ブッダダンマに到達する方法






ブッダ協会にて
1940年7月13日

 この講義は二時間十五分という時間を費やしましたが、事例を説明して検証するには短すぎたので、講義録をチェックする際、読者の方が理解し易いように必要と思われる部分を加筆しました。会場でお聞きになったことがある読者の方は、実際の講義で落とした部分に気づかれましたら、他の理解をなさらず、そのように御承知ください。

プッタタート比丘



 ブッダ協会員、並びに善人のみなさん。協会には出家の会員がいないので、私はブッダ協会の会員ではありません。しかし心情的には、私はブッダ協会会員と考えています。というのは、ブッダ協会の望みは、私が望んでいることと同じだからです。つまり、ブッダダンマを広めることです。

 ブッダ協会から何かここでお話するよう依頼された時、身を飾る物にするために(タイでは「体は智慧で飾れ」という言葉がある)、そして信仰心と仏教教団員の努力を支援するために、喜んで出掛けて来ました。会員のみなさんが、ブッダダンマの基本を知りたいと望んでいると知っているからです。ですからふさわしい話を選んで、「ブッタダンマに到達する方法」と題しました。どうすればブッダダンマに到達できるか、という意味です。

 ブッダダンマとは何でしょうか。これは最初の段階で答える問題です。ここでブッダダンマと呼ぶものは、他のものより、私たち人間の心の面の幸福に必要なものを意味します。しかし一般的にブッダダンマと言えば、いろんな意味があるかもしれません。

 「ブッダのタンマ」のような場合には、ブッダの教えを意味します。だから「三蔵の学習」になります。ブッダダンマという言葉の意味を、「人をブッダにするタンマ」という意味にとれば、ブッダダンマは当然一種の実践行動を意味し、それはタンマの実践者である普通の人を、聖人にすることができます。

 だからこの項目のブッダダンマとは、当然二番目のタンマの実践を意味します。そしてブッダダンマという言葉は、ブッダの正常な状態という意味もあります。あるいは「もの」、「ブッダが発見したもの」と訳すこともできます。この二点について話すなら、ブッダの正常な状態とは特にヤーナ(正智)とサンティ(寂滅)で、それがブッダの正常な状態です。

 ヤーナとは、それを知れば他には何も知りたくなくなる知識です。寂滅とは、心の静けさと純潔です。最後の意味のブッダダンマである「ブッダが発見したもの」は、何とか理解できるように十分説明したい項目です。しかし結論を言えば、「命が危機を脱した状態」、あるいは「永遠の幸福」と呼ぶものです。

 だから後者の意味のブッダダンマは、パティヴェータダンマ(タンマの実践の結果)です。そしてブッダが発見したものという意味のブッダダンマが、私がここで説明する意味です。ですから今私が話している「ブッダダンマに到達する方法」という題のブッダダンマという言葉は、ほとんど「このもの」を意味すると理解してください。

 ブッダダンマという言葉には、パリヤッティ(学習)という意味も、パティバッティ(実践)という意味もあるのに、なぜ特に「もの」という意味なのでしょうか。どうして最後の結果であるタンマの実践の結果を意味するのでしょうか。それは、私たちが知っているパリヤッティダンマは、当然三蔵と呼ばれるすべての経典の勉強を意味するからです。ここで、仏教教団員のみなさんの中で何人が、三蔵の隅々まで探索できるでしょうか。

 そしてパティバッティダンマは、何人の人が身を翻して梵行(素晴らしい行動)を行ない、厳しい出家として念処や修行を成就することができるでしょうか。ブッダダンマが、三蔵を隅々まで学ぶことでだけ、そして人里離れた場所で厳格に念処を実践することで到達できるものなら、タンマは二三人、あるいは何人でもない人だけにふさわしいものになってしまいます。

