仕事はタンマの実践

 

                                               1967年11月9日

 僧はワンプラごとにタンマのパーティモッガがあると、みなさんも決意したことがあるように、これを忘れないでください。律に関わるパーティモッガ(を読み上げるの)は月に二回だけ、タンマのパーティモッガ(を読み上げるの)はワンプラ(菩薩日)毎ですから月に四回です。

 毎回、パーティモッカ(月に二回戒律を読み上げること)と呼ぶにふさわしい、重要な教えについて話すべきなので、そしてここにいる全員が、忘れたり薄れたりしてはいけないこと、何度も繰り返し話さなければならない、説明しなければならないことをお話します。

 最も重要なことは、何項もありません。そして幾つかは明らかになっています。みんな知っていて、良く理解しているという意味です。まだ分っていないと感じることも幾つかあります。特に「働くことはタンマの実践」という最も大切な項目です。特にスアンモークにいる人にとっては、非常に大切です。

 他のお寺では、仕事とタンマの実践を分けていて、仕事とタンマの実践を一緒にすることはできないほどです。「清浄道論」あるいは「アッタカター」のような本では、仕事は憂慮、つまり障害、少なくともタンマの実践を遅滞させる妨害としています。私は反対に、仕事はタンマの実践そのものと言います。聞いても意味が分かりません。聞いて正しく理解できますか。できなければまだ分かっていないということです。

 アッタカターなどを採用すれば、私は仕事をタンマの実践にすることはできません。害があるからです。しかしここで言わせていただきますが、仕事はタンマの実践です。そしていつでも、そう主張しています。それにここスアンモークでは、初めから今日まで、この教えを守っています。ですから興味をもってください。

 先ほど、ここにいるみなさんは、他のお寺の人と反対の教えがあると言いましたが、これをどう理解しますか。他所の人たちは、タンマの実践をする時は何もしません。本も読みません。どんな修行にしても、座って瞑目し、瞑想である修行以外には何もしません。

これは彼らの正しさだと思います。間違っていると言っているのではありません。彼らにとって正しいことは、彼らの正しさ、彼らにとって、彼らのために正しいです。スアンモークには私のやり方があります。ですからどちらが正しいか誤りかは、どちらが好きかということです。

 スアンモークでは初めから、スアンモークができる前から今日まで、良く準備された仕事は、修行のどのレベルでも障害でなく、憂慮でもありません。その人の能力次第です。そしてその人の能力によりけりです。ですからスアンモークでは、いつでも休みなく仕事があります。

昔クティ(僧房)は、僧や沙弥たちがカンナを削り、屋根に登って自分で作りました。スアンモーク創設当初からそうやってきました。手伝いはあまりいませんでした。作ってくれる人がいても、私たちも一緒にしました。今までずっとそうして来ても、まだ仕事があり、ずっと仕事をしています。

 研究したり、本を書いたり、大学での講義の準備をしたり、話すことも仕事には変わりありません。そうしてきました。私には、このように独特の方法があります。

他の人たちはみんな、バラバラにならなければいけません。座って瞑目し、瞑想だけをします。彼らは仕事から逃げてしまいました。私たちのような真似はしません。しかし結果を見ると、私たちがしてきたことは、つまり「タンマの実践は仕事、仕事はタンマの実践」というやり方は正しかったと確信しています。

 みなさん一人一人が、「生涯に何をするか」という大問題を、一生の、全人生の、人生全部の時間を何に使うかということを、考えなければいけません。何も考えず、一生ずーっと瞑想だけをする。そういうんですか。

彼らがそうしたいなら自由です。そうする自由があります。しかし私は仕事とタンマの両方に利益があるよう望みます。どちらも無駄にしないで、両方の利益があるように。だからこそ仕事をタンマの実践にする方法があります。

