ジョン・ウリアーナ神様父の質問に答える

 

 

法施会は、年頭にサムットソンクラームのノッククウェーグ村にあるキリスト教会の、ジョン・ウリアーナ神父から、神様と人間に関した質問状を頂きました。佛教新聞編集長が一度回答しましたが、(回答が)概略だったので「納得するには不十分だ」と返事をいただいたので、改めて回答します。

今度は広く、質問者とその周辺の方のみならず、すべての宗教の人に対する回答です。なぜならこの種の疑問はいろんな宗教に興味のある人が常に遭遇する共通の問題だからです。今回の回答は、読者の利益ために、読者に自由に考えさせ、アヘン中毒のようどれか一つの宗教教義に偏ることなく、何でも学ぶ自由がある学生のようにどんな執着もない本当の幸福になるよう魂を目覚めさせ、その考え方を掴むために道理と輝かしい明るさがある実践できるようにする義務がある、編集局編集長の名で回答する承認を得ました。

 私の回答が、多少はその役に立つことを願っています。そして十分明らかな学習のために、前回の簡単な質問と回答も掲載しておきます。

             1939年

ジョン ウリアーナ神父の質問

1.神様

2.世界の創造者はいるのか。あるいは世界はどのように生じたのか。それを証明する思想的根拠はあるのか。

3.世界の苦は何から生じるのか。

4.人間はなぜ生きるのか。そして人間の目的は何か。

 

タンマタート パーニット氏からの回答                     

1.仏教には神様はいません。創造主である神様や天人について述べた話にある神様は、インドに元からあった伝説です。

2.ブッダは世界に創造主がいるか、あるいはどのようにできたかについて教えてなく、質問者がいた際にも説明していません。解脱の話〔liberation〕ではないと考えたからです。

3.苦は無明であること(間違って知ることも含む)、無明から生まれる欲望(欲しい、所有したい、なりたいと渇望すること)から生じます。

4.人間が生きるのは(自分と他人の)幸福のため、そして人間の目的は幸福の頂点、つまりすべての苦から解脱することです。

人間に心の病がなく穏やかに暮らしている時は、心が満たされ、いつでも自然で生きられます。その人は最高に幸福な人の一人で、阿羅漢〔Perfected one〕と呼びます。水から抜け出して心の苦がすっかり乾いた人、あるいは聖人〔human god〕と呼び、他の人間にとって幸福に生きる人間の良い手本です。

   どの教祖も人間の心の病を治療する医師ですが、手法は様々で、ブッダの手法は直接原因を断つ方法です。智慧のある人がすべてのものを真実のままに理解できれば、心が溺れること、あるいは苦しむことがないので、いつでも現世で幸福になれます。ブッダは重要な項目として「滅苦」しか教えてなく、解脱にならない話を、ブッダは重要と見なしません。

 

 

プッタタート比丘の回答

 

 神様を信じるすべての教義は神様が世界を造ったとし、苦は人間が神様の意志に背いた行動から生じるとし、人間が生きるのは神様に受け入れられるためであり、そして神様と一体になることを目的にしているので、この四項はすべて関連があります。

しかし仏教教団員の視点、あるいはブッダの考えで注目すれば、これらの問題は何も関係ありません。神様がいないので、世界と神話の中の創造主である神様は無関係で、世界の苦は世界の愚かさから生じ、そして自然だけから生じるものもあるので、神様とは関係ありません。

仏教の理想では、人間は現在受け取っている苦、例えば生老病死のような苦、そして生老病死のために生まれなければならない必然から脱すため、人間の目的はすべての苦から脱すことです。

しかし神様を信じる側が神話のような神様がいると教えるのは、地球の起源について何も知らない時代の人や子供達に教える話であり、本当は神様は自然を支配している自然の法則にすぎないと、意味を一致させられます。

神様、世界の創造主である神様は世界の創造主である無知(無明)の状態であり、そして生き物は自分自身のカンマがあること(カンマサカター)、善い行いをした人や悪い行いをした人に褒美や罰を与える神様である自然の法則であり、神様は無明とカンマの法則が一つになったものだからです。

