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見過ごされているブッダの言葉である
イダッパッチャヤター



1972年1月1日

 今日は新年の土曜講義の最初の日で、ほとんどの方がご存知のように、乾季の九か月間を通して、毎週土曜日プラタム(ブッダの教え)の講義をするのを目的としています。休むのは雨季の三か月だけ、私も三か月休むことができます。つまり十月、十一月、十二月、そして新年になって新しい季節が始まり、一月から九月まで土曜講義をします。

 次にこの講義の目的は去年から述べているので、まだ憶えている人もいるかも知れませんが、忘れた人も、聞いたことがない人もいます。ほとんどの目的は助け合って宗教を伝承していくこと、そして助け合って仏教の純潔と正しさを維持することであるブッダの望みに応える義務と言います。

 しかしこれは問題が多く、複雑で深遠なので非常に努力をしなければなりません。私たち仏教教団員が口だけの仏教教団員でなく、本当の仏教教団員と呼ぶにふさわしく仏教の正しい知識と理解があるようになるまで、何度も何度も、あるいは何十回も講義をしなければなりません。これが講義をする特別な目的、極めて大きな目的です。だからみなさん一人一人の心の中が正しい仏教教団員であるようにするために、講義をして聞かせ、そしてすべての項目をすべての角度から質疑応答する機会を作ります。

 次にブッダがそうだったように、自然と友達になるためにこの場所を選びました。ブッダは土の上で生まれ、土の上で大悟し、そして土の上で涅槃され、ほとんどの時間を土の上で過ごされたので、ブッダは自然と友達です。ブッダの精舎は地面で、床はなく、ブッダの居所は地面で床はなく、敷くために茣蓙があり、せいぜい床机と呼ぶ物が時折あるだけです。ブッダはルンピニー苑の木陰の地面の上で生まれたことを忘れてしまわないでください。

 ブッダは、それまでアッサッタという名前で呼ばれ、その後菩提樹と呼ばれるようになったクワ科の一種である木の下で大悟しました。ブッダがこの木の下で大悟すると、この木は名誉を受け、菩提樹と呼ばれました。菩提(ボーディ)とは知識という意味です。ブッダはある大きな川の畔の地面の上に座って大悟しました。次に涅槃は、マッラ王たちの庭園であるサーラの木の下、これも地面の上でした。

 まとめのように言えば、土の上で生まれ、土の上で亡くなり、地面の上のブッダは地面の上で他人に教え、このように自然と友達でした。私たちはお屋敷や宮殿に住みたくて必死で、それは別の道です。ブッダは土の上で生まれ、土の上で亡くなったことを忘れないよう記念するために、ここへ来て土の上に座らなければなりません。

 だから土の上に座ることは何の上に座るより恩恵があり、自然、つまり大地と木と友達になると、心ではっきりと感じてください。ブッダは木の下で生まれ、木の下で大悟し、これほど自然と友達でした。私たちも同じように暮らす努力をすれば、心の中の考えや思いも簡単に似て来るので、ブッダの恩を崇拝するために、ここに今座っているように、土の上に座ることに満足、あるいは特に喜んでください。

 次になぜこの時刻、十一時半を選んだかは、眠くなる時間だからです。たくさん食べたので眠くなります。私がこの時刻を選んだのは、ティーナミッダと呼ぶものと闘う利益がある時間だからです。ティーナミッダ、眠気、けだるさ、ぼんやりし、倦怠する。みなさんがお腹いっぱい食べて座ると眠さ、けだるさが心の感情として生じたら、ブッダが悪魔と闘われたように闘って勝つことができます。悪魔とは無明、無知のことで、ティーナミッダという子を産みます。ティーナミッダを追放できなければ、その心は明るくないということです。

 だからサマーディに励むには、五蓋、つまりカーマチャンダ(貪欲に満足すること)、バヤーバータ(怒りや恨み)、ティーナミッダ(眠気)、ウッダッチャククッチャ(散漫)、ヴィチキッチャー(疑念)を追放しなければなりません。よく聞いてください。五蓋の中にティーナミッダがあります。眠気と闘えないほど心が弱い人は、当然その人の心は弱く、ダンマを知るだけ強くないということです。

 だからみなさん、ティーナミッダと呼ぶものと闘う努力をしてください。たくさん食べたばかりの時は非常にティーナミッダが生じるので、十分眠気と闘うためにこの時刻を選びました。

 だから居眠りをしている人はティーナミッダがあると、お互いに眼を放さないで見てください。誰かがが座って居眠りをしていれば、その人はまだティーナミッダがあるという意味で、ティーナミッダがあれば、その心はまだ明るく澄んだ心、あるいはブッダダンマを知る十分強い心になる良い訓練を受けていません。

 だからティーナミッダは深くて凶悪な敵と見なしてください。すべての煩悩と関わりがあり、ティーナミッダの種類の煩悩があれば、疑うまでもなく、当然他の煩悩もあります。追放するのが難しいこの煩悩を追放できれば、他の煩悩は、必ず追放できるということです。

 次に個人的な話で恐縮ですが、私がクルンテープ(バンコクのこと)で勉強していた頃、あるお寺に住んでいましたが、このお寺は昔式の規律があり、朝七時半に朝食が終わり、食べ終わると八時に菩薩堂へ行って朝の勤めをしました。考えて見てください。食べたばかりの八時に朝の勤めをしました。座って誰が居眠りをするか見る機会がありましたが、私は負けたことがなかったと、今自負と共に主張させていただきます。居眠りをしている人を笑うだけで、自分自身は居眠りをしたことはありませんでした。

 次に菩薩日、ワンプラには昼食を十一時に食べるお寺の決まりがあり、食べ終わったばかりの十二時に全員菩薩堂へ行くと、時計が鳴った途端に、彼らは菩薩堂の扉も精舎の扉もバタンと大きな音を立てて閉め、ガチャっとカンヌキを締め、誰も入る人はいません。十二時ちょうどに菩薩堂に行きました。何十人もいて、私は誰が居眠りをするか見ることができました。座ってパーティモッカ(二二七戒)を聞くのは最高に居眠りを誘います。何かを知らないからです。

 このような話を聞くのはまだ多少は意味が分かるのでまだ居眠りはしませんが、座ってパーティモッカを聞くのは、本当に意思が強くなければこっくりこっくり居眠りをします。私は降参しませんでした。昼食を食べ終わったばかりの十二時に菩薩堂へ行ってパーティモッカを聞く時、居眠りをしたことがないと主張します。

