在家が学んで実践しなければならないものである
イダッパッチャヤター


1972年2月26日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第九回目は「在家が学んで実践しなければならないものであるイダッパッチャヤター」と題してお話します。みなさん、私が「在家が学ばなければならないもの」と言うのは、学ぶべき、あるいは学ぶべき価値があると言うだけでなく、「なければならない」という言葉を使うのは、当然どのように必要かを、最高に明らかにしています。みなさん、しっかり聞いて有益にしてください。

 縁起、あるいはイダッパッチャヤター(縁生。因果)と呼ぶ物を、仏教教団員に馴染んだものにしなければならないと、みなさんに煩がられるのも恐れず、繰り返し復習させていただきます。話すことも、思考することも、日常の行動も、イダッパッチャヤターの法則で正しく経過させ、そしてこの法則を使って外部と内部のいろんな問題を解決してください。

 そして体の話や心の話も、この部分の法則に依存しなければなりません。だから仏教教団員であるみなさんの馴染んだものになるまで、何度も何度も取り上げて話します。

 常に思っておかなければならないもう一項は、イダッパッチャヤター(縁生。因果)はパティッチャサムッパーダ(縁起)で、パティッチャサムッパーダはイダッパッチャヤターです。しかし文字で言えば、イダッパッチャヤターはパティッチャサムッパーダという広い意味があり、あるいは広く意味します。

 直接話された経でのパティッチャサムッパーダは、特に人の心に苦の塊が依存し合って生じる話、苦の塊が依存し合って消滅する話です。しかしイダッパッチャヤターという言葉は意味するものが広く、すべての有為である物の中の物質も抽象物も、外部も内部も、粗くても緻密でも、何でもすべてイダッパッチャヤターと呼ぶ法則に関わっていて、何も例外がないという意味です。

 大きな種類にまとめれば、三種類になり、
 原因である物のイダッパッチャヤターが一つ、
 結果である物のイダッパッチャヤターが一つ、
 パッチャヤカーラ(縁相)の、つまり原因と結果の間に関わる状態のイダッパッチャヤターが一つです。

 最初は原因であるイダッパッチャヤターで、すべての原因であり縁である物はこの法則で生じ、そして経過します。結果であるイダッパッチャヤターは、パティッチャサムッパンナダンマ(縁起の物)と呼ぶ物で、結果である物、依存し合って生じる結果を意味します。

 パッチャヤカーラ(縁相)のイダッパッチャヤターは原因、あるいは結果を意図せず、原因と結果の関係、あるいは縁起の結果を生じさせる原因の状態を意味します。その縁が一つ、縁起のものが一つ、縁起がもう一つ、あわせて三つです。

 みなさん、この世界は私たちに関わるすべての物を何が何か、つまり何が原因か、何が結果か、そして何が原因と結果の間の状態かを良く見てください。興味深く、そして精緻な物は、私たちがどのような生活をしていてもこの三つの物に関わります。もう一度言えば、原因と結果の関わりが、私たちの一瞬一瞬の人生です。

 イダッパッチャヤターがこのように私たちの人生と関わる話なら、関心を持たなければならない話です。在家も人なので、在家も関心を持たなければなりません。在家は問題が多く、重荷が多く、苦をたくさん生じさせる原因であり、道なので、だからイダッパッチャヤターの話を広く知らなければなりません。

 在家は、生き地獄に落ちたような苦に堪えるために生まれた動物ではありません。このようにハッキリ言うのをお許しください。時間の節約のために、生き地獄に落ちたような苦に堪えるために生まれたのではないと言います。在家は出家より、生き地獄に落ちたような苦に堪えなければならない機会が多いのは、明らかに見えています。

 在家は何の問題、どのような問題がどれだけあるか、僧や沙弥は何の問題、どのような問題がどれだけあるか比較して見ると、僧や沙弥の集団は、生き地獄に落とすことは非常に少ないですが、在家は簡単になる機会があります。非常に複雑に関わり合っていて、そして非常に重い任務があるからです。

 在家が生き地獄に落ちたような苦に堪えるために生まれた動物ではありません。これは仏教教団員の視点です。他の人たちがどのように捉えようとその人の勝手ですが、仏教教団員は、在家は人間が得るべき最高に善い物を手に入れるために生まれた動物と捉えなければなりません。

 人間が手に入れるべき最高に良い物を手に入れるために生まれたとは、得るべき物を得なければ人間と呼ぶべきでないという意味です。人間が得るべき物を得れば人間と呼びます。そして誰でも得なければならず、あるいは得るべきです。

 それは難しすぎる話で、全員が得るべきではないと反論する人がいるかも知れません。これは、普通の正常な人なら、誰でも得るべきです。しかし不幸な人、つまり心の面の障害があれば得る準備ができていないので、得るのは難しいです。今は正常な場合、人間と呼べる人の場合を話しているので、これを得るべきです。

 イダッパッチャヤターの話の知識は、人間が得るべき最高に善い物を得るのを助ける物です。この話にどんな理由があるか、これから熟慮するべきです。

 取り上げた主題は「在家が学んで実践しなければならないもの、それはイダッパッチャヤター」とあります。イダッパッチャヤターは良く知られている訳語があり、誰でも「これがあれば、これが縁で、当然生じる物、あるいは状態」と言います。

 これはすべての物全般の法則である状態であり、その法則によって現れた目で見える動きや状態があります。誤った話もそのようで、正しい話もそのようで、それらの法則で経過しない物は何もありません。これらの法則を正しく使うことを知れば、得るべき物を得ることができます。

 みなさんが、望むべき物を受け取るのを不可能でなくする四如意足を思っても、そういうのは本当ですが、如意足だけでは意味が無く、イダッパッチャヤターの法則で正しくなるイダッパッチャヤターでなければならないことを忘れないでください。それは意味があります。如意足の一つ一つは、この法則で正しく経過しなければなりません。

 あるいはどのダンマ集にどんな義務があっても、すべてはイダッパッチャヤターの法則で経過しなければなりません。そうすれば成功させることができます。今私は、みなさんもご存知のように在家について話しているので、特に在家に関わる話をハッキリ見えるように話します。

 在家であることは、カーマボーギーというパーリ語があります。カーマボーギーとは愛欲を享受する人という意味で、人間でも天人でも良いです。ブッダは十種類のカーマボーギーの話をされています。その十種類の十番目は最高に素晴らしいです。どのように素晴らしいか、あるいは素晴らしくないか、みなさん良く聞いてください。

 カーマボーギーの十種類はどのようか、増支部の十部で、アナータバンディカ長者に話されています。パーリ語版の三蔵ならニ十四巻一八八頁を、詳しく読んでください。ここではそれぞれの部類の項目だけ取り上げます。

 十種類すべてのカーマボーギー(愛欲享受者)のうち、初めの三つの部類はダンマ(正義、公正)でない残虐な探求があり、次の三つはダンマである探求で残虐なこともあり、ダンマでない探求で残虐でないこともあり、その後の三つはダンマである探求があり、すべてに残虐でなく、これで九つで、最後の十番目は、他の特質がなければならなくなります。これから詳しく説明します。


 一群目は三種類あり、一番目①はダンマ(公正、正義)でない残虐な探求で、ダンマでないのはアダンマ(不正、不義・不法)で、残虐とは凶悪で、財産を得ると自分を養って幸福にせず、あるいは十分満足させず、そして分け与えず、布施もしません。これらは三つの観点で非難されるべきです。

 つまり三つの部分、三つの状況で非難されるべきで、探求もダンマでなく、手に入れても自分を幸福に扶養せず、そして分配せず、布施をしません。これはこのような三つで、彼は何もしません。三つの部分で非難されると言います。

 二番目②はダンマでない探求をし、残虐なことも残虐でないこともありますが、手に入れると自分を幸福に扶養して満足させ、分配せず、布施をしません。こういう人は二つの観点で非難されるべきです。一つの観点、つまり自分を幸福に養い、十分満足させることを知っている項目で褒められるべきですが、ダンマで探求しないことと、分配を知らないことで非難されるべきです。

 三番目③の探求はダンマでなく、残虐で、手に入れると自分を幸福に扶養して十分満足させ、そして分配し布施もします。この部類は一つの観点で、つまりダンマでない探求をすることで非難されるべきで、そして二つの観点、つまり自分を幸福に扶養して十分満足させるのと、分配を知り布施をする状況で褒められるべきです。この三種類は、どれもダンマでない探求をします。


 次に二群目の一番④は、ダンマで探求したり、ダンマでない探求をしたり、つまり残虐だったり、残虐でなかったり混じっているという意味で、自分を幸福に扶養して十分満足させず、そして分配せず、布施をしません。これは全部非難されるべきではありません。

 探求は時にはダンマで残虐でないこともあり、これは少し褒めておくと言います。自分を(幸福に)扶養しない部分、分配・布施をしない部分は、非難するべきです。そして時々ダンマでない探求をし、時々残虐な部分は非難すべきです。だから非難されるのは三つ、褒められるのは一つです。

 第二群の二番目⑤はダンマでない探求だったり、ダンマである探求だったり、残虐だったり、残虐でなかったりで、手に入れると自分を幸福に扶養しますが、分配せず布施をしません。これは二つの観点、つまり分配、布施を知らないのと、時々ダンマでない探求をすることで非難するべきですが、自分を扶養して幸福にする点と、時々ダンマで探求する点は称賛すべきです。非難が二つ、称賛が二つと言います。

 次の三番目⑥は、探求はダンマだったりダンマでなかったり、残虐だったり残虐でなかったりで、手に入れると自分を扶養して幸福にし、十分満足させ、そして分配し布施をします。

 これは非難すべきは一つだけ、時々ダンマでない探求をすることで、称賛するのは三つ、時々ダンマで探求し、それで自分を扶養して幸福にし、そして分配し布施をします。この三つの部類は、その探求は同じようで、時にはダンマで時にはダンマでなく、現代の世界のほとんどの人のように見えます。


 第三群の一番⑦は、探求はダンマで残虐ではありませんが、自分を幸福に扶養して十分満足させず、そして分配、布施をしません。私はこの世界のある人たちはダンマで探求をし、損害を与えませんが、自分を扶養して幸福にすることを知らず、分配せず、布施をせず、財宝の番をしている老爺の霊、あるいは何かそのような人もいると見ます。

 これらの人は二つの観点、つまり自分を扶養して幸福にすることを知らないことと、分配と布施を知らないことで非難されるべきですが、ダンマである探求を褒めてやります。

 第三群の二番目⑧の人たちは、探求はダンマで残虐でなく、手に入れると自分を扶養して十分幸福にし満足させますが、分配せず、布施をしません。欠点は一つ、分配をせず布施をしない点で、称賛は二つ、自分を扶養して幸福にすることを知り、そして探求がダンマであることです。

 第三群の三番目⑨はダンマである探求で残虐でなく、そして自分を扶養して幸福にし、十分満足させることを知り、分配と布施を知っていますが、まだ愛欲を享受することを喜ぶ人です。

 ガディトー=愛欲を享受することを喜ぶ人、ムッチトー=欲情を享受することに平伏し陶酔する、アッチャーパヌノー=愛欲の享受に関連する、アナーディーナヴァダッサーヴィー=愛欲を享受することの害を見ない、アヌッサラナパンニョー=愛欲の享受から出て行く智慧がない人と言います。この部分をブッダは非難し、咎めています。

 非難が一つ、称賛が三つで、三つの称賛はダンマである探求、そして自分を扶養して幸福にし、そして分配と布施をする、この三つは称賛しますが、非難するのは一つ、その愛欲を喜び、陶酔し、関連し、愛欲の害を見ないことです。


 最後の部類である十番目は、探求はダンマで残虐でなく、これは二点獲得で、次に自分を扶養して幸福にし、十分満足させてもう一点獲得し、分配と布施でもう一点獲得します。アガディトー=喜ばず、アムッチトー=平伏せず、アナッチャーパンノー=関連せず、アーディナヴァダッサーヴィー=愛欲に沈むことの害を熟慮して見て、ニッサラナパンニョー=欲情から出る道具である智慧がある人です。これは四つ全部称賛の話で、非難はありません。