 ブッダダンマは、人を選ばずすべての人の利益になる偉大な威力があるので、私は「ブッダダンマのほとんどの目的はヤーナと寂滅」、あるいは「ブッダが出合った『あるもの』」と言います。というのは、世俗的な結果の追求と同じように、三蔵を経なくても、あるいは厳しい苦行をしなくても、その「もの」に到達することができるからです。世間の普通の人は財産や地位、そして広く交際や友情を求めます。

 人は、自分が望んでいるものを手に入れられれば、その人が高い学歴かどうか、勇猛果敢であるか否かは少しも重要ではありません。目的は達成したからです。この三つのもの(財産・地位・交友)は、高学歴で博識であること、あるいは勇猛果敢な人に限定したものではありません。同じように、ブッダダンマも、一般大衆のものです。

 ヤーナ(智。正智)は、知った人の世俗的な野望を終らせる種類の知識です。三蔵を経なくても、完璧な心の訓練をしなくても、世俗の味を飽きるまで味わって、それ以上いろんな感情と付き合うのが億劫になった人に生じることができます。この種の阿羅漢をスッカヴィパッサカ、乾いた洞察の阿羅漢と呼ぶように、他の種の阿羅漢のように博学で精通した知識がないことは事実です。

 しかし煩悩が絶滅し、純潔であり、同じように完璧な幸福で、寂滅と呼ぶ静かさ、あるいはすべての苦からの解脱があります。このようなヤーナと寂滅があれば、その方は三蔵も厳格な修行も経ないでブッダダンマに到達したと言われます。

 しかし私たちは、ブッダがブッダダンマを探求されたのは、ブッダ自身のためだけでなく、大慈悲の威力によるべての生き物のためであると、心に銘じなければなりません。だからブッダが探求されたものは、すべての生き物の共有物です。ブッダダンマ、あるいはブッダが発見したものは、すべての人の共有物です。そして誰でも、いつでも触れることができるように、至る所にあります。

 しかし見えなければ、神秘的なもののように能力を越えたものになります。通常誰にも外部を取り巻いてものを感じる道具である、目・耳・鼻・舌・体があり、すべての物は自分が感じるだけ、あるいは知っているだけしかないと決めつけます。それ以上あっても、同じ状態に陥っています。だから、誤解がカーテンになって隠してしまうので、内部の「もの」が現れるのが難しいのです。

 今述べた理由で、ブッダダンマに到達するには、内部にあるものをすべて見る心構えをお願いしなければなりません。普通に感じるには、形・声・臭・味・触を感じる目・耳・鼻・舌・体がありますが、「外部を見る」類の状態で、あるいは外部のものを見る道具でそれらに触れ、感じているので、私たちが内部を見る時、内部を見る道具で見た時に発見できる「もの」を、ブッダが見たように、そして形・声・臭・味・触で見るように発見できません。

 「内部を見る」とはどのようなことかを明らかに理解するために、外部のものを見ることと比較して考えることができます。しかしちょっと緻密です。内部を通して見ることに分類する人がいるかもしれないくらい、緻密です。まとめて世界と呼ぶ、私たちに現れるすべては、全部目・耳・鼻・舌・体の五種類を接触の基礎にして感じるだけです。しかし真実はそのようではありません。

 つまり、まだ私たちが知ることができないもの、あるいは感じることができないものがあります。他に何があるか正しく想像できませんが、それでも今ある目・耳・鼻・舌・皮膚より多くの、あるいは緻密な内処入(感覚器官。根)があれば、まだ私たちが考えたこともない、非常にたくさんの珍しいものに触れ、そして知ることができるという理由で、信じることができます。

 耳がなければ、私たちはこの世界に音があり、音の美しさである音楽があると感じる術はありません。ミミズなどと同じ下等な生き物です。耳があるから音の世界に触れることができます。目・耳・鼻・舌・体の五種類しかないものが、六七種類、あるいは十から二十種類あれば、現れる世界はもっと多くなります。私たちは形・声・臭・味・触以外のものに出合います。
 (しかし今はまだ無く、そして発見していないので、その名前がありません)。

