誰もが知るべき仏教の重要点

                                               1960年12月28日

                                            チュラーロンコン大学大講堂

摂政(副王)であられるチョンニーシーサンワーン殿下は、チュラーロンコン大学の「宗教と伝統クラブ」が、タンマに関して非常に素晴らしい知識をお持ちの比丘の法話を傾聴する機会を持てるよう、自ら主催者におなりあそばして、1960年12月28日15時、殿下および学生たちに講義をしていただくために、プララーチャチャイカウィー(プッタタート比丘)を招聘して下さいました。

チュラーロンコン大学大講堂に約3000人の学生と教授たちが集まって、プララーチャカウィーからブッダのタンマを学びます。なお、プララーチャカウィーを仏教クラブにお招きしての法話は、今回が初めてになります。

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 私は、講義の形でタンマのお話をさせていただく素晴らしい機会を、殿下から頂戴しました。できるだけ多くの学生諸氏の利益になるよう、祝福させていただきます。

 学生のみなさん、紳士、並びに善人のみなさん、今日の講義は、「学生が知るべき仏教の重要点」と題してお話します。ですから講義の内容のほとんどが、学生の役に立つことばかりでしたら、善人のみなさん、どうぞご寛恕ください。

 なぜなら学生と一般の善人と、対象が曖昧、あるいは半々の場合の話し言葉は、非常に明確さを欠くからです。ですから、対象のほとんどを学生に、学生の利益のためにということにさせていただきます。一般善人の望みと一致すれば、儲け物ということです。

 重要点とは、宗教あるいはタンマの重要点という意味です。「タンマ」と「宗教」と「仏教」という言葉は、入れ替えて使うことができるので、そしてその重要点と呼ばれるものについて、「なぜ私たちはタンマ、あるいは宗教に関わらなければならないのか」、「どう関わるのか」、「タンマあるいは宗教とは何か」、そして最後に、「仏教と関わる時の障害は何か、あるいは道具は何か」など、こまごました項目を主題にさせていただきます。

 重要な項目なので、初めに、私たちはなぜタンマ、あるいは宗教と関わらなければならないか、についてお話します。

みなさんが、財産があって、名誉名声があって、友達が十分揃っていればそれだけで十分と考えるなら、それは著しい物質主義の話と見なし、仏教教団員についてそれ以上話すことはありません。

しかし仏教教団員は、ひどい物質主義でも物質一辺倒でもないので、当然それより高い心があり、つまり物質でないものの利益も求めるので、精神主義、あるいは理想、あるいは簡単に物質主義ではない、それは一部分と言うことにしましょう。私たちは、人間が得るべき最高のものを得る目的があるという意味です。

タンマの知識と哲学の中間の、簡単な言い方をすれば、短い一般的な言葉では、Summum Bonum、 あるいはもっと明瞭にすれば、The utmost goodness that man can get in this very life です。

どうぞ学生のみなさん、辞書で Summum Bonum の説明を見てください。人間がこの世で到達するべき最高のものと説明されているはずです。すべての仏教教団員は、これを得ることを目的としています。だから私たちは、物質的に豊かなだけでは十分ではないと感じます。なぜならそれは、人間が得るべき最高のものではないからです。

 試みに譬えて見ます。譬えることをお許しください。たとえば、みなさんは、ひらひらとあちこち飛び回って数日で死んでいく、美しい蝶のように生きたいと思いますか。非常に美しい物を愛す人でも、きっと首を横に振ると思います。あるいは数日で死ぬ蚊、生まれて人間の血を吸い、数日で死ぬ蚊の生活と言っても、誰もなりたい人はいません。

反対に強い動物、象、あるいは疲れるほど働いて他の役に立つ動物なら、なりたいですか。これは「過剰」なので誰もなりたくありません。あるいは猿、たくさんの群れの子分ではなく、ボス猿だったら、なりたいでしょうか。満足できるのは物質主義が強い人だけです。しかし最終的にいろいろ調べて、最高の物が見つかるまで探求すると、最高に良い物は物質に関係ないということ、あるいは物質だけでは最高の物は得られないと分かります。

 私たちは物質、あるいは身体だけではなく、当然心があることを良く考えてみなければなりません。体と心の両面が充実していなければ、人間としての意味は空虚で空っぽです。つまり身体、あるいは物質面だけが充実していて、精神面は空っぽの人間です。このように人間の意味が空虚なのは非常に危険だということは、ちょっと考えれば見えます。

そしてこの世界、あるいは他の世界でも、複雑な問題があるなら、すべてそのように空虚な人間が生じさせているものばかりです。つまり人間なのは物質あるいは身体だけで、精神面の人間性が欠如しているので、精神面は空虚です。

 ここで、人はどうして物質だけに興味をもち、夢中になり、心の面にあまり振り向かないのかを考えてみます。そしてそれ以上に、異議を唱えたり妨害したりする人もいるし、精神面を見下し軽蔑する人もいます。これは、この種の人たちの理解を超えるものがあるからです。

  精神面のものが本当にあり、物質以上に真実でも、この人たちには理解できないので、あると考えません。これに関して例を挙げて説明させていただきたいと思います。「オタマジャクシ」の話を例にさせていただくことをお許しください。

 学生のみなさんは、もちろん小学校の教科書で「オタマジャクシ」という、動物の子供の話を読んだことがあると思います。まだ水の中にいるカエルの子という意味です。母親は陸に上がったことがあるので、陸があると言い、そしてあれこれ状況を説明し、水の中より景色が良いと話しても、オタマジャクシは信じません。

