阿羅漢の跡を追って・序




私はこの命と体を、 ブッダだけに捧げる 私はブッダの奉公人で、 ブッダは私の主人 この理由で、 私は名をプッタタートとする






挨拶

   ブッダ・プラタム・僧である三宝は、互いに大衆の幸福のために維持している。世界の拠り所である人が成功するまで、すべての阿羅漢の足跡として話された実践項目を編纂する決意をした、私の身体と心に生じるかも知れない危険がないために、三宝にこの身と命を捧げる。どうぞ妨害なく、すべてに真実の言葉を述べられますよう。今、この小さなテキストの内容を綴り始めた時から、この善の心が望むすべての報いがありますよう。

プッタタート比丘

1932年8月28日





序文



 阿羅漢の跡を追って歩く人物の生活は、ただ目を閉じて座らなければならない教えでなく、ブッダの教えで段階的に、本当の幸福の系統に自分の心を向けなければならない、重要な教えがあります。

 仏教の阿羅漢である生活は、世界が求めるべきすべてのダンマの中の最高の物と見なします。世界に本当の幸福をもたらすことができる唯一つの物だからです。世界を越えた威力のある心にするため、世界の苦や苦痛の流れを輪廻しないため、そして二度と苦に戻らない最高の幸福のための行動。これが阿羅漢の跡を追う方法です。

 ブッダが最初の人として成功なさり、そして他の人も同じようにして阿羅漢になれるように教えた結果、苦から脱した人である阿羅漢が多数生まれました。その時智慧のある人間は、誰も高い幸福を受け取りました。

 このような人を見るだけでも、苦から脱して、低い自然から自由になった心がある人の身本を見ることなので善です。大空のように滞りがなく、最高に爽快で、心の自然のありったけの爽快さで、一定で、安定しています。述べたように世界の悪の威力より上にいるからです。

 これが、世界に本当の幸福をもたらす唯一の方法です。世界にはこのような真実がありますが、世界のほとんどの人はこの真実を教えにしないので、世界の真実を妨害する生き方をし、気づかずに常に苦を受け取ります。

 ほとんどの人間は、世俗の欲で回転するよう教えます。彼らは、世界だけなら当然混乱の方向へ転がって行くと知りません。新しい教育で今より発展しても、世界を良く管理できなければ、世界が幾ら長寿でも、止まることを知らないので走り続けなければなりません。

 世界の動物の間では、人間のいろんな欲が潜在した威力で回転して行きます。人間は世界を転がす人であり、自分自身も一緒に走るからです。それが苦である輪廻の輪の回転です!

 阿羅漢である生活は、自分の車軸を折って止めます。大勢なら世界の車軸を折ることができ、世界は静まります! 人間は欲で回転する世界と一緒に回転して、疲労困憊する必要はありません。すべての物は静まります。しかし自分に対して自由でない人間は、そのようにすることができません。人間が自分に対して自由でないのは、世界の誘惑の威力に陥っているからです。

 呼び止めて話して聞かせ、走らなくても良い理由を知って、走りたくなくなるまで、人間は世界と一緒に走りたがります。だから阿羅漢は、世界が穏やかさのために求める唯一の人間です。その他は、世界と一緒に駆け、世界の回転を加速させる族です。だからブッダや阿羅漢が生まれたことは、世界にとって幸運です。

 なぜ「阿羅漢は世界にいない。そして今後も現れない」と言う人がいるのでしょうか。なぜ本気で、理由を述べる努力をするのでしょうか。誰も阿羅漢になるための努力をしなければ、何らかの結果を受け取ると言うのと同じです。そして仏教を学ぶ人がいい加減なのでなく、最高度の仏教がいい加減な言葉と言うのと同じです。

 通常、人間の心に潜んでいて誘惑する世界の低い側が、静かな世界の高い側に勝つのは当たり前でしょう。プラタム(ブッダの教え)は時間を限定し(カーリコー)、その時しか利益がないのでしょうか。あるいはその言葉は心の教育に関心がない人の言葉に過ぎないのか、一緒に考えて見てください。