 今私たちが知っている世界は、今ある根で触れられるだけです。私たちが知らない世界、あるいは触れることができない世界は、まだあります。

 もう一つ、私たちにあるだけの根は、限度内、つまりその性能だけいろんなものに触れることができます。たとえば人間の耳は、非常に多くの種類の音を聞くことができるのは事実ですが、それでも人の耳に合った範囲の音に限られます。送られてくる音の frequency 周波数が、その範囲より多すぎるか、あるいは少なすぎれば、普通の人の耳は受け取っても聞くことができません。

 科学的実験の結果、犬の耳は人間の耳より高い音を聞くことができると分かっています。つまり、その音の周波数が高いと人間には聞こえませんが、犬には聞こえるので走ってきます。ある種の虫は、光の中の紫外線など、人間に見えないものが見えます。これは、私たちに目や耳があっても、見えない色や聞こえない音があるということを表しています。それは他の色や音のように普通にあります。

 違うのは度合いだけです。私たちは関心がなく、研究もせず、そしてそういうものはないとしてしまいます。その上、非常に事実と違う理解をし、その結果惑溺が生じます。たとえば緑色や赤などいろんな色を、自分の感覚や考えのままに、それには本当にそのような色があると、そしていろんな目的の意味を持たせて、幸運をもたらす色や、悪運をもたらす色などの違いがあると信じます。

 科学は「色というのは、本当にはない」と教えています。それは私たちの目の能力次第で、見えるのは様々なレベルの光波です。それがいろんな色です。ある種の動物は、もしかしたら違う色に見え、あるいは見えないこともあります。本当は、色はどこにもありません。あるのはいろんなレベルの光波を反射させる物質、それがあるだけです。

 そしてその時、その物質と、反射した光を受け取る目球に入ってくる光があります。繊細な物質が、私たちの目に光を反射して来ると、私たちには様々な色に見えます。その物質が反射する状態次第です。緑色、黄色、だいだい色、赤、藍色等は、反射する光の波長の違いだけです。それが目には色に見えます。だから色は目が見る錯覚にすぎません。

 たとえば緑の木の葉は、本当には緑色はありません。あるのは、私たちに緑色に見える波長の光を反射する物質だけです。そして常に欺瞞を手助けする光がなければなりません。そのようにして私たちの目に現れます。音と同じで、今あるのよりもっと特別の目があれば、もっとたくさんの色が見えます。それとも少なくなるかは、目の種類の能力次第です。赤いバラを見た時、私たちは「花弁に赤い色があるからバラは赤い」と感じますが、本当にはバラの花弁に色はありません。

 人間に赤く見える光の波長があるだけです。赤い色は錯覚にすぎません。しかし昼も夜も、いつ見ても赤いので錯覚と気づきません。光がなければ、私たちには見えません。光があれば、ランプのように微かな光でも赤く見えるので、それはいつでも赤いと決めつけてしまいます。まったく光がない時に見れば、「赤い色は無い。光の助けがある時だけ生じて目を騙すマヤカシ」と知ります。

 そして波長の違う光が、同じ物を違う色に、あるいは色々に見せることもあります。たとえば黄色い紙は、夜見ると白く見えます。だから色は、光波と触れている時に生じる幻影にすぎません。いろんな波長の光を反射する物質の、波長の違いだけです。反射しなければ黒く見えますが、本当には色はありません。すべてをまとめて、形・声・臭・味・触のすべては、複雑なマヤカシにすぎないと結論します。

 私たちは、外部を見る道具で外部だけを見るからです。 人は規定し、そして心の中で強く信じている固定した意味を持たせ、それが習慣になり、本能になり、本当はどれだけのものか考える時間もなく、美味さ、あるいは不味さである結果だけに注目します。いずれにしても、例は外部の話だけです。どれだけ深く見ても、外部の目で見た物質の話で、深く探求しただけです。