キリスト教の考えでは神様を祭り依存するよう望みますが、仏教ではそのような神様を掃滅して勝利するよう教え、仏教教団員は罪人であること、神様の奴隷であることを認めず、解脱するまで自分の能力に応じて、そのような神様と戦う自由と自立があります。神様が世界を動かするのを認め、人間は神様に憐れみを乞うだけという理想がある、神様を信じる人たちと正反対です。

この宗教の教義は「自由な人」という意味のタイ人にふさわしくありません。いずれにしても神様を信じる側が「実体である神様は、自然に関する本当の知識がなかった時代の人や、子供たちに教えるために擬人化(Personification)しただけ」と認めるなら、この正反対の違いを一致させることもできます。        

 最初にこれを述べるのは、質問者がクリスチャンであり、仏教を理解するための質問なので、どうしたら同調できるか、あるいはどう違うから同調できないのかを目指す以外何もありません。だから手っ取り早くするためにこの部分の判断をしなければなりません。すべての話の要点だからです。

重要点は、たとえば「神様」を「自然の法則と無明」と解釈するように、架空の人物を実体に変えなければならないと言います。この解釈を認めなければ同調できる余地はありません。しかしそう解釈するのを認めるなら、どの宗教も、つまりキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、その他の神様や創造主がいるどの宗教とも同調することができます。

その他の道徳や哲学の部分は当然同調でき、あるいは同じ系統です。深さの違いはあっても、系統が違う訳ではありません。以上の理由により、仏教の考えによる神様に関する答えとしては、大部分は架空の人物を変えることに依存しなければなりません。

 ブッダは、実体のある神様の系統をまったく説明せず、神様や神話と正反対のタンマ、つまり述べたカンマと無明の系統を明瞭に指摘しています。つまりブッダは世界を造ったもの、世界を支配しているものである神様について述べていると言うこともできますが、神話のような実体のある神様ではありません。

だから質問者と回答者は、初めに「神様という言葉には二種類の意味あり、擬人化された、あるいは架空の人物話法のレベルが一種類と、架空でない真実を述べたのがもう一つのレベル」と理解しなければなりません。もし直接人物である神様を意味し、もう一度深い哲学的真実に訳さなければならない仮定の人物と認めないなら、この問題の私の回答は簡単に「否。ブッダは神様に関して何も言っていません」だけです。しかし述べたような広い意味を認めるなら「ブッダは実にたくさん話しています」と答えさせていただきます。そして次のように、回答を続けることができます。

 

1 神様

 神様を信じる人たちの教義は、当然同じ信仰と理想があり、神様が自分たちを作り、いつでも自分たちを支配していて、私たちの幸不幸は神様の意志に適ったか背いたか、あるいは私たちが神様に願って授かったか願わなかったかだけで、お願いをする時には、正しく美しい行動をして神様に供えなければならないことも共通で、口でお願いするだけでは叶いません。この意味の神様はすべての物を造り、法則あるいは創造者の権力で支配する「人」、あるいは「もの」、あるいは「状態」を意味します。

 それについて世尊は何と言っているでしょうか。

 答えは「無明」あるいは「愚かな状態」で、すべての物に関した知識がないからすべての物を作り、そして他の物によって作り出されたすべての物は、動きがあれば必ず何らかの反応(reaction)があるという、それ自体に断固とした真実の法則があります。

 ひりひり痛む症状がある類の行動と反応を「悪」または「罪」あるいは「苦」と言い、正反対の方を善または「徳」あるいは「幸福」と言います。

 そして他の物によって作られた物に常にある厳格な真実の法則を、私たちはカンマ、あるいはカンマの法則と呼び、これが生物を支配しています。特別に言えば、すべてのものにそれは常に潜んでいて、心や精神のある物も、心や精神のない物もすべてのものを支配していると見ることができます。

 そのような状態を神様と呼ぶのは、無明がすべてのものを作る人だからです。

 そして何らかの動きがあれば、外部のものに依存しなくても、移動や変化をしなくてもそれにふさわしい結果を生じさせるために、作られた物にはカンマの法則が組み込まれています。

