イダッパッチャヤター(縁生・あるいは因果)・目次




     見過ごされているブッダヴァチャナであるイダッパッチャヤター

     世界のすべての学識であるイダッパッチャヤター

     すべての意味、すべての威儀の自分であるイダッパッチャヤター

     神様であるイダッパッチャヤター

     人生のすべての分野の進化であるイダッパッチャヤター

     身の周りのすべてのダンマであるイダッパッチャヤター

     三宝と三学であるイダッパッチャヤター

     宗教間で交渉するものであるイダッパッチャヤター

     在家が学んで知り、実践しなければならないイダッパッチャヤター

     すべての法則の上にある法則であるイダッパッチャヤター

     カンマの法則、カンマ、カンマッカヤであるイダッパッチャヤター

     カンマの法則、カンマ、カンマッカヤであるイダッパッチャヤター(2)

     いろんな様式の縁起であるイダッパッチャヤター

     縁起の中のイダッパッチャヤターとダンマパハンサンパータの翻訳経





イダッパッチャヤター解説




 この講義の目的のほとんどは、仏教を深く理解するために必要な、幾つもの知るべき重要項目を学習者に知らせるためです。

 イダッパッチャヤター(縁生。因果)とは、「これがあれば、これが縁で、当然これが生じる」、そしてそれに内在している反対の「これが無ければ、これが縁で、当然これは生じない」と縮小した要旨だけの縁起の話です。

 縁起の形で述べれば「無明が縁で行が生じ、行が縁で識が生じ」等から、「生が縁で生・老・愁・悲・苦・憂・悩が生じる」まで、同時に「無明が消滅すれば行が消滅し、行が消滅すれば識が消滅し」等々から「生が消滅するから生・老・愁・悲・苦・憂・悩が消滅する」まで説明して長く述べます。

 もう一つイダッパッチャヤター(因果。縁生)という言葉は一般の広い意味があり、どんな場合のどんな物にも使うことができ、科学の法則全般にも使うことができますが、縁起は直接仏教の「苦の発生と苦の消滅の話」だけに使うことを目的とします。しかし要旨は同じで、長い線である、縁と縁によって生じる物の流れだけを説明しています。

 直接苦の話ならイダッパッチャヤターパティッチャサムパバートー(縁生縁起)と呼び、ブッダバーシタの形の中にありますが、長すぎるのであまり好まれず、短くパティッチャサムッパータ(縁起)と呼びます。

 ブッダバーシタだけから観察できるこの話の重要点は、本能で自然に感じるような「自分・動物・人物」があるという誤解、誤った見方を排除することを目指しています。あるいはそれ以上に「善もない。悪もない。徳もない。罪もない。得もない。損もない。そしてその他の反対の物もない」と説明することを目指しています。それは人間が人間の感覚で規定したので、本当は全部、どの対も全部イダッパッチャヤーの流れにすぎません。

 人が死んで生まれるのか否かという問題も、イダッパッチャヤターの話を理解した途端になくなります。人はなく、死もなく、生もなく、それは因果の流れだけです。そして「この区間はそのような名前で呼ぶ」と仮定し、あるいは規定し、そして執着を感じ、愛・怒り・憎しみ・怖れ・悲しみ等々、あるいはイダッパッチャヤターの話を知らない人物の愚かさでその他いろいろ感じるだけです。

 ハッキリ理解しなければならない話はまだあり、このイダッパッチャヤターの法則の話は、まだ最高に実践していない時は理解するための学習です。この話は哲学として現れ、実践をしてサティを管理でき、前もって知ることができ、阿羅漢になれるくらい煩悩が生じなければ、哲学であることは終わり、宗教、あるいは宗教の実践の形になり、そして道徳の実践の形にもなれます。

 つまりぼんやりしないサティがあり、目が形などを見た時に迷ってその形を愛し、迷って嫌わない根律儀などを維持する人のものです。西洋人は哲学の角度だけを勉強し、実践する角度を学ばないので仏教を深く理解できず、理解できるのは仏教哲学だけです。そして彼らが理解できるだけ哲学の形で勝手に規定します。

