青少年の道徳を高める

 

                                                  1965年4月27日

                                               教職員議会定例会にて

 議長ならびに教職員のみなさん、今日は「道徳」というテーマでお話しますが、今日の会合の「青少年の道徳を高める」というテーマに合わせて、はっきりと、あるいは意味を狭めて説明せていただきます。

 これからするお話は、長い間この問題に特別な関心を寄せてきた私自身の、単なる個人的な考えにすぎないと捉え、理解していただきたいと思います。こういうお話をすることは、私の、そしてすべての比丘の義務だと思います。ですから何か学問的なことを聞こうと思わないで、私の見方としてお聞きください。私が長い間観察し、学習し、考えて来た、後で役に立つことをお話します。

もう一つ、例外として自由にお話させてくださいと申し上げておきます。人々が言っていることと「反対側」とか「抵抗側」と呼ぶなら呼んでください。あるいはそれ以上のことを言われても、お話しするべきだと思います。他の人に見えないことを話すのは私の義務です。あるいは悪い面、悲観的な見方までお話できればもっと良いです。

 みなさんがこの集会で全部話しを聞くことができるよう、自由にお話します。みんな同じように話したり、長所や褒める部分だけを話すのでは、完璧でないに違いありません。これが先生方にお断りしておきたい初めの項目です。

 次に、道徳という題にしたことについて述べます。この言葉の使い方は非常に難しいと感じます。つまり倫理という言葉と混同されています。時には道徳のことを考えて倫理と言い、またある時は倫理を考えて道徳と言ったりします。ですから理解に関して復習、あるいはこの問題に関心のある皆さんの間で、「なんなら倫理という言葉を Moral、あるいはMorality とし、道徳という言葉を Ethics にする」と、新たに理解し直したいと思います。

 いろんな本を見ると、Ethics とはモラリティの哲学(フィロソフィ)と明記されていますから。モラリティとモラリティの哲学は同じではありません。エティックスを、道徳と呼ぶ言葉の意味とし、モラリティを倫理とすれば簡単に区別でき、あるいは道徳と一致します。

 良く考えてみてください。私たちがパーリ語を知っていれば、学んできた限りでは、チャリヤというのは「行なうべき」あるいは「するべき」という意味であり、「行動した」という意味はありません。これは考えること、夢見ることである哲学と正反対です。

 シーラダンマという言葉は、現在していること、あるいはし終わったことという意味でなければなりませんが、偶然倫理という言葉と一致します。シーラとはパーリ語で「正常であること」「正常でいること」「あるいは普通であること」、つまり行動している、あるいは行動し終わったことで、一語で済ませるなら、「慣習」とするべきです。

 道徳とはするべき行い、しなければならないという意味で、もっと行動し、もっとたくさん議論しなければならず、一方倫理は現在していることです。語句で言えばこうなります。そして意味で言えば、道徳あるいは Ethics は、思考しなければならない哲学に入り、時には暴走しすぎて実行されないものになり、理論になることもありますが、倫理あるいはモラリティは、実際にしていることであり、直面している問題です。

 ブッダは道徳家か倫理家かと言うなら、この原則で言えば倫理家であり、道徳家ではありません。率直に言うとブッダは哲学が大嫌いでした。つまり理論や学問だけとして話すのはみっともないことと軽蔑していたので、ブッダは倫理家です。つまり目前の問題について、すぐに実践できることだけ述べ、そして事実そうしました。

 悪を避け善を行なうためにすることは、理解という点ではそれほど難しくないと、誰もが見ています。しかし、そういう行動をするよう自分自身を強制するのは難しく、あまり実行できません。ここが難しい点です。ですからブッダはどちらかと言うなら、エティシストと言うよりはモラリストと言わなければなりません。

つまり道徳家と言うよりは倫理家でした。タイでは、書き言葉としてこの二つの言葉が曖昧に使われています。何なら代わりに私が、道徳は Ethics という意味であり、倫理は Morality という意味に定義してはどうですかと、考えます。

 これからお話する「青少年の道徳を高める」という話ですが、これは曖昧でしょうか。Ethics という意味、それとも Morality でしょうか。私は今日、Ethics より Morality、倫理を意図していると捉えたいと思います。

理論として、あるいは哲学として、あるいは論理として話すには、「豆に火が通らないうちに胡麻が焦げる」と言われるように、すでに遅すぎるかも知れません。ですから倫理という意味での道徳についてお話しします。つまりは Ethics というよりは Morality という意味です。

 まだ、倫理という言葉も非常に広いという問題があるので、そこで青少年に関わる倫理に焦点をしぼります。特に青少年というのは、目前の、火急の問題ということです。だからここで意味する倫理とは、青少年についてだけです。今日は、次の題でお話します。

1.青少年の病気。病気とは、望ましくないものという意味です。

2.その病気の原因

3.医者、あるいは研究者、あるいはその病気を治療する人

4.薬の威力。あるいは子供に薬を与える様々な動機

5.治療のための薬

6.どうしたら病気でない状態にできるか

7.記憶するためのまとめ、とします。

 この項目は一般的な教えでなく、私が好きに捉えたということが分かります。たとえばどうしたら病気のない状態になれるかということなどは、最後です。しかしこれは聞き易いか聞き難いか、どうぞ聞いてみてください。

      

                       1.青少年の病気 

 最初の問題は「青少年の病気」です。私は病気という言葉を使います。パーリ経典では病気という言葉を使い、このような状態、あるいは症状を「心の病気」、あるいは「煩悩の病気」「精神の病気」と、いろんな言い方で呼んでいるからです。人が煩悩に支配されて見苦しい行動、望ましくない行動をしてしまう状態を、パーリ経典では病気と呼んでいます。この病気という言葉には少なくとも三つの意味があります。

 一つは「体の病気」。これは説明する必用はありません。そして神経などに関係のある、体に関連した「心の病気」。これも話す必用はありません。そして三つめは、体とまったく関連のない「精神の病気」、つまり知性や考え、あるいはそういったものの病気です。病院も担当医もそろっている体の病気と、心の病気は別のものとして区別してください。

 一方精神の病気は、倫理の問題、あるいは道徳の問題です。この言葉を定義すれば、心が煩悩に支配されたために心の持ち方を誤り、身勝手に行動する状態です。どんな煩悩であれ、すべてこういう状態になります。タイの青少年の病気は、今こういう状態になっています。

 つまり心が煩悩に支配されているので、心の持ち方を誤ってしまい、身勝手な行動をします。だから子供たちは道徳の病気、倫理の病気に罹っていると見なすことができます。

 他にも病状に関する事実があります。ただ「青少年の子供たち」と言うとき、もしかすると曖昧、あるいは意味が広すぎるかもしれません。この青少年という言葉にもいろんな種類、いろんなレベルがあります。これも大雑把にひとまとめに判断しないで、良く考えてください。

