優越感・

ブッダ式精神分析(前)

 

 

 犯罪行為や加害、あるいはすべての悪を行う根源を探すために心の面の考察をするには、能力次第でいろんな手法がありますが、私は仏教教団員なので、最高に重要な根源について考察しなければなりません。関心のある人が少ないだけで、それは直接犯罪の根源を解決でき、そして、美しい善を行なうまで、そして解脱、あるいは涅槃のレベル、あるいはローグッタラタム(俗世を脱すための教え。脱世間法)のレベルまで、学習や実践の方針を変えずに、そのまま順に拡大できると信じます。

 いま述べたすべての行動の根源は、すべての生き物にある「私は私」という執着である、本源的な本能の感覚です。「私は私」と掌握する気持ちは、すべての生き物の深い部分にあります。パーリ語でば「アスミマーナ(自尊心。我慢)」と言い、「自分がいる。自分は他の人の中の一人としている。そして自分は際立っている。あるいは他の人のように自分も際立っていなければならない」と執着します。

 次に理解しなければならないのは、「私は私」という執着が必ず支配しているということ、あるいは火と熱を切り離すことができないように、自分は人間の一人として、あるいは一匹の生き物として際立っているという執着が常にあることです。しかしその生き物には、「正しく際立っていることは何か」という知識は必要ありません。その人に必ずアスミマーナがあること、あるいは「私は私」と執着する本能の感覚と、「これが自分が際立っていること」という感覚、「際立った自分でなければならない」という感覚で、「私は私」と執着します。

時には現れた症状を捉えて「アハンカーラ(私という驕り。我慢)」という呼び方をすることがあっても、これは、心理学で「優越感 Superiority 」と呼ばれる根源と見なします。本当は、最高に大きな主体で、すべてのものより偉大だと感じます。あるいは大望・野望でさまざまに進化し分化する命の本体です。

「アスミマーナ(自尊心。我慢)」、あるいは優れている自分という感覚は、悪行や善行の、あるいは罪を犯すことや徳を積むことの最高レベルの原因で、ブッタのタンマ、あるいは涅槃に到達すること、あるいは涅槃とは反対です。だからできるだけみんなで協力して、人類すべての厄介な問題の解決法を探すために、「優越感」について詳しく考察して見なければなりません。

 アスミマーナ(自尊心。我慢)あるいは優越感は、非常に強烈に心を喜ばせ、生き物を執着させる原因であり縁でもあります。そして他人のものを守ることに配慮しないで、「自我の存在」と優越感、あるいはママンカーラ(私のものという驕り。我所慢)を堅固に守ろうと努力をします。そういう行動は他人と衝突します。私たちはそれを、その件で「悪事を行なう」、「罪を犯す」、あるいは「事件を起こす」と言います。しかしその人が、自我を維持することに関して、他人に迷惑をかけない知識と賢さがあれば、自我、あるいはその人の優越を維持することは、その人自身のためにも、善であり、善行や積善の行動になります。

私たちが時々見かけるような、財政的に破綻するまで布施(積善)をする人は、この優越感、別の言い方をすればアハンカーラ(私という慢。我慢)、あるいは場合によってはママンカーラ(我所慢)の威力で、自分のため、あるいは自分の「優越感」のためにします。(しかし社会に厄介な問題を起こすのは避けられません)。善行も悪行も、優越感に背を押しされて生じるので、この二つへの陶酔も強さも同じです。同じ根源、つまり自分の優越感を育てて守る本能から生じるからです。

 正反対、つまり今述べたような感覚を軽くしてしまう、あるいは本性から抜き取って、優越感に執着する本能を根絶させてしまうこと、このようにすることを仏教の言い回しで「アスミマーナッサ ヴィナヨー」と言い、心が優越感を養護する奴隷にならないようにすることなので、『アスミマーナッサ ヴィナヨー エータン パラマン スッカン(アスミマーナから脱出することは、最高の幸福だぞ〜)』とブッダが言われているように、本当の平安、あるいは涅槃に導きます。