 かなり長々と引用したのは、物理と呼ばれるものにも、見ることにこれほど深いものがあると、一つのレベルの要旨を掴んでいただくためです。

 本当の内面だけを見なければならないブッダダンマの話は、physics や meta physics と呼ぶものを越えた、目・耳・鼻・舌・体・心で普通に触れることはできません。ヤーナ(智)でしか触れることができません。内面と呼ぶものを見つけることが、どれほど緻密で知り難いことでも、先ほど例に上げた形や声の秘密と同じように、発見することはできます。

 そして私たちは、ブッダダンマを隠している幕を、何としても突き抜けて見る必要があります。だからみなさん、注意深さを呼んで来て、「私たちが普通に触れることができないものはある。物質を越えたものは、哲学者や博識者が発見できる」を原則にしていただくようお願いします。

 ブッダはそれを発見した一人です。そしてすべての生き物がこれらに到達できる方法も発見しました。外部のもの、あるいは物質だけを見るのに慣れているみなさんは、世俗的な信仰に当たり前に支配されているので、当然真実である内部や、その秘密を見抜くことは困難です。

 たとえば赤いバラを愛すのは、視線と、色の美しさを愛す心で見るように、(小さな時から、環境によって美しいと見るよう訓練されたので)厭わしいと見ません。そしてその赤い色があるかないか探求せず、ただのマヤカシに過ぎないと気付きません。

 私たちの心は、縫い糸のような愛や欲望で縫いつけられて、美しさから離れられないので、その秘密やマヤカシを見抜いて、嫌う選択をする自由がありません。この執着は、心がブッダダンマと呼ぶものに出合わないよう縛って包む道具です。言い換えれば、ブッダダンマの光が私たちの心に降り注がないように支配しています。

 この覆っているものを剥ぎ取ってしまえば、至る所にあるブッダダンマが私たちの心に触れることができます。物質面の例えでは、ヤシ殻の下に隠れている昆虫などは、いつでもある外部の空気や光に触れる機会がないように、覆っているものを壊してしまえば、祈願や努力をしなくても、その虫に空気や光が触れます。

 同じようにブッダダンマ、あるいはブッダが発見したものも至る所にあり、殻を剥けば外部の空気が内部の物と触れるように、世俗の物に支配されない心と触れるのを待っています。だからブッダダンマに到達するには、覆っている殻、あるいは篭、あるいはきつく縛りつけている首輪を、木端微塵に破壊してしまいなさい、という重要な要旨があります。

 今の時代は、鶏を飼う時代です。誰でも孵化したヒヨコや、死んで孵化しない卵を見たことがあると思います。誰でもそのような状態のヒヨコを見たことがありますが、ほとんどの人は忘れてしまったか、あるいはすべてのヒヨコより大切なもう一羽のヒヨコが見えません。それは殻の中で死んで、孵化する機会のないヒヨコです。そのヒヨコには無明があり、無明に包まれていて、そして銘々が殻の中で死んで行きます。

 しかしもう一羽、卵の殻を割ることができ、自分で殻から出て世界に姿を現すことができる特別のヒヨコがいます。そのヒヨコはブッダです。私たちのブッダはこの一羽のヒヨコだと、みんな知っています。この話は、律蔵の中にあります。

 ブッダは「鶏卵は十個のこともあり、十四個のこともある。雌鶏が優しく温めると、当然ヒヨコは安全に生まれてくる。それらの卵の中の、私はすべてのヒヨコより先に包まれていた卵を割ることができ、この広い所に出た最初のヒヨコです」と言われました。そしてまだ、順に後を追って卵の殻を割って出たヒヨコがいます。

 これでブッダは、ブッダダンマ、つまり「ヤーナとサンティ」と触れるために、つまり無明から出てしまうために卵の殻を割る方法を意味し、ブッダは、それができた最初の人です。以上の理由で私は、ブッダダンマはブッダが発見した包んでいる卵の殻を壊せば、触れることができ、そして内面の世界を見ることを知れば、殻を壊すことができる「もの」と意味を限定してお話します。

