優越感
ブッダ式精神分析






1950年8月

 犯罪行為や加害、あるいはすべての悪を行う根源を探すために心の面の考察をするには、能力次第でいろんな手法がありますが、私は仏教教団員なので、最高に重要な根源について考察しなければなりません。

 関心のある人が少ないだけで、直接犯罪の根源を解決でき、そして、美しい善を行なうまで、そして解脱、あるいは涅槃のレベル、あるいはロークッタラタム(脱世間法)のレベルまで、学習や実践の方針を変えずに、そのまま順に拡大できると信じます。

 述べたすべての行動の根源は、すべての動物にある「私は私」という執着である、本源的な本能の感覚です。「私は私」と掌握する気持ちは、すべての動物の深い部分にあります。パーリ語で言えば「アスミマーナ(自尊心。我慢)」と言い、「自分がいる。自分は他の人の中の一人としている。そして自分は際立っている。あるいは他の人のように自分も際立っていなければならない」という執着です。

 次に理解しなければならないのは、「私は私」という執着が必ず支配しているということ、あるいは火と熱を切り離すことができないように、自分は人間の一人として、あるいは一匹の動物として際立っているという執着が常にあることです。

 しかしその動物には「正しく際立っていることは何か」という知識は必要ありません。その人に必ずアスミマーナがあること、あるいは「私は私」と執着する本能の感覚と、「自分が際立っている」という感覚、「際立った自分でなければならない」という感覚で、「私は私」と執着します。

 時には現れた症状を捉えて「アハンカーラ(私という驕り。我慢)」という呼び方をすることがあっても、これは心理学で「優越感 Superiority 」と呼ばれる根源と見なします。本当は最高に大きな主体で、すべての物より偉大と感じます。あるいは大望・野望によって様々に進化し、分化する命の本体です。

 「アスミマーナ(自尊心。我慢)」、あるいは「優れている自分」という感覚は、悪行や善行の、あるいは罪を犯すことや徳を積むことの最高レベルの原因で、ブッタのタンマ、あるいは涅槃に到達すること、あるいは涅槃と反対です。だからできるだけみんなで協力して、人類すべての厄介な問題の解決法を探すために、「優越感」について詳しく考察して見なければなりません。

 アスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは優越感は、非常に強烈に心を喜ばせ、動物を執着させる原因であり、縁でもあります。そして他人の物を護ることに配慮しないで、「自我の存在」と優越感、あるいはママンカーラ(私の物という驕り。我所慢)を堅固に守ろうと努力をします。そういう行動は他人と衝突します。

 私たちはそれを、その件で「悪事を行なう」「罪を犯す」、あるいは「事件を起こす」と言います。しかしその人が、自我を維持することに関して、他人に迷惑を掛けない知識と賢さがあれば、自我、あるいはその人の優越感を維持することは、その人自身のためにも善であり、善行や積善の行動になります。

 私たちが時々見かけるような、財政的に破綻するまで布施(積善)をする人は、この優越感、別の言い方をすればアハンカーラ(私という慢。我慢)、あるいは場合によってはママンカーラ(我所慢)の威力で、自分のため、あるいは自分の「優越感」のためにします。(しかし社会に厄介な問題を起こすのは避けられません)。

 善行も悪行も、優越感に背を押しされて生じるので、この二つへの陶酔も強さも同じです。同じ根源、つまり自分の優越感を育てて守る本能から生じるからです。

 正反対、つまり今述べたような感覚を軽くしてしまう、あるいは本性から抜き取って、優越感に執着する本能を根絶させてしまうこと、このようにすることを仏教の言い回しで「アスミマーナッサ ヴィナヨー」と言い、心が優越感を養護する奴隷にならないようにすることです。だから『アスミマーナッサ ヴィナヨー エータン パラマン スッカン(アスミマーナから脱出することは、最高の幸福だぞ~)』とブッダが言われているように、本当の平安、あるいは涅槃に導きます。

 ここで言う最高の幸福とは、涅槃のことです。優越感がないことは、善悪より上、徳や罪より上、すべての世界より上にいるので、ローグッタラ(脱世間)、あるいは人をブッダにするタンマと呼びます。反対に優越感があることは直接無明です。だから涅槃の反対側、あるいはこちら岸と向こう岸です。

 初めに考察しなければならないのは、優越感はどうして犯罪や、すべての悪事の重要な根源なのか、という問題です。「善行を行なう根源である優越感」と、「優越感がないことはすべての善悪の上にいること」という項目は、その後で考察するべきです。

 優越感がどうして犯罪の根源かという詳細な考察では、優越感を明らかに知るため、特に悪と呼ぶものを簡単に理解するために、動物一般の本能として現れる低いレベルの優越感から見ていかなければなりません。

 植物から動物や人まで、ハッキリした身体のある生き物すべてに、優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)があります。違うのは高いか低いかで、低い物である植物は観察しにくいだけです。ブッダは、比丘が動物を殺すことと植物を殺すことに、同じように同じだけ罰を規定しています。

 しかしこれを根拠に、植物と動物は同じように命があり、アスミマーナ(自尊心。我慢)も同じだけあると主張する必要はありません。私には、物理的に現れる行動や振る舞いから、十分観察する手法があるからです。

 植物にはアスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは自我、あるいは自分が際立っていることを求める願望を、生き抜くための戦いや、生殖のための苦闘、食餌その他を求める苦闘などが表しています。(各種の苦闘である)これらの本能は二次的な本能にすぎず、すべての本能の母、あるいは本当の本能とされるアスミマーナとは違います。

 これらの二次的な本能は、アスミマーナである「私は私」という感覚、あるいは「私はいる」という感覚から生まれるからです。そして「私」への執着は、優越感という感覚です。「私には自分がある」という感覚と自分への執着が同じで分けられないなら、「アスミマーナとは、すべての生き物に『自分はある』と思い上がらせる優越感」と言うことに、十分な正しさがあります。そしてその生き物が際限なく進化する根源です。

 動物のアスミマーナ(自尊心。我慢)も植物のものと同じ状態があります。ただ高度で、量も多くハッキリしているので、大きな結果が現れるだけです。動物は便利に動き回れるので、動物の優越感、あるいは優越感の発達は植物より顕著です。闘魚に使う魚や、闘鶏の鶏など激しく戦う血統の動物は、他の種類の動物より顕著なアスミマーナ(自尊心。我慢)があります。これらの動物は、生殖の感覚がある年齢に達す前から、優越感、あるいはアスミマーナを強烈に表します。

 本当の闘魚の血を引く魚は、ガラス瓶の中で一匹ずつ飼っても、同じ大きさの物を何匹か一緒に飼っても、体がまだ五、六ミリの時から威張ることを知っています。ウー鶏は、羽が生え替わった時から、大きな態度を取り始めます。雀の若者がそんな態度を取ることはありません。

 大きな態度をとるようになった闘魚の若者は、蓋つきのガラス瓶に人間が近づいて見るだけでも、闘うためやメスを護るためというよりは、むしろ場所を守備している優越感を見せます。犬は顔を合わせた途端に威張り合います。

 これらはみな、強烈に表れたアスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは優越感の威力です。だから前に仲違いをしたことがなくても、相手が現れただけで、突き飛ばしたり踏みつけたりしたい気持ちが、これらの生き物の心に生じます。アスミマーナがあると、相手が姿を現したことで、自分の優越感が傷ついたという感覚を生じさせます。

