前書き





訳者前書き

 この「法宝壇経」は、ウォン ムーラム訳の英訳版を、ターン・プッタタートがタイ語に訳したものを和訳しました。

 訳していくと、混乱するような意味不明な部分が沢山ありました。意味が分かっている部分を訳している時は、目的に向かっている安心がありますが、意味が掴めなくなると、どこへ向かっているのかが分からなくなり、不安を感じました。

 タイ語訳をしたターン・プッタタートも、多分同じように感じられたのだと思います。と言うのは、この「六祖壇経」は一九五三年から『佛教』新聞に連載されましたが、翻訳は八章(全部で十章)で中断し、未完成になっているからです。

 何とか最後まで訳し終えてからインターネットで漢文を見つけ、漢文と照合し始めると、連想ゲームの出題と結果を見るように、更に混乱と懐疑が深まったので、漢文の意味が掴める分部を訳し直しました。すると漢文から訳した部分と、タイ語から訳した部分の文体があまりに違うので、あちこち手直しをして行くうちに、タイ語訳の原形を留めなくなりました。

 ですからこの訳文は、漢→英→タイ→日、と言うより、漢→日が主で、たまに漢→英→タイ→日と言った方が近いものになりました。私は特に漢文の知識があるわけではなく、高校で習った知識と漢和辞典を頼りに、悪戦苦闘して訳しました。禅の知識もないので、誤訳や勘違いや、噴飯したくなる間違いもあろうかと思います。しかし自分で理解も納得もしていないのに、他の本の訳語を借用するより、稚拙な方がまだマシと思い、既に出ている本は見ませんでした。

 いずれにしてもこの『法宝壇経』は、ターン・プッタタートの見解と共通する部分が多く、あるいは強い影響を受けたのかも知れませんが、プッタタートを知る上で重要であること、(プッタタートを知ることは、タンマを知ることに比べればどうでもいいことですが)、そしてあまり知られていないようなので、取り敢えずどんなものか、読んでいただくことには意味があると思います。

 私自身これを読んで、存在さえ知らなかった親類縁者に逢ったような喜びを感じたので、もしかしたらそのような縁になる方もいるかもしれないと考え、当分の間、本サイトに掲載することにしました。漢文に関しては素人なので、素人の試訳として読んでいただきたいと思います。興味を持たれた方は、『禅語録』『禅家語録』「『六祖壇経』などの本を読まれるようお勧めします。

 底本として使った漢文はこちらです。http://www.amitofo3.net/books/sutra10.html 

 しかし脱稿してから見つけたのですが、英→タイ版は、下↓の方に近い良いようなので、この訳は二つが混合していることになります。
  http://ccubk14.brinkster.net/greatbook/S02/index02.htm

 これに関わった方々の志を記念し、ターン・プッタタートを初め、すべての人の挨拶文を以下に掲載します。


タンマダー


付記 : 「仏」という文字は、仏陀を表すために唐代に作られた文字で、当然「ブッダ」と読んだそうです。後の時代になって「陀」という字を足して「仏陀」と書くようになりました。

 日本で「仏」一字だけだと、「ホトケ」と読む人や場合があります。「ホトケ」とは、元は「浮屠家(フトケ)」という死者を意味する和語であり、「悟った人サンマーサンブッダ」という意味ではないので、「ホトケ」と読まれるのを防ぐために、すべて「仏陀」と表記しました。






祝辞




 仏教教団員のあるブループから「法宝壇経」を出版したいという希望があったことに対し、心よりお喜びを申し上げます。

 この本は、本当に智慧のある人のためのもので、自分の古い考えに強く執着している人は、聞いてすぐ理解できるものや、すぐ憶えられるものばかり受け入れ、考えることが好きでないので、この本を読むにはふさわしくありません。何も利益が無いと言うこともできるからです。

