社会主義式の民主主義

 

                                                1973年11月11日

 みなさん、社会福祉のお仕事の時間を割いて、社会福祉と呼ぶ、社会のすべての人類の利益の探求者という立場でお出でいただいたことに、お喜び申し上げます。

 何か私の考えをお話するようにというご要望なので、今後考える糸口になるように、そして仕事の連携や調整ができるように、三つの主題で短くお話します。人種も、言語も、あるいはどの宗教かは基準ではありません。社会福祉の仕事は、人間を助けることであり、その人間は、すべて同じ人間だからです。人種や言語や、あの宗教この宗教と分けるのは、別の便宜のためであり、目前の問題はすべて同じ、つまり何としても苦に勝つことです。

 現代の社会福祉について語る時、タイに限らず世界中同じですが、私は、今最高の社会福祉は、彼らが後戻りして道に戻るようにすること、と言いたいと思います。聞いて信じられません。いま一番必要なこと、最も利益になること、最高に正しいことは、後戻りして道に戻ることです。人々は非常に嫌悪しがちで、そして軽蔑侮蔑までします。

 どうぞ観察して見てください。いま世界中の人は道から這い出て、軌道外へ出て、今まさに深い淵に落ちようとしています。あるいは既に落ちています。だから彼らは後戻りして軌道に戻らなければなりません。

 運転をしていて片方の車輪が側溝に落ちてしまったら、みなさんはどうしますか。車を後退させて、元の道に戻らなければなりません。そうすれば再び走ることができます。いま人間はそんな状態です。タンマや神様の道、あるいは正しい道、何とでも呼び方次第ですが、それを外れて道の外にいます。

それも少しではありません。道から遠く離れ、宗教に背を向けた、神様に背を向けた、タンマに背を向けたと言われるほどです。この状態が続けば淵に落ちるので、後戻りして軌道に、タンマの道に戻らなければなりません。そうすればタンマの道を、走り続けることができます。

 今は、道徳の部分も、パラマッタム(第一義諦)の部分も、宗教から離れています。道徳と呼ぶものは社会の秩序という意味で、第一義諦と呼ぶものは、どれだけ高められるかという個人の規律という意味で、合わせて宗教と言います。今人々は、道徳面でも第一義諦でも、宗教の道から逸れています。

だから彼らが生き残る道はただ一つ、つまり後戻りして正しい道に正しく戻ることです。そうすれば歩き続けられます。車輪が道から落ちてしまったら、あるいは片方だけ落ちたら、同じように後戻りして元の道に戻らなければなりません。これが本当の、最高に良い、現在最も必要な社会福祉です。

 貧困の問題も道を誤った話です。今世界の問題である文字が読めないこと、衛生の知識がないことも、すべて道を誤っていることから生じるので、どれも後戻りして道に戻らなければなりません。一言で言えば、宗教と言わなければなりません。しかし今は、宗教という言葉に、複雑な意味が生まれました。これから分かるようにお話します。

 この段階では、宗教の実践はタンマの道に沿って正しくする行動、つまりすべてを静かに、苦のない状態にすること、と言いたいと思います。それを宗教の実践と言います。今はあまり宗教の実践がありません。あるのは勉強だけで、その勉強も哲学の形に膨らんでいます。

 本当は、宗教と呼ばれるものは科学です。どんな宗教も目前の問題があり、その目前の問題を解決するには、そのことに関して理由がある方法で解決します。哲学的に考えた理由ではありません。今の世界は哲学狂で、哲学中毒になっています。何も考えず哲学に溺れて、思考するだけです。

 宗教はそういうものではありません。どの宗教も目前の問題があり、それに関わる明らかな見解で目前の問題を解決します。智慧による宗教でも、信仰を使う宗教でも、根(あるいは処入。感覚器官)を管理する何らかの実践をする宗教でも、すべて手法、あるいは科学技術の形になります。初めはどの宗教もそうでした。それから少しずつ言葉の問題に変化し、あるいは論理的、哲学的思索の話になり、どんどん離れます。つまり実践から離れます。

 本当の宗教は実践です。実践に至らなければ、まだ宗教には至りません。言葉も、正しい言葉にしなければなりません。今の言葉はあちこち寄り道して、目的に向かう言葉ではありません。実践も離れたものになり、喋ったり話したりするものになりました。最高に良くて哲学です。だから今は、宗教は消滅したと見なされています。つまり人間集団に静かさを生じさせる行動は、今消滅しつつあります。

残っているのは、思考という技法で学ぶことだけです。それは幾つもの道に分かれ、宗教の論理で争います。同じ宗教で分裂し、争いになることがあります。こういうのは、すでに宗教ではありません。なぜなら宗教とは、いつでも実践を意味するからです。

知識は実践するために身につけ、実践した時宗教になり、そして何らかの結果があります。それが完全な宗教です。だから厳格で本物の一つの教えに基づいた実践が宗教です。

違う場所、違う時代に生まれ、違う名前で呼ばれても、本当は同じです。二つあり得ません。神様と呼ぶ人、プラタム(仏法)と呼ぶ人、あるいは自然の法則と呼ぶ人、道(道教の道)と呼ぶ人、今後別の呼び方をする人がいても、真実それは、みな同じものです。

すべての意味、あらゆる点で最高のもので、創造という意味、支配という意味、あるいは正しく解決したり罰を与えたり、いろんな褒美を与える意味になります。呼び方が違うだけで、すべて同じです。

 その上もっといろんな部分、たとえばタンマも神様も道も、道を意味していると言うこともでき、旅を意味することもでき、あるいは最終目的に到達することを意味することもできます。それは一つのもので分けることはできません。分ければ何の利益もないからです。

 タンマは道であり、旅をすることであり、終点に到着することでもあります。すべてタンマという一語です。だから私は、他の宗教の他の言語でも、例えば神様も道という言葉も、少なくともこの非常に完璧なものを表すこの三つの意味に使えると信じます。それを明らかに説明する道がなければなりません。

私たちには正しい知識があり、正しい旅をし、正しい目標に到達します。これは欠かすことができません。だからこれを至高のものと言います。何とでも呼び方次第ですが、一つしかありません。

 すべての教祖について言えば、何人いても、私は、話すための口にすぎない、と言いたいと思います。重要な点はタンマ、あるいは神様、あるいは何とでも呼ばれるものにあります。次にいろんな教祖、ブッダであろうと、イエスキリストであろうと、何様であろうと、天人の代弁者でしかありません。つまり人間が生き残るために、これらを説きました。だから私たちは、あの宗教この宗教と、反目し合う必要はありません。