 次にこの功徳を見ると、何とこれは、ティーナミッダに勝つことができれば、適度に強い意志があり、ブッダのダンマを明かにするにふさわしい清明さがあるか試すもの、テストするもの、計るものです。

 次に一般の人はお腹いっぱい食べると眠くなり、眠くなったら寝ても叱る人はなく、(叱る)主人はないないのでまどろんでしまいます。西洋人がインドシナの国を占領した時この面の文化を変え、十二時になると事務所を閉めて二時まで寝て、それから起きて働きました。公務員の事務所は、西洋人が来てインドシナでこのようにしました。

 タイで彼らはそれほど権力がなかったので、できませんでした。彼らは東洋人の我慢強い習性を、彼らのように寝るのが好きな人に変えました。暑い国だから、夏だからという口実でお昼に寝なければならないので、十二時から二時までの二時間、事務所を閉めて眠らせました。こういうのはティーナミッダがある習性を植え付け、増やします。

 仏教教団員なら、闘ってティーナミッダを残らず破滅させなければなりません。澄んでいなければなりません。お腹いっぱい食事をした時も、澄んでいなければなりません。澄んでいない心配がある人は、たくさん食べないでください。もっと心配な人は全然食べないのが良いです。眠くなりません。

 ブッダの日課は朝托鉢に行って、朝遅く町へ行って、受け取ったら街を出てから食べました。それは朝遅く、昼近くで、それからブッダは「ディヴァーヴィハーラ」にいるとハッキリ述べているパーリ(ブッダの言葉である経)があります。ディヴァーとは昼間という意味で、ヴィハーラは居るという意味で、ディヴァーヴィハーラは昼に居るという意味です。午後、夕方はお寺に戻り、いつものように比丘などに教える義務をしました。

 寝てばかりいる人は、ディヴァーヴィハーラとは寝ることと勝手に理解します。これはブッダに虚偽を塗り付けます。ブッダのディヴァーヴィハーラは寝るという意味ではありません。食事が終わるとディヴァーヴィハーラに居るとは、サマーディで座ります。もう一度言えば、座ってティーナミッダと闘い、サマーディの威力でティーナミッダを追い払います。

 しかしこの話は前にしたことがあり、慣れているのでみなさんにとって問題はありません。ブッダの昼間のディヴァーヴィハーラは寝ることでも眠ることでも、横になることでもありません。後世の弟子は眠るのが好きなので、そのように説明し、ブッダは食事の後しばらく寝て、それから何かをしたと、ブッダに虚偽を塗り付けます。

 ティーナミッダと呼ぶものはどんな問題か、どのように闘わなければならないか、これらについて考えて見てください。私はこの利益が見えるので、ティーナミッダがあり易い時間を講義の時間に選びました。だから十一時半、あるいは十二時は講義の時間です。彼らが寝る時間、あるいは寝たことがないインドシナの人たちに、西洋人が寝るよう教えて彼らの文化を消し去った時間です。

 それは人の習性を変えてしまい、鈍くし、麻痺させ、ぼんやりさせ、澄んでなく、明るくなくすると、ティーナミッダという言葉に関心をもってください。眠らなくても鈍くなり、明るくなく、澄んでいません。これがサマーディ、定、ニャーナダッサナ(智見)、あるいは心の光を生じさせない原因です。

 だから眠気を誘う昼時に座って聞くことは、それ自体が心の訓練であり、ハッキリ言えば、それ自体がサマーディの訓練です。ティーナミッダがなければ蓋はなく、蓋がなければ心はサマーディということです。サマーディである心は蓋のない心と、ハッキリ教えがあるからです。もし今蓋、特にティーナミッダがなければ、みなさんは心に何らかの意味、何らかの状態のサマーディがある人です。だから眠気を誘う時間に講義を聞いても満足すべきです。

 これは、わざと大変にさせる話と考えないでください。訓練の話、誘い合って訓練して強くする話です。だからこれから家へ帰っても、どこへ行っても、寝る時刻でなければティーナミッダ、眠気が生じないようにしてくださいと願いしてしまう機会を頂戴します。

 そして寝る時刻、寝るべき時刻でも、何かしなければならない事があれば、眠くならずにできなければなりません。つまりすることも、しないこともできます。私は何も用事がなければ寝ますが、昼から夜まで出家式など、しなければならないことがあればそれもでき、そして何も損はありません。これを何でもしたいようにできなければならないと言います。

 ティーナミッダに関わる話の、特にダンマの学習に関わる問題が生じたら、その時学ばなければなりません。今沙弥は寝てばかりいて、勉強するよりは寝ています。勉強しても鈍く勉強し、鈍い心で勉強するのでほとんど試験に落ちます。障害は一つ、ティーナミッダだけです。だから訓練してティーナミッダを解決するために極めて正しいのは、このような行動でします。

 つまり私が住んでいたクルンテープのお寺で、最高に眠い時刻に勤めをし、最高に眠い時刻にパーティモッカをしたように、眠気を誘う時間に勉強し、話をします。住職にどんな意図があったか知りませんが、何代か知れないほど何代もの住職がそのようにして来ました。私は良いと見ます。だから今、聞くためにティーナミッダと闘うのを、良いと見なしてください。

 これは非常に問題外の話で、個人的な問題でもあると見えますが、全員に関わりのある個人的な問題です。みんなさんは何としても鈍さ、麻痺、眠気、欠伸などの感覚に勝たなければなりません。そうでなければブッダダンマを理解する道はありません。このダンマ、特に仏教の核心である縁起の話は深遠だからです。

 次に、みなさんを眠らせるために仏教の心臓部であり、深遠な話である縁起の話をします。見ていてください。この話は聞いて難しく、理解が難いので、他の話より眠る人が多いかも知れません。だから誰が先に居眠りをするか、左右を見てください。そのようにしなければなりません。聞いて難しく、そして最高に眠くなる話を、最高に眠くなる時間にします。

 さて次は話を戻します。今年の講義は、いつもの年よりも本当に仏教の心臓部である話をします。いつもの年に話したのより更に仏教の本当の核心である話をします。

 何が今年いっぱい話す仏教の核心か、僧の方々がイダッパッチャヤター(縁生。因果)と唱えている、みなさんが聞いて意味が分からないものです。イダッパッチャヤターは今までの年に話したものより、更に仏教の本当の心臓部です。先ほど唱えた経の中の二ページ半だけ、三蔵の相応部ニダーナサンユッタのアーハーラヴァッガの第十経である二ページ半だけです。

