まだ関心が少なすぎること

                                                 1966年11月8日

                                              世界仏教連盟大会にて

世界仏教連盟の会員の方も、会員でない方も、出家も在家も、すべての仏教教団員同朋のみなさん。私は、世界仏教連盟の理事長さんから、本日ここで、みなさんに何かお話するようにと、お断りできない要請を受けました。生老病死を共にする同朋として、そして地域の人たちの苦をすべて改善、あるいは消滅させるために手を繋ぐ友人の立場でお話させていただきます。

時間の節約と、真実を言い、実際に行動し、真実人間同朋を愛す仏教教団員精神と一致させるために、思った事をそのまま率直にお話する機会と、ご了承をいただけることと思います。

 限られた時間で私がお話するのは、私が三十年以上観察して、非常に重要であるにも関わらず、まだ関心が少なすぎると感じていることです。みなさんの大きな仕事、特に世界中の仏教教団がここまで運営してきたことに関してです。

 お話するのは二、三項目ですが、関連していて分けられないので、この機会に、順にお話します。万一みなさんが我慢して聞かなければならないことや、あるいは傷つくようなことがありましたら、どうかお許し願わなければなりません。次のようにお話します。

初めの話は、世界に仏法を布教している仏教教団のすべての協会が、事業の運営と連携にばかり関心を寄せ過ぎて、仏教の要旨である至高の本当のタンマに寄せる関心が、その段階にふさわしいタンマの実践も含めて、少なすぎることです。そして儀式を重視することばかり多くて、煩わしいほどです。こういうことが長くなると結果は、

(1) 私たちと向こうの関連の人たちが、直接心で知らなければならない本当のタンマを知ることが少なくなりすぎ、本物のタンマを知ることが少なくなり過ぎる結果、(イ)本当のタンマを考えて働く気持ちのある人がいなくなります。(ロ)世界仏教連盟等の意味の範囲が狭まり、歪み、自然の要求や要望を満たせなくなります。これについては次の項目で詳しく述べます。

(2) それは、タンマとタンマの実践を重視する仏教者の、私たちの事業への興味と信頼を減少させ、あるいは信頼できなくさせるかも知れません。結果は、

(イ)本当の目的による事業の運営や拡大が非常に難しくなっても、我慢しなければなりません。つまり協会が何とかつぶれない程度に、適当にやっていきます。

(ロ)こういうことが長くなれば、将来いつか、「仏教教団の人たちは何でも形式的で、自分たちの楽しみのためにしているだけで、たぶん観光旅行か海外旅行のつもりになっているように見える」と非難されるかもしれません。そして

(ハ)最後に会員と役員のみなさんの習性を腐らせ、ほとんど他人の費用を使って、楽しみのためだけに働く人になり、その結果私たちの協会、あるいは機関は確実に破綻します。ですからこの問題をよくよく考え、急いで根本から解決して防止し、できる限り改善しなければなりません。

 二番目は、今述べた、遅くなりすぎる前に解決し、適度に調節しなければならないことは、次のように分けられます。

(1) 社会や政治の利益になる道徳ばかりでなく、あるいは響きのよい文学ばかりでなく、あるいは世界が関心を寄せている哲学ばかりでなく、各自が煩悩を絶滅させるための実践である「仏教の核心」について関心をもたせ、教育と研究をし、特に理解のための相談ができるようにすることです。

世界の人の苦は、その人の煩悩から生じるのであって、戒や社会の知識、あるいは美しい文学、あるいは深遠な哲学の知識がないことから生じるのではありません。それらの知識がたくさんあっても、人は煩悩を排除できません。煩悩を生じさせないために、自分自身の目、耳、鼻、舌、体、心をできる限り管理できるようにする類の、「仏教の核心」に到達しなければなりません。