 何十年も、あるいは生涯そうやっていけば、得るものは大きいです。考えてみてください。人類にとって信じられないくらい大きな利益があります。それに良く考えず、厳格に瞑想だけして何一つ本気でやろうとしないのは、物質的には誰の利益にもなりません。

しかし彼らはこう言います。そうすることは宗教を継承することであり、高度なタンマを学習して人に教えることだと。それは彼らにとって正しいです。私はそれ以上のものを求めます。

 彼らがしていることは、私たちも全部同じようにしています。しかし私たちには物質面の利益、あるいは物質に繋がる利益、あるいは物質的な、そして非物質的な他人の利益になる部分が、際限なくたくさんあります。必用な物や道具を自給自足しています。幾らでもありませんが全部です。使い切れません。他の人に作ってやる分は際限なしです。

 ここスアンモークでは、当初から何でも作っていました。時には村人から非難されるようなこともしました。土を掘ったり、砂を掬ったり、鋸を引いたり、そういうことをしたこともあります。道を直したり、運河を直したり、みんなのためになること、人にできることは何でもしました。

村人がそれを見て、誰のため、どこのためでもなく、すべて地域のためなんですから、利益になると思って、みんなで手伝いに来たことがありました。それでも、私たちのせいで木が切られ、土が掘られると中傷する人がいました。こういうのを破戒と見ていたのでしょう。それはその人の自由です。

 ある時松明を焚いて、手入れしていないこの集落の大事な運河を直したことがありました。岩があって水が海へ流れないので、季節によっては稲が被害を受け、運河の往来が不便でした。

その時は三日三晩掛って、現場で食事をし、現場で寝ました。村人が連れ立って手伝いに来て、木を切り倒し、運河はきれいになり、舟が通れるようになりました。これもやはり非難中傷されました。お坊さんのせいで村人が手伝って木を切ったと。それもいいです。彼らの好きにさせます。

 このような仕事は、「仕事はタンマの実践」という教えを用いた近道だと思います。これはすごい近道で、他人にも自分にも利益があります。そして自分を試すことができる最高のタンマで、何でも一つになってます。つまりいつでも働くことで試すことができます。

 アッタカターの本には、ある人が念処をしたくても、本堂や仏殿の建立などの仕事が気がかりで、タンマの実践ができないというような記述があります。これは興味深いです。しかし私はその仕事を、仕事はタンマの実践と捉えます。こういうのは、いったいどちらが正しいのでしょう。

簡単に分かるのは、生涯、何十年もの間には、仕事と同時にできることで、上達するものがあるべきだということです。もし生涯、何十年もの間座って瞑目して瞑想をしているなら、生涯何もしなかったように見えます。

 「仕事はタンマの実践」という教えは、つまり、自然にタンマの実践になります。これは私の考えでは、大きな流れやいろんな系列があります。

 初めの系統、状態としては、体を丈夫にすることから始めます。ヨギー(ヨガをする人)の人達が体を整えるのと同じです。しかし体を丈夫にするために、ヨガの代わりに仕事をします。これをハッタヨガと呼ぶこともできます。つまりこの段階では体を丈夫にします。ヨギーが言う「ハッタヨガ」です。その仕事が少しも自分のためでなく、すべて他人のためなら、この段階はカンマヨガと呼ぶことができます。

 ですからハッタヨガの段階の仕事をしている時は、痩せこけて青白い顔をし、病気がちで何もできない人はいないと理解します。そして、見返りはいらない、報酬は受け取らない、お礼である食事は食べないと肝に銘じて、他人のために働きます。これをカンマヨガの実践とすることができます。

 お礼と引き換えなら商売と変わりません。それを「カンマヨガ」と見なすことはできません。普通に食べること、お礼の形ではなく普通に献じられた食事を食べるのは構いません。

 これは小さな問題、程度の低いタンマではありません。機械のように役立つために奉仕すること、何も見返りを求めず、機械のように働くことは、低いタンマではないと言います。これも十分訓練しなければなりません。なぜならほとんどすべてが、見返りを期待して働くからです。最も多いのは、人が言う「気持ち」、あるいは「気力」と呼ぶものです。

