1.宗教の多面性と仏教





 現代の、宗教の起源について書かれたどの本を開いても、「原始人は雷や稲光、暗闇や嵐など、自分の理解や防御能力を超えた物の恐怖が始まりであり、そして災厄から逃れる手段として、その時代の最も賢い人が神聖と信じる物、あるいは精霊が喜ぶと考える物次第で、それらにひれ伏して祭った」と書かれています。恐怖の威力によってこの世界に宗教が生まれ、恐怖によって宗教の実践が始まったと見てます。〔1〕

 後の時代の人の恐怖は、物質で解決できない「苦」に変わりました。生まれること、老いること、病気や死、憂鬱や悩みなど、欲や怒りや勘違いによって生じるので、どんなに権力や財力があっても、それらの苦の暴虐を静めることは出来ません。

 昔のインドは、たくさんの思想家や求道者や知性のある人で発展した国だったので、神聖な物を拝むことを止め、生老病死や貪り・怒り・愚かさに勝つ方法を探しました。これを、智慧の面で進化し、最後に生老病死やいろんな煩悩に勝つ方法を発見した宗教の根源と見なします。〔2〕

 仏教も後者の恐怖に根源があります。ブッダは人間が恐れるものに勝つ方法を、望みどおりに発見した人です。そして仏教と呼ばれる滅苦のための実践方法が生まれました。仏教とは智者の宗教という意味で、ブッダとは「智者」、つまり「すべての物の真実を正しく知っている人」という意味です。だから仏教は知性に依存する、あるいは苦の原因と苦を滅す正しい知識に依存する宗教です。〔3〕

 祈願するために神聖な物に供え物をして祭る儀式は、仏教ではありません。滑稽で可笑しいばかりでなく、本当の拠り所にできないので、ブッダは自身の宗教にそのような儀式をとり入れず、そのような行動を完全に否定されています。〔4〕

 仏教には次のような言葉があります。「役に立つ知識、賢さ、能力こそ最高の吉祥である。空の星は何もできず、得られるはずの利益は座って星の運行を数えている愚かな人を通過して行く」。「ガンジス河などの聖水で苦や罪を流すことができるなら、聖なる河や湖に棲んでいる魚や蟹や亀は、その聖水によって苦や罪はない」。「お供え物をして祭り、祈願して不幸から脱せるなら、この世に不幸な人は誰もない。誰でも神を崇拝し、祈願したことがあるのだから」〔5〕

 神を祭って祈り、いろんな儀式をしてもまだ不幸な人がいるという理由で、それは本当に危機を脱す方法でないと見なします。だから私たちは「何が何か」真実を知り理解できるまで詳細に考察し、そしてそれに対して正しく実践しなければなりません。〔6〕

 仏教では物事を推測する、あるいは「ああいう場合のため、こういう場合のため」と考えるのを望みません。他人を信じる必要はなく、自分自身の智慧で見たように行動します。教える人がいてもすぐにそれを信じなければならないという意味でなく、良く聞き、それはあり得ると真実が見えるまで熟慮し、真実が見えた段階で初めて信じ、それからは自分でその結果を出すよう努めます。〔7〕

 宗教は多面体のように、ある面を見るのと、別の面を見るのとではまったく違った物になり、その人の考え方の傾向次第で、同じ宗教でも別の状態に見えることもあります。仏教もこのような状態に陥っています。〔8〕

 人は当然自分の考えを信じているので、一人ひとりの真実は、その人がどれだけ見えるか、どれだけ理解しているかにあります。一人一人が真実と呼ぶ物はみな違います。人はいろんな問題を理解する深さも状態も知性も違うので、自分に理解できない物や、自分の知性や知識を超えた物を真実と認めることはできません。他人に合わせて「真実だ」と言っても、内心ではその人にとって真実でないことを知っています。〔9〕

 一人ひとりの真実は日に日に増していく知性と知識と理解で、最終段階の真実に到達するまで常に進歩します。人は教育が違い、いろんな物を信じるために熟慮する基準も違うので、異なる知性で仏教を見れば、それぞれ違った見解が生まれます。仏教には人に見せるいろんな物が揃っているからです。〔10〕