 それでも母親が説明しようとすると、オタマジャクシは、「かあちゃんの嘘つき!」と罵ります。オタマジャクシが成長してカエルになり、自分自身で陸を見るまでは、どう話しても知らせることはできません。

 しかし学生のみなさん、考えてみてください。陸に上がれるオタマジャクシは何パーセントいるでしょうか。訳が分からない上に頑固なので、非常に少数です。オタマジャクシは親の教えに対して頑固なので、当然陸へ上がらないうちに死んでしまいます。

 みなさんがこれを理解できれば、学業が成功しない原因が分かります。それで精神的な生き方、最高の理想の生き方に到達できるはずがありません。だからオタマジャクシにならないよう、くれぐれも注意しなければなりません。頑固さは、最悪の障害であり、敵だからです。

  学生のみなさんには、陸の話が、オタマジャクシにとって理解し難いことであるのと同じ様に、物質ではない精神主義、あるいは理想の話は、物質主義に夢中になっている人には理解が難しいことが、すぐに分かると思います。だから私たちは二つの面に分類し、そして、物質(身体)面と精神面のどちらも十分に満たすよう、お話した空虚な人間にならないよう、良く注意しなければなりません。

 ですから学生のみなさん、何でも二種類あるということを心に銘じておかなければなりません。たとえば死について話せば、かならず肉体的な死と、精神的な死の二種類の死があり、生活について話せば、二種類の生活、つまり身体の生活と、心あるいは精神の生活があり、得ることについて話せば、つまり最高のものを得ることですが、それにも必ず二種類、つまり身体にとって最高のものを得ることと、心あるいは精神面の最高のものを得ることがあります。

 言葉の勉強のために、学生のみなさん、この二つの言葉があることを知ってください。物質的、身体的なものと、心、精神的なものです。私たちは物質的、身体的なもの全般に、physical という言葉を使います。そして心の面、精神的なものには、mental という言葉を使わず、spiritual という言葉を使います。

偶々この spiritua lという言葉は、幽霊や妖怪、お化けなどと同じ種類の「魂」という意味に使われることがありますが、それとは違います。私が言っているのは、目では見えない微妙なもの、しかし重要部分である心の面という意味です。

 だから脳に関わる mental な面は physical の側、つまりすべて身体面、物質面とします。残る正反対の部分は精神面、あるいは spiritual です。そしてタンマの勉強、あるいは仏教の勉強に非常に求められるのは、spiritual experience と呼ばれるもので、心で明々白々になっている、精神的に精通していること、という意味です。物事、つまりいろんな複雑困難な問題など、色々な自分で十分たくさん経験したことは、タンマを学ぶために最も重要な基本です。

 これが足りないことが、仏教を理解できない原因です。spiritual experience と呼ばれるものが足りない人が、念処やヴィパッサナーや何やらしても、成功することはありません。それは際限なく繰り返す念処、あるいは儀式的な念処か、何かそのようなもので、彼らが言うような成功や、あるいは最後に本当に煩悩を消滅させることはできません。だから勉強しようと関心のある人は、もっと心、あるいは精神に関わる面の勉強をすることに関心を寄せなければなりません。

 なぜ私たちは、特にタンマに関わるものとして、心、あるいは精神に関わる部分に興味を持たなければならないのでしょうか。それは、タンマで物質的な面を管理しなければ、苦になる一方だからです。どんなに財産があっても、どんなに権力や運や名誉名声があっても、タンマの面の、あるいは心、精神面の正しい管理がなければ、それらの権力や運や名誉名声は役に立たず、却って害になり、苦に導きます。

 私はよく例えるのですが、百万のお金があって、その所有者にタンマがなければ、その人は金額と同額の苦、百万の苦があり、タンマがあれば同額の幸福があります。だから幸不幸は、お金だけにあるのではありません。タンマが関わるか関わらないか、という点にあります。

タンマが関われば、お金やそれらのものは、便宜を与え、精神的な苦になることがなく、何の危険も生じませんが、タンマが関わらなければ、幸福になれないくらい危険です。だからタンマがなくてお金だけあれば危険で、幸福よりは不幸にします。だから不幸にならないようにいろんなことをするには、タンマが必要です。

 みなさんが財産や名声や、権力や部下や取り巻き、社交交際や、何を手に入れても、それらと関わるタンマがなければ、他のものになりようがありません。本当のタンマの個人的な利益は、こういうものです。

 社会は個人の集まりなので、世界、あるいは全世界に拡大した社会も同じです。個人のありようが社会のありようです。賢くない人の社会は、社会全体が賢くないという意味です。だから、特に心の問題、精神的な問題に関わるタンマは、必要不可欠です。人間性の二つの面、外面と内面のどちらも満たすからです。そして非常に期待される結果は、苦を生じさせないで、何でも望ましい形にすることです。もし違えば、複雑困難になり、混乱騒動になり、結局は苦だけになります。

 世俗的に良いと言われる教育のある賢い人でも、最終的に幸福にはなれないということが、私には見えます。まだ「体から溢れるほど知識があっても危機を脱せない」と言われる状態であり、最終的に自殺などをしなければなりません。

 しかしタンマが関われば、このような望ましくないこと、見苦しいことにはなりません。まったく生じません。だからタンマは苦い薬ではありません。誰もが嫌がる苦い薬ではありません。タンマは無用な食べ物ではなく、人間であるために必要な食べ物です。

タンマは古臭いもの、時代遅れのものではありません。現代人、あるいは現在の人間も、タンマに欠ければ人間ではなく、最高に良くても、述べたような中身のない人間だからです。だから最終的にタンマは、人間が得るべき最高に素晴らしいものを、来世に先延ばしすることなく、この世で得られるようにするものと言うことができます。