 もう一つ、読者は広い心がなければなりません。つまり自分が今まで信じて来たことと違うことを聞いたとき、すぐに反論して、すぐに投げ出さないでください。正しいか間違いかという批判は、何度も読んだ後、あるいは良く勉強した後にし、初心者の心になって、新しい知性で新しい物を読む新たな心で、慧能が何を言おうとしているのか、何としても理解する努力をしなければなりません。

 私たちの正しさは、もしかしたら慧能の正しさではないかもしれませんが、どちらもブッダの正しさであることもあり得ます。これは話し方、タンマの説明の仕方の違いによります。一つのグループは知らない人の心を惹いて、列の後ろについて歩かせますが、もう一つのグループは、知らない人を先頭に出すこともあります。

 みなさんはどちらでも好きな方、つまり他人に鼻先を引っ張ってもらうか、あるいは世話になるために、ちょっと目配せをしてもらうために前を歩くか選び、後者が好きなら、あなたにとって慧能の本は非常に利益があります。

 仏教には中国式もタイ式も、あるいはインド式も西洋式もなく、あるのはブッダ式の仏教だけです。しかし話し方、教え方、あるいは到達させる方法は実に様々で、時代により時により地域によって違いますが、仏教は賢い人のものであることは事実です。

 仏教が老子や孔子等々の香気が立ちこめている中国に入った時、牛を飼って乳を搾ることしか知らない人たちに話すのと同じように話すことはできなかったので、掌と手の甲ほど違うと感じさせるものがあるとしても、本当は、それは同じものです。この点を良く観察して見てください。そうすれば、慧能が撒き散らした沢山の宝石を、確実に探すことができます。

 慧能の言葉を咀嚼して消化する気持ちがあるすべての勇敢な方々に、心からお喜びを申し上げます。これを消化吸収できれば、一瞬で名身を、少なくとも大空、あるいは大海くらいにも成長させることができます。

プッタタート インタパンヨー
スアンモークパラーラーム  チャイヤー
1987年6月4日





法宝壇経の学習についての解説



 この本に関して、初めに知っておかなければならないことが二つあります。一つは、この本は仏教を学んだことのない人が理解できるものではなく、仏教を学び始めたばかりの初心者のための本ではありません。大乗仏教の本を読んだことはなくても、少なくとも自分が学んだ仏教はどんな教えであり、特に、どう実践すれば苦が滅すか、という要旨が掴めるまで、テーラワーダ仏教を十分勉強したことがなければなりません。

 反対にテーラワーダ仏教を厳格に学んで見解や何かに強く執着している人は、もしかしたら「この本は仏教の教えと違う。誤った見解だ」、あるいは「非常に危険な物」と見るかも知れません。これは、考え方と実践方法の系統が違うことに由ります。迂回している幹線道を歩いている人と、抜け道を歩く人のような、あるいは、地遁の術を使って地下を潜り抜け、自分の行きたい場所に現れるようなものです。

 二つ目は、この本に興味を持って読む人は、禅宗、特に慧能という六祖である僧の教えは、最短の方法であるばかりでなく、文字を知らない人でも、いろんな儀式を知らない人でもできる、普通の人の心の自然の教えに依拠した実践でもあると知っておかなければなりません。だから「三蔵の外にある仏教主義』、あるいはそれに類するいろんな名前で呼ばれています。

 本当は、これからこの本を読む方は、今まで掌握してきたいろんな物をすべて忘れてしまうことをお勧めします。そうすれば読んで理解しやすいです。特に三蔵を忘れ、いろんな宗教的儀式を忘れ、自分が執着して来た一面的な考えも忘れ、自分が仏教教団員であることも忘れて、人間の心だけ、どこの国、どんな言葉、何の宗教と限定しないで、どうしたら普通の状態の人間全員が、抑圧や包囲や束縛からすっかり抜け出すことができるか、という問題を解決しようと考える心だけを残します。