 同じようにカンマは無明次第と分かります。ですからごく簡単にまとめると「創造主である神様は無明あるいは無知の状態、あるいは自分をよく知らないこと」と言うことができます。

なぜそうなのでしょうか。

愚かでないなら、なぜいろんな物を作って混乱させるのかと、最高に普通の道理で答えられます。ネズミを作り、猫を作ってネズミを食べさせ、人間を作り、重い病気を作って人間に入れ、そして医者を作って働かせます。創造者の行動に抵抗するために生まれさせ、老い、病んで死ぬ、様々な苦闘をさせます。賢ければ、なぜ反対の物を作って世界の人に崇拝させないのでしょうか。しかし真実は、賢ければ、あるいは明ならば「無明を殺すために、そして自分がそれらの物に作られて混乱することがないように無明を殺すために悟りを求める」と仏教の理想にあるように何も作らず、あるのは消滅だけで本当に穏やかです。

 ブッダの言葉である根拠、つまり「縁起」についてのブッダの言葉、つまり自然の法則、あるいは自然が作る状態を順々に並べた( law of Dependent Origination of all Phenomena of Existence この法則では、広く知られているパーリ(ブッダの言葉である経)にあるように、無明が起源です。

根源として無明があるので作ることがあり、(行。サンカーラ)

作ることがあるので反応する識があり

反応する識があるので体と心があり

体と心があるのでいろんな感情が触れる道具があり

いろんな感情が触れる道具があるので触れることがあり

触れることがあるので感覚があり

感覚があるので何らかの欲があり

欲があるので執着があり

執着があるのであれこれ所有することや立場があり

所有や立場があるのでまとめて生と呼ばれるものがあります。つまり生まれる準備が整ったと言うこともできます。

生があるので老病死その他の苦があります。

これが「根源にあるものは知識がないこと、あるいは愚かさ」と説くブッダの言葉である教えです。知識はそういう状態でないからで、明あるいは知識があれば(つまり「苦とは何か、苦の原因は何か、苦を滅亡させるもの、そして滅苦に至る原因は何か」を知ること)苦の根源を作りません。つまりそのような意図がないので、苦しむために人間を作りません。

 仏教の考え方は、有為あるいは次々と形作られたすべての物、あるいは科学で言う現象のある自然( Phenomena )のすべては、それを初めに作り出したものの威力で循環していき、このような動きを「無常」と言います。あるいは不変でないこと、常に変化していることは厭わしく苦しいので、「苦」と言います。

 そしてそれはただの自然であり、誰でもなく、誰のものでもないので(心が勘違いして、あの人、この人、私、彼、となります)、自分でないことを「自分はない」、あるいは「無我」と言います。

 神様つまり無明が作ったすべての物は、無常・苦・無我の三つの法則から逃れることはできません。なぜならそれらは、それ自身の法則で変転していく自然のもの以外にはなれないので、原因と縁で変化していくだけです。

すべての根源である無明も自然の物ですが、盲目の自然で、知る状態がありません。盲目の状態がどのようにして様々なものを作り出すのかは「人生と涅槃」という本で詳しく説明してあるので、それを読むこともできます。

 一方根源である無明は同種の無明から生まれ、いくら根源を手繰り寄せても、終わりがありません。無知である状態(Existence of Ignorance)つまり自然は普遍的な宇宙の主役で、それが人間や生き物を産み出すのは当たり前です。

私たちが発展と呼ぶ世界のすべてのものの進化、あるいは Evolution 、あるいは後に文明になるものは、苦と滅苦を知ることにならなければ、どれも全部無明で、どんなに豪華で美しくても「神様の祝福」にはならず、無明のままです。

「体と心、あるいは自分と呼ぶすべてのものに自分はない。移り変わっている自然の一つにすぎない」と知れば、そして「生・老・病・死・幸福・苦と呼ぶ動きは、すべて自然の当たり前のことで珍しいものでも興味深いものでもない」と知れば、無明あるいは神様に勝利したと言われ、その後生老病死の自分はなく、あるのは次々と変化していく自然の変化だけで、不死を見ると言います。その後に生じる明(知識)はその物の進化の一部で、鉄から生じてその鉄に噛みつき、その鉄をすべて腐らせてしまう鉄の錆のように、その物から生じてその物を消滅させます。そういうのもあります。