 イダッパッチャヤター(因果)の意味を深く隅々まで理解するには、タタター=そのようであること、アヴィタタター=そのようである状態と異ならないこと、アナンニャタター=他の物にはならないことからダンマッティタターとダンマニヤーマターまで、これらの言葉を本書で詳しく説明しているように学ばなければなりません。縁起の詳細は、それらの名前の説明、規定の言葉です。

 このイダッパッチャヤター(因果)の話は、仏教の最高の核心の話ですが、最高に見過ごされ、まるで重要でない、あるいはパーリ教典の中にないようだと言うことができます。これには二つの理由があると見ます。理解が難しい。これが一つ。もう一つは、空の話と同じで、高度すぎるので学んではいけないと禁止されてしまったことです。

 しかし本当はすべての人の日常生活の中にある話で、人のどの部分を見ても、人のどの動きを見ても、何時どこで誰に生じる話を見ても、イダッパッチャヤターの話ばかりです。主婦が鍋でご飯を炊いて食べるのも、このシリーズの講義で指摘しているようにイダッパッチャヤターの話ばかりです。要するにこの世界のすべての物のすべての原子、あるいは素粒子でも、イダッパッチャヤターの法則、あるいは状況があります。

 イダッパッチャヤター(因果)の話は、大悟された後も、ブッダはアビサマヤサンユッタとサラーヤタナサンユッタのパーリ(ブッダの言葉である経典)にあるように暗唱され、あるいは歌のように口ずさまれています。聞くと面白く、子供が九九を唱えるように忘れる心配をなさっているようです。そうでなければ、気に入った歌がいつも自然に唇から漏れるようです。

 どうぞみなさん、イダッパッチャヤター(因果)の話の価値を認識してください。他の話は、この話のように復唱されたと分かっていないからです。復習されたのは、この話を知りたかったからです。

 大悟する前もこの話を非常に探求され、大悟したばかりの頃はこの話を復習され、教えるのもこの話ばかりで、いろんな形なので気づかない人もいるほどです。時には楽しく口ずさまれ、一人の比丘が隠れて聞いていると、呼び寄せて、無理やりこの話を勉強させました。蘊の消滅、般涅槃される最期の一分でさえ、「カヤヴァヤダンマー サンカーラー」とこの話のまとめを話されました。要旨はイダッパッチャヤターの話です。

 この話の講師である私は、イダッパッチャヤターという言葉は仏教教団員全員の口癖になるべきで、そうすれば本当の仏教教団員になると見ます。彼らに恐怖、あるいは強烈な痛みがある時、「わぁ、びっくりした」と叫ぶ代わりに「イダッパッチャヤター」と叫ぶべきです。そうすれば恐怖が消え、あるいは途端に痛みが軽減します。儲け物や気に入った物が手に入った時は、口を吸って「愛妻殿、最高だよ」と叫ぶ代わりに、同じように「イダッパッチャター」と叫ぶべきです。

 そうすれば常自覚があり、その物、あるいはそれを消費することに惑溺しません。満足すべき場合と、辛苦を感じる場合に分類できる八つの世俗の物の場合は、何がぶつかって来てもイダッパッチャヤターと叫ぶべきです。これは彼らが常にブッダと一緒にいることの表れです。ブッダを見ることは、イダッパッチャヤターパティッチャサムッパトーを見ることだからです。

 ヴァッカリスッタで「ダンマが見える人は私が見える」と言われていますが、ダンマを見るとは何を見ることか、あるいはどのように見ることかハッキリ言われていません。中部のムーラパンナーサ、パーリ・マハーハッティパドーパマスッタ(象跡喩大経)でプラ・サーリープッタは「世尊は、ヨー パティッチャサムッパーダン パッサティ ソー ダンマン パッサティ、ヨー ダンマン パッサティ ソー パティッチャサムッパーダン パッサティー ティと言われた」と述べています。

 だから縁起が見える人は世尊が見え、そして縁起は冒頭で述べたようにイダッパッチャヤターと言うことです。「イダッパッチャター」と口から漏らす人は、「プットー、プットー」と口から漏らす以上に本当のブッダを口から漏らす人です。本当のブッダは、ヴァッカリスッタで述べているようにダンマだからです。

 増支部ティカニパータ マハーヴァッガの第一経で「縁起の形で話された四聖諦は、生起形も消滅形も、誰も脅せない、誰も曇らせることができない、誰も非難できない、誰も裏返すことができない状態で説かれたダンマです」とハッキリ話され、言及されています。これは、四聖諦は誰も反論できないという意味です。それはイダッパッチャターの法則で説明しているからです。