 最高目標も同じであり、同じものです。そして教祖は、代弁者にすぎません。この「口」は多少違うかもしれません。時代も時も場所も違うからです。どうぞいろんな宗教の発生を観察してみてください。世界のあの角この角に生まれて、その時代には何百年もの開きがあります。

だからこの口は、一言一句同じに話すことはできませんが、要旨は同じです。最も重要なことは、人間が到達するべき最高最善のもの、つまり「到達」するために実践することです。 

 どの宗教も「到達」を目指し、その時代時代にふさわしい「到達」を、現代まで説き続けてきました。現代人はこれを複雑にして、さまざまな宗派、さまざまなグループに分かれて反発し合うので、社会に問題が起こります。だから世界一大きな社会は、話し合いができません。これらの人たちはみんな、宗教の規定に反しています。ここで言う規定に反すとは、身勝手、宗教で争う「俺、俺の」があることです。

 仏教では自分はないと捉えます。それは自然、あるいは自然のもので、俺や俺のものはありません。しかし人間は俺と俺のものがあります。神様がいる宗教では、いろんな物は神様、または神様のもの、あるいは神様の一部であり、俺でも俺のものでもありません。だから俺だ、俺のだ、と権利を主張してはいけません。

俺、俺の、になると身勝手になって煩悩が生じ、苦に形が変わります。宗教の規則で正しくすれば、つまり誰もが神様のものになり、誰もがタンマのものであり、誰もが自然のものならば、問題は起こりません。そのように喧嘩口論をする俺、俺の、がありません。

 この問題を解決できれば、世界はどこも平和でいっぱいになります。世界の大きな平和と見なします。そして個個人の小さな平和も、個々人の問題も、食糧問題、飢餓の問題も、この正しい理解で解決することができます。

そして、望みどおりにできなくても、苦はありません。仮に事故が起こって世界が焼滅してしまっても、全滅するような何かが起こっても、苦は全くありません。なぜなら俺、俺の、と捉える自分がないからです。自分も同じ自然のもの、同じ神様のもの、あるいはタンマのものだからです。

 これは、世界中の誰もが幸福で安楽に暮らすために、後戻りして道へ戻ってもらう形で社会福祉をする、大きな項目、重要な項目、最高の項目だと思います。初めにお話した時は、たぶん誰も好まず、信じなかったと思います。

しかし考えて見ると、私たちは今、後戻りして道、つまり正しい軌道に戻らなければならない状態にあると見えます。私たちが正しさに満ちて、そして完璧も揃っていれば、つまり正しいけれど完璧でないのは駄目ですが、正しさと完璧さが揃っていれば、それがすべての問題解決になります。

 色んな物が欠乏し始めている問題も、こうすればすべて解決します。現在、人間は自然資源である、あるいは神様のものと言われる、あるいは何のものでも、資源を必要もなく大量に消滅しています。

地下にあるいろんな資源が掘り出され、精錬されます。何の利益もないばかりか、掘り出していろんな金属や鉱物を取り出し、武器を作って殺し合うなどの害があります。こういうのは何の利益があるのでしょう。そして資源も浪費します。例えば石油は、今のように使っていれば、あと五十年で尽きるかもしれません。

 しかしもし、自然が要求するだけ、あるいは自然が強制するだけ使うなら、これほどたくさん使う必要はないので、もっとずっと長く使うことができます。あるいはこのままで行けるかも知れません。

今は枯渇させる使い方です。鉱物や金属を精錬して、もうすぐ終わってしまいそうな使い方です。これを、プラタムに、神様の宗教の規則に背いていると言います。もし自然の目的、神様の意図にしたがって、人間としてしかるべきと言われる使い方をすれば、余ります。

 イエス・キリストを思い出すと、あの人は何千人もの人に、パン二、三切れと魚四、五切れを分けましたが、それでも余りました。これは、人間が必要な分だけ有益に使うことを知っていれば、世界の自然の資源も余るということです。

現在は不足が現れています。食べたり使ったりするのを、物質的に必要な分だけにすれば、心も穏やかで幸福になり、誰も煩悩で求める人はいなくなります。何かを求める人もなく、煩悩欲望で求めることもありません。現在は際限なく求めています。

 自然が目指すように暮らせば、自然は静まること、止まることを望んでいることが分かります。どんな自然を見ても構いません。このお寺で私は、静かさな自然を知っていただきたいと思っています。自然に反すれば大混乱です。

ですからみなさんで自然をよく学んでください。一番重要な一つだけを知ってください。いろんな問題を解決するのは、混乱を静めるためです。宗教には、絶対権力がある、あるいは固定したものを見せることで、こういう義務があります。

私たちはその規則に従わなければなりません。あるいはそれに正しくしなければなりません。そうしなければ、人間は人間で無くなります。つまり人間らしい穏やかな幸福がありません。それに畜生にも敵いません。畜生たちはまだ正常であり、自然で正常に経過していて、苦は少しだからです。

人間は互いに苦しめ合う知性で発展してきました。タンマの道、あるいは神様の道でではありません。本来なら畜生たちより良く、幸福でなければなりません。人間が過ちを犯せば、畜生にも劣ります。つまり、畜生たちが経験したことがない生き地獄にいるような苦が、常にあります。実行してしまえばこのような結果を受け取らなければなりません。

 今の人間は人間ではなく、ただの人です。最高に善い呼び方をすれば、キリストでも何でも、人間を神様の子と見なしている教典で言う意味での、神様の子と捉えなければなりません。魔王、あるいは何か望ましくない者の子ではありません。

人間の子でもまだマシです。男性は神様の子、女性は人間の子でもまだ良いです。この人間という言葉は、少なくても高い心をもった人を意味するので、高い心があれば、すべての問題より上に、つまりすべての苦より上にいます。

今は列になって道を外れ、人間が人間ではありません。人間の子にさえなれません。神様の子である話をするには及びません。道から逸れてしまったので、人でしかありません。人は動物と変わりません。動物と同じように求める気持ちがあります。食べること、寝ること、生殖のこと、恐怖、これらは同じです。「人の道に則っていない」と言います。ここで後戻りして道に戻らなければなりません。