 心に明あるいは明らかな知識がある人、その人、あるいはその人には作った神様はなく、あるのは自然と、その自然に常に潜んでいるカンマの法則と呼ぶいろいろな自然の法則だけです。これから熟慮します。

 自然の法則は当然たくさんありますが、特に、幸不幸に関するものが重要な法則です。つまりカンマの法則と、関連する原因によって回転しなければならない法則です。カンマの法則は、動きとその動きの結果だけの法則ですが、初めの意味を更に限定するために、気持あるいは意図のない動きを行為と呼び、その結果を反応と呼び、気持ちや意図のある動きをカンマ(業)と呼び、その結果を報いと呼ぶので二組になります。

 意図のないものは行為と反応で、

 意図のあるものは業と報いです。

 ここで行為またはカンマと呼ぶ動きには、当然いつでもその動きにふさわしい、あるいは公正な反応と報いと呼ばれる結果が生じますが、それはどちらも自然です。私たちはよく「善い方」と「悪い方」と呼び、好ましい方を善や徳と呼び、好ましくない方を罪や悪と呼び、そして好きな方を選んで求め、作る努力をして、あるいはその人が信じている教義次第で、神様に乞います。

 しかし正確に言えば善も悪も、徳も罪もどちらもまだ無明です。たとえば神様の極楽に住むことを意味する徳という言葉も、まだその楽しさに欲望、慢、陶酔があれば愚かさで、善悪から脱し、善悪を越えれば作り出すものは何もなく、支配するものも何も無く、変化もなく、「私はこうだ」という執着がないので、すべての執着が消滅した状態で、自分は幸福という感覚もないので、明の側と呼び、無明が作ったものを払い落す側です。創造神である無明が無くなるか無明を捨てれば、真実を知っているので明を神様と信仰することはなく、自分自身を掌握しないのでカンマになる意図がなく、何かを自分のためにする原因になる欲望がありません。無明を引き抜いてしまうので、世界の生き物を支配している神様であるカンマの法則の上にいます。

 このような行為を「親を殺してしまいなさい」という言い回しがあります。無明が自分を産む親なので、殺してしまえば涅槃、つまり無明の支配下でなく、その後は無明に強制されて転げ回る必要はないという意味です。

 仏教教団員は、世界の創造者であり支配者である神様にこのような状態でお願いをしません。それ以上に自分の能力に応じて神様、つまり無明を攻撃する自由があり、自分とカンマとカンマの結果を、いつでもただの自然と見ます。

 もしかしたら「カンマの法則は本当にあり、その法則の所有者がいて、それが神様ではないのか。だからカンマは神様ではなく、カンマの法則を作った人が神様で、神様はその法則を支配している不可知な存在だ」と疑問を持たれる方がいるかも知れません。

 これは「仏教教団員は想像上の神様を作りたくない」、あるいは「作る必要がない」と答えさせていただきます。つまり行為に当然ふさわしい反応があるのは、科学が発見したのと仏教の教えと一致する自然の法則です。

たとえばガラスのコップがテーブルから落ちるのは一つの作用であり、割れて飛び散るか割れないかは一つの反応です。そしてかならずその作用に適合していて、それが壊れないか、どんな状態で壊れるかは神様の行動と無関係です。

そして物や人がそれを落とすか落とさないかも、それに関わるものの行動、あるいはそうする人の行動次第で、神様には関係ありません。いくら手繰り寄せても、これらを作るものとして無明が根源にありる自然の話があるばかりです。

 人間のように心情のあるものは、当然行為に心の感覚や意図が混じるので、人間の行動にはガラスのコップのような反応と違う意味があります。そこで理解しやすいように「カンマと報い、あるいはカンマの結果」と呼びます。人が銃を持って鳥を撃つ時、何がその行動をしたか分かるでしょうか。引き金に当てた指がピクリと動いただけです。ここで私たちは全体を物と心に分けなければなりません。

 物質的身体的には、銃を取って銃を撃ち、鳥が落ちてそれを食べます。精神的にはどんな行動があるでしょう。非常にたくさんあります。心の行動とはいろいろな考えや感覚のことで、強烈で敏速で非常に小刻みなので、考える瞬間が何度あったか数えきれないほどです。