ここで言っている最高の幸福とは涅槃のことです。優越感がないことは、善悪より上に、徳や罪より上に、すべての世俗より上にいるので、ローグッタラ(世俗の域を脱すこと。脱世間)、あるいは人をブッダにするタンマと呼びます。反対の優越感があることは直接無明で、涅槃の反対側、あるいはこちら岸と向こう岸です。

 初めに考察しなければならないのは、優越感は、どうして犯罪やすべての悪事の重要な根源なのか、という問題です。「善行を行なう根源である優越感」と、「優越感がないことはすべての善悪の上にいること」という項目は、その後で考察するべきです。優越感がどうして犯罪の根源なのかという詳細な考察では、優越感を明らかに知るため、特に悪と呼ぶものを簡単に理解するために、動物一般の本能として現れる低いレベルの優越感から見ていかなければなりません。

 植物から動物や人まで、ハッキリした身体のある生き物すべてには、優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)があります。違うのは高いか低いかで、低いもの、つまり植物は観察しにくいだけです。ブッダは、比丘が動物を殺すことと植物を殺すことに対して、同じように同じだけ罰を規定しています。しかしこれを根拠に、植物と動物は同じように命があり、アスミマーナ(自尊心。我慢)も同じだけあると主張する必要はありません。私には、物理的に現れる行動や振る舞いから、十分観察する手法があるからです。

 植物にはアスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは自我、あるいは自分が際立っていることを求める願望を、生き抜くための戦いや、生殖のための苦闘、食餌その他を求める苦闘などが表しています。(各種の苦闘である)これらの本能は二次的な本能にすぎず、すべての本能の母、あるいは本当の本能とされるアスミマーナとは違います。

これらの二次的な本能は、アスミマーナ、つまり「私は私」という感覚、あるいは「私はいる」という感覚から生まれるからです。そして「私」への執着は、優越感という感覚です。「私には自分がある」という感覚と自分への執着が同じで分けられないなら、「アスミマーナとは、すべての生き物に『自分はある』と思い上がらせる優越感」と言うことには、十分な正しさがあります。そしてその生き物が際限なく進化する根源です。

 動物のアスミマーナ(自尊心。我慢)も植物のものと同じ状態があります。ただ高度で、量も多くハッキリしているので、大きな結果が現れるだけです。動物は便利に動き回れるので、動物の優越感、あるいは優越感の成長は、植物より顕著です。闘魚に使う魚や闘鶏の鶏など激しく戦う血統の動物は、他の種類の動物より顕著なアスミマーナ(自尊心。我慢)があります。これらの動物は、生殖の感覚がある年齢に達す前から、優越感あるいはアスミマーナを激しく現します。

本当の闘魚の血を引く魚は、ガラス瓶の中で一匹ずつ飼っても、同じ大きさのものを何匹か一緒に飼っても、体がまだ五、六ミリの時から威張ることを知っています。ウー鶏は、羽が生え変わった時から、大きな態度をとり始めます。雀の若者がそんな態度をとることはありません。大きな態度をとるようになった闘魚の若者は、蓋つきのガラス瓶に人間が近づいて見るだけでも、闘うためやメスを護るためというよりは、むしろ場所を守備している優越感を見せます。犬は顔を合わせた途端に威張り合います。

これらはみな、強烈に表れたアスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは優越感の威力です。だから前に仲違いをしたことがなくても、相手が現れただけで、突き飛ばしたり踏みつけたりしたい気持ちが、これらの生き物の心に生じます。アスミマーナがあると、相手が姿を現したことで自分の優越感が傷ついたという感覚を生じさせます。

だから優越感に酔っているヤクザ者は、相手の姿が目に入ったというだけの理由で殺し合いたがります。それ以上の理由は何もありません。これが強烈になったアスミマーナあるいは優越感の結果です。自分に執着する本能、つまりアスミマーナの威力だけで、それ以外に酒など扇動し助長するものを必要としません。

 人のアスミマーナ(自尊心。我慢)も動物と同じですが、援助と妨害両面のいろんな願望が介入しているので、動物より強烈で完璧です。人も動物も、いつでも自分に執着する感覚が、何らかの考えの形であり、環境次第、あるいは受けてきたしつけや教育のレベル次第で、「私は私」あるいは「私には自分がある」という理解は同じだけあります。