それができれば、その人の社会道徳は自然に善くなり、そして人道が、自然に世界中を支配します。仏教文学や仏教哲学を知るだけで、世界の永遠の平和が実現することはありません。仏教哲学は、仏教に関した新教育の割合が高まるにつれて、あるいは仏教界がたくさんの宗派に分かれることで、どんどん拡大し、ますます錯綜しています。

すべて哲学的な問題ばかりで、仏教の核心レベルの実践の問題ではありません。言い変えれば、それらの人々が、仏教の核心である本当のタンマを、全部哲学や文学の形に変えてしまい、直接心の実践と無関係にしてしまったので、喋りまくることばかりで、行動はほとんどありません。

 仏教の核心を「タンマ」という一語に集約することができるかも知れません。このように特別な意味のある「タンマ」という言葉は、三番目で詳しく説明します。この項目のまとめは、私たちは急いで事業を、「仏教の核心レベルの実践を重視する」に改めなければならないことです。そうすれば道徳や、その他の細かい問題は、タンマの実践をすることで自然に片付きます。

(2) 世界仏教連盟等のいろんな仏教協会の事業範囲の拡大は、仏教の核心の段階のタンマという言葉の意味を満たすようにします。つまり、world fellowship という言葉の意味にふさわしく、そして、あの国この国と分けることができない、仏教、キリスト教、イスラム教と区別することもできない、本当の自然を指すタンマという言葉の意味にふさわしく、「私、私のもの」という感覚を取り除いてしまうことです。このようなタンマという言葉の意味を、時間を節約して三項目で一度に説明します。

(3) 現在の、世界の仏教教育の間違いを急いで正すこと。特に外国人が書いている本にある誤りで、カンマの話と再生の話に関する、仏教と違う説明です。そして私たち仏教徒の世界でも、ブッダの言葉に関する、ブッダの意志と違う、あるいは真実と違う説明がされているので、その教えを実践できなくなってしまうものもあります。

たとえば「生まれる」という言葉は、母親の腹から生まれるという意味もあるし、その時々、「自分」「私」という感覚が生じることを意味することもあります。この二つの意味を一緒にし、あるいは反対にしたら、ブッダの言葉のその部分の意味は理解できません。

あるいは違う理解をしてしまい、ブッダの意図にそった実践はできません。仏教の「新しく生まれる」という言葉は、西洋人研究者のほとんどすべてが書いている仏教の本にあるような、ウパニシャッド、あるいはヒンドゥーのような権化、あるいは incarnation のような形で説明はされていません。

仏教の教えの「新たに生まれる」という言葉は、先ほど述べたように、その時その時、「私」という概念が生まれることにも使います。煮えたぎっているエゴイズムという意味で、これは、死んで棺に入ってから、どこかへ生れることである「新たに生れる」ことより重要です。

「生」という言葉、あるいは縁起の中の生れることは、いま言ったような、煮え立ったエゴイズムである感覚が生まれたという意味であり、一般に理解されているように、母親の腹から生まれることではありません。

なぜなら縁起と呼ばれるものは、一人の人に、一日何回も生じるものであり、そして四聖諦で述べられている種類の苦だからです。この縁起は、現在至る所にある、際限なく反論し合う哲学だけの話ではありません。本当は、毎日実践しなければならないタイプの四聖諦の話です。つまり感情を受け取っ時苦になるほど、無明で、心で作り出すこと(それが縁起)がないように、目・耳・鼻・舌・体を管理することです。

仏教のカンマについては、非黒非白業と、黒業と白業の終わりについて話さなければなりません。そうすれば仏教のカンマの話になります。いつでも黒業、白業、つまり良いカンマ、悪いカンマについてだけ、そして行為者がカンマの結果を受け取ることばかり話すのは、仏教のカンマの話ではありません。そのような教えは仏教以前からあり、他の宗教全般にあるからです。