 見返りとしてお金や物を期待しなくても、ほとんどの人は誉められることを望みます。それではまだ見返りを期待していることで、非常に悪いヨギーで、使い物になりません。

人から言葉で誉められたくて何かをし、あるいは、人は内心誉めているだろうと考えて、それを仕事に勤しむ気力にしていれば、それはまだ悪いヨギーです。今話しているカンマヨガがありません。だから試して自分自身を測ってください。

 初めのヨガは、体を丈夫にするためにします。

 2段階目のヨガは、身勝手を捨てます。

 3段階目のヨガは、煩悩と戦うこと、あるいはどんどん微妙になっていく煩悩との戦いを自分でテストすること。

 この項目のヨガは、仕事をする時、一人、二人、三人、四人、五人、何人もの人と一緒に働かなければならない場面にもあります。それは煩悩が生じる機会でもあります。他の人に近づくと、初めから内心傲慢な性格の人だったら、誰と接しても、必ず何らかの煩悩が多少は生じます。それが塗り重ねられ、そして積み上げられるかどうかというだけです。

 本当にしてみる方がいいです。目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、というように本当にする方がいいです。目が形を見、嫌いな人の姿を見、尊敬していない人、あるいは好きでない人の姿を見ると、その人の心に何かが生じます。

別々の部屋で声だけを聞いても、軽蔑している嫌いな人の声を聞いただけで、どうでしょう。好きな人、愛する人でも、何度も繰り返していると、通常は障りになるものがあり、嫌悪感が生じ、うんざりしてきます。

 次に、他の人より優れた所、秀でた所があり、それを外に表している性格の人に近づいてみます。それまでは隠していましたが、今は見せています。適度に調節できなければ、酷くなります。もっと大々的になります。これは例だけです。だから、本当にやってみるのと、考えるのでは違うということが分かります。

 純粋な心で、「自分は他人のために奉仕する人間なので、奉仕の仕事は必ず出来る。そして自分は本当にそういう性格だ」と純粋に思っている人もいます。しかしこういう人は実際にやってみると逃げ出します。走って逃げます。

想像していることと実際に遭遇することが違うからです。暑いのに耐えられる、寒いのに耐えられる、空腹にも何にも耐えられると考えたことは、本当ではありません。本当にやってみれば我慢できるかできないかが分かります。ほとんどは我慢できません。

 ですから考えたこと、想像したこと、決意したこと、そのようなことは、まだ本当ではありません。実際に試してみて、実際に手をつけてみて、他人のために本当に奉仕できるかどうか分かります。

何人もの人と一緒に仕事をする時、普通の気持でいられるか、誰かの顔つきが嫌になり始めないかが分かります。口に出しては言わなくても、その人を避けるために自分から何かの仕事を引き受けて、逃げて一人で働いたりするのは、同じです。

 ですからこのような状況下で働くことは、ある面から見ればタンマの実践の障害です。別の角度から見れば、反対にタンマの実践のために闘うこと、あるいはその闘いの中でタンマを実践することです。

一部の人、快適または快楽に依存しているほとんどの人は、自分は良く戒を守っていて蚊も殺さないと考えていますが、彼らは蚊帳の中、あるいは蚊の入らない部屋に寝ています。本当に蚊に曝されていて蚊を殺さない人もいます。こういうのが言行一致の人です。ですから蚊と一緒にいることでも何でも、本当のタンマの実践にできます。

蚊について話せば、蚊に対してどう振舞うかを理解してください。ここでは一年中蚊帳をつりません。この項目、つまり、自分自身を測るため、自分の振る舞いがどうかを見るため、時には自分の体内に抗体をつくるためと考えることもあります。

