世界を救う政治

 

                                                     1976年7月10日

 タンマに関心をお持ちの善男善女のみなさん、アーサーラハ期の土曜説法の二回目である今日は、引き続きタンマと政治の概要をお話します。二回目の今日は、「政治はタンマ」と題してお話します。

 政治はタンマと聞くと、現代社会の政治家はたぶん、「バカだ」と叫ぶでしょう。バカかバカでないか、これから聞いてみてください。お話しなければなりません。しかし一つ、政治はタンマと聞いて「バカだ」と叫んだ政治家が、汚れた政治家だと言いたいと思います。

政治という言葉の理念と一致する政治家ではありません。その人は純粋な意味の政治でなく、政治を利益目的の不正なものにします。だから私たちは、政治という言葉の意味は何かを、常に復習しなければなりません。

 前回の講義では、政治とは、権力を行使することなく、たくさんの人が何の問題もなく暮らせるようにするための行動、あるいは実施する制度であると説明する努をしました。どうかみなさん、良く聞いてください。

私は、政治とは権力を行使することなく、たくさんの人が何の問題もなく暮らせるようにする行動、あるいは実施する制度である、と述べています。重要点は、作りって実行しなければならない制度である、という点にあります。これが一つです。

そして問題を抱えることなく暮らす人は大勢の人、あるいはすべての人で、二三人ではありません。どんな問題であれ、問題と呼ぶものは何でも、すべて何らかの苦だからです。そして最後の言葉は、権力を行使することなく、つまり武器を用いず、殺し合いなどの暴力を使いません。

 私たちはこの定義を、純潔な政治という言葉の定義と見なします。これと違えば、必ずバカな政治、汚い政治、何らかの種類の亡霊悪霊の政治です。それに、人間の政治は人間が作ったものと見なければなりません。だから必ず自然が作った動物の政治より良くなければなりません。そうすれば、人間と畜生が違うように、大きな開きがあります。

人と動物は何が違うのでしょう。違いは一つだけ、タンマがあることです。

インドに、いつからとも分からない大昔からあり、タイへも伝わっている文化の根源である、特定の宗教と関わりのない金言があります。「食べ物を求めること、眠りの幸福を求めること、危険を恐れ、回避することを知っていること、そして異性間の営みは、人も動物も変わらない。人が動物を違うのは、タンマがあることだけ。タンマがなければ人は動物と変わらない」。

だから私たちはどう見るかは、人と動物はここ、つまりタンマと呼ばれるものがあるか無いか、あるいは別のタンマであるという点が違うと見ます。タンマという言葉の意味は、タンマと呼べないものは何もない、あるいはタンマでない物は何もないので、 人のタンマと、動物のタンマは、種類の違うタンマになります。

 本当の人には動物のタンマはなく、本当の動物には人のタンマはありません。だからタンマがなければ動物と同じです。人のタンマがなければ、人も動物と同じという意味です。これは、人の政治は人がすることなので、自然が按配した、あるいはカンマと徳の成り行き任せの動物の政治より良くなければならないと、考えなければなりません。

 もう一度詳しく復習しなければなりません。そうすればタンマと呼ぶものは何でも、政治はタンマと見ることができます。

 ここで、なぜ私たちは政治とタンマに興味を持たなければならないのか、というもう一つの項目を復習したいと思います。つまり仏教教団員がお寺で、どうして政治と呼ばれるものについて話さねばならないのでしょうか。おまけに人々が政治と関わるべきでないと見なしている出家であり、僧の身でありながら。

 本当は意味が違います。僧は政治に関わるべきではないと言うのは、各人、各党の利益のために争う政治家の、政治的な闘争という意味です。この意味では、僧は決して関わるべきではありません。

しかし政治に、「権力を行使することなく、すべての人類が問題を抱えることなく暮らせるようにする制度」という、お話してきたような意味があれば、人類と天人を救い、利益になることなら、それをしなければならないと前回お話したように、どのレベルの教団員も、関わるべき、あるいは関わらなければなりません。

 ブッダは、『私が生まれたのは利益のため、つまり人類と天人の幸福のためです。そしてすべてのタンマ、特に私が説いた三十七道品を、みなさん、人類と天人のために良く維持し、純潔を不動のものにしなければなりません』と言っています。

 そしてこの二つの言葉の意味を、天人とは汗を知る必要のない人たち、人間とはまだ汗を知らなければならない、汗を流さなければならない人たち、と強調しています。理解に十分な明解さがあります。

 次に、汗を流す必要のない天人々も、まだ天人なりの問題があり、平安ではなく、汗を流さなければならない人間も問題があり、人間として平安ではないと見なければなりません。だからこの点では、天人も人間も変わりありません。だからブッダはいつでも二つを一緒にして、人間と天人の利益のため、と言っています。

次に、人類と天人々のどちらも平和に暮らせるようにすることは、ブッダの義務であり、仏教教団員の義務でもあります。今私たちは政治という言葉の意味をこのように、つまり人類と天人々が、問題無く平和に暮らせるよう、権力を行使することなく実施すること、とします。

 私は政治という言葉の意味を、西洋人が政治のテキストに書いているような定義で捉えません。タイ人を知識の奴隷にし、西洋の言葉の奴隷にします。こういうのは仏教教団員にふさわしくありません。仏教教団員は、自分自身の知性で、政治とは何かという真実のままに見ます。

 世界に政治と呼ばれるものが生まれた時は純潔で、つまり善い意図であり、その意図でたった一つの目的、人々が平和に暮らすために実施しました。現在でも、口で言うだけならそうなります。民主主義でも社会主義でも、どんな形の独裁主義でも、すべての政治体制は例外なく、「社会の人々が平和で幸福に暮らすために行う」と言います。

だから違うのは実施する方法だけで、目的は全く同じ、つまり社会の平和と平安です。そして、権力を行使しないことを目指していることも分かります。うそ偽りや策略、道具として武器を使うなどは、後でそうなります。十分気を付けてください。

 これから政治という言葉の、真実と一致する正しい意味を探ってみます。直接経典の中に、世界に統治制度、あるいは政治制度が生まれたのは、問題が生じた時からということが、観察して分かるものがあります。人間がまだ人間ではなく類人猿だった頃は、動物のように生きていて、社会の問題もありません。個々で食べ物を探し、離れて暮らしていたので、現在のように重要な人間関係はありませんでした。

その頃は、道徳的な問題もなかったと言います。つまり、誰かを虐げたり、誰かの物を盗んだり、誰かの利益や権利を侵害する人は誰もいませんでした。その後頭の良い人が現れ、逸脱したという意味ですが、他人の利益を考えず自分の利益だけを求めたので、盗みが生れ、さまざまな侵害が生まれました。

経典の中で、はっきりと述べられています。人々は我慢できないので解決策を考え、この問題を解決するために対処しなければならないという知性が生じ、誰もが管理能力があると考える人、つまり体力があり、人格があり、知性に満ちている人、つまりすべてがふさわしい人に、管理統率、つまり善悪を判断し、罰を与えることを一任しました。