 述べたように仏教は「何が何か」を知ることで苦から脱すために、ブッダ自身が実践し、そして教えた実践方法です。しかし宗教面の教典は、当然後世の人がさまざまな機会に書き加えたもので増やされています。私たちの三蔵も、後世の人が当時の人々の信仰を増やすため、あるいは罪を恐れさせ徳を重んじさせるために、必要と考えた項目を書き加えました。それは大々的に徳に酔わせてしまうほど、限度を超えていたかも知れません。〔11〕

 仏教との関わりがほんの僅かしかない、生まれたばかりの新しい儀式が、哀れにも仏教と見なされています。たとえばブッダの霊に供えると言って料理の膳や菓子、果物などを供えるのは、仏教の教えではあり得ませんが、これを仏教と見なし、厳しく守っている仏教教団員(四衆)もいます。〔12〕

 このような儀式が夥しく増え、その結果本物を覆い隠し、元の意味を消滅させてしまいました。例を挙げさせていただけば出家式で、客を大勢招いて、家でも寺でも大騒ぎの祝宴をし、何日も経たずに還俗して、それまでよりお寺嫌いになる人もいます。ブッダ在世時にはなかったものが生まれたと考えてみてください。〔13〕

 ブッダ在世時の出家は両親の許可を得て家族の籍を捨てて、家を出てブッダと僧たちの所に来たら、両親や親族兄弟と会うことなく、機会をみて出家させます。生涯会わない人もいます。中にはごく稀に両親に会う人もいますが、後で相応しい機会があれば、です。

 仏教には「家に行くには相応の理由がある時に限る」という決まりがあります。知っておいていただきたいのは、出家者は家に戻らないこと、両親の前で出家しないこと、大騒ぎで祝宴をしないこと、そして現代のように数日で還俗しても何も良くなるものはないことです。〔14〕

 私たちは出家前のいろんな儀式からこのような祝宴まで、間違って仏教と呼び、好んで催し、本人と他の人が幾ら散財しても不満を言いません。このような新しい仏教は至る所に非常にたくさんあります。タンマ、あるいは元々の本物は儀式で覆われ、出家は未熟者とか嫁が見つからないと陰口を言われている若者が、面目を立てるためにするものになるなど、誤った別の目的が生まれます。

 地方によっては、招待客から祝い金を集めるチャンスであり、一時的に金回りを良くする手段ですが、それでも人は仏教と呼びます。誰かが非難しようものなら、反対に仏教を知らないとか、仏教を攻撃すると非難されます。〔15〕

 もう一つの例はカティナで、ブッダは僧全員揃って迅速に、自らの手で僧衣を作ることを目指し、みんなで作った僧衣が一枚しかなければ、誰か一人に与えられます。必ずしも住職である必要はありませんが、僧衣が不足しているか、その僧衣を使うにふさわしいと誰もが認める僧に、僧全員の名で贈られます。〔16〕

 ブッダは、新入りの僧も住職も、栄誉ある高僧も偉ぶることなく、全員で協力して一緒に布を染め、裁ち、縫い、すべての作業を協力して、その日のうちに僧衣に作り上げることを意図されました。小さな布切れを寄せ集めて一枚の僧衣に縫い上げることができるからです。ブッダはカティナと呼ぶものをそのように意図しました。つまり在家と関わってしまう必要はありませんでした。

 現在のカティナは贅沢な行事、大騒ぎをしてお金を集める楽しい娯楽になり、本当の目的にふさわしい結果はありません。面倒で時間が掛かり、大金を使い、その結果放蕩無頼、楽しく酒を飲んで料理を食べ、博打を打って楽しむため、もしくは稼ぎまくる好機です。〔17〕

 このような仏教の「肉腫」が何百と出現しました。多すぎて名を挙げられないので、挙げる必要もありません。しかしこのような仏教の肉腫は悪性肉腫で、正常な肉、あるいは元々の仏教の本質を少しずつ覆い隠してしまうと信じていただきたと思います。だからこそ元々の仏教と別物の、しかし人々が仏教と呼ぶ物が何種類も増える一方で、二十も三十もの大宗派小宗派に分かれ、果ては情欲に関わるタントラ宗になったのもあります。

 常にそれらの宗派と、本当の仏教を区別しておかなければなりません。そうすれば誤って外皮を信じること、あるいはいろんな儀式に夢中になり、元々の正しい目的と違う誤った行動をすることはありません。〔18〕