 私たちに苦があることは、すなわち死です。どの宗教も死、あるいは破滅は苦と明言しています。今人間は死以上です。つまり非常に破滅しています。煩悩の支配下にいる人間は、死以上です。死は、煩悩に支配され、最高の苦の塊の中にいることほど悪くないからです。どうぞこの問題に特別な興味を持ってください。すべての社会の問題を解決する背後にあるすべてです。

 食糧配給、識字教育、感染予防等の問題解決は滑稽です。問題と捉えない話です。あるいは末端です。問題とするなら、末端の問題です。根本の問題はまだ解決されていません。つまり人間に道徳がないこと、宗教がないこと、宗教の道から外れてしまったことです。

 これらの問題が解決すれば、人間は文字を知り、食糧もあり、幸福になります。あるいは文字を知らなくても、文字を知っている人より、もっと幸福です。悪口と非難されては困りますが、文字を知らない人も、昔は文字を知っている人よりはるかに穏やかで瑞々しく、本当に幸福だったと言いたいです。

 人間に食べ物があっても、苦のために生きているなら何の利益もありません。死んでしまった方が良いのではないでしょうか。苦のために生きているなら、死んでしまった方がマシです。だから食べることについてだけ言わないでください。食べ物で生きるのではなく、タンマで生きると捉えなければなりません。タンマがなければ人間ではありません。どの宗教もそう認めています。

 今人間は人間でなくなりつつあります。そして「死」以上の人になっています。つまり、ただ死ぬだけなら苦はありません。普通以上の苦があれば、それは「死」以上です。だから問題が生じて、あれこれ社会福祉による解決方を探さなければなりません。そして問題が起こる本当の原因は、人間がタンマを捨て、宗教を捨て、神様を捨てたことと見ません。私たちの宗教やタンマが盤石なら、こういう問題はありません。

現代は慈悲を見ることはできません。人が身勝手だからです。俺、俺の、があって、誰も他人のことを考えません。すべての人が他人を思いやるよう、つまり、先ず社会のことを考えるよう望んでいる神様を、誰も信じません。自分のことしか考えないので、社会に問題が生じます。こんなことでは益々社会福祉の問題が増えます。そして子供のような解決、つまり末端の解決をします。非常に哀れで滑稽です。

 私は、最初のテーマは、最高の社会福祉は、みんなで手を繋いで後退し、道に戻ることとお話ししたと言います。私たちは今、道の縁にいて、濠や淵に落ちようとしているので、みんなで引っ張って道に戻すことが最高の福祉であり、社会に対する本当の救済です。世界は今破滅に瀕しているからです。

 

 次の項目は、社会福祉はどうあるべきかをお話をしたいと思います。社会福祉とは、社会を救済すること、そして社会福祉協議会とは、社会福祉事業を行うために設けられた団体です。はっきりと社会という言葉を使っています。なぜ人物、あるいは個人と言わないで、社会という言葉を使うのでしょうか。

今みなさんは社会を救いたいと望んでいます。私たちは大原則として社会という意味を好んでいます。そしてこの種の社会は、嫌悪し恐れている社会主義ではないでしょうか。社会主義と言うと、コミュニストのことを連想し、コミュニストと見られて捕えられ、罰せられることを連想します。私は、社会福祉協議会について話していますが、コミュニストとして、あるいは社会主義者として非難されますか。

 誠実に率直に話さなければなりません。これは社会主義ですが意味が違います。つまりコミュニストのような、あるいは捕まえられて鉄格子の中に収監されるようなものではありません。だから言葉の変容性に無知にならないでください。

世界が複雑困難なのは、私たちが使っている言葉の変容性を知らないからです。非常に欺瞞されます。社会主義を嫌う一方で、社会福祉をしています。それは自分自身を愚弄することです。

 社会福祉とは何か。これから先に判断したいと思います。これからはこの言葉に騙されないでください。私はどの宗教も、何でも自分の思いどおりにする個人主義の民主主義ではなく、社会主義と言いたいと思います。

どの宗教の教祖も、主として社会の利益を考えるために、社会主義を原則とするよう望んでいます。自分だけのことを考えるようになれば、いつでも煩悩のチャンスで、つまり非常に身勝手です。仏教は特に社会主義です。

 この言葉の意味を善く捉えるなら、余分な物を取る人は誰もいない、としなければなりません。必要なだけ、あるいはちょうど良いだけです。余った分を他の人のもの、あるいは社会のものにするためです。

仏教は、仏教の比丘は何でも、必要以上のものを所有してはいけません。つまり余分なものはありません。タンマ(教え)もそう教え、律もそう規定しています。例えば比丘は、衣を三枚以上持ってはいけません。三枚以上あれば破戒です。

もし三枚以上あれば律にしたがってサンガのもの、あるいは公共のもの、あるいは僧社会のものにし、個人の物ではありません。これを衣も一人に必要以上に与えるのを認めないと言います。もし余れば、僧社会、あるいは広い社会にやります。

 住む場所にも規定があり、比丘のためのクティ(僧房)は、幅七フィート(約一メートル八十)、長さ十二フィート(約三メートル)で、それを超えてはいけません。破戒です。これは悪い破戒です。必要なだけにするためで、残りは社会の利益にします。

それだけでなく、鉢も二つ持ってはいけません。食べ物を入れる鉢も、二つ持つことはできません。破戒です。二つ以上あれば、他の人かサンガか社会にやらなければなりません。比丘は何でも制限があり、それを超えてはいけません。余った分を社会のものにするためです。

 タンマも、サンドーサ(知足)について教えています。つまり必要なだけ、生きていけるだけの食べ物を求めます。だから食べること、援助することについて教えています。援助することについては最高に教えています。だから本当の仏教教団員なら、たとえ在家でも、自分が所有すべき分だけで満足、あるいは足ることを知って喜ぶべきです。残りは所有を離れて社会のもにします。

 たとえば仏教の富豪は、資本家という言葉とはかけ離れています。仏教以外の富豪は、資本家という言葉が意味する意味があります。つまり余った分を始終掻き集めて、使い道がないほど溜め込みます。

しかし仏教での富豪は、貧民に施す物を溜めておく布施蔵や布施食堂で、富を計ることができます。布施食堂の数があればある程大金持ち、大富豪です。布施食堂の多さで計ることができます。だから富豪は余分な生産をしても良いです。下僕をたくさん抱え、膨大な量の余分な生産をしても良いですが、それで布施食堂を建てます。こういう社会福祉です。