 そのような統治は、まだ始まったばかりです。人類と一緒に生まれた訳ではありません。人間が善悪を知った時、まだ始まったばかりで、自然に暮らしていた時は問題はありませんでした。近くで集団で暮らすようになると、奪う機会ができ、思い通りにならないと殺そうと考えたり、追い出そうとしたり、その他侵略侵害になるので、権力を行使しなければならない管理体制が生まれました。

その後人間は、権力を行使するのは面白くない、権力を行使しない制度とは比較にならないと考え、政策あるいは妙案、あるいは何とでも呼ばれるものが生まれました。それが政治制度と言われるものです。人間が困難な暮らしをしなくても良いように、そして権力を行使して審判しなくても良いように、あれこれ整えました。

政治制度が形になったと言うことができます。それから時代とともに大きくなり、広範になり、強力になりました。この頃の人間にはまだ、平和に対する純粋な意図があったので、平和、あるいは平安な形で行われて今した。

 人間が物質の奴隷に成り下がるまで、つまり五欲と言われる肉体の味の奴隷になるまで、多分どれくらいか分からないほど長い間、幸福に暮らして今した。物質(肉体)の魅力に心が支配されると、その人間たちは正義を守ること、あるいは政治という言葉の純粋な精神を喜ばなくなったので、自分や自分の仲間の利益として、不正に隠すようになりました。

 それで、ある時代に政治という言葉の意味が変化しました。つまり自分の政党の優位と利益のためにします。世界中のどの国も同じです。仏教教団員の国であるタイも例外ではありません。しかし過去の時代を振り返って見ると、そうではありません。

 私たちは、政治の本来の意図である、権力を行使せずに人々が問題を抱えることなく暮らせるようにすること、という意味を捉えなければなりません。そうならば、政治は関心を持たれるべきかという問題を考えてみます。仏教教団員でも関心を持つべきかどうか、人間に必要なものとして、お寺で話すべきことかどうか、ということが一つです。

引き続き考えなければならないのは、世界に不正な政治が満ち溢れている今、私たちは彼らの仲間入りはしたくないので、生まれて来たことを無駄にしてはいけない仏教教団員の義務として、理想、あるいは正しい行為の意味を見つける努力をします。

この世に生まれたら、ブッダの望みにしたがって、世界の平和、幸福のために何かをしなければなりません。私は、これは自然の義務の一つであり、そして世界は今破滅に向かっていると、考えなければならないと思います。私たちみんなで力を合わせて抵抗するには、良く理解しなければなりません。だからタンマの講義と呼ぶ講義でお話します。

 一回目、二回目の講義は、タンマと政治という題でしたが、この言葉は確定ではなく、相性がいいか悪いか、矛盾するかどうか、あるいは敵同士か、同調していけるか、まだ何とも主張していません。

 人が言うのを聞いたことがある一般の人は、「政治の話はタンマの話ではなく、タンマの話は政治の話ではない。タンマの話はお寺にあり、政治の話は国、あるいは政治的に戦っている人にある」と感じます。

だから汚れた政治家は、「政治にタンマはあり得ない。夢中になってタンマを掴めば、その集団は敗北する」と考えます。彼らは、「政治家がタンマを持つことはできない。タンマがあれば他の集団に負けてしまう」というほど臆病です。

 二回目の講義で私は、政治はタンマであると明言しました。それは彼ら、あるいは現代に生きる一般人の感覚に反するので、更に深く熟慮しなければなりません。

 次にタンマという言葉を見てみます。政治(カーンムアン)という言葉は古代インドの言葉です。それが何語か、パーリ語か、サンスクリット語か、プラークリット語か、あるいはそれ以前の言葉か、それともインドアーラヤナと呼ばれるペルシャの方から来た言葉かなどと調べて、時間を無駄にしないでください。

この言葉はどの言語にもあり、パーリ語、あるいはパーリ語文法に根拠があるように、意味もみんな同じです。だから私は、パーリ語を、タンマという言葉の意味の根拠にします。

 興味を持たず、すべてをまとめて見なければ、タンマという言葉の意味のある面、ある角度しか得られず、すべてではありません。すべてではない理論、あるいは資料に基づいて話すのは、正しくなく、完璧でもありません。特にお寺の中の問題として狭い意味で使われるタンマという言葉は、話せば話すほど、意味が通じないに違いありません。少なすぎるからです。

そこで私がパーリ経典(ブッダの言葉である経)の中から、タンマという言葉に関するいろんな話を探してみると、タンマという言葉には、簡単に覚えやすい重要な四つの意味がある、とまとめることができ、そして何回もお話してきました。この四つの意味を短くまとめると何か、記憶と理解を復習させていただきます。タンマの四つの意味は何ですか、どんなですか。プラユーンさん。

答 : 四つの意味で言われるタンマは、一つ目の意味はすべての自然、二番目の意味は自然の法則、三番目の意味は自然の法則にしたがってしなければならない義務、四番目の意味は、そのような行為から受け取る結果です。

 : 良く憶えていて、そして理解しているということですね。話し手は徒労でなかったのですから、感謝します。トーンさん、もっと短く言ってください。

答 : タンマはすべての自然、自然の法則、しなければならない義務、そして実践による結果という意味です。

 : 初めて聞いた人は、すぐに原則が掴めないかもしれません。一緒になってしまいますから、次のように言わなければなりません。1.自然、あるいはすべての現象、2.自然の法則、3.自然に合った義務、4、義務を行った結果です。

どうかみなさん、タンマという言葉の四つの意味を理解する努力をしてください。早く簡単に、広く正しく仏教を理解できること請け合いです。タンマという言葉をこの四つの意味で、本当に明確明瞭に見えるまで、本当に理解してください。

 「タンマ」の初めの意味は、今ある物、私たちの前に現れている自然に在るものです。すべてのルーパタム(具象物)、草木や石や土、目に見えるものでも、耳や鼻や舌や皮膚で感じることができるものでも、何でも、状態ということができます。自然にあるもの、あるいは自然に経過するものという意味です。時と部分によって、原因である物もあり、時と部分によって結果である物もあります。

もう一種類は、原因である物のただの動きだけの物もあり、それが結果を生むこともあります。それらにはルーパタム(具象物)もあり、ナームタム(抽象物)もあります。もっと深くすれば、有為、つまり作り上げた原因と縁が有る物、無為、つまり作り上げた原因と縁のない物、もあります。

これらの項目を理解すれば、それは人間が知っているもの、あるいは知ることができるもの、あるいは知らなければならないものすべて、何一つ例外ないすべてのものを状態と呼ぶことができると見えます。

原因とは、新たに別の物を作り出すものであり、新たに生まれたものが結果です。そしてそれは結果であると同時に、次に別のものを生み出す原因になります。また他のものが生まれると、それは生じた結果であり、また次に別のものを生む原ための因になると言います。このようにキリがありません。この木をその意味で見ると、原因であり結果であり、原因であり結果であるものの、変化の流れにすぎないと見ることができます。