 この経は第十経で、二ページ半くらいあり、二ページ半の中でイダッパッチャヤターという言葉について十二回言及しています。良く聞いてください。さっき僧が唱えた中にイダッパッチャヤターという言葉が十二回あり、ダンマニヤーマター、ダンマッティタターという言葉はそれぞれ十一回、タタター、アヴィタタター、アンヤタタターという言葉はそれぞれ十一回あります。

 ター、ターという名があるこれらの言葉は、本当に最高に仏教の心臓部ですが、みなさんは聞いたことがありません。誰を責めることもできません。「なぜ聞かせてくれなかったの」と先祖や昔の先生を責めることはできません。責める理由がないので、止めた方が良いです。今最高に重要な言葉、仏教の究極の核心であるイダッパッチャヤターという言葉を聞いたことがないだけにします。

 深遠で見え難いすべてのものの中で、ドゥッダサンという名前のもので、ドゥッダサン コー ビッカヴェー ターナン=非常に見え難いのは、パティッチャサムッパータの中のイダッパッチャヤターが一つ、そしてサッバサンカーラ サマトー サッブーパティ パティニッサッゴー ヴィラーゴー ニロードー ニッパン、つまり涅槃、これが一つ、この二つだけです。

 ブッダが話しておかれたのは、最高に見え難く理解し難いもの、ドゥッダサン。ドゥッダサンは最高に見え難いので誰にも教えたくなく、悟っても誰にも教えたくありませんでした。見え難い話は二つ、苦の発生である縁起の話と、苦の消滅である涅槃の話しかありません。しかし二つは同じ話です。

 大乗でなく、テーラワーダの三蔵の中の二ページ半の経に、イダッパッチャヤターという言葉が十二回あると憶えておいてください。そしてタタターは同じ経に十一回あります。しかしこの言葉で呼ばない他の名前のタタターは三蔵の至る所にあります。大乗、あるいは中国ではたくさん話し、タタターという言葉は西洋人も非常に興味があります。タタターという言葉を元のパーリでは「そのようであること」と言います。

 タタター、そのようであること、他のようでないことという意味です。西洋人は短く suchness :「そのよう」と訳します。中国語はユーシー(如真)で、ユーシーとは「そのよう」という意味です。ユーライは如来(拙訳では如行)で、ユーシーはタタター、つまりそのようです。そしてたくさんに分けてたくさん説明しています。私たちタイ人仏教教団員はタタターという言葉を聞いたことがありません。これが今日話す仏教の心臓部です。

 次に、今日は何も話さず、仏教の本当の心臓部と呼ぶものですが、イダッパッチャヤター(縁生。因果)という名前の最高に深遠で最高に重要な話しだけをすると、しっかり聞いてください。

 仏教の核心について話せば、博学者のみなさんは「サッバパーパッサ アカラナン クサラサンスーパサムパダー サチッタパリヨーダパナン エータン ブッダーナサーサナン」を思い浮かべ、これが仏教の核心と言います。これはブッダバーシタ(仏説)でも最高の核心を説く目的でなく、広い原則を説いているので、ブッダは、エータン ブッダーナサーサナンと言われ、これはたくさんの智者の教えの言葉です。

 サンマーサンブッダだけでなく、どの智者でも良いですが、「すべての智者はこの三種類を教える」と言うことができる教えと捉えます。サッッバパーパッサ アカラナン=悪や罪を成してはいけない、クサラッスーパサムパダー=すべての善と徳だけを成し、サチッタパリヨーダパナン=心を純潔にする。この三つが教えであり、教え方であり、すべての智者が教えます。「これが仏教の核心だ」と、あまり飛びつかないでください。まだとても広い言葉だからです。

 罪を作らないよう教えるのはどの宗教でも教えると、すぐに分かります。善行をするよう教えるのはどの宗教でも教えます。心を純潔にするのはどの宗教も教えるので、愚かになってはいけません。

 心を純潔にする方法がいろいろあるだけで、私たちの方法もあり、他の宗教の心を純潔にする方法は別の方法で、仏教は仏教の心を純潔にする方法があります。仏教の方法で心を純潔にするなら、イダッパッチャヤターで心を清浄にしなければなりません。そうすれば煩悩から純潔になれます。

 次に「仏教の心臓部は四聖諦」と反論する人がいます。これは、ほとんど誰でも聞いたことがあります。四聖諦は仏教の心臓部。これは本当で、最高に正しいです。しかしまだぼやけていて、心臓が四つもあると言うことはできません。あるいは四つ合わせて一つで、苦の話、苦を生じさせる原因の話、苦がない話、滅苦に至らせる道の話を四聖諦と呼び、これが心臓部です。

 次に苦はイダッパッチャヤター(縁生)、苦を生じさせる原因はイダッパッチャヤター、苦の生滅はイダッパッチャヤター、苦の消滅に至らせる道はイダッパッチャヤターであることを忘れないでください。だから四聖諦はイダッパッチャヤターです。もう一つの名前はパティッチャサムッパーダ(縁起)と言い、増支部の経にあります。

 ブッダは「比丘のみなさん。私はみなさんに四聖諦を説きます。よくお聞きなさい」と言われました。そしてパティッチャサムッパータ(縁起)を説き、どこでもそのように説かれているように、苦とは生・老・病・死等々と説かれ、苦集になると、アヴィッチャー パッチャヤー サンカーラー(無明が縁で行が生じ)と言い、サンカーラパッチャヤー ヴィンニャーナン(行が縁で識が生じ)、そして苦が生じ、縁起の苦の生起側が苦集です。

 苦滅になると、アヴィッチャー タヴェヴァ アセサヴィラーガニロダー、サンカーラニローダ等々次々になり、最後に滅苦、縁起の滅側になります。見てください。完全で十分な四聖諦は縁起で説かれていて、多くの人が聞いている簡略形、あるいは普通の四聖諦のように短くありません。

 完全形、つまり十分な四聖諦は、苦集は縁起の生起形で説明されなければならず、そして苦滅は縁起の消滅形で説明されなければなりません。だからパティッチャサムッパーダ(縁起)の話は四聖諦の話、完全形の四聖諦の話は縁起の話、そして縁起の話はイダッパッチャヤター(因果)の話です。

 次に、それはどのように、どれくらい心臓部かを比較して見ます。罪を作ってはいけないと話せば話が多く、徳だけを作るのも話が多く、心を純潔にするのもまだ方法がたくさんあり、話が多いです。

 次にイダッパッチャヤター(縁生)を知りなさいと言えば、つまり「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と見、これは更に心臓部です。これを知れば自然に、それ自体に罪を作れない成り行きになる感覚があるからです。イダッパッチャヤターを見れば罪は作れず、徳を作る必要もなく、それ自体が徳で、イダッパッチャヤターを見ていれば、それ自体が純潔な心です。