 もう一度復習すると、探求もダンマで、自分を扶養して幸福にし、分配し布施をし、そして愛欲を享受することに溺れない心があり、これは四つの称賛されます。ブッダは「その人をアッゴー=卓絶した人、セットー=傑出した人、パーモッコー=顕著な人、ウッタモー=最高の人、パヴァロー=抜群の人と呼ぶべき」と言われました。この十番目はブッダから「卓絶している。傑出している。顕著だ。最高だ。抜群だ」と称賛されます。


 この十番目を、ブッダは「搾って来て酸乳にすれば生乳より良く、酸乳を濃いバターにすると、それは酸乳より良く、濃いバターを透明なバターすると、それは濃いバターより良く、それを透明なバターの頂点、あるいは第一等、牛乳から生まれる物の中で最高の物である醍醐。十番目の人は、その醍醐に譬えられるべき」と、そのように言われました。

 カーマボーギー、所帯をもって愛欲を享受する在家である人には十種類あり、その内の九つは道徳面の間違いを犯さなくても、まだ欲情を享受する話に陶酔する人なので、まだ全部は称賛されないと考えて見てください。

 これです。在家であるみなさん、在家はどのように善い在家になれるか、仏教教団員であればどの種類の在家になるか。最高の部類になりたければ、欲情の抑圧の威力より上にある心で欲情を消費する人で、アガディトー=欲情せず、アムッチィトー=ひれ伏して陶酔せず、アナッチャーパンノー=関連せず、アーディナヴァダッサーヴィー=その害である部分が見え、ニッザラナパンニョー=欲情の害より上に知性があります。

 私たちはどのように十番目の在家になれるでしょうか。本当は詳しく正しいイダッパッチャヤターの知識に依存しなければなりません。そうすれば目を瞑っている在家、欲情し、ひれ伏し、溺れて関連し、陶酔して害を見ない在家、心をこれらの物より上にいさせることを知らない在家ではありません。

 これです。カーマボーギー、在家がブッダの望み通り正しくするなら、これらの物の抑圧の威力の上にいて、ひれ伏さないくらい知識がなければならないと指摘して見せます。いろんな物の真実の話、つまりイダッパッチャヤターの話に関心をお持ちなさい。そうすれば、これらの中に落ちて沈んでいることから心を抜き出すことができます。

 これは在家がイダッパッチャヤターの部分を学んで実践するために、欲情の奴隷にならないで、欲情の主人でいるために見なければならない理由と、私が考える一番目です。欲情は世界で暮らす在家にとって避けられないもので、欲情と呼ぶ物と混じり合っていますが、このようにできれば非難する部分はないと言います。パーリ(ブッダの言葉である経)で述べられているカーマボーギーであることの四点満点を獲ってください。


 二番目の話は直接在家に関わるので、喧嘩のイダッパッチャヤターについて言及します。喧嘩のイダッパッチャヤターは、みなさんにとって聞き慣れないと思いますが、本当は私たちに関わる普通の話で、世界で暮らすと喧嘩があるのは、説明しなくても自分で理解できます。

 喧嘩はイダッパッチャヤターの法則で経過します。ブッダはクル地方のカンマーサダッマ村で、アーナンダにイダッパッチャヤターの法則として話され、マハーニダーナスッタ(大因縁経)と言います。イダッパッチャヤター、つまりニダーナについて述べた経で三蔵のパーリ第十巻、六九頁です。

 そのブッダバーシタは『イティ コー パネタン アーナンダ=アーナンダ、それはこのようです、ヴェーダナン パティッチャ タンハー=受に依存して欲望が生じ、タンハン パティッチャ パリイェーサナー=欲望に依存して探求が生じ、パリイェーサナン パティッチャ ラーボー=探求に依存して得ることがあり、ラーバン パティッチャ ヴィニッチャヨー=得ることに依存して納得して愛すことがあります』と言っています。

 ヴィニッチャヨー、あるいはヴィニッチャヤは、パーリ語ではそのようにすっかり納得するという意味で、この場合のヴィニッチャヨーという言葉は、手に入れた物を納得して愛すという意味です。だからローバン パティッチャ ヴィニッチャヨー=手に入れることに依存して納得して愛すことがあり、ヴぃニッチャヤン パティッチャ チャンダラーゴー=納得して愛すことに依存してチャンダラーガが生じ、つまり喜びの威力で欲情が生じ、

チャンダラーガン パティッチャ アッチョサーナン=気に入ることの威力で欲情することに依存して、ひれ伏して酔うことがあり、アッチョサーナン パティッチャ パリッガホー=ひれ伏して酔うことに依存して心を奪われることが生じ、パリッガハン パティッチャ マッチャリヤン=心を奪われることに依存して吝嗇が生じ、分配したくなく、分配しようとしません。、

 マッチャリヤン パティッチャ アーラッコー=吝嗇に依存して惜しむこと、つまり嫉妬と惜しむことがあり、アーラッカン パティッチャ アーラッカーディカラナン ダヌターダーナサッターダーナカラハヴィッガハヴィヴァーダトゥヴァン ペースンニャムサーヴァーダー

 =惜しんで妨害することに依存して刃のない武器を使用が生じ、刃のある武器の使用が生じ、混乱騒動が生じ、奪うことが生じ、分裂が生じ「てめえ」と述べることが生じ、突き刺す言葉が生じ、惜しんで妨害することが原因の嘘が生じ、アネケー パーパカー アクサラー ダンマー サムバヴァナティーティ=すべての様々な罪と悪は、当然このような状態で生じます。

 みなさん、ブッダは滅苦に関わるすべてをどのように悟られたか、考えて見てください。ここでみなさんは喧嘩のイダッパッチャヤターの話の理解、広い知識があると見ます。もう一度十の状態を復習します。

 ヴェーダナー(受)、つまり美味しい味、あるいはその感覚から得た味に依存して欲望が生じ、
 タンハー(欲望)に依存して探求が生じ、
 探求に依存して獲得が生じ、
 獲得に依存して納得して愛すことが生じ、
 納得して愛すことが生じるから、気に入って欲情し、
 気に入って欲情するので、ひれ伏して酔い、
 平伏して酔うから、心を奪われることが生じ、
 心を奪われれば吝嗇が生じ、
 吝嗇が生じれば嫉妬深さが生じます。

 嫉妬深さが生じれば悪であるもの、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、大暴れ、奪い合い、分裂、貴様と言うこと、告げ口、虚言を言うことが生じ、このように望ましくないものが生じます。

 最後にブッダはアーナンダに、惜しんで遮ることがなければ、嫉妬による妨害が消滅すれば、刃のある武器を手に取ることはあるべきか否かと質問なさいました。アーナンダは、あり得ませんと答えました。するとブッダは、

『タスマー ティハーナンダ=アーナンダ! そのような理由でこの話は次のように言うことができます。エーセヴァ ヘトゥ=それが原因で、エータン ニダーナン=それが糸口で、エーッサムダヨー=それが生じる土地で、エーサ パティッチャヨー=それが縁で、ダンターダーナ

=刃のない武器の使用の、サッターダーナ=刃のある武器の使用、カラハ=大騒ぎ、ヴィッガハ=奪い合い、ヴィヴァーダ=言葉による喧嘩、トゥヴァントゥヴァン=貴様、貴様と話すこと、ペスンニャ=告げ口をして分裂させること、

ムサーヴァーダ=虚言を言い、アネケサン パーパカーナン アクサラーナン ダンマーナン サムバヴァーヤ=それは一つでなく、すべての下品な罪である悪のダンマが生じる道で、アディダン アーラッコー=その原因は嫉妬深さ、あるいは嫉妬です』と言われました。

 このブッダバーシタから、在家もアッラコー、つまり嫉妬で妨害すること、あるいは嫉妬を消滅させてしまう何かの知識に関心を持つべきです。アーラッコーは文字としてはアーラッカー(支援する)という意味ですが、この煩悩の場合は嫉妬で妨害する、あるいは嫉妬深いという意味です。嫉妬深いとは、俺、俺の物という取で執着することです。

 このアーラッコー、あるいはアーラッカーを消滅できなければ、それらの罪悪である物はまだ維持されます。アーラッコー、あるいはアーラッカー、あるいはアーラッカと呼ぶものを消滅させなければなりません。そうすれば執着、あるいは嫉妬で妨害することはありません。

 そしてアーラッコー、嫉妬と呼ぶものを消滅できる物は何か熟慮して見ると、あるのは、人が知って、学んで、そして良く実践したイダッパッチャヤターだけです。それは至極当たり前のの自然に過ぎず、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と見るからです。

 特にこの場合はヴェーダナー、騙す餌、あるいはアッサーダと呼ぶ物、つまり動物を罠に掛けるための餌であるヴェーダナー(受)、そして貪り・怒り・迷いが生じます。優れているのはそれだけです。

 ヴェーダナー(受)と呼ぶものは、イダッパッチャヤターの法則で生じて経過する物なので、当てにならない物です。イダッパッチャヤターを知る人は誰でも、ヴェーダナーを当てにならない物と見て、貪随眠が生じるほど幸受を感じず、瞋恚随眠が生じるほど苦受を感じず、無明随眠が生じるほど不苦不幸受を感じません。

 随眠が生じなければ、これらの物が煩悩として生じる道はありません。あるいは苦になれません。これが、望ましくない部分である諍いをする原因を断ってしまうことができるイダッパッチャヤターの話です。

 このイダッパッチャヤターは望ましくありませんが、望ましくないイダッパッチャヤターを排除するもう一つの望ましいイダッパッチャヤターがあると、良く考えて見てください。喧嘩のイダッパッチャヤターは誰も望みません。この世界は今、生き地獄に落ちたように苦に堪えていて、今の時代この世界は武器や知性で戦争をし、言葉で言い表せないほど殺し合います。

 これはイダッパッチャヤターの話を知らないから生じる諍いのイダッパッチャヤターです。意味があると見て執着し、殺し合い、攻撃し合い、大々的に掃滅し合っても何も感じません。これはイダッパッチャヤターの話に愚かである結果です。

 どうぞ関心を持って「今世界中で殺し合うのは、イダッパッチャヤターの話を知らないから」と明らかに理解しているものにしてください。命のある動物はヴェーダナー(受)に惑溺し、労働者も資本家もヴェーダナー、つまり肉体に陶酔します。ヴェーダナーに依存してタンハー(欲望)が生じ、タンハーに依存して探求が生じ、探求に依存して獲得が生じ、ね、それはどのように誤りか正しいか、考えることなく手に入れます。

 手に入れると納得して愛し、その結果心を奪われ、惑溺し、陶酔し、ケチになり、嫉妬で妨害し、嫉妬で妨害することで他人を攻撃しようと待ち構え、自分の物を他人に触れさせず、あるいは自分の物を奪わせず、自分の物に関与させません。

 これを人間集団の望ましくない問題はすべて、個人の部分も、世界全体でも、この部分のイダッパッチャヤターの威力による争いにあると言います。私たちは地上でも地下でも、個人も社会も、いつの時代でも、ピンポンの時代と呼ばれる現在も争いをしています。

 夫婦もこれが原因で諍いをするともう一度見ます。父と子も受と呼ぶ物で、この法則によって喧嘩し、友達同士もこれが原因で喧嘩し、僧と在家が諍いをするのも、他の原因ではありません。僧が庶民と喧嘩をするのは、他の原因でなく、これが原因です。

 喧嘩をしないためには、ブッダがこの経で言われているように、この項目の真実、つまり諍いのイダッパッチャヤターを知ることです。だから私は「それは在家が学ばなければならず、実践しなければならない物」と、もう一度主張します。

 次に、続いて関心を持たなければならない話は、ブッダが「在家は布施をし善を行って、在家式の幸福な生活だけで満足し、停滞しているべきでない」とアナータピンディカ長者に忠告して言われた話は興味深いです。