 そうすることは、経典の範囲内の仏教と経典の範囲外の仏教、さまざまな儀式に依存する仏教と、自然の自由があり自然の原則に従って歩く仏教、初めに信じさせる仏教と信じる前に試させる仏教、文学である仏教と実用である仏教との違いを明確に知ることに関して、読者にとって非常に利益があります。

 特に、特定の人だけに使える仏教と、文字を知らない人でも誰でも使えて効果のある仏教です。お願いするのは、人間の普通で正常な知性があることだけです。これを知った人は、本当に自然の教えで実践する仏教を受け入れ、多すぎるほど実践して、速やかに満足が生じるところへ直行します。さもなければ、その人は文字をかじる紙魚(シミ)になるか、あるいは、相変わらず哲学的論争をする人のままです。

 初めの部分を読めば、この本は簡単な内容を詰め込んだ本ではない、あるいは簡単に読んで理解できない、と観察して分かります。心が本当に苦から脱出するのは、簡単なことではないからです。しかし理解するまで良くめば、非常に理解は難しいけれども、文字を知らない人でも、それまで三蔵を勉強したことがない人でも理解でき、不可能ではないというのは、実に不思議です。

 そして人間が知るべきこと、知ることができること以外にはなにもありません。すべての項目は人生の課題を指摘し、そして命のメカニズム、特に心の改革を数学の問題、あるいは処理してしまわなければならない問題と見なします。つまり本当に必要なだけです。自分は厳格な仏教教団員だと主張する人々の集団で好んで反論し合う、世界を二分する問題のような無駄な智慧はありません。

 いずれにしてもこの本は、一人の宗祖の教えと歴史を記したタンマのテキストの形ではないので、私たちは、簡便に学習できるように、前もってきちんと整理されたタンマの教えを掴むことはできません。学習者は体験的な話やいろんな出来事の記録、理解が難しい文章から、タンマの教えを選び出さなければなりません。学習者自身で、石の中からダイヤモンドを掘り出さなければなりません。

 この本は大乗の本には違いありませんが、私たちタイ人のほとんどが見たこと、聞いたことがある、あるいは理解している類の大乗ではありません。私たちが普通に聞いたことがあり、見たことがある大乗は、三蔵(大乗では大蔵経と呼ぶ物)とさまざまな儀式に強く関わっていて、そして神聖な物、霊験のある物に流れて行く類です。この本の内容は、それらに関わらず、主として智慧による心の面のタンマの実践、あるいは私たちがヴィパッサナードゥラと呼ぶ物ばかりです。

 そして前述したように最短の道を目指しているので、誰の二番煎じでもない独自の方式です。だから大乗を嫌う理由を挙げたことのある人、そして大乗という名前を聞いただけで首を横に振って軽蔑し、聞く耳を持たないほど執着が強い人は、この本を読むなら覚悟しなければなりません。これは、あなたに今までと正反対の感覚を生じさせ、そして今まで自分が嫌いな点を挙げていたことは、ひど過ぎ愚か過ぎたという、新しい考えが生まれます。

 広い原則で言えば、慧能の教義は、奇妙な力が噴き出す一つの瞬間技です。この教義はどんな教えか、あるいは手法なのかを簡単に説明すると、一般の人は当然真実と違う理解、あるいは見解があるので、「一般の人の考えや理解と正反対のものが正しい考え」という、簡単な説明になります。だから慧能は、実に「裏返す」類の考え方をするよう教えています。

 他の人が「心を清潔にするよう努力しなさい」と言うと、慧能は反対に「人の心は誰でも清潔なのだから、なぜそれ以上洗う必要があるだろう。清潔でない物は心ではないので、関わる必要はない」と言ってしまいます。もっと正確に言うなら、慧能は「心には心である実体が無いのだから、誰のために何を洗ってやるのか。心が心であり、その心が不潔だと見るのは、その人の無明」と見なします。