 だから優越感に酔っているヤクザ者は、相手の姿が目に入ったというだけの理由で殺し合いたがります。それ以上の理由は何もありません。これが強烈になったアスミマーナ、あるいは優越感の結果です。自分に執着する本能であるアスミマーナの威力だけで、それ以外に酒など扇動し助長する物を必要としません。

 人のアスミマーナ(自尊心。我慢)も動物と同じですが、援助と妨害、両面のいろんな願望が介入しているので、動物より強烈で完璧です。人も動物も、いつでも自分に執着する感覚が何らかの考えの形であり、環境次第、あるいは受けてきたしつけや教育次第で、「私は私」あるいは「私には自分がある」という理解は同じだけあります。

 しかし私の「身体」は、それぞれ自分の物があります。それでもみんな「自分」と呼びます。だからどの生き物にもアスミマーナがいっぱいです。「自分」と呼ぶものは、当てにならない実体のないものなのに、

 アスミマーナがあれば優越感があります。種の拡大本能は、優越感を拡大したい願望、あるいは代理を作って一緒に優越感を広く表出したい願望にすぎません。生殖に関した欲情も、周囲に喜ばされて、優越感の身勝手な威厳を誇示したいだけです。(しかし何らかの苦労をしなければならないことで罰を受けます)。

 子供を愛し養育することは、優越拡大願望でするので、苦労しても、優越を損なうとは感じません。以上の理由で、食べ物を求める本能は、自分を養うこと、あるいは他者を食べることで自分の優越を、他人や他者に見せることです。食べられる他者のことを考えない優越感の身勝手だからです。

 闘争や危険を避け、身を護る本能は、優越感が自身を守ります。「自分の優越は他人に係っている」と見た場合には、その闘いで、他人を生かすために命を犠牲にすることもできます。だからすべての闘いは、優越を自慢したい願望と見なします。少なくても優越感を護るためです。攻撃本能が好機を掴むと、欲情に関わる生殖本能と同じ意味になります。つまり喜ばされたいための自分勝手な威力の拡大です。

 犯罪のすべてが欲情のためではありませんが、強い威力の本能のため、アスミマーナ(自尊心。我慢)、あるいは優越感の特徴です。だから刑事事件である犯罪は、いとも簡単に起きます。だからこそすべての動物の本性は、視線の中に現れただけのライバルを嫌います。

 そして顔を見たというだけの理由で、ライバルに対して妬みが生まれます。生殖相手になった途端に、相手が競う態度を見せれば、その相手を憎むこともあります。すべては、それぞれの動物にあるアスミマーナ、あるいは優越感の威力によります。

 「友情」と呼ぶものは、お互いに優越感を育て合えると感じている間だけ存在します。どちらかがこれと違う症状を見せれば、途端にもう一方の友情は消滅します。しかし一方が低姿勢で、普通以上に、あるいは相手以上に相手の優越感を育てる人になれば、もう一方の友情は倍増し、愛になり、可愛く感じます。

 一方の犬が伏せて近づけば、それが流れ者の犬でも、相手の犬は可愛く思い、あるいは子分として受け入れます。小さな犬や勇敢なメスがボス犬と鼻と接すのは、それらにも同じように優越感があることを、ボス犬が認めているからです。この原則は、人も動物も同じと見ることができます。しかし人には礼儀があるので、動物より完璧です。


 優越感の普通のレベルは、どの人や動物でも、常時、私には私の「自分」があるという感覚が萎んでいないで完全な形なら、百パーセントの優越感があると言います。その動物の感覚を標準にして、これを普通のレベルと見なします。そこにライバルが姿を現すと、本能の感覚で、その動物の優越感は影響を受けた、あるいはライバルとして肩を並べる人がいることで、普通のレベルより低くなってしまったと感じます。そこで戦って守る、あるいは自分の優越感を最大に高める考えが生まれます。

 更に自分が敗者の側なら、愕然とするほど優越感は消え、ほとんど残っていないので寒く、あるいは劣等感を感じます。しかし本当には、劣等感はありません。世界に冷たさは無く、あるのはいろんなレベルの熱だけのように、あるのは低いレベルに落ちた優越感だけです。

 私たちは、氷が張る寒さ、つまり摂氏零度でも華氏三十二度も熱があり、北極の動物にとってはまだ快適な温度であることを知っています。まったく熱がなければ、世界に生物は存在できません。劣等感と呼ぶものも同じです。本当は一定レベルの優越感にすぎません。

 小動物の子供をたくさん一緒に飼うと見られるように、まだ何段階も下の動物を脅すことができるからです。だから劣等感や寒さは、その動物の感覚による勝手な理解から生じたマヤカシです。犯罪や、宗教の教えから見た悪事が少なからずあるのは、自分の優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の減少を補う以上の意味はありません。

 動物の優越感を百パーセント以上に増やしたり、あるいは百以下に減少させたりする物も当然あります。自然の物もあり、人が作り出した物もあり、物質もあり、心の面の物もあり、自分の内面に生じる物もあり、自分の外部の環境に由来する物もあり、偶然にある物も、誰かの意図による物もあります。それらは気候、住宅、生活用品、医薬品、酒類、思考、そして考えを促す物、病気、富み、幸福、敵、家庭内の問題、社会の問題などです。

 特に関心を持たなければならない重要なことは、ある動物の優越感が、何かの影響で減少したと感じれば、何らかの威力で補填する物、あるいは埋め合わをする物をたくさん探さなければならない、という不変の自然の法則にあります。しかし強烈な本能の威力になると、大小の犯罪が発生します。「失恋をした」と言われる若者は、彼らが愛した女性に優越感を潰され、その女性の心に勝つ術が本当になければ、優越感を維持する別の方法を探します。

 彼はすぐに優越感を取り戻せる物を掴まなければなりません。そして自分で気づかないうちにそうすることができます。例えば酒などを道具にします。だからその人は、自分にとって意味も無く酒を飲みます。しかし本当は、急落した優越感を復旧したい本能の強い欲求です。だからこれらの人がいつにもなく、そして本能以外には意味がない酒類を飲むのを見ます。

 もう一方、酒で優越感を取り戻す代わりに、その人の優越感を激減させた根源である女性の命を奪うことで、彼の優越感の激減を隠蔽します。その人はどんな法律も、威力も恐れないからです。だから私たちは、蚊を殺すように簡単に人を殺すのを見ます。本性の中に、述べたような優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)が無ければ、このような粗いレベルでも、『最高に幸福だよ~』となります。本当かどうか、自身で見えます。

 もっと特別なのは、優越感を埋め合わせる、あるいは隠蔽する本能には、どんなことをしても手に入れなければならないほど猛烈な威力があることです。直接手に入らなければ、その動物に関わりがなくても、あるいは何の非が無くても、もっと小さな動物を代償にします。そしてこれも同じように犯罪を起こす原因です。だから私たちは、誰にとっても意味のない凶悪犯罪を見ます。時にはあり得ないようなことも起こります。

 何かの威力で、ある動物の優越感が減らさられている時、もう一匹の動物がただ目の前に現れたというだけで、ただ現れただけの動物が殺されることがあります。顔を叩かれることも、それ以上のこともあります。その人が他人に隠しておきたい部分や病気を、偶然見られたというだけの理由で、事件になってしまうこともあります。