 つまり「長者さん。あなた方は、衣と食べ物と住まいと治療薬と八物で比丘を支援するだけで満足するべきではありません。長者さん。『そのようなら、このような場合みなさんは、それなら私たちは然るべき時にパヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)に入ってその中にいよう』と心に留めるべきです。長者さん。あなた方はこのように心に留めるべきです」というブッダバーシタがあります。

 この話の要旨は、「衣と食べ物と住まい、あるいは治療薬で比丘を支援するだけで、最高に良くなる」と安心しないで、然るべき時に自分をパヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)に入る行動をしてくださいとあります。

 パヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)とは何でしょうか。ブッダはその後、これを説明するためにサーリープッタに話されました。ブッダがこの深い話をされるためにサーリープッタの方を向かれて「サーリープッタ。聖なる弟子がパヴィヴェカピーティに到達してその中にいる時はいつでも、その時その聖なる弟子には、当然五つの原因がありません。

 つまり愛欲に依存した苦や悲しみがなく、そして愛欲に依存した幸福や喜びがなく、悪に依存した苦や心痛がなく、そして悪に依存した幸福や喜びがなく、そして善に依存した苦と悲しみもありません」と言われました。合わせて五種類です。

 一番は愛欲に依存した在家の苦や心痛を生じさせません。在家式に愛欲に関わることが苦を生じさせないという意味です。

 二番目は愛欲に依存した幸福や喜びがなく、愛欲から生じた幸福に惑溺しないという意味です。愛欲から生じた幸福を喜ぶことを、彼らは愛欲に依存した幸福や喜びがあると言い、こういうのはパヴィヴェカピーティでなく、つまり喜ぶべき静かなヴィヴェカ(遠離)でなく、パヴィヴェカピーティと呼ぶ種類の幸福・喜びではありません。

 三番目は悪に依存した苦や心痛がありません。これは罪を作れば苦や心痛があるという意味で、こういうのはパヴィヴェカピーティはありません。苦や心痛があり、罪悪に依存しているのでハッキリ見えます。

 四番目は罪悪に依存した幸福や喜びはあってはなりません。ヤクザな人たちが罪悪を成して満足して幸福なのはパヴィヴェカピーティ(遠離の喜び)ではなく、パヴィヴェカピーティと呼ぶことはできません。

 最後の五番目は善に依存した苦や心痛はありません。善を満たせば、場合によっては困難を受け取ることもあるという意味です。するのが難しい物である善を成せば、時には困難を受け取らなければなりませんが、このように困難と感じてはなりません。そうすればパヴィヴェカピーティと呼ぶことができます。

 つまりパヴィヴェカピーティと呼ぶものは心の面の最高の静かさから生じる喜びで、このような五つの状態があります。しかし最高に重要なのは愛欲の話、善の話に「最高の物だ」と執着しないことです。

 普通の人は愛欲の話、つまり欲情に執着し、これを払い捨てることができません。次に欲情から脱せば善に執着します。まだ善に執着していれば憂鬱があり、善に関わる憂慮があり、心はまだ平らなパヴィヴェカピーティではありません。心が平らなパヴィヴェカピーティになるのは、執着がないことによってです。

 だから、イダッパッチャヤターの話の知識に依存してこれらの執着をなくしてしまわなければなりません。そうすればパヴィヴェカピーティに出合います。ブッダはこれを在家に、特にアナータピンディカ長者に、このように教えたと言います。

 ブッダは解脱の話、ロークッタラ(脱世間)の話を教えなかったと理解しないでください。ブッダは「衣と食べ物と住まいと治療薬と八物で比丘を支援するだけで満足するべきではありません。適当な時にパヴィヴェカピーティに入ってその中にいると、心に留めるべきです」と教える努力をなさいました。それは愛欲の威力より上、善より上、悪より上にいさせます。


 しかしこれは、執着しない話以外の他の話から生じさせることはできません。愛欲はイダッパッチャヤターに過ぎないと見、罪はイダッパッチャヤターに過ぎないと見、徳はイダッパッチャヤターに過ぎないと見れば心は空になり、妨害するものが何もなく、すっかり静まった心と言います。

 次に「在家であることの愛欲の幸福も、それ以上の徳でも、徳の果報に興味があり、執着を消滅させる話に関心がない在家は、まだ在家が得るべき物を得ていない」と見なすという、面白い話があります。

 アナータピンディカ長者は晩年に、晩節に本気でこの話を考えたばかりなので、つまりアナータピンディカ長者の病が重く、間もなく死ぬという時に、ブッダはプラアーナンダとプラサーリープを見舞いに行かせ、ブッダの訓話を与えられました。要旨は、

「長者さん。この病気のことは『私は目と、目に依存する識に執着しない』と、このように心に留めなさい。執着しなければ、形、眼識、眼触、眼触受に執着するために目に依存する識はありません。(六処全部をこのように話されました)。

 土界等々に執着せず、形薀等に執着せず、空無辺処に執着せず、この世界に執着せず、他の世界に執着せず、自分が見た、聞いた、感じた、明らかに知った、探求した、心で信じたどんな感情にも執着しません。その感情に執着しなければ、その感情に依存したその種の識は自分にありません」とこのように。

 長老僧はこのように最高に執着しない話をして、臨終のアナータピンディカ長者に忠告しました。

 プラサーリープッタがこのように述べると、アナータピンディカ長者は落涙し、プラアーナンダに「アーナンダ様。私は命を惜しんでいるのではございません。命に専念している心はありませんが、教祖様は、私が常にお近くに座ったお方で、同じくらい好いている比丘方も大勢おられますが、この種のダンマカター(ダンマの言葉)は聞いたことがございません」。

 そして続けて「そのようなら、この種のダンマカターを白衣の在家にとって明らかな物になさってください。発展なさった方。生まれつき目の中の埃が少ない人も世界におります。このダンマを聞かなければ、利益が損なわれます。このダンマを知り尽くす人もおるからです」と述べ、アナータピンディカ長者は亡くなりました。これは本当の在家の話です。

 この長者が泣いて最高に残念がったのは、ほとんど死にかけているたった今聞いたばかりで、なぜもっと前に聞かなかったのか、そうすればこのダンマを理解する時間があり、このダンマの最高の結果を受け取る長い時間があったからです。プラアーナンダは「これは深い物で、在家に説くべきではありません。話を全部誤解します」と説明しました。

 アナータピンディカ長者は幻滅して「昵懇な長老も大勢いるのに、なぜんこの話をなさらなかったのだろう。ブッダのお傍近くに座って久しいのに、なぜこの話を聞かなかったのだろう。今さっき聞いたスッタは、比丘を衣と食べ物と住まい等で支援するだけで満足してはいけない、いつでもふさわしい時にパヴィヴェカピーティに入る努力をしなさいと、ブッダが長者に忠告なさっていると説いています」と非難しました。これは、ブッダはこの忠告をなさったことがあることを表しています。

 しかしパヴィヴェカピーティの話、すべての善から生じる苦・心痛がないという言葉を理解するのは、アナータピンディカ長者にとって難しすぎたのかもしれません。善と名がつけば何でも、苦や心痛はないと理解したかも知れません。それはイダッパッチャヤターの深遠で微妙な話です。

 善でも悪でも、幸受でも苦受でも、執着があれば誰でも当然苦です。ブッダは前もって、パヴィヴェカピーティに関心を持ちなさいと話されています。アナータピンディカ長者は「ブッダのお傍近くに座っていたのに、長い間この話を聞かなかったのは損失だ、同じくらい好きな長老も大勢いたのに、なぜこの話をされなかったのか」と後悔しました。在家のみなさん、私たちはこの話の轍を踏んでいないか、考えて見てください。

 パヴィヴェカピーティに到達したい人は誰でも、イダッパッチャヤターの話に関心を持たなければなりません。愛欲、悪、善の抑圧より上にいたければ、武器、つまりイダッパッチャヤターだけを使わなければならないという意味です。

 名前を挙げた何にも執着しないで、六処に執着しないで、土界等々、形薀等々、空無辺処等々何にも執着せず、この世界に執着せず、他の世界、何かそのような物に執着しないためには、イダッパッチャヤター、つまり「これらはすべて当てにならないもの」と見る知識を使わなければなりません。

 これがあれば、これが縁で、これが生じる。それだけで、それ以上に確実な要旨は何もありません。これは、在家が得るべき最高に善い物を得る目的がある在家として、考えて見なければならない話です。

 次はブッダが直接話された話で、この話を教えられなかったと、誰もブッダを責めないように、私が読んで聞かせます。それは、みなさんが今理解できないで学んでいるスンニャター(空)の話です。

 スンニャターについてのスッタはたくさんあり、そして最高に重要です。一九巻五一二頁、相応部、マハーヴァーラヴァッガ、ダンマディンナスッタの中で、

 大勢の在家の一団がブッダに拝謁し、ダンマディンナという清信士が代表で、最高に利益になる話を教えてくださいとブッダにお願いしました。

 パーリには、オーヴァトゥ ノー バンテー バガヴァー アヌサーサトゥ ノー バンテー バガヴァー、ヤン アムハーカン アッサ ディカラッタン ヒターヤ スカーヤーティとあり、「発展なさった方。私たちに、永遠に幸福であるよう助ける利益がある話を教えてください」という意味です。

 ブッダは「イェー テー スッタンター タターガタバーシター ガムビーラー ガムビーラッター ロークッタラー スンニャタプパディサンユッター テー カーレン カーラン ウパサムパッチャ ヴィリッサーマーティ」と言われ、

意味は「ダンマディンナさん。あなたは、如行が話しておいた これらのスッタンタのどれも、深遠で、深い要旨があり、世界より上で、空があり、そのダンマに至って永遠にその中にいると、このように学んで心に留めなさい」という意味です。

 これは、見本であるこのスッタのように、そして先ほどのアナータピンディカ長者に述べたスッタも含めて、ブッダは在家に最高の話、スンニャター(空)の話、世界を超えた話を教えなかったと言うことはできません。それには、ブッダは「最高の空の話は在家にふさわしい」と見なされたという要旨があります。

 次にこの清信士の一団が「難しすぎて実践できないように見える」と言うと、ブッダは代わりにソターパティヤンガ(預流支)を話されました。つまり①ブッダへの堅い信仰があり、②プラタムへの堅い信仰があり、③僧サンガへの堅い信仰があり、そして④自分を非難できない純潔な戒がある、合わせて四つです。

 その清信士の一団がこれは実践していますと申し上げると、ブッダは、スンニャター(空)の話でなければこのダンマを実践しなければならないと忠告され、彼らはそれも実践していますと言いました。つまりスンニャターの話に移動する以外に道はないという事です。

 スンニャターの話の意味は、何にも執着しないで、すべての物を、執着すべき状態がない物と見なさいという意味です。

 どのように熟慮すればスンニャター(空)が見えるでしょうか。それは「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という道理だけで、イダッパッチャヤターを熟慮しなければなりません。このように知っていればスンニャターが見え、自分、あるいは自分である物であるどんな部分も見ません。

 だから、それは在家にとって必要な話と見なしてください。だからブッダは「みなさんを永遠に援ける利益がある話はスンニャターの話」と、このように言われています。次に彼らは既に実践していると言い、それは、その後はイダッパッチャヤターの話に関心を持つ以外に、どのようにすれば良いか分かりません。後退するものは何もないからです。

 次にブッダが、まだスンニャターを受け取らない人と交渉するために説かれたソターパッティヤンガの話は、イダッパッチャヤターと関わりがあります。これは良く聞いてください。すぐに理解できません。

 スンニャターの話はイダッパッチャヤターと関わっているので、イダッパッチャヤターが見えなければならず、イダッパッチャヤターが見えればスンニャターが見えます。次にスンニャターはいらないので、ソターパティヤンガだけにし、ソターパティヤンガになると、再びイダッパッチャヤターに関わっています。これからこの話に関わっているスッタで見ることができます。

 この話に関わっているスッタは、ある時、いつものようにアナータピンディカ長者に話されたスッタで、ブッダがアナータピンディカ長者に、関わりのあるダンマの三項を話されました。しばらくの間、良く聞いてください。