 今病気になっている子供たちは、少なくとも三つのレベルに分けられます。大部分は同じでも、一部には大きな違いがあります。ほとんどは発展した社会の教育によって青少年の倫理が悪くなったと見ます。これはどの年代も、種類も、階層も全部同じです。あるいは、発展した社会の教育レベルより、青少年の倫理の方が悪化しているとしても、これらの事実は全部同じと見てください。

 今の子供たちは物理的にはとても綺麗に生まれて来ることを認めます。スタイルも良く器量も良く、二十年前、三十年前よりずっと綺麗です。これは誰でも見て分かる事実で、心理学的、あるいは生物学的な問題です。

 しかし子供たちが胎内にいるときから綺麗になったのは、心が綺麗になったという意味ではないことは、見れば分かります。その子供たちが大きくなって、知識や知恵が増えると、反対に道徳が減るということが分かります。これをグラフに描いて見れば、子供の年齢が増すほど、知恵や知識の指数は高い方へ脹れますが、倫理は反対に低い方へへこみます。これが一般的な事実です。

 しかしこの事実で、すべてのレベルの子供の問題を解決することはできません。今問題になっている子供たちを、病状によって、少なくとも三つのレベルに分けなければなりません。

 たとえば初めのレベルは最悪の、つまり今の人が言う「非行」の段階。その次は将来非行になるかもしれない段階。つまり誤った道に入る兆候があることで、三つ目は、まだ非行とか、非行になる兆しがあるわけではありませんが、精神的な苦があって、精神的に安全でない段階です。

 たとえばすぐに泣き、身勝手で、ひどくなると神経性の病気になり、簡単に自殺したりします。これも精神の病気と言いますが、非行と言うほどではありません。

 非行のレベルの子供たちは少なくない、多いと見るべきですが、教職員連盟とあまり関わりません。私は「非常に危惧すべき」「非常に危険」と思っています。ちょっとお時間を頂いて例をお話します。

その年頃の少年が、中国人に雇われてお寺の塗装をしたのですが、心が正常でなく、「まったくなっていない」と言われる仕事をします。塗料にふさわしい塗り方をしていないので、アドバイスしたら怒りました。怒るだけでなく、当て付けか意地悪か、わざと、更に間違ったことをしました。

 口の中でブツブツ何か言っていて、聞き取れませんでしたが、粗暴な言葉だということは分かりました。仕事をしながら仲間と話している時も、粗暴な言葉で怒鳴ってばかりいました。

 どうして私たちの美しいものが、粗暴な人、見たこともない振舞をする人に作れるだろうと、悲しくなりました。たとえば私のお寺で、果物を投げつける人など見たことがありません。初めてです。結局この二人の少年は、雇い主に解雇されました。

 彼らの行動を熟慮して見ると、このような行為は、彼ら自身にとっても何の利益もなく、私たちも損害があり、雇い主も損害があります。彼らの雇い主である請負業者に仕事をさせないで、断ったからです。だから雇い主も被害者、私たちも被害者、その若者自身も損害があると言います。これが火急の問題です。

 この件ばかりでなく、どこにでもある問題だと思います。どうか考えてみてください。こういう青少年が一つのレベルです。将来ずる賢くなるかもしれないレベルで、まだどちらとも判別できません。

 泣き虫で、いずれ神経の病気になって簡単に自殺する可能性のある、三番目のレベルも心配しています。ですから先生方のみなさん、今述べた少なくとも三つのレベルの子供たちのことを考えてください。すべてに同じ規則を使わないでください。それは滑稽で愚かです。

 考えてみれば分かりますが、今世界には、恐ろしい規則があります。たとえばどこの国でも、何か法律を作って誰にでも同じように適用します。こういうのは正しいでしょうか。考えてみてください。良すぎる法律は却って非常に危険です。つまり何かをする時に、その法律を適用するのに非常に時間がかかって、誰が見ても使い物にならないと思うようなもので、それが良すぎる法律です。

 同じ条項の法律をすべての人に適用するのは、ブッダの教えで言うと間違っていると信じます。ブッダは、粗暴な人には粗暴な方便を使い、繊細な人には繊細な方便を使うと主張しています。そして殺すべき人は殺します。

 要するに、現在の世界の人たちには理解できない奇妙なことがあり、人間が解決できないほどの問題が増えているのは、すべてのことに関して愚かだからで、当たり前です。

 青少年たちも今述べた同じ状況にあります。つまりいろんな法律や規則がレベルに合っていません。これも悪い結果になります。その他にも青少年は、環境によって益々複雑な問題が生じる道を歩んでいます。

考えてみてください。現代の子供は、タマリンドの若葉のスープを食べたこともありません。現代の高級料理のレシピにないので、他の方面ばかり渇望します。しかし食と、住に関わる高望みが、精神的なものを衰退させる凶原だということを忘れないでください。私たちは、子供たちが求める食の問題に関して、もっと考えなければなりません。

 一つ面白い例をお話します。本を印刷するために印刷機を探した時のことです。海外の印刷機を取り扱っている代理店に行ったら、中国製の印刷機を非常に安く売っていました。品質はそれほど違わないので、からかい半分に、どうしてこんなに安く売れるのか、使い物にならないのではないかと聞いてみました。

 相手は、私が知っていることを分かっていて、中国人は床に寝て大根を食べていますが、西洋人はベッドに寝て肉を食べるので、同じ品質の印刷機も同じ値段では売れないんです、とユーモアたっぷりに答えました。

 食住の問題がどれほど重要な問題か、考えてみてください。日本人の友達から聞いた話があります。日本の総理大臣の中には、子供の頃豆腐売りや新聞配達をして、それから新聞記者になった人などもいるそうです。そうした人は質素な食生活を体験しているので、国の統治者になっても、家では大根などでご飯を食べているそうです。

 だから反対の生活をしている人とは違う考え方になります。もしかしたら日本の民主主義に波乱がなく、武力や軍などを行使する必用がないように見えるのは、こうした理由によるのかもしれません。より自然に近い教えを掴んでいるからです。

 今私は、子供たちがこれらの物を、非常に性急に掻き込んでいることが問題であり、倫理に注意しなくなる原因と見ています。衣食住を求めれば求めるほど、得することだけ、お金のことだけ、お金で得られる楽しいことだけを考えるようになり、倫理に頓着しなくなります。

現代は子供が学校へ入る時、規則上正しくないお金がたくさんかかると話しています。中には泣く子供までいて、それで両親も泣きます。これも子供たちの精神が踏みにじられてしまう原因の一つで、その子が「復讐」を考えることがあるかもしれません。

つまり、学校教育が終わって大人になると、この面で、ますます恨みを晴らそうとします。涙を流すほどお金を使って、どこかの学校に入らなければならなかったのですから。だから子供の病気、あるいは子供の病気の原因について、いろいろな事実を、広く隈なく調べなければなりません。これが、青少年が実際に罹っている病気の症状です。

 