つまり理想のタンマ、あるいは Summum Bonum です。このように短く言えば憶えやすいです。これがつまり、「なぜ私たちはタンマ、あるいは宗教に関わらなければならないか」です。

 次に、「タンマとは何か」について述べさせていただきます。学生のみなさん、意味として、あるいは話としてばかりでなく、言葉としても興味をもって憶えてください。

 最初に言語として、つまりタンマという言葉の字面について熟慮して見ます。言葉としては、「存在するもの」を意味します。存在しているものです。次に存在するものとは、「すべてのもの」と説明できる、あるいは見て理解できるという側面があります。

なぜなら不確実で、絶えず変化し循環し続けているすべての物は、その変転、循環が、その物の存在だからです。あるいはその循環の流れがその物です。あるいはそれ自体が、変化すること、あるいは循環することで存在します。反対に変化も循環もしないものは、その物自体です。

 このようなパーリ語の原則では、タンマでない物は何もないということです。だから私たちはタイ語の何という言葉を充てたらよいか分からないので、原語のまま「タンマ」という言葉を使うしかありません。西洋では、タンマという言葉を、英語等に訳す努力をしています。

初めは訳せると考えて、彼らがふさわしいと思ういろんな言葉に訳しました。たとえばタンマを Truth、つまり真実と訳したり、Law と訳したり、Norm、つまり捉える原則と訳したりしましたが、結局それぞれの場面に使えるだけで、どれも不十分で、どの場合にも使える言葉としては当てはまりません。

 現在はタンマという言葉を訳すのを完全に諦め、二度と傲慢に訳そうとせず、タイ人と同じように、原語のまま Dhanma という言葉を使っています。私たちの先祖は訳語を考えたことがなかったので、元のままタンマと言うしかありません。訳せないからです。これは重要な原則です。他の言語も同様です。だからみなさん、タンマという言葉は訳せないので、元のまま使うしかないと知らなければなりません。これが語句として、です。

 

次は意味です。これは場面によっていろんな意味になります。何を意味するかによって、場面ごとに部類や話が分かれます。広いのもあり、狭いのもあり、どんな時に使うかによって違いますが、何よりも先ず知っておくべき最も重要な場合とは、タンマという言葉は、原因、あるいは威力、つまり私たちの見ている普通の規則、あるいはそのようなもので、何かを変化させる力を意味します。何が原因かと言えば、タンマと呼ばれるものが原因と答えることができます。

 もしみなさんが外国人に、仏教には神様はいるのですかと訊かれたら、いると答えることができます。もし何かと聞かれたら、それはタンマです。しかし私がこのように言うのは意味の面だけで、同じ「形」である必要はないと知っておかなければなりません。神様は意味が重要です。

たとえば God the Creater のような、創造主である神のようなものも私たちにはあります。つまりタンマです。タンマはすべてを造るものです。宗教の教えにしたがって世界を造った神のように、すべてのものを生じさせ、存在させます。私たちにも世界を造ったもの、タンマがあります。

  次は God the Preserver、つまり世界を今ある状態に、たとえば太陽と月が衝突しないように支配している、あるいはすべてが規則的に変化するよう管理している、護っている神様です。私たちには、これもタンマと呼ばれるものがあります。世界を支配しているタンマについて、別の理解をしないでください。それには世界を支配する根源の力があり、私たちはそれをタンマと呼びます。ブッダもタンマと呼んでいます。

 God the Destroyer、つまり世界を時々破滅させる神について述べれば、それもタンマです。世界が消滅しなければならない時が巡って来た時、何の力で破滅するのかと言えば、タンマと呼ばれるもの、あるいはそのような形の神の威力によってです。

 次に God the Survivor、つまり危機を脱すのを援けてくれる神は、私たちにとってタンマ以外に何もありません。タンマだけが、生き物が苦から脱出するのを支援します。

 God the Refuge、つまり苦と戦うとき頼り、依存するものは、私たちにはタンマ以外ありません。

 たとえば他の意味で、God the Guide、つまり生き物を正しい方向に導く人という意味なら、私たちにはタンマの他にありません。

God the Opener、つまり彼らが、神は様々な物を明らかにして人間に知らしめる、と言うように、いろんな物を明らかにし見えるようにするものは、私たちにとってはタンマ以外にありません。それが明らかにする神です。

 あるいは、God the Omnipresent のように分割され、すべてのものにある神、海底でも淵の底でも、例外なくどこにも存在する神が私たちを見守っています。そういう神も私たちにはいます。それもタンマです。タンマはすべて物にあります。

 God the Omnipotent、つまりあらゆるものを超越する偉大な人である神について言うなら、私たちのはタンマ以外の何でもありません。「すべてのブッダは、過去と未来と現在のブッダは、当然タンマを尊重している」と、ブッダ自身が言われたほどです。これが Omnipotent としてのタンマです。

  God the Omniscient、あるいは何でも知り、智慧があり、あらゆる種類の智慧が詰まっているものは、私たちにもあり、それもまたタンマです。

 次はもっと多くの意味を掴んで、God the Dictionary です。これはみなさん、滑稽に思う方がいらっしゃるかも知れません。私はある人に会って、この言葉を神の説明をする時に使ったことがあります。なぜなら辞書は、何でもあるからです。良い辞書は、何を調べても見つけることができます。神様も辞書のようです。何を調べることもできます。そういう神様もいます。つまりタンマです。

 つまり、神のような立場の根源、という意味で言うなら、私たちにはタンマがあるということになります。これが根源である、あるいはすべてのものを存在させる力であるタンマです。そして彼らが神様と呼ぶもののように、あらゆる種類が揃っています。