蚊に刺されても痛くありません。マラリア菌があっても闘えます。マラリア菌も私たちの血で繁殖することはできません。いつも抗体になるだけです。こう考えたらタンマではありません。まだタンマではありません。タンマで考えるなら、耐えられるかどうか試します。それは慈悲。それとも慈悲ではなく、こういうのがタンマかもしれません。

 また、働くことは疲れて大変ですから、それが試験に、テストになります。仕事と仕事の結果は第三段階のヨガですが、それは「俺、俺のこと」、「俺、俺の」を攻撃する勉強だからです。そしてこれが本当のタンマの実践です。最も高度な実践です。一人で眼を閉じて瞑想している族には、経験する機会がない、あるいはできないことです。

 もしどんな行為も(ブッダの時代の)異教徒、あるいはブッダが試したようにできれば、それも多分いいです。しかし私たちが仕事でしていることには敵いません。利益の仕事にして、宗教のため、人類のための何かにする方がいいです。

ただいろんな行動をすると、その労力が無駄に費やされます。それは利益のある仕事の労力に使われるべきです。これ以上後世に残る記念碑を造る必用はありません。それに誰かに知られる必用もありません。誰も誉める人がいなくても、喜ぶ人がいなくても、自分で何をしたか分かるだけで十分です。

 おさらいしてみます。仕事の初めは体を丈夫にするためにします。二段階目は他人のために奉仕する練習をします。「俺、俺の」を攻撃する、とても良いタンマの実践です。三段階目は闘い、「俺、俺の」と、いろんな種類、いろんな手段、いろんな角度からの闘いです。少なくともこの三種類です。

それがあり、それができれば十分です。これ以上大切なことはありません。あったとしても小さなことです。これを、仕事はタンマの実践と言います。近道であり、早道であり、さまざまな効果があり、同時にすることができます。

 ですから考えてみてください。分かれば、仕事をするだけでも、何も訓練しないより満足するはずです。そして目を閉じて座るだけで何も仕事がないより、満足するに違いありません。

 ここで普通のお寺を見ると、たくさんのお寺は仕事があります。同じようにとても疲れます。観察すると、内面的な目標がないかもしれません。あるいは私が今話しているような深い目標がありません。ほとんどはタンマの実践を目指さない、本物の仕事です。彼らは仕事でタンマの実践をしようと考えないからです。

ですから多くのお寺ではアーチャンと弟子が朝から晩まで働いていて、あまり休みません。しかしタンマの実践ではありません。実践を放り出し、実践から離れて行くばかりです。(仕事はタンマの実践と)知らないで、そして目指さないからです。

 ですからみなさんは目指して、仕事がタンマの実践になるように、一つに撚り合わせるよう努めましょう。仕事の結果も得られ、タンマの実践の結果も得られます。

 

 これが気掛かりだったので、今日、パーティモッカのタンマとしてお話しました。何人かの沙弥は言われたようにしないで、仕事だけをしている人がいたり、仕事を心のテストにすることに関心がなかったり、もっと悪い場合は、仕事が煩悩を増やし、悪業をつくり、敵意や復讐心を増やす原因になりますが、そうならないためです。

  この項目は、一致団結しないで、そのような心で足払いの掛け合いをしていれば、何も結果がないということが分かります。悪いヨギーと変わりありません。奉仕する人の態度ではありません。

奉仕するなら手柄にしなければ。誉められなければ。人に知られなければ。こういうのは最低のヨギーです。何か奉仕をするには人に知られなければならず、誉める人がいなければならないというのは奉仕ではありません。こういうのは、誰も奉仕とは呼びません。こういう人達の仲間以外は。

 本当の奉仕とは、できれば誰にも知られない方が良く、誰かに知らせるべきではありません。本当の行為は、誰にも知られるべきでなく、誰にも誉められたくないので、隠しておきます。何をしたか、何を犠牲にしたかを誰にも知らせませんが、心の中では純粋な心で奉仕しようと努めます。