 「ヤトー コー ガハパティ=長者さん。アリヤサーヴァカッサ パンチャ バヤーニ ヴェーラーニ ヴーパサンターニ ホーンティ=五つの危害が聖なる弟子にとって静まった物である時はいつでも、チャトゥーヒ ソーターパッティヤンゲーヒ サマンターガノー ホーティ=そしてその聖なる弟子が、預流支の五つが揃っている人になり、

アアリヨー チャッサ ナーヨー パンナーヤ スディットー ホーティ スパディヴィッドー=そして聖であるニャーナダンマは、その聖なる弟子が良く見て、良く洞察している物になります。

 これは、ブッダがこの三つは離すことができず、その人が五つの危害から脱せば、ソターパティヤンガの五つが揃い、その人はアリヤニャーナダンマを洞察しなければならないと話されたという意味です。

 ここでのアリヤニャーナダンマとは、パティッチャサムッパーダ(縁起)、あるいはイダッパッチャヤター(縁生)で、そのようなら「ソー アーカンカマーノー アッタナーヴァ アッターナン バヤーカレッヤ=その聖なる弟子が望んでいれば、自分で自分の証人になるべきです。

 キーナニラヨームヒ=私は終わった地獄がある人で、キーナティラッチャーナヨーニヨー=私は終わった畜生に生まれることがある人で、キーナピッティヴィサヨー=私は終わった修羅の習性がある人で、

キーナーパーヤドゥッガティヴィニパートー=私は終わった悪趣である報いがある人で、ソターパンノー=私は流れに至った人で、アヴィニパータダムモー=再び落ちないのは当たり前で、ニヤトー=確実な人です、ムボーディパラーヤノー=将来すべてを悟るのが」。

 このような三つの状態があればそのようです。つまり絶対に地獄に落ちません。そして涅槃が確実な人で、五つの危害から脱し、四つのソターパティヤンガ(預流支)があり、そしてアリヤニャーナダンマを洞察します。

 アリヤニャーナダンマとは何かについて述べれば、ブッダは「イタ ガハパティ アリヤサーヴァコー=長者さん。このダンマヴィナヤの聖人である弟子は、パティッチャサムッパーダンエーヴァン サートゥカン ヨーニソー マナシカローティ=当然心の中を縁起で絶妙にし、イティ イマスミン サティ イダン ホーティ=これがあれば、これは当然ある、

イムスッパーダー イダン ウッパッチャティ=これが生じれば、これは当然生じ、イムスミン アサティ アダン ナ ホーティ=これがなければ、これは当然ない、イマッサ ニローダー イダン ニルッチャティ=これが消滅すれば、これは当然消滅する。ヤディダン=それは何でしょう。アヴィッチャーラパッチャヤー サンカーラー=それは、すべてのサンカーラは無明が縁で当然あります。

 サンカーラパッチャヤー ヴィンヤーナン=識はサンカーラが縁で当然あり」等々と言われ、これらは縁起の終わりまで続き、そして「アヤムッサ アリヨー ニャーヨー パンニャーヤ スディティトー ホーティ スパティヴィッドー=長者さん。これが、聖なる弟子が良く見ている、良く洞察しているアリヤニャーナダンマです」とまとめています。

 重要な要旨は、アリヤニャーナダンマ(聖智)を洞察する所にあります。アリヤニャーナダンマとは「行く道具であるダンマ」という意味です。どこへ行くのかは、苦から離れて行きます。僧だけでなく在家も行かなければなりません。在家の誰が地獄に落ちたいでしょう。地獄に落ちたい人は誰もいません。

 このようなスッタは二三箇所あり、内容は全部同じで、五つの危害から生じる危害を避けて、一緒に行かなければならないと説いています。つまり殺生・窃盗・邪淫・虚言・飲酒、この五つから生じるすべての危害があってはなりません。

 そして確信があり、確信という言葉を使い、すぐに執着するので、ブッダ・プラタム・僧サンガに正しくて強い確信がなければなりません。そして自分を貶すことができない戒があり、そしてアリヤニャーナダンマを洞察します。どれか一つでも欠ければ、このような状態の預流になるものは揃いません。

 次の重要な話はアリヤニャーナダンマにあり、つまりこれがあれば、これもあり、これが生じれば、これも生じ、これが無ければ、これもなく、これが消滅すれはこれも消滅するというイダッパッチャヤターを知ります。これがイダッパッチャヤターの心臓部です。

 このように知り、このように見ていれば殺生をすることはできず、窃盗をすることもできず、邪淫をすることもできず等々、そしてこのように知っていれば、ブッダ・プラタム・僧サンガに更に篤い信仰があります。

 このように知っている人、このように実践する人、このような結果を受け取る人は誰でも、堅固な信仰があると言います。戒は純潔なものになり、自分で自分を非難できない、聖人が満足するものになります。これがイダッパッチャヤターの功徳です。

 良く聞いてください。在家は預流支にある五つの危害を避けなければなりません。すべてはアリヤニャーナダンマの話、つまり縁起、あるいは述べたようなイダッパッチャヤターを知ることに関わっています。

 仏教の善い在家、善い聖人である弟子なら、このような望みがなければならないと捉えてください。つまり地獄が終わった、破滅が終わった、輪廻が終わったと保証できる脱出のためには、イダッパッチャヤターの威力に依らなければなりません。これを「どの方向を見ても、完璧な仏教教団員・在家になりたい在家は、イダッパッチャヤターの話から脱せない」と言います。話して聞かせた経は、直接在家に話された経ばかりです。

 次にこれから他のブッダバーシタ(ブッダが言われたこと)について、特にイダッパッチャヤター、すべての物は執着すべきでないと見せる話の知識について熟慮したいと思います。私たちは執着しないことを望み、イダッパッチャヤターは執着しなくなるまで真実を見る援けをし、そして仏教の心臓部とまとめることを忘れてしまわないでください。

 「サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」という重要な文句を、私たちは仏教の心臓部として持し、すべての物は執着すべきでなく、そしてそれは貪りが生じず、怒りが生じず、迷いが生じず、罪を成さず、悪を成さず、善に執着しないと何にでも拡大することができます。

 すべての物は執着すべきでないと見るには、イダッパッチャヤターの眼鏡以外にありません。イダッパッチャヤターに慣れれば、常にすべての物は執着すべきでないと見えます。

 ある時一人の比丘がブッダに「それを知ったら無明を捨てることができ、明を生じさせることができるのは何ですか」と質問しました。その比丘はブッダにこのように質問しました。

 ブッダは「イダ ビック ビックノー スタン ホーティ サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェーサーヤーティ=比丘。このダンマヴィナヤの比丘のスタ(つまり聞く、あるいは学ぶものをスタと言います)は、サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=すべてのダンマは、誰も執着すべきでない、

エーヴァンチェタン ビックノー スタン ホーティ サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェーサーヤーティ=比丘、このダンマヴィナヤの比丘のスタが、すべての物は執着すべきでないとあるなら、ソー サッバン ダンマン アビチャーナーティ=その比丘は、当然すべてのダンマを知ると言われます。

 サッバン ダンマン アビンニャーヤ サッバン ダンマン パリチャーナーティ=すべてのダマを知るので、その比丘は当然すべて知り、すべてのダンマを知り尽くし、サッバン ダンマン パリンニャーヤ サッバニミッターニ アンニャトー パッサティ=すべてを知り、すべてのダンマを知り尽くすので、その人は当然、すべてのニミッタを別の種類と見ます」と言われました。

 ここで「別の種類であること」という言葉が理解できないので、説明しなければなりません。ブッダは「すべての物は執着すべきでないという教育・学習、耳を傾けて聞くことがあれば、その人はすべてのダンマを最高に知ります。すべてのダンマを知るので、すべてのダンマに博識で、すべてのダンマに博識なので、その人はすべてものを『別の種類』と見ます」と言われています。

 この「別の種類」という言葉は、一般の人が見るのと別のものなので「別の」という言葉を使い、アンニャノー=別のもので、世界中の人はこれと見ますが、この人は反対である別の種類と見ます。凡人である世界中の人は、当然凡人の視線、感覚で見ますが、この人は別の種類と見、

チャクス アンニャトー パッサティ=目を、他の人が見るのと違う別の種類と見、ルーパ アンニャトー パッサティ=当然すべての形を、他の人が見るのと違う別の種類と見、チャックヴィンニャーナン アンニャトー パッサティ=当然眼識を、他の人が見るのと違う別の種類と見、チャックサンパッサン アンニャトー パッサティ=当然眼触を、他の人が見るのと違う別の種類と見、

ヤムピ チャックサムパッサパッチャヤー ウッパッチャティ ヴェーダジティ スカン ヴァー ドゥッカン ヴァー アドゥッカマスカン ヴァー タムピ アンニャトー パッサティ=当然眼触から生じる受を、他の人が見るのと違う別の種類と見ます。

 そしてブッダは、声、臭、味、接触、心の感情の部に分類して話され、この人は他の人が見るのと違うように見、イダッパッチャヤターの教育があり、実践があれば、何を見ても他の人が見るのとは違って見えると言われました。

 だからここでの「別の種類」という言葉は広い意味があり、他の人々が見るのと違うすべてです。私たちは反対に見、執着すべきでないと見、無常・苦・無我と見ます。これをイダッパッチャヤターはすべての物を、普通の人が見るのと違って見せると言います。

 彼らが狂っていなければ私たちが狂っていて、私たちが狂っていなければ彼らが狂っています。「これがあれば、これが縁で、これが生じる」イダッパッチャヤターを見るので、すべてにおいて反対でなければならないという意味です。

 仏教の心臓部について述べる話はこのようです。要するにすべてのニミッタを、他の人たちが見るのと違う見方をします。イダッパッチャヤターの功徳をこのような状態で説明しました。

 サッカ王に話され、そしてプラモッガラーナに話して聞かせたある経の内容があります。初めは同じでイダッパッチャヤターを見ますが、それでアーナーパーナサティの話で話したようにアニッチャーヌパッシー(無常随観)、ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)、ニローダーヌパッシー(滅随観)、パティニサッガーヌパッシー(捨離随観)が生じますが、実践法は違います。

 これを「他の人が見るのと違うように見る」と言います。これが、イダッパッチャヤターがいろんな物を普通の人が見るのと違うように見せることです。

 これです。在家にふさわしいかふさわしくないか、考えて見てください。在家がブッダの完璧な仏教教団員になりたいなら、この話は避けられません。つまり一般の人が見るのと違った見方をし、彼らが狂っていなければ私たちが狂っていて、私たちが狂っていなければ彼らが狂っています。

 アンニャタ パッサティ=当然すべての物を、他の人が見るのと違う別の物と見ると言います。それで誰が狂人で誰が狂人でないか、考えて見てください。

 そして次は、私たちに知識がある、あるいは光がある、あるいは何があるようにするにも、イダッパッチャヤターと呼ぶものはこのようになるため、ブッダに気に入られる在家になるためと、どんどんはっきりします。

 次に七番目の話は、ブッダがロークッタラダンマ(出世間法)をすべての人の財産として譲渡してくださったと見ます。このスッタは非常に興味深く、中部マッジマパンナーサ エースカーリースッタ、第十三巻、六一四頁で、あるバラモンと会話、あるいは反論なさいました。

 ブッダはバラモンたちと「財産の話をどのように規定するか」議論なさり、バラモンたちは「弓と矢をクシャトリア(武士階級)の財産と規定し、乞食、つまり貰って歩くことをバラモン(司祭)の財産と規定し、農業と牧畜はベーシャ(町人)、一般庶民の財産と規定し、鎌と天秤棒をスードラ(労働者階級)の財産と規定する」と言い、このようにハッキリと四つの身分説いています。

 弓矢、弓とは弓本体で、矢、あるいは弓矢は遠くから射る武器です。当時はまだ銃がなく、現代なら銃、あるいは大勢を殺す武器ですが、これをクシャトリアの財産と規定し、武士階級はこの財産で生活させます。次に乞食権は貰う権利で、貰う権利があり、乞食と軽蔑しません。このような権利をバラモン(司祭階級)、先生たちの財産と規定します。

 次に田畑を作り、牛や水牛を飼うのは一般庶民、つまり上級庶民の財産と規定し、そして鎌と天秤棒をスードラ、労働者、低い身分の人の財産と規定しました。鎌と呼ぶものを、彼らは大昔からこれらの人たちの標に使い、天秤棒は担ぐという意味で、稲を刈り、草を刈り、あるいは担ぐことを一番身分の低い人たちの財産と規定します。

 次にバラモンが「この財産の話を、ゴータマ様はどのように規定なさいますか」と問い返しました。「アリヤン コー パナ アハン ブラーフマナ ロークウッタラン ダンマン プリサッサ サッダナン パンニャペーミ=バラモンさん。私は、卓絶したロークッタラダンマをすべての人の財産と規定します」。

 ここでのプリサッサは、男性と訳すのではありません。パーリ語を知らない人は、プリサという言葉を全部男性と訳してしまいます。人、ただの人、一般の人について話す時も、この言葉を使います。「バラモンさん。私は、卓絶したロークッタラダンマ(世界から脱した物)を、すべての人の財産と規定します」。

 ブッダはどのようにバラモンたちより上か、比較して見てください。ブッダはロークッタラダンマをすべての人に規定しました!