アビダンマの言葉で言えば「夢想から覚めた心は素早い心で、夢中になっている欲や貪や瞋や痴など、いずれかの力で走る。その時は一つ一つの時間を数えることができないほど多い」とあります。銃を取って撃つ時から鳥を取って食べるまでは長い時間で、鳥を食べたいと思って銃を掴んで家を出る時から、家に帰るまでを計算すれば何時間にもなります。

 確かに、このような時の心の動きは当然他の時の心の動きと違うので、その反応も違ってきます。そして、心あるいは抽象的な行動が多ければ反応も多くなります。

 それにこのような心の面の反応はどのようか、戻った反応はどこに染み付いていて、何時どこでどのように撥ね返って結果が繋がっていくのか、そして一生のうちに、私たちは数えきれないほど数多くの、そして様々な種類の心の動きをしていますが、結果が、習性に溜めこんだ何百何千という動きの何に影響し、どの現象に現れるか、知っている人が何人いるでしょうか。

 体の反応は簡単に見え、鳥が落ちれば捕まえて望みどおりに利用することができます。言い方を換えれば、傍に立っている子供でも、銃を撃つ行為の反応がどう報いたか、正しく答えることができます。

しかし心の反応は撃った人自身も知るのは難しく、あるいはまったく知らず、撃つこと食べることは自分の欲望、あるいは貪りと感じるだけなので、仲間内では「動物の殺生は罪ではない」という見解が生まれます。

心のレベルの反応は、何も考えがない時、心は静まっているか、あるいは夢想と呼ぶものが自然に次々と生じては消えていると、大雑把に分析して見ることができます。しかし別の感覚であるいろんな感情に揺すられて興奮すれば、その感情が激しければ激しく夢想から覚め、激しく興奮し、急加速した車のようにブルブルと震え、崩れ落ちることもあります。

 あなたの心が平常な時、猟の話をして狩猟に誘う友達がいれば、納得して一緒に出かけ、そして考えると楽しくて元気が出て、歩いて行き、的を探して見つけ、抜き足差し足で物音を立てないように注意して近づいて満足し、銃を持って狙い、十分狙いをつけ、血の気が引いて銃声が響き、命中したかしないか心が焦り、成否がはっきりするまでは胸が騒いで目玉が飛び出し、見に行くか、あるいは誰かを取りに行かせ、望み通りその餌食を食べるまでには、まだまだ沢山あります。

 この過程は二十から三十あり、それぞれの過程はすべて心の行動とその反応です。内面は激しく、そして何百万回とも数えきれないほど沢山です。心が変化する回数が非常に多く小刻みなので、全部が一つに見えてしまい数えることができません。

あなたは心臓か脳の動きにだけと考えるかもしれませんが、「心」と「心の反応」と呼ぶものは別のものと理解してください。脳に宿っていて、非常に激しい症状の時に影響が表れるだけです。

そのような時、それらの反応は何か、そしてそれがあなたの中にも潜んでいて、コップが落ちて自然に壊れるように、神様の手を借りなくても何らかの反応が表れる準備ができていることがあり得るかどうか、あなたは考えるべきです。

 コップが落ちる動きは、当然感情による心の反応を生じさせるので、心にもそれなりの反応が生じ、コップが落ちる動きの反応が当然コップに現れるように、心の反応は当然心に刻まれ(impress)ます。

しかし見える見えないか、あるいは考えられるか考えられないかは基準ではありません。これはカンマ以外には神様の手を借りる必要がない自然の法則です。だから「カンマは神様」と言い、述べた自然の法則という意味です。

 現世と来世の関係は、私たちが別々の世に分けているだけで、真実それは一つに繋がっています。

また意図のない行動や行為は、心のある物と関わることもあります。たとえば伝染病に罹っている人に近寄ったり、一緒に居たりすると、その行動が感染するレベルに達すことで病気がうつることがありますが、何らかのカンマの結果で病人と一緒にいなければならなかったので感染しなかったとすれば、それはカンマと見なさず、コップが落ちて割れるのと同じただの作用です。この理由により、私たちには意図のない反応と、私たちが「業の報い」または「カンマの結果」と呼ぶ意図のある反応の両方が返ってきます。この二種類以外に、私たちが受け取るものは何もありません。