 当時のラクナタカ阿羅漢が、幼い沙弥と理解した凡夫である僧に頭を撫でられたように、阿羅漢には帯や星や団扇のように、外部に現れて阿羅漢であると知らせる徴がありません。だから私たちは、外見で阿羅漢を知ることはできません。阿羅漢について学んで知っていても、何かの原因でそのようにできない人を、ブッダは「無益の人」、あるいは「空拳の人」と呼ばれました。

 三蔵を学び終えても、この非難から逃れることができません! 見てください。学ぶだけでは、世界に利益を成す人になれません。少ししか学んでいなくても、本当に実践して、阿羅漢に至らない段階の幸福を受け取る人を、ブッダは「拳の中は空でない」と称賛なさいました。

 かつて非難されたことを隠すために「もう阿羅漢はいない」と言い訳を述べる努力をするのは、無益な人たちでしょう。そうすればバツの悪い想いをしなくて済み、他人に「なぜあなたは学んだように実践しないのですか。せめて一回くらい」と質問されません。

 本当の仏教は古ぼけること、あるいは死である消滅を知りません。世界に常在する本当の法則なので、でたらめであったことはありません。仏教と関わる人の部分は不確実で、何らかの自分の利益に依存し、何とでも述べることができます。そして後世に述べたことは「プラタムはアカーリコー、つまり時を限定せず結果を与える」という元の決まりと矛盾します。

 すべての仏教の仕事を三段階に分けています。

(1)学習をパティヤッティダンマと言い、
(2)学んだように実践することをパティバッティダンマ(ダンマの学習)と言い、
(3)本当にしたことから生じる結果を収穫することをパティヴェーダダンマ(ダンマの結果)と言います。

 精一杯奮闘努力しても、まだ継続して努力しなければならないもう一段階があり、それがパティバッティダンマ(ダンマの実践)です。最後の段階である「結果の刈り取り」は、奮闘努力する必要はありません。本当に実行すれば必ず受け取ると、確実に期待できるからです。

 後に生まれた人は心が勇敢でないので、自分が今享受している幸福と、性的な物質に囲まれている状態を犠牲にできません。すべての阿羅漢のように、真実を探求する努力から生じる困難に耐えることができません。

 阿羅漢について何も知らない人の嘲笑に耐えることができません。世界の魅惑や、彼のように決意しない友人が、道を翻すよう説得する言葉に耐えることができません。彼は、阿羅漢の道から離れるような薫陶を受けます! 本心から阿羅漢の歩いた道を歩くことを志願する人はあまりいないからです。

 だから阿羅漢になることは可能だいう理由を挙げるのことを称賛する人はあまりいません。多数であること、非常に魅惑することに依存し、世界の低い側は高い側に簡単に勝つので、そのようである世界の自然の法則で、自然の法則の理由を説明しなければならない側は、当然勝利するのは困難です。

 プラタムはパッチャッタの状態であり、賢人が本人だけで見えるので、賢人が少ない世界は外部を好む状態なので、勝利はできません。だから向こう側がけん引される世界は、珍しくははありません。どの真実も元のままで、賢人は自身が蒔いた結果を刈り取ります。外部は世界に勝たせておきますが、真実の内部は、常にタンマが勝利します。

 プラタム、あるいは世界の真実は、当然時を限定しません。快適に食べられれば必ず満腹するように、それは現代でも当時でも、不変の真実です。あなたが悪を成せば、当時でも現代でも、苦を受け取らなければなりません。しかし最高の善を成せば当時だけ最高の結果を受け取ることができ、現代はそのように受け取れません。

 何がプラタムで、プラタムはどこにあるのでしょうか。彼らが良く訓練した心の教育は今変になって、なぜ結果が良くないのでしょう。体の教育が段階的に最高に良くでき、心の教育はより良く出来ないなら、あるいは現状を維持することもできないなら、この世界にプラタムはありません。