 次に「このロークッタラダンマは在家に必要はない。在家の物ではない」と言う人がいます。その人はブッダを知らないという意味で、ブッダを知らない人です! ブッダは卓絶したロークッタラダンマを一般の人の財産と規定しました。

 人でなければ必要ありません。しかし人である人は卓絶したロークッタラダンマと呼ぶものに関心を持たなければなりません。アリヤン ロークッタラン ダンマン プリサッサ サッダナンという言葉があり、サッダナンは、身に着けている財産という意味です。

 サが入って、サッダナン、身に着けている財産を意味します。「私は卓絶したロークッタラダンマを、すべての人の財産と規定しました! 

 これは、在家はロークッタラダンマの話を知るべきか、知るべきでないか、必要か必要でないかという問題は終わったと結論する項目です。すべての人に遺産としてこの財産を受け取らせる、ブッダの望みを把持しなさい。

 ブッダが与える遺産を欲しがらないのは、どの種類の人か、どんな顔つきか、考えて見てください。私は「ヤクザな空の心人たち」だけがロークッタラの財産を好かないと考えます。

 ロークッタラ財産を好まないクルンテープ(バンコクのこと)のバーやナイトクラブなどに潜んでいる「変態性欲」の族。さっき、このスンニャター(空)は在家を永遠に援ける利益がある在家のものとダンマディンナ清信士に話されたと述べたように、一般の普通の人は喜んで満足し、手を頭上に掲げてロークッタラ財産を受け取ります。

 次にロークッタラである財産が欲しければ、この話を聞いて正しく理解するのさえ、イダッパッチャヤター以外にどんな乗り物もなく、与えられる物はどこにもありません。だからイダッパッチャヤターの話に関心を持ってください。そうすればブッダの遺産であるすべての人のためのロークッタラダンマを受け取るのは簡単で便利です。

 幾ら話しても、イダッパッチャヤターは完璧な仏教教団員になりたい在家に必要と見えます。私は在家に関わるブッダバーシタを調査する努力をして「ブッダの言葉による在家」という本を作ろうと考えたことがあったので、このような話をたくさん見つけました。だから話して聞かせました。

 この本を作らずに死んでしまえば、在家の人たちは聞く運があまりないので、急いて話します。だから眠くならないで、飽きないで、煩わしがらないで、もう少し我慢して聞いてください。何度も話せないので、話せることは一度に全部話さなければならないからです。

 次に話したいのは、悪い在家と善い在家を比較しなければならないことです。悪い在家は凡人で、善い在家は聖人である弟子という意味です。

 善い在家である仏教教団員について述べれば、ブッダはどの場合もアリヤサーヴァカ(聖なる弟子)という言葉を使われ、イダという言葉を加えれば在家も出家もという意味になり、イダという言葉を加えないで、アリヤサーヴァカだけなら、在家だけを意味します。ほとんどはこのように観察します。

 次に凡人と聖なる弟子は捕えて見なければならない人で、凡人はまだ聖なる弟子と呼びません。未熟で、まだ(煩悩、あるいは無明が)厚く、まだバカみたいで、まだ何かが多すぎ、聖なる弟子と呼ぶには十分でないからです。

 聖なる弟子は、例えば預流、あるいは預流になるために努力をしている最中などは、少なくともブッダが望まれた領域に到達しています。私たちは凡人と聖なる弟子の違いを知ってしまわなければなりません。

 サラーヤタナサンユッタ、第一八巻、二五七頁に、これについてハッキリ、簡単に話しているのがあります。ヴェーダナー(受)を味わうことがあれば、凡人は煩悩でヴェーダナーを味わい、聖なる弟子は智慧でヴェーダナーを味わうと、凡人と聖なる弟子の違いを比較して比丘たちに話されているからです。

 このヴェーダナー(受)は誰でも、どこででも、いつでも日常的に生じると言います。しかしヴェーダナーが生じると、凡人は煩悩で味わい、聖なる弟子は智慧で味わい、このように違います。

 なぜそれはそのようなのでしょうか。聖なる弟子はイダッパッチャヤターの話を聞いて学んで「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ(すべての物は、自分、自分のものと執着するべきではない)」と知るので、すべてのヴェーダナー(受)を智慧で味わいます。凡人は目を瞑っているので煩悩で味わい、煩悩をヴェーダナーを味わう道具に使い、智慧を使いません。

 凡人はイダッパッチャヤターの話の知識がなく、聖なる弟子は「イダッパッチャヤターの話の知識は聖なる弟子である要件」とさっき述べたように、イダッパッチャヤターの話の知識がいっぱいなので、ヴェーダナーを味わう時、このように違います。

 次は特に苦受(ドゥッカヴェーダナー)を味わう時、痛みや思いどおりにならないことなどを苦受と呼び、凡人は体と心の両方の苦があり、聖なる弟子は体の面の苦だけ、あるいはまったく苦でないなど、聖人の段階次第です。人に身体面の痛みや苦受が生じると、身体面も痛み、心が「俺は痛い」と執着すれば、痛みは識まで、心まで達します。

 ブッダはこれを理解し易いように、ある人が一本の矢で射られ、更に毒を塗ったもう一本の矢で射られることに譬えられました。最初の矢は普通の矢で、鋭い弓で射られ、そして猛毒を塗った矢でもう一度射られます。これが凡人で、体の痛みは毒のない普通の矢で射られたようで、その苦受に執着が生じ、欲望・取で苦悶すれば識の奥が痛み、これを「毒を塗った矢で射られるよう」と言います。

 だから凡人はいつでも二本の矢で射られ、しかも二本目の矢は毒矢で、聖なる弟子、ブッダの本当の弟子は初めの一本の矢、つまり普通の矢で射られ、引き抜けば傷は治り、毒はありません。心が執着して欲望執着しないので、射られないのと同じ、あるいは刺さらないのと同じ時もあります。最高の聖人は欲望・取が終わり、苦受、あるいは射られる話はないからです。

 苦受を味わう時、凡人と聖なる弟子がこのように違うのは、イダッパッチャヤターの話をまったく知らないために二本の矢で射られるからです。イダッパッチャヤターの話を知っていれば一本の矢で射られるだけで、毒はなく、あるいは当たらず、刺さりません。

 次に比較しなければならない違いがもう一つあり、凡人が苦受を味わうと瞋恚随眠が増え、聖なる弟子は生じず、凡人が幸受を味わうと貪随眠が増え、不苦不幸受を味わうと無明随眠が増えますが、聖なる弟子はどんな随眠も生じません。

 随眠は貪欲随眠、瞋恚随眠、無明随眠の三種類あります。私たちが苦受に憤っている時は瞋恚随眠、嫌悪憤慨の随眠が増え、幸受を味わっている時は貪欲随眠、愛させ、貪らせる随眠が増え、そして不苦不幸受である時は、無明随眠、つまり疑いが増え、疑念の威力で執着します。凡人はいつでも何らかの随眠が生じ、聖なる弟子は防ぐための知識、イダッパッチャヤターの話の知識があるので生じません。

 それはヴェーダナー(受)にならず、苦にも、幸福にも、不苦不幸にもなりません。イダッパッチャヤターは幸福や苦と感じないようにさせます。それは対である反対のもの、騙すものです。ね、凡人と聖なる弟子はこのように違います。

 述べて来たことが実践できる範囲にあるか、このような知識はあるべきか、このような知識を持つのは可能か、この知識、つまり先ほどのべたように別のものと感じ、別のものと考え、普通の人のようでない他の行動をさせ、普通の人と違わせるイダッパッチャヤターに関心を持つべきか否か、考えて見てください。

 人間としての進歩を望む人は、在家でも誰でも、使わなければならない武器であり道具であるイダッパッチャヤターの話に集約される話は何でも、イダッパッチャヤターの話に関心を持たなければなりません。

 知らせたい次の項目は「在家は何に関心を持つべきか」です。この話については奇妙で、相応部のすべての経を調べて見ると、特に視線を通過した限りでは、ブッダにディッティダンマニッバーナ、現世での涅槃の話について質問した人は在家ばかりで、出家は見つかっていません。なぜブッダにディッティダンマニッバーナ、現世での、生きているうちの涅槃の話について質問した人が在家だけなのか分りません。

 相応部のローカカーマグナヴァッガ第五経に、サッカ王が、何が現世での涅槃か質問し、第六経では音楽家の天人のパンチャシンカラがブッダに、何が現世での涅槃か質問しました。サッカ王、あるいはこの天人は在家で、在家でないと理解しないでください。インドラ神、あるいはサッカ王は在家で、パンチャシンカラ(五頂)も在家です。

 ガハパティヴァッガの第一経で、ヴェーサリー国のウッガ長者が現世で涅槃に到達する話について質問し、そのヴァッガ第二経で、ヴェーサリー国ハッティガーマのウッガ長者が、現世で涅槃に到達する話についてブッダに質問しました。

 そのヴァッガの第三経では、ナーランダー国のウバリーという名の長者が、ブッダに現世での涅槃に到達する話ついて質問しました。

 そのヴァッガの第五経では、ラージャガハの近くに住んでいるソーナという長者が、ブッダに現世での涅槃に到達する話について質問しました。

 同じヴァッガの第八経では、ナクラピター長者がブッダに現世での涅槃に到達することについて質問しました。

 出家、比丘の誰一人もディッティダンマニッバーナ(現世での涅槃)について質問した話は見つかりません。まだ見たことがないので、なぜこのようなのか不思議に思いました。あるいは僧はどの形に関心があるから、在家のように現世での涅槃に関心がないのか、その話はまだ判断せずに、除けておいても良いです。

 しかしなぜ在家ばかりなのか、そしてそれ以上に、なぜ在家は現世での涅槃の話に関心があるのか、今の在家は現世での涅槃、生きている間の涅槃に関心があるのかを考察します。

 答えはどの経も同じで、「コー ヌ コー バンテー ヘトゥ コー パッチャヨー イェナ ミテカッチェ スッター ディッテー ヴァ ダンメー ノー パリニッバーナンティ=この世界のすべての動物が現世で般涅槃しない原因は何で、縁は何でしょうか」。

 これが「しない」という言葉の質問です。二番目の質問は、現世で涅槃する原因と縁で、どちらも質問すれば、なぜ現世で涅槃しないのか、なぜ現世で涅槃するかの二つです。

 サッカ王、あるいは誰に話されたのも全部同じで、呼びかける名前が違うだけです。

 「スンティ チャ コー デーヴァーナミンダ=デーヴァーナミンダさん! チャックヴィンニェーッヤー ルーパー イッター カンター マナーパー ピヤルーパー カームーパスンヒター ラチャニヤー=目で知ることができるすべての形である感情は、愛して欲しがる物であり、望む物であり、心を満足させる物であり、可愛い形があり、愛欲の基盤であり、欲情の基盤であり、