 自分をみれば、自分の体を見れば、原因が結果を生み、結果が原因になって結果を生み、ずっとこのようになっているのが分かります。ルーパタム(形。体)もナームタム(名。心)も。形のものは何も深いものはなく、それほど問題はありませんが。心の面は問題がたくさんあると言います。

目が形を見ると「見ること」が生じて原因になり、そしてヴェータナー(受)と呼ばれる、見ることに関わる感覚が生まれます。受が生じると、受の威力で望みや願望や欲望が生じます。望みが生じると、望んでいる自分という感覚が生じるので、「私」、「私の」と確信し執着します。そして「バヴァ(三界)」と呼ぶ行為が生まれます。物質的な行為もあり、精神的な行為もありますが、行為者として最高の感覚があります。

望んでいる人、あるいは行為する人であるという感覚は最高になると、行動という結果を生みます。そしてその行動の結果は、新たな結果を生む原因になります。結果が原因になって新たな結果を生み、その結果がまた原因になって新しい結果を生む。こういう状態がすべての人にあります。

 この真実が見えず、誰にもあるこの様相が見えず、無関心でいるのは、どれくらい愚かでしょうか。それで他人を責め、精霊や神様が助けてくれないと責めます。人が愚かならば見えません。自分の中にあるタンマ、つまり自分の中にある因果の法則で作り出す状態が見えません。

それが変化させてこれを生じさせ、これが変化させてあれを生じさせ、あれが変化させてそれを生じさせる、パーリ語で因果律という様相です。互いに依存しあって揃って生じること、これが最高に重要なタンマです。つまり原因と結果の間でこのように変化させます。

だからブッダは、「タンマが見える人は因果律が見える。因果律が見える人はタンマが見える」と言今した。ここではそう主張しましたが、他では、関連のある意味の言葉、「タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える」と言っています。

 ここでちょっと加えさせていただきます。因果律が見えればタンマが見え、タンマが見えればブッダが見えます。だからブッダを見るには、因果律が見えなければなりません。そして見える因果律は、自分で、自分自身で、自分の感覚で見えなければなりません。

他で見えるのでは駄目です。だからブッダが見えるのは、かならず自分自身、つまり自分自身の経過が見えなければならない、と言うことができます。タンマと呼ぶものが見えればブッダが見えます。

因果律と呼ばれる最高の「見ること」は、苦がどのように生じるかが見えるという意味です。このように長々とお話するのは、「原因と結果であるものの変化を見る」ことを知っていただきたいからにすぎません。これをタンマが見えると言います。

この場合のタンマが見えるとは、原因と結果の間にある変化を見ることです。(心の)内部のものは直接苦に関わるものであり、外部のものは人間に関係のある世界のすべてです。原因でないもの、原因のない物は何もなく、それを作った原因があり、それ自体もまた次の原因になるからです。形のもの(具象物)も名のもの(抽象物)も、こうでないものは何もありません。

 人間の問題、とくに「政治」と呼ばれるものは一つの原因であり、結果を生み、そしてその結果がまた次の原因になります。政治の問題、あるいは政治に関わる問題、あるいは政治的に解決しなければならない問題も、こういう状態です。だから政治と呼ばれるものは初めの意味のタンマ、自然に変化する自然です。

 私たちの自然という言葉は、西洋人の意味の、あるいは西洋の自然という言葉とは意味が違います。子供たちが学んでいる西洋の自然は、非常に狭くて、物質的な意味しかありません。タンマで言う自然は本元で、どこかから借りてきた言葉ではありません。形のものも名のものも、深遠な意味で自然に存在する状態、最高に高度なもの涅槃も自然です。しかし別種の自然です。

 人間の話は、自然から出ることはできません。人間の体は自然ですし、人間の心も自然から来ていて、基本的なレベルでは、物質的な反応でしかありません。気持ちや考えが自然な時は、その後の結果も多分自然です。だから現在目にするもの、人間が磨き上げた美しい物も、自然であることから脱しません。因縁の法則である原因と縁がそれを生じさせるからです。

 だから本当の自然について言うなら、何もない時代を意図しなければなりません。つまり空っぽで何もなく、太陽が生まれ、何かの星が生まれる前、世界と呼ばれるものが生まれる前の、つるつるした熱い溶岩だった頃、それが自然です。それから今のようになりましたが、それも自然です。

変化して、高度になって、更に精巧緻密になりましたが、それでもまだ、自然にすぎません。だから、キリもなく変化させられ、そして消滅していく自然と言います。それはいつでも変化しています。それらにも、常に変化している自然があります。

 だから政治の問題は、爪の垢、僅かな埃のような問題です。つまり人間が作った変化であり、自然の法則で変化します。だからこういう現象がある自然です。一番の意味の自然、つまり現象として現れたすべての自然、と言うことができます。

 要するに一番の意味のタンマという言葉は、問題も、施行することも、施行した結果も、政治と呼ぶものに含まれています。政治の話は、現象である自然という一語に集約され、人間の心身両面の進化につれて自然にそうなった、一つの状態です。つまり一つの問題が片付いたことになります。政治は自然という言葉に含まれます。

 二番目の意味のタンマ、つまり自然の法則は、どうぞ目を閉じて、すべての自然には、それを支配している、統制している、潜んでいる、あるいは強制している自然の法則があると、一度に見てください。この部分を自然の法則と呼びます。自然の真実であり、絶対であり不変なので、真実と呼びます。

どんな自然にも、それ自体の中に自然の法則があります。形のもの、つまり物質である自然なら、物質の法則が支配し、心の自然なら、心の面の自然の法則が支配し、両方に関われば、両方、つまり物質と心に関わる自然の法則が支配しています。だから物質面と心の面が入り混って変化するので、誰もそこまでとは考えられないような進歩発展をします。これが自然の法則です。

考え、行動、あるいはそれらの結果は、すべて自然の法則が支配しています。あるいは強制的に変化させます。だからすべての人間の考えや行動は、自然の法則に支配されています。あるいは内部に自然の法則があります。

たとえばこの石は、一番の意味では自然の物であり、つまり石です。二番目の意味では、この石の中に自然の法則が潜んでいるので、この石は、自然の法則で変化します。だから私たちは、自然の中に自然の法則が潜んでいることを認めなければなりません。

 自然のものは、必ず内部に自然の法則が潜んでいます。だから政治家の考えも、自然の法則で経過します。愚劣か賢明か、誤りか正しいかは、すべて愚劣な、賢明な、誤りの、正しい、自然の法則で経過します。自然の法則に逆らえるものは何もないからです。

しかし自然の法則には、人間が望むものと望まない物のどちらもあります。そして人間は自分の愚かさに応じて、これは良い、これは悪い、これは得、これは損、これは勝ち、これは負けと言います。しかし真実は、自然には良い悪い、損得、勝ち負け等はありません。ただの自然だからです。そう行動すれば、そのような反応があります。