しかし私の「身体」は、それぞれ自分のものがあります。それでもみんな「自分」と呼びます。だからどの生き物にもアスミマーナがいっぱいです。「自分」と呼ぶものは、当てにならない実体のないものなのに、

アスミマーナがあれば優越感があります。種の拡大本能は、優越感を拡大したい願望、あるいは代理を作って一緒に優越感を広く表出したい願望にすぎません。生殖に関した欲情も、周囲に喜ばされて、優越感の身勝手な威厳を誇示したいだけです。(しかし何らかの苦労をしなければならないことで罰を受けます)。

子供を愛し養育することは、優越拡大願望によってしたがるので、苦労しても優越を損なうとは感じません。以上の理由で、食べ物を求める本能は、自分を養うこと、あるいは他者を食べることで自分の優越を、他人や他者に見せることです。食べられる他者のことを考えない優越感の身勝手だからです。

闘争や危険を避け、身を護る本能は、優越感が身を守ることです。もし「自分の優越は他人に係っている」と見た場合には、その闘いで、他人を生かすために命を犠牲にすることもできます。だからすべての闘いは、優越を自慢したい願望と見なします。少なくても優越感を護るためです。攻撃本能が機会を掴むと、欲情に関わる生殖本能と意味が同じになります。つまり喜ばされたいための、自分勝手な威力の拡大です。

 犯罪のすべてが欲情のためではありません。強い威力の本能のためであり、アスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは優越感の属性です。だから刑事事件、つまり犯罪はいとも簡単に起きます。だからこそすべての生き物の本性は、視線の中に現れただけのライバルを嫌います。そして顔を見たというだけの理由で、ライバルに対して妬みが生まれます。生殖相手になった途端に、相手が競う態度を見せれば、その相手を憎むこともあります。すべては、それぞれの生き物にあるアスミマーナ、あるいは優越感の威力によります。

 「友情」と呼ぶものは、お互いに優越感を育て合えると感じている間だけ存在します。どちらかが、これと違う症状を見せれば、途端にもう一方の友情は消滅します。しかし一方が低姿勢で、普通以上に、あるいは相手以上に相手の優越感を育てる人になれば、もう一方の友情は倍増し、愛になり、可愛く感じます。

一方の犬が伏せて近づけば、それが流れ者の犬でも、相手の犬は可愛く思い、あるいは子分として受け入れます。小さな犬や勇敢なメスがボス犬と鼻と接すのは、それらにも同じように優越感があることを、ボス犬が認めているからです。この原則は、人も動物も同じと見ることができます。しかし人には礼儀があるので、動物より完璧です。

 優越感の普通のレベルは、どの人や動物でも、常時、私には私の「自分」があるという感覚が萎んでいないで完全な形ならば、百パーセントの優越感があると言います。その生き物の感覚を標準にして、これを普通のレベルと見なします。そこにライバルが姿を現すと、本能の感覚で、その動物の優越感は影響を受けた、あるいはライバルとして肩を並べる人がいることで、普通のレベルより低くなってしまったと感じます。そこで戦って守る、あるいは自分の優越感を最大に高める考えが生まれます。

更に自分が敗者の側ならば、愕然とするほど優越感は消え、ほとんど残っていないので寒く、あるいは劣等感を感じます。しかし本当には、劣等感はありません。世界に冷たさは無く、あるのはいろんなレベルの熱だけのように、あるのは低いレベルに落ちた優越感だけです。私たちは、氷が張る寒さ、つまり摂氏零度でも華氏三十二度も熱があり、北極の動物にとってはまだ快適な温度であることを知っています。まったく熱がなければ、世界に生き物は存在できません。劣等感と呼ぶものも同じです。本当は一定レベルの優越感にすぎません。

なぜなら、小動物の子供をたくさん一緒に飼うと見られるように、まだ何段階も下の動物を脅すことができるからです。だから劣等感や寒さは、その生き物の感覚による勝手な理解から生じたマヤカシです。犯罪や、宗教の教えから見た悪事が少なからずあるのは、自分の優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の減少を補う以上の意味はありません。