別のタイプの金持ちなら資本家ですから、溜めておいて、際限のない利益の元手にします。このような富豪に下僕がいれば、虐げて労働に使うためです。しかし仏教の富豪が下僕を抱えるのは、社会福祉をするために協力して余分な生産をするためです。なんだったら、仏教の経典にあるたくさんの大金持ちの話を学んでみてください。

 これで、仏教教団員である在家や出家なら、余分なものを掻き集めないようお願いされ、教えられ、強制されることが分かります。逆らって余分な物を手に入れれば罪です。誤った行動です。だから原則は、あるいは仏教の精神は当然社会主義です。「私がこの世に生まれたのは、天人と人間を救済する利益のためである」とブッダが言われたように、誰か一人のためでも、ブッダ自身のためでもありません。

 どの宗教の教祖も同じです。人類と天人の利益のために生まれたと主張し、余分な物を求め、余分を掻き集めることを非難しています。宗教はどの宗教も社会主義だという点を良く考えてください。

しかしみなさんはこの言葉を嫌います。コミュニストだと非難されれば逮捕される。こういうのはバカです。これは自分が使っている言葉に騙されています。社会主義という言葉を嫌わないように、良く考えてください。なぜならみなさんは今、社会福祉をしているからです。社会を大切にしないで個人を大切にすることはできません。

 民主主義について話すなら、社会主義的な民主主義でなければなりません。利己主義や個人主義の民主主義であってはいけません。いろんな制度や規則は、個人が精いっぱい掻き集める機会を与えるために作られています。民主主義の自由はそういうものです。

社会主義的な民主主義について言えば、先ず社会を目指さなければなりません。これから人は余分を掻き集めてはいけません。だから、「人または動物は、正しい自然と一致する権利を有すべきである」という、つまり余分を掻き集めてはいけないという自然の法則で正しくします。

 話し始めたのですから、この問題は社会ができた時に生まれたということについて、もう少し話させていただきたいと思います。人が一人で暮らしている時、あるいは大きな社会でない時代には、問題はありません。

この問題はまだ始まったばかりです。石器時代にはバラバラに暮らしていたので問題はありませんでした。人の数が増え始めると問題が生じ始め、人口が増えて幾つもの集団、幾つもの社会になると、ますます問題が増え、永続的な危機の問題、つまり虐げ合いが生じます。

 問題は社会ができた時に生まれたばかりです。社会が大きくなると、問題も重大になってきました。だから私たちは社会に注目して、問題として取り上げ、あるいは制度として実施するには、社会を基本にする主義でなければなりません。個人を原則にする主義ではいけません。それでは問題は解決できません。問題は、社会で暮らすことから生じているからです。

 この社会主義の精神は、自然のタンマ、自然に存在する自然のタンマです。これを私たちは社会主義の目的と見ますが、気付いてはいない実践原則があります。最初からずっと、それに気づくまで、まったく気づいていません。それは余分を求めないことです。

自然に生きているすべての生き物は、誰も余分に取らない、ということを考えてください。人間が生まれる前は、動物と植物、それから科学で言うような単細胞生物まで、いろんなレベルの生物がいると言うことができます。いろんなレベルの生物は、余分なものを取りません。

自然には、あるいは初めは、単細胞と言われる生物は一つの細胞に必要な分しか食べません。幾つもの細胞の集まりになると、その細胞の分だけ食べます。それから植物になって、植物として生きるには、細胞に詰め込む分だけ食べます。それから動物になり、魚や鳥や何やらになると、それぞれの胃の分だけ食べます。

米蔵も塩蔵もありません。蓄えておく場所がありません。だから余分に取ることができません。鳥を見ても、腹いっぱい食べるだけで、余分に手に入れることはできません。自然では余分に得ることはできません。

 原始人も、蓄えるために米蔵塩蔵を作ることを知らないので、腹が命じるだけの物を食べていました。翌日になればまた探しに行きました。蓄えません。これを、誰も余分を手に入れなければ問題は生じないと言います。

 経典の中にある話によると、ある異常な人間が、たくさん蓄えておこうと考えた時から、問題が生じ始めました。森の中の麦やら何やらをたくさん蓄えはじめた時、「不足」が生じました。余分を手に入れ始めたら、問題が生じ始めました。

そして余分を掻き集めることが増えて、余剰を集める首領が現れ、戦いが始まりました。蓄えることを知り始めたと言われる時代の原始人の群れの中に、です。だから法律が生まれ、道徳が生まれ、これらの煩悩を撃退するものが生まれました。

昔の話を読んでみてください。バカバカしい昔話と考えてはいけません。人間が蓄えることを知った時から問題が起こり始めたという真実を正しく説明している昔話です。

 自然は、誰でも自分に必要な分だけにするよう望んでいます。しかし人間は自然の言うことを聞かず、余分を競って掻き集めるようになったので、それからずっと問題が絶えず、今に至っています。何もかも余分の話ばかりです。私たちがちょうど良いだけを求めれば、問題は起こらず、虐げる事件も起こらず、他人より得することもありません。

 どれくらいがちょうど良いか、という問題ですが、これには何も規定がないので、時代と場合によります。私たちは何がどれだけあれば十分かという問題は、現在私たちには規定がなく、幾らあっても足りません。

「山を一山か二山、全部黄金の塊にしてやっても、一人の人の望む分には足りない」という、ブッダの言葉があるくらいです。山全体が純金の山が二つあっても、一人の人の望む分には足りません。それがどれくらいか、考えてみて、推測してみてください。

現代は、心が余分を欲しがる方向へ拡大していると理解することができます。つまり社会の利益を略取して自分の物にします。共産主義も余剰規定を主義の原則にしています。彼らも同じように見るからです。

しかし意図するものが違います。自然の法則に則っていません。今私は自然の法則で、余分を掻き集めないようにしたいです。すると何が生まれるでしょうか。慈悲が生まれます。誰もが自分を養うために少しずつ分配して、残りは社会の物にします。

 そればかりか、この余分という言葉は非常に伸縮性がありす。非常に柔軟な意味の言葉です。その人が余分ではないと言っても、余分である場合もあります。たとえば私たちが毎日消費している物の五パーセントほどを分けてやっても、生活できるし死にません。だから私たちは世界の人に分けてやるべきです。自分では余分だと感じないものから、余分を分け与えることを知ること。それが人類を援けるブッダの道徳です。

 たとえば子供が学校へ行く時、昼食を食べるために五十サターン持って行きます。仮にその子が五サターンを、貧しくて一銭も持っていない友達に分けてやるとします。その子は何も損はしません。四五サターンで食べられます。食べていけます。そして一銭もない子も五サターンあります。何人もが同じようにすれば、一銭もない子は一人もいなくなります。