 自然は損得や勝ち負けを望みませんが、心があり、考えがある人間は、自分の思いどおりに手に入れるのが好きなので、それを良い、良い、良いと言い、得をしなければ、良くないと言います。損得、勝ち負け等は、人間側の無明による執着の問題です。

 私たちは人間側の話しかしないので、良い話、悪い話、勝ち負けの話、損得の話ばかりです。だから政治が生まれます。政治も現象の一つであり、自然の法則で経過します。政治も自然のものなので、その現象にある自然の法則が支配しています。

間接的に、と言うこともできます。しかし見えるには、人間のどんな行動も、自然の法則に則って行動しなければならない、それ自体に自然の法則が潜んでいるから、ということを忘れてはいけません。

 三番目の意味のタンマは、自然に合った義務、自然の法則による義務です。聞いたことがない人は、訳が分からないかもしれませんから、良く聞いてください。繰り返します。

タンマという言葉の一番目の意味は、現象として現れているすべての自然。二番目の意味は、現象である自然の中に潜んでいる自然の法則。三番目の意味は、生き物が自然の法則で行わなければならない義務。もし行わなければ必ず死ぬ、あるいは生存できない、平安でないものを、自然の法則での義務と言います。

パーリ語では「パティバッタム」、タイ語では「パティバット(実践)」と言います。つまり自然の法則に則った正しい実践のことで、これを義務と言います。タンマの三番目の意味は義務です。そして三番目の意味である義務は、タンマという言葉の基本的な訳語として使われています。パーリ語でも、サンスクリット語でも、インド語の辞書には、タンマは義務と訳されています。

 たった一つの細胞から動物、人や何やらまで、すべての生き物には自然の法則での義務があります。義務という言葉の要旨は、しなければならない、しないではいられないという点です。実践も同じです。もししなければ、死や消滅などの悪い結果になります。

 人間がこの世で暮らすには、さまざまな問題が山積していますが、一番重要な問題は、何の問題もなく平和に暮らさなければならないこと、そして権力を行使することなく、です。これは、苦に襲われないで、という意味です。権力を行使すれば、どんな平和もありません。

平安という言葉は、必ず権力を行使しないことを意味します。しかしズルされる恐れがあるので、「権力を行使することなく」という言葉を入れなければなりません。この言葉で監視します。権力を行使することなく、人間が問題なく暮らさなければなりません。これが政治です。

誰でもすぐに、例外なく、百パーセント政治はタンマと見ることができます。タンマとは、個人としても集団としても、平安で幸福に暮らすために実施しなければならない義務だからです。次に純潔な政治という言葉ですが、それは、権力を行使することなく、何の問題もなく平和に暮らせるようにすることです。

だから私は、政治はタンマと主張します。現代の政治家はいっせいに「バカだ」と言います。そう。私は、あなた方の意味ではバカだということを認めます。しかし私の意味では、あるいはこのような事実があり、不正でない純潔な意味を捉えるすべての仏教教団員の意味では、バカではありません。

ですから、政治はタンマと定義した意味が分かります。特に三番目の意味、義務です。一番の意味、二番の意味では、政治はタンマであること、あるいは政治の中にタンマがあることが分かっていますが、三番目の意味、つまり「権力を行使することなく、人間社会に平安を生じさせるために、人間がしなければならない義務」ほどはっきりしていません。三番の意味だけで十分ですが、四番目の意味を話して、終わらせたいと思います。

 四番目の意味のタンマは、実践した義務にふさわしく生じた義務です。実践した物質的結果、心の結果、何の結果でも、すべて「結果」と言います。人間が求める結果は、義務の実践から得られます。

この結果も自然の話です。自然の法則から生じ、自然の法則で実践した義務から生じ、自然と関わりがあるので、これもタンマと呼びます。パティヴェータムと呼ぶ、感じた結果のことです。

宗教面では、聖果や涅槃に到達することで、庶民の話なら、金銀や物、名声、食べること、性のこと、名誉のこと、何であろうと、庶民なりの生じた結果を、世俗的な結果と言います。宗教的な結果は聖果であり、涅槃ですが、まとめて結果と言います。この結果は義務から生じます。

 どんな制度も、すべて大衆の平和という同じものを目指し、それなりの成果を出している点では、すべての政治は同等です。時には政治という言葉が、政治面の結果を意味してしまうこともあります。話し言葉は曖昧だからです。

政治という言葉が理念を意味することもあり、理念に基づいた行動を意味することもあり、静かな幸福である結果を意味することもあります。これは普段人が使っている言葉にはよくあります。このように曖昧です。

四番目の意味、つまり結果を意図しても、他の人たち、あるいは他の時代には十分でなくても、時に政治は、ある人たちにとっては満足な結果である場合もあります。申し分ない成り行きになれば、十分な結果になり、最高レベルの政治です。つまり十分な結果が出ます。

タンマという言葉の四つの意味を見てくると、三番目の意味のタンマは、タンマと政治の両方の意味を一つにまとめた、本当の意味だということが分かります。この理由により、私は「政治はタンマ」と明言することができます。

 なぜ私は、このように見るよう努めなくてはならないのでしょうか。いい格好をしたいのでしょうか、自慢したいのでしょうか、何なのかは理解次第です。私の望みはたった一つ、政治という形の人類の問題を、みんなで解決したいだけです。つまりみんなで協力して、権力を行使することなく、問題のない穏やかで安楽に暮らすことです。

 次に関係のある意味を説明します。タンマという言葉を政治に使った時、この言葉の四番目の意味との関係はどうか、もうしばらく、良く聞いてください。

 「政治はタンマ」というのは、義務である政治という意味です。つまり義務という意味のタンマです。そしてこの義務とは、自然の法則であるタンマでの義務です。自然の法則であるタンマは、政治を義務にします。そしてここで言う義務とは、自然であるのものの義務です。

つまり命のある自然、現象である自然物が、義務の主体であり、義務を行う人です。そしてこの義務の遂行は何のためかと言えば、結果、つまり四番目の意味のタンマのためです。このようにぴったり撚り合わさっています。

 もう一度復習してもいいです。良く聞いてください。政治はタンマと言うのは、義務である政治、あるいは三番目の意味のタンマ、つまり二番目の意味のタンマである自然の法則での義務です。義務なのは、タンマで、自然で、つまり自然の法則でです。

 誰の義務かは、生き物すべての義務です。一切のものと言うこともできますが、命のある一切のものの様式で経過していく生き物という意味です。これが命のある自然物に生じる義務で、そしてそれらは義務を行います。

義務を行えば、四番目の意味のタンマである結果、つまり求める結果である穏やかな幸福を受け取ります。四つの意味は、政治という言葉に関わりがあり、分かち難いほど絡み合っています。だから述べたような理由で、政治はタンマです。

西洋人が私たちを知性の奴隷にする状態に書いた、西洋のテキストにある政治には注目しません。背を向けて、自然の真実を探求するために、本当の自然を探し、そして少しずつ、政治という言葉の意味を掴み始めました。