 教えておかれた仏教は全部間違いで、真実は多数の人たちが言う言葉だけで、多くの人は何からも公正を受け取ることができません。真実である物は、真実を維持しなければなりません。真実は、偽りの世界とマヤカシに満ちた世界に入り込む機会がないだけです。

 仏教徒である私たちが「まだ阿羅漢は現れる」と信じることは、妄信ではありません。理由があって信じ、自分の利益のために、てんでにこの項目の真実を覆い隠しません。

 暗愚は普通、「アリやシロアリも神経があるのは事実ですが、この世界の人間はそれらより何倍も速く飛べる飛行機がある。あるいは仲間であるコオロギの音より何百倍も美しい音楽がある」という知識がありません。アリやシロアリに、私たちと同じように知ることができる特別の神経があり、そして無理やり彼らに説明すれば、現代人が異常者を選別するように、彼らは選り分けられるかも知れません。

 なぜアリやシロアリの真実を信じる人がないのでしょう。それはある人たちに知ることができない真実、あるいは推測できない真実だからではありません。そのように言わないでください。

 本当の未開人に近代の発展を教えるなら、すべての言葉を信じさせるのは難しいです。阿羅漢の境域より緻密で深遠な真実は、彼らにさせて彼ら自身に見させる以外に、述べたように目や耳で知ることができる物の奇妙さを、話して簡単に信じさせることはできません。これは、深遠で緻密で高いプラタムに常在するサンディティコー、あるいはパッチャッタンの状態です。

 だから心の教育をする人は、ある言い方をしなければなりません。そして体の教育をする人が心の教育者の言葉を聞いて理解するより、体の教育をする人の言葉の方が簡単に理解できるということです。

 だから心の教育者の世界は、深くて緻密なタンマを自分自身の心で学んで知らなければなりません。そして自分でできることから順に、本当にする努力をしなければなりません。そうすれば正しく、人生で最高の価値があります。緻密で実行が難しく、他に手段がない、本当の幸福である、見合った結果を受け取れる知識だからです。

 阿羅漢になる方法は、一部の人が理解しているように、人を怠け者にし、国の発展を妨げる麻薬である種類の宗教ではありません。不正の人の偽りの行動、あるいは何等かの自分の利益のために教えるのを除いては。教育のない人たちは、騙され易さがあり、ブッダの教えと違う執着と誤解の威力で伝承してきたので、彼らが述べた真実に相応しい最高の幸福を受け取らないことで証明できます。

 これらの人は思いがけない幸運や供物で転げまわるのが見え、普通の人間に分かるほどです。彼らは阿羅漢の状態を忘れるから、あるいは長く覚えていないからです。

 知らない人が偽りを見抜けないで信じてしまえば、麻薬の類の宗教が生れます。今私たちはパリヤッティ(三蔵の学習)の教育は十分なので、この項目は心配ありません。自分と他人にとって最高に有益な人になりたければ熟慮して、自分を仏教にしかない最高の幸福の探求者にし、復興させることで世界に利益を成し、世界に見せるべきです。

 かつての阿羅漢が成したのと同じ善になります。出家か在家か、現代かその時代かと限定しないので、在家は多少限界があるだけです。ブッダは、在家も聖向聖果である心の面の幸福に段階的に到達できると保証されています。

 阿羅漢の跡を追うこと、あるいは聖人の道を歩くことは、ブッダなど、すべての阿羅漢が十分幸福に到達するために行動した、体と言葉と心の実践です。それは不可能でなく、人間にできます。そして人生の素晴らしい幸福に到達するための行動で、ある人たちが理解し、他人を嘲笑しようとしているような迷信ではありません。

 みんなで助け合って考え、助け合って復活させ、段階的に到達させれば、自分の知性の力で実現できないと推測していた幸福に巡り合います。

 高度な仏教は、人を愚弄するためにあるのではありません。仏教の教えは、自分で真実が見えるまで考え、それから信じるよう教えるからです。仏教は、自分の状況に対して正しく公正な行為である、自分自身の行動から生じた結果を刈り取るよう教えます。最高に神聖な人から結果を貰うのを待っていません。だから仏教の教えのすべては、それ自体が管理し証明する言葉があります。