 それ以上にパティッチャサムッパーダ(縁起)、あるいはイダッパッチャター(因果)はマッジマパティパダー(中道)、あるいは愛欲耽溺と苦行耽溺より高い最高の中道の名前で、アッティター・ナッティター、有と無のどちらにも偏りません。所有・無所有に執着する人は、どちらか一方の端へ駆けて行くと言われます。有も無も、どちらの端もイダッパッチャターにすぎません。

  だからイダッパッチャターを理解できる人は有と無の違いを感じません。このようなら、イダッパッチャターは損・得、あるいは勝ち・負け、芳香・悪臭、美醜等々、凡人が正反対として執着するすべての対である両極に走らせません。アッティター(実在性)・ナッティター(不在性)は相応部ニダーナヴァッガ、アーハーラヴァッガのパーリ第五経で見られます。

 同じヴァッガの第六経では、縁起の話を説く人だけをダンマカティコー、あるいは名前にふさわしいダンマカティカと呼び、縁起の実践をする人だけがダンマーヌダンマパティパンノー(法随法行者)、あるいはダンマにふさわしいダンマの実践者と呼ばれると説かれています。中には縁起の実践、あるいは因果の法則の実践はできないと疑う人もいます。聞いているのは論理の形、あるいは哲学の形だけだからです。

 これは何も難しくありません。ぼんやりしないサティがあり、目が形を見た時、耳が声を聞いた時などに知識に管理させ、どんな時も執着を生じさせず、苦を生じさせません。それが縁起の実践、あるいは因果の法則の実践です。すべては、当然学習も実践も、その後ダンマを説くことも、最高なのはイダッパッチャターパティッチャサムッパートーの話にあるということを表しています。

 同じヴァッガの第七経では、パティッチャサムッパータ(縁起)、あるいはイダッパッチャターの流れを深く理解することは様々な問題を生じさせ、自分と他人を苦しめて世界を破滅させる原因である「自分、他人」という気持ちを生じさせないと説かれています。

 イダッパッチャターレベルのダンマを理解できる人は、自分、あるいは自分の物という感覚を生じさせる道がないので、自分、あるいは他人がある道はありません。だからこのダンマは「縁起が見える人は如行が見える」と言うほど仏教の最高の物と見なします。正常に眠れないほど「私、彼」がある人は、この縁起を勉強なさい。

 同じヴァッガの第十経では「パティッチャサムッパータ(縁起)を明かに知ることは、自分と呼ぶものは有ったこともなく、今もなく、あるいはこれからもない物で、つまり過去も現在も未来も無く、三つの時制の自分に関わる問題の疑念が無くなり、死んだらまた生まれるかと質問する問題はなくなると見せることができる」とハッキリ、あるいは詳しく言われています。今ここでも、自分はないからです。

 パーリ・ブラフマジャーラスッタ(梵網経)では、触は六十二種類のディッティ(邪見)の根源と明言されています。これは無明を生じさせる機会を与える触という意味で、つまり生起形の縁起の触です。触の時にサティがある人は誰でも、当然無明は生じず、そして縁起の滅形になります。

 あるいは見解が生じれば正しい見解になり、六十二の邪見ではありません。ここで六十二と数を明示するのは、当然例外なくすべての誤った見解を意味するので、縁起を理解することはすべての誤った見解を排除すると述べることができます。(六十二見についての詳細は、ブッダヴァチャナによるブッダの伝記で読むことができます)。

 哲学面の仏教に関心がある人たちは、「本当の仏教は哲学でなく、実践である宗教であり、用具として哲学に依存する必要はない」と理解させるこの話を、極めて学ぶべきです。直接触と呼ぶもので学ぶことから始めてほしいからです。そうすれば思考にだけ基盤がある哲学の手法でなく、科学のように段階的に経過します。イダッパッチャターパティッチャサムッパートー(縁生縁起)は、本当の科学です。