 あるいは、一日に十サターンしか持って行かない子も、一サターンを分けるべきです。 自分は九サターンで食べて、一サターンを一銭もない友達に上げます。誰も余分と考えない部分から、このように余分を分けてやることができます。

 現在の宗教、特に仏教は、この部分を余分として分けることで成り立っています。たとえばこのお寺は、周辺の貧しい人々によって支えられています。托鉢に行くと、人々が食べ物を分けて入れてくれます。自分の食べる分を分けることができます。だからこの、雨安居に六十人いる僧は、何件もない村の人々によって暮らしていられます。

クルンテープ(バンコク)では比較にならないと思います。クルンテープにはお金持ちがたくさんいても、このお寺を養うために余分を分けてくれる、この辺の人々のようには、あまり余分を分けません。どうしてでしょう。それは、ここは昔式だからです。人々がまだ昔式だからです。クルンテープでは、人々は現代式です。ほとんど天人のようです。比較できないほど、何十倍何百倍も違います。

 だから「余分」という言葉をよく理解してください。一億あっても足らず、誰かに分けてやる余分はありません。十億、千億、一兆欲しくなりますが、余分はありません。しかし二、三千バーツ、あるいは二、三百バーツしか持たない人は、社会のために分けてやる余分があります。

 社会主義は、誰も余分を掻き集めてはいけない、という自然の法則に則った原則がなければなりません。余分を他人に分けるよう努めます。しかし余分を生産してはいけないと禁じてはいません。誰にも主義があります。そして余分に生産するのは、余分は絶対に社会の利益のためでなければなりません。そして良く注意してください。余っていないと言うのは、それはまだ余裕があり、分けられるということです。

 ここに座っている皆さん、良く考えて見てください。みなさんには、困らないでまだ社会の利益のために分けてやれる部分があります。しかしみなさんはそれが見えないので、余分はない、まだ余分はないと寝言を言い、何をするにも他人に募金して回らなければなりません。自分には分けるだけの余分がありません。みんなこうなってしまいます。こういうのを、良く考えてください。

 自然の権利は、余らないだけです。全員が自然の権利で、自然が快諾するだけ、つまり余分に取らなければ、この世界は神様の世界のように、まったく苦がない弥勒菩薩の世界のように平安になります。これを、個人のために余分に取ってはいけない、自然の最高の規則と言います。

そして余分を作り出す努力をすることもできますが、社会のためです。それが自然の望みによる社会主義です。私は敢えて、神様の、プラタムの、あるいはすべての教祖の教えにそっている望みと言います。

 だからこれを重要問題として、良く観察してみてください。みんなで助け合わねばならないほど世界に問題を作った人は、助け合うことができません。これは滑稽です。自分たちで問題を作っておきながら、協力して解決することができません。誰もがみんな余分を狙っているからです。これを、社会を救うには、お互いに助け合わなければならない、と言います。

最も素晴らしいものは正しい見解です。なぜなら問題は誤った見解から、自然を正しく理解していないことから、あるいはすべてが真実と一致しないことから生じるからです。だからこの問題は正しい見解、つまり正しい理解で解決しなければなりません。そして、「間違っている」「罪を作っている」と知って改め、心を入れ替え、物事が正しい方向へ向かうようにします。

これで社会もすぐに、期待に応えるように望ましい方へ、良い方へ変わります。私は、後戻りして神様の道に戻りましょう、という言葉を使います。現代は神様を捨てて久しく、タンマを捨てて久しく、科学的に言えば、自然の摂理である正義を捨てて久しくなります。

 これが、社会福祉とはどうあるべきか、というテーマでお話する二項目です。

 

 最後の項目でもう少しお話したいのは、現代人の問題、つまり、宗教あるいは道徳が、今世界から消えつつあるということです。道徳の形の宗教も、第一義諦の形の宗教も、あるいは自然の法則で正しい行動と言われるものも、あるいは神様に従うと言われるものも、これらすべてを宗教と言いますが、今世界から消えつつあります。

だから世界は、現在のように恒常的に危機があり、どんなに解決を図っても解決できません。身勝手な人が問題を作り上げたのに、その身勝手な人がどうして問題解決ができるでしょうか。利己主義者が集まって組織を作っても、この機構もあの機関も利己主義者がいっぱいで、それでどうして、利己主義が原因の問題を解決することができるでしょうか。

 どうか良く考えてください。利己的な人が利己的な人の問題を解決するために設置した機関に惑わされなくなります。これは滑稽です。悪魔が笑います。魔王が笑います。この人たちは、なぜ神様の、自然の法則にしたがった正しい人になる、という点を解決しないのかと、何でも笑います。

神様や自然の教えは、自分より他人のことを考える方が良いという教えです。自分は一人ですが、他人は何千何億といるので、だから他人のことを考えると言えば、自分一人のことを考えるより確実に多いからです。

 今人々が利己的なのは、煩悩の言いなりになっているからです。宗教や道徳と呼ばれるものは居場所がありません。つまり人間から消えてしまいました。この人間とは、非常に苦しくて重い問題を抱えた人の集団のことです。タンマ、あるいは宗教はあっても皮だけ、あるいは有るとは呼べない口先だけです。だから私は、今宗教は、非常に懸念しなければならないほど世界からが消えつつある、という言葉を使います。

  要約すれば、本当の宗教と言われるものは消滅し、残っているのは、宗教に関わる哲学の形だけです。今世界の人は宗教を、文学の面から学んだり、語学の面から学んだり、著しいのは熱狂的な哲学で学んでいます。これは宗教ではありません。

哲学のように学べば未知の事柄を深く推測する理論を使います。このように、真実のために真実を探求します。バカな話です。問題を解決するために真実を探求すれば、まともな話です。真実のために真実を探求する哲学は、何の利益もありません。

科学なら、直接人類の利益のために真実を探求します。科学は目前の問題に対処するからです。だから目前に生じている問題を解決できます。私たちは問題を解決することができます。宗教はどの宗教も科学です。つまり必ず苦または問題があるので、まずそれを見て、それからその原因は何かを探し、そして根源を解決します。これは科学のあり方です。心の問題でも科学の形です。

しかし哲学はわざわざ、なぜ私たちはこうしなければならないのか、なぜ我々は神様を信じなければならないのか、なぜ我々はタンマを信じなければならないのか、と別の問題を提議します。こうです。確実でしょうか。良いでしょうか。