 考案、あるいはこの教義を考えさせるために設けたタンマの問題は、一般の人を困惑させるものばかりです。普通の人が考えていること、あるいは普通の人が見ていることと正反対の物が見えるようになるために、考えさせる教えだからです。

 カラスに黒があるなら、鷺にも必ず黒があり、あるいは鷺が白く見えるなら、カラスも白くなければなりません。もっと正しく言えば、「鷺は黒く、カラスは白い。輪廻と涅槃は同じもの。最高に冷えているものは、溶鉱炉のカマドの中のもの」。こんな調子です。

 この慧能式の真実が見える人は、そのこと自体、いろんな物が普通の一般人が見ている物と正反対の、深いレベルまで見えている証拠です。だからこの教義の要旨を短くまとめると、まだ煩悩に包まれている人の考えと正反対に見えるようになるまで考える努力をし、そうすれば最高の真実に到達したことと見なします。

 そしてこの教義の手法は、最初から正反対の類の、考えて解かせる謎の形をしていて、答えられた人は通過できたという意味です。あるいは、少なくとも最短で通過できる方法を知ります。普通の動物と正反対に考えれば、自然に聖人の考えに達すので、この宗派は「頓悟宗」と自称します。儀式的なことを何もしないで、この教義で実践する人を一瞬でタンマに到達させるという意味です。

 この本の最後にある、タン モーシエン医師の三篇の説話は、「頓悟宗」の実践方法を、読者に良く理解させます。(本にはこの説話は載っていない)。学習者はそれらのすべての内容から、「頓悟」法は、先生、あるいは本当に能力のある監理者の助けによるところが大きいという、一つの確かな知識を得ます。普通は「正しい点を突く」ことが、すべての成功を越えた頓悟の成功なので、自分が自分の先生にならなければならないなら、みなさん、どうぞ努力して学び、本当にその要点を掴んでください。

 タンマは、私たちの問題以上の物はありません、私たちの問題以上のものはありません。夢中になって教典の話、あるいは神聖な物にして、持ち上げてしまう一方なら、人の能力を超えた話になってしまうので、慧能はタンマを、大乗という意味にふさわしい大衆の利益のために、文盲の人まで含めた普通の人の問題にするよう目指しました。自分は文字(あるいは勉強)を良く知っているから賢いという考えが、常に心に燻っている人は、一人の文盲の人に劣らないよう努力することを望みます。


1953年3月20日
プッタタート インタパンヨー




ご挨拶



ディ ピンセー (中国語から英語への翻訳依頼者)
1930年3月上海にて

 私は禅の話を西洋に伝え広めるために、この経を西洋の言葉に翻訳したいという望みを、長年抱き続けてきました。翻訳者が見つからなかったので、この考えは私の胸の中で三十年間以上衰えることなく、常にせき立てられていました。

 そして去年の春、遂にラム氏に出会い、言いようのない喜びで、この経を英訳するために、我が家へ滞在してもらうようお願いしました。休み休みして、一年半の歳月を費やして翻訳が完了し、私の望みは遂げられました。この千二百年のすべての出来事の中で、最大の喜びをもたらす出来事の一つであることを証明するものになります。

 この素晴らしいタンマを世界の西側に広めるために尽力した時、私は、ヨーロッパやアメリカで禅宗の禅定を目指す人が育ち、その禅定を目指す人たちが「最高の問題」を除去することに敏捷で洞察力があり、東洋人よりはるかに先へ、そして高くまで行くける日を想像しました。西洋のすべての国に最もふさわしい舫い綱を作ることができたと考えると、筆舌に表しがたい満足を感じます。






訳者前書き(英訳)

 これは禅宗(南宗)の六祖の「法車」の大玉座を宣言した経の訳文で、内容は、唐の時代の禅宗の著名な大師である慧能(638年-713年)の説法と様々な語録です。すべての中国の教典の中で、経と見なされ、中国の大蔵に編入されたのがこの経一扁だけというのは、不思議なことと見なければなりません。「経」という言葉は、法を説く場合だけに関して使われるので、「中国人によって説かれた唯一の経」と呼ぶ人がいるように、これは経と呼ぶのにふさわしいものです。