 相応部ニダーナヴァッガ、パーリ・アビサマヤサンユッタ、カハパティヴァッガの第一経は、預流に到達する条件、あるいはパーリでソターパッティヤンガ(預流支)と呼ぶものは、直接縁起を知ること次第と説明しています。一般に預流支は四つあり、ブッダへの①、プラタムへの②、サンガへの③揺るぎない信仰、④聖人の方々が満足する汚れや瑕のない戒とだけ聞いています。

 これはまだ曖昧過ぎる迷信のような信仰で、命を賭けても預流に到達する条項にならないと聞くことができます。縁起の理解が生じ始めれば、因果の法則で苦が生じて消滅する話に愚かでなくなり、それだけでその信仰は正しく、動揺しません。そしてその戒はディッティに撫で回されない純潔な戒になります。

 預流に到達した庶民の何人か、あるいはほどんどは、パティッチャサムッパータ(縁起)という言葉、あるいはイダッパッチャター(因果)という言葉を聞いたことがないかもしれません。しかし時その人の心の中では、苦が生じ、苦が消滅することに関わるイダッパッチャターの真実の流れを感じ、あるい経過するのが明らかに見えます。

 少なからぬ数の阿羅漢は、話さなくても、あるいは形・受・想・行・識という言葉を聞かなくても、「すべての執着を抜いてしまう」あるいは「初め・中間・終りに熱中してはいけない」というような言葉を聞くと、それは五蘊と呼ばなくても五蘊を意味するように、それらの人は五蘊という言葉を聞いたことがないこともありますが、五蘊をすらすら暗唱できる、あるいは五蘊を分けて長い房にすることもできる現代人より、直接五蘊と呼ぶものに対する感覚があり、阿羅漢果になるのと同じです。

 それらの方々は、その時心の中で本当に感じている物のイダッパッチャターの流れが見えるので、いずれかの聖人のレベルの欲情の弛緩が生じ、そして預流などに到達します。

 述べたような理由、あるいは事実によって第五経に「縁起を深く理解することは梵行の初め」と言われた言葉があり、パーリ語でアーディブラフマチャリヤと言います。ここでの梵行は涅槃に直行する正しい実践を意味し、時にはアリヤアッダンギカマッガ(八正道)と呼ぶこともあり、マッガの初めの項目、正しい見解を意味し、因果の法則で苦が生じ、苦が消滅するのを見ることがなければなりません。

 要するに梵行の出発点は「道理の威力の中にいる人」であることで、道理の法則、つまり「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」に明らかな知識と理解があれば、それがそれまであった戒禁取を完全に無くしてしまいます。

 あるいはごく短く言えば、涅槃へ到達する出発点は因果の法則を深く理解することにある、と言うことができます。因果の法則を理解し、この真実を知れば、「この身体は自分、あるいは私」という誤った見方は終わり、述べたような戒禁取を抜き取ると同時に、三宝も含めてすべてのダンマに躊躇いが無くなります。

 これが因果の法則の重要さで、それは梵行の初め、あるいは初梵行であり、仏教の聖向聖果に到達するには極めて必要です。

 因果の法則の話の知識が段階的に進歩して、「動物はない、人物はない、その人はいない、その人以外の他人はいない、カンマを作る人、あるいはカンマの結果を受け取る人もいない」と感じれば、古いカンマも新しいカンマもカンマの終わりに到達し、二度と欲望執着の威力で新しい生に戻ることはありません。

 因果の法則は当然「自分、自分の物」を完全に排除し、聖向聖果の最後の段階である阿羅漢に到達します。この内容は相応部アビサマヤサンユッタのガハパティヴァッガ・第五経に現われています。

 アビサマヤサンユッタ、ドゥッカヴァガの第一経(全体)に「縁起のすべての状況を因果の法則の意味でハッキリ知れば、サンカーラの根源を消滅させるために実践できるので、縁起の滅形の流れですべての苦を消滅させることができる」と説かれています。

 それは小部パーリ・イティウッタカの種類の滅苦であり、蘊が消滅した後、つまり死んだ後でなく、現世でのアヌパーディセーサニッバーナダートゥ(無余依涅槃界)と呼ぶことができます。これを因果の法則の実践の最高の功徳と見なします。みなさん全員が、この話の学習と実践に最高に努力をするよう望みます。

 最高に興味深い、広く話されているこの話の功徳は、中部・ムーラパンナーサ、マハータンハーサンカヤスッタ(愛尽大経)に、縁起を明かに知るまで実践すれば、当然特別な功徳が八つもあるとあります。つまり