幸福も、これは確かな幸福かと疑います。これでは自分を信じない人のようです。自分のことを問題にしないで、他の問題を解決します。それが哲学者です。哲学者が増えれば増えるほど、問題も増えます。そして遠くなります。

 子供の本で譬えています。すごく当り前で、すごく滑稽な話です。ある人が、線路はこのようにずっと二本並んでいるのかと疑念を抱き、そこで線路に沿ってどんどん走って行きました。それでも線路は二本並んでいます。しかし前方を見ると一本に見えます。

そこでまた走ります。線路はまだ二本並んでいて、キリがありません。しかしその人はまだ、もしかしたら先は一本かもしれないと思います。哲学の手法はこの話と同じなので、寝言です。

 科学は、必ず問題がここにあり、そしてここで解決をします。たとえば、俺、俺のという執着が苦なら、執着を無くしてしまいなさい。そうすれば苦は無くなります。つまりそう納得して信じなければ苦であり、納得して信じれば苦はないので、そう信じることにします。こういうのを宗教の実践と言います。物質面の科学のように明らかにされています。しかし物質の話ではなく、精神面の話ですが、物質の話と同じような原則があります。

 私たちは、宗教と呼ばれるものを実践して宗教にしません。宗教を哲学にして、最後には論理学やら何やら逸脱してしまいます。だから後戻りして軌道に戻りましょう。宗教を宗教にし、つまり滅苦の実践をして、科学的な手法、あるいは技法で苦を解決します。際限のない哲学ではありません。

科学なら終わりがあります。限界があります。限界がある問題で、解決することができます。そし人間は間もなく幸福に、平安になります。つまり生きているうちに、です。哲学的手法で問題解決を図れば、解決する前に死んでしまい、百回死んでも目標に到達しません。今人は宗教を壊滅させ、宗教を哲学にしてしまいました。

 宗教の形の、人類が危機を脱す体系を、直接宗教と呼ばなければなりません。哲学やら何やら逸脱したものにしてはいけません。宗教が絶えてしまいます。宗教が無くなったのは、人間が宗教を、哲学にしてしまったからです。憶えやすいようにこう言いたいと思います。

宗教は宗教の形で残っていません。仏教であれ何の宗教であれ、哲学にされ、何か懸け離れたものにされ、宗教の形、つまりこのように問題を見て、このように問題を解決して、苦を無くすために実践するものではありません。

 私たちは宗教をすっかり駄目にしてしまいました。しかし反対に、「私たちには繁栄した宗教がある。どこもかしこも宗教で満ち、宗教の象徴で溢れている」と言います。これは何も分からないで言っています。残っているのは宗教でないものばかりです。仏教は宗教の形をなさず、哲学の形、語学、文学、論理学などの形になってしまいました。宗教はありません。

本当には宗教は消滅しました。しかし今愚かな人は、宗教は今繁栄していると言います。だから問題を解決できません。これを、宗教は消滅して哲学の形になったと言います。だから世界に宗教はありません。良く注意してください。どの宗教も、今こういう問題に遭遇しています。

 次は、どの宗教も目的はすべて同じで、俺、俺のことばかり考えること、身勝手をなくすことです。だから常に、俺、俺の、を消滅させる実践をしなければなりません。そうすれば宗教があります。宗教があると言います。俺、俺の、を攻撃する実践が常にあるからです。話すだけなら、どんなに上手に話せても宗教ではありません。これを宗教は今、懸念されるほど世界から消滅していると言います。

 次に道徳、つまり道徳の部分の宗教ですが、これも今世界から消滅しつつあります。私がこう言い始めただけで、何を意味するのか、みなさん分かっていると理解します。今、世界から道徳は、心配なほど消えています。

自分自身が軌道から外れないように強制しません。楽しいこと面白いこと、目、耳、鼻と肉体の味のことしか考えません。だから道徳はありません。あるいは道徳をすっかり変えてしまいました。道徳を踏みつけて、罪を徳とし、誤りを正しいとします。

 今まで道徳は、仏教のように人間の血肉の中にありました。例を挙げるだけでも、正直、報恩、忍耐、寛容、その他いろいろ、すべての人の血肉に沁み込んでいたので、誰も教えなくても実践できました。教えと言うなら、両親を見るだけです。

子供は生まれると両親を見習います。両親がしていることを、子供が血として受け継ぎます。強制する必要はありません。ノートに書いて暗記し、そして強制して実行させる必要はありません。だから昔の子供は、正直で、恩を知り、我慢強かったと思います。先生は叩くこともできました。子供が甘んじて受け入れたからです。

今の子供はまったく違います。それに、あまり両親と一緒に暮らしていません。だから両親から何かを受け継ぐことができません。すっかり変わってしまいました。性格が身勝手で、他人より得をすることばかり考えます。血の中の文化も薄れました。道徳も薄れました。文化と言い、道徳と言い、それらは宗教からきています。何代も何代も実践して来たので、家系の文化、国の文化になりました。

 一つの例を挙げたいと思います。この街か、あるいはバードーン湾周辺のことか、みなさんは聞いたことがないかもしれません。私が知っているのは、お百姓が畑で作物を作る時、溝を作って、そこへ種をパラパラと落として蒔きます。その時お百姓は詞を唱えながら蒔きます。その詞は、「鳥が食えば徳になる、人が食えば布施になる」と唱えます。

蒔いた種を、鳥が食えば自分の徳になり、泥棒が食えば布施になります。それらの人や動物が食べてもいいと思って作っているからです。この人の心はどんなでしょう。

現代では、鳥が食べれば、銃で撃ち落とし、泥棒が収穫して食べれば、警察に通報して捕まえます。このように人間が性悪です。世界中が悪です。昔は「鳥が食えば徳になり、人が食えば布施になる」と、かならず唱えました。

みなさんはバナナの芽株を植える時、この詞を唱えなければなりません。パイナップルの芽株を植える時、この言葉を唱えなければなりません。稲や豆の種を蒔くときも、この詞を唱えなければなりません。

これはたった一つの例です。まだまだ沢山あります。誰が決めたともなく決まっていて、代々実行して受け継ぎ、血の中に継承されています。これを道徳の基盤と言います。今こういうのは無くなってしまいました。道徳や慈悲、こういうものは無くなってしまいました。忍耐も無くなりました。疲れたくありません。汗や埃に塗れる仕事はしたくありません。