ブッダは別の言い方をしています。つまり、パーリ・アングッタラニカーヤ(増支部)、チャトゥカニパーダのカンマワッカという章にあるように、非黒非白業の話と、黒業、白業、両方の終わりです。実際に述べていることは、八正道での実践、つまり黒くも白くもないカンマが、すべてのカンマの終焉である涅槃に到達させます。こういった種類のカンマの話だけが、誰の二番煎じでもなく、これこそが仏教のカンマの話だと、自信を持って言える仏教の教えです。

それらの本を書いている外国人は、この種のカンマについてまったく言及していません。述べているのは黒業と白業、そして自分の説明を長々と加え、その結果仏教と一致しなくなってしまいます。まだ世界にこのように間違った仏教の本を書く人がいることは、世界仏教連盟のような仏教協会が結集を開催して、新たに正しく理解しなければならないと思います。そうしなければ、世界に正しい仏教の教えでの実践はありません。

しかし幸運なことに、私たちが仏教の本当の核心であるタンマ、つまり「自分がないこと(無我。Selfless)に真に興味を持てば、自然にカンマについての探求、あるいはすべてのカンマを抜きとる行動が生まれ、最終的には同じ話になります。

自分がないこと(無我)こそが、「私」「俺」という感覚を無くし、本当の world fellowship に導きます。そして一に世界全体に、仏教、キリスト教、イスラム教、などという区別はなくなってしまいます。「自分」という感覚を無くしてしまう実践こそが、ブッダが発見して教えた、自然の本当のタンマです。

みなさんは、「私たちの仏教」という看板を掲げたので、私とあの人の区別ができました。その結果、自分を仏教教団員と呼ぶみなさんも、ブッダが発見した深遠な自然の、本当のタンマのない人になりました。あるのは、私と他人の区別がどんどん増えていく、新しい肉腫の仏教です。それは当然、どんどん傲慢になるという意味です。だから私は、最も大切なことについて話さなければなりません。つまり仏教の核心である「タンマ」について話すのが良いでしょう。

 三番目は、完璧な意味でタンマと呼ばれるものの話です。私はタンマという言葉の意味を、種類別に分けて、どの意味が仏教の核心かを指摘してお見せします。

(1) 一般的な意味、そして最も広い意味の「タンマ」

 これは、私たちが初めに理解し合うために必要不可欠ですので、多少長くお話しさせていただきます。パーリ語のダンマも、サンスクリット語のダルマも、非常に広い意味があります。つまり、人間が知っているものも知らないものも含めた、すべての物を意味します。

この言葉は、世界で最も不可思議な言葉で、他の言語に訳すことができません。時間を節約するため、そしてみなさんが理解しやすいように、この二つの言語の教えで、私が正しいと考えるこの言葉の定義を提案させていただきます。その定義とは、タンマと呼ばれるものは、

ー然(Nature)、

⊆然の法則(low of nature)、

人間がしなければならない、自然の法則に即した正しい義務(Duty)、

さ遡海任△觜堝阿ら生じる結果(Resurts)です。

 この四種類全部を、述べたように、世界一奇妙な言葉である「タンマ」というたった一語に集約することができます。パーリ語をよく知る人は、当然この真実を主張します。どうぞパーリ語をよく知る人から詳しく勉強してください。

 仏教の言葉では、自然のことを「サパーワタム」、自然の法則を「サッチャタム」、人間が自然の法則に則してしなければならない義務を「パティバッタム」、そしてその義務の実践から生じた結果を「パティヴェータム」、あるいは一般には「ウィパーグカム」と言います。ですから、この四つは、仏教の経典に完璧な説明があり、すべてをまとめれば非常に長く、アッタカターも含めた三蔵と同じくらいの分量になるということです。

いずれにしても、みなさんはこの四つはどれも、何らかの意味で自然に関係あるものばかりだ、ということが分かります。だからこれらは真実であり、自然の中の不動のものであり、そして自然と呼ぶものと切り離すことができない、と捉えることができます。