純粋な心で実践し、もっともっと純粋にします。このようにできれば、そのうちタンマの実践は最高に進歩します。たとえ偉大な仕事をしても、仕事は小さなことです。爪のアカくらいのことです。人が非常に評価してくれても、爪のアカくらいのことです。なぜならタンマの実践の方が重大で、価値があり、偉大だからです。

 今の時代にこの世界で、このタイで、この環境この状況下で私のような生活をするなら、仕事はタンマの実践という教えを、正しく、適切に用いるべきです。そうすれば世俗的にもタンマの面でも損失はありません。

ただ、良く注意しなければならないだけです。良く注意して純潔な心にします。失敗したらすぐ心を入れ替えて出直します。失敗したら心を入れ替え、間違ったら心を入れ替え、細心の注意を払います。

無理やり溜め込むと、復讐や慢心などの漏を作って心に押し込めておくことであり、いずれ爆発するのに、わざわざ謙虚さで隠します。

 これは非常に微妙な問題です。あるいはタンマの実践として働く時、あるいは仕事を通してタンマの実践をする上での技術と言われるもので、非常に難しいテクニックです。試して観察して見ればすぐに分かります。しかし難しければ難しいほどタンマに早く到達できます。早く、深く、高いタンマに到達できます。

 さて「仕事」という言葉になりました。仕事とは何でしょう。みなさんは仕事を選ぶことを知らなければなりません。比丘にふさわしくない仕事をする必要はありません。比丘にふさわしい仕事を選んでください。

比丘という言葉は出家した人、誰にでも使えます。賢い人もいればあまり賢くない人もいるし、(本当に)賢くない人もいるし、愚かな人もいるし、バカみたいな人もます。それを同じにすることはできません。みんなが同じではないのですから、仕事も同じではありません。

 インドのダージリンにあるチベット寺の暮らしぶりを視察に行ったことがあります。彼らがどうして一緒にいられるのかすぐ理解できました。チベットの僧は様々なタイプがいます。本当にみんな違います。人は本当に違います。

チベット僧のある人の勤めは、薪を割るだけです。薪を持って来て割って、灰を掃くだけが仕事です。それでもその人は満足していて、いつでも周りから尊重されています。これを同住(同じ寺に住めること)と言って、平等に働き平等に尊重し合います。

もっと高い任務では本堂などの掃除や来客の接待、勉強をすること、教えること、受け付けなどがあります。すべてが等しく僧と呼ばれる人たちです。

 ですから仕事で同僚を軽蔑してはいけません。誰かが低い、下等な、簡単な仕事をしなければならないとしても、軽蔑しないでください。自然が、それだけの能力しか与えなかったのですから。これは良く注意してください。すぐに他の僧や沙弥に向かって、バカだ、間抜けだ、下等な仕事、価値のない仕事だと軽蔑しないようにしてください。そう考えるなら困ったものです。考える人、思う人が困りものです。

 そこで彼らに分かるよう話すことはできないでしょうか。その賢くないバカみたいな人に、それはタンマの実践だと教えてやります。それは賢い人、智慧や考えのある人と話すより難しいです。人は「徳になる」と言います。徳になると言えば、それは善いことと理解できます。あるいは徳になれば続けられます。

しかしタンマの実践と言っても理解できないかもしれません。たとえば薪割りと灰掻きだけが勤めで、汚れた顔をしてボロボロの僧衣をまとっているような人には、深遠で高度なタンマの実践と言っても理解するのは難しいです。その人は智慧がないのですから。徳になると信じて、それを信じ理想とすれば気持ちが良く、苦しくありません。

 だからみなさん、ふさわしい仕事をしてください。そして、できれば、それが広い利益になるように、多くの人のためになるように努力してください。しかしそれができなくても、がっかりしないでください。奉仕という点から見れば同じであり、同じに疲れます。