先生である知性のある西洋人が、政治についてどう教えていたか、それぞれの意図ごとに詳しくお話することはできません。非常に細かく分かれていて、細かすぎます。おおよその政治の目標は、権力を行使することなく、世界を平和にしなければならないことです。

 これでなければ、亡霊悪霊による不正の政治です。どこかの最高に有名な政治家が書こうと、それがどんなテキストであろうと、自分のため、自分の政党のためなら、それは政治ではありません。調べて見てください。

他人より優位になるためなら、それらの政治こそ、理想的な本当の政治ではないと認めます。政治の肉腫、他人より優位になる道具にするために、人間の煩悩で芽を出した新しい政治です。

満面に笑みを浮かべて他人の利益を強奪し、そのうえ他人を破滅させ、他者の宗教まで消滅させます。現代は、政治は他人の宗教を破滅させると言われるくらい、非常に多いです。これで政治と呼べるでしょうか。もし呼ぶなら、亡霊悪霊の汚れた政治と呼びます。

つまり政治ではありません。政治と呼ぶなら自然の純潔なものであり、そのやり方、その原則で施行され、そしてすべての人間が権力を行使すること無く、何の問題もなく暮らせるものでなければなりません。

 問題とは、あらゆる種類の問題を意味します。人間の問題は非常に多いですが、一番凶悪な問題は、穏やかな幸福と安楽に暮らせないことです。現代を基準にすれば、現代人の問題は、発明と生産に関する知性面では驚異的な発展をしていますが、穏やかな幸福と安楽がありません。特に知的発展は、神々の神通力のような物を作り出すことができても、まだこの世界を穏やかな幸福にすることができません。

 どうぞこの項目を見てください。なぜこれほど発展しても、世界を静かな幸福にできないのか、そのうえ危機、つまり大混乱が増えるばかりなのか、ということが理解できるまで見てください。エレクトロニクスの考えも非常に多種多様で、誰が見ても「すごい」と魅了され、通常のレベルではありません。様々な技術を組み合わせれば、月の世界へ行くことも、何でもできます。こういうのは行き過ぎです。

 私のように頭の悪い者が電子計算機を見ると、「すごい!」、と茫然としてしまいます。考えられません。すごい知性と認めます。たった二、三百バーツの計算機でもすごいです。ラジオやテレビや他のいろんな物を見れば、他にももっと凄い物がたくさんあります。

すべてのコンピューターと、他のものすべてを集めても、人間を平安に、穏やかな幸福にすることはできません。反対に、前より混乱と困難と複雑さが増すばかりです。この種の道具ができる前は、人間は今より快適に暮らして今した。こういう機械が出来てから、非常に問題が増えました。これが問題です。

 そう、まだ食用の氷がない頃は、今より快適でした。私には見えます。まだ食用の氷がなかった頃は、混乱や困難はありませんでした。今は食用の氷があり、手を洗う氷があるので、却って複雑な混乱が増えました。何も言う必要はありません。これを人間の問題と言います。

それは、彼らが教育と呼ぶものの発展に伴って、ますます激しくなって行きます。しかし不思議なことに、ますます人間を煩悩欲望の奴隷にする教育で、ますます苦に耐えなければならなくなっていきます。

私たちはどのタイプの政治でこれらの問題を解決、あるいは直接この問題を解決しましょうか。これらの問題を解決できなければ平和はないからです。それなら何のために政治があるのでしょうか。亡霊悪霊を笑わせるためでしょうか。政治が利益に使えるものなら、この問題を解決できなければなりません。だからタンマの心で、本当の政治とは何かを、本当の政治はタンマだと私が主張しているように、そして四項目のタンマで詳しく説明したように考えてください。

 みなさん、これをただの提案と捉えても結構です。終わらせなくてもいいし、ただのバカな仮説の提案としても結構です。しかし一つだけお願いです。どうぞ後で熟慮してください。多少は仮定を出て、真実になり、真実になればなった分だけ、問題は解決できます。

全部が真実になれば、問題は全部解決でき、タンマは利益になると言います。タンマは確実に利益があります。いつでも役に立ちます。タンマに到達するようお願いするばかりです。これが今日「政治はタンマ」とお話ししていることの要旨です。それとなく提案した後は、「政治とタンマ」と言います。

 次はもう一つ関連のあることを見てみます。同じではなくても関連があります。それは「決断の自由」です。自由という言葉がどういう意味かは、お分かりだと思います。そして複雑な問題解決に必要です。私たちに自分の知性を使う自由がなければ、それは知的な自由がないことで、知的な面の自由がない奴隷であることです。

 「知的自由」は、世俗的にも宗教的にも、つまりタンマでも重要です。今私たちは気づいていませんが、世俗的な面でも、タンマの面つまり宗教的にも自由を失いつつあります。私たちは残らず自由を失って、それでもまだ自由があると考え、自由があると自慢しています。

それで問題はどうなるでしょうか。知的自由がない愚かな人が、大胆不敵にも問題解決をするのは、滑稽以上です。今私たちは知性面の自由がありません。あるいは宗教面の知的自由もありません。たとえば何でしょうかトーンさん。

答 : 本当のタンマである宗教を信じることです。

:  私たちに自由はないですか。

答 : 精神的には無いと感じます。ある人たちにとっては選択肢のない政治主義と同じように。

  : 選ぶものがないから仕方なく、強いられた教義を信じることを自由がないと言います。私たちが宗教の面で知的自由がないのは、たとえば何ですか、チュアンさん。

答 : たとえばタンマの教育などです。現代人はタンマを学ぶ時間があまりありません。物質的な問題に心がすっかり支配されてしまったからです。

: ある面では非常に正しいです。物質によって心の自由が破壊されたと言ったのは、非常に正しいです。正しい方向、しかるべき方向へ向かうために、他にも宗教面での知的自由を消滅させたものがあります。ラムさんは何だと思いますか。

答 : 宗教面で自由が失われたことは、ほとんどは、はっきり言える人、表明できる人がいないことです。堂々と宗教のことをする人がいません。宗教の問題は最高のものだと信じられているので、敢えて正す人がいません。その義務のある人も恐れて正しません。だから義務のない人、宗教を理解していない人も正そうとしないので、宗教面での自由が失われました。

 : それもある部分、ある面では非常に正しいです。つまりモーハ(痴)、あるいはモーハカティ(愚かさ故にエコヒイキすること)、あるいはモーハカティによる恐れが、批判すること、新に提案し教えることに及び腰にさせれば、宗教に関する知性の自由がないと言います。プラユーンさん、まだあると思いますか。

答 : 今私たちは、主義主張や自分の自由に溺れ、あるいは酔っているからです。今はっきり分かるのは、寝ぼけた民主主義です。

 : 私は宗教の話をしています。

答 : そういった面に酔っているので、宗教に興味がありません。他の方面の自分の考えに酔っているので、宗教は重要でないものに見えます。

 : 考えるのは街のこと国のこと、腹のこと、口のこと。だから宗教に関心がありません。自由が無い以上です。つまり自由を求めない、あるいは考えません。今私たちは、考え、あるいは考えに関しての自由や自立や能力、何とでも言い方次第ですが、それらを失いつつあります。知性の奴隷にされているからです。