 自分で見え、喜んで真似たくなり、段階的に行動すれば、その善の結果を段階的に受け取ります。善の極みに達せば、その時阿羅漢と呼ぶ、悪が終わり、悪の結果である苦が終わり、明(知識)がある人、十分善がある人になります。善から生じた結果である、それ以上の物がない種類の幸福を味わう、世界の最高に善い人たちの一人と見なします。あるいは阿羅漢の世界の普通の一人です。

 すべての人が阿羅漢になるのは不確実でも、今可能な限り阿羅漢になる努力をすべきなのは最高に確実です。少なくとも阿羅漢の後を追わなければなりません。そうでなければ悪に満ちた世界の動物の常で、人生は順調でなく、他の宗教より特別な宗教である仏教の幸福を受け取れません。

 その特別の幸福は、阿羅漢になってから受け取らなければならないと限定されていません。阿羅漢の足跡に踏み入れた途端に、苦労に見合う結果を受け取れます。科学などの新しい教育が与えることはできない種類の幸福です。

 現代の世界の教えは、苦を覆い隠すか、人の人生に必ずある苦を緩めるよう教え、苦は何から生じるか知る必要はありません。騙す物で騙して、一時夢中にさせ、際限がありません。阿羅漢である人の方法は苦を知り、苦を根こそぎ破壊してしまうので、夢中になって苦を緩め、覆い隠す必要はありません。不確実でない永遠の方法で、最終的には、死ぬまで再び苦にする物はなくなります。

 新しい科学が世界に生まれてどんなに発展しても、心の面の苦の原因は、その分だけ隠蔽されます。だから科学は世界の名の物(心の面)の静かさを取り戻す仕事をするために、自然の原則を学んで知り、誘惑して苦の種である煩悩を塗り重ねます。

 自分の賢いので、咬まないことを期待して痩せたトラを飼うように、常に飼育し、終わる予定がありません。その行動にあるのは一時的に苦を隠す結果だけで、もっと新しいのが現れ、更に退治する方法を探さなければなりません。そのように成長し、世界を混乱させ、解き難くするのと同じです。

 だから世界の苦はどんどん深く複雑に変化し、科学の能力を超えて進歩します。本当はその威力を増す物で、それが常に科学者に後から解決させます。何時になっても間に合いません! 苦の種である煩悩を塗り重ねる種類の科学で、世界が走るのを止めさせることはできません。そして煩悩の根を抜く科学、阿羅漢になる方法の側に転向してはいかがでしょう。

 外部の物質が非常に発展して、大きなビルがあり、自動車があり、飛行機があり、世界にラジオなどがあっても、人間が飲んで食べて身に着け、便利になる物を使って、天の物と呼ぶほどであるのは事実でも、名の物の部分である心は足るを知らず、十分であることを知らないので、物質的誘惑と同じだけ、苦を受け取らないでしょうか。

 現代の科学は病気を軽減し、衛生を守り、予測より早く死ぬ人間を減らした事実はありますが、心の苦に耐えるために人を生かすなら、彼らの心の中の抽象が焼き炙られるので、科学があること、あるいは科学がないことは、どちらが良い結果があるでしょうか。苦を受けるために誰かが私たちを養って生かすなら、何の利益があるのでしょう。

 科学は世界を混乱に導き、膨れては萎んで激しく喘ぐ犬のように、喘ぐばかりです。科学は自分の国を守るために破滅する道具を作り、敵である人の命だけを消滅させることができるのは事実ですが、人間を敵対させないよう防ぐことはできません。その上分裂を促進する物になります。

 科学は、権力を広げさせたがり、世界の主人になりたがらせるからです。進歩した科学者は、いつでも遅れている人たちに公正を求め、それが疑念を生じさせ、常に敵にさせます。そのようなら、現代の科学、あるいは阿羅漢の教えがない新制度の教育から受け取る静かな幸福は何でしょうか。