 その動物の「優越感の減少を隠したい本能」を、私たちは「恥」と言います。そしてすべての犯罪の原因となるに十分威力のある本能です。

 法の正義を守る人は、他の原因と同じように心に留めておくべきです。小さな犬は、他の犬との闘いに負けた犬が、自分の恥をごまかすための犠牲になることもあります。犬でも恥をごまかすことを知っているのに、どうして人がそうしないことがあるでしょう。これも犯罪の根源です。

 そして本能で恥をごまかすことはあります。それは、その動物の優越感の減少を元どおりに戻すことです。要するにそれが優越感、あるいはブッダが『取り出してしまえれば、幸福だよ~』と言われたアスミマーナ(自尊心。我慢)の毒です。

 すべての「酔う物」は、優越感を刺激する物、増進させる物です。。別の言い方をすれば、「酔うこと」は、優越感を高める一つの方法です。通常酔う物は、自然に高揚させる状態があります。後で元の水準より低くなっても、初めは酔っている喜びを味わう人の心を満足させるくらい、優越感を高くします。それはその人、あるいはその動物の優越が「高い」と感じます。

 それに幾らでもない値段で簡単に手に入るので、タバコや酒類からアヘンまで、人は自分の優越感を増進させる酔う物で遊びます。これらの酔う物が優越感が高くなったと感じさせなければ、世界の誰も、麻薬や覚醒剤を使う人はいません。あるいは麻薬や覚醒剤の類は生まれません。要旨に注目すれば、これらの酔う物は、いろんな方法で優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)を刺激する物です。

 物質である酔う物は神経系統を通じて、「私は偉大になった」という心の感覚を生じさせるよう刺激します。そして抽象である「陶酔」の喜びや満足、例えば賞賛、名誉、名声なども同じように刺激されます。症状は違っても、同じような結果が生じるので、政治家が名声を買うために何でも投資し、冒険家が命を賭けて名声を集めるように、人は敢えて投資して買い求めます。これがどこにでもある酔う物の威力です。

 酒はどこにでもあり、値段も高くないので、少なからぬ魅力のある喜び(あるいは優越感の高まり)の味のために、簡単に飲むことができます。純粋な方法で簡単に優越感を高める術がない人は、酒などの酔う物を求め、自分の優越感を下支えして遊び、その結果「酒呑み」になります。

 本当は、純粋で正当に優越感を高める物は、たくさんあります。しかしどれも難しいか、あるいは手に入れるまでに時間が掛かるので、教育や道徳のない若者の性急な心に間に合わないので、お金ですぐに優越感を高められる、酒の誘惑に耐え切れません。

 だから私たちは、酒を飲む人がどんどん増えているのを見ることができます。特に田舎では、農家の女性にまで蔓延しています。酔う物自体に魅力があり、つまり述べたような優越感を刺激するので、他人より偉くなれます。そして天人(上流の人というほどの意味)まで酒を飲みます。しかし優越感の陶酔、あるいは一種の狂気は、様々な犯罪の原因になります。

 その陶酔が酒などの物質によるものでも、賞賛などの抽象によるものでも、自分を抑制できない人は、これらのものに刺激されればいつでも、犯罪を起こす機会になります。優越感を高くするには、汚れた方法と清潔な方法があり、汚れた方法なら悪行と言い、清潔な方法なら善行と言います。

 中毒は高められている優越感の味に慣れた結果です。その人が普段、何で優越感を高めているかによって、純潔で公正な物を使えば、善行で高められた優越感の味の中毒です。しかし善で高められていない場合は、かならず酒などの悪で高められている優越感の味の中毒です。どこでも簡単に手に入るので、非常に多いです。特にその国の政府が、酒類の生産量を増やす方針なら、酒類はますます手近な物になります。

 高められた優越感の中毒は、悪に依存する非常に強い本能の欲求の一つなので、至る所に溢れています。それ自体が犯罪を増やすので、善い伝統習慣の堤防でも防ぐことはできません。あるいは決壊してしまいます。この種の習慣や中毒状態は避けられず、確実に生じます。酔う物は最初は高揚させますが、その後落ち込ませるので、気分が悪く感じる結果、絶えず足し続けていくうちに、習慣や中毒になるからです。

 タバコでも何でも、中毒になっている人は、当然これを良く知っています。酔う物には魅力とカラクリがあるので、世界中の人の心を掴んで、何らかの物、あるいは色んな物で酔わすことができます。善い面の酔う物については、後で判断します。

 しかし「酔い」は、本能の欲求であり、何らかの物で高められた優越感の味ということを忘れてはいけません。善い物がなければ、必ず悪を、あるいは手近な物を掴みます。そして何かが本能の要求の流れを妨害すれば、いつでも簡単に犯罪の根源になります。これが優越感、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の毒です。

 極めて小さな子供でも、優越感を顕著に現します。そして自分の優越感を見せたい、あるいは支持されたい強い欲求があり、支持されれば、支持された優越感の味に酔います。子供は非常に空腹でなければ、食べ物のことを考えるより、褒められる優越感に夢中になっています。あるいは食事をしている時に優越感を抑え込まれると、途端に食べるのを止めてしまいます。

 分け前が平等でない時は、自分が欲しい物でも、死ぬほど食べたい物でも、自分が貰った分け前をすぐに投げ捨ててしまいます。これも、子供でも、いつでも犯罪を起こす原因です。大人については言うまでもありません。極めて幼い子供の優越感も、所有者になりたい、侵犯したい、自分でしたい、能力を自慢したい、他人に教えたい、誰にも教わらずに自分で正しくできると言われたい気持ちを表しています。

 虫を掴める子供は、猿のようにその虫を殺せます。これは自分の優越を欲しがる本能です。何かを殺すことができれば、酔う物で高められたのと同じように、高くなった自分の優越感の味があります。動物の本能はこういう状態があります。人間が求める「道徳があること」と正反対です。だから私たちは、生まれた時からしつけをする体系がなければなりません。自然のままにしたらどうなるか、推測することができます。

 子供は大きくなればなるほど、誰かに叱られるのを嫌い、文句を言われるのを嫌がります。子供たちの多くは、先生に叱られ、あるいは罰を与えられた時、内心で先生を罵り、呪っています。担任の先生に怒られる度に、先生を困らせる、あるいは攻撃する「裏技」を使う子供も少なくありません。

 特に、人々がしつけをしない田舎では、親も罰を受けた子どもの主張を支持します。田舎の子供のほとんどは、先生に質問されると、あっという間に座ってしまって、答えようとしません。質問されることは優越感が減ると感じ、答えれば、もっと減ると感じるからです。

 沙弥として出家するくらい大きくなっても、述べた状態が目全部あるので、しつけに苦労します。強く強制すると、そこで犯罪を起こす人までいます。学校へ行ったことがない子供、あるいは一回しか行ったことがない類の子供には、そういう状態がよく見られます。その結果、一回の出家で、何も利益はありません。

 この種の子供は、先生があの手この手で質問させようとしても、自分で分からないことを先生に質問しようとしません。質問することで自分が劣位になると感じるからです。他にも、友達や先生から知識を得たいと思っても、面と向かって態度で示すのを嫌い、頼みたがらない沙弥も少なくありません。自分が持ち上げる人になること、あるいは借りを作ることで、自分の優越感が減少するからです。

