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在家が学んで実践しなければならない
イダッパッチャヤター


1972年3月25日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。イダッパッチャヤターの講義の第十三回目は、いろんな様式の縁起であるイダッパッチャヤターと題してお話します。

 これは、イダッパッチャヤター(縁生。因果)は分解して縁起にすることができる言葉集という意味です。縁起は幾つもの形で述べることができ、いろんな形には、短く略して幾つかの状況しかない物もあり、いろんな状態があるのもあり、直接もあり、間接もあります。

 今回の講義は、イダッパッチャヤターの話の最終回なので、イダッパッチャヤターの話の総まとめと同じです。

 予定していた内容を変えなければなりません。前回、四聖諦の話について話しませんでした。前回その話をしなければならなかったので、話が全部終わりませんでした。四聖諦の話をまだしなかったので、今回一緒に話させていただきます。

 これは難しくありません。四聖諦の話は縁起の話の一つの形式なので、私が述べるつもりだった項目は全部述べたということです。今日は付録として、縁起の一つの形式である四聖諦の話をしなければなりません。

 次に誰が煩がるのも恐れず繰り返し話したいのは、イダッパッチャヤターの話の講義の目的を復習することと、今日は最終回なので、イダッパッチャヤターの話に精通していない仏教教団員は仏教教団員ではないと、もう一度復習させていただきます。

 しかし例外があり、多少イダッパッチャヤターの状態である真実を感じていますが、イダッパッチャヤターという名前を知らない仏教教団員、こういう人もいます。

 これは最初の講義で、「それはそのようだよ、息子! それでジタバタしてはいけないよ!」というお祖母さんたち、こういうのは当然少なからずイダッパッチャヤターの状態を表しています。話し手がイダッパッチャヤターという言葉を知らないだけです。

 イダッパッチャヤターはすべての自然の真実の話です。知れば、その人物にとって不思議な物の基盤は何もなく、その人を喜ばせたり悲しませたりすることはできません。しかしその人はイダッパッチャヤターの話のダンマを知っているので、いつも変わらぬ正常さがあります。

 どうかみなさん、自分はなぜ仏教教団員なのか、よく考えて見てください。良く見られるのは外皮だけの仏教教団員で、両親が仏教教団員なら、子供も仏教教団員と登録し、それはこのように外皮だけの仏教教団員なので、イダッパッチャヤターの話を知らないこともあります。それしか望まなければ、このような話を学ばなければならない苦労はありません。

 しかし本当の仏教教団員になるには、「知る人、目覚めた人、明るい人」の状態がある人物になるには、イダッパッチャヤターの話の知識がなければなりません。そうすれば本当の仏教教団員です。外皮だけでなくしてください。

 これが講義の目的で、仏教教団員は愚かでない智者という意味で、目覚めた人は眠っていないという意味で、そして明るい人は何も困苦がないという意味と言います。三つ全部は繋がっていて、「知る」あるいは「目覚める」、これが原因で、「明るい」は結果です。

 そして咲いている花のような状態の明るさで、萎れることを知りません。これが仏教教団員であることの結果です。眠らせないダンマを知っているから、あるいは感情で動揺しないので、明るさによる安定があります。

 みなさん、今、毎日どのようか、適度に知識、目覚め、明るさがあるか、自分自身を熟慮して見てください。まだ知らないことがあるなら、特に気持ちを正常にする話につて知らなければ、まだ「眠っている人、外皮だけの仏教教団員で、中身はない」と言います。急いて解決すべきです。

 あるいはまだ明るさが少なすぎる部分があれば、あるいは時間があれば、「智者・覚者・明るい人」の側と言えるまで、時には聖向聖果に到達し、預流、一来など呼ぶレベルになるまで、増やす解決をしなければなりません。

 これは隠された話、あるいは何か神聖な話ではありません。知識があり、目覚め、つまり開眼し、明るくなり、そのようと言えるレベルになった人の話であるだけす。しかし本当は普通の人も適度に知識と目覚めと明るさがあるべきです。それが一定レベルまで増えれば涅槃が確実な側、つまり聖人と規定します。

 滅苦の話は、この項目のダンマ以外のダンマでは解決できません。つまり十回以上に亘って「それは仏教の心臓部である教えで、知れば煩悩も生じない。その結果煩悩が生じる習性を克服し、二度と生じることはできない」と説明し、講義してきたイダッパッチャヤターです。