 こういう話も危険には違いありませんが、話さなければなりません。つまり、伝統主義と呼ばれる、受け継がれてきた愚かさ(信じ易さ。妄信)が、宗教の面に知性を使う自由を失わせる部分があります。これは政治の問題より重要です。

私たち仏教教団員が愚かになれば、それだけ知性の自由が失われます。この愚かさには、何十、何百の形があります。何種類も、と言われるものを自分で見てください。名前は出さないでください。誰でも誰のものか知っているので、支障があります。自分自身の物を見て、考えの自由、自立を妨害するものを消滅させるよう努め、自由な考えができるようにします。

 タンマの学習やタンマの実践も、自由であるべきです。だから私はタンマの教育や実践のにも踏み込んんで、聖果や涅槃に到達することを望んでいます。妄信に止まっていたら、聖果や涅槃に到達できる望みはありません。考える自由や、七覚支の択法と呼ぶ悟るためのタンマを選択する自由がないこと。これは仏教教団の大問題です。

 今日は宗教の話はしたくありません。しかし政治と関わりがあります。つまり私たち仏教教団員は、仏教教団、つまりタンマの教育や実践にさえ自由がないのですから、政治を判断する自由を手にする智慧はありません。

だから自然を原則にして自由を求められるように、政治と呼ばれるものと、タンマと呼ばれるものとは同じだと指摘して説明します。そうすれば私たちは自然の自由、本当の自由を得ることができます。あるいは、宗教と、政治も含めたその他両面の自由を得ることができます。

 こういう例えは悪口と同じですが、お赦しください。というのは、自分の世界、つまり宗教界でも知性を使う自由がないのに、どうして政治に知性を使う自由を得ることができるでしょうか。だから勇気を出して、勇敢に、風俗伝統習慣を恐れないで熟慮する自由を持って、「政治はタンマ」と見てください。

 前にもお話しましたが、「政治はタンマ」と言った言葉に対し、現代の政治家は「バカだ」と、「そう言う人はバカだ。政治はタンマだと言う人は、タンマという言葉を知らないのだ」と非難します。私たちの戒師であるアーチャンも「バカだ」と非難します。

子供が「政治はタンマ」と言えば、ことによっては頭をコツンと叩かれます。彼らには考える自由がないからです。私たちは見る自由、知性を使う自由をもち、タンマとは何か、政治とは何かを見、事実と真実に到達しなければなりません。

 また別の面から、世俗的な知性の奴隷になることを見ます。さっきは、宗教面での知性の奴隷になることしか見ていないことを忘れないでください。次に世俗的な面を、タイの政治家は、どれくらい外国、あるいは西洋の政治家の知性の奴隷になっているかを見ます。外国へ留学して、政治に関することを外国に学び、凧のしっぽのように長い学位を取るので、しっぽが長ければ長いだけ、知性の奴隷ということです。

気を付けてください。勉強すればするほどのめり込み、良く調べもせずに信じるので、非常に知性の奴隷になります。だからそういう政治家、あるいは学生たちは、私がタンマは政治だと言うと、一斉に「バカだ」と罵声を上げます。

しっぽを切り落としてしまえば、きっと罵声が小さくなるでしょう。つまり仏教教団のことを見、深い自然を見れば、政治はタンマという事実が見えます。

 あと何十回、何百回話せと言われれば、話すことはできます。理屈はまだ幾らでもあります。あと百回でも、正しい意味で政治はタンマだと証明して見せます。タンマについて知らない人の、浅くて狭い意味ではなく、この言葉の意味として十分に。

 政治に関する知的自由があるなら、考え直し、改革しなければなりません。そうすれば政治は正直で誠実な方向へ転換し、この世界も平和になります。我が国は今、政治による平和を求めることができず、非常に不吉なこと、論争ばかりです。特に政治論争は、国を壊滅させます。

この真実を知れば、政治は本当にタンマなのですから、同じものですから、論争は起きません。だから判断すること、あるいは色々まとめて何がどうか判断することに、自由と自立と、そして能力を同時に持ってください。

私たちが、テキストや、理論や、どんな系統系列の理念に囚われていれば、他のものと比較判断することができません。その系統の理論の知的奴隷になっているからです。得てして哲学と呼ばれるもの、つまりこの系統、あの系統、この派あの派、この人あの人の政治哲学に執着します。

支障があるので名前は挙げませんが、それは何らかの系統の政治主義の、知的奴隷であるとを知ってください。すべてを一度に比較判断する道、特に、自然の真実と比べて判断できず、タンマの四つの意味を検証する術がありません。

 さて、もう少し「自由」という言葉についてお話します。トーンさんは、何段階自由が欲しいですか。

答 : 私は答えられません。

: プラユーンさん。

答 : 私は三段階ほしいです。

  : 私たちが何かをする時に、その重要な要旨に到達するには、段階的な自由があります。話し方が悪かったので、みなさんに分からなくて済みません。質問者も質問の仕方を知りません。何段階の自由。現在私たちは何段階の自由がないでしょうか。例を挙げます。

 第一に、判断するためにいろんな考えを集める自由がありません。能力がない時もあります。私たちは世界のすべての政治主義を学んで、一つにまとめて比較検討することができません。教育が十分でないからです。これは自由がないのと同じです。全部を集める自由がありません。

 第二に、私たちは判断する自由がありません。ヘロイン、つまりいずれかの系統の政治の中毒になっているからです。右派は右に、左派は左に執着し、そして左にもいろんなタイプがあり、右にもいろんなタイプがあり、それぞれが自分の形に執着するので、判断する時自由がありません。

選ぶ機会を与えず、選ぶ知性がなく、選ぶ自由がありません。選ぶ機会がないので行動する自由もないので、私たちは政治を正しくすることができません。選べないから真っ暗闇です。闇は自由を破壊します。選び方を知らないので、実践できないからです。

 ちょっと詳しく見てください。私たちは蒐集する自由があります。蒐集して判断する自由があると、楽観的に言い直します。つまり人々が言っているような人間のものばかりでなく、天人のもの、隠れた自然のものも集めます。天人と深遠な自然の知性や知識を集めて挑めば、現代の哲学者や研究者の知性や知識は、子供の玩具になってしまいます。あるいはほんの一部です。私たちはこれくらいの自由がなければなりません。

 たとえば政治とは何かを知りたければ、すべての自然の真実を集めて比較できるので、動物にも政治があるのが見えます。これらの動物の種が絶えないように、そして動物なりに平和に暮らせるように、自然が自然の法則で自然に配した政治です。

今の時代に下劣な人間が生まれたので、動物の世界を壊滅してしまいました。現代の下劣な人間は、自然が作った動物界の政治をすべて破壊してしまいました。見てください。これくらい掘り下げて見なければなりません。