タンチェー ビック アビナンダティ アビヴァダティ アッチョーサーヤ ティッタティ=比丘がその形である感情を夢中になって称賛し、溺れて陶酔すれば、タッサ タン アビナンダトー アッチョサーヤ ティッタトー=そのように夢中になり、称賛し、溺れて陶酔すれば、タン ニッシタン ヴィンニャーナン ホーティ=彼の識は煩悩が住んでいる識で、タドゥパーダーナン=その識は取と呼ばれます。

 サウパーダーノー デヴァーナミンダ ビック ノーパリニッバーヤティ=デーヴァーナミンダさん! 取がある人は当然般涅槃しません。等々。これがこの世界のあるグループの多くの動物が現世で般涅槃しない原因であり縁です」。

 反対の内容は「しない」で、その形である感情に夢中にならず、称賛せず、惑溺陶酔しなければ、現世で涅槃します。反対の二つの側を話しています。

 形について話せば、声・臭い・味・接触・心の感情の六種類全部について話しています。要旨は「アビナンダティ=夢中になり、極めて熱中し、アビヴァダティ=休まず褒めちぎる」所にあります。これは「うわぁー綺麗だ! うわぁー美味しい! うわぁー楽しい!」と口に出してしまうほど心を奪われているという意味で、こういうのを、このように休まず言っていると言います。

 アッチョサーヤ ティッタティは、その感覚の中に埋もれているという意味です。三種類だけで、何も多くはありません。夢中になるので休まず称賛し、愛、満足、可愛い、愛欲の感覚の基盤であり、欲情の基盤である感情に酔って埋もれます。

 考えるべきは、七人の質問者全員が在家なのは、これらは在家が感じる以上に難しいのか、という点にあります。

 次に夢中にならず、褒めちぎらず、惑溺しないことはできるでしょうか。中らずと雖も遠からぬ答え、間違いがない答えは、イダッパッチャヤターが見えていれば、この三つは生じることができず、夢中にならず、褒めちぎらず、惑溺しません。

 ね、イダッパッチャヤターはこのような状態を生じさせないよう助け、そしてそれは現世での涅槃です。現世での涅槃は、全部アヌパーディセサニッバーナ(無余依涅槃)である完璧な涅槃という意味ではなく、そのような、近い意味の、そして今ここですぐに得ることができる涅槃という意味です。

 心が正常な時はその感情に夢中にならず、褒めちぎらず、惑溺しません。このような状態があり、その時は今ここでの、現世での涅槃とまとめることができます。注意深く専心するだけ、維持するだけで、アビナンダティ アビヴァダティ アッチョサーヤにしないで、つまり夢中にならず、褒めちぎらず(心が崇拝することを褒めちぎると言い)、そしてこれらの感情の威力の下で、ひれ伏して陶酔しなければ、その時が現世の涅槃です。

 私の感覚では、この種の涅槃は在家にふさわしく、そしてその後ずっと続ければ、次第に煩悩が消滅し、最後に本当のアヌパーディセサニッバーナになると見ます。

 だから夢中にならず、褒めちぎらず、惑溺しない実践法に依存して、今ここの一時的な涅槃、待つ必要がない現世の涅槃があるようにしてください。できれば、できた分だけ涅槃である状態があります。これもイダッパッチャヤターと呼ぶもので成功します。

 良く聞いて、そして私がイダッパッチャヤターを宣伝しすぎると見るほどにならないでください。パーリに本当にあるブッダバーシタ(仏説)で話しています。イダッパッチャヤターに慣れなければならないのは、執着しないためです。この執着しないことは独自の状態、あるいは仏教教団員である人の徽章と捉えてください。仏教教団員である人、あるいは聖なる弟子は執着しない話に慣れていなければなりません。

 カビラバスツ国のニグロダーラーマで比丘たちに話されたブッダバーシタは、カンダサンユッタ、第十七巻一一四頁で、ブッダは「タトゥラ ビッカヴェー スタヴァー アリヤサーヴァコー イティ パティサンチッカティ=比丘のみなさん。耳を傾けて聞く人である聖なる弟子は、当然このように熟慮します。

 アッティ ヌ コー キンチ ろーカスミン ヤマハン ウアパーディヤマノー ナバッチャヴァー アンサン=この世界に何があるだろう。私たちが執着した時、私たちの害にならない物は」と言われました。この世界に、自分が執着して、自分の害にならないものは何があるでしょうか。ブッダは、常にこのように熟慮するよう教えました。

 「ソー エーヴァン パチャーナーティ=その聖なる弟子は当然このようにハッキリ知ります。ナッティ コー タン キンチ コーカスミン ヤムハン ウパーディヤマーノー ナヴァッチャヴァー アッサン=この世界に、私たちが執着して害のない物は何もないと」。これは聖なる弟子、あるいは仏教教団員が熟慮して知らなければならない、つまりこのように熟慮して、このように知らなければならない文句です。

「ソー エーヴァン パチャーナーティ=その聖なる弟子は、当然このようにハッキリ知ります。アハンチャルーパンニェーヴァ ウパーディヤマーノー ウアパーディイェーッヤン=形に執着すれば、タッサ メー アッサ ウパーダーナパッチャヤー バヴォー=有は取が縁で当然私に生じ、バヴァパッチャヤー ジャーティ=有が縁で当然生があり、

ジャーティパッチャヤー ジャラーマラナン=生が縁で当然老死があり、ソーカパリデーヴァドゥッカドーマナッスパーヤーサー サムバヴェーユ=悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが必ずあり、エーヴァメタッサ ケヴァラッサ ドゥッカッカンダッサ サムダヨー アッサ=すべての苦の塊は、このような状態で芽吹くと」。

 最高に重要な文句は、ナッティ ヌ コー タン キンチ ローカスミン ヤマハン ウアパーディヤマーノー ナヴァッチャヴァー アッサン=この世界に、私たちが執着して害がない物は何もない。これは、本当の聖なる弟子であり、本当の仏教教団員なら、このような見方がなければならず、このような熟慮がなければならないと言われたブッダバーシタです。

 形を見るのも、執着すればその執着から有が生じるとこのように、受を見るにもこのように、想を見るにもこのように、行を見るにもこのように、識を見るにもこのように見ます。

 何かに執着すれば、その取によって有と呼ぶ物、つまり自分であり、私であり、何かであることがあり、有によって生が生じ、生によって老死とすべての苦の塊が生じます。

 今ここにいて、生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みに関わるすべての苦が心の中に生じるという意味です。思ったり考えたりすれば苦になります。生じた事実は必要なく、このように老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みに関わる怖れ、心配、恐怖を感じることができます。

 在家は「ここでの聖なる弟子というのは在家に注目し、少なくとも出家と在家である」と、良く見るべきです。聖なる弟子という言葉は一般に善いレベルの在家に注目し、在家は比丘より、比丘沙弥より一般人を意味するからです。

 一般の善いレベルの人は、執着して害のない物はこの世界に何もないと、常に感じていなければなりません。

 次にどのように執着しないでいられるかは、考えられるどんな病気も全部治せる薬のようなイダッパッチャヤターを訪ねます。あるいはどんな病気もすべて治せる医師はイダッパッチャヤターです。在家がイダッパッチャヤターの話に関心を持って学ばなければならないのは、このようです。

 さて次は、時間が過ぎましたが、プログラムは限度があり、私はもう一度話したくないと考えるので、だらだらと話すのが我慢できない方は、先にお帰りになっても結構です。

 これから話す項目は「イダッパッチャヤターを見ることはダンマを見ること」です。ブッダは「イダッパッチャヤターを見ることはダンマを見ること。ダンマが見える人は誰でも、その人は如行が見える。如行が見える人は誰でも、その人はダンマが見える。ダンマが見える人は誰でも、その人は縁起が見える」と言われました。

 この話は、プラサーリープッタを通して語られたのもあり、直接ブッダバーシタであるのもあり、内容は「ヨー パティッチャサムッパーダン パッサティ=縁起が見える人は誰でも、ソー ダンマン パッサティ=その人はダンマが見え、ヨー ダンマン パッサティ=ダンマが見える人は誰でも、ソーパティッチャサムッパーダン パッサティ=その人は縁起が見える」と言われています。

 短く要旨をまとめると、プラサーリープッタは「ダンマが見える人は誰でも、その人は縁起が見え、縁起が見える人は誰でも、その人はダンマが見えると、ブッダが言われた」と主張しています。これは、中部、ムーラパンナーサのマハーハッティパドーパマスッタ(象跡喩大経)を見てください。

 私がこの話をするのは、イダッパッチャヤターを見ることはブッダを見ることと同じだからです。次にブッダを見たくない清信士、清信女には、ブッダは涅槃して消滅すると話されず、「ブッダはみなさんと一緒にいる」と言われた遺言があります。

 そして他の経で、「ダンマが見える人は誰でも、その人は私が見え、私が見える人は誰でも、その人はダンマが見える」と言われているのもあります。しかしこの経は「ダンマが見える人は誰でも、その人は縁起が見える。縁起が見える人が誰でも、その人はダンマが見える」と言われているので、ダンマを見ることは縁起を見ること、縁起を見ることはイダッパッチャヤターを見ることという意味です。

 同じ言葉なので入れ替えて使えます。だからイダッパッチャヤターが見える人は誰でも、その人は消滅することを知らないブッダ、本当のブッダが見えます。

 在家もイダッパッチャヤターを見ることで、本当のブッダを見る機会があります。ダンマ、あるいはダンマを見ることには在家も出家もありません。このダンマには女も男も、在家も出家もありません。ダンマはいつでもダンマでなければなりません。

 この種のダンマが見える人は、同時に在家でも出家でもなく、女でも男でも何でもありません。だから見る努力をしてください。イダッパッチャヤターを見ることがこのようにします。これは、イダッパッチャヤターはすべての在家が知るべき、そして実践すべき物である理由を説明しています。

 次は細かいことで、ダンマーヌダンマパティパンノー=ダンマにふさわしいダンマの実践者という言葉は、ダンマにふさわしいダンマの実践者、つまりダンマーヌダンマパティパンノーになりたければ、縁起の状態の倦怠、欲情の弛緩を生じさせるために実践なさい。

 縁起には十一の状況があり、老死が一つの状況、生、有、取、欲望、受、触、六処、名形、識、行、そして無明、このような十一の状況のそれぞれを、縁起の状況と言います。倦怠のため、欲情の弛緩のため、消滅のために縁起のすべての状況を熟慮して見させ、そして倦怠し、欲情が緩み、これら縁起のすべての状況を消滅させるために実践します。

 ダンマーヌダンマパティパンノー ビックーティ アラン ヴァチャナーヤ=このようにダンマのためのダンマの実践者を、比丘と呼ぶに足ると言います。ダンマにふさわしいダンマの実践とは、イダッパッチャヤターのそれぞれの状況を、飽き飽きする物、欲情の弛緩にふさわしいものと見ます。

 ダンマにふさわしいダンマの実践者になりたい人は誰でも、苦労してどこかへ駆けて行く必要はありません。イダッパッチャヤター、特に縁起の話の十一の状況を特定して、それぞれを「あらまあ、これは厭き厭きする」と見ます。この話は相応部、第十六巻、二二頁で話されています。

 次に興味深いのは、パティッチャサムッパーダヤラは梵行の糸口と言います。どこから始めるのか分からないと言う人が非常に大勢います。そして実際目が回り、どこから始めるか分らないので、私に質問しに来ます。これは、初めがどこにあり、終わりがどこにあるか知らず、頭がどこにあるか、尻尾がどこにあるか知らないと分かります。

 質問する問題は、これらの人たちは梵行の頭と尾、初めと終わりがどこにあるか知らないことを表しています。これは「縁起は梵行の初め」というブッダバーシタに依存して教えにすると捉えてください。梵行の初めをボロマチャリヤと、短くこのように言い、アディブラフマチャリヤコー ダンマパリヤーヨー=この様式のダンマはアーディブラフマチャリヤ、つまり梵行の初めです。