 みなさんがこの神様を見れば、ブッダが「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」と言われたように、目では見えない、しかし智慧があれば見ることができるタンマが見えます。だから最高の知性を使えば、このように根源である、神聖で深遠で厳格な力が見えます。

 みなさん考えてみてください。これらのいろんな状態、あるいはいろんな物に、タイ語のどの言葉が使えるでしょうか。ちょうど良い言葉がなければ、原語のままタンマと呼ぶしかありません。

 次は結果であるタンマです。つまり原因でもあり、結果でもあります。結果という言葉は、あらゆる現象を意味します。つまり人間に現れるすべての Phenomena、それもタンマと言います。タンマと呼ばないものは何もありません。善い物もタンマ、悪い物もタンマ。形のある物もタンマです。

みなさん、「クサラー タンマー、アクサラー タンマー、アプヤカター タンマー」という言葉がある経文を聞いたことがあると思います。「善であるすべてのタンマ、悪であるすべてのタンマ、善とも悪とも言うことができないタンマ」の、たった三つで終わりです。善と悪と、善悪と言えないもの、この三つの言葉全部が、同じタンマです。

これは、すべての現象はタンマ以外の何物でもないという意味です。パーリ語でタンマと言います。これは初心者を混乱させます。何でもかんでもタンマなのですから。しかしみなさん、タンマという言葉はこういう意味だと理解しなければなりません。

  タンマという言葉の次の意味は、法則としてのタンマです。つまり真実の法則、いろんな自然の法則を、すべてタンマと呼びます。普通の法則、あるいは law という言葉に当たる自然の法則も、すべて法則という意味に含んでいます。

 今挙げたタンマだけでは、まだ利益がありません。もう一つ意味が必要で、それは望ましいタンマです。私たちが拠り所にするために非常に望んでいる、善や美や真実や正義であるタンマです。善もタンマ、美もタンマ、真実もタンマ、正義もタンマです。そしてこのような形のタンマ、このような意味のタンマを、私たちは非常に求めています。

 みなさんがこのように仏教を学ぶグループを作ったのも、目的はこれ、つまり個人的にも社会的にも平和に暮らす原因である、善と美と真実と正義という意味のタンマに到達することを目指しています。タンマという言葉の意味、言葉としての意味はこのようです。

 あまり多すぎて、一つ一つに分類することはできませんが、道徳や真実のような大きなものだけを取り上げてお話します。道徳の類は、社会の平和のために規定されています。一般社会は、聖向、聖果、涅槃に到達する最高のタンマの行動をすることはできませんが、社会を平和にする道徳をみんなで行動することはできます。それを「道徳」と呼びます。

もう一方の真実はもっと深く、人間が想像したこともない最高に素晴らしい物に心が到達すること、つまり聖向、聖果、涅槃です。真実にはこのような目的、このような義務があります。これは、道徳の部分のタンマは社会に必要であり、真実であるタンマは個人のためにある、ということを表していて、どれだけ探求する力があるか、そしてどれだけ行動できるかといういことです。これが、タンマとは何かという問いに対する答えです。

  学生のみなさんが良く目にし、耳にしている言葉はまだあります。パリヤッタム、パティバッタム、パティヴェータムと聞いているタンマです。

パリヤッタムは勉強のことで、何の勉強でもパリヤッタムと呼びます。そして勉強したことを実際に行動し始めれば、実際に行動することをパティバッタムと言います。その実際の行動から正しい結果が生じれば、それをパティウェータムと呼びます。ですからタンマという言葉は、パリヤッタム、パティバッタム、パティヴェータムになります。

仏教でパリヤッタムと言えば、三蔵と三蔵に関わるいろんな勉強を意味します。パティバッタムは、一般に言われているように戒、サマーディ、智慧で、パティバッタムは聖向、聖果、涅槃です。しかしこれらすべてをまとめれば、勉強でも実践でも成果でも、滅苦に向かわなければなりません。だから私たちは苦と、滅苦を勉強し、滅苦のために実践し、滅苦という結果を受け取ります。どれもみなタンマです。

 短くまとめれば、滅苦をさせるものがタンマです。どうかみなさん、これに到達する目的を持ってください。タンマという言葉の短い要旨は、このようになります。

 

 次に、「みなさんはどのようにタンマと関わるか」という三番目の問題になりました。すみません、「ブッダに関する限り」という言葉を頭に挿入させていただきます。必ず知らなければならない重要な項目で、私たちはブッダからタンマをいただいているからです。ブッダをタンマの勉強をする時の基準にすれば、タンマは三つに分類することができます。ブッダが大悟したタンマ、ブッダが教えたタンマ、そしてブッダが外部から採り入れたタンマです。順にお話します。

 初めに、ブッダが大悟されたタンマですが、「一切智」という言葉を理解しなければなりません。

 「一切智」という言葉は、すべてを知っているという意味ですが、よく誤解されています。学生のみなさんは誤解するべきではありません。一切智とは、知るべきことすべてを知っていること、と正しく理解しなくてはなりません。「知るべきこと」とは、苦を絶滅させることだけで、何もかもという意味ではありません。

 ご寛恕ください。ブッダを軽蔑しているのではありません。学生のみなさん、簡単に理解してください。ブッダは一切智と言っても、現代の中国語で話すようにお願いしたら、できるでしょうか。これは一切智の範囲の問題ではありません。

  一切智の範囲は、どうしたら完全に苦を滅すことができるか、という問題だけです。しかしブッダは、上手く自動車の運転をさせることはできます。あるいは中国語を話せなくても、中国人にブッダの教えを分からせることはできます。