人を許さず、不正直で、恩知らずで、もう、いっぱいです。これらのすべては何から来るのでしょうか。自分をコントロールできないことから来ています。なぜ自分をコンロトールできないかは、現代の魅惑的なものの誘惑に耐えられないからです。

 子供が良い文化をもった両親から離れると、必ず自由な所にいるので、魅惑的な物に興味を持ちます。そして魅惑的な物の威力で習慣になります。ひどくなると話が通じなくなります。両親が止めても聞きません。先生が教えても意味が分かりません。子供は変わってしまい、まもなく別人になります。これを道徳が無くなったと言います。現代の魅惑的な物の誘惑に耐えられないからです。

 これを、宗教も道徳も無くなったと言います。残っている道徳は、子供たちがノートに書きとめるものだけです。でも実行しません。学校内や大学構内で、実際に行動している道徳を見たことがありません。あるのは、ノートに書いて質問に答え、そして得点になる道徳だけです。どうぞこの問題を考えてみてください。

このように世界から宗教と道徳が無くなってしまったら、世界はどうなるでしょう。宗教は、科学的な手法による行動でなければなりません。つまり本当の問題に本当に取り組みます。本物であり、本当に問題解決できるものです。寝言のような哲学にしてはいけません。

 科学について話すなら、科学も広いというのを認めざるを得ません。この世界は、物質面の科学が非常に発展しています。私たちに危害がなければ、科学も良い物になり、私たちが科学の奴隷になれば、危害があります。身体の科学、体や言葉、行儀作法は、科学の原則、つまりこういう行動をすれば苦や害はない、というのでなければなりません。

これを、科学的に正しい作法である体と言葉と言います。しかしこの二つは重要ではありません。こういう考えをすると、必ず苦になる。こう考えれば苦にならないという、心の科学、あるいは精神の科学が重要です。私たちは苦を生まない考えを維持するよう努めなければなりません。これが精神面での科学です。

 この建物は、魂の娯楽館と言います。精神的なことを理解するために、いろんな物を集めたからです。しかし飽きないように、楽しめるようにしたので、このような形になりました。つまり芸術品も仲間入りしました。時には人々が呼ぶように、精神的な教師、映画館、劇場と呼ぶこともあります。しかし精神面の、です。だからこの建物に入った人は、精神が魅惑的なものに勝つよう、あるいは心が自由に包まれるよう、どうぞ精神面で利益になる使い方をしてください。

時々私は、「空」あるいは「空の心」などという、人が理解できないような激しい言葉を使います。本当は、それはすごく当たり前の言葉ですが、人は理解できません。私もどうしたら良いか分かりません。空っぽの心という言葉は、魅惑的なものに縛られて逸脱することがない自由な心という意味です。それがあの絵で、一枚しかありません。

「空っぽの心は、草の話が聞こえる」と書いてあります。私たちに、いろんな煩悩や魅惑的な物にだまされない自由な心があれば、草の話が聞こえます。つまり自然が話すのが聞こえます。草が、「いつか人間の愚かさが消えれば、穏やかな幸福になり、私たちのようにゆらゆら舞うことができるのに」と話すのが聞こえます。草は風の中で、このように楽しく揺れています。

だから精神の娯楽も科学の形をしていると言います。 Mythology でも哲学でもありません。哲学は教えたくありません。哲学は嫌いだと、どうぞ正しく理解してください。哲学は停滞させ、頭に知識が溢れていても脱出できない哲学者にするからです。だから志願して科学者になります。しかし心の面、精神面で、できるだけ自然の話になるよう努力します。

ブッダは地面の上で生まれ、地面の上で大悟し、地面の上で宗教を教え、地面の上で涅槃に入りました。ブッダはこれほど自然と親しんでいました。しかし弟子たちは宮殿に住みたがり、宮殿で死にたがり、何もかも宮殿のようにしたがります。

しかしブッダはルンピニーの森の土の上で生まれました。ある村の土手の木の根元で大悟したのも土の上です。遊説して歩いたのも土の上で、説法も土の上で、弟子の比丘たちも土の上でした。これでどうして、ブッダは地面の上にいたと言わずにいられません。最後にブッダは、土の上で涅槃に入りました。

それでも私たち弟子は、そのようにしたいと思いませんか。だからここへきて地面に座ってください。ブッダを記念して、何でも地面の上でしてください。イエス・キリストも地面の上で生まれています。多くの教祖はこのように土と親しんでいますが、弟子は、宮殿に住みたがります。しかも自分で夢見て、自分で建てた宮殿です。これはまったく方向違い、別の道ほど隔たりがあります。

宗教も残っていません。道徳も残っていません。私たちは自然に親しみたい時に自然を嫌い、自然が決めた規則に従いたい時に、米蔵や塩蔵や銀行を建てるほど掻き集めるというように、状況が掌を返すように変わってしまったからです。このように正反対です。私たちは今言ったような方向へ後退しています。どんどんそうなって行きます。

本当の宗教は無くなりました。そして Philosophy になり、Logicになり、Psychology になり、何になったか知りませんが、本当の道徳も無くなりました。皮膚や目・耳・鼻・舌・皮膚・心の慎みが無くなり、煩悩の言いなりになる新しい道徳が生まれました。道徳がなくなって、社会に問題が生じ、どうにも解決できません。衣食の不足を解決すると、問題はもっと酷くなります。つまりもっと怠け者になります。

解決方法は、「自然の法則で社会のことを考えなさい。余分をかき集めてはいけない」と言います。人間同朋を助けるために少し分けてください。自分が貧しくても、他人のために一サターン分けてください。お金持ちなら、何バーツも、何百、何千バーツも分けられます。

そうすれば社会の問題を解決できます。しかしみんなで一斉に掻き集めるなら、どこから?き集めるのでしょう。自然はどこから持ってくるでしょう。だから問題が生じます。

だから、今もっとも懸念されることは、宗教または道徳が世界から消えていることです。世界から消え、あるのは名前だけです。しかし本当のそのものではありません。宗教は今世界から無くなりつつあると言いたいです。人間が哲学や何かにしているからです。

本物の宗教なら、必ず実践、行動、行い、Observation Commitment 、何らかの実践行動がなければなりません。そしてその実践は、俺、俺の、身勝手を消滅させることでなければなりません。