 思いきってこっそり「タダで」聞くことができません。少しずつ集めなくてはならなくても、自分が何も知らないことが露見してしまうよりマシだからです。その上自分で考えた、あるいは自分で知ったという余地を残すために、誰から聞いたかを秘密にしたがります。私たちはこれらの心情を間違って、「先生に対して恥ずかしがる」と言います。しかし本当は「強情」です。

 すべては優越感、あるいは「私は私」という気持ちの本能、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の欲求です。正しくない方法、あるいは時と場所にふさわしくない方法で抑圧されると、いつでもお寺や学校で犯罪が起きます。こう述べるのは、優越感は生まれた時から根を張り、どんな症状で、いつでもすべての犯罪の原因になる準備が整っているか、優越感の毒について特に観察していただきたいからです。

 若い男女、あるいは青年期に達した動物は、周囲から喜ばされたい優越感の要求が、非常に強烈になります。オスは、すべての面で自分の欲求どおりに優越感を育ててくれるメスを求めます。メスにも同じ欲求があるので、自然が強いる義務を行なうために妥協します。この種の優越感の欲求を、欲情と言います。

 だから正しい欲情は、妥協してお互いの優越感を認め合い、尊重し、そしてお互いに育ててやります。一方の優越感が減少するほど強制されて行なわれれば、強制された側には欲情はありません。

 だから「本当の欲情」とは、最高度に自分の思い通りに高められた優越感です。皮膚の接触の味だけではありません。もし一方が傲慢で威張って、もう一方の優越感を潰してしまえば、接触だけで欲情は生じません。どんなに特別の味があっても、愛は粉々になります。

 どちらか一方の、あるいは双方の優越感が傷つけば決別し、双方の優越感が高い状態に育てられれば、愛は持続します。愛の奴隷になるには、愛する人の優越感を育てることを受容しなければならない点に意味があります。

 優越感が踏みつけられれば、比べる物がないくらい愛していても、その後突然ケンカ別れすることもあります。一般に欲情と呼ぶものは、優越感を維持したい優越感の要求の威力下にあります。優越感、あるいは「アハンカーラ(私という驕り。我慢)」が欲情の威力下にあるのではありません。

 だから真実と一致するように言えば、本当の欲情とは、優越感が身勝手に自分の威厳を見せつけて、周囲の人に最高に喜ばされたい優越感と言わなければなりません。ある年齢になると、青少年の体が性的に成熟するのは、直接この面の優越の偉大さを見せるためと理解されるべきです。その方が、欲情の味のためと理解するより正しいです。特に優越感の減少は、当然いつでも、突然欲情を萎ませます。

 だから欲情面の妨害は、優越を表明する優越感の妨害です。そして場合によっては、犯罪を起こす強い威力があります。だから優越感が真犯人、あるいは犯罪の根源です。欲情に関わる事件でも、欲情の味だけが根源ではありません。欲情を正しく理解すれば、人が優越感の優越を見せつけたい欲求を引き寄せて関わらないうちは、まだ重要でない、あるいはまったく意味がないと見ることができます。

 現代の心理学者のある派は、すべての動物の行動は欲情に起因している、あるいは欲情が深層の原因であると規定しています。私はこの項目を、一般論としては概ね真実と見ますが、梵天など、欲情の威力は越えたけれど、まだアハンカーラ(私という驕り。我慢)、ママンカーラ(私のという驕り。我所慢)が残っている動物には通用しません。

 この種の動物は、自分の優越感が欲情の物質によって喜ばされることで優越を見せる立場から脱していますが、もっと高い優越を求めるために残っています。だからこれらの動物は、普通の人間や普通の天人よりも高い動物と見なされます。

 家長や主婦になるまで(舅や姑になるまでという意味)一緒に暮らせるのは、欲情の力によってではありません。一緒に居られのは、双方の優越感が相手から支援を受けているからです。妻が夫を奴隷のように虐げている場合でも、夫が堪えられるのは欲情のためではありません。夫の優越感は、この面では減少していますが、社交面など、必ずどこかに特別な捌け口があります。

 意地悪な妻は、多分全面を塞いではいません。子供や家の名を護るために我慢して堪えることも、直接自分の責務であり、この部分の優越感を高めて維持することで一緒に暮らすことができます。

 妻が本当に全面を塞いでしまえば、夫は必ず別れます。そうでなければ死ななければなりません。家族の中で、優越感やアスミマーナ(自尊心。我慢)が絶滅した阿羅漢でいることはできません。十分太った優越感、あるいはアスミマーナは、本当の凡夫の生活なので、家庭内の喧嘩は、どちらか一方が過剰な優越感を要求したからかもしれないし、自分の優越感を護るためかもしれません。

 まったく喧嘩をしない家族は、全員が自分の優越感を管理することを知っています。欲情などの見返りを考えてではありません。欲情は優越感の際限ない拡大願望なので、家族の秩序の安定を護るために使うことはできません。これも、家庭内で事件が起こる原因も欲情だけでなく、優越感、あるいはアスミマーナ、あるいはアハンカーラ(慢)であることを説明しています。

 雇用者と被雇用者の関係では、通常被雇用者は、雇われた時から自分の優越の高さが損なわれていると感じます。それを心の奥に仕舞い込み、給料を貰って、他の時間に自分の優越感を養うために、我慢して働きます。どんな面でも、被雇用者が自分の優越感を見せられる機会を、雇用者が作ってやることができれば、給料で働かせるより、はるかに巧く働かせることができ、素直になり、雇用者を好きにさせます。

 従業員の優越感を抑えつける給料と反対に、その人の優越感を高くするので、特別な褒美を与えるとか、あるいは給料を上げることなどは優越感を上げる部類に入ります。

 人々が知足の(質素な)暮らしをしている田舎では、人を雇うのは大変ですが、仕事を頼んだり手伝って貰うのは簡単です。私は自分自身で、今現在までこの問題を経験しています。頼み事は相手に優越感を与え、雇うのは相手の優越感を下げるので、雇われた人がいつ怒りを抱くか分かりません。雇用者の面前で事件を起こす原因である、抑えつけられた優越感が、資本として心にあるからです。

 純粋な心で働く労働者は、対等に扱ったり、一緒に食べたり喋ったりするなど、雇用者がいつでも一定して働く人の優越感を尊重する時にしかいません。賃金だけでは、雇った人を能力いっぱい働かせることはできません。彼らはあらゆる方法でズルしようとします。責任を持たせること、研究や試験、実験を担当させるなどは、賃金の価値が無くなってしまうほど使われている人の優越感を高め、雇われている人は給料以上に、時間以上に、何もかもそれ以上に働きます。

 だから雇用者は、何らかの面で、雇われている人が優越感を見せられる方法を考えなければなりません。そうすれば平穏無事です。でなければ雇用者は、被雇用者がいつ犯罪を起こすかも知れない危険に曝されているようなものです。犯罪を生む優越感の減少が、いつも被雇用者の心中に原動力としてあるからです。

 奴隷(年季奉公をする人など)と受刑者はまた別です。奴隷は「自分の優越感を主人に譲り渡してしまった人」でなければなりません。主人の優越感を増やすために自分の優越感を減らすことを受容しています。自分はあるレベルまで落ちた優越感で満足し、それを自分の普通のレベルと捉えます。

 受刑者や罪があって囚われている人のほとんどは、通常、将来優越感が復活することを期待しています。機会がある毎に取り戻したいと考えている点が、奴隷と違います。釈放されないことで、いつその人に怒りが生じるか分かりません。たえず受刑者の優越感を抑圧する類の刑務局の規則には、受刑者の習性を善人にする道はありません。本能、あるいはアスミマーナ(自尊心。我慢)の欲求に逆らうので、益々残虐にするばかりです。