この種の本当の自然は、私、あの人、ヨーロッパ、アジア、仏教、キリスト教、イスラム教などと区別できません。しかし人間がよく考えもせず、自然に対して依怙地になって、自然の法則に反した、あるいは自然の法則と一致しない感覚で、私、あの人と仮定します。

言い方を変えれば、タンマに反しています。述べたような四項目の自然の状態は、「タンマ」という一語に集約されるので、自然に反せば、あるいはタンマに反せば、苦の方の自然の法則の結果を受け取らなければなりません。そして様々な面倒な問題が生じ、ここでは仏教の核心と呼んでいる自然、あるいはタンマの要旨である知識なしでは、人間一人では片付けられなくなります。

 タンマと呼ぶものが四種類、あるいはそれ以上でも構いませんが、それだけあるなら、どの種類のどの部分を、特に仏教の核心であるタンマと明示すれば良いのでしょうか。

(2) 仏教の核心であるタンマ。サンユッタニカーヤ(相応部)のブッダの言葉のある所で、ブッダが『大悟したすべてのタンマ(サパーワタムもサッチャタムもパティバッタムもパティウェータムもすべて)は、森全体の木の葉と同じくらいの分量だが、教えるタンマは、一掴みの木の葉くらいだ』という意味のことを言っています。つまり実践である四聖諦だけです。

もう一か所、パーリ・マッヂマニカーヤ(中部)、蛇喩経では、もっと範囲を狭めて、『私は苦と、苦の絶滅についてしか教えない』と言っています。マッヂマニカーヤ(中部)のパーリ語、愛尽経では、ブッダの教えのすべては、「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」というたった一つの文章です、という意味のことを言っています。『あらゆるものを、自分、あるいは自分の物と強く捉えるべきではない』という意味です。

これらのブッダの言葉から、仏教の核心であるタンマとは、

(儔修垢襪發里睚儔修靴覆い發里癲△垢戮討亮然であり、誰も自分、あるいは自分の物と捉えることができないもの。

何かを自分、あるいは自分の物と執着、あるいは断定すれば、即、苦である感覚が、直接でなければ密かに、必ず生じるという厳しい自然の法則。

だから人間が実践しなければならない自然の法則に則した義務は、するべきいろんな行動と、自分、自分のものという感覚なしに、その行動の結果を受け取ること。

せ笋燭舛浪燭を自分、あるいは自分のものと執着しないので、すべてを受諾した上で、苦しめ合うことなく、この世界で共に生きる。

これが仏教の核心であるタンマの教えです。そして「サッペー タンマー ナーラン アピニウェサーヤ」、『すべてのタンマは、執着するべきではない』というブッダの言葉と一致します。

 ここで言う「すべてのものに執着しないこと」とは、当然身体と言葉と心の、本当の実践でなければなりません。現在あるような哲学、あるいは文学、あるいは際限のない心理学のテキストの中だけにあるのではありません。もう一度繰り返した方がいいでしょう。仏教の核心であるタンマとは、「執着しないこと」の実践で、この実践は、初めに、自然に知識を求めます。そして最後に望ましい結果をもたらします。

これについては、ブッダの時代の多くの人は、現代人が溢れるほど知っている仏教哲学や仏教文学や心理学の知識がなくても、仏教の本体に到達したことを考えなくてはなりません。その方々は、その時自分が聞いたブッダの教えを基礎にして、哲学などの複雑な問題に関わることなく、それに適合している自分の精神的体験で実践しただけです。

仏教の三蔵に現在見られるだけでも、哲学や文学や心理学や論理学や、考古学その他がいっぱいあります。私自身も、それを仏教の核心と見なさず、それはただ、仏教の核心を包んでいる飾りでしかないと見ています。

ですから、自然に関する知識も、自然の法則の話も、自然の法則に合った人間の義務も、その義務の実践から得られる結果の話も、すべては仏教の核心であり、私たちに執着させないようにする知識でしかないと、あるいは「人間が完璧に実践する、『執着しないこと』が仏教の核心」とまとめることができます。