 この話は前に「ある時ブッダが一人で滞在されていた時、何があったか知りませんが、私たちが静かに座っている時に歌を口ずさむように、『アヴィッジャーパッチャヤー サンカラー、サンカラーパッチャヤー ヴィンニャーナン』等々と言葉を発せられ、チャックンチャ パティチチャ ルーペー チャ ウッパッチャティ チャックヴィンニャーナンという言葉で始め、ティンニャン サンガティ パッソーと続いて十分な縁起になり、これが縁起の話です」と話したことがあります。

 ブッダが詠われた、何という言葉を使えばブッダを軽視することにならないか、つまり若者が一人で座って歌を口ずさむように、ブッダはそのようになさいましたが、その「歌」は縁起、あるいはイダッパッチャヤターです。

 一人の比丘が密かに耳にして、ブッダに見えないように背後で聞いていると、ブッダが一瞥して呼び寄せられ、ウッガンハーヒ トゥヴァン ビック イマン ダンマパリヤーヤン=比丘! あなたはこのダンマの言い回しを維持しなさい。パリヤープナーヒ トゥヴァン ビック イマン ダンマプリヤーヤン=比丘! あなたはこのダンマの言い回しを学びなさい。

 ダーレーヒ トゥヴァン ビック イマン ダンマパリヤーヤン=比丘! あなたはこのダンマの言い回しを維持し、記憶なさい。アッタ サンヒトーヤン ビック ダンマパリヤーヨー アーディブラフマチャリヤコー=比丘! この言い回しのダンマは、梵行の初めである利益がありますと言われました。

 「梵行の初め」という言葉を良くお聞きなさい。初めが正しくなければ正しくできません。植物の種を土に蒔かなければ芽が出ないように、私たちは正しく始めなければなりません。つまり縁起、あるいはイダッパッチャヤターを学んで、それはどのようかを知り、それから学習面でも実践面でも梵行を始めます。

 梵行の学習をパリヤッティブラフマチャリヤと言い、学習を始めるのはこの項目の実践です。実践面の梵行をパティバッティブラフマチャリヤと言い、実践を始めるのも、この項目の実践でなければならず、実践の結果を得ることであるパティヴェーダは、この話の実践の結果です。

 イダッパッチャヤターは、仏教の学習と実践をする梵行の初めと捉えてください。

 ニダーナサンユッタ 第十六巻九十頁で、梵行の初めをイダッパッチャヤターの話で説かれ、それはすべての法則の中の法則で、科学の法則も、何の法則もイダッパッチャヤターと、何度も繰り返し話ました。そしてこれは、私たちが教育し、学び、実践しなければならない初め、あるいは出発点になります。

 次の項目はアリヤニャーヤダンマという美しい名前のイダッパッチャヤター、それは聖なる弟子は五つの危害から脱さなければならず、そうすれば四つの預流支とアリヤニャーヤダンマがあると話された、あるいは別の言い方をすれば、イダッパッチャヤター、あるいはパティッチャサムッバーダ(縁起)はアリヤニャーヤダンマと教える経です。

 ニャーヤダンマは行く道具であるダンマ、あるいは生き物を連れて脱出させる物という意味で、アリヤは卓絶したという意味です。他の名前で呼ぶなら、他の言葉でなくこの名前で、すべての物を執着できない状態と知ります。そうすれば脱出でき、あるいは連れて行くことができます。アナータピンディカ長者に話された、前に話したのと同じ経です。

 イダッパッチャヤターは中道です。中道の話は仏教の心臓部と、心に銘じておいてください。仏教は中道で、左にも右にも傾かない、真ん中にある真ん中の道です。

 パーリ(ブッダの言葉)は、苦を生じさせる側の縁起はサムダヤヴァーラ(生起側)と呼ぶアヴィッジャーパッチャヤー サンカラーあ8無明が縁で行が)云々で、これは誤った道と話されています。

 ニローダヴァーラ(滅側)と呼ぶアヴァッジャーヤ テーヴァヴァ アセサヴィラーガニローダー サンカーラニロードー、サンカーラ ニローダー ヴィンニャーナニロードー云々は、正しい道です。

 聞いている人が理解し易く話せば、イダッパッチャヤターの苦を生じさせる部分は誤った道で、イダッパッチャヤターの苦を消滅させる部分は正しい道です。これは、イダッパッチャヤターは話す言葉でなく、ただの知識でなく実践でなければならないと、つまり体と言葉と心で本当に行動しなければならないと、その場でハッキリ見せるためです。滅の側をすれば正しい道になります。

 次にこの状態の正しい道を中道と言います。これは深遠な説明で、末端でなく、あちらの端、こちらの端でなく、有ると言わず、無いと言わず、自我と言わず、無我と言いません。

 この言葉を説明すると非常に時間が掛かるので、「自我と言うのは愚かだから、自分が有る方向に愚かだから。無我と言うのは、ちょっとうっかりすると虚無論になり、何も無い方向の愚かになる。イダッパッチャヤターなら真ん中で、自我と言わず、無我と言わず、無我と言うならイダッパッチャヤターの様式で話さなければならない」とまとめさせていただきます。こおのように憶えておいてください。

 だからイダッパッチャヤターは、無我が邪見でないよう助けてくれるとまとめることができます。イダッパッチャヤターがなければ、無我は誤った見解になるだけ、空も誤った見解になるだけです。しかし今イダッパッチャヤターが無我、あるいは空を管理し、これがあれば、これが縁で、これが生じるからと、意味を限定しています。

 良く言えば「自我、無我と話さないで、イダッパッチャヤターと話しなさい」と言います。自我と言うのはこちら側という仮定で、無我と言うのはあちら側という仮定で、仮定でなければイダッパッチャヤターと言わなければなりません。

 パーリのアナッタラッカナスッタ(無我相経)で「五蘊は無我」というのは仮定で話しています。仮定で話さなければ、イダッパッチャヤターと話さなければならないからです。ここでブッダは普通の言葉、庶民の言葉で話されたので、形は無我、受は無我、想は無我等々と話されました。ブッダは普通の言葉で話しましたが、意味はイダッパッチャヤター式の無我で、虚無論式、あるいは断見式の無我ではありません。

 次に厄介な問題がタイ、あるいは無我の話を誤解して邪見になり、空の話が全部邪見になる他の国にも生じます。

 イダッパッチャヤターは「有る」と言うのを認めず、「無い」と言うのも認めません。本当にイダッパッチャヤターが見えれば、その人は「有る」とも「無い」とも言いません。イダッパッチャヤターは縁次第で、これが縁の時は、これが生じます。それしかなく、生じて、そして一時だけなので、有ると言うべきではなく、無いと言うべきでもありません。

 だから何と言いましょう。智者の言葉で話せばイダッパッチャヤターと言います。庶民は聞いて意味が分からないので「有る」あるいは「無い」と、どちらかの言葉で話さなければなりません。そうすれば聞いて分かります。

 これです。イダッパッチャヤターを知ることは、知った途端に非常に卓絶した中道になり、心の中、体の中、言葉の中がこのように最高になります。正しい見解、正しい志向、正しい言葉等々の中道は、イダッパッチャヤターという一語に集約されます。

 イダッパッチャヤターを知れば見解も正しく、望みも正しく、話すことも正しく、仕事も正しく、生活も正しく、努力も正しく、サティも正しく、サマーディも正しく、全部正しくなるのはイダッパッチャヤターを見ることの威力によってです。

 これは最高レベル、つまりロークッタラ(出世間)レベルのアッタンギカマッガ(八正道)です。今稲光のような最高レベルの中道を引き寄せることができるイダッパッチャヤターを使うことに関心をお持ちなさい。これは相応部、第十六巻、五頁です。

 さて次は、自分についてもっと考えるよう誘う話です。

 ブッダは要旨として、人間の心がもつれた糸のように複雑なのは、縁起を知らないからと言われています。良く聞いてください。人の心がもつれた糸のように混乱している原因は一つだけ、縁起を知らないからです。縁起、あるいはイダッパッチャヤターを知れば、私たちの心はもつれた糸のように混乱しません。

 庶民は家にいて、毎日心が混乱し、そのようだと聞きます。あの話で混乱し、この話で混乱し、何でも混乱して解けないのはイダッパッチャヤターの法則を使うことを知らないからです。だから家にいる人たちの心は混乱しています。

 次にお寺へ来る人は心が混乱していて、何の問題を質問に来たのか分からず、すっかり混乱して首尾一貫していません。これは心がもつれた糸のようなので、問題を質問するにも混乱するばかりで、初めも中間も終わりもないと現われています。

 ね、庶民、あるいはお寺の人、子供、大人、女性、男性、若者、娘、年寄りの心は、イダッパッチャヤターを知らないので、もつれた糸のように混乱していると言います!

 これは第十六巻、一一一頁、相応部のドゥッカヴァッガ、ニダーナヴァッガでプラアーナンダに話されています。「エータッサ アーナンダ ダンマッサ アンニャーナー アナンボーダー アッパティヴェーダー=アーナンダ! ダンマつまり縁起を知らないから、洞察しないから、エーヴァマヤン パチャー=この動物はこのような状況がある。

 タンタークラチャーター=ムンチャ草やパッバチャ草のように絡み合い、アパーヤン ドゥッガティン ヴィニパーナン サンサーラン ナーティヴァッヴァティ=当然破滅、悪趣、苦に繋がれること、輪廻から脱せません」と言われています。

 話は、プラアーナンダがブッダに「彼らは縁起の話は難しい、深いと言いますが、私は浅いと感じます」と申し上げると、ブッダは「そのように言ってはいけません!」と言われました。

 彼らの言い回しはそのようで、ブッダはプラアーナンダがそのように言った気持ちを知っているようで「この話を知らないから、洞察しないから、動物の心は糸の結び目のように混乱しています」と言われました。つまり糸くずは黒子に生えた毛のように結び目が一杯で、そして絡み合って大きな塊になっています。

 結び目であるくず糸は、このように大々的に縺れて見え、何処を先に引っ張れば解けるか分からないと、誰でも思い浮かべられます。これが一つです。

 あるいは彼らがムンチャ草、パッバチャ草と呼ぶ草の一種は、良く知らないのでタイ語で何と訳す草か知りません。プロン草、兎葺草と訳すのが正しいかどうか知りませんが、小川の縁に生えている蔦の一種などが細い糸のような茎が複雑に絡み合い、どう引き抜いたら良いか分からないように複雑に絡み合っているのをイメージして見てください。

 そのように縺れているのは、これがあれば、これが縁で、これが生じるというイダッパッチャヤターを知らないからです。だからそのように明らかに見えないことが生じ、複雑に捩れます。動物の心が糸の結び目のようなのは、縁起が見えないからです。

 イダッパッチャヤターを良く知らないから、在家の心はどれほど混乱しているか、考えて見てください。台所に座って薪を怒鳴りつけることもあります。イダッパッチャヤターを知らないことで、心が混乱しているからです。

 次はダンマの話、宗教の話になりましたが、これも同じで、ダンマのどの分野も、世界の話、ダンマの話、低い話、遠い話、高い話、どの分野の話をしても混乱しないのは、イダッパッチャヤターである項目の明らかな知識で解くことができるからです。

 在家は心が混乱しないために、この項目の知識がなければなりません。在家は出家より簡単に心を混乱させる話があるので、在家は出家よりイダッパッチャヤターの話の知識がたくさんなければなりません。そうすれば正しいです。

 そして次に混乱の話、なぜそれは混乱するかを見ます。人間の心に関わる、心の苦に関わる在家の心の混乱は日常的にあり、数えきれません。それもイダッパッチャヤターの話で、混乱した状態は見えない種類のイダッパッチャヤターです。次に混乱しないのは、見分けるイダッパッチャヤターです。

 今私たちは、ルーパ(形)・ヴェーダナー(受)・サンニャー(想)・サンカーラ(行)・ヴィンニャーナ(識)の感覚があり、この五種類はナンディと呼ぶ満足する状態があります。ナンディは気に入ることで、形を気に入り、受を気に入り、想を気に入り、行を気に入り、識を気に入り、つまり身体、そして感覚、記憶、考え、心を明らかに知ることですが、気に入れば自分に満足します。