                         2.病気の原因

 次に病気の原因についてお話しします。青少年の病気の原因。そのほとんどは、彼らは煽情的な物が溢れている世界に生れてきたので、倫理を踏みつけにさせられてしまったことを考えなければいけません。彼らがこの世に生れ落ちた時、世界には煽情的なものが溢れていました。

 たとえば世界は魅惑的なもの、あるいは物質主義的なものが溢れていました。つまり目・耳・鼻・舌・体を通しての尽きることのない味わい、享楽で、増える一方でキリがないように見えます。これを物質主義の世界に溢れている魅惑と言います。子供たちが初めて目を開けた時から、これらの魅惑的なものに囲まれて、酔わされてしまいました。

昔は影で密かに囁かれていた言葉、その種の言葉が、今では一日中ラジオから声高に響いてきます。現実がどうなっているか、しっかり聞いて観察して見てください。公衆の前では口にするべきでない卑猥な言葉が、現代の流行歌の歌詞にあるのを、我慢して聞いてみてください。性に関する歌や、いろんな歌の歌詞にあるような言葉を、明るい所で口にできるのは売春婦、あるいは最低の女性だけです。

普通の人は話すべきではない、あるいは隠れて密かに話すことです。しかし今は、いつでもどこでもこういう言葉が聞こえるようになりました。私は詳しく言いませんから、自分で観察して見てください。

 もう一つ、昔は秘密の場所でしか見られなかった絵や写真が、今ではどこでも、道路から見えます。今の人は何も考えないで、お金になることだけ考え、そして猥褻なもの、不道徳なものと芸術とを混同させたので、人々が猥褻ではないと認めるようになりました。しかし子供たちに与えた影響は、いつでも猥褻な物が与える影響と同じです。つまり子供たちの心を低劣な方向に傾かせ、常軌を逸脱させるように染めます。

 一部の大人たちが、あちこちで物質的な幸福や肉体的な幸福を、強烈に崇拝する手本を示せば、子供たちは他になりようがなく、子供たちも性に溺れて崇拝するようになります。あるいは礼儀正しさや善悪の感覚、あるいはブッダと呼ばれるものよりも、性的な感覚を崇拝します。これが、子供たちが病    病気の原因によってどう変わるかです。

 この他にも、マスコミ、たとえばラジオや新聞やいろいろな広告が、売ることしか考えないで、性に関したことが簡単にお金になると見ると、売るため、あるいは宣伝効果を上げるために、それらの猥褻で不道徳なものを合法的に芸術と紛らします。立派な先生方が関わっているレベルが高いと言われる新聞にもある、と言いたいです。ですから先ず、どうぞ平常心で詳細に観察して見てください。

 不道徳とは、タンマの言葉で「羞恥心を失う」、あるいは「羞恥心が揺らぐ」という限定された意味です。現代人がこの言葉の意味をどう捉えているか、あるいは外国ではどうかは知りませんが、タンマで捉えれば、羞恥心を失わせるもの、あるいは羞恥心が揺らぐことを不道徳と捉えます。

 一流新聞の一流の作家による一流と言われる小説にも、こういう状態があります。つまり不道徳をいろんなものに紛らせて、人に信じさせようとしているのがあります。

次は歌と音楽についてですが、これも掌を返すように大きく変っていることを良く観察して見てください。音楽や歌、あるいは舞踊などのすべての芸術は、初めに人間は、心の憂さや怒りやイライラを静め、あるいは心の緊張を解いて正常にする価値を認めていたので、音楽や舞踊曲、あるいは舞踊の動き、あるいはいろんな歌は柔和で静かでした。特に私たち東洋の音楽や歌や踊り、殊にタイのものはそうでした。

今西洋のように、あるいは正反対に変化しています。いろんな音楽や歌や踊りは、強烈な刺激を求めるものになり、静めるため、休むため、正常に戻すためではありません。つまりリラクゼーションではなく、普通より強烈にする刺激です。神様が創って規定してくれた音楽やその類のものの、真の目的と違います。神様の御心への、あるいは自然のものへの反逆と言います。

 だから歌や踊りや、西洋の尻を追っているものは何でも、煽情的に刺激するものばかりで、静かに穏やかにするのではありません。タイの子供たちがこのような音楽や歌や踊りを好むようになったら、どうなるでしょうか。タイ的なものをすべて捨ててしまい、これらのものの良い影響が受けられません。だから今私たちは、ここが間違っていることを良く考えてください。

 昔のインドの芝居は、ヨーロッパでもシェークスピアの時代には、男だけで演じていました。男役も女役も、すべて男が演じていました。現代は、男役は男が、女役は女が演じ、そして演技が普通よりオーバーです。こうなので、同じ結果というわけにはいきません。子供の病気の原因は種類が多く、強烈で、このように広範囲ということです。今の子供たちは、このように倫理を踏みにじる煽情的なものの中に生まれたと言います。

 次にもっと身近なところを見てみます。子供たちを感化するためにしていることで、間違っているのではないかと疑うことがたくさんあります。たとえば休日と日曜日が重なってしまった時に、代わりの日に公務員が休むことです。これはいったいどういう意味があるんでしょうか。明らかに自分のことを考えているわけで、全体のこと、国のことを考えていません。そうじゃないですか。

 たとえば今年、三日の月曜日は労働の日の代休だから休まなければ、あるいは十三日の月曜日はヴィサーカの日が日曜日だからその代休だとか、あるいは二十五日の月曜日はラーマ五世の日の代休だから休まなくちゃ、十二月の六日の月曜日は国王誕生日の代休だから休まなくちゃ、というのは、考えてみてください。その日は国の日ですが、不利になるのを認めません。

ヴィサーカの日に代休を作るのは、宗教より不利になるのを認めず、別の日を代休として要求します。また別の日には、国王より不利になりたくなくて、国王の誕生日の代休で休みます。この目的が何かは知りませんが、子供たちへの影響として、少しでも不利になりたがらない、国に対しても、宗教に対しても、国王に対しても不利になることを認めない性格形成をしてしまうのかもしれません。

 これは、誰も意図しなくても、誰も考えなくても、本当のことを言えば、子供たちの性格を緊張させ、優位になろうとし、不利になることを認めず、他人を許さないように、あるいは前で拝み後ろで騙すような性格形成をしているように感じます。

 つまり口では国のことを考える、宗教を考える、国王のことを考えると言いながら、しかし休みます。休まなければなりません。譲ろうとしないで代償を要求します。西洋を真似たのか誰を真似たのかは、また別の問題です。しかし結果は、子供たちの性質を仏教徒の子に感化する形ではありません。仏教は犠牲を尊びますから、ブッダの教えに完全に反します。これが正しいか正しくないか、どうぞ後で考えていただくようお願いします。

 お爺さんお婆さんたちが、こんなに神経質になったことはありません。私たちの先祖がこのように神経質だったことはありません。これからの子供は、国や宗教や国王に対しても神経質な人になるので、心配だと思います。子供たちがこの世に生まれてそういうのを見ると、何も批判せずに身につけてしまうからです。