慢心でなければ、その人にとって同じ価値があります。ですから注意してください。本を書く仕事をする人、賢い知性の人こそ、いつ慢心に陥るか分からないからです。薪割りをしている人達は、そういうことに陥ることとは遠いです。

 最も注意しなければならないのは、説教台で話し、大学へ講義をしに行くような人達です。名声や何やらがあれば非常に危険です。しかしそれも同じ仕事です。だからみなさん良く考え、良く観察して身を慎み、高慢にならないよう、そして喋り過ぎないよう、あまり多くを現しすぎないよう良く注意してください。喋れば喋るほど、見せれば見せるほど破滅する恐れがあります。これが大原則です。

 つぎに、更に繊細にしなければならない事があります。たとえば何かの仕事で、どんな仕事でも、サティ(注意力)を維持するにも緻密なタンマが必用です。良く考えてみてください。これも簡単ではありません。

 みんなが使う机にある鉛筆を使って、使い終わっても鉛筆にキャップをしない人がいます。一ヶ月のうちに何度も見ます。これは、どういう意味か考えて見てください。きちんとした人なら、書き終わったらその度にキャップをしなければなりません。

しかし、元あったようにキャップをして戻さない人がいます。こういう行為は駄目だ。迷惑をかける。タンマの実践ではない」と、まだ感じていない人だという証拠です。だからこういう癖を直そうとしません。

彼らは、これはすごく些細なことと考えてしまうからです。忘れること、あるいは鉛筆のキャップを元通りにしないことは、些細なことすぎると。しかし本当は些細なことではありません。自覚がないことは小さなことではなく、何もかも駄目にすることです。決して聖果や涅槃に到達する道ではありません。

 聖果や涅槃に到達することは、「俺、俺の」を生じさせないサティに根源があるからです。何も生じさせないことは、常自覚次第です。常自覚が無いことには広い意味があります。考えない、思慮がない、熟慮しない、注意しない、守らない、集中しない、何もありません。これほど隙があれば、目、耳、鼻、舌、体、心に注意して、「俺、俺の」が生じる隙を作らないことはできません。絶えず「俺、俺の」ものが生じます。

 だからみなさんがしている仕事は、私から見て、もっと良くしていけると思うことがたくさんあります。たとえば物の使い方、物を清潔に維持すること。きちんと置くこと。きちんと仕舞うこと。どんな小さな物でも節約すること。一つの石、一握りの砂、こういうもの何でも節約できれば、何も感じない人より理性のある人です。一瓶の水でも、もっとも有益に使えば、流して捨ててしまう人より常自覚がある人です。

  水浴する時十杯の水で十分体を清潔にできる人もいます。一回の沐浴には十分です。でも掬っては掛け、バシャバシャ、バシャバシャ、百回も掛ける人がいます。何のために水を掛けるか知らないバカみたいです。他に何か理由があって何度も水を掛けるのは、例外ですから大丈夫ですが、一般に、このように悪い習慣がついている人がいます。

重大なことなのに、本人は重大なことだと考えていません。時には反対に、自分はアーチャンなのだから多く使っていい。他の人より快適であっていい。水槽の水を全部使い切って、他の者に汲んで来させ、威厳を示さなければならないと考えます。

こういう人はどこにもいます。足を洗うだけで十杯使う人がいます。掛けて掛けて、掛けて掛けて、狂ったように水を掛けます。気をつけてください。小さなことは小さなことではありません。時には山より大きなこともあります。愚かな人が小さいと見ても、本当は山より大きなこともあります。

 仕事には、このようにタンマを実践する方法やチャンスが幾らでもあります。いまお話したのは一つ二つの例だけです。話せばまだ何十もあります。タンマの、煩悩の名前を書き連ねた目録を調べてみてください。