 みなさんが仏教の核心であるタンマに正しく到達すれば、私たちの world fellowship ができるだけ、つまり自然が決めた目いっぱい、あるいは自然の要求でも、できるだけ拡大していくために、共に世界に生きる同朋の、他の宗教の核心であるタンマを見ることもできます。

(3) 仏教の本当の核心であるタンマは、他のどの宗教の核心であるタンマとも同じです。証明するために主張させていただきます。これは非常に、検証するべきことだからです。

 私たちが見えなければならない最初のものとは、本当の宗教はどれも、世界のすべての人の自我を無くすことを目指しているという、すでに明らかな真実です。この目標のない宗教はありません。神様のある宗教も、自分自身を神に預けてしまうこと、あるいは神の自分にしてしまい、エゴイズム、あるいはセルフィッシュの程度でも、身勝手の基盤である自分自身をもたないよう教えています。

魂、あるいはアートマンがあると教えている宗教では、自分の身勝手の基盤であるアートマンではなく、本物を持つように教えています。つまり神と同一であるソウル、あるいはアートマンです。自分の行動を基準するので神がない宗教も、自己中心主義をなくすよう教えています。そして自分を捨てること、あるいは、人間の理想を考え、何でも人類のため、人道のため、人類の理想のために、自分があることを忘れるよう教えています。

たとえば間違った無我などを教えた、ブッダの時代の間違った見解とされる教義でも、自分があるという感覚を無くすこと、あるいは身勝手を無くすことを教えています。だから、本当の宗教はどの宗教も、大原則として一致する、自分、自分のものという執着を無くすことを目指しています。実践方法に関する小さな違いは、当然核心部分の内容に反するものではありません。

  「サッペー タンマー ナーラン アピニウェサーヤ 」という一文を仏教の核心と見なすには、以上述べた理由で十分です。当然他のすべての宗教の要旨としてもあります。そしてそれが、world fellowship はいずれか一つの宗教に限定せず、すべての宗教を許容しなければタンマではない、という正しい理由です。そうでなければタンマではなく、自然が決めたこと、あるいは望んでいることと一致しません。

私たちはいつも、タンマあるいは自然は一つであり、区別することはできないと考えなければなりません。仏教がタンマの宗教、あるいは自然の宗教なら、私たちは world fellowship の範囲を、タンマの、あるいは自然の精神ぎりぎりまで広げる努力をしなければなりません。

まだ拡大していなくても、あるいはまだ理解し合えないために拡大できないとしても、向こうの人たちがまだそう気づいていなくても、世界中に、まだ仏教教団員と認めることができない仏教教団員の同朋がいることを認めなくてはなりません。ですから仏教教団員の境界を自然はどう決めているか、どこまでと決めているのかという項目を考えてください。

(4) エゴイズムを管理し、消滅させながら暮らす教えを掴んでいるこの世界の人は誰でも、すべて本当の仏教教団員と見なさなければなりません。誰がテーラワーダで誰が大乗と言う必要はありません。それはむしろ、小屋に入れておく家畜の登録と同じ、登録の問題です。

  本来の仏教、あるいは本当の仏教はテーラワーダでも大乗でもありません。ブッダはまだ、タンマとヴィナヤ(律)の形で生きています。本当のタンマと律は、テーラワーダにも、大乗にもなることはありません。

区別できるのは、私たちがタンマと律のどの部分を選んで、自分の好みに合った、あるいは環境に規制される実践規範にするかだけです。タンマと律の本当の中身は、自分、あるいは自分のものに執着しない実践、ただ一つです。これが真実なので、本当はテーラワーダも大乗もありません。誰もが同じ結果のために同じ実践をしているからです。