 生き物の優越感を百パーセント以上に増やしたり、あるいは百以下に減少させたりするものも当然あります。それは自然のものもあり、人が作り出したものもあり、物質もあり、心の面のものもあり、自分の内面に生じるものもあり、自分の外部の環境に由来するものもあり、偶然にあるものも、誰かの意図によるものもあります。それらは気候、住宅、生活用品、医薬品、酒類、思考、そして考えを促すもの、病気、富み、幸福、敵、家庭内の問題、社会の問題などです。

 特に関心を持たなければならない重要点は、ある生き物の優越感が、何かの影響で減少したと感じれば、何らかの威力で補填するもの、あるいは埋め合わをするものをたくさん探さなければならない、という不変である自然の法則にあります。しかし、強烈な本能の威力になると、大小の犯罪が発生します。「失恋をした」と言われる若者は、彼らが愛した女性に優越感を潰され、その女性の心に勝つ術が本当になければ、優越感を維持する別の方法を探します。

その人は、すぐに優越感を取り戻せるものを掴まなければなりません。そして自分で気づかないうちにそうすることができます。例えば酒などを道具にします。だからその人は、自分にとって意味も無く酒を飲みます。しかし本当は、急落した優越感を復旧したい本能の強い欲求です。だからこれらの人はいつにもなく、そして本能以外には意味がない酒類を飲むのを見ます。

もう一方は、酒で優越感を取り戻す代わりに、その人の優越感を激減させた根源である女性の命を奪うことで、彼の優越感の激減を隠蔽します。その人はどんな法律も、威力も恐れないからです。だから私たちは、まるで蚊を殺すように簡単に人を殺すのを見ます。本性の中に、今述べたような優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)が無ければ、このような粗いレベルだけでも、『最高に幸福だよ〜』となります。本当かどうか、自身で見えます。

もっと特別なのは、優越感を埋め合わせる、あるいは隠蔽する本能には、どんなことをしても手に入れなければならないほど、猛烈な威力があることです。直接手に入らなければ、その動物に関わりがなくても、あるいは何の非が無くても、もっと小さな動物を代償にします。そしてこれも同じように犯罪を起こす原因です。だから私たちは、誰にとっても意味のない凶悪犯罪を見ます。時にはあり得ないようなことも起こります。

何かの威力である動物の優越感が減らさられている時に、もう一匹の動物がただ目の前に現れたというだけで、ただ現れただけの動物が殺されることがあります。顔を叩かれることも、それ以上のこともあります。その人が他人に隠しておきたい部分や病気を、偶然見られたというだけの理由で、事件になってしまうこともあります。その動物の「優越感の減少を隠したい本能」を、私たちは「恥」と言います。そしてすべての犯罪の原因となるに十分威力のある本能です。

法の正義を守る人は、他の原因と同じように心に留めておくべきです。小さな犬は、他の犬との闘いに負けた犬が恥をごまかすための犠牲になることもあります。犬でさえ恥をごまかすことを知っているのに、どうして人がそうしないことがあるでしょう。これも犯罪の根源です。そして本能で恥をごまかすことはあります。それは、その生き物の優越感の減少を元どおりに戻すことです。要するに、それが優越感、あるいはブッダが『取り出してしまえれば、幸福だよ〜』と言ったアスミマーナ(自尊心。我慢)の毒です。

すべての「酔う物」は、優越感を刺激するもの、増進させるものです。。別の言い方をすれば、「酔うこと」は、優越感を高める一つの方法です。通常酔う物は、自然に高揚させる性質があります。後で元のレベルより低くなっても、初めは酔っている喜びを味わう人の心を満足させるくらい、優越感を高くします。それは、その人、あるいはその生き物の優越が「高い」と感じます。

それに幾らでもない値段で簡単に手に入るので、タバコや酒類からアヘンまで、人は自分の優越感を増進させる酔う物で遊びます。これらの酔う物が優越感が高くなったと感じさせなければ、世界の誰も、麻薬や覚醒剤を使う人はいません。あるいは麻薬や覚醒剤の類は生まれません。要旨を言えば、これらの酔う物は、いろんな方法で優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)を刺激するものです。

物質である酔う物は、神経系統を通じて、「私は偉大になった」という心の感覚を生じさせるよう刺激します。そして抽象である「陶酔」の喜びや満足、例えば賞賛、名誉、名声なども同じように刺激されます。症状は違っても、同じような結果が生じるので、政治家が名声を買うために何でも投資し、冒険家が命を賭けて名声を集めるように、人は敢えて投資して買い求めます。これがどこにでもある酔う物の威力です。