 要するに、ブッダ自身も含めたすべての生き物を苦から脱出させる様々なことを、ブッダはすべて知っていて、知らないものはありません。これを一切智と言います。現代人に多い、あるいは世界中のほとんどの人のように、頭からこぼれるほどあっても危機を脱すことができないような知識をすべて知る、という意味ではありません。

 仮に、今世界中にある知識をすべて集めても、世界の不幸を無くすことはできません。そのような知識は一切智の範囲ではありません。だから一切智という意味は、どうしたら苦を絶滅できるか、ということに限定したすべてを知ることです。

 一切智は、「アリヤ」、あるいは「アリヤタム」と呼ばれる種類のタンマを知ることです。アリヤとは素晴らしいとういう意味で、言語的には、敵から離れ去るという意味です。アリは敵で、ヤは行く、離れるで、アリヤは敵から離れ去るという意味で、敵がなくなることを意味します。

 敵がなくなるとは、煩悩と苦がなくなることで、煩悩と苦がない点が素晴らしいのです。だからアリヤタム、あるいはユーイヤタムとは、煩悩と苦を絶滅させるタンマという意味です。これが、一切智と呼ぶほどまで完璧に、ブッダが大悟したことです。

 タンマを本物、あるいは真実(サッチャ)と呼ぶ法則として述べるなら、アリヤサッチャと呼ばなければなりません。ただの真実ではなく、頭にアリヤをつけなければなりません。ただの真実では、何の利益もない真実もあるからです。それでも真実、あるいは本物です。だから真実という言葉は広くてぼやけるので、頭にアリヤをつけて、素晴らしい真実としなければなりません。

そうすれば敵、つまり煩悩から離れ、滅苦ができる素晴らしいものになります。これが、ブッダが大悟したものです。だからみなさん、タンマと呼ばれるもの、あるいは真実でも何でも、かならずアリヤという意味、つまり、いつでも滅苦の意味の価値があることが重要だと、良く理解しなければなりません。

 今はタンマという言葉を使わないで、たとえば「何の宗教を信じていますか」、「ブッダはこういう宗教を公開した」などのように、宗教という言葉を使います。この宗教という言葉を、ブッダは使ったことはありません。後になって人々が勝手に使っただけです。

ブッダは「タンマ」、あるいは「ブラフマチャリヤ(至高の品行。梵行)」という言葉を使いました。現代人が「どの宗教を信じていますか」と言うのを、ブッダの時代のインドのように、「あなたは誰のタンマが好きですか」と言うなら、「あなたはゴータマサマナのタンマが好きですか、それともニカンダナータプトラのタンマですか」というように言えば、宗教という言葉を使う必要がありません。タンマという言葉を使いました。

しかしブッダが使い、主張したのは、ブラフマチャリヤ(梵行)です。ブラフマチャリヤという言葉は、異性間の行動を慎む(純潔)という意味ではありません。それは意味が狭すぎます。どんな素晴らしさであれ、素晴らしい行動、すべての普通の行動より、格段に素晴らしい行動にしようと決意してした行動なら、すべてブラフマチャリヤと言います。

だからブラフマチャリヤとは、聖人になるまで煩悩を消滅させる行動を意味します。これをブラフマチャリヤの行動と言います。だからブッダが、「出家になりましょう。苦を終わらせるために、ブラフマチャリヤの行動をしなさい」と言いました。私たちが使う宗教という言葉の代わりに、ブッダはブラフマチャリヤという言葉を使いました。

ブッダが大悟したタンマはこれ、アリヤサッチャ、アリヤタム、あるいはブラフマチャリヤを意味すると理解してください。つまり、煩悩や苦に踏みつけられることがない素晴らしい生活規範を、ブラフマチャリヤと言います。それが、ブッダが悟ったことです。すべて滅苦に繋がることばかりです。

次に私たちはこれを好みません。楽しくないからです。世界を二分すると言われるような、逸脱した話を好みます。タンマの質問をしたくなるのは、「死後に生まれるか、何に生まれるか、どう生まれるか」と、このようです。これはブラフマチャリヤと関わりません。ブラフマチャリヤの糸口ではありません。

だからブッダはこのような質問には答えられませんでした。ブラフマチャリヤの糸口ではないと、切り捨てました。ブラフマチャリヤの糸口とは、掴んだらそのまま滅苦に導くという意味です。それをブラフマチャリヤの糸口と言います。

私は完璧に滅苦に向かう話しかしません。そうすればタンマの話、あるは仏教の話になります。死んだ後に生まれるか、何に生まれるか、と質問すれば、仏教のタンマに関わりがない、仏教教団員の問題ではない、まったくタンマと関係がないと主張させていただきます。

タンマ、あるいはブラフマチャリヤは、滅苦に向かうだけです。これを、非常に限定した意味があると言います。つまりブッダが大悟したこととは、タンマあるいは真実、あるいはブラフマチャリヤを意味し、まとめれば、煩悩や苦に支配され、踏みつけられることがない生活規範です。

 次は「ブッダが教えたタンマ」と言われるものです。

 学生のみなさん、「比丘たちよ、過去も、現在も、私が規定して教えるのは、苦と、苦の消滅だけである」という重要な言葉を憶えてください。それは苦の話と、滅苦の話、二つしかありません。ブッダの言葉は、このようにはっきり主張しています。他の話はせず、話そうともしませんでした。なぜなら今述べたように、ブラフマチャリヤの糸口ではないからです。

 もしみなさんが外国人から、ブッダは何を悟ったのか、何を教えたのかと質問されたら、先ほど言った、「比丘たちよ、過去も、現在も、私が規定して教えるのは、苦と、苦の消滅だけである」という言葉で答えてください。ですからこれが、ブッダが教えたことです。