 次に、罪は罪の側のイダッパッチャヤターなので罪を作ることもイダッパッチャヤター、徳になることも徳の側のイダッパッチャヤター、徳を成し、善を成すこともイダッパッチャヤター、心をどんどん良くして滅苦を現わすのもイダッパッチャヤターともう一度見て行きます。だからパーティモッカの三項も四聖諦も、要旨はイダッパッチャヤターです。長い文章を言う代わりに、「イダッパッチャヤター」という言葉だけ話します。

 そうでなければ「苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、滅苦に至らせる道」と言わなければならず、このように長く話さなければなりません。それより「イダッパッチャヤター」と一言話す方が心臓部です。あるいは「罪を作らず、徳だけを積み、心を純潔にする」と言うのは、一言だけ言うのには適いません。

 次に縁起の詳細を話すなら、十一か十二回話さなければならず、無明が縁でサンカーラ(行)が生じ、サンカーラが縁でヴィンニャーニャ(識)が生じ、ヴィンニャーニャが縁でナーマルーパ(名形)が生じ、ナーマルーパが縁でアーヤタナ(六処)が生じ、アーヤタナが縁でパッサ(触)が生じ、パッサが縁でヴェーダナー(受)が生じ、ヴェーダナーが縁でタンハー(欲)が生じ、タンハーが縁でウパダーナ(取)が生じ、ウパダーナが縁でバヴァ(有)が生じ、バヴァが縁でジャーティ(生)が生じ、ジャーティが縁で生・老つまり苦が生じ、全部で十一もの段階、十一の文章です。

 十一もの文章は「イダッパッチャヤター」という一言に集約できます。ブッダはこのように言われました。イダッパッチャヤターと言われるとパティッチャサムパードー(縁起)が自然について来、あるいはパティッチャサムパードー(縁起)と言われるとイダッパッチャヤターが自然について来、それは同義語で、入れ替えて使うことができます。

 だからわざわざ縁起を唱えて長い時間掛かる所を、イダッパッチャヤターという短い言葉に縮小できます。文字では「これがあれば、これが縁でこれが生じる」という意味です。これは宇宙の、cosmosの、 logos の科学の原理で、例外なくどこでもイダッパッチャターの意味があります。

 これがあれば、これが縁でこれが生じる。ブッダは、これをダンマジャーティ、ダンマダートゥと言われています。ダンマとは当たり前、ダートゥはダートゥ(要素。成分)、ダンマダートゥはダンマのダートゥ、つまりイダッパッチャターです。

 イダッパッチャヤターと言えばとても長く何文字にもなりますが、更に省略するとタタターの三音になります。タタターはそのようという意味で、何文字もある「これがあれば、これが縁でこれが生じる」という長々しいイダッパッチャヤターです。この短い二つの文章をまとめて一つ語句にするとタタターという一語になります。

 つまり「そのよう」、そのようでなくないこと、そしてアンニャタター、他のようにはなり得ません。それがイダッパッチャヤターです。だから中国人は最高に短い言葉、タタターを選びました。これは大乗では非常に多く使います。中国語は更に短くユーシー(真如)の二音だけ、一音少ないです。パーリ語はタタターと三音あります。これも良く見てください。イダッパッチャヤター(縁生)は「これがあれば、これが縁でこれが生じる」という意味です。

 ブッダ、あるいは述べた人の気持ちを察してください。何かを短い一語にまとめる時、幾つかの言葉は省略しますが、残っている言葉に託すことができます。例えばイダは「これ」という意味で、パッチャヤターは縁という意味で、イダッパッチャヤターは「これが縁としてあること」を意味し、「これがあれば、これが縁でこれが生じ」ます。これがあれば、これが縁でこれが生じると理解してしまってください。

 世界中、宇宙全体どの方向を見ても、あるいはあるもの何でも全部出合うのは「これがあればこれが縁で、これが生じる」だけなので、この状況は最高に重要です。つまり他にはならず、そのようになるだけ、別の状態にはなりません。私も短い言葉、つまりこのようになるだけ、このようになるだけ、つまりタタターだけを選びます。

 だからこの言葉をイダッパッチャヤターの代わりに使えば短くなり、どの方向を見てもあるのはタタターだけです。これは物質について話していて、物質はそのようです。つまりそれは今あるようで、今ある状態と違うことはあり得ません。それがそのようなのは、これがあれば、これが縁で、これが生じるからです。

 何かが縁としてあればこの石が生じ、そしてここにあります。だからこの石は、これがあれば、これが縁でこれが生じるので、イダッパッチャヤターです。次にこの長い文章を「それはそのようである」と短くすることができれば、「この石は何か」は、そのようです。

 だからこの石はタタターで、これは命のない物、私たちが「命がない」と見なすもので、それは命がない物のタタターです。それは作り出す縁があるからです。木も同じで、木も作り出す縁があるのでタタターで、だから木になります。そして犬や猫の動物もこれがあればこれが縁で、これが生まれるので、同じです。

 次に人も同じで、人の心の中の考えや感覚も、これがあればこれが縁でこれ、つまりこのような思考が生じるので同じです。それはこのような縁で、このように生じます。縁がこのようだから、このように生じます。苦になるための縁があれば苦が生じ、滅苦のための縁があれば滅苦が生じ、苦はありません。

 だから苦の生起側と苦の消滅側の縁起はイダッパッチャヤター(縁生)です。イダッパッチャヤターでない物は何もありません。どの面に注目してもイダッパッチャヤターで、感覚や考え、あるいは誰の何の行動行為もイダッパッチャヤターです。

 みなさんがここへ来たようなのは、ここへ来た気持ちは、ここへ来たくなるよう促し、誘い、突いた何かがあったのでイダッパッチャヤターです。ここへ来たいのはイダッパッチャヤターで、そしてみなさんはここへ来て、歩かなければならず、汽車や何かに乗らなければならず、それはここまで来させる縁で、このような状況をイダッパッチャヤターと言います。

 次に来て聞き、ダンマを知り、話しているダンマを理解し、タンマを知ることが生じ、このダンマを知ることはイダッパッチャヤターです。それにはダンマを知る縁があり、ダンマを知らせる縁があり、賢さや何かがあるのでダンマを知ります。だからダンマを知ることはイダッパッチャヤター、つまりこれがあれば、これが縁でこれが生じます。今私たちにダンマの知識が生じるのは、ダンマを知らせる縁があるからです。