 近所づきあいも、夫婦と同じように上手くやって行くことができます。つまりお互いに優越感を育て合います。違うのは育てるレベルだけです。どこかの家が、何であれ特に際立っている物が生じたら、近所の人の際立っている点を引き立てなければなりません。少なくとも「他の村と競う時、自分はこの村の誇りだ。そして自分は村の人を見下して見捨てない」と思わせなければなりません。

 さもないと、たくさんの家の優越感が低められたことによる妬みが原因で、犯罪が生じる余地があります。妬みは、優れている家の優れていることを通常レベルに落とすだけで満足せず、滅亡させたいところまで行ってしまいます。

 隣近所の状態は、銘々が競い合い、奪い合って発展している街には見られません。自然が競争し合う機会を与えない、これからも助け合わなければならない田舎にしか残っていません。一人一人が村の優越を護ろうと考えれば、村、あるいは全体の優越を維持する本能の威力によって、それだけ広く犯罪が起こる原因になります。

 隣近所のこのような恩義による交流は、助け合わなければならないことで、お互いの優越感を増やし合います。まだ優越感の身勝手が根底にあり、肉親、あるいはお互いに本当に恩がある人の感覚ではないので、突然簡単に怒りを生じさせることもあります。これは誰でも注意しなければなりません。隣近所の愛は慈悲ではないので、本当の慈悲のように、怒りやその類の物を抑制する力はありません。

 犯罪を防止するためには、私たちは恩の重要性に注目し注意しなければなりません。相手に過剰に遠慮させて、要求を主張してはいけません。例えば親子のような純粋な恩による交際は、恩に感じて報いること、あるいは純粋な慈悲です。この方が相手の優越感を非常に抑制することができます。

 しかしいずれにしても純粋な恩、あるいは純粋な慈悲の範囲でも、まだ優越感がある相手は、完全に制圧、あるいは管理できないと留意しておく必要があります。少ないだけで、まだ犯罪の原因になり得ます。相手に恩や借りがあると自覚することは優越感の減少であり、反対に相手に恩の貸しがあると自覚することは、優越感を膨らませるからです。

 この本能は、当然借りのある側の人に、低められた優越感を高める何らかの行動を探させます。善い方法がなければ悪い方法になり、善い方法は徳や善で、これについては後で述べます。悪い方法は、目上の人の恩を「恩知らず」と呼ばれる行動で隠してしまいます。しかしほとんどは中間レベルになります。

 「豚が行き、鶏が来る」と言われるように、他人から「人より得をしようと考えてばかりいる」と決めつけられない程度に恩返しをします。「豚が行き、鶏が来る」と言われる状況が生じるのは、自分の優越感を守る手段の威力が大きいので、まだ本当のタンマではありません。志願して恩の借りを作り、そして抵抗できないのは、相手の優越感を道具にして自分の優越感を高めたいからです。

 このような場合には、本当に自分は何もできないので、高い優越感を求めるために少ない優越感を投資します。私はそれを、仏教教団員がブッダに対する、あるいは他の宗教徒がその人の神様に対するような「忠誠」と言います。彼らは「弟子であること、あるいは神様と一体になることが、今あるすべての優越」と信じる「優越」です。このようにひれ伏すことは、自分の優越感の探求や維持から脱す以外の何物でもないと、見ることができます。


 優越感と言うものの状態について理解する、あるいはこれを知るための十分な考察をしてきたので、次に直接犯罪、あるいは悪事と言われるものについて考えてみます。ここで言う犯罪という言葉を、私は「社会に対して間違ったことをすることで、罰を受けるにふさわしいすべての過ち」と、そして悪業とは「自分にとって大きな間違いである振る舞い」と定義します。しかし手っとり早く一緒にしてしまいます。

 五戒を犯すことを、次のように分類して見ます。

 殺生は手遊びのため、つまり優越感あるいは「私が私」と感じるアスミマーナ(排他心。自尊心)が、猿が虫を捕まえて潰して遊ぶように、何の価値もない物に優越を求めることです。食べるために殺すのは、冒頭で述べたように、他を食べることで優越感を育てることです。自分の優越感だけが目的なので、他人の自我、あるいは優越感に配慮しなくさせます。欲望、あるいは飢えは沸騰している優越感です。

 闘いで勝利するために殺す場合は、百パーセント優越感の優越の欲求であることが顕著に表れています。自分を護るために殺すのは、物質的にも、抽象である名誉を護るためでも、自分の優越感を護るためです。だから身を護るために殺すことも優越感に根源があります。強制されて殺すことも、身を守ることが根源、あるいは自分のことしか考えないからできます。

 愛している人のために殺すことは欲情の話で述べたように、愛している人が自分の優越感を増やしてくれるからです。だから私たちは犯罪、つまり殺害は、直接優越感の欲求から来ていると見ることができます。

 恨みを晴らすために盗むのは、護るために戦って殺すのと同じで、自分の優越感を増やすため、あるいは護るための戦いの一種です。食べるため、あるいは職業として盗むのは、食べるために殺すのと同じで、優越感を護るためです。習性で愉しみのために盗む人は、他人のことを考えずに自分の優越感を喜ばせる類です。

 怠け者で暮らしに困って盗むのは、優越感のことしか考えないからです。怠惰は、本当は間違った方法で自分の優越感を大事にすることだからです。強制されて盗むのは、誰かのために殺すのと同じで、強制する人に自分の優越感を育ててもらうためです。だからすべての盗みの本当の根源は、優越感を求めることです。職務その他で不正を働くのは、横領して不正に自分の物にすることなので、盗みの中に含めます。

 性的に間違った振る舞いのほとんどすべては、周囲から際限なく喜ばされたい優越感の要求が原因です。性的に間違った振る舞いは、大人に限ったことではありません。性の感覚のない小さな子供にもあると見なさなければなりません。つまり他人が大切にしている物を持って撫で回すなどして侵犯することです。

 例えば一人の子供が人形、あるいは鉛筆でも何でも、自分の物をすごく愛していたら、もう一人の子供は、掴むなどして侵してはいけません。持ち主である子供は、誰かが自分の妻に言い寄っているように感じます。

 だから子どもに五戒の三番目を守らせるには、小さな子供でも、「他人が愛している物は、何であれ侵してはいけません」と、このように意味を説明してやらなければなりません。他人が愛している物の領域を犯すことは、限界を超えて流出した、あるいはどんな手段でも喜びを受け取ることで自分の優越性を見せることに限度のない優越感の願望です。

 仕返しのために侵犯することや、その類のことは、すでに述べた仕返しのために殺すことと同じです。生まれつき好色な習性は、一種の「心の病」レベルの、誤解による優越感への陶酔以外の何物でもありません。時々社会の危険になる、欲情に目が眩むことは、自分が喜ばされたい優越感の沸騰です。この場合の優越感の自然では、思慮に欠ける段階になります。

 嘘を言うことは、自分や自分の仲間に利益が転がり込むようにするための、言葉や態度による間接的な盗みです。本当のことを話さなくても、これ以外は嘘ではありません。抗争相手を滅ぼすために嘘を言う場合も、それは相手を破滅させるためで、自分の側の利益になります。つまり簡単に自分が勝ちます。そして敵がいなくなるので、大変な利益を得ると見なします。