たとえば貪り、憎しみ、怒り、忘恩、復讐心などがあるか、調べてください。常自覚、忍耐、謙譲、報恩など、二の部から始めて三の部、四の部というようにずっと、実践しているタンマの名前を、調べてみてください。なければならないこと、しなければならないことはどんなことかを調べて、それっきり何もしません。それでタンマの項目名の勉強は十分です。三蔵の教科の勉強には十分です。後は実践しているか、していないかだけです。

 そして始めること、実践を始めること、練習する機会、始める機会は、仕事の時以外にはありません。特に一人、二人、三人、四人、五人、何人もと一緒に関わりながら働くことです。

 これは大きな問題です。現代は社会全体の仕事が非常に荒んでいます。特に公務員の仕事です。誰かの顔が気に入らなければ、国の、全体の、政府の指示で働きません。それは驚異的な損害です。至る所、どこでもそうです。これは、「仕事はタンマの実践」の練習をする機会だということの証明です。

 何人もいないこのお寺でも、同じ原則です。たとえ何人もいなくても、煩悩があれば、みんな同じです。ですからこのお寺にいるのは、煩悩を削ぎ落とすため、煩悩を絶つため、ここにいる目的を目指すためでなければなりません。ですから、ここにいる目的を、仕事をすることで煩悩を絶つこと、としなければなりません。

   子どもたちは、沙弥より喧嘩をし、

   沙弥は、僧より喧嘩をし、

   若い僧は、熟年の僧より喧嘩をします。

   段階的になっています。

 台所で調理をしている人たちは、きっと正しいウバシカ(清信女)などより喧嘩をします。ということは、仕事には、タンマの実践上での課題が、石ころや砂粒のように、山ほどあるということです。タンマの実践は仕事にあります。

しかしだれも振り向かず、だれも観察せず、だれも素晴らしい機会と捉えません。山や、森や洞窟へ逃避し、目を瞑って瞑想します。そして一時は熱狂的になり、それから上手く行かず戻ってきます。止めるまでそうしています。

 だから煩悩のある所でタンマの実践をしなければなりません。それに、煩悩が頻繁に生じる時、その時、そこでタンマの実践をしなければなりません。煩悩を捨てることに利益があり、人々のためになる仕事としても利益があります。素晴らしいことに、一発の銃弾で何種類もの、何羽もの鳥が獲れます。人間は誰であろうと、仕事をしないでは生きられないからです。

 

 「仕事」という言葉には広い意味があります。生き物にはなくてはならないもので、避けることはできません。仕事は、自然に生きる上での素晴らしいものです。それにもっと素晴らしいことは、タンマの実践の基礎になります。ですから試す時は、する時は、良く注意して、善くしてください。

 この理念を捨てたらお終いです。止めです。しかし理想を大事に維持していれば、注意深く細心の注意を払って、本当に、必ず利益になるように、そして最大の結果が得られるようにします。

 みなさんのスアンモークでの生活に望むことは、いつ辞めるかなどという問題なしに、この理想で生きていただきたいだけです。この理念は命であり、切り離すことができないからです。

だからみなさん見てください。昔からのことも聞いてください。私が出家してから何をして、何をして、そして今まで何をして来たか。調べて検証してみてください。これからも続けることができます。つまり生きることとして仕事があり、そして仕事はタンマの実践です。

 タンマの実践が終わってしまって、修行をする必要がなければ、仕事即ち生きること、生きること即ち仕事です。ですから仕事は、タンマの実践の最後の結果である幸福です。どこかへ仕事を探しに行く、あるいはどこかへ何かをしに行く必用はありません。仕事は生きることの中にあります。これが「する事」という意味の仕事と言います。

 しかし「勤め、義務」という言葉には、もっと柔軟な意味があります。たとえば、寝なければならない、食べなければならない、排泄しなければならない、沐浴しなければならない、等々、このような義務はすべて、タンマの実践をする機会であり、課題です。