 私たちは何が正しいかを知り、それに従って行動できる智慧を生じさせるために、純潔な言葉と行動を純潔な心の基盤にするべきです。人が仏教と言っても、仏教と見なしてはいけません。肉腫はブッダが入滅した日から発生し始め、その後四方八方へ広がり、現代まで増殖し続けているので、大きな肉腫がたくさんあります。〔19〕

 私たちは「肉腫の仏教」を仏教と見なすことはできません。あるいは他の宗教の人がこれらの恥ずべき肉腫を仏教と呼ぶのも正しくありません。それは仏教ではなく肉腫なので、仏教と呼ぶのは公正ではありません。自分自身の利益ためにも、多くの人の拠り所にするためにも、力を合わせて仏教を護持していく私たちは、述べたような悪性肉腫を掴まずに、本当の仏教を正しく把握することを知らなければなりません。〔20〕

 本物の仏教にも、仏教の本当の意味を誤って掴ませるいろんな面、いろんな角度があります。〔21〕

 道徳家の視点で見ると、仏教は道徳( Moral )の宗教に見えます。罪と徳、正直、善悪、報恩、団結、表裏がないことなどについてたくさん述べていて、どれも三蔵にあります。この点に注目する、あるいはそれ故に仏教を好む外国人もたくさんいます。〔22〕

 仏教のもう一面は高くなった真理( Truth )で、一般の人に見える真実より上にある深遠で隠された真実について述べています。この部分はすべての物は空であること(空)、不変でないこと(無常)、苦であること(苦)、実体がないこと(無我)です。

 あるいは誰もが知らなければならない未来永劫変わることのない真実(聖諦)である「苦はどのようか、苦の原因はどのようか、滅苦はどのようか、滅苦に至らせる実践項目はどのようか」を公開した話です。これを真理である仏教と言います。〔23〕

 宗教( Religion )である仏教は実践規定の部分で、戒とサマーディと智慧、それから生じる結果である解脱まで、そして解脱を「実践すれば誰でも本当に苦を滅すことができる」と見て知る智慧です。これを宗教である仏教と言います。〔24〕

 他にもまだ心理学( Psychology )である面の仏教もあり、三蔵の最後の部分には、心の状態について実に不思議なほど広大に述べられています。現代の精神面を学ぶ学生も途方に暮れ、そして非常に興味を持つほどで、現代の心理学より深遠で絶妙な知識と誇れるものです。〔25〕

 仏教には哲学( Philosophy )である実証できないこと、一定の理論で考察するしかないことに分類できる一面もあります。目ではっきり見えること、あるいは物質的に検証できること、時には内なる眼、心眼で見えることまで科学と呼びますが、「空」などの深遠な知識は、まだタンマに到達できない人にとっては取り敢えず哲学です。阿羅漢のようにタンマに到達した人にとっては途端に科学になります。阿羅漢は自分自身の心で明らかに見え、理論で考える必要がないからです。〔26〕

 ある種の仏教は、知性のある人の心の感覚としてはっきりと検証できるので、全面的に科学です。特に四聖諦の話などは知性のある人が関心をもって学んで探究すれば、科学の形で説明している道理があり、ある種の話と違って、哲学ほど暗くありません。〔27〕

 文化を礼讃する人にとっては、仏教の教えには普遍的文化と一致する項目がたくさんあり、そして普遍的文化より高くて善い、仏教教団員特有の文化である教えもたくさんあると分かります。〔28〕

 仏教には最も不安定な学問である論理学( Logic )の部分もたくさんあります。特に論蔵の中の「論事」などがそうです。〔29〕

 いずれにしても仏教教団員が最も関心を持たなければならないのは、宗教である面と言わせていただきます。それはすべての物から執着を抜き取れるまで「すべての物は何か」を知るための実践方法を意味します。そのような行動を「仏教としての仏教本体に到達した」と言います。

 ただ基礎レベルの道徳と捉えるより、何も実践しない深遠な知識でしかない真理より、思索して楽しく議論して煩悩を捨てられない哲学より、あるいは社交面で美しく振る舞うための文化と捉えるより、はるかに善い結果があります。〔30〕