 世界は常に欠けています! 常に飢えています! 常に血に飢えています! それはいつでも、科学者が創造した誘惑の威力故ではないでしょうか。

 聖なる科学者であるナーマダンマ(心の物)の面の科学者は、二千年前、人間は身分を限定しない友達であり、自由で、同等であり、人間も畜生も、体や命は同等と教えました。生まれた時からこのようにしつけられるので、初めの両親の段階で、そして豊かな人も貧しい人も、また生き続けるであろう人も、今死ななければならない人も、穏やかな幸福にする心の薫陶を受けます。

 最高のしつけを受けた人は、当然生涯穏やかな幸福を受け取ります。死ななければならない人と、まだ死ななくてもよい人も、同じ水準の幸福を感じます。このように深遠な幸福は、体が消滅する時に消滅します。すべての種類の人物に、常に心の苦に耐えさせる現代の科学と違います。それは際限なく欲しがらせるので、満腹するまで食べても、もっと好きな物が騙すからです。

 それは、聖人の科学の味、阿羅漢の生き方を味わうまで、金持ちも貧しい人も、常に内面を焼き炙って焦燥させます。なぜ人は、この薬を飲まないのでしょうか。現代科学の薬の義務である物質(体)でなく、抽象(心)だけに生じる病気を軽減させる妙薬を! このように分類しましょう。そうすれば早く真実を理解できます。

 心の苦はどれも病気で、満足を知らない欲望は病原菌で、涅槃は完璧に病気を治す薬で、阿羅漢の手法で実施する人は、その薬を使う人です。私たちは自分自身を治療し、他人を助けるための薬を持っている医師であるべきです。この真実の聖なる科学を学び、医師である過去の阿羅漢の方々の生活をすることで、自分も含めた世界のために最高の幸福の役に立て、後の大衆の手本になりなさい。

 外面も内面も本当に爽快で、目は明るく輝き、穏やかでいなさい。これは、内面が貪り・怒り・迷いの威力に焼き炙られるので、濁った眼をして、外面は静かな人であるサマナと現れていても、内面は在家のように考え、在家のように望み、胸中に苦がいっぱいある人間の手本です。だから世界の大衆にとって手本になれません。そして盲人が盲人の手を引くに近いです。

 みなさん。他人にとって最高の利益になるために、いつでも見返りなしに、自分を完成させる手本になりなさい。慈しみを思う威力で、互いに思い遣り、助け合う心を大衆に生じさせます。世界をこの徳行で薫陶するために、幸福を犠牲にし、生活の便宜のためだけに消費する人の手本になり、残った資本は、他の幸福と、苦を受け取っている人の利益のために使います。

 昔、あるいは何時の時代でも、阿羅漢は他人に見える怠惰な生活、あるいは一人だけ幸福を求めて大衆より得をするような生活はしません。本当は生涯いつでも、幸福な心がある人物の見本になって大衆に見せています。

 大衆は生きられるだけの食べ物を援助し、阿羅漢の方々の衣は、人間が捨てた布を探して使うことに満足し、住まいは心の幸福をもたらす自然、洞窟や木の根などで満足し、治療薬は簡単に探せる物だけを探します。

 しかし人間を慈しみ深く薫陶し、悟ったので、愛や恐れや他の苦の原因で困窮しないで、穏やかで幸福な心を持たせることで、手本になって見せ、却って大衆にとって高い利益を成します。

 世俗の側の発展を目指す人間にとって、阿羅漢は忍耐、重厚、努力の手本です。阿羅漢になる方法は、ブッダが「比丘のみなさん。『血と肉が乾いて、骨と筋しか残らなくても、人間の努力で到達するべき到達に至らなければ、その努力を止めることはない』という誓願で努力しなさい」と言われているように、誓願から始めなければならないからです。

 子供にとって阿羅漢になる方法は、当然忍耐、堅固、均一、恩を知る動物に薫陶し、初めから心を幸福にさせます。大人になって自分を管理しても、生涯治せなくなる前に、始める前から心の病原菌を無くしてしまいます。怠惰になるほど望みを少なくしなさいと教えません。