 だから今日のトイレの入り方は、昨日の入り方より悪いかどうか、自分自身で試して見てください。つまり今日トイレに入った時の心は、昨日トイレに入った時の心より悪いかどうか、という意味です。そして明日、以前と変わらない悪い心があるかどうか、観察してください。

トイレに入ってどんな気持になったか、観察して見てください。悪いことを思ったか、気分が塞いでいるか、あるいは普通に落ちついているか、あるいはうんざりしたか、うんざりしなかったか、あるいはこのようなことを観察します。時にはトイレに行くのさえ億劫なとこともあるからです。ご飯を食べるのが億劫な時もあります。

 ですから気持をテストして見てください。心の状態を、生きることの理解を、何でも、テストして見て下さい。つまり義務とはすべての仕事です。良い呼び方をすれば、義務とはタンマ、あるいは自然のタンマの実践です。だから必ず善くしなければいけません。

排便をするにも善くしなければなりません。痔になったら、その人は愚か者と見なさなければなりません。排便のし方を知らないからです。あるいは痔になったら、痔にならないような解決法を知らなければなりません。今お話したのは、本物の体に関してですが、こんなものです。

 何らかの病気になった人も、愚か者と見なさねばなりません。病気は油断から生じて危険に至ります。予防法を知らない、自分を自然に合った状態に振る舞えない愚かさから生じます。考えすぎるほど、心配しすぎるほど、思い上がりすぎるほど、精神的な苦痛は増えます。それは神経の病気になったり、精神の病気になったり、いろんなものになります。

 ですから病気も含めて本当に自然な生き方は、タンマの実践です。あちこちで良く考えずに瞑想するより、はるかに本当のタンマを実践する機会です。彼らは瞑想しても、何のためにするのか知りません。そして、一般の愚か者より遅いです。

 ですからそういうことに夢中にならないでください。健康と衛生を正しく維持することは、本当にタンマの実践です。同じように義務であり仕事だからです。

 これに関して、仕事とは何か、タンマの実践とは何か、という例をお話しました。まだたくさんあります。何時間でも話せます。しかし例としてはこれで十分です。理解するには十分です。生きること自体が仕事、あるいは闘いです。仕事をする時、あるいは闘う時、それ自体がタンマの実践です。

だから自然の法則で実践すれば成功します。段階的に上達して、そして他人と付き合い、関わり合い、そして奉仕して働く時、「俺、俺の」を生じさせない十分な賢さの最高点に達します。奉仕することは既に最高のタンマですから、「俺、俺の」なしに働けば、それらは消滅するばかりです。

 これが、空っぽの心で働き、仕事の成果は空にやり、空の飯を食い、死なないため、死を防ぐためには、空のものを食べます。この呪文を教えにすれば、最高の仕事をしながらタンマの実践をすることができます。最高の修行、つまり空の修行、仕事の中に涅槃がある話です。

 どんな仕事も空っぽの心でする、というこの言葉のことで、気狂いとか、邪見だとか、ずいぶん言われました。言うだけで本当にはできないと言われました。そして心が空なら空なほど楽しいというのは、尚更信じません。新聞に、「私たちは信じない」と抵抗文も書かれました。他にも、空の心は仕事が楽しいというのは信じない、などと言われたこともあります。

 理解が難しいのです。どんな仕事も空の心でし、仕事の成果を空にやる。これは本当に理解するのが難しいです。しかし今ここで、私はしています。必ずいつか理解してもらうためにしています。練習しています。闘っています。そういう生き方のためにしています。

  手っ取り早く、いろんな種類の成果を一度に手にしたい人は、空っぽの心で働く練習をしてください。するとその仕事は、最も高いタンマの実践になります。これ以上高いものはありません。

 今日は、パーティモッカ(月二回の戒律を読み上げる日)のタンマの理解を深めるために、「仕事はタンマの実践」と題して、空の心で生活し、空の心で働くという話をしました。最高レベルのタンマの実践をしたければ、空の心で働くことです。

 


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