 自分自身に満足することは、それ以上の満足は無いように見えます。時には形に満足し、時には受に満足し、時には想に満足し、時には行に満足し、時には識に満足し、この満足をナンディと言います。混乱させるものをナンディと言い、恍惚を生じさせる愚かさ、迷い、恍惚があれば、それはウパダーナ(取)です。

 ナンディはウパダーナ(取)です。直接パーリを見たことがない人は信じません。私も初めはあまり信じませんでしたが、タドゥパーダーナンというブッダバーシタをたくさん見つけたので、「そうだ! ナンディがある所はどこでも、そこにウパダーナがある。愛したり好きになったりする中にも、何の中にウパダーナがあり、そのナンディがウパダーナだ」と。

 ウパダーナがあれば、言うまでもなく有があり、生があり、俺、俺の物があり、そして老死、悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みの問題があり、それで混乱しないでいられるか、考えて見てください。どの話も全部「生」に入れ、幾つの話も「生」という言葉に入れます。

 「生(ジャーティ)」は有(バヴァ)から生じ、有は取(ウパダーナ)から生じます。取はナンディで、形、受、想、行・識の満足から生じるナンディを、更に細かく分けると死ぬほど混乱します。五種類だけでも、それぞれに過去・未来・現在、上等・下等、前・後、中・外があり、すごく複雑です。ブッダは、取・有・生の発生はこのようにたくさんで、形、受、想、行、識の中に、このような状態で生じると言われています。

 次に、もう一つ我慢して聞いていただきたい最後の話は、なぜイダッパッチャヤターはいろんな問題を解決できるかという話です。なぜイダッパッチャヤター一語でどんな問題も解決できるのか、そのような問題を設けなければなりません。

 ブッダバーシタの回答は、イダッパッチャヤターの中には「食べる人はいません!」。良く聞いてください。イダッパッチャヤターの中に食べる人はなく、ぶつかる人もなく、味わう人もなく、欲しがる人もなく、執着する人もいません。イダッパッチャヤターの中に食べる人がいないとは、四食には最も重要な識触があり、それは新しい有を生じさせるための縁だけという意味です。

 すべての心の感覚は、取、ウパダーナを生じさせていっぱいにし、新しい有がある成り行きにし、どこにも「食べる人はいない」というのは、縁つまり識触などがあれば、新たな有が必ずあり、誰も食べ物を食べる人はなく、あるのは新しい有を生じさせる食べ物だけということです。これが一つ。食べ物なら、必ず食べる人がいると見ないでください。

 普通のカヴァリンカーラーハーラ(段食。ご飯)、口に放り込む一口の飯も食べる人はいません。沙弥僧の省察の文言には「ニッサットー ニッチーヴォー サンニョー ダートゥ マッタコー」とあり、この食べ物は自然のルーパダンマ(物質)であり、体を発展させるために通過し、心の面で「俺は食べ物を食べた」と感じるのは新しい有で、新しい有が生じて「俺が食べ物を食べた」になります。あるのはこのようなのだけです。

 本当の食べる人はいません。あるのは「これが縁でこれが生じる。これが縁でこれが生じる」だけ、本当に食べた人物の自分、このように夢中になって話すだけです。

 ぶつかる人はなく、その触にぶつかる人である人物、動物、自分、何もなく、あるのはサラーヤタナパッチャヤー バッソー=六処が縁で、つまり六外処と六内処が縁で触が生じるだけで、触はありますが、触れる人はなく、ぶつかる人もいません。イダッパッチャヤターが見えれば「触れる人はいない。あるのは六処が縁で生じる接触だけ」と見えます。

 受を味わう人もなく、あるのはバッサパッチャヤー ヴェーダナー=触が縁で受が生じるだけ、あるのは触が縁で生じる受だけで、その受を味わう人はいません。


 欲しがる人、欲望がある人はなく、あるのは欲望を生じさせる受だけで、ヴェーダナー パッチャヤータンハー=受が縁で欲望が生じます。

 あれこれ執着する人もなく、ウパダーナ(取)を作る人もなく、あるのはタンハーパッチャヤー ウパダーナン=欲望が縁で取が生じるだけです。すべては自然であり、イダッパッチャヤターの法則で経過し、動物はなく、人物もなく、自分もなく、生き物もなく、彼らが話すような自分はありません。

 モーリヤバッグナという頭の固い比丘がいて、この比丘は次々に自分を生じさせ、何としても何らかの自分があるような話をするよう、しつこくブッダに懇願しました。ブッダは「食べ物を食べる人はいない、あるのは新しい体、あるいは新しい有を作る食べ物だけ。触れる人、あるいは触を作る人はなく、あるのは六処が縁で触の状態が生じるだけ。受を味わう人はなく、あるのは触が縁で受が生じるだけ」と、このように話されています。

 私たちはそのように感じることができません。凡人はそのように感じません。心は「これは私、私は接触した、私は味わった、私は手に入れた、私は食べた、私は支配した、これは私」と考えます。しかしイダッパッチャヤターが介入すれば、私はないと見せます。

 私と言う何でも、それはただこれだけで、触はありますが触れる人はなく、受を味わうことはありますが受を味わう人はなく、欲しがることはありますが欲しがる人はなく、執着はありますが執着する人はいません。相応部、第十六巻十五頁、ニダーナヴァッガのブッダバーシタにはこのようにあります。

 このように感じることができればどれほど爽快か、在家のみなさん、考えて見てください。在家のみなさんはヴェーダナーの塊、食べ物の塊、何でもいろんな塊の中に沈んでいて、その人、この人、あの人、次々に何かの人で、心は縺れた糸のように混乱しています。しかしイダッパッチャヤターが介入すると、誰も「人」はなく、あるのはイダッパッチャヤターの状態、自然の法則で自然に経過する一つ一つの状態だけです。

 次に、心が混乱していない在家になりたければ、この「人」を取り出してしまい、その人、あの人を出してしまい、あるいは女・男、夫・妻、旦那・使用人、敗者・勝者を出してしまい、イダッパッチャヤターの状態だけを残します。ね、在家はこの項目の利益を得ます。

 イダッパッチャヤターを知らなければ、今ここで生き地獄に落ちます。これはサラーヤタナサンユッタ、第十八巻、一五八頁に、ブッダが奇妙な名前の地獄について話された話があります。アッタカターのアーチャンたちも理解できないで、その上「この地獄は地下にある」と説明したと話したいと思います。

 話した地獄を、ブッダはチャバッサーヤタニカナラカと呼ばれています。チャは六で、パッサーヤタニカは接触の経過、つまり触による連携で、六処つまり目・耳・鼻・舌・体・心に関わる地獄をアーヤタニカナラカと言います。

 六処を通じた触に関わる地獄は、目が形を見、耳が声を聞くと、どの種類も知らないこと、サティがないこと、何かであることがあり、だから無明触で触れ、無明触は無明のための受である受を生じさせなければならず、欲望が生じ、取が生じ、そしてその時異常に熱くなります。

 何らかの感情に執着があれば、俺、俺のものは非常に熱く、この地獄をアーヤタニカナラカ(処の地獄)、あるいはバッサーヤタニカナラカ(触処の地獄)、チャバッサーヤタニカナラカ(六触処の地獄)と言います。

 アッタカターチャン(アッタカターの著者)は、六処に何の地獄があるか説明しています。アッタカターチャンは、ブッダは最高に熱い銅鍋地獄か何かを意味されていたと推測していますが、このブッダバーシタを見ると、そのようではありません!

 反対にこの地獄は阿鼻地獄、銅鍋地獄より熱く、本当にあれば六処にあります! 地下にあると絵に描かれているのはそれほど熱くありません。だからこの地獄に落ちないでください。チャバッサーヤタニカナラカ(六触処の地獄)という名の地獄に落ちないでください。

 次に、チャバッサーヤタニカサヴァン(六触処の天国)という天国は、形・声・臭い・味・接触・感情が触れた時に熱くする俺、俺の物がありません。これは六段階ある空の上にある天国より良い天国です。この天国も同じチャバッサーヤタニカという名前で、六処にウパダーナ、執着を生じさせないよう六処を管理するサティがあるので最高に安楽です。

 これが四天王レベル、トウリ天レベル、ヤマ天レベル、兜率天レベルの天国より良い天国で、良く話されている天国は幾らも良い天国ではありません。

 六触処地獄という名の地獄に落ちないでください! 在家の全員が六触処天国という名の天国を得てください。つまり目・耳・鼻・舌・体・心が煩悩で焼かれないで、そしてこの世界で穏やかに静まって幸福でいられ、どんな利益も作れます。この種の天国は六処にあります。地獄も六処にあり、天国も六処にあり、そしてこれが本当の地獄、本当の極楽です。

 イダッパッチャヤターの知識でどんな地獄も塞ぐことができ、イダッパッチャヤターの知識でどの天国にも到達できます。

 在家のみなさん。それはどれほど関心をもつべきか、考えて見てください。在家のみなさんは目・耳・鼻・舌・体・心を通した感情が、日常的に数えられないほどたくさん身の周りを囲んでいるからです。つまり地獄天国の話、あるいは滅苦、滅煩悩の話でも何でも、イダッパッチャヤター次第ということです。

 この種の地獄天国はサラーヤタナサンユッタ、第十八巻にあり、一五八頁が地獄について、一五九頁が天国についてです。自分で探して、もっと詳しく読んでください。

 私は、理解を生じさせる道標として、自分で探して詳細にできるように、全部の話を述べているだけです。目的は「イダッパッチャヤターの話もロークッタラ(脱世間)の話も在家にとって必要」とというだけです。説明したような理由で全部を詳しく説明できないので、、概要で要旨だけ述べます。

 十種類のカーマボーギーなら、イダッパッチャヤターの道具に依存することで最高に善い部類であるべきです。喧嘩のイダッパッチャヤターも、喧嘩をしないイダッパッチャヤターで静めることができます。在家はこれらの話に賢くあるべきです。在家はパヴィヴェカピーティ、つまり加工しない、執着しない、心の面の穏やかな幸福について深遠に思うべきです。

 執着すればパヴィヴェカ(遠離)ではありません。パヴィヴェカは執着があってはいけません。執着すれば、それはヴィヴェカではありません。それはヴィヴェカになれません。アナータピンディカが泣いたのは、若い時にこの話を聞かず、今にも死ぬという時にこの話をしたからです。そして、これからはこの話を最高に普及させてくださいと祝福しました。

 在家は空の話を勉強すべきです。ブッダは「教えである空がなければ律がぼやけ、律がぼやければダンマがぼやけ、後退するばかりで、最後には最高にぼやける」と言われています。これは増支部、五部、第二二巻一二二頁にあります。

 空を取り出してしまえば芯材はなくなり、残るのは皮だけ、辺材だけです。空の話を知ればイダッパッチャヤターの話を知っているという意味です。聖なる弟子であることはイダッパッチャヤターに依ってあり、罪悪が終わり、危険が終わり、そして預流支の四つがあるようにします。仏教の心臓部は「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」で、それがすべてのダンマに執着させないイダッパッチャヤターです。

 ロークッタラレベルの最高のダンマは、私たちすべての人にブッダが下さった財産と捉えてください。凡人と聖なる弟子と違うのはこの財産で、凡人にはなく、聖なる弟子にはあり、段階的に多くなります。涅槃の話は在家が関心を持つべきです。涅槃の到達について質問した七人は全部在家だからです。仏教教団員なのにこの話に親しまないのは、どうにもなりません。

 要するにイダッパッチャヤターは在家が知らなければならず、学んだら実践しなければならない話です。最後には、すべての乳製品より素晴らしく秀逸なサッピマンダ(醍醐味)のようだとブッダが称賛された、十番目の善い種類の在家になります。

 何でもブッダの望みになるよう、ここへ集まって勉強するのも、目的にふさわしくイダッパッチャヤターの系統の進歩である結果がありますよう。

 これで、今日の講義を終わらせていただきます。僧のみなさんに、ダンマの実践を促すダンマの説明を読経していただき、いつものように今後の気力にしていただきます。


法話目次へ ホームページへ 次へ