 次にサッダー(信仰)があり、ダンマを実践したいサッダーがあり、このサッダーはイダッパッチャターです。それは、このダンマは善いと見る智慧から生じます。みなさんがブッダ・プラタム・僧に信仰があるのは、イダッパッチャヤターです。次にダンマの実践をするために非常に努力をする、その努力もイダッパッチャヤターです。

 それは何らかの縁の結果なので、ダンマを実践する努力が生じ、実践できれば、その実践できることはイダッパッチャヤターで、それはダンマの実践を生じさせる十分な縁です。次に成功させ、その成功は成功の縁があるのでイダッパッチャヤターです。

 イダッパッチャターでないものは何もないと良く見てください。人間、動物には雌雄があり、生殖をしなければならないと率直に言うことをお許しください。生殖しなければならないことはイダッパッチャターで、そうでなければ絶滅して、ここに動物も人も残っていません。それには自然の、あるいは自然の法則でも何でも、何らかの必要があります。

 生き物が生殖しなければならない必要性、単細胞も生殖しなければならず、多細胞の動物も生殖しなければならず、昆虫も生殖し無ければならず、脊椎動物も生殖しなければならず、人も生殖しなければならない、この生殖の必要性はイダッパッチャターです。しかし説明が難しい非常に深遠な縁がありますが、心配は要りません。命のある動物が生殖しなければならなくさせる深遠な縁があります。

 次に生物が一定の年齢になると、時が来て生殖の願望が生じます。この生殖の願望も強烈になるイダッパッチャヤターです。次に生殖があれば、意味としての生殖も、行為としての生殖もイダッパッチャヤターです。そのようでなければならなくさせる、そのようにしなければならない縁があります。

 次に妊娠は、もっとハッキリしたイダッパッチャヤターです。子を産むのも更にイダッパッチャヤターです。大きく成長して、ここに座っているみなさんになるのも、極めてイダッパッチャヤター、幾重にも重なったイダッパッチャヤターで、何らかの理由でここへ来たくなり、そしてあれやこれやの因と縁で来たのは、更に幾重にも重なったイダッパッチャヤターです。だからここで話をしています。

 イダッパッチャヤターをこのように見てください。命のある物もない物も、すべての物の中に隠れています。しかし命がなく感覚がない物は苦がないので、話しません。それは問題がありません。問題ではありません。話さなければならないのは命があり、苦である感覚があるものだけです。だからブッダは「四聖諦の話は、ヴェーダナー(受)がある人にだけ話す」と言われました。

 聞いたことがあっても無くても、ブッダはそのように言われました。四聖諦の話はヴェーダナーがある、つまり感覚がある人に話します。感覚がなく、ヴェーダナーがなければ、あるいはヴェーダナーがない物は、四聖諦に関係ありません。四聖諦の話は感覚と苦がある、あるいは滅苦をしたい人のために話すからです。しかしイダッパッチャヤターという言葉はもっと広い意味を表していて、命も感覚もない物でも、内部にイダッパッチャヤターの法則があります。

 この石がここにあるのは、いろんな因と縁があり、何百万年もの時を経て石になり、そして何百万年、何千万年すると崩壊して別の物になります。この砂岩は何百億年もかかって砂岩になり、そしていつか、それのダートゥ(元素)に戻ります。これを「命のない物もイダッパッチャターで、命があってもイダッパッチャヤターで、命がある物の思考もイダッパッチャヤター」と言います。私たちも含めたほとんど全部イダッパッチャヤターです。

 次に体毛、爪、歯、皮膚等々、細かい部分に分けても、それぞれがその様式のイダッパッチャヤターで、髪、体毛、爪、歯、皮膚等々、あるいは土・水・火・風に分けても、それぞれのダートゥ(元素)はその様式のイダッパッチャヤターです。つまりそのようにならなければならず、そのように生じなければなりません。

 これがあればこれが縁で髪が生じ、これがあればこれが縁で体毛が生じ、これがあればこれが縁で爪、皮膚、歯が生じます。次に身体の部分も、これがあればこれが縁でヴェーダナー(受)、心の感覚が生じ、次にサンニャー(想)が生じ、サンカーラ(行)が生じ、ヴィンニャーニャ(識)が生じ、何かが生じます。もっと細かく分けるとこの身体には血があり、何かがあり、分子、原子に分けても、電子、陽子、何でも分ければ分けるほどイダッパッチャヤターがあります。

 だからそれが空になるまで、イダッパッチャヤターの法則の中にあります。つまり生じる縁があり、混乱はなく、それは空です。だから無はイダッパッチャヤター、有ももう一種のイダッパッチャヤターで、有るための因と縁があり、無いための因と縁があります。

 次にブッダはもっと賢いので、有ると言わず、無いと言わず、イダッパッチャヤターと言ってしまいました。「世界はある」と提言する人がいると、私のような下品な言い方をすると「阿呆」と言い、「世界はない」と提言する人がいると「阿呆」と言いました。これは私が下品な言葉で言っています。しかしブッダは紳士で下品な言葉は言われず、「いやいや、それはイダッパッチャヤターです。有ると言っても無いと言ってもいけません」と言われました。

 だから、何でもイダッパッチャヤターの意味があるという教えを掴むことができます。何でもイダッパッチャヤターの法則で経過しなければなりません。長々と呼びたくなければタタターと言い、すべてはタタターです。タタターを知る人はすべてを知っています。だからそれの何でも知るだけでなく、その法則も知らなければなりません。法則もイダッパッチャヤターです。

 これから、すべての物が生じるのはイダッパッチャヤターと、全部話してしまいます。それがあり、これがあると話すのはバカのような話し方です。ブッダなら「有る」と言われず、「イダッパッチャヤター。これがあればこれが縁で、これが生じる、あるいは現れる」と言われます。だからこれが現れることはイダッパッチャヤターです。

 次にすべての物には法則があり、すべての物に法則がなければならないことはイダッパッチャヤターです。その法則もイダッパッチャヤターですが、ここでその法則もイダッパッチャヤターで、少なくともこのような因と縁があるからこの法則が生じ、だからこのようという法則が生じると話して聞かせるのに、時間を喰います。科学の法則、何の法則でも、ダンマの法則でも何でも、規則であり法則であり、サッチャダンマである物はイダッパッチャヤターの範囲にあります。

 次にすべての物がこの法則で経過しなければならないこともイダッパッチャヤターです。すべての物がこの法則で経過しなければならないことはイダッパッチャヤターで、その法則も一つですが、それもイダッパッチャヤターです。