違うのは、個人にとって便利な方法だけです。このような違いが、テーラワーダの世界でも、大乗の世界でも大きな違いになることがあるかもしれません。そして時には、同じテーラワーダの中の違い、あるいは矛盾は、個人の利益のため、あるいは集団の利益しか考えないことで進んでいる、テーラワーダと大乗の間の、見解の違いや矛盾より多いかもしれません。

だからタンマで、あるいは自然で言うなら、本当にはテーラワーダも大乗もありません。誰でも自分の身勝手を無くすために実践する人は本当の仏教教団員であり、誰でも自分の身勝手のために実践する人は仏教教団員ではない、という真実があります。むしろこっちです。

 心を管理し身勝手を減らしながら生きている人は、本当の仏教教団員であるという教えがあれば、現在私たちが仏教教団の範囲と仮定している範囲の外まで、視野に入れることができます。

広く見て、この視野で広く見て、世界中を、すべての世界を、何百何千の世界を、私たちの目で見えない、しかしあると言われている世界まで隈なく見れば、私たち仏教教団員の同朋は、世界中どこにでも、どの世界にも、あるいは、本当に仏教の核心であるタンマの精神と同じ自然の規定、あるいは自然の要望と一致するように、「自分、自分のもの」という執着を無くすよう教えているどの宗教にもいることを、喜びと共に知ります。

 世界仏教連盟などの範囲は、このように広いです、みなさんはそのことに関心が少なすぎます。あるいはまったく関心がありません。もしそうなら、自然の望みと一致しない状態に区別して、大多数の仏教教団から離反している少数派である仏教教団と呼べるかどうか、良く考えなければなりません。

  あるいは後で何度も良く考えてください。タンマという言葉の意味に正しく完璧に到達すれば、正しく考えるのは決して難しいことではありません。

 

まとめ。

 今までお話したことを、便宜のために、短くまとめさせていただきます。今までみなさんは仏教の核心であるタンマへの関心が少なすぎ、無我の話や空の話、執着しない話、そして縁起や四聖諦を、文学や哲学や心理学などの形でしか勉強してなく、 ブッダの時代のような形の実践ではありませんでした。布教の仕方や、仕事の調整の話ばかりした結果、広めるべき本当のタンマについて話すのを忘れてしまいました。

みなさん誰もが、宗教のするべき仕事を成し終えた阿羅漢ででもあるように、布教の話しかしません。だから広めているのは、先ほど述べた仏教の核心レベルのパラマッタム(第一義諦)ではなく、ただの社会的、政治的な道徳だけです。みなさんのタンマに関する知識が本当に少なすぎれば、広めているものは、今世界中で増加している学習者や、上達途中の実践者に関心を持たせるには不十分です。

世界仏教連盟のように基盤の固い機関は、一般的な基礎でしかない道徳や文化儀式に関連した方法や雑務より、人々を本当に仏教の核心に到達させる仕事をするべきです。仏教を哲学面から十分勉強したら、哲学の形から、現代人が本当のタンマに到達するために実際に行できる実践の形に変える方法を探るために、集会を開くべきです。

本当に本物のタンマに到達したら、みなさんは国際仏教連盟を拡大して、私、あの人と区別している限定された少数の世界に限らず、全世界の人の問題にすることができます。この方法ですれば、荘厳な儀式で釣って、タンマを知らない人をタンマの中に押し込む行動より、あるいは名誉ある協会の名誉で後押しするより、少ない予算でたくさんの成果、そして高度な結果になります。

 最後に、本日お話したことはすべて、仏教と人間同朋に対する善意から提案する、個人的な考えであることをお断りさせていただきます。仏教の布教の仕事全般に関して三十年以上関心を寄せてきた人間の考えなので、仏教教団の事業を改善して進歩させるために、後で考えていただくために、多少はみなさんから関心をもたれることを願っています。

 すべての生き物が、みなさんの奉仕から最大限の利益が得られますよう

 


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