そうすれば他人のことばかり考えるようになり、社会の問題を解決することができる社会主義になります。問題は、人間が社会を作って暮らすようになった時に生じたからです。そして、社会主義という言葉を怖がって嫌わないでください。コミュニストと非難されて捕まるのを恐れないでください。怖がるなら、頭に言葉を足しましょう。私は、頭に一語加えて、「タンマ社会主義」という名を考えました。

タンマ社会主義とは、タンマがある、あるいは神様がいる社会主義です。これが現代人を救うことができる社会主義です。

タンマと呼ばれるものは、説明しきれないほど価値、あるいは意味があります。仏教またはヒンドゥー教にしかないと理解している人は誤解です。パーリ語やサンスクリット語のタンマという言葉は、神様がすべての物であるように、ありとあらゆる物を意味します。

しかし深い部分は見えないか見え難いので、見やすい面だけが見えます。タンマとはすべての現象を意味し、タンマと呼びます。ありとあらゆる物の中にある真実の法則もタンマと言います。 タム、あるいはタンマ。どちらでも呼び方次第です。

それらの規則で実践しなければならない義務もタンマと言います。善果悪果として受け取る結果もタンマと言います。タンマという一語は、一つ残らずすべてを意味します。観察して見ると、神様という言葉も同じです。神様はすべてです。The Word として現れたすべての現象は神様です。神様の命令とは、自然の法則、タンマの法則です。

次に誰もが自然の法則に則って行わなければならない義務とは、神様に従った、神様の教えに則った行動です。この法則である神様には注意してください。神様の法則を踏みつけたから、今世界が破滅しているように、間違えば罰が下ります。法則と一致した正しい行いをすれば、褒美である結果が現れます。幸福になること、死より上にある場所に住めることもタンマと言います。

だからいろんな宗教に分裂していると理解しないでください。それは言葉が足りないので、問題が生じます。言葉というものは人間を欺瞞して誤解をさせます。そして分裂し区別するので攻撃し合います。これには言葉で話すものより深い部分があります。

この部分に到達しなければ、タンマに、神様に、道に、あるいは何でも言いようですが、それに到達していないと言います。科学なら、本当の自然の法則に達していないと言います。

子供が学校で習うようなのは、タンマに、神様に、何かに到達したのではありません。パーリ語のタンマという一語は、このように意味が広いです。他の言語にも、すべてを意味する言葉があるはずです。道も同じです。例外なくすべての物を意味します。だから私たちは、それの中枢に到達しなければなりません。そうすればそれに到達でき、そして問題を解決できます。

社会は、人間集団にとって一つの社会しかありません。だから人間にある苦は、タンマ、あるいは神様、あるいは何とでも呼び方次第ですが、それに到達することで、力を合わせて解決しなければなりません。みなさんには社会福祉の任務があり、あれこれお金や物で援助をしていると思います。しかし気がかりなのは、みなさんは最も大切な物を忘れて、あるいは見過ごしていると見えることです。

それがすべての問題の原因で、つまり身勝手です。宗教を踏みつけ、道徳を踏みつけ、神様を踏みつけ、何でも踏みつけたことから生じた自己中心主義で、神様、あるいはタンマの罰として、問題が生じます。だから解決は、後戻りして元の正しい軌道に戻ることしかありません。そうすればすべての問題を解決できます。

貧困は、宗教と道徳があれば解決できます。低劣な人間の問題も、後戻りして正しさ、つまり宗教と道徳を求めることで解決できると、明らかに見えます。あるいは欠乏している問題は、道徳があり、本当のタンマがあり、本当に宗教を実践すれば、この欠乏も解消します。

つまり誰も他人より得をしようとする人がなく、誰も余分を掻き集める人がなく、人々が勤勉に生産すれば、他人にやるには十分です。余った分を他人に分けてやれます。今の世界は、発明品や省エンネルギーや何やら非常に進歩しているので、社会のため、つまり他人のために余分を生産しなければなりません。誰か一人のためであってはいけません。

今は何をするにも、全部、する人のためになってしまいました。たとえば月の世界かどこかへ行けるほどの素晴らしい機械を作ることができます。しかしこれらの機械は数人の人の利益のために作られます。何人かの集団としても、まだ俺、俺の、の個人的な、一部の人たちの利益と言います。この利益を世界中の人のために、世界中の人々の利益のために使う人は誰もいません。考え出された新しい物は、一部の人のために使われます。

だから最近世界の人間が考え出した素晴らしい機械は、危険なものになります。平和を生じさせないで、反対に危機を促進するものになります。良いものは、意図次第です。ラジオやテレビやコンピューターや、今発明されているいろんなもの何でも、気を付けても、一人の人が、俺、俺の、の利益のためだけに使えば、この世界の危機を増やします。

その人がこれらの機械すべてを、本当の社会主義のために使えば、世界は平和で幸福で、そのうち弥勒菩薩の世になります。人間がこれらの賢さを、本当の社会主義のために使えば、世界はすぐに、平和で幸福な世界に変わります。

 だから体や物質の面ばかり見ないで、心の面を見てください。そうすれば恐ろしい問題が見えます。それは、宗教と道徳が今世界から消えつつあることです。まだ宗教と道徳と呼んでいても、別の物に変化してしまったからです。

だから、今の宗教と道徳は、昔のような、ブッダの時代のような、イエスキリストの時代のような、そして他の教祖の時代のような宗教や道徳ではありません。すっかり変化してしまいました。しかし名前はそのままです。これでは人間は誤った人になります。つまり無意識に軌道から逸れ、そして淵に落ちます。だから急いで後戻りして軌道に戻り、もう一度正しくします。

 これが、私がみなさん全員に提案したい短い要旨です。興味のある人全員で力を合わせて、後戻りして軌道に戻り、それから正しい道を歩むよう、社会の福祉のために奉仕してください。そうすれば問題を無くすことができます。

だからこの問題を理解するよう、興味を持って考える努力をしてください。正しく考えるだけで、とたんに実践した徳や善になります。実践したことは、結果が出れば出るほど、増えていきます。

 だから私は、今日、所属する人間社会の問題解決を成功させることに関心がある同朋にお会いできたことを、非常に嬉しく思います。私自身も常日頃から考えていた問題で、息をする度に、と言っても良いくらいです。だから、人間の問題を有効に解決することに関心のある同朋に会えたことを、嬉しく思います。

そして何種類か分からないほど名前がある、最高のものの徳を引用させていただいて、みなさんが一人ひとりの人間のために目指している職務が、前進し成功されますよう。そしていつでも、穏やかな幸福を共有できますよう。


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