 阿羅漢に到達しても、いつでも他人の利益のために努力し、手本になります。あるいは寒さ、暑さなどの自然に対して忍耐を知るよう薫陶し、強制である利益を目指します。年寄りにとっては、穏やかさで心を消滅させる人の手本で、焦燥しません。通常阿羅漢は「身を包んで燃えている炎の中でも、微笑んでいられる人」と呼ばれる人の見本です。

 口で教える、あるいは文字で書いて読ませるより、本当にして見せる方が良いです。本当にして見せる一摘まみは、一担ぎの口で教えることと同じです。そのような教えで阿羅漢の後を追うべきです。そうすれば、私たちに、私たちの国に、そして世界に、幸福が生じる利益があります。

 現代の科学は物質にふさわしい科学である分だけ、すべての阿羅漢方の古い聖なる科学は心にふさわしいです。今現代科学は非常に進歩発展しているのに、なぜ古い科学は、相変わらずかすんで遅れているのでしょう。名の物(心)は形の物(体)より重要です! 闇の妖怪である無明と。苦の種である欲望の口に駆け込む物質の科学を可愛がるために、心の聖なる科学は物質の科学と並んで走りなさい。

 物質と心の科学が撚り合わさって管理し合えば、世界は穏やかな幸福になり、幸福のネジで回転します。良く訓練された心は、当然すべての物質より威力があるので、心の科学は世界の物質の科学を護り、苦がなく順調にすることができます。

 世界の人間は、ブッダの古い科学を見過ごし、後方へ投げ捨て、一斉に新しい科学に夢中になっています。ブッダの弟子の一部も、新しい科学の魅惑の威力に負け、サンガの父であるブッダにとって敵になります。これは何が原因で、いつからそのようか。探してもあまり利益はありませんが、それはブッダが教えられた無常の法則で経過すると、最高に正しく簡単に述べることができます

 ブッダの弟子が、無常の法則で自分を忘れて新しい科学を愛したら、彼らはもう一度科学と並行して無常の法則に転向できないでしょうか。まだプラタムがプラタムであれば、当然できます。だから探求があり、ヴィパッサナードゥラによって試すことができるブッダの聖なる科学は、すべての世界の大衆のために、昔のように復興する希望があるということです。

 仏教も新しい時代に応じて転回しなければならないという見解を述べる人が、なぜいるのでしょうか。述べる人は、新しい科学と、仏教の古い聖なる科学の違いを知っているのでしょうか。

 聖諦とは、すべての法則の中の最高に真実で確実不変な法則という意味です。新しい時代につれて転回しなければならないでしょうか。もしそうなら、新しいブッダがもう一つの聖諦を述べなければならないでしょうか。未来はまだであり、まだ来ないので、新しいブッダはさて置くこともできます。

 しかし古いブッダは、述べて置かれた真実を裏返されないでしょうか。ブッダの宗教の中にあるすべての真実を集約した物を、絶対に別の物にしません。ブッダは、本物は常にこのようでなければならないと主張なさっています。他のブッダも、必ずこのように言われます。

 それ以上に、新しい発展を好む弟子たちが懇願しても、ブッダの真実である教えを新しい時代に応じて転回させることをお許しにならないでしょう。古い科学は古く純潔にしておき、新しい科学は最高に良い随人です。そうでなければ、世界は偽物を受け取らなければならず、拠り所として不確実になるに違いありません。

 ブッダの弟子であるすべてのみなさん、飢えている世界に、助け合って聖なる科学を復興させなさい。そうすれば正しい幸福に導くので、世界にとって利益を成す人、世界に貸のある人、世界が尊敬する人と呼ばれます。そして般涅槃されて久しいですが、まだ純粋にブッダの跡を追うよう望まれているブッダへの報恩です。

 私たちは出家をブッダに、あるいは古い科学に捧げます。知識や現代式発展に捧げるのではありません。私は自分の義務を知り、自分自身とブッダと、ブッダの宗教を伝承する人として、尊敬している世界に対して正直であることを知らなければなりません。