しかし苦と呼ばれるものに、苦の原因を加えることもでき、滅苦に、かならず苦を滅す方法を加えることもできるので、二組、あるいは二種類になり、これを四聖諦と呼びます。学生のみなさんは、「これは古臭いものでも、時代遅れのものでもない。人間誰もが知らなければならないこと、そして苦を消滅させるまで厳しく実践しなければならないものだ」とすぐに分かります。

 哲学、あるいは哲学風にまとめると、次のようになります。ある時ブッダに、「あなたが教えていらっしゃるすべての教えを、たった一言にまとめることはできますか。できるならそれは何ですか」と質問した人がいました。ブッダは「できます」と答え、そして、「何物にも執着するべきでない」と要約しました。パーリ語では、「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」です。

ここで言う「あらゆるタンマ」とは、冒頭で述べたように何一つ例外のないすべてのものという意味です。小さな埃の一粒から、最高に価値のあるもの、涅槃までタンマという言葉に含まれますが、これらの何にも執着するべきではありません。

そして続けて、「この一言を聞けば、私の教えのすべてを聞いたこと、この項目を実践すれば、仏教のすべてを実践すること、この項目の実践の利益を受け取れば、仏教のすべての利益を得ることです」と言われました。なぜなら、私、私のものと執着することが身勝手の原因であり、戒や律への違反など、するべきでないことをする原因で、様々な種類の煩悩を生じさせ、ことごとく苦になるからです。原因は、すべて何かを自分、自分のものと執着することです。

 明らかに理解した結果執着しなくなれば身勝手はなくなり、身勝手がなくなれば戒や律に反することもありません。自分自身で考えてみれば、どの項目の戒に反すことも、規則に反すことも、すべては何らかの形の身勝手、自己中心主義だということが見えます。だから外国人や異教徒に答えるために、仏教の要旨のすべては、ブッダ自身が言われているこの文にあると憶えておいてください。

仏教の要旨と言われるこれ以外のものは、後世の人々が勝手に言ったものです。ブッダはああ言われた、こう言われたと、たくさんあります。しかしブッダ自身が言われたのはこういう言葉です。これを実践することは、すべてを漏らさず完璧に実践することです。身勝手でないこと、つまり何にも自分、自分の、と執着しないことが滅苦だからです。

すべての滅苦の手法は、何でもすべてこれに集約されます。戒のすべての項目を順守するのも身勝手を無くすため、サマーディも身勝手を抑え鎮めるため、ヴィパッサナー(観)あるいは智慧を増やすのも、本性や習性から身勝手の根を根こそぎ抜き取ってしまうためです。

聖向、聖果、涅槃に到達することも、段階的に身勝手を減らし、根絶させ、自分、自分のものという執着をなくすことです。だから仏教の重要な要旨すべてを集約したもので、これを「ブッダが教えたタンマ」と言います。

 

 次に、ブッダが外部から採り入れるのを認めたタンマについてお話します。それは次のような意味です。ブッダが生まれる前にもタンマを教えていた人がいたので、ブッダは、それらの教えを否定するか肯定するかという問題に遭遇し、最終的に、ブッダが教えようとする言葉と適合するものは、肯定して採り入れました。それで「古い教え」という言葉ができました。

たとえば、「恨みを恨みで抑えない」です。ずっと昔から、恨みは恨まないことで抑えます。そして最後に、これは古い教えである、という言葉で終わっています。いつからか、誰も知らない昔からのものです。ブッダは受け入れて教え、昔からのものだと言っています。

 「苦しめないことは極めてタンマである」。これも古いものです。私たちは、これはブッダの教えだと向きになって主張することはできません。三蔵の中のブッダの言葉にはありませんが、苦しめ合わないことは極めてタンマであると教えることは、正しいことであり、そして古いものだと認めています。このように道徳の部分のものもあります。

 涅槃や阿羅漢など、真実の部分もあります。彼らはブッダ以前から教えていましたが、意味が違います。彼らの阿羅漢は違う意味で、彼らの涅槃も違います。ブッダが大悟して、阿羅漢や涅槃について教えると、梵綱経に出てくる、彼らが規定した「五欲が満たされた涅槃」というような規定はできません。

 あるいは「涅槃は第四禅定などの深い禅定から生じる幸福である」も、同じく梵綱経で述べられていますが、こう言うこともできません。涅槃は、煩悩の完璧な滅亡でなければなりません。

 これを、ブッダが言葉、あるいはその言葉を受け入れて使われたと言います。そして、このように新しい意味にしたものもあります。これを、ブッダが受け入れてブッダの教えにしたものと言います。この宗教界の教えでもあります。こういうのも、みなさん憶えておいてください。

彼らのものを自分のものと主張しないでください。ブッダは、他人の物を横取りすることを、あるいはブッダの弟子が他人にそうするのを決して望まれません。ですから私たちブッダの弟子は、ブッダが他の教義の教え、あるいは他の宗教の教えを横取りしたと非難されないように、慎重にしなければなりません。

 ブッダが大悟したタンマ、ブッダが教えたタンマ、そしてブッダが外部から、あるいは前からある他の教義から採り入れたタンマも、タンマとは何か、という言葉の説明に含まれることを、憶えておいてください。

 最後は、どのようにタンマと関わるかという項目です。私たちは自分について良く考えなければなりません。一人の人間であると同時に、タイ人であり、仏教教団員という立場もあります。そして狭めれば、今勉学中の学生である立場の自分もいます。