 次にそれが法則で経過することは法則で経過する、これもイダッパッチャヤターです。あるいはそれが可能な限り最高になる時があると言うなら、それもイダッパッチャヤターで、最高までにならなくてもイダッパッチャターです。そっちになってもイダッパッチャヤター、こっちになってもイダッパッチャヤター、あっちになってもイダッパッチャター、生じてもイダッパッチャヤター、消滅してもイダッパッチャターです。

 これは、今まで聞いたことがないみなさんがイダッパッチャヤターという言葉を聞き慣れるように、わざと何十回も、何百回も話しています。だから今日からイダッパッチャヤターという言葉に慣れて、これからは簡単に話してください。ブッダが教えた言葉で、ブッダは自身のものを愛していたので、ブッダが自分のものをどのように愛していたか話します。

 ある時ブッダは座って(王族語で話すのは大変なので、時間の節約のために、このように話すのをご勘弁ください)、ブッダは一人で座って、ブッダになってもジッと座っていることができず、口から独り言を漏らしました。私たちが一人なら歌を口ずさみ、現代人は口寂しくて卑猥な歌を歌う人もいます。

次にその日ブッダがそこに一人で座っている時、ブッダも同じようにイダッパッチャヤターを口ずさまれました。つまり目に依存して形が生じ、眼識が生じ、三つのダンマを触と言い、触が縁で受が生じ、等々、つまり縁起で、イダッパッチャヤターというもう一つの名前があります。そしてブッダは、このように目を通して生じる場合、それから耳を通して、鼻を通して、舌を通して、体を通しての場合を最後まで暗唱されました。

 ブッダは一人でイダッパッチャヤターの話を口ずさみました。だからそれは、重要以上に重要な話と捉えるべきです。重要でなければ、ブッダは一人で口ずさまれません。次に、ある時偶然一人の比丘がこっそり聞いていると、ブッダはそちらをちらっと見て「善し、善し。この様式のダンマは教育し、学習し、学ばなければならない」と言われました。

 なぜこれほどまで重要な状態があるのか、みなさんが言うように下品に言えば、それは「頭に溢れ」ます。どうしてイダッパッチャヤターがブッダの心の中に溢れていたのか、みなさん考えて見てください。ブッダが王位を捨てて出家したのは、イダッパッチャヤターが強制したからです。イダッパッチャヤターの法則が強制。それは絶えず行きたい知性の成熟度であり、イダッパッチャヤターなので、ブッダは我慢できなくなって出家しました。

 出家すると「苦は何から生じるか」という大きな問題がありました。みなさんが良く勉強すれば、ブッダは出家してから六年間探求したと知ります。大悟するまで、あったのは「苦は何から生じるか」という探求ばかりで、その六年間はイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤターの威力でイダッパッチャヤターを探求し、最後に「苦は生から生じる」というイダッパッチャヤターを発見しました。

 続いて生は何から生じるかを探求し、二番目のイダッパッチャヤターは有から生じると発見し、有は何から生じるかは取から生じ、取は何から生じるか、それはどれも「すべての如行が生まれても、生まれなくても、何にも関わりなく、このダンマダートゥはもっと前からある」と、先ほど唱えたように、それは以前からあるダンマダートゥです。ブッダが生まれてもダンマダートゥはこのようで、ブッダが生まれなくてもダンマダートゥはこのようです。

 だからイダッパッチャヤターの探求者であるブッダは、苦は生から生じ、生は有から生じ、有は取から生じ、取は欲から生じ、欲は受から生じ、受は触から生じ、触は六処から生じ六処は名形から生じ、名形は識から生じ、識は行から生じ、行は無明から生じると発見しました。その後は幾ら探求しても無明があるだけなので、探求する必要はありません。学問知識として、論理として言えばこのようです。

 これがイダッパッチャヤターで、それぞれの項目は縁起で、イダッパッチャヤターです。苦は生から生じ、生は有から生じ、有は取から生じ云々というこれらはイダッパッチャヤターです。縁起なら、すべての部分を呼びます。だからブッダの頭に焼き付きました。

 大悟する前、大悟する夜、大悟する夜は最高に重要な夜で、初更にイダッパッチャヤター、つまり縁起を熟慮しました。縁起の熟慮を、幾つかの教典は生起側だけと言います。つまり無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、等々、苦を生じさせる側を生起形と言います。

 初更には生起の側だけを熟慮し、初更が終わると、明らかな知識がピカッと生じて、「真実を追求しているバラモンにダンマが現れた時はいつでも、すべての物は原因から生じると知ったからだ」とブッダはウダーナ(感嘆の言葉)を口にされました。これは初更の間中、縁起あるいはイダッパッチャターを熟慮した結果です。

 大悟してちょっとすると、一回目の感嘆をしました。二更では縁起の滅側を知って、二更の間中、熟慮しました。中更が終わると「すべての縁の終わりを知ったので、疑念がなくなった」と、二番の感嘆の言葉を口にしました。三更になると縁起の二つの側、つまり生起側と滅側を熟慮し、三更の終わり、つまり黎明に「今無明が終わった。太陽が昇るように闇が消えた」と、三回目の感嘆の言葉を言われました。これが大悟で、ブッダの悟りは一晩中イダッパッチャターを熟慮したことによってあります。

 一晩中というのは、初更は初更の間中、生起の部分を熟慮し、二更は、二更の間中、滅の側を熟慮し、三更は生起の側と滅の側の両方を熟慮し、空が白み始めた時に大悟したと憶えておいてください。そしてそれで頭に焼き付かないことがあるでしょうか。大悟する前はイダッパッチャヤターだけを探求し、大悟した夜はイダッパッチャヤターに没頭していました。

 次にブッダが大悟したばかりの時、ブッダは、それがどこかへ逃げて行ってしまうのが心配だったように、そこに座って熟慮した内容を復習し、立ち上がらず、食事もせず、托鉢にも出掛けませんでした。教典はそのように述べています。あと七日、念のためにイダッパッチャヤターの釘の頭を叩いていて、あと七日は托鉢に行かず、大小便もせず、立ってどこにも行きませんでした。

 教典の中にそのようにあります。みなさんは信じても信じなくても自由ですが、私は信じます。何か一つの物に普通以上に専心する心があると、お腹が空かず、排泄をする必要も何もする必要もないので、ブッダはあと七日イダッパッチャヤターを確認し、あるいは確認したいと願ったという意味です。

 次にブッダが教えて歩いた自身の教えは、イダッパッチャヤターの要旨があるものばかりです。特に四聖諦全体はイダッパッチャヤターの法則です。そしてパティッチャサムッパーダ(縁起)の話を最高に多く教えました。