 だから嘘を言うことは、直接相手より優越したい優越感の要求です。直接、そして間接的に、他人の物を自分の物にするからです。作り話をするのは、誰も犯罪である嘘に勝てないくらい、自分がその面で優越するためなので、直接優越感、あるいはアスミマーナ(排他心。自尊心)に根源があります。

 乱暴な言葉使いは口で射ること、あるいは撃つことです。すべての場合、怒りに根源があります。暴言、あるいは罵ることは、噴出した優越感の毒で、相手が自分の優越感を育てようとしないことで噴出します。時には口の代わりに態度で表すこともありますが、根源は同じです。雇われて罵る場合などは、賃金で自分の優越感を養う、あるいは名誉と見るからです。

 告げ口や、仲間割れをさせるために唆すことは、嘘を言うのと同じ結果を期待しています。性分で面白がってする場合でも、他の人が一斉に凋落した分だけ自分が際立つという気持ちが根源にあり、すべて自分の優越感です。

 人が煩がるほど、あるいは人が面白がって聞いたとしても、くだらないことを際限なく話すことは、何らかの自慢です。なぜならそれは、何らかの理由で自制するものがないために、外部に漏れ出した「優越」だからです。私はこれを、一種の病気と言います。

 酔う水を飲むことは、冒頭で述べたように「自分は優れている」という感覚である結果のためだけに、促す物質で優越感を増やすことです。そして中毒になります。「優越」という感覚の中毒になります。そうでなければ、他の方法で高めることができない人の劣等感を持ち上げることです。「酔う」とは「優越している」という感覚です。「優越」していれば、何でも自分の思いのままにしたいので、二重の犯罪になります。

 夜遊びは優越感の足掻き、あるいは優越感が欲情面で好き勝手にする癖であり、二重の過ちの来る道です。夜は同じ目的の人が、自分の優越感が喜ばされる機会を探して出歩く時間で、欲情になる威力のある優越感を処理することなく、夜の街が癖になります。夜遊びは目・耳・鼻・舌・体の面の欲情の道具にすぎないなので、優越感のため、あるいは他の物の追求と同じように、身勝手になります。

 娯楽を(芝居や映画や音楽など)を観ることは、習慣性の酔う物と同じく、優越感が味わう刺激の一種です。悲劇も扇情的な物と同じで、心に「揺れ」を生じさせます。優越感は常にうっとりさせて喜ばせるような「感動」を求めます。だから催し物を観ることは、どんな種類の催しでも、直接優越感の話です。教育的な物は例外視されていても、優越感にとって、ある種の慰安であることに変わりはありません。見えない化け物の奴隷になりたくない人は、この問題を理解するよう、相応しい訓練を受けなければなりません。

 賭け事は「揺れ」、あるいは心の感情が興奮するので、同じ時間と同じ投資でできる、他の何よりも魅力があります。その賭け事が、まだ勝ちか負けか、あるいは損か得か分からないうちは、欲情と同じように、最高度に心の揺れ刺激します。しかし能力に限界のある器官に関わらないので、欲情より長くて冷めることがなく、そして何度でも頻繁に繰り返してできます。

 宝くじを持っている人は、抽選日まで、昼も夜も強い興奮を味わい続けます。興奮を味わうだけで満足してしまって、本気で調べる興味のない人までいます。それでもその賭けが決着したとたんに、喜んでまた買います。機会に恵まれれば、もっと熱い気持ちで、次回の賭け事を始めます。

 勝って手に入れるお金のためにしているように見えますが、本当はより高く高揚されたい優越感の欲求によるものです。そうしなければ、堪えられないほど落ち込んでしまうからです。だから人は賭け事の化け物に住み着かれています。本当は、それは優越感の化け物です。

 優越感がこれくらい高い気分や揺れまで高められてしまうと、その後普通でいるのは、あるいはそれ以下の陶酔で我慢するのは難しくなります。つまり揺れを生じさせないではいられません。だから人は賭け事の泥沼に落ちてしまいます。

 つまり、優越感はそれくらい凄い味の中毒性があるので、本当の賭け事の化け物は、手に入れる賞金のためではありません。優越感が受け取る「慰め」、あるいは既に述べたように激しい興奮のためです。この隠れた魅力がなければ、賭け事の化け物は死滅して、世界にいないに違いありません。(優越感の魅力がなければ)賭け事で金持ちになることはあり得ないという気持ちが生まれ、賭け事の化け物の呪文に騙されないので、自分を支配できます。

 つまり非常に魅力のある「慰め」は、欲情に負けません。欲情と賭け事は同じくらい強烈な気分ちにさせると、そして先ほど述べたように、能力に限界のある器官に頼る必要がないので、賭け事の方が長期間繰り返す点で一枚上手だということを、忘れないように繰り返し考えなければなりません。だから賭け事は世界にあり続けます。人の優越感を激しく高揚させることができるからです。

 悪人と付き合うことは、犯罪ほど悪くないように見えますが、仏教ではアパーヤムッカ(破滅の門)と見なします。他の悪に劣らない心の面の悪い結果があり、そしてすべての悪の元だからです。悪人とは、当然「依存する物である自分の優越感を、育てるだけの人」と断定できる振る舞いをする人という意味で、何かについて、どのようか考えず、自分の優越感の満足を味わえれば、それが最高です。

 悪人のジャングルへ入ることは、「物」のジャングルへ入ること、あるいは何も考えずに優越感を育てることなので、そこへ入り込む人は簡単に泥沼に落ちます。いつでも待ち受けて際限なく自分の優越感を育てる、人と物があるからです。善人が(悪人から)離れられるのは、純粋に正当に自分の優越感を育てる物を探すからです。もどかしさや憂鬱でサティがぼんやりするのは、どちらも忍耐に欠けるからです。

 そして悪人は全員、機会がある度にご機嫌を取って、善人を仲間に引き込む、あるいは自分の力(子分)にする用意があります。そこには人の優越感を育てる物が何でも限りなくあるので、人は悪人の集まる場所が好きになります。悪人は魅力があり、つまり優越感をくすぐるので、誰にでもあり、そして支配するのが難しい動物的本能の欲求と一致します。優越感の化け物にはこういう魅力があるので、暴力や乱暴は、世界中にあります。

 仕事を怠けることは、代償として何も苦労しないで、優越感が養生を受けることです。この味はアヘンよりもすごいです。味をしめた人は、何も苦労をしないで、自分の優越を育てるだけで、あらゆる種類の欠乏に十分に堪える強靭さがあり、それまで堪えられなかったことに堪えられるようになります。

 「何もしないで優越でいる」ことへの服従は、屋根がすっかり腐食して雨漏りがしても濡れていられるくらい、あるいは何かそれくらい強烈です。観察しなければならないことは、それらの怠け者は、優越感や高慢や、身勝手が消滅した阿羅漢ではないことです。

 しかしその「優越」は、その人の解釈では別の状態にあります。つまり純粋で公正な優越と交換するために、何かをして自由を失いたくありません。だから怠け者には優越感があります。あるいはこの種の優越で、いつでもすべての罪を犯す意志があります。

 そして「違う形で威張る」優越感である怠慢は、それ自体が犯罪です。黙して潜伏している結核菌などの病原菌のように、攻撃する種だからです。そして二重の犯罪になります。その「アヘンの考え」で他の犯罪を生む沼になるからです。