 私たちは自分自身が本当にして見ることで、世界に、心の側の聖なる科学を説明する努力をします。世界の餌の混じった幸福を犠牲にします。始めたばかりで死ぬことがあっても、それでもそれは結果を受け取れる行動です。結果は有り余るほどで、満足できます。それは汚点のない人、阿羅漢の跡を追って生きることで、最高のバーラミー施でもあります。

 阿羅漢の本当の足跡は消滅し、書き遺したテキストが残っているだけです。いつから消滅したかは、過去のことなので考える必要はありません。彼らが書いておいたテキストも、全部を学ぶ必要はありません。私たちは物質である紙から、心の真実を知ることはできません。

 知ることができるのは、考える方針だけです。ブッダは「知る道具である努力を自分でしなければならない。如行は道を指さすだけ」と言われています。

 その当時から現在まで、それらのテキストを終了した人は数多くいますが、彼らは有名で供物が豊冨なアーチャンである以外に、何も素晴らしい徳に到達していない人もいます。これらのテキストがあるだけ、あるいはそのテキストを記憶するだけなら、世界の真実である四聖諦はまだ見えません。私たちは、誘い合ってもう一歩前進しなければなりません。

 つまり学んだように本当に行動します。心の状態は、愛欲の物質と愛欲煩悩の妨害がない静かな場所で、絶妙な努力で、心で探求しなければなりません。教祖が静かな場所、つまり森、木の根元、そして廃墟、洞窟などに住むよう教えられたのは、簡単に見る助けになるからです。

 私たちの教祖は、ルンピニー苑のサラの木の下の地面の上でお生まれになり、ブッダガヤの菩提樹の下に萱を薄く敷いて、地面の上で大悟され、そしてサラの木の下に衣を敷いただけで、ほとんど地面の上で般涅槃されました。それ以上に、ご存命であった間中、いつでも地面の上においでになりました。

 それは、ブッダの生活が遠離で、人と接近しないと暗示しています。本当に閑静な住まいです。「私は教えられているように素晴らしい善を満たして自分に生じさせることができない」と、推測するべきではありません。

 私たちは交わる楽しさに縛り付けている、心の頸枷を断つべきです。ブッダが使われ、私たちに提案なさるほど良い結果を得られた、閑静な住まいの名誉を維持すべきです。そして自分自身のサーキヤプッタサマナであることの名誉を維持すべきです。自分自身と大衆に正直に、本当に決意すれば、心の科学の結果に出合います。

 それは変化しない真実で、世界の何の奴隷でもありません。心は自立し、静かに管理出来、じゃじゃ馬を上手に操ることに熟達している御者のように、物質面の科学より上の威力があります。

 西洋は新しい科学で発展し、この面では東洋の先生です。東洋にも古い科学の所有者であったことあり、今でもテキストが残っています。結果を出す段階の本当の行動はありません。それでも西洋は、かつて所有者であり、たくさんのテキストがある東洋に名誉を与え、そのテキストを借りて思索します。

 西洋はブッダの科学を欲しがるので、西洋の東洋への信仰はまだあります。西洋が十分なテキストを手に入れ、本当の行動による探求があれば、その時尊敬は変化し、かすんで遅れている東洋は、西洋を尊敬しなければならなくなります。

 テキストがあっても、あるいはテキストの内容を知っても、テキストで行動しなければ、テキストで述べている結果を刈り取ることはできません。学んで知ることと、本当に行動することは、当然大違いです! 悟りは本当に行動することから生じ、紙上の勉強からは生じません。

 ブッダは、本気の努力による行動で悟りました。紙上の知識は道を指すものでしかありません。医学を学んでも何もしなければ、病人にとって利益がないように、まだ何も行動しなければ結果は得られません。