酒はどこにでもあり値段も高くないので、少なからぬ魅力のある喜び(あるいは優越感の高まり)の味のために、簡単に飲むことができます。純粋な方法で簡単に優越感を高める術がない人は、酒などの酔う物を求め、自分の優越感を下支えして遊び、その結果「酒呑み」になります。本当は、純粋で正当に優越感を高めるものは、たくさんあります。しかしどれも難しいか、あるいは手に入れるまでに時間がかかるので、教育や道徳のない若者の性急な心に間に合わないので、お金ですぐに優越感を高められる酒の誘惑に耐え切れません。

だから私たちは、酒を飲む人がどんどん増えているのを見ることができます。特に田舎では、農家の女性にまで蔓延しています。酔う物自体に魅力があり、つまり述べたような優越感を刺激するので、他人より偉くなれます。そして天人(上流の人というほどの意味)まで酒を飲みます。しかし優越感の陶酔、あるいは一種の狂気は、様々な犯罪の原因になります。

その陶酔が酒などの物質によるものでも、賞賛などの抽象によるものでも、自分を抑制できない人は、これらのものに刺激されればいつでも、犯罪を起こす機会になります。優越感を高くするには、汚れた方法と清潔な方法があり、汚れた方法なら悪行と言い、清潔な方法なら善行と言います。

中毒は、高められている優越感の味に慣れた結果です。その人が普段、何で優越感を高めているかによって、純潔で公正なものを使えば、善行で高められた優越感の味の中毒です。しかし善で高められていない場合は、かならず酒などの悪で高められている優越感の味の中毒です。どこでも簡単に手に入るので、非常に多いです。特にその国の政府が、酒類の生産量を増やす方針なら、酒類はますます手近なものになります。

高められた優越感の中毒は、悪に依存する非常に強い本能の欲求の一つなので、至る所に溢れています。それ自体が犯罪を増やすので、善い伝統習慣の堤防でも防ぐことはできません。あるいは決壊してしまいます。この種の習慣や中毒状態は避けられず、確実に生じます。酔う物は最初は高揚させますが、その後落ち込ませるので、気分が悪く感じる結果、絶えず足し続けていくうちに、習慣や中毒になるからです。

タバコでも何でも、中毒になっている人は当然これを良く知っています。酔う物には魅力とカラクリがあるので、世界中の人の心を掴んで、何らかのもの、あるいはいろんなもので酔わすことができます。善い面の酔うものについては、後で判断します。しかし「酔い」は、本能の欲求であり、何らかの物で高められた優越感の味だということを忘れてはいけません。善い物がなければ、必ず悪を、あるいは手近なものを掴みます。そして何かが本能の要求の流れを妨害すれば、いつでも簡単に犯罪の根源になります。これが優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の毒です。

極めて小さな子供でも、優越感を顕著に現します。そして自分の優越感を見せたい、あるいは支持されたい強い欲求があり、支持されれば、支持された優越感の味に酔います。子供は、すごく空腹でなければ、食べ物のことを考えるよりは、褒められる優越感に夢中になっています。あるいは食事をしている時に優越感を抑え込まれると、途端に食べるのを止めてしまいます。

分け前が平等でない時は、自分が欲しい物でも、死ぬほど食べたい物でも、自分が貰った分け前をすぐに投げ捨ててしまいます。これも、子供でも、いつでも犯罪を起こす原因です。大人については言うまでもありません。極めて幼い子供の優越感も、所有者になりたい、侵犯したい、自分でしたい、能力を自慢したい、他人に教えたい、誰にも教わらずに自分で正しくできると言われたい気持ちを表しています。

虫を掴める子供は、猿のようにその虫を殺せます。これは自分の優越を望む本能です。何かを殺すことができれば、酔う物で高められたのと同じように、高くなった自分の優越感の味があります。動物の本能はこういう状態があります。人間が求める「道徳があること」と正反対です。だから私たちは、生まれた時からしつけをすす体系がなければなりません。自然のままにしたらどうなるか、推測することができます。