 最後に武器で戦うこと、すべての犯罪の集合である武器を使用した闘いの話になりました。ここで少し、ある話をしたいと思います。私が武器を使った闘争事件が付きものと見なされている、人が集まる行事を見に行った時に、武器を使用した闘争の本当の原因も優越感にあると、考察して明らかに見えたので、それを話すことに満足するからです。他の人がハッキリと、そして簡単に理解するために、ここでその時の話をするべきと考えます。

 そこで見たのは、まだ教育が普及していない田舎の集まりの、優越感を維持する本能から生じる危険を防止する物にふさわしい伝統習慣は、子供がまだ年寄りの言うことを聞いた時代には(つまり過ぎ去った時代)、どんなに素晴らしく危険を防ぐことができたか、風俗習慣の大切さを表しています。

 その風俗習慣から得られる優越感の抑止力は、政府が生産量の増大を図ることが原因で、疫病のように、誰でも酒を飲む時代になっても、法律による抑止力とは比較にならないほど威力があります。述べた風俗習慣は、酒で少なからず持ち上げることができる、教育が十分でない若者の優越感を見せつける毒を、少なからず脅しつける道具になります。

 武器による闘争がなければならないと見なされている集まりとは、雨安居明けのバーンドーン湾周辺の川や運河を、僧が舟行列をする時です。私自身が行って見たのは、チャイヤーの湾尻周辺で、他より教育が遅れている地区でした。まだ今年のことです。

 どこでも、そしていつでもこのような楽しみがあると、ずっと前から聞いていました。必ず喧嘩や暴力沙汰があり、なければならず、「殴らなければ面白くない。楽しくない」という土地の言葉が生まれたほどです。

 自分で見る機会がない時は、「仏教教団員の行事であり、直接宗教に関わっているのに、どうしてだろう」と怪訝に思いました。つい最近自分で行ってみると、非常に珍しくて勉強になる、目を引き心を惹く物がたくさんありました。バーンドーン湾周辺、特にチャイヤーの人々は、昔からのボクシングの血統の人も、善の信仰と、水上の楽しみを愛す威力で、大昔からの伝統習慣を愛しています。

 舟を漕ぐ腕を見せる催しがあり、そして飲んで食べて、女の人を口説いたりします。その地区は人口密集地でもなく、県や郡の中心地でもありませんが、三、四百艘の手漕ぎ舟と、二、三十艘の帆船と、老若男女三、四千人が集まります。拠り所である酒を持った若者が百人、仏像を乗せた船には比丘と沙弥が居て、何十人も招いて食事をする伝統です。それら色とりどりの色彩と、言葉が聞き取れない喧しい人声が、湾尻周辺の海をキラキラと輝いているように見せます。

 観察して見ると、芸術面でも、文化面でも、行儀や健康、その他いろいろ善い結果があるように思います。しかし私が興味を持って勉強し、ここで熟慮するのは、「なければならない」と言われる、殴ったり蹴ったり武器を使って闘う話です。このような武器を使った闘争が宗教行事の付き物でなければ、宗教に関わりのない他の行事にあるはずがないからです。そして、私たちが心の面の解決法を探さなければならない、この種の悪の本当の根源は何でしょうか。

 武器を使った闘争は、冒頭で「この本能がなければ、動物は通常進歩できない。あるいは世界は進化しない」と言ったように、自然では、動物の本能として身についている優越感の一種、あるいは優越感を表す一つの方法です。教育が十分でない若者たちが、優越感を他の面で見せられなければ、機会があれば殴ったり蹴ったり、武器を持って闘うのは当り前です。

 酒の力が入れば、その優越感の表出は簡単に限界を越え、過激になります。飲酒を防止することで、このような場合の優越感の表出を抑えることは不可能です。初めに述べたように、政府が酒の生産を増やそうと急かせているからです。

 しかし飲酒を防止できても、教育が普及していない地域の少年の、方向を間違った優越感の表出である、自分の優越感を表したい気持ちを抑えられる訳ではありません。自分の考えで自分の優越感を維持しておくだけです。しかしタンマがあれば、あるいは優越感を維持する無明を軽くする何かがあれば、あるいは優越感の表出を減らすか、無くすことができれば、酒は自然に不毛になります。

 私たちは協力して、優越感を見せたい本能を管理する方法、あるいは可能な限りするべき範囲内にあるようにする方法を、可能な限り探さなければなりません。そして私は、話した例について判断してみます。

 その日、二三十人の若者が酒に酔って喧嘩になったのは大きな集団で、距離は、私が座っている東屋から見え、声が聞こえる程度でした。櫂を武器にして一時間も闘っていましたが、頭が裂けた人はなく、いたのは瘤ができた人だけでした。

 誰かが激しく暴れると、友達や親戚が押さえ込んで船蔵に押し込み、家へ送り届けます。私は、高齢の女性でもこういう役割りを果たすのを見ました。息子か孫か分からない若者を捕まえて、水から引き上げて舟に乗せ、床に押し付けて、漕ぎ手に命じて家へ向かわせます。清信女のレベルの高齢者が、「やらせておきな! 刃物は取り上げておこう」と言うのが、聞こえてきました。

 そして実際に幾つもの刃物を取り上げ、年寄のいる東屋に置いたと、この人たちが私に話してくれました。水の中で喧嘩になり、舟が相次いで沈んでいく時、怖がってキャアキャア叫ぶ人がいました。しかし結婚しているのかどうか知りませんが、まだ若い女の人の何人かが、手を叩いて、「やれ! やれ! ホレ! ホレ!(この言葉は、そこにいる人や犬に噛みつくように、犬をケシカケル時に使う言葉です)」と大声で叫ぶのを、私はこの目で見、この耳で聞きました。

 自分の仲間に加勢しようと、水の中を歩いて喧嘩をしている集団に加わる人がいればいるほど、この声は大きくなります。血を流すほど危険にならないように見守っている人たちも少なくありませんでした。

 喧嘩をしている人たちも、相手より先に酷い仕打ちをしないサティ、あるいは責任感がまだあります。親戚や友達がいろんな方法で引き止め、妨害しようと待ち構えていて、最後には相手の目に水を入れて櫂を折りました。芝居と言えない本当の喧嘩は、時間が経って、声が枯れて聞こえなくなった時に終わりました。

 全員が疲れて喘ぎ、寒さに震え、そして仕舞いには酔いが醒めます。時には流血する年もあるのは、わざとと言うより、手加減をした時、あるいは遠くから投げる時に失敗したと信じます。確実な結果は、櫂は全部壊れ、甲板は縁が欠け、舟が沈んだ時に、沈んだ物を失います。しかし人は何ともありません。

 原因を訊くと、験を担ぐ人が何人もいました。彼らは、海の神様や精霊などが、そういうのが好きなので、毎年なければならず、解決法を考えるなどアホらしいと説明しました。中にはそれ以上で、舟行列のために持ち出した仏像も、そのような暴力沙汰が好きと信じている人もいます。これは一部の人たちで、聞くと滑稽です。

 目に見えないお化けの話を抜きにしてしまえば、むしろ大勢の人に見せることで、自分の優越感を育てて維持したい、動物の本能の威力であることが分かります。ケンカをしている双方の人から詳しく聞いて見ると、それらの若者たちには、互いに殴り合わなければならないほど憤慨することはなく、酒を飲んで楽しくなり、口や腕がムズムズしただけと分かったからです。