次に現代の子供たちは、不釣合いな便利さ、つまり過剰な物に囲まれて育つということを見ていきます。五、六十歳の人たちと違って、行き過ぎた便利さ、過保護の中で育ちます。それで子供たちの性質はどうなるでしょう。どうなる寸前でしょう。どうぞ調べてみてください。

 生まれた子供は玩具があり、食べ物があり、テレビなどの見るものがあるのが当たり前で、苦労して求める意味がありません。だから生まれれば必ずテレビがあり、何もする必要がないので、発言権を求めるようになるようなものです。もしそうだとすれば、その子の心は非常に心配な状態だということです。バランスをとる何かがなければなりません。でなければ、先生にとって難しい問題がどんどん増えます。

子供の病気の原因の最後は、子供たちに倫理的な行動を促すものがないことです。倫理を喜ぶよう促すもの、あるいは促すことに欠けています。どんな行動にも、動機と言われるもの、つまりそういう行動をするために、犠牲や奉仕を喜ぶよう心を促し、支援するものが必要です。特に倫理と言われるものには、動機は不可欠なので、倫理家は検討しなければならない問題の一つとしています。

 現代の子供は、倫理的な三つの動機すべてに欠けていることもあります。一般の倫理家の考えによる倫理的動機は、一つは宗教的動機です。天国へ行きたいとか、幸福になりたいとか、地獄を恐れるという意味で、お爺さんお婆さんたちにはたくさんありました。

 年寄りたちは地獄を恐れて極楽へ行きたがりました。こういう気持が、喜んで進んで倫理的な行動をさせる宗教的動機です。今の子供たちにはこの動機はまったくありません。地獄を怖がないし、極楽にも行きたがりません。

 二つ目の社会的動機は、社会的な恥を知ること、他人に嘲笑されたくない、他人から軽蔑されたくない、あるいは社会から好かれ誉められ尊敬されたいという感覚です。今の人は恥を知らなくなっています。みんなそれぞれ考え方が違うので、ある程度出世してお金があればそれでいいと思い、世間が何を言おうと気にしません。私たちが社会的動機に欠ける大人なので、子供たちも同じようになろうとしています。

 三つ目の政治的動機ですが、本当に国を愛し、宗教を愛し、国王を愛し、タイ文化を愛しているなら簡単に実行できます。しかし今、口だけで国を愛しているなら、あるいは子供たちが国旗でしか国を知らないなら、 国のことを考える、本当の国がありません。それでは国あるいは政治のために犠牲になることも、正しくなりません。これを、社会はこの道徳的な動機三つを、全部失おうとしていると言います。子供たちもそうなっています。

 これだけで、子供たちの病気の本当の原因と言うに十分です。私たちは、たとえば新たに正しい動機を作ることを考えるなど、原因を解決しなければなりません。これが青少年の病気の原因です。

 

                      3.研究医あるいは治療医 

  三項目は研究者または治療をする医者です。この「医者」というのは、先生方や、子供の問題を研究する責務のある国の研究委員会のことです。あるいは社会的にこういった問題の担当者である、お寺のお坊さんたちでもいいです。これらすべてをまとめて、「医師、または研究し治療する人」と呼びます。

 病気を研究する人、あるいは治療する人について、初めに何項目かの仮定をすることを受け入れてくださるようお願いします。

 医師が同じ病気に罹っていれば、本当に自分にその病気があっても、病気の原因を発見したり研究したりすることは困難です。あるいはその研究者は、原因を正しく見ることができず、原因でないものを原因と見ることもあり得ます。委員会や子供の病気を研究する人は、自分が子供と同じ病気に罹っていないかどうか、良く注意しなければなりません。

第1項で述べた子供の病気の症状はどんなだったかを考え、自分は同じ病気になっていないかどうかをチェックしてみてください。もし同じ病気なら、子供の病気を発見することはできません。もっとひどくなると、その研究者あるいは医師は、自分に何の病気があるのか見えず、自分は病気でないように見え、子供も病気でないように見えます。なぜなら何が病気なのか、どんな症状が病気なのか、何が何だか分からないことがあるからです。このように良く注意してください。

 次は研究者が研究範囲を広げすぎ、学術的すぎて実用的でなくなることです。つまり研究した、あるいは発見した理論が使い物になりません。いくら正しくても、広すぎて実践範囲外なので実行できないこともあります。あるいは象に乗ってバッタを獲るように、実践して得られた結果が小さすぎて割に合いません。

 これはきっと、冒頭で述べた事実、みなさんが倫理家というよりも、道徳家でありすぎることに関係がありそうです。もし道徳家でありすぎれば、理論に走りすぎて、いつ実行するかという結論がでません。これを行き過ぎと言います。

 これは、みなさんが学問的な理論ばかりを好むから、あるいは好む方へ向きを変えるからです。つまり実行者であるより、教師でありすぎるのです。あるいは農業や経済や何やらを教える教師でしかないので、自分で実践しないからです。そして実践しようとする人もいません。これを考えてみてください。

研究者である時は、自分が病気なのに自覚がない人と同じ状態で、研究者自身が病気であることに満足しています。時にはもっと凄くて、その医者が病気であることを、子供あるいは病人に見せてしまうことまであります。それでは人は尊敬せず、信頼せず、その人に研究したり治療したりしてもらいたがりません。これを、青少年の病気を研究する人にとって初めに見なければならないことと言います。

 そこで先生について、もっと狭めて熟慮して見ます。敢えてこう申し上げることをお許しいただくと同時に、主張したいのですが、東洋の先生方は今、「教師は精神の指導者」という昔の理想を、日に日に嫌っています。たとえばサンスクリット語などの古い辞書を引いて見てください。

「教師(グル)」という言葉は、「精神の指導者」という意味だけです。つまり精神的なガイドです。初めに人々が意味したのはそういうことで、教師と呼ばれる人もそういう義務をしました。子供に教えることでも、精神を高めるように教えたので、いつでも精神を導く人と見なされていました。

 現代は生き方の変化が大きいので、先生方は照れくさがり、精神的な扇動者になるのを嫌悪して、精神を高くするか低くするかを考えず、勉強や職業技術や何やらの知識だけを教えるために雇われた、と言う方へ向きを変えました。

 どうか、人が勉強や各種の学問を身につければ、自然に精神も高まっていくと考えないでください。それは確実ではありません。精神は低い方へ引っ張られることもあり得ます。グラフを作って観察結果を記入してみてください。この精神の指導者は非常に深い意味があります。

 勉強を教えることも精神を高めます。しかし子供の精神を高めることを考えずに教える教え方とは、方法が違うかもしれません。だから本当の先生は、勉強を教えるにも技術を教えるにも、いつでも学習者の精神を高くしなければなりません。この義務を十分果たすことができればお坊さん、あるいは宗教の修行者になります。人々の望みに叶った当たり前の仕事をすれば、先生と呼ぶことができます。