 少なくとも仏教を美学( Art )と捉えるべきです。ここでは生きる美学という意味で、優雅で絶妙な行動、人間として生きる時、見事で立派で称賛崇拝に値し、人が感銘して尊敬したくなるような、多くの人が私たちの後を追いたいと志したくなるような最高に道理に適った行動です。私たちは純潔な戒による初等の美と、心の仕事をするにふさわしい静謐な心という中等の美、完璧な智慧という最高の美があり、すべての物から苦が生じなくまるまで、すべての物を「何が何か」を明らかに知ります。〔31〕

 このような三つの美学で生きる人を、最高の生きる美学がある人と見なします。多くの欧米人がこの意味の生きる美学である仏教に関心を寄せ、他の面より精神について述べます。〔32〕

 本当の仏教に到達して生活規範にするようになると、タンマの喜びや楽しみが生じ、退屈でも寂しくもありません。あるいは「煩悩をすべて捨ててしまったら人生は無味だろう」とか、「欲がなければ何もできない。何もする気がしない」と恐れます。

 しかしブッダの生きる美学で正しく生きる人は、その人を取り巻くすべての物より上にいる勝利者で、動物でも人間でも物質でも、目・耳・鼻・舌・体・心のどこから入って来ても、すべては敗者として来るので、悩ませたり汚したりイライラさせることはできません。すべての感情に勝利した人の立ち居振る舞いは、当然明るく愉快なものです。これが仏教の美学と捉えるべき項目です。〔33〕

 仏教のタンマは、タンマを求める人の心を恍惚とさせます。これも必要な食べ物の一種と見なします。まだ煩悩の威力下にいる人は、凡夫の楽しみである目や耳、鼻、舌、体の食べ物を求めているのは事実ですが、深奥にはもう一つ、そのような食べ物を欲しがらないものがあります。

 それは純潔、あるいは自由な精神で、タンマの食べ物、つまり自分はすべての智者が満足する正しい行いをしていると感じる喜びを初め、煩悩が妨害できない心の静かさなどを求めます。「何が何か」すべての物を明らかに知り尽くしているので、野望がなく、ブッダが『夜は煙、昼は火』と例えられているすべての凡夫のように、駆け回る必要がなく「座っていられる」状態があります。〔34〕

 「夜は煙」とは、お金儲けや自分の欲しい物を手に入れる方法を、ああしよう、こうしようと考え、輾転反側、寝るに寝られない状態。それが心の中の煙で、外はまだ真っ暗なのでどこへ行くにも都合が悪く、煙に蒸され寝ているしかありません。〔35〕

 夜が明けると、夕べ蒸されていた「煙」の望みどおりに駆け回ります。これを「昼は火」と言い、まだ心に静かさがない、まだタンマの食べ物が得られていない状態、欲望煩悩の威力で経過する飢餓です。「夜は煙」で一晩中蒸し暑くて煙く、「昼は火」で一日中熱く身の内を焼かれ、それでどうして静かさを求めることができるでしょうか。〔36〕

 生涯、死ぬまで「夜は煙、昼は火」でなければならないとしたらどうか、考えてみてください。その人は火を消し、煙を絶やす知性もなく、生涯、生まれてから棺に入るまで苦に耐えます。このような人が少しずつ解決するには、ブッダの知性に頼るしかありません。すべての物事を真実のままに理解すれば、理解した分だけ火、あるいは煙は減ります。〔37〕

 すべては、一つの山でも見る人見る方向によっていろんな形に見え、人によって様々な利益を得るように、仏教と呼ばれる物にもいろんな面があると、指摘して見せています。仏教の起源は恐怖にあると言っても、偶像や奇跡を崇拝する原始人のように愚かな恐怖ではありません。知性による高い恐怖、生老病死や私たちに見えるいろんな苦から逃れられない恐怖です。〔38〕

 本当の仏教は書物でも、教典でも、三蔵について話す声でも、本当の仏教でない色んな儀式でもありません。煩悩を減らして最後には絶滅させる、体と言葉と心で行動する実践でなければなりません。書物や経典に関わる必要も、精霊や神々などの外部の物や儀式に頼る必要もありませんが、直接体と言葉と心に繋がっていなければなりません。

 明らかな知識が生じ、何でも自分で正しくすることができ、初めから最期まで苦が生じなくなるまで奮闘努力して、煩悩と闘って煩悩を根絶させなければなりません。これが、私たちが出合わなければならない本物の仏教です。誤って仏教を包んでいる肉腫を掴んで、それを仏教と信じないでください。〔39〕




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