①(過去に自分は居たという)ブッパンタディッティに駆けて行かない。
②(未来に自分は居るという)アパランタディッティに駆けて行かない。
③(自分が有るかないかに関して)現在に疑念がない。
④(自分が自分の心でその真実に到達していないのに)教祖の言葉どおりに述べることがない。
⑤(その要点の言葉を教祖から聞いたことがなくても)教祖が述べたのと違うことを述べない。
⑥(この教祖ほど真実を悟った教祖は他にいないと見るので)転向して他の教祖を信じることがない。
⑦何の内容があると言う他のサマナバラモンたちの情報に驚いて、幸運に熱狂しない。(どれも戒禁取ばかりの吉祥を信じて熱狂することから脱すので)。
⑧何を話しても自分が心で知っているように、自分の心で見ているように、自分の心でハッキリ知っているように話す。(その人の知識は、二度と間違う道はないから)。

 これは特別な項目と見なし、非常に興味深いです。そして理解でき、難しくありません。イダッパッチャターの話を知ることは間違ったことを述べる機会、あるいはたとえ自分の教祖でも、他人の言葉を引用して話さなければならない機会を与えません。教祖が知ったのと同じものを同じように知るから、あるいは自分自身の中にいる本当の教祖、つまりダンマが見えてしまうからです。

 述べて来ただけで、当然イダッパッチャターパティッチャサムッパートー(縁生縁起)の話は仏教の核心レベルの最高の話であり、適度に知性のある人を生きている間に涅槃に到達させることが可能であり、死ぬ時まで待つ必要はない、と言うに十分です。

 死ぬ時の涅槃は何の利益もありません。これを知れば、真実を知る人と呼ばれ、これを実践すれば実践すべきものを本当に正しく実践する人と呼ばれます。

 この話を教えて広める人は「本当のダンマカトゥカ(法師)」と呼ばれ、世尊自身も、現代人が気に入っている歌を口ずさむように暗唱されました。それを口にしている時、何よりも快く感じさせるからです。みなさん、イダッパッチャターというかなり変わった名前がある物の、ここで説明したような事実を熟慮判断するよう希望します。

 これ以外にも「イダッパッチャターの話は仏教の世界だけの物でなく、すべてを網羅して世界の科学と呼ぶものの範囲に至り、道理に依存しなければならないすべての分野の学問知識であり、すべての人間のすべての挙措に関わりがあると自分自身で見えるまで、みなさん広く観察していただきたい」と説明したい部分があります。

 自然の法則としてある時、多くの人間が神様と呼ぶものと同じ威力があるので、この世界のすべての宗教間で理解し合う交渉の元手に使うことができます。

 すべての世界に何らかの意味で、あるいは同時にたくさんの意味でイダッパッチャターと呼ぶものと関わっていない物は何もありません。在家であればあるほどイダッパッチャターの法則に縛られ、あるいは苦が多いので、冒頭で主婦がご飯を炊くにもイダッパッチャターと呼ぶものと関わらなければならないと話したように、出家たちより更に学んで実践しなければなりません。

 この世界がどれだけ回転しても、宇宙全般が変化しているのはイダッパッチャターと呼ぶものだけの手腕と知るべきです。破滅も発展繁栄も、世界の戦争も平和も、イダッパッチャターと呼ぶものに対して正しくしたか誤ってしたか次第です。

 一部の人たちがもう一部の人たちに対して優位に立てるのは、イダッパッチャターと呼ぶものを有益に使うことを知っているからです。だから彼らに優位に立たれないよう防ぐ、あるいはどちらも優位に立たないで友人になるにも、この法則を正しく使い、平和のためだけになるようにします。

 最後にみなさんが、物質面でも抽象面でも、最後には世界より上の無為の側まで、すべての問題を解決できるようにするために、最高に重要でない物から一般の重要なものまで何の例外もなく、他の何より重要な物にふさわしく、世界をすべて望みどおりにできる人と同じような物に興味を持つよう望みます。

 人間に生まれて、心臓部であるイダッパッチャヤターがある仏教に出合った機会を無駄にすることなく、苦を軽減してください。

モーカパラーラーム チャイヤー
1973年6月4日



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