 自然の形の政治は自然や神様が作ったので、畜生たちも生きることができ、植物も生きることができます。しかし現代の下劣な人間が全部壊滅してしまったので、植物の政治は崩壊し、消滅しました。それで、同じその智慧で、人間の政治を良くすることができるでしょうか。正しくすることができるでしょうか。

 つまり私たちは、すべての面、あらゆる角度から判断するために、ブッダの智慧に依存して、集める自由がなければなりません。私たちは仏教教団員なので、仏教教団員としての智慧、つまりブッダの智慧があります。だから私は、何がどんなか、たとえばタンマには、四つの意味があると、このように深く掘り下げて見なければなりません。これが、ブッダが説いた知性です。

私はただ、タンマという言葉は、人間が知っている、そして知り得る、ありとあらゆるものを意味する、ということが見えるように集めただけです。みなさんが昔学んだこと以外に考える自由や自立がなければ、みなさんはどんな真実も完全に理解することができません。だから自由に考える障害や敵を捨ててしまわなければなりません。

 捨てることについて言えば、犬がホコリを払うように、体からノミを振り捨てるように、人間が自分から不自由や隷属を振り払ってしまえば、判断するためにすべてを集める自由と独立が得られます。

 判断する自由という所になりました。私たちは自分を信じ、自分を尊び、自分を敬い、自分を頼れる人になります。この場合の「自分」という言葉は、タンマを意味します。仏教教団員の言葉では、自分という言葉の正しい意味はタンマだからです。

たとえば「拠り所である自分がいる」というのは、自分でそのようにした、拠り所であるタンマがあるという意味です。私たちには自分で判断する自由があります。どんな言葉の意味を解釈するにも、自由に解釈して判断します。

たとえば「政治とは何か」という言葉に、世界一の政治家がどんな定義を提示しても、私は知性の奴隷に甘んじません。私も同じように見、そしてこのように気づきます。こまごました点の違いはあっても、時にはまったく違うことがあっても、最終的に政治という言葉は、権力を行使することなく、世界の人々が問題を抱えることなく暮らせるようにする制度、という意味を掴みました。

 言語を基準にするなら、政治という言葉はどう成立したのか、Politics という言葉はどういう意味か、タンマという言葉のすべての意味はどんなか、人間の感覚ではどうか、深い自然の真実ではどうか。これくらい判断をする自由を持ってください。

 次は選ぶ自由です。私たちがあらゆる種類、あらゆる面、あらゆる角度から判断した時、どの角度で何を選ぶかということも自由でなければなりません。今私たちは判断が正しくないので、正しい選択ができず、盲目的な、あるいは愚かな選択をします。初めから正しくすれば、選択も正しくなります。

 どういうのを正しいと言うでしょうか。私たちにふさわしい、あるいは私たちの問題にふさわしいものを正しいと言います。タイのように小さな国の問題は、中国、インド、ロシア、アメリカのような大国の問題とは違います。同じはずがありません。自分たちはどうなのかを見ないで、ただ妄信しないでください。

現代の子供たちが、自分たちはどうなのか、タイ人であることとは何なのか、タイ人の魂はどこにあるのかを知らないのは、本当に残念なことです。急いで青少年にタイ人であることを教えないのは、タイ文化、タイ文化を持っている子孫であることを教えないのは、あるいはタイ人であることとは何かを教えないのは、国の教育を監督する人の罪です。

それに子供たちは興味がなく、タイ人であることを好まないので、最高に良い自分たちのものだ、最高に良い基盤であり、タイ人に最高にふさわしいと見えないで、他の方向、他のものの中をさ迷っています。

 だから私たちには、私たちにふさわしい別の形の政治が必要です。どんな政治主義の奴隷になる必要もありません。それは彼らにふさわしいのであって、私たちにふさわしくはありません。これは教育を監督する人の責任です。

青少年にタイ人らしさとは何か、自分自身を知ることを教えない、特に政治制度に関して、どの形式の何であるべきかを教えないのは、ぞんざい、あるいは愚昧、何とでも言い様ですが、そう言います。

 社会主義なら、どういう制度でなければならないか、あるいは、どこかと同じでなくても良い、タンマと呼ばれるものの力を借りた、タンマ式の社会主義という、自分たちの形を作ることまで。それは、何十代、何百代かも分からないほど昔からタンマの先祖をもつ、私たちにふさわしいです。

 私たちは自分が何かを知らないので、選ぶ自由がありません。愚かさと不十分な教育が、私たちを選択できない人間にしました。自分が何であるかを知らず、何が自分たちの問題にふさわしいのかを知らないので、何も問題解決ができません。

解決すればするほど混乱し、すればするほどややこしくなります。今現在そうなっています。解決すればするほどややこしくなり、そして団結もできず賢さもないのは、自分自身を知らないからです。これを選択の自由と言います。

 次に行動する自由という話をしたいと思います。私たちは、自分で選んだ分だけ行動する自由がなければなりません。しかしその自由には限度があります。つまり行動の自由には、私たちの能力的限界があるという意味です。

だから、自分がどんな状態にあるのか、能力的限界はどれくらいかを知らなければなりません。そうすれば能力にふさわしい行動ができます。少なすぎてもいけないし、多くすぎてもいけません。同時に能力を増やしていかなければなりません。

 能力の問題は、いろんな縁次第です。教育ばかりでなく、環境の問題もあり、地理的なものもあり、気候、外部の物質も能力に影響力があります。たとえば私たちの資源は、農業国のもので、最近工業国になろうとしているのは、バカバカしい話です。

なぜなら能力を持てないからです。知識があっても、環境がそれに合わなければ、成り行きません。だから実施は、私たちに能力を与えてくれる様々な原因と縁次第と見ることができます。

 私たちがタンマの面、あるいは正義に厳格なら、不正な人ではいけません。不正な族は、不正ができるので、私たちより能力があります。あるいは彼らの政治主義には不正がいっぱいで、不正をしない政治主義である私たちより、もっといろいろなことができます。

 私たちの行動は、望み通りの結果が得られるばかりでなく、タンマの面、あるいは正義を損なうことがあってはならないという点を、良く見なければなりません。今、「タンマのことばかり考えているとすべて失ってしまう。タンマのことばかり考えていると、完敗してしまう。タンマのことばかり考えていると、不利になる。首を持ち上げることはできない」と話す現代人が現れました。

そう言うのはタンマを知らないから、タンマというものを知らないから言えます。タンマと呼ぶものを知っている人は、タンマがあればある程強くなり、安定し、長期的な結果になるという見解、洞察があり、そう確信しています。不正も不実も騙し合いもしないので、長期的な結果になるからです。

 要するに私たちは、いろんな段階の自由が必要です。勝手に呼んでも構いません。勝手に言っても構いません。私たちが自由を手にするには、このような段階があるという例をお見せしました。もう一度まとめれば、私たちは、西洋人が書いた教科書どおりにする必要はありません。世界は今刻々と、ますます騙し合いの世界になっています。私たちは仏教教団員でありたいので、とても受け入れることはできません。