 しかし彼らは、あまり話して聞かせないで「それは難しい、取り上げて話さなくても良い」と見なし、簡単な話だけをします。だから聞くのは簡単な話ばかりです。すべての話の中で一番難しいのは縁起、あるいはイダッパッチャヤターの法則で、これは三蔵の中にいっぱいありますが、直接これらの語句を出すだけと理解し、あるいは見ています。しかしそれは他の言葉の中に入っていると知らず、イダッパッチャヤターでないものは何もないと感じません。

 四ダートゥ(四界)、六ダートゥ(六界)はイダッパッチャヤターで、内処、外処はイダッパッチャヤターで、ナーマ(名あるいは心)もイダッパッチャヤターで、ルーパ(形あるいは体)もイダッパッチャヤターで、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、ヴィンニャーナ(識)もイダッパッチャヤターで、これらの物がああいう状態、こういう状態で関わり合っていることもイダッパッチャヤターです。

 だから三蔵全部、八万四千項目全部イダッパッチャヤターでない話はありません。生起側でなければ滅側、生起側か滅側です。

 次に入れ替えて使える言葉がまだあり、ダンマッティタターです。さっき僧がダンマッティタターと十一回唱えたので、居眠りをしていた人は十一回とも聞いていませんが、さっき僧がダンマッティタターと十一回唱えました。ダンマッティタターとは、当たり前にあるという意味です。

 当たり前に在ることとイダッパッチャヤターは入れ替えて使うことができます。イダッパッチャヤターは加工を意味し、それが当たり前にあることで、じっとしているのでなく、休みなく加工し続けます。

 先ほど僧が唱えた限りでは、ダンマダートゥはイダッパッチャヤターです。ダンマダートゥとはダンマの元素という意味です。ダンマダートゥはイダッパッチャヤターで、「ブッダが生まれても生まれなくても、このダンマダートゥはある」というのは「イダッパッチャヤターはある」という意味です。

 当たり前にあることも自然の不動の法則も、タタター、つまりそのようであること、アヴィタタター、つまりそのようであること以外に、そのような状態と異ならないこと、あるいはアンニャタター、他のようにはならないこと、これがイダッパッチャヤターです。だからすべての教えは、八万四千項全部イダッパッチャヤターです。

 ブッダが今にも涅槃される時、最期の言葉を何と言われたでしょうか。みなさん「カヤワヤダンマー サンカラー ウッパマーテン サムパーテータ」と言われたと思い出せると思います。すべてのサンカーラは衰退があり、終わるのは当たり前。それが最期にまとめたイダッパッチャヤターです。「みなさん、どこででも不注意でないことを完璧になさい」はイダッパッチャヤターで、最期の言葉を言い終わると黙ってしまわれ、そして涅槃されました。

 すべてのサンカーラ(行)が消滅しなければならないのはイダッパッチャヤターなので、イダッパッチャヤターは初めもなく、あるいは終わりもないというほど永遠にあります。そしてすべての物になるので、すべての物の要旨と見なすことができます。イダッパッチャヤターとはすべての物の本物、すべての物の心臓部で、ブッダの最高の教えです。

 次にその他は、先ほど石も土くれも何もかもイダッパッチャヤターと話したように、イダッパッチャヤターは生きている物、あるいは世界にある物すべてです。

 次に時間の節約のために、タタターという言葉の理解を確認をしたいと思います。イダッパッチャヤターは六音と言いましたが、タタターと言えば三音で、中国風に言えばユーシー(真如)で二音だけで「そのよう」です。田舎の言葉、この国の田舎の言葉では「その部類だよ。それだけだよ」と言います。何がどのようかと問えば「その部類だよ。他の部類はない、その部類だよ」と答えます。

 「その部類だよ」という言葉を軽蔑しないでください。それは世界の普遍、つまりパーリ語のタタターという言葉です。「タタ」は「そのよう」という意味で、「ター」は有りよう、そのような有り様です。普通の田舎の言葉では「その部類だよ」と言い、たとえば死は何かと質問すると、その部類だよ。生まれるとは何か、その部類だよ。幸福は何か。その部類だよ。苦とは何か。その部類だよ。聞いている人は「狂っている、狂っている」と言います。

 これは最高に良く、最高に真実で、最高に狂っていません。つまりタタターです。タタターと見ればいつでも、その時迷いがなく、その後は無明がないという意味です。女性もなく、男性もなく、得るもなく、失うもなく、生まれるもなく、死ぬもなく、上るもなく、下がるもなく、何もありません。それは全部タタターで、タタター以外に何もありません。

 だから悟った人はタタターを悟り、どちらを向いても同じなので、愛も憎しみも生じず、貪りも怒りも迷いも、何も生じません。そして何も間違ってすることがなく、あるいは正しくすることができ、誤りより上、正しさより上で、別の呼び方では「苦を超え、苦はない」と言います。

 タタターが見えるから、あるいはイダッパッチャヤターを見るから、あるいは縁起が見えるからです。これらを拡大すると四聖諦になり、苦・集・滅・道を拡大すると、イダッパッチャヤターから脱せません。

 多少パーリ語家ならタターガターという言葉を思い出してください。タターガタ(如行)という言葉はブッダを意味しません。アンタガーヒカディッティ(遍執見)などの十ディッティはタターガタという言葉ばかり使いますが、タイ語で話せば動物と訳します。

 「ホーティ タターガトー パラン マラナー:ナ ホーティ タターガトー パラン マラナー」は、タターガタが死んだ後居る、タターガタが死んだ後居ないという意味で、タターガトーというのは、ブッダを指しているのではありません。狭く学んだ人はタターガトーという言葉はブッダを意味すると考えるので、ブッダが亡くなった後、再び生まれるか再び生まれないかという最高に狂った問題が生じます。

 タターガターという言葉も動物、すべての動物という意味です。つまりそのように来る、あるいはそのように行くのをタターガトーと言い、それがタタターです。すべての動物はタタター、つまりそのようであることがあるので、すべての動物はタターガタという名前があり、そのように行き、あるいはそのように来、あるいはそのような何かで、タターガタはブッダも含めたすべての動物を意味します。

次にブッダがご自身を「タターガタ」と呼ばれたのは、ブッダは微塵も自身を持ち上げている訳でなく、すべての動物もブッダも同じです。ブッダがご自身を「私、タターガタ」と呼ばれたのは、「私はみなさんと同じ動物」と教えるためで、タターガタはみなさんと同じです。すべての動物は、動物であることの中にタタターであることがあるので、すべての動物はタターガタという名前があります。