ブッダも、非常に精神を高くしてくれる人でした。十分に、最高にしたからです。そこまで高められないだけで、先生は本来の意味の理念を持つべきです。だから、精神の指導者という呼び方を嫌うべきではありません。

精神の指導者、あるいは精神の有り様を引き上げる人である先生という言葉を嫌うほど、西洋の考えにかぶれないでください。西洋の先生は、精神の指導者ある「先生」という言葉を知らないと信じます。この理念は東洋のものだからです。特にインドのものです。先生(グル)という言葉はインドの言葉です。

 インドの言葉と文化はタイの文化の源流です。ですからインドで使われている意味での先生という言葉は、仏教を含む様々なインド文化を受け入れてきたタイでも使えるはずです。これもインドの文化ですから。

 先生が、教師は精神の指導者という言葉を嫌うなら、先生は稼ぐこと、経済など物質的発展や向上を教えるだけの人になってしまい、タンマの方になる、精神を高めることを目指して教えなくなります。たとえば現代社会の教育は、精神的なことを教えません。特に、すべての生き物は自分のカンマで経過するというようなことを。

 こういうこと(因果の法則)を教えないことには、非常に大きな弊害があります。なぜならある種の人たちは、自分より良い人、恵まれた人の善や善の結果を奪おうと考えてしまい、自分も同じ国の国民だからという理由で、引っ手繰って平等にしようとします。こういうのは「すべての生き物には自分のカンマがあり、どんな善悪を作るかで、必ずカンマになる」というタンマを学んでいないからです。

だからある人が何も恵まれない時に、徳のある人は賢く生まれ、いろんなものに恵まれて非常に幸福になれます。これが正義であり公平であるべきです。こう見ることは正しい理解があり、高い精神があると言います。精神が低ければ「分配するべきだ」と考えます。こういうのは、かならず社会の状況を変化させ、解決できなくさせます。精神は、時代の発展や教育で高まることはないからです。

 ほとんどタイ以外には、世界中のどの国の文部省も、教師は精神の指導者と考える国はないと言えます。しかしタイでも、教師という言葉の昔の理念がどんどん嫌われ、結果として精神は低く不安定になり、反社会的な教えに対抗する砦になりません。

 外部から種が入ってくれば、新たな社会の危険である教えがタイ国内に増殖します。このように、このような状態で精神が低く、低くなます。だから青少年からまだ言葉も良くしゃべれない子供たちまで、正しい精神の状態があるよう、いつでもそれを高くしていくよう注意しなければなりません。

 先生が青少年の病気を研究するなら、こういうものについて良く考えてください。これが考えなければならない三つめです。

 

                       4.薬を使う権力

 四番目は薬を使う権力、あるいは子供に薬を与える動機についてお話します。権力とは強制という意味で、動機とは、進んですれば強制しないで促すという意味です。しかし私たちは二種類の方法をしなければならないように見えます。民主主義という言葉の意味も、捉え方を誤れば非常に危険で、つまり権力を使うべき時に権力を使いません。

 ですから民主主義という言葉の意味をよく勉強して、特に、非常に興味深い彼らが作った道徳の原則を捉えてください。これから熟慮してみてもいいです。ここでは、するべき人にするべきことを強制してさせる、という形の薬を処方する権力についてお話したいと思います。それを正しいと捉えるか間違いと捉えるか、実際に考えてみましょう。

 たとえば独裁権力や、戒厳令や革命権力などの非常に厳しい権力も、時と場合によっては好んで行使され、そしてそれを正しいこと、そうあるべきことだと認めています。それなのになぜ、倫理面の解決のために行使しないのでしょうか。こういうのを、権力を維持する機関の権力と言います。これが考えなければならない一つ目です。

 二つ目は、社会の本当の要望、あるいは政治に関わらない純粋に社会的な国の要望も、常に倫理があることなのに、なぜ世論あるいは社会の要求として、倫理的問題を解決する権力を使えるようにしないのでしょうか。

次にその下、あるいはもっと狭めて見ると、たとえば両親には何かをする権力があります。それなのにどうして、弱腰で子供を溺愛し言いなりになるのでしょうか。しつこく懇願することから間違っています。

次は先生ですが、先生が正しく任務を行なうなら、任務に忠実にするなら、西洋式にいつも子供たちに賛同してご機嫌をとるのではなく、権力を使うべきだと信じます。それはきっと良すぎます。良すぎるあまり使い物にならないかもしれません。私たちは、権力を使わなければならない時には、何らかの権力を行使しなければなりません。これらすべてを、直接、そして間接的に権力を行使すると言います。

 次に権力の行使を、新たに道徳や倫理を育てることにしなければなりません。権力を行使する、あるいは前からある倫理を増やすために行使することもあります。これについて考えてみます。これらは権力を行使することの初めの項目です。

 もう一つは動機、つまり進んで良いことをしたくなるように促すことです。先ほどお話したように、昔の子供は罪を恐れ、徳を求め、小さな時から親や祖父母に教えられたので、倫理に深く浸っていました。今の子供はこの部分が欠けています。いろんなものに誘惑され、騙されているからです。宗教的に言えば、悪魔の誘いに手を引かれ、倫理から逸脱し、地獄も怖くないと言われるようになります。

徳と言われるものは物質に勝つことができません。金銀やいろんな物質の方が徳より良いのです。両親も子供を引き止めることができません。自分自身を物質から引き離すことができない、あるいはほとんどできないからです。

ですから道徳界で言われている Summum Boum と言われるもの、つまり人間がこの世で得るべき最高に素晴らしいものは、昔のものと正反対に、すっかり変ってしまいました。これが、子供たちを倫理の中に居させる動機ですが、このように変わってしまいました。

 そこでみなさんは、この事実が見えるように、教えて検証する方法を探さなければなりません。子供たち自身に、「せっかく生まれたのだから、人間が得るべき最高のものを得る必用があるか」という問題を、自由に考えさせてみます。しかし、人間が得るべき最高のものとは、いったい何でしょうか。学生にふさわしく、彼ら自身に考えさせてください。みなさんは、子供たちが自分を尊び、学生であることを喜んで、自由に考えるように促さなければなりません。

 同時に、子供たちが段階的に知ることができるように、精神を高める人である先生の原則で教え、常に手助けをします。

 初めには検証することを教えます。それに、子供たちが「自分の感覚器官の要求は、本物ではない。真実ではない」と分かるよう、一生懸命努力して、手を尽くさなければなりません。つまり魅惑的な物を見たい目の要求、美しい音を聞きたい耳の要求、美味しい物を味わいたい舌の要求など、全部で六つある器官(目・耳・鼻・舌・体・心は、形・声・香・味・触・考えを求める)の要求と言います。この六処の要求は本物ではありません。現代の最新の科学でも検証することができます。