みなさんは人間としてふさわしいタンマとの関わり方を知らなければなりません。つまり人間という名前にふさわしい高い心があることです。煩悩つまり苦を、水に譬えて、水浸しにならない高い心という意味です。これです。水浸しになれば人間でなくなります。みなさんは、少なくとも、適度に煩悩より上にいる状態でなければなりません。

タイ人としては、タイという言葉の意味は最高で、自由自立という意味です。しかしみなさんは自立しているかどうか、判断しなければなりません。何が自由にさせるのかは、タンマ以外には何もありません。タンマが私たちを煩悩から自由にしてくれます。どの方向であれ、あらゆるものの奴隷という感覚から解放してくれます。

仏教教団員としては、意味的に正しい仏教教団員でなければなりません。ブッタとは、「目覚めた、明るい、知る」という意味です。みなさんは、何が何かを知らなければなりません。特に滅苦についてで、それを知れば、目覚めた、つまり眠りから覚めたと言います。眠りとは無知、眠りとは煩悩です。眠りから覚めれば、今咲き誇っている花のようにみなさんは明るくなります。

学生さん、みなさん、正しい仏教教団員になるには、知る人、目覚めた人、明るい人に到達すれば、誰でも仏教教団員になれます。まだみなさんが自分のことを学生と呼ぶ子供、あるいは若者で、智者の教育を受けていれば、これから知る人、目覚める人、明るい人です。あるいは必ずこれから知る人、目覚める人、明るくなる人です。仏教教団員である学生の意味を、このように理解してください。

みなさんが一所懸命勉強している他の知識は、私たちを知る人、目覚めた人、明るい人にすることはできません。正しい学生になるには、あるいは善い仏教教団員になるには、不十分だと理解してください。すべての世俗的な知識が、財産と名声と、栄誉と出世と、あるいはそのような物しか与えられないとしたら、滅苦に関して知り、目覚め、明るくさせないなら、まだ不十分と見なさなければなりません。

目指すものに到達するまで探求しなければなりません。これを、みなさんが仏教を学ぶグループを作った目的と捉えてください。仏教教団員になるために、みなさんはこれから知り、目覚め、明るくなります。いま知ろうと、目覚めようと、明るくなろうとしています。そし必ず知り、目覚め、明るくなります。

学生のみなさんの日常生活で、どんな方法でタンマを使うことができるか、という項目について詳しく見るには、先ほどお話した教えの項目を思い出してください。ブッダの教えのすべてをまとめた、「あらゆるものに執着するべきではない」という言葉。これは、非常に誤解されているかもしれません。

たとえば執着しないなら、なぜしなければならないのか、なぜ勉強するのか、と理解します。しかし正しくはブッダは、全員がすべてのことに執着しないで、何でもするように望んでいます。だから、空っぽの心、あるいは執着しない心はどのようかが、理解しにくいのです。それでは仕事や勉強ができるわけがありません。何もできません。だから執着しない心について、例を挙げて、適当な説明をしなければなりません。

 銃を撃つ時、もしその人が銃の名手なら、執着しない空っぽの心があります。つまり、自分、あるいは俺という執着、俺が命中させて賞品をもらう、有名になるなどという執着がありません。自分がある、あるいは自分のものがあると感じる考えを、全部追い出せば、残るのは空っぽの心で、撃つ決意のある心、命中させようとする心だけです。こういうのをサマーディ(三昧)と言います。

 このサマーディという言葉も、たとえばその人の強い野望がなければならず、そして烈しい行動があると誤解されています。これでは撃てません。ますます的を外します。なぜなら心は、失敗やその類の恐れで震えているからです。自分、自分のもの、という執着が介入して混乱させ、空にしないでの、「自分」を取り出してしまい、まったく気にしなければ、この時自分はありません。

 あるのは手、あるいは命中させようと決意した気持と、体の器官だけです。そうすれば撃つ度に命中します。だから日本の禅のある派では、この手法で弓を射る練習をする人たちがいます。矢は奇跡のように的中します。

 もっと簡単な例では、空っぽの心というのは、例えば若い子が、その子の普段の行動として歌を歌っても、私たちが小声で歌を歌うほどの意味もありません。これを、その時彼の心は空っぽで、苦はないと言います。しかしその子が、もし愛に目覚めて歌を歌えば、あるいは異性間の意味があって歌えば、空っぽの心ではなく、混乱した心ですから、かならず苦です。

 もう一つの例は、船の船頭が日差しの下で滝の汗を流しながら、あるいは流れに逆らって漕いでいるとき、その人の心が空っぽなら、歌を歌うことができ、そして気持良く歌いながら櫓をこぐことができます。しかしちょうどその時、面倒な考えが生まれて、「俺」「自分」が生じ、妻子や家族のことを考えれば、その人の心は混乱し、歌は出なくなります。そしてたちまち生き地獄に落ちたような苦になります。

 だからみなさんが何かをする時、混乱した心でするか、空っぽの心でできるかは、場合によります。そして、その空っぽの時は、「私、私のもの」と何にも執着していない、ということを観察して見てください。それを空っぽの心と呼びます。

 たくさんの日本人が習っている生け花は、先ず心を空っぽにしなければなりません。それからこうやって花を挿していきます。活け終わると、その一かたまりの花に、一つの意味が生まれます。自分の心が、勝ちたい気持ちや、生け花で世に出たいという考えで混乱していれば、活けた花は違う形になります。教えている先生は、見るだけで、心が混乱している人が活けたか、どれくらい心が空か、すべて見破ってしまいます。

 つまり空っぽの心と混乱した心では、働き方が違うということです。これは、心が空っぽだったら何もできないと理解している人、あるいはもっとひどいのは、心が空になると、岩や材木のようにカチカチになると誤解している人までいる、解決していただきたい問題です。