 仮に妥協して受け入れようとして見れば、彼らが書いている知識は、まだ本物でないということが分かります。それは一時的な論理の稚拙なものであり、そしていろんな面、いろんな角度で不自由と関わっています。だから厳格な正義や真実ではなく、本物でなく、まだ Ultimate、つまり究極と言えません。それはrelativeであり、あの先生この先生の一時的な考えで、あれこれと関連するので、ごちゃごちゃしたややこしい結果になります。

仏教教団員は ultimate truth、つまり真実、究極の真実である厳格な真実を好みます。だから深く、自由に、真実を見なければなりません。彼らが書いた本を信じません。この意味では、言うことを聞かない子になります。仏教教団員であることには、こういう意味があります。つまり本当に見える物、あるいは本当に証明できることを信じて基準にします。

考察や推量や憶測に夢中になっていません。彼らが私たちに読ませるために書いた本は保留にしておきます。私たちはカーラーマ経を原則にするからです。トーンさん、カーラーマ経を憶えていますか。

答 : だいたい憶えていると思います。/佑砲弔蕕譴匿じてはいけない。△垢瓦評判になっていても信じてはいけない。6飢塀颪砲△辰討眇じてはいけないぁハ斥的に理由があっても信じてはいけない。次は、哲学的面で信じてはいけない、自分がそう考えるからといって信じてはいけない、次は証明できるからといって信じてはいけない、話し手が、自分が尊敬している出家でも信じてはいけない、その人が自分の先生でも信じてはいけない、です。

 : 大雑把ですがいいでしょう。意味が厳密でないので、はっきり憶えて、この十項目を神様と捉えられるように、もう一度見ましょう。プラユーンさんはどうですか。それとも憶えていませんか。

答 : 初めの幾つかは他人の側で、噂、あるいは言い伝え、あるいはほとんどの人がそうであること、二番目の部分は哲学面で、それが論理的で理由があり、本当そうで、あるいは推測でも信じてはいけない。三番目の部分は人物に関わることです。その人が先生、あるいは信じなければならない人でも信じてはいけないです。

 : ラムさん。

答 : あまり良く憶えていません。

 : チュアンさんはあまり来なくて、おまけにあまり聞いていません。聞きたいのですが、このカーラーマ経は非常に利益があると思いますか。明確に理解しておかなければないないほど重要だと思いますか、トーンさん。

答 : 必要だと思います。

 : それならば、なぜあなたは、はっきりと明確に憶えておかないのですか。このテープは、あなたのあやふやな記憶を録音していますよ。カーラーマ経が最高に素晴らしく、仏教の信仰に関する本質だと言うなら、明確に理解するべき努力項目です。そうだ。もう一度言ってもいいですね。これは政治にも、非常に重要な意味がありますから。カーラーマ経を良く見ると、三つの部分に分けることができます。

初めのグループは信仰を取り上げ、あるいは他人の古い考えに関してで、

二番目のグループは、信仰、あるいは自分の現在の考えに関してで、

三番目のグループは人物、つまり人物を信じることです。

 初めのグループは四項。 

 みんなが伝承して信じているからと言って、彼らに従って信じてはいけない。なぜなら彼らはみんなが伝承しているから信じて、そして言い伝えているからです。

 人々が行動して伝承して来たからといって信じては、あるいは受け入れてはいけない。話す必要もなく、聞いて伝える必要もありません。見えているからです。初めは言い伝えているからといって信じてはいけない。二番目は行動してきたからといって信じてはいけない、です。

評判になっているからといって信じてはいけない。

教典の引用だからと言って信じてはいけない。教典という言葉は、教科書、テキストという意味です。三蔵もこの教典に入ります。三蔵を引用しないでください。テキストを引用しないでください。

 この四項目は知識、古い考えに関するものです。もう一度復習します。

言い伝えて来たからと言って信じてはいけない。

伝承されている行動だからと言って信じてはいけない。

評判になっているからと言って信じてはいけない。

教典にあるからと言って信じてはいけない。

これが初めのグループです。次は二番目のグループ、自分自身の現在の考えや気持ちに関するものです。

論理を理由に信じてはいけない。論理とは論理的手法を用いた論理学の手法のことです。

意味、つまり哲学的な方法による理論的な推測を理由に信じてはいけない。

状況に応じて考えて、簡単で早すぎる、常識というものに近い考えで信じてはいけない。常識による一瞬の考えを、「状況による考えは、ネジのように素早く流れる」と言います。

自分の見解に照らして耐え得るからといって信じてはいけない。意味としては、自分の見解、あるいは考えと合うからといって信じてはいけない、です。

四項、論理で信じてはいけない。

    哲学的手法で信じてはいけない。

    状況にしたがった考えで信じてはいけない。

    自分の考えに合うからといって信じてはいけない。

残っている二項、三番目のグループは、人物に関するものです。

話している人が信じられそうだから、信頼できそうな人だからといって信じてはいけない。

その出家が自分の先生だからといって信じてはいけない。

ブッダはどれほど多くの自由をくださったでしょうか。トーンさん。

答 : 最高の自由です。

 だからみなさんは、私を信じる必要はありません。この十項で、私が言ったとおりに信じなくても結構です。ブッダから与えられた、信じて信仰することに関する最高の自由です。四項は古い考えに関して、四項は自分の現在の考えに関して、あとの二項は関わっている人物に関してです。政治を判断する時役立てるため、カーラーマ経の話に時間を費やしました。

だから哀れにも良く調べないで、あの政治この政治、あの主義この主義を、ぱっと掴まないで、カーラーマ経を使ってみてください。れは重要な教えなので、四人全員が良く憶えているかどうか、テストしてみました。結果はまだ憶えていませんでした。あやふやな記憶で、まだ正しい記憶ではありませんでした。パーリ語も憶えられれば、もっと良いです。

 つまり仏教教団員がこれら凶悪なものの餌食にならないことを願って、怒涛のように流れ込んでくる現在の世界の政治の欺瞞に立ち向かうために、考えること、学ぶこと、集めて判断すること、選択すること、そして行動することの自由を取り上げました。どうか政治はタンマと捉えてください。そうすれば間違うことはあり得ません。タンマは間違いません。

誰にとっても一方的に幸福、平安だけで、害はありません。みんなでタンマがある政治にし、政治であるタンマがあるようにすれば、私たちも正しい主義の政治と、仏教教団員の暮らしがあります。特にタイでは、問題はすべて解消します。他にもまだ細かいことがたくさんありますが、また後日にします。

 つまり、政治は人間の義務、三番目の意味のタンマということができる、と結論することができます。二番目の意味のタンマである自然の法則で、一番の意味のタンマである自然の、あらゆる生物が公正平等な結果を出すための、四番の意味のタンマですが、そのための義務です。つまりそれぞれの意味のタンマは、直接政治であるものもあり、政治と関係しているだけのものもあるので、政治はタンマと言うのがふさわしいです。


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