 先生にとって教え方はたくさんあります。現代の科学で、光線や音波や神経波による、いろんな神経の働きによる欺瞞であり、本物ではないと証明できるからです。それで形・声・香・味・触・考えは本物でないと分かるので、もっと本物であるものを探さなければなりません。

 この問題は遊ぶ程度に止め、次に少しずつ高くしていきます。目・耳・鼻・舌・体などの感覚器官を、人間としての軌道上にいるよう管理する方が、善くて、安全で、そして楽しく、素晴らしいです。

 この方が楽しいと聞いても、信じられそうにありません。しかし、楽しさは満足から生じること、そして何かに成功した時にも楽しいということを帰ってから後で考えてください。だから形・声・香・味・触に溺れなければ楽しくないと捉えてはいけません。

 本当は、何でも興味があって満足すれば、何でも楽しいです。禅定に入ることも楽しく、タンマを学ぶことも楽しいです。だから自分自身を律して規律の中にいることを、ルークスア(タイ式のボーイスカウトのような団体)の理念のように、楽しく実践すべきです。彼らは自分自身を律することを楽しんでいます。

 そうしなければ却って非常に苦になり、社会に解決できない問題が増えます。つまりどんどん堕落する問題がいっぱいになります。そして六内処(目・耳・鼻・舌・体・心)と六外処(形・声・香・味・触・考え)の奴隷になれば、私たちが望む国や宗教や国王を愛する日は、あるいは道はないということを検証して見せます。ルークスアも学生も国民も、毎日毎日、国を愛すと宣誓することも、物質の奴隷に落ちてしまったらあり得ません。

 みなさんは、オスカー賞を貰った人の話より、もっと尊敬すべき人、興味深い人の伝記を子供に話して聞かせるべきです。ラジオを聞いてみてください。オスカー賞を取った人の話を、国の重要人物の経歴よりも大きく報道しています。あるいは、受賞すべき人が受賞しなかったというような話題も、その人の経歴を、国の重要人物についてより話しています。

だから、今の子供たちはまったくタンマ、倫理、宗教などを理解できないと理解しなければなりません。どうぞ教師であるみなさん、そういう子供たちに、どうしたら正しく宗教を理解させることができるか、あるいは宗教というものに対してタンマにさせられるかということをもっと研究してください。

 インドの子供について少しお話しさせていただきます。私がインドへ行ったとき、三十日間旅行して、いつも観察していました。インドはほとんどの教育が遅れていますが、倫理はまだ変わらず、良い状態にあるということがすぐに分かました。取り囲んでいる若者たちが、案内をしたり写真を撮ったり、ビデオを撮影したりカメラを持ったり、いろいろ手伝います。私は、どうして自分たちはこんなに不注意なのだとビックリしました。同行した人は笑っていました。

 密林の中の、ブッダに縁のある本物の森には、警察も何もいません。子供たちは荷物を持ってくれ、私たちが遠くを歩いていると、まだずっと後ろを、荷物を持って歩いてきます。荷物は私のものではありませんが、持ち主の代わりに心配になります。彼らは反対に、子供たちが持ち逃げしたことは一度もないと、笑って言いました。

 タイでは正反対のニュースがありました。ペップリ市内のカオバンダイイット寺で、西洋人の妻のカメラを引っ手繰り、助けようとした夫に危害を加えた人がいました。あるいはバンコクのワットポーへ写真を撮りに行ったら、あっという間にカメラがなくならないように気をつけてください。

 インドを旅行すると、どこでも正反対です。ですから教育程度が低いから倫理がこんなだと責めるのは、大間違いだと思います。別問題に見えます。インドにはまだ珍しい倫理がたくさんあります。たとえば、聞いていると彼らは、泥棒より乞食の方が良いと考えているようです。

 だからどこにでも乞食はいます。泥棒はほとんどいません。これが心に食い込んでいる倫理の教えです。だから武器による乱闘は滅多にありません。口では恐ろしいほど喧嘩をしていても、棒などを使うことはありません。まして武器などは言うまでもありません。

 農夫が稲刈りをしている田んぼで、猿の大群が農夫と競走で食べていても、追い払ったり怒鳴ったりする人はいません。慈悲と犠牲の心で前々から黙認しているからです。動物に食べたいだけ食べさせても、まだ自分たちの分はあります。こういうのもタイでは見られません。だから動物に危害を加えないこと、あるいは動物の保護は、不思議なほど至る所にあります。

倫理の問題と教育の問題は、別問題のように見えます。そしてとても誤解されています。みなさん良く考えて、倫理の役に立つ宗教の行動規範をバカにしないで、教育を利益のあるものにしてください。さもなければ、教育が却って害に、危険なものになることもあり得ます。

 

                         5.治療する薬

 五番目は治療に使う薬の話です。残りの時間が少なくなったので、簡単にお話させていただきます。青少年に使う薬は、大きく三つの処方があることを考えなければなりません。初めはタンマあるいは仏教で、二つめは普遍的な道徳で、三つめは特にルークスア(タイ式のボーイスカウトのような団体)の規則です。

  宗教的な教えは不可能なことだとか、古臭いとか、人々の期待に合っていないなどと誤解されています。これについて熟慮して見てください。詳しく説明するには短い時間では足りません。仏教の教えに関しては、文字通りに狭く考えると、ますます古臭く滑稽になってしまうので、狭く考えないでください。文字や言葉は役に立たないが、意味は役に立つという原則を捉えます。文章はときどき誤解します。

 「仏教の教え」と言ったら、ブッダが千二百五十人の僧の前で、これが仏教の教えだと判を押すように主張した、オーワートパティモッカの六項目などの、重要な教えを思い浮かべるべきです。その教えは、「悪いことを言わない。危害を加えない。規律正しくする。適量を食べる。静かな場所にいるのを好む。常に心を訓練して高くする」です。

 聞いても、何も矛盾はありません。悪いことを言わない。危害を加えない。規律正しくする。適量を食べる。静かな所に居る事を喜ぶ。善いことを考え、善いことをし、心を高く熟させる。この六項目は現代人にとって古臭くありません。

 この他にも、八正道のすべての項目、どれでも使えますが、人々はお坊さんの問題で一般人の話ではないと誤解しています。いずれにして、ブッダの言った興味深い言葉があります。

「すべての子供の中で、言うことを聞く子が最も素晴らしい子」です。

  つまり一般に子供を、親よりも善い子、何かを親と同じ程度にできる子、何かを親よりできない子との三つに分類します。このような分け方は、まだ確かでないのでブッダは保証しませんが、言うことを聞く子が最高に善い子だと言っています。なぜなら親よりできる子供は、もしかしたら親の言うことを聞かないで、親に対して行動するタンマが無いかもしれません。

 今の子供たちはこの教えを目指すべきです。つまり先生より傑出した哲学者や秀才になることを目指すより、言うことを聞く子になるべきです。ブレーキの利かない子供は、どんなに賢くても危険で害があり、仏教の教えは、言うことを聞く子が最も良い子と見なします。