 結局、どんなものも自分、自分のものと執着するべきではない、という仏教の要旨を使わなければなりません。それを、話す時、考える時、行動する時の教えにします。仕事をする前も、空っぽの心でなければなりません。働いている時も空っぽの心でなければなりません。仕事の結果を受け取る時も、空っぽの心でなければなりません。でなければ、いつでも苦があります。

心が空っぽならば、どんな仕事も楽しいです。たとえ床拭きの仕事も、悪臭のする果樹への水撒きの仕事も、心が空っぽなら何でも仕事が楽しくなります。心がぎゅうぎゅう詰めなら、どんな仕事も苦痛になります。以前は楽しくて良い仕事だと満足していた仕事も、それでも苦になります。つまり身勝手な心がなくなるよう、自分がなくなるよう努力しなさい、ということです。自分、自分の、という執着が無くなれば、完璧な仏教の教えがある生活をしているということです。

 

 最後は細かいこと、つまり煩悩は非常に捨てるのが難しいので、注意をしなければならないという項目です。昔ばなしの形でお話させていただきます。本当は昔ばなし、あるいはジャータカ物語(本生経)は、価値ある物が仕舞ってある容器のようなものです。あるいは価値のある物を保存してあります。

 どうかみなさん、無関心になってしまうほど、その容器に価値がないと見ないでください。ご飯を炊く時に鍋やお盆がないと困るように、容器は、何かを大切に保存するには不可欠です。タンマも同じです。まとめて容器、つまりジャータカや昔ばなしの中にしまっておきます。

 どうかチュラチョムクラオ王(ラーマ四世)の文章を読んでください。当時書かれたジャータカの本の一号に、ジャータカの価値についての評論があります。みなさんも昔ばなし、あるいはジャータカの価値を理解するでしょう。

しかし今でもそうですが、容器があると、容器のことを考えて、ジャータカ、あるいは昔ばなしをそれだけの話と見てしまって、意味に到達できません。だからジャータカや、仏教の中に山ほどある昔ばなしを軽蔑します。

しかし本当の意味をしっかり掴み出して見れば、そして真実は、動物や草木が喋れることにあるのではなく、彼らが何と言ったかにあると理解すれば、非常に重要です。人々が好んで語る、そして私が学生のみなさんにお話ししたいのは、おじいさんとおばあさんの話です。

 おじいさんとおばあさんの夫婦二人は、長い間二人で暮らしていました。しかし性質は正反対で、おばあさんは頑固者で、おじいさんは穏やかな人でした。タンマがないのとタンマがあるからです。時間を経るごとにおばあさんはどんどん頑固になるので、おじいさんは我慢できなくなり、寄付する決意をしました。

寄付というのは、森へ行かないように言えばますます行き、淵に近づくと落ちるから近づかないように言えば、ますます近づき、重い石を持ち上げて淵に近づかないように言えば、ますます石を頭の上に持ち上げ、そしておばあさんは本当に淵に落ちて死んでしまいました。

 話は続きがあります。その淵の幽霊は、後から落ちてくる人がいれば、上がってきても良いという呪いがあったので、次の人が落ちた時、おばあさんの幽霊は外へ出ることができました。上がってくると大暴れして、あちこちの人にとり憑いたので、世間は大騒ぎになりました。

 それまで幽霊が人にとり憑くことはなかったのに、今は幽霊が人にとり憑くからです。それで村中は大騒ぎです。お爺さんも見に行きました。遠くからお爺さんの姿を見た幽霊は、淵から出たら人間と関わってはいけないと言われた、おじいさんとの約束を破ったので逃げ出しました。

幽霊は走って逃げ、おじいさんは追いかけ、その結果幽霊が倒れて山にぶつかり、頭蓋骨の中の油が世界中に飛び散りました。それから問題、世界に困難ばかりが生じました。たとえば大麻、モルヒネ、などです。幽霊の油は、中毒性のもの、抜け出せない物になりました。賭け事も抜け出せません。お茶やコーヒーや、現在喫われている煙草になり、これも抜け出せません。

そのために年間何百万か分からないお金を失っています。あるいはそれ以上のものになって、学生の中には純金のペン先の万年筆をこっそり売り払い、ディスコで踊るお金に使う人もいます。それで両親には失くしたとか何とか言って、そこそこの物を買って使います。こういうのはどうか、考えてみてください。何が難しいのでしょうか。

 「捨てにくい煩悩を洗い落とす石鹸はない、幽霊の油くらい落とし難い」と解釈してください。その悪い結果を受け取っているすべての人に現れています。ところで、昔ばなしや容れ物は重要ではありません。重要なのは、彼らが何を言いたかったかです。昔は世界に幽霊はいなかったが、世界の発展に伴って、人間の煩悩が発達した時に現れたことを意味しています。

人間がいろんな物を考え出すことだけに賢くなったので、魅力があって、粘って落せません。形、声、香、味、触にますます酔うので、捨てられなくなり、その結果世界中が、たとえば教え子である学生が先生を敬わないなど、こういう状態になります。これらの魅力的な物に囚われているので、オタマジャクシであることから抜け出せません。きっといつまでも親に意地を張り続けるでしょう。これらを知り、理解できなければ、タンマから得るべきものに、少しも到達することはできません。

 だから学生のみなさんが、お話したことをよく考え、タンマとは何か、そして支障なくどう関わることができるかが分かるまで熟考していただけることを願っています。そして学生の世界でも、大学のクラブでも、仏教クラブを作った目的を達成されますよう。

 お慈しみによって開催された講義は、以上で終わらせていただきます。

 


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