 ブッダは「私もタターガタ、あなたもタターガタ、すべての動物はタターガタ」とハッキリ説明しています。つまりブッダはタターガタという言葉以外の言葉で自身を呼ぼうとなさりませんでした。これはタターガタ主義を表明し、自身を低めたことを意味します。あるいは自身を他のすべての動物と同じ立場、つまりタターガタで、そのように行き、そのように来、そのように居る、何でもそのような、つまり因と縁で経過する人です。

 「これがあれば、これが縁で、これが生じる」は、身体、骨、心、みなさんの何でも同じで、これがあれば、これが縁で、これが生じます。だからタターガタという言葉を良く理解してください。そうすればタタターという言葉も良く理解できます。あるいはタタターという言葉を良く理解すれば、タターガタという言葉も良く理解できます。タターガタはタタターのある人、そのようであることがある人、つまりすべての動物だからです。

 それには畜生まで含まれ、犬や猫もタタターであることがあるので、タターガタです。これは犬にもブッダにも、何にでもタタターであることがあるという理由で、何と言ったら良いか分かりません。彼は「私がブッダを軽蔑している」と非難します。しかしブッダご自身が、すべての動物はタターガタで、私もタターガタで、ブッダ自身もタターガタなので、タターガタと言うと話されています。

 つまりそれはタタター、あるいはイダッパッチャヤター、あるいはダンマダートゥにすぎず、それ以上ではありません。このダンマ‐ダートゥはイダッパッチャヤターで、これがあれば、これが縁で、これが生じるという意味があります。そしてそれは他になりようがなく、そのようであるだけです。つまりこれがあれば、これが縁で、これが生じます。

 だから「そのようであることがある」という言葉を使います。そのようであることはタタターです。タタターであることがある人はタターガタなので、動物はない、人物はない、どこにも特別なものはなく、すべて同じです。動物がなく人物がなければ、違いについて話す必要はありません。

 動物も人物もないので、人物同士の違いもなく、あるのはタタターだけです。だからタタターであること、あるいはイダッパッチャヤターであること以外に何もない最高の真実が見えます。これが仏教の心臓部です。


 「イダッパッチャヤターでないものは何もないと理解するまで見なさい」という言葉を忘れないために繰り返し、それからもう一度、八万四千項目ある三蔵の中は、イダッパッチャヤターの話以外に何もないと見たいと思います。

 学習面でもイダッパッチャヤター以外に何もなく、実践面もイダッパッチャヤター以外に何もなく、実践の結果を受け取ることにもイダッパッチャヤターの話以外に何もありません。だからイダッパッチャヤターという一語が、学習部分でも、実践部分でも、結果を受け取る部分でも仏教の心臓部です。だからみなさん、イダッパッチャヤターは仏教の心臓部と捉えてください。

 このように話せば「四聖諦は仏教の心臓部」あるいは「罪を成さず、善だけを行い、心を純潔にするのが仏教の心臓部」と言うより広く、よりすべてです。後者は「イダッパッチャヤターは仏教の心臓部」と言うほど多くなく、善くありません。

 この言葉から分かれて苦になることもあり、滅苦になることもあり、あるいはどこへも行かず、滅苦に関わらないアバヤーカタ(無託宣)であることもあります。すべてはイダッパッチャヤター、すべての物の法則はイダッパッチャヤター、その法則での行動はイダッパッチャヤターなので、彼らのように神様が欲しければイダッパッチャヤターを神様になさい。そうすればどこの神様より有能で、最低でも同等です。

 イダッパッチャヤターを神様にすれば、それを超える神様はありません。彼らが信じている神様は間違って信じています。創造神はイダッパッチャヤター以上の何もなく、破壊する神様もイダッパッチャヤター以上の何もなく、支配する神様もイダッパッチャヤター以上の何もなく、「神様はすべての場所に居る」もイダッパッチャヤター以上の物はなく、「神様はすべて」はイダッパッチャヤター以上の何もありません。仏教に神様がいるなら、イダッパッチャヤターです。

 これは最高に威力があり、ブッダが生まれても生まれなくても「私はいる」と言うほど威力があります。ブッダは「ウッパーダー ヴァー ビッカヴェー タターガタナン アヌッパーダー ヴァー タターガターナン=如行が生まれても、あるいは如行が生まれなくても、イダッパッチャヤターはあり、過去にもあり、初めがなくある」と言われています。

 これは神様と同じで、神様は初めがなく存在します。人は「人だ。何だ」と誤解するので初めがあります。本当の神様も人でなく、人以上で、私たちがイダッパッチャヤターと呼ぶこの法則です。

 次にまだ何が要るか考えて見てください。神様はすべての物と言うなら、すべての物はイダッパッチャヤターを意味します。そして神様が作ったすべての物はイダッパッチャヤターで、すべての物の行動様相はイダッパッチャヤターで、これらの知識はイダッパッチャヤターで、実践もイダッパッチャヤターで、その結果もイダッパッチャヤターです。

 もう一度言えば、すべての自然はイダッパッチャヤターで、すべての自然の法則はイダッパッチャヤターで、人間がその法則に対してしなければならない義務もイダッパッチャヤターで、人間が聖向聖果涅槃として受け取る結果もイダッパッチャヤターです。

 だからすべてのダンマはイダッパッチャヤターであり、俺、あるいは俺の物と執着すべきではありません。すべてのダンマはイダッパッチャヤターなので、私、あるいは私の物と執着すべきではありません。これは仏教の本当の心臓部です。

 だからサッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ(すべての物は執着すべきでない)という文句は、イダッパッチャヤターという言葉と最も近くて濃い仏教の心臓部です。それはイダッパッチャターなので、執着できない、あるいは執着すべきでありません。それはイダッパッチャヤター次第です。

 次に声を出す労力を節約すればタタターになります。みなさん、この二語を良く憶えてください。タタターが一語、イダッパッチャヤターがもう一語で、これはすべてであり、そして仏教の心臓部です。

 今日私は一つの角度、つまりこの角度だけを話したかったので、イダッパッチャヤターという言葉は何かを知ってもらうことで、イダッパッチャヤターとは何かを話したということです。イダッパッチャヤターを良く知ったら、次は関わりのある他の角度で話します。そうすれば正しい実践、あるいは更に明らかな知識になります。

 今日は、イダッパッチャヤター(縁生。因果)は仏教の核心という主題で話し、そしてイダッパッチャヤターは何か、最高に広く話しました。イダッパッチャヤターとは何かという話は十分で、何かを知れば、仏教の心臓部であると自然に知ります。あるいは世界の心臓部、すべての真実の心臓部、あるいは何の心臓部でも話す力がありません。

 今日はこれだけで終わらせていただきます。


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