 ここまで話して来て、どうすればブッダダンマに到達できるかお話する前に、一つみなさんにご協力をお願いしなければなりません。真剣に注意してお聞き願う以外に、何としてもブッダダンマに到達するには、みなさんの心の中で混乱している考え、信仰、あるいは気持ちを、全部抜き出して壊してしまわなければならないと、主張させていただかなければなりません。

 今話している私の言葉を奇妙に感じる怪訝な気持ちも、みなさんの中にあるタンマの見方も、あるいは宗派や教義、社会の見方も、当然何らかの哲学原理があるので、みなさんの心を以前から支配してきたものは、今はとりあえず仕舞っておいて、自分を中立にして、賛成も容認もせず、反論や否定だけを目指さずに中立の気持ちで聞けば、私の話が良く理解できるかもしれません。

 ブッダダンマを理解するために内面の世界を見るには、特別のレベルの根を道具として使わなければなりません。普通の根、つまり目・耳・鼻・舌・体・心には十分な力がありません。特別レベルの根とは、智慧と、智慧の力で管理できる目・耳・鼻・舌・体・心です。欲望で世界にきつく縫い付けられている根ではありません。内面を見る行動は、生き物の心を捕えて、それだけ停留させる、美しい幕で作られている世界を見抜くことです。

 私たちはどの方向を見ても、私たちが見る流れは、世界と呼ぶものだけに止まっています。私たちの耳・鼻・舌・体の神経・心は世界に閉じ込められています。つまり声・香・味・触そして何らかの感情(考え)はそれと一緒に混乱しています。満足でなければ不満で、常に内面で混乱しているので、どっちを向いても悪霊が待ち伏せしているように、逃がれられません。

 だから私たちの根は、それらに纏わりつかれて目覚めません。普通の根は十分能力が無いので、使い物になりません。だから内面を見ることで、世俗から脱したものが見える特別の根を作らなければなりません。「世俗の域から脱す」というのは理解が難しい言葉です。すぐに、「世俗の域を脱したら、どこに住むのだ」と疑う人がいるかもしれません。

 最初の段階の糸口として、「人間が使っている言葉は意味が狭い。あるいは哲学の意味には十分でない」と理解しなければなりません。だから哲学は難しいものになります。あるいは理解が難しいです。世俗の域を脱すとは、他の場所に住むのではありません。まだ世俗と関わっています。

 「椅子」と「椅子がないこと」に例えると、椅子はそこにありますが、椅子を持って行ってしまえば、そこに「椅子がないこと」があります。しかしまだそこに椅子がある時にも、「椅子がないこと」はあります。みなさんが椅子を見てしまうと、本当はそこに隠れている「椅子がないこと」が見えません。世俗の域から脱すことも同じです。つまり世界を見る時、その内面を見抜かなければなりません。

 しかし自分が世俗になってしまえば、当然自分自身の沼に落ち、どう見ても世俗を突き抜けて見ることはできません。だから世俗の信仰に包まれ、信仰は固く包む殻になり、俗世の域の上にあるものの一つであるブッダダンマに触れる機会がありません。

 世俗の域を脱した、あるいはそれより上にある、ローグッタラ(世俗を脱すこと)、あるいはローグッタラダンマ(世俗を脱したもの)と呼ぶものを明らかに理解したら、俗世、あるいはローギヤダンマ(世俗のもの)を糸口にして、勉強や熟慮をするべきです。すべてのローギヤダンマは、形あるいは物質、あるいは名のものつまり心も、どちらも作る原因と縁があります。

 つまり他のものに依存して現われることができ、そして変化して消滅し、そして原因と縁がある間はいつまでも、繰り返し生まれます。だから世俗のものはすべて循環します。そして常に循環しなければなりません。存在しているのは循環しているからで、循環が止まれば、これらのタンマ(もの)は残らず消滅します。

 だから私たちが世界と呼ぶものは、つまり名の元素、精神があっても、精神がなくても、今循環しているすべての元素にすぎません。これらの循環がなくなれば、世界あるいは世界のものは維持できず、とたんに崩壊します。