 これは、ウェルギリウスの本を翻訳するのと同じくらいの熟練を要し、訳者はこの仕事にふさわしい能力がないので、非常に重責に感じました。宗教的にも語学的にも知識が不足だったからです。いずれにしても、師は弟子の能力が足りないことに同情しながらも、次のような理由で、繰り返し翻訳するよう説得し、懇願されたので、訳者は本書の英訳を引き受けなければなりませんでした。

(1) 将来仏教書の翻訳家になるための練習になる。それに、この本は、非常に訳す価値がある。

(2) 翻訳すれば、高い能力はあるが自分では訳し終える時間がない人の手によって、完璧に正しく修正してもらう機会もある。

(3) 翻訳した物に誤りがあっても、自分で中国語の原書を読むことはできないが、前世でこの話に精通している人にとっては利益があり、彼は一、ニ項目、あるいは一、ニ語聞くだけで、その人の過去世の記憶、その人が現在思い出すことができない価値ある知識を、すべて思い起こすことができる。

 以上のような考えで翻訳を始め、この本に関わる能力が不十分にもかかわらず、完成させることができました。この本にどれだけの価値があるか知ってもらうために、世界に公開されます。禅宗の知識のない読者にとって、この本の重要部分は変に聞こえる、つまり聞いて意味が分からないのではないかと心配します。そして近いうちにある出来事が起こること、つまりこの翻訳者自身か、あるいは禅宗の達人か誰かによって、完璧な解説本が著され、この深遠な経が、誰でも読んで理解できるものになるよう願っています。

 本書は、ティン フォーボーによる中国語の原書を翻訳しました。訳者が非常にたくさんの説明を受け、お世話になったこの博学な紳士に、そして価値あるアドバイスと惜しみない支援をいただいた他の友人の方々に、訳者は、ここで深い感謝を表明させていただきます。


弟子である翻訳者ウォン ムーラム
上海にて
1929年11月20日




 翻訳者(八章~十章)メモ

 私は法友の願いで、ウォン ムーラム版の「法宝壇経」のターン・プッタタートがやり残された後を、最後まで翻訳しました。出世間智の宝石を印刷(出版)するに当たって、ご挨拶申し上げます。その後友人が、ターン・プッタタートの翻訳した部分と一緒に印刷したいと言ってきた時、私は同意しませんでした。プッタタート師に遠慮を表す他に、文体の違いが、既に良い文章の味を損なうかもしれないからです。

 今、法宝壇経の印刷に関心と熟練のあるチャムナーン ループラスードさんから、ターン・プッタタートも満足なさっていると連絡をいただき、私も、友人の望みが叶うことを嬉しく思い、そして満足しています。

 いずれにしても読者のみなさんに、法宝壇経について私の思いを、少し述べさせていただきます。宝宝壇経のすべての教えは、小乗の三蔵に匹敵します。違いを感じるとすれば、きっと読む人の言葉の解釈の違いから来るもので、一編だけ、タンマを悟るまで勉強すれば、三蔵のすべてを理解することができると信じます。

 反対に表面だけ三蔵を学び終えても、最終的な結果は、歴史と文学以外には何も知らないのも同然です。

 ある時「彼がしたある種の行動は、徳と言うことができるでしょうか」と、私に質問する人がいました。私は「あなたはどの観点の徳について知りたいのですか」と訊き返しました。仏教の見地の徳ならば、『徳を生じさせない徳』を行なうことが徳です。これが、私が読者のみなさんに、後で考えていただきたい、言葉の意味の限界の、一つの見本です。

1963年7月30日
 プラウィッド ラッタナルアンシー



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