界に夢中になっている感覚に執着しないでください。最終的には純潔な「自分の元々の顔」を見つけます。そして最後にもう一度、「それは純粋なタンマでしかなく、自分ではない。しかし私、あの人と区別しない同一性のために、三万世界のすべての生き物が望むべきもの」と見ます。

 どうぞブッダと菩薩とすべての阿羅漢だけを信仰してください。みなさん方がお健やかで、そして純潔なタンマの望みが叶いますよう。

 


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