 しかしこれらが全部消滅すれば、消滅しないで残れるものがあるでしょうか。それは当然、すべての世俗の物と反対のものだと、それ自体が説明しています。つまり循環の威力下にないものは、循環を必要としないので存在を維持することができます。だから一切合財言えば、すべてのものを二種類に分類することができます。

 つまり作る原因と縁があって循環しなければならない、そして発生し消滅しなければならないものが一つと、もう一つは反対で、作る原因も縁もなく、循環せず、発生と消滅もないものです。作る原因と縁がある前者をサンカタダンマ(有為のもの)と言い、反対の後者をアサンカタダンマ(無為のもの)と言います。

 どちらの種類も明らかに見える人は、ブッダダンマ、あるいはブッダが発見したものが見えると言われます。ここで言う「見える」とは、心が世俗のものに倦怠するように変化し、世俗のものを捨て、そして自分の心が完璧に到達したローグッタラの世界が沁み渡るのが見える類のヤーナで、すべたが明らかに見えるという意味です。

 だから、精神を縛りつけている、内面の世俗のものが明白に見えれば、抜き取ることができ、それと同時にローグッタラの世界が見えます。二つは「椅子」と隠れている「椅子がないこと」と同じで、私たちには椅子しか見えないだけです。

 同じようにローギヤダンマ(世俗のもの)とローグッタラダンマ(世俗を越えたもの)は、常に対で現れます。しかし私たちの目・耳・鼻・舌・体・心は、普通世俗のものと触れる道具でしかないので、一緒にあるローグッタラタム(世俗を越えたもの)を見ることができません。普通の目や耳は、自分を取り巻く外面の世界だけを見るので、結果が出るのも外面で、生じる影響も外面のものだけです。

 私たちは目があるからすべての形が見えます。たとえば電灯が見え、扉が見え、窓が見え、書棚や、ここにあるいろんなものが見えます。このような目の感覚は、それは電灯、それは扉、それは窓、それはあれ、これはこれ、電灯は書棚と違い、書棚は机と違うなど、みんな違って言うだけです。

 美しいもの、あるいは気に入れば好んで「満足」と言い、手に入れて所有したくなり、美しくないものは嫌い、見えない場所に追いやりたくなり、全部排除してしまいます。これが、世俗の範囲にある目や耳が生じさせる結果です。心が引っ掴んだ感覚が、このように爽快あるいは不快な結果を生じさせます。どんどん複雑に伸びて心を包み込む皮のように、ローグッタラの光が届くのが難しくなります。

 素晴らしい方法に依存し、普通の目や耳を特別な根にすれば、包んでいる皮を排除することができます。すべてのものの内面である隠れた状態を見ることができ、その時突然、ローグッタラダンマ(世俗を越えたもの)を発見します。そして電灯や机や書棚や椅子やその他のものも同じように見え、外部の世界を突き抜けた内面が見えます。この方法で見ると違って見えます。

 つまりみな同じに見えます。たとえば電灯は書棚と同じで、書棚は机と同じで、机は椅子と同じで、何もかもすべて同じなので、満足も不満も生じさせません。愛しもせず嫌いもせず、渇望で転げまわらず、少しも不思議にも奇妙にも感じません。

 要するに、俗の範囲の目や耳の人は当然外面が見えるので、すべてのものがみな違って見えます。しかしローグッタラの域の目や耳の人は当然内面が見えるので、すべてみな同じに見えます。世俗の物の美しさは見えませんが、突き抜けて重要な意味、つまり世俗のものすべてを同じに見せる、タンマの言葉で「普遍的状態」と呼ぶものが見えます。

 「普遍的状態」とは、世界のすべてのものにありふれた状態のことで、「変化して確実でないこと」、「良く熟慮して見ると厭き厭きする物であること」、そして無我であることとは「何らかの意味の実体である核心がないこと」です。この状態は、世界のすべてのものに明らかに現れていますが、人間は反対に、美しい、あるいは美しくない形や輪郭を見ます。