子供は大きくなればなるほど、誰かに叱られるのを嫌い、文句を言われるのを嫌がります。子供たちの多くは、先生に叱られ、あるいは罰を与えられた時、内心で先生を罵り呪っています。担任の先生に怒られる度に、先生を困らせる、あるいは攻撃する「裏技」を使う子供も少なくありません。特に、人々がしつけをしない田舎では、親まで罰を受けた子どもの主張を支持します。田舎の子供のほとんどは、先生に質問されると、あっという間に座ってしまって、答えようとしません。なぜなら質問されることは優越感が減ると感じ、答えれば、もっと減ると感じるからです。

 沙弥として出家するくらい大きくなっても、今言った状態が目いっぱいあるので、しつけに苦労します。強く強制すると、そこで犯罪を起こす人までいます。学校へ行ったことがない子供、あるいは一回しか行ったことがない類の子供には、そういう状態がよく見られます。その結果、一回の出家で、何も利益はありません。

この種の子供は、先生があの手この手で質問させようとしても、自分で分からないことを先生に質問しようとしません。質問することで自分が劣位になると感じるからです。他にも、友達や先生から知識を得たいと思っても、面と向かって態度で示すのを嫌い、頼みたがらない沙弥も少なくありません。自分が持ち上げる人になること、あるいは借りを作ることで自分の優越感が減少するからです。

思いきってこっそり「タダで」聞くことができません。少しずつ集めなくてはならなくても、自分が何も知らないことが露見してしまうよりマシだからです。その上、自分で考えた、あるいは自分で知ったという余地を残すために、誰から聞いたかを秘密にしたがります。私たちはこれらの心情を間違って、「先生に対して恥ずかしがる」と言います。しかし本当は「強情」です。

すべては優越感、あるいは「私は私」という気持ちの本能、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の欲求です。正しくない方法、あるいは時と場所にふさわしくない方法で抑圧されると、いつでもお寺や学校で犯罪が起きます。こう述べるのは、優越感は生まれた時から根を張り、どんな症状で、いつでもすべての犯罪の原因になる準備が整っているか、優越感の毒について特に観察していただきたいからです。

 若い男女、あるいは青年期に達した動物は、周囲から喜ばされたい優越感の要求が、非常に強烈になります。オスは、すべての面で自分の欲求どおりに優越感を育ててくれるメスを求めます。メスにも同じ欲求があるので、自然が強いる義務を行なうために妥協します。この種の優越感の欲求を、欲情と言います。

だから正しい欲情は、妥協してお互いの優越感を認め合い、尊重し、そしてお互いに育ててやることです。もし一方の優越感が減少するほど強制されて行なわれれば、強制された側には欲情はありません。だから「本当の欲情」とは、最高度に自分の思い通りに高められた優越感で、皮膚の接触の味だけではありません。もし一方が傲慢で威張って、もう一方の優越感を潰してしまえば、接触だけで欲情は生じません。どんなに特別の味があっても、愛は粉々になってしまいます。

どちらか一方の、あるいは双方の優越感が傷つけば決別し、双方の優越感が高い状態に育てられれば、愛は持続します。愛の奴隷になるには、愛する人の優越感を育てることを受容しなければならない意味があります。優越感が踏みつけられれば、比べるものがないくらい愛していても、その後突然ケンカ別れすることもあります。一般に欲情と呼ぶものは、優越感を維持したい優越感の要求の威力下にあります。優越感、あるいは「アハンカーラ(私という驕り。我慢)」が欲情の威力下にあるのではありません。

だから真実と一致するように言えば、本当の欲情とは、周囲から思いのままに最高に喜ばされたい優越感が、自分の威厳を見せつけること、と言わなければなりません。青少年の体が性的に成熟するのは、直接この面の優越の偉大さを見せることと理解されるべきです。その方が、欲情の味のためと理解するよりは正しいです。特に優越感の減少は、当然いつでも、突然欲情を萎ませます。