 寝て習性を待つか、あるいは男の力で努力しますか。ブッダが話されたような男の努力で! 紙上の勉強だけなら、しなければならない仕事を終わらせるだけで、仏教の梵行は述べたように深い物ではありません。苦から出る希望のために決意した学習が元通りなのは放っておきますが、思いがけない幸運や地位に夢中になって始めた勉強なら、間違った、あるいは歪んだ出発点です。

 どちらが危険に近いか、どちらが世俗の側に転がるか、そしてどちらが簡単にロークッタラに回転するか、見る事ができます。学ぶだけなら、心の聖なる科学の結果を掴める希望はありません。

 家を管理する人の生活は、大きな住まいがあり、たくさんの人を扶養し、仕事と心配がたくさんあり、権利である品物がたくさんある生活です。出家の恰好をしても、あるいは在家の身なりをしても種類を意味せず、生活であるどんな状態にも経過する、体と心の様式を意味するからです。

 家のない生活も意義は同じで、家がなく、身を隠す衣服と、食べ物を食べる食器以外に荷物がなく、苦がないことだけを望めば、その人が在家の身形をしようと出家の身形をしようと、アナーガリカブッガラ(家のない人)と呼ぶことができます。

 心の面の教えは、生活、あるいは外部の状態を規準にしません。私たちは心で努力し、繊細な考えで、本当にする決意をし、つまり阿羅漢に倣った行動をすれば、世界の利益になる心の科学に出合います。そしてこの名誉は、元々東洋のものであり、真実と穏やかな幸福に飢えている世界の利益になります。

 急いで阿羅漢の跡を追いましょう。家のない人は、家のある人の手本になる義務をしなければなりません。本書は手本になるアナーガリカブッガラ(家のない人)の実践規範だけを述べます。

 サヤーム国(1939年まで使っていたタイ国の旧名)は、仏教が反映しているすべての国の一つとして、世界から称揚されています。しかし仏教がパリヤッティで発展した時代には、仏教の保護者である国王がいて、非常にパリヤッティの教育が発展し、まだ仏教の最高の結果を受け取って見せられる、世界が満足する人物がいません。

 私たちはまだ、もう一歩である、阿羅漢の跡を追って本当に進歩して、たくさん学んだ高いダンマの実践の一歩に到達していないので、まだ誰も心の面の結果を受け取っていません。

 ブッダの科学はすべての動物の心の中の苦を完璧に消滅させると、まだ誰も証明して世界に見せていません。みなさん。一日一日、自分の義務に従って、すべての障害を捨てて仏教の最高の結果に近づくことで命を経過させ、阿羅漢の跡を追って歩く努力をなさい。

 これからパーリ(ブッダの言葉である経)である、まだ在家の時から出家して順に結果に到達するまで、阿羅漢が歩かれた道を説いている三つの経を取り上げます。三蔵全部は学びたくないけれど、本当の実践の結果を知ることに関心がある人が実践の指針にするために、簡略なのも、詳細なのも、理解し易い物を、題目を挙げて、パーリとアッタカターの内容を説明します。

 私自身も、仏世の半分と仮定されている時代に既に繁栄しているパリヤッティに続いて、ブッダのダンマの実践を振興して繁栄させることに与することを望む一人です。

 証明して「最高に素晴らしい物」と世界に見せることで、三宝だけを考え、愛する我が国だけを思い、仏教国の進歩の形を維持して、後れを取らないために、そしてブッダの心の面の聖なる科学が生まれて久しい東洋のことを考えるために、力を合わせてダンマの実践法を振興させなさい。

 素晴らしい宗教の結果を収穫することに到達する最後の一歩を、すべての形(体)とすべての名(心)の能力の限り、阿羅漢の足跡を歩きなさい。

プッタタート比丘
1932年8月27日




註  これから経として使うパーリに、サマーディの結果である奇跡を現す方法があります。本当は、阿羅漢を追って歩く人の目的ではありませんが、純粋に取り上げて述べるのは、全部揃えるため、そして一つの分野の智慧の話です。読んで熟慮した時、相応しい教育を受ける前に、別の理解をしないでください。




ホームページへ 次へ