 だから、椅子を見ている時は「椅子がないこと」が見えないのと同じように、普遍的な状態が見えません。普遍的な状態は、太陽を千個集めた星よりも明るい光を注いでいます。それでも普通の人間の目に「無常・苦・無我」の状態が触れることはできないので、無視してしまい、いろんなものを、常に満足や不満を生じさせる見方で見ます。

 先ほどお話した特別の目がある時だけ、赤い形や緑の形、可愛い、可愛くないなどと見えないで、すべてのものの明るい光に見え、同じように照らすので、すべて同じに見えます。

 つまり無常・苦・無我の光が、机も照らしています。そして電灯が照らしている光と同じです。書棚も椅子も、椅子が照らしているのと同じ光が明るく照らしています。何もかも同じ光を発しています。違いはありません。

 だからブッダダンマが見える人は、当然、世界のすべてのものが同じに見えます。世界全部が同じに、つまり同じように経過して来て、同じように経過して行きます。時間と場所の規則が違って感じさせるだけですただの形・声・香・味・接触、そして心の感情(心が捉えているもの)に見えます。

 感覚器官も、外部のマヤカシのレベルの接触しかできません。すべてのものが同じに見えれば、互いに原因であり結果であるものは消滅するまで休みなく循環する渦でしかないと見えれば、世界中に残るのは、「当たり前(タンマダー)」だけです。疑念がないこと、夢中になって信仰しないことは、努力しなくても、あるいはお願いをしなくても、明りを点ければ自然に闇が消えるように、突如、自然に現れます。

 真実と偽りは正反対で、私たちは迷って偽りの世界を掴んでいるので、今、世俗の偽りに覆われれていますが、真実の世界を掴むことができれば、ペテンをしようと変装した人が、見破られたのと同じで、偽りは途端に消えます。学生が科学を勉強するのは、一般的な真実を理解するためではありませんが、最後には、自然にマヤカシである学問の愚劣さに気づきます。

 真実と偽りは、同じ人の心に同時に存在できないからです。そしてこれは心理学の原則、あるいは心の普通の法則で、一つが入って来れば、努力や祈願をしなくても、反対のものは出て行かなければなりません。

 たとえば闇の中を歩いていて、何かで足を強く傷つけ、血が滴り落ちて叫んだ時、「そこに蛇がいるのを夕方見た」と言う人がいれば、その痛みは蛇にかまれた痛みになり、激しい苦しみに涙が流れ、冷汗が滲みます。誰か明りを持って来て照らせば、それは(割れたヤシ殻のような)ただの鋭い物質による傷だと分かり、傷口と物質が一致すれば、蛇に噛まれたのではないと分かります。

 蛇に噛まれた感覚や、そう信じたことは、切って捨てたように一瞬で消え、努力も祈願もしなくても、蛇に噛まれたのではないという感覚、あるいは可笑しさまで生じます。

 あるいは暗い所を歩いていて、蛇という先入観で縄を踏むと、びっくりして飛び上がり、立っていてもブルブルと身震いします。明りで照らして見て縄だと分かれば、消えた恐怖の代わりに可笑しさが生じます。これは、同じ事実でも、蛇という理解と、蛇ではないという感覚は、一緒には存在しないことを表しています。心の結果は、蛇にも縄にもできます。

 そしてここで銘記するべき重要な状態は、偽りが介入すれば、真実は姿を現せない所にあります。世界、あるいはローギヤダンマも同じで、結果は蛇にも縄にもなります。普遍的な状態(三相)の面で見るか、あるいは世界・世俗と呼ぶ、塗装した表面であるマヤカシの面で見るか、自分次第です。

 普遍的状態を見ている時は、当然世界(世俗)は見えません。世界を見ている時は、普遍的状態(三相)が世界にあっても見えません。皆さんの目に常に入ってくるものは、当然世界の本当の姿ではないので、その世界に、別のものを見なければなりません。それが見えれば、その後二度と世界は見えません。




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