だから欲情面の妨害は、優越を表明する優越感の妨害です。そして場合によっては、犯罪を起こす強い威力があります。だから優越感が真犯人、あるいは犯罪の根源です。欲情に関わる事件でも、欲情の味だけが根源ではありません。欲情を正しく理解すれば、人が優越感の優越を見せつけたい欲求を引き寄せて関わらないうちは、まだ重要でない、あるいはまったく意味がないと見ることができます。

現代の心理学者のある派は、すべての動物の行動は欲情に起因している、あるいは欲情が深層の原因であると規定しています。私はこの項目を、一般論としては概ね真実であると見ますが、梵天など、欲情の威力は越えたけれど、まだアハンカーラ(私という驕り。我慢)、ママンカーラ(私のという驕り。我所慢)が残っている種類の生き物には通用しません。

この種の生き物は、自分の優越感が、欲情の物質によって喜ばされることで優越を見せる身分から脱していますが、もっと高い優越を求める(アハンカーラ、ママンカーラが)残っています。だからこれらの生き物は、普通の人間や普通の天人よりも高い生き物と見なされます。

 家長や主婦になるまで(舅や姑になるまでという意味)一緒に暮らせるのは、欲情の力でではありません。一緒に居られのは、双方の優越感が相手から支援を受けているからです。妻が夫を奴隷のようにいじめている場合でも、夫が堪えられるのは欲情のためではありません。夫の優越感は、この面では減少していますが、例えば社交面など、必ずどこかに特別なはけ口があります。意地悪な妻は、きっと全面を塞いではいません。子供や家の名を護るために我慢して堪えることも、直接自分の責務であり、この部分の優越感を高めて維持することで一緒に暮らすことができます。

もし妻が本当に全面を塞いでしまえれば、夫は必ず別れます。そうでなければ必ず死にます。家族の中で、優越感やアスミマーナ(自尊心。我慢)が絶滅した阿羅漢でいることはできません。なぜなら十分太った優越感、あるいはアスミマーナは、本当の凡人の生活だからです。家庭内の仲たがいは、どちらか一方が過剰な優越感を要求したからかもしれないし、自分の優越感を護るためかもしれません。

まったく喧嘩をしない家族は、全員が自分の優越感を管理することを知っています。欲情などの見返りを考えてではありません。欲情は優越感の際限ない拡大願望なので、家族の秩序の安定を護るために使うことはできません。これも、家庭内で事件が起こる原因も欲情だけではなく、優越感、あるいはアスミマーナ、あるいはアハンカーラ(慢)であることを説明して見せています。

 雇用者と被雇用者の関係では、通常被雇用者は、雇われた時から、自分の優越の高さが損なわれていると感じます。それを心の奥に仕舞い込み、給料を貰って他の時間に自分の優越感を養うために、我慢して働きます。どんな面でも、被雇用者が自分の優越感を見せられる機会を、雇用者が作ってやることができれば、給料で働かせるより、はるかに巧く働かせることができます。素直になり、雇用者を好きにさせます。従業員の優越感を抑えつける給料と反対に、その人の優越感を高くするからです。特別な褒美を与えるとか、あるいは給料を上げることなどは優越感を上げる部類に入ります。

人々が知足の(質素な)暮らしをしている田舎では、人を雇うのは大変ですが、仕事を頼んだり手伝って貰うのは簡単です。私は自分自身で、今現在までこの問題を経験しています。頼みごとは相手に優越感を与え、雇うのは相手の優越感を下げるからです。雇うことは相手の優越感を下げるので、雇われた人がいつ怒りを抱くか分かりません。雇用者の面前で事件を起こす原因である抑えつけられた優越感が、資本として心にあるからです。

純粋な心で働く労働者は、対等に扱うことや、一緒に食べたり喋ったりするなど、雇用者がいつでも一定して働く人の優越感を尊重する時にしかいません。賃金だけでは、雇った人を能力いっぱい働かせることはできません。彼らはあらゆる方法でズルしようとします。責任を持たせること、研究や試験、実験を担当させるなどは、賃金の価値が無くなってしまうほど使われている人の優越感を高めるので、雇われている人は給料以上に、時間以上に、何もかもそれ以上に働きます。

だから雇用者は、何らかの面で、雇われている人が優越感を見せられる方法を考えなければなりません。そうすれば平穏無事です。でなければ雇用者は、被雇用者がいつ犯罪を起こすかも知れない危険に曝されているようなものです。犯罪を生む優越感の減少が、いつも被雇用者の心中に原動力としてあるからです。