 本当は「自分は紳士だ」と自慢するのが好きな若者の習慣も同じで、稲作の季節や、その他の時期に怒りが生じれば、「雨安居明けの行列の日に、河口で会おうぜ」と捨て台詞を吐きます。もっと血の気の多い人はもっと凄く「プラタート寺のボクシングの舞台で会おうぜ」と捨て台詞を吐きます。こういうのは、挑戦者が実際に決闘の幕開けをすることはないと知っています。言った通り幕開けする人も多少はいますが、それでもお互いに、相手がする以上のことはしません。

 優越感のほとんどは、つまり一般の若者は、本能の威力で「優越」を見せつけるのが好きなだけだからです。会話ができるようにするため、あるいはもっと「優越」の格好をつけるために、酔っていない人はわざと酔い、あるいはもっと酔うようにします。ほとんどの人が酒を飲む理由は、仇敵に会った時に、青ざめた顔に見られたくない、あるいはしょんぼり(彼らの言葉で)していると見られたくないからです。

 だから敵と対峙する優越感のために、家を出る前から飲み始め、舟に乗るまで休まず呑み足します。それに、楽しさのために呑む人、あるいは内心に憂鬱があるので呑む人も少なくありません。中には「若者が楽しさを求めるには酒を飲まなければならないから、飲むべきだ」という、彼らの理屈で飲む人もいます。友達がみなそうしているからです。

 誰でも「酒を飲めば戒に欠ける」と学んで知っていますが、この日は「威厳」のために戒を犠牲にし、他の日に五戒を守って挽回しなければなりません。優越感は一種の狂気のレベルになるので、その日、その場所の雰囲気は、取り憑かれたような優越感で満ちています。その結果それらの若者は、長い間胸に詰まっていた自分の優越感を排出して、全員が満足します。これが、教育が十分でない人々の優越感の毒です。

 まだ教育が十分でない人々には、風俗習慣、あるいは伝統習慣、特に宗教面の信仰は非常に大切です。ケンカをしている最中にスポーツマン精神が残っていれば、善い風俗習慣に関わる結果になるからです。先祖代々しつけられて本性に沁み込んでいて、酒などの新しい文明が侵入しても、簡単には無くならないので、それらの若者は事前に熟慮し、心を非常に抑えることができます。

 酒に酔っている時でも年寄りを敬い、年寄りが刀や刃物を取り上げる役割をするのを受け入れます。宗教面の強い信仰は、比丘や沙弥の眼の前では、できるだけ露骨にならないように努力するくらい残っています。そうでなければ、武器を使った闘いは、自制する物が何もないので過激になります。

 もう一つ観察するべきことは、優越感は両刃の刃だということです。つまり善を行なわせることも、悪を行なわせることもできます。この人たちが何かをするのは、「優越」を求めるからです。常に資本である「優越」を求めるので、優越感が衰えるのを恐れる気持ちが、少なからずあります。

 だから本当の仇同士のような殺し合いはしません。当人には以前からの恨みはなく、ケンカをするのは、優越を表したい本能の力だけだからです。

 大勢の人の集まりは、自分の何らかの優越感を見せたくなるように人間を煽る舞台です。酔っていない時は、まだ十分な度胸はありませんが、酔えば取り敢えずチャンスを奪い取ります。酒の力がその人の優越感を持ち上げて、休まず満たしているので、酔っている人に善い面の偉大さが何もなければ、酔っ払いの「偉大さ」になります。

 何も偉大な物がない素面の人も、必ずこのタイプの優越になるので、たくさんの人の集まりが、優越感の陶酔の爆発になるのは当たり前です。更に異性が大勢いれば、優越感への陶酔は熾烈になり、武器を使った闘いは、まったく意味のない小さなことになります。

 酔っ払った人の中に、可笑しなことに、自分の酔いを隠そうと努力しながら、私に何か話して聞かせる機会を求めて近づいて来る人がいました。その人は、それ以外の時は隠れていて、顔を見せたがりませんでした。その人を大胆にし、私と会話をさせたのは、もう一面の、つまり大物の無頼漢ではなく、識者であると見せたい優越感の力です。

 その人はこれほど酔っていなければ、怖気づいて近寄ろうとしません。そしてその人が見せる能力は、私を満足させられないと知っています。自分の優越感に酔っている人間にとって、優越感を見せることができる場所や機会は何でも、非常に魅力があります。その魅力が至る所にある、この種の武器を使った闘いの根源です。

 また違うものもあります。同じ酔っ払っているその人が、私がまだそこに到着しないうちから、私に会う機会を待ち構えていたと聞きました。その人がよろよろ近づいて料理のお膳に触ったので、施主は権利を侵害された、あるいは軽視し過ぎだと見て怒りが生じ、一度危険な目に遭わせようと憤慨し、「酔っ払いだから」と許そうとはしませんでした。

 これも同じで、騒ぎになるほど自分の優越感を見せようと切望した結果です。お膳の主、施主も同じで、最高に良くしようと思っている善に関わる優越感があるので、その優越感で憤慨しやすくなります。善い意図でも優越感の話なら、信仰が多ければ多いほど憤怒も強くなります。優越感を抑える自然がある智慧に依存せず、優越感の強い欲求に依存するからです。

(仏教の)後援者のみなさんは、この真実を可能な限り自覚しなければなりません。そうすれば自分の善を善く経過させることができ、優越感を削り落として軽くし、最後には皆無にする、本当の善になります。それが仏教の目的です。

 これをまとめると、人の集まりは、人数が多ければ多いほど優越感の表出を煽り、見せるべきでない物を見せる結果になります。人に見せる、それ以上に良い物がないからです。そしてこれが、普通の武力闘争の根源です。法律の威力だけでなく、従来の美しい伝統習慣と、善いしつけによって心に残っている善悪正誤の感覚を合わせれば、それだけで、この種の優越感の陶酔から生じる危険を防ぐことができます。

 それに、時々警察官が包囲されて攻撃される法的な力より、良い結果になります。逮捕することは、優越感の狂気と真正面から激突することだからです。私たちは、このように善い伝統や風俗習慣を復活させる方法を模索しなければなりません。

 新たに年寄りや年長者を敬い、宗教面の正しいしつけをし、年寄を正しい年寄にし、小さな時から、身勝手を磨き落とす類の深い教育をすることは、この場合に非常に重要です。

 こういう目的のある教育は、自分の優越感を抑えることを教え、あるいは正しい方法で優越感を使うことを教えます。そしてこの教育は、あらゆる種類の道徳の本当の根源なので、どんな道徳を身に付けさせるのも難しくありません。

 世界の教育がこのような教科を重視すれば、疑うまでもなく、将来本当に人間らしく安楽に生きる人間を創ることができます。現代の世界の教育は、学ぶ人も教える人自身も、気付かないうちに優越感を暴走させるようにするだけです。この種の教育は、物質的な発展をもたらす分だけ「国際間の武力闘争」増やします。

 「国際間の武力闘争」、あるいは世界大戦は、述べた個人の闘争とすべて同じです。つまり直接掻き集める本能でなければ、自分の優越感を育てるためです。そして必ず、自分の優越感を見せつけたい猛烈な欲求です。正義を守るため、あるいは「世界の平和を守るため」という大義名分のある国際間の武力闘争も、この隠れている優越感の化け物の粘っこい掌中から、決して逃れることはできません





ホームページへ 著作目次へ