だから神様の手がこのカンマの原則に立ち入る場所はありません。私たちはカンマの法則以外に、神様がいると見ません。そしてそれより上には何もありません。もし「いる」という人がいるなら、その人は自分と、時が来れば自分自身に影響してくる反応の力が、自分自身に潜んでいることを知らないからです。

なぜなら一人の人間が作るカンマと、それに関わる行動が多過ぎるからです。その人に起こる一つ一つの出来事は、当然何らかの原因の結果です。その原因は複雑に混じって表面化する時を待ち、良い結果と悪い結果が交互に現れ、互いに結果を出す機会を奪い合ううちに、ある部分は欠落して終わりになります。

私たちが原因を探して見つけることができなくても、当然原因があるので、それを原因がない物にすることはできません。だから行動と行動の結果の他に何もなくても、神様の手を借りなくても経過していきます。

仏教は道理の宗教で、すべてはそれ自身に原因があり、その原因の根源は述べたように無明で、毎回明確な原因が見つからなくても、私たちはすべてのもの、あるいはカンマは原因によって生じ、原因で経過していくと見ることができます。

しかし内面に無明やカンマのような原因がない教義を信じる人たちは、その結果が何から生じたか分からない時、支配者である神様を作り、誰も知ることができないもの、そしてすべてが普通とは異なるものに祭り上げます。

神様から結果を受け取ることに関して鵜呑みに信じないでください。そして誰にも神様を判断することを許さなければ、最後には、神様は世界を造り支配している人という以外には誰も推測できない不可知な存在に祭り上げられます。

しかしこの段階で「神様とは無明」と認めても、無明は愚かという意味ではない。無明とは「何であるか誰も知らない状態」を意味するべきだ。そして無明、あるいは神様は誰も知らない状態なのだから、仏教徒と神様を信じる人の考えは当然同調できるのではないか」という疑念が生じるかも知れません。

「そう解釈することもできます」と答えさせていただきます。しかし結果は、空想で作り上げた神様に居場所を与えることに他なりません。世尊は無明とは何かをよく知られていたので、「苦とは何か」と「滅苦」について知らない状態と明言されています。

その状態がどのようか知るのは簡単でなくても、この種の知識がない状態を何でも、無明と言います。というのも、その状態に関して「何も知識がない」という点が重要だからです。でなければ仏教で意味する無明ではありません。知らないことが原因で苦が形作られ、そして流れのすべてがこのようです。

このように生れ、進歩し、変化し、悪戦苦闘し、そして生れたら神様、つまりカンマの法則の下にいなければならないことは、逃れられないことであり、仏教で輪廻と呼ぶ循環で、輪廻を作り出すのは知識がないことの結果で、それが創造主です。意図があろうとなかろうと、人物であろうと別の何であろうと、それは重要ではなく、重要なのは生老病死の味が染みついて(Experience)しまった心がどうしたらそれに勝利できるかだけです。

だから世尊は簡単に「苦、あるいはすべての物の根源である無明を消滅させなさい」と教えています。すべてのものとは苦のことです。それは無明という原因のある自然の法則で変化していくので、滅苦を知る、あるいは苦を作るものを根絶やしにしてしまえば、それ以上に知らなければならないことはないからです。

世界、あるいは宇宙も苦です。それを作り、支援し、支配している原因と縁の威力で循環しなければならないからです。世界が本当に憐れみ深き神様の手によって造られたのなら、世界は私やあなたの目に現在映っているように、残酷で汚いものではないはずです。しかし世界は無明、あるいは愚かさという神様から生まれたので、苦であり純潔ではありません。

まとめると、世界の創造神とは世界を支配するもの、つまりカンマの法則を介入させた無明です。そして世尊は、このようなものが世界を作り支配している流れを説明しました。しかし人物、あるいは同感よりむしろ笑いを誘う、神話にあるような人物に近い状態のものと言われていません。

 


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