 奴隷(年季奉公をする人など)と受刑者はまた別です。奴隷は「自分の優越感を主人に譲り渡してしまった人」でなければなりません。主人の優越感を増やすために自分の優越感を減らすことを受容しています。自分はあるレベルまで落ちた優越感で満足し、それを自分の普通のレベルと捉えます。

受刑者や罪があって囚われている人のほとんどは、通常、将来優越感が復活することを期待しています。機会がある毎に取り戻したいと考えている点が奴隷と違います。釈放されないことで、いつその人に怒りが生じるか分かりません。たえず受刑者の優越感を抑圧する類の刑務局の規則には、受刑者の習性を善人にする道はありません。本能、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の欲求に逆らうので、益々残虐にするばかりです。

 近所づきあいも、夫婦と同様の形で上手くやって行くことができます。つまりお互いに優越感を育て合います。違うのは育てるレベルだけです。どこかの家が、何であれ特に際立っている物が生じたら、近所の人の際立っている点を引き立てなければなりません。少なくとも、「他の村と競う時、自分はこの村の誇りだ。そして自分は村の人を見下して見捨てない」と思わせなければなりません。

さもないと、たくさんの家の優越感が低められたことによる妬みが原因で、犯罪が生じる余地があります。妬みは、優れている家の優れていることを平常レベルに落とすだけでは満足せず、滅亡させたいところまで行ってしまいます。

隣近所の状態は、銘々が競い合い奪い合って発展している街には見られません。自然が競争し合う機会を与えない、これからもまだ助け合わなければならない田舎にしか残っていません。一人一人が村の優越を護ろうと考えれば、村、あるいは全体の優越を維持する本能の威力によって、それだけ広く犯罪が起こる原因になります。

近所の家との、このような恩義による交流は、助け合わなければならないことで、お互いの優越感を増やし合います。まだ優越感の身勝手が根底にあり、肉親、あるいはお互いに本当に恩がある人の感覚ではないので、突然簡単に怒りを生じさせることもあります。これは誰でも注意しなければなりません。近所間の愛は慈悲ではないので、本当の慈悲のように、怒りやその類のものを抑制する力はありません。犯罪を防止するためには、私たちは恩の重要性に注目し注意しなければなりません。相手に過剰に遠慮させて要求を主張してはいけません。

例えば親子のような純粋な恩による交際は、恩に感じ報いること、あるいは純粋な慈悲です。この方が相手の優越感を非常に抑制することができます。しかしいずれにしても、純粋な恩、あるいは純粋な慈悲の範囲でも、まだ優越感がある相手は、完全に制圧、あるいは管理できないと留意しておく必要があります。少ないだけで、まだ犯罪の原因になり得ます。なぜなら相手に恩や借りがあると自覚することは優越感の減少であり、反対に相手に恩の貸しがあると自覚することは優越感を膨らませるからです。

この本能は、当然借りのある側の人に、低められた優越感を高める何らかの行動を探させます。善い方法がなければ悪い方法になり、善い方法は徳や善で、これについては後で述べます。悪い方法は、目上の人の恩を「恩知らず」と呼ばれる行動で隠してしまいます。しかしほとんどは中間レベルになります。

つまり「豚が行けば鶏が来る」と言われるように、他人から「人より得をしようと考えてばかりいる」と決めつけられない程度に恩返しをします。「豚が行けば鶏が来る」と言われる状況がじるのは、自分の優越感を守る手段の威力が大きいので、まだ本当のタンマではありません。志願して恩の借りを作り、そして抵抗できないのは、相手の優越感を道具にして自分の優越感を高めたいからです。このような場合には、本当に自分は何もできないので、高い優越感を求めるために少ない優越感を投します。

私たちはそれを、仏教教団員がブッダに対する、あるいは他の宗教徒がその人の神様に対するような、「忠誠」と言います。彼らは「弟子であること、あるいは神様と一体になることが、今あるすべての優越」と信じる「優越」です。このようにひれ伏すことは、自分の優越感の探求や維持から脱す以外の何物でもないと、見ることができます。

 


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