 青少年が言うことを聞くようになれば、それだけですっかり問題は解決します。これはブッダの言葉と捉えてください。つまり言うことを聞く子です。まとめると、仏教の教えを治療薬として使用できるかという問題が残っています。

 道徳の教えですが、普遍的な道徳の教えで、人間が手に入れるべき最も良いものは四種類あります。

(1)穏やかな幸福、

(2)人間性の充実、

(3)純粋な義務、

(4)普遍的な慈しみ

 穏やかな幸福とは、本当の幸福という意味です。私たちは子供に、本当の幸福と偽の幸福がどんなものか、分かるように教えるべきです。愉しいことだけが幸福ではありません。

 人間性の充実とは、知性の知識が満ちていることで、これは簡単ではありません。非常に本気で真剣にしなければなりません。

 純粋な義務とは、義務のための義務( Duty for duty sake )で、これはほとんど誰も理解できません。義務は稼ぐため、名誉や名声のためと思っているからです。だからその誤解が倫理の衰退を生みます。

 義務のために義務を遂行するのは、百パーセント善です。お金や名誉名声などが得られれば、それは副産物で、使ってもいいですが、直接の目的ではなく、直接目指すのは人間の最高の善、義務の利益のために義務を行なうことです。

 四番目の普遍的な慈しみとは、すべての人を愛すことです。倫理家の中には、五番目に自由の要求を入れる人もいます。これは民主主義と同じです。正しい自由なら良いですが、間違った自由ならやって行けません。これは、普遍的な倫理の教えで子供たちの倫理の問題を解決することもでき、仏教の教えにも反しないということです。

 もう一つ主張したいことがあります。ルークスアの原則だけでも、この問題を解決することができます。ルークスアの原則がどういうものかという詳細を、ここで述べる必用はありません。椰子畑にココナツを売りに行くようなものです。しかし幾つか考えなければならないことはあります。ルークスアの仕事の中にも、改革しなければならいことはたくさんあります。

ルークスアの子供たちに、仏教の最高の教えである、身勝手、利己主義をなくすことを教えなければなりません。利己主義をなくすことを、キャンプファイヤーなどの遊びと同じくらい、しっかりと教えなければいけません。

そして賢く俊敏で勇敢であることに止まらせてはいけません。まだ間違った方向に使うことがあるかもしれないからです。たとえば正直、報恩、奉仕、譲歩、十分な責任など、それらを管理する美徳を育てるようにしなければなりません。

 これが仏教、あるいは普遍的な倫理の教え、あるいはまったく同じ何かで、つまりタンマのある人にします。一方でルークスアも、今はまだ狭いので、もっと広く支持されるものにし、信頼できる子供にするためにお寺に預けて沙彌にすることを好む、農業や商業の人たちに支持されるようにするべきです。

  今、沙彌の出家が非常に衰退しています。つまり本来の目的と違い、あまり結果が出ないで、解決が難しい状態です。お寺に、権力や資本が何もないからです。

 昔は誰もが自分の子供をお寺に預けたがったように、ルークスアの活動を使って、現代の誰もが自分の子供をルークスアに入れたがるように、人気が出るようにすることができるかもしれません。これは、ルークスアの活動が、もっと農商業の人に受け入れられ、人気が出るようにするということです。今のように狭いままにしておいてはいけません。

 一般原則では、ルークスアが倫理の教えになるようにするべきです。つまり本当に実践します。無駄に終わったいろんな企画のように、道徳だけ、理論だけ、哲学だけにしないでください。もし学問だけ理論だけで、実践がいっぱいなければ、同じように挫折するかもしれません。

 

                            6.病気のない状態 

 六番目は、病気でない状態はいったいどんな状態かを規定したものです。仏教の教えでも普遍的な倫理の教えでも、ルークスアの活動でも、その実践から生じた結果をどうすれば、タイの民族性を維持できるか、そしてどうしたら病気のない状態にできるかを考えてみてください。

 新しい文化の原則で考えないでください。私は新しい文化に、病気のない状態を見ることができません。反対に慢性で深い病状が見えます。率直に言えば、精神の病気がない状態に関しては、あまり西洋の真似をしないでください。

 自然について少し考えてみると良いです。つまり西洋人は肌の木目が粗く染みがあり、体中に体毛があり、私たちタイ人は肌の木目が細かく体毛は良く見えません。髭もはっきりと見えないほどです。自然がこういう状態なのに、彼らと同じようにはできるはずがありません。

 あるいは西洋人は普通、味の薄い料理を食べて激しい音楽を好みますが、タイ人は味の濃い料理を食べて静かで穏やかな音楽を好みます。このように正反対なのに、自然から言っても西洋人の真似ができるはずがありません。

 ブッダについて考えると、ブッダの人種はモンゴリアンで肌は黄色く木目細かです。私たちはどうしたら、どれだけブッダの後を追えるでしょうか。話せば話すほどナショナリズムで嫌らしくなります。しかしお話しておくのは、ことによっては西洋に偏り過ぎるのを防ぐためです。私たちが倫理の問題で他国の後を付いて行かなければならないなら、最高の恥と捉えなければなりません。

 ブッダの後にしたがうことは恥ではありません。なぜならブッダは、「私を信じてはいけない。自分の見解を信じなさい。何かを聞いたら自分で考えて、自分で見て、それから信じなさい」という教えだからです。こういうのは恥ではないと言います。それに盲目的に後に従うことではありません。

私たち仏教教団員には、このように独自の文化、倫理があります。私たちは指導者、あるいは挑戦者になるべきで、この問題で誰かの追従者にならないでください。どうか仏教教団員であり、仏教教団員であるタイ人であり、道徳や倫理に関して自分のものを持っている人であってください。このことに関しては、誰かに頼ろうとか、誰かの後を追って行こうと思わないでください。物質的なことはまた別の話ですから、お話しません。

 ですから仏教の教えを応用した国作りをすることを考えなければなりません。物質的なこと、国造りは非常に物質的なことですが、もし仏教の教えを上手に使うことができれば、物質的な行動も成功し、そして青少年にとっても危険はありません。

 仏教の教えは、言葉を捉えないで、意味を捉えれば百パーセント応用できます。もし文字面を捉えて少し読み間違えば、非常な妨害になり、僧は何も国のためにする機会がありません。

 仏教の教えとルークスアの教えが一致すれば、青少年にとって最高に素晴らしくなります。特に問題解決に関しては。問題は残らず解決します。だからルークスア、あるいはルークスアでなくても重要ではありません。それはただの呼び名です。しかし実践項目が重要です。最終的に子供たちが言うことを聞く子になり、非常に素晴らしい子になります。つまりブッダが望みどおり、ブッダの言うことを聞く子になります。

 

                     7.実践しなければならないことのまとめ

 今まで述べてきたことをまとめる時間を、少しいただきたいと思います。子供たちに道徳と倫理を増やす計画は、すべて中止、あるいは無くしてください。熟慮して見て自信を持って答えられることは、広い意味の教えで、子供たちのためになることは振興し、子供の精神に悪いことは、たとえ物質面の結果があっても、止めるか破壊しなければならないことです。

 たとえば映画の入場料の税収入が、年間何千万バーツ、四、五千万バーツありますが、子供たちの精神の崩壊をお金に換算すると、四阿僧祇(一阿僧祇は百万の二十乗)、一千万の十万倍の百万倍、数字で書ききれないと思います。それで国が得られる収入、年間四千万バーツに何の意味があるでしょうか。もしみなさんにこの問題の権限があるなら、手術のような直接的処置をしなければなりません。

 お寺で映画を上映すると、一回で一万バーツ、あるいは何万バーツにもなります。しかしお寺の催しが子供たちの精神を駄目にすることを数字で考えると、数え切れません。だからお寺は慎むべきであり、犠牲になるべきであり、子供のことを考えるべきです。みなさん自身で考えてみてください。このようなお寺の催しは、何らかの破滅に繋がることばかりです。

 次は一億とか十億という酒税の問題ですが、同じように考えなければなりません。これらを、私たちが廃止しなければならないものと言います。

 次は反対に、新たに作ったり促進したりしなければならないものです。それは倫理、あるいは倫理の後押しをすることですが、反対のものと同じように、楽しく行なえるようにしなければなりません。この項目は、誰も私の言うことを信じないかも知れません。しかし私は、タンマあるいはブッダの教えは、それ自体が娯楽だと、いつでも言っています。どうぞそのようにしてください。

タンマはそれ自体が娯楽であり、映画や芝居を見るのと同じような楽しさと満足があります。だから区別して、精神的な娯楽、精神的な劇場と呼びたいと思います。最新の技法を駆使して、タンマあるいは倫理、あるいは道徳、あるいはルークスアの実践などを行なうことが、必ず娯楽と言えるような計画を考えてください。

 更に高くなれば、子供たちは、善いことを行なうことが非常に楽しくなり、そしてその楽しさが自分の娯楽になります。かつては利己主義を減らすと捉えられていたスポーツは、今ではそうではなくなってしまいました。世界の最高レベルのスポーツ界を見てください。利己主義だらけで、相手よりも優位になろうと虎視眈々としていると聞いています。ルールの影で、こっそり得をしようとしています。

 だからこういうスポーツは利己主義をなくすものではなく、間接的に利己主義を塗り重ねるものです。ですからスポーツで利己主義が減るという原則を支持することはできません。スポーツをすれば楽しいだけで、あとは利己主義が減ることを祈るか、そうだと勝手に思い込むだけです。これでは敵わないと思います。

 利己主義が減るとはっきり見え、子供たちが、利己主義を減らすことに楽しさを見出せるようなことをしなければなりません。一般の人は、自分を律して規律正しくすることは、苦しくて大変だと考えていますが、それは真実ではありません。どうか正しく関わってください、と言わせていただきます。タンマのある行動は楽しいです。非常に深い味わいがあり、同じように癖になります。善いことが癖になります。

 要するに、倫理に楽しみを生じさせなければなりません。倫理に楽しみを生じさせるなどと聞くと、滑稽です。みなさんはもっと道徳について考え、倫理に楽しみが生じるようにしなければなりません。昔の本当のタイ文化は、お爺さんお婆さんたちはそうでした。お爺さんお婆さんくらいの人たちが子供の頃は、どんなことが楽しかったのか、考えてみてください。

今の人たちと違って、お寺へ砂を運んで、塔を作るのが楽しかったのかもしれません。なぜそんなことが楽しかったかは、現代と違う何かがあったのでしょう。現代人は責任ということを知らず、責任の取り方も知らず、自分はなぜ生まれて来たのか、なぜ人間でいるのか、何も知らないからです。

 なぜ人間でいるのか、人間の美徳は何か、心や精神の本当の休息はどこにあって、どんななのかが分かるよう、タンマの教えに戻らなければなりません。世界のすべての教育と仕事は、結果、つまり精神の安らぎ、あるいは穏やかな幸福のためにあります。それなのになぜ休むことができず、大混乱が拡大していく一方なのでしょうか。一つの世界全体が大騒ぎになってもまだ止まらないで、他の世界まで蔓延していこうとしています。

 結果として、これは非常に大問題だということが明らかに分かります。そして、少なからず大問題に遭遇しなければならない、先生方のカンマです。譬えれば大きな戦争で、若者との大戦であり、勝つことが非常に難しい戦争です。だから先生方のカンマと言います。

 私も、自分自身を先生の一人と考えています。「私たちのカンマ」という時、同じ仲間と捉えています。見れば見るほど、重い問題に遭遇する、私たちのカンマと感じます。カンマと言うのは、振り払うことができない、拒否することができない、あるいは力の限りしなければならないからです。

 だから子供たちを、悪魔や魔王の威力から奪い戻さなければなりません。人間がうっかり、悪魔の餌だと知らずに魅惑的なものを製造し、大量にばら撒いて世界中を惑溺させたので、世界中、あるいは全世界が同じ問題に遭遇しているとしても。だから子供たちを奪い戻さなければなりません。どうぞ先生のみなさん、精神の指導者であることを恥じないでください。

 本当は慈しみ深い聖職者であり、勉強を教えるサラリーマンではないからです。みなさんが、いつでも、教師は生活のために雇われて教科を教える人ではないと考えて、子供たちに深い慈しみで接する聖職者と捉えれば、これらの問題は解決できます。この大きな戦争にも、簡単に勝つことができます。

 私は、深い自然を良く見てください、とお願いしたいと思います。自然は、先生たちが文部省や政府に所属するのではなく、阿羅漢に所属することを望んでいます。つまり本当の心の深奥では、自然はみなさんが阿羅漢に所属すること、あるいは阿羅漢であることを望んでいます。つまり先生方は、世界の悪魔をすべて撃退し、精神を高める義務を果たさなければなりません。

それは阿羅漢の義務です。だから心の問題、精神的には、あるいは自然の深い部分では、先生は阿羅漢に所属します。だから尊敬するべき人であり、雇われた人ではありません。これが、人間が脱出できる唯一の道です。世界はこの教えで脱出することができます。これが、私が見た、子供の道徳を増やして問題を解決する方法のまとめです。

 すべては私の強い主張と捉えてください。あるいは挑戦と捉えて下さっても結構です。一部の先生にとっては、最高に古臭く、田舎っぽく、時代に合わない挑戦、あるいは主張かもしれませんが、仕方ありません。考えれば考えるほど他の方法は見えません。これしかありません。

 見れば見るほどこの道が見えます。だから時間の許す限り、いろんな考えをお話しました。時間に制限があったので、あまり詳しくお話することはできませんでした。少し時間を超過してしまったので、青少年の道徳を増やすことについてのお話は、これで終わらせていただきます。

 


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