 更に期待しすぎる部分は、この「イダッパッチャヤター」という言葉を、みなさんが話す言い慣れた言葉にしてください。何か強い感情が心に触れた時、口から洩れることで観察できます。

 ある人たちは性に関わる下品な言葉を漏らし、これは非常に低い心を表しています。ある人たちはおだてに弱い人のように訳の分からない言葉を漏らし、これも非常に低いです。

 ある人たちは内心が臆病な人である感情を表す状態の言葉を漏らし、泣いてその人に助けられ、泣いてこの人に助けられ、あるいはその言葉で愚かさを表し、これを「彼らはダンマを知らないので、そのように口から漏れる」と言います。

 本物の仏教のダンマを知る人なら、イダッパッチャヤターと口から漏らします。それはパーリ語で、タイ語なら「それはそのようだ!」「それはそれ自身の成り行きになる」というような言葉を漏らします。

 イダッパッチャヤター(因果)という言葉は、最高に短く意味をまとめれば、「それはそのよう」です。つまりそれは、そのような因と縁で経過します。それでなぜ、あれこれ混乱させ、あるいは恐れなければならないでしょうか。イダッパッチャヤターの法則で経過するいろんなもので喜んだり悲しんだりしなければならないでしょうか。それがそのようである時、それは自然に経過し、真実で経過し、それの真実の法則で経過すると言う意味です。

 今日も入れて十三回の講義のどの日もイダッパッチャヤターという言葉を話し、何百回、あるいは千回にもなると信じます。だから聞き慣れたと理解します。

 辛抱させる物があったら「イダッパッチャヤター!」、迷って愛すよう誘惑するものがあったら「イダッパッチャヤター!」、怒りに迷わせたら「イダッパッチャヤター!」、嫌悪に迷わせたら「イダッパッチャヤター!」、恐ろしい時も「イダッパッチャヤター!」。

 鳥肌が立つほどの恐怖、あるいは小躍りするほどの喜び、あるいはそのようなことがないようにしてください。それはイダッパッチャヤターを知らない人だからです。

 イダッパッチャヤターの話を知れば正常になり、上がったり下がったりしません。可愛い物も愛さず、可愛くない物を嫌わず、腹立たしい物に怒らず、喜ばしいことも喜ばず、喜ばしくないことも喜ばず、怖しいことも恐れないという意味です。

 そしてどれも、私たちを普通で無くできるものはないと言うことができます。これが、心にイダッパッチャヤターの話の知識があることの結果です。何か口から漏れるほどなら、「イダッパッチャヤター」とこのように漏らします。

 後でこの話をする機会がないので、講義のテーマが別の話に変わるので、今日は特に強調させていただきます。どうぞこの決意を受取って、熟慮して見てください。そして現代の仏教教団員の状況を「進歩の時代」と呼ぶにふさわしい善い仏教教団員になるために、決意にふさわしくしてください。他の人たちは彼ら式に進歩します。

 私たちは仏教教団員式に進歩します。そして仏教教団員式に進歩すれば、あるのは正常な幸福にするだけです。彼らが世界を破滅させる方向に進歩しても、私たちは、穏やかな幸福で暮らせる方向に進歩をします。だから仏教教団員が、述べたような仏教教団員の範囲内にいればいつでも、他の人が私たちを苦にすることはできません。

 ここで最後に、いろんな問題はイダッパッチャヤターを知ることで解決できると言いたいと思います。使うお金がなくてもイダッパッチャヤターの話で解決しなければならず、病気や困苦でも何でも、イダッパッチャヤターの話で解決できます。あるいはお金が使い切れないほどたくさんあってもイダッパッチャヤターの話で解決でき、使うことを知り、正しい方法で無くします。

 それは、世界中の人が大々的に狂って世界を破滅させ、彼らのように考えず、彼らのようにしない私たちだけが残ると言うほどでも、私たちは生活していくことができます。心配ありません。イダッパッチャヤターの話を良く知ることで、私たちを恐れさせられる人は誰もなく、私たちを脅して怖がらせられる人もなく、騙して私たちを支配下にできる人もいません。

 死も私たちを恐怖に落とすことはできないからです。だからいつも変わらぬ正常があり、この法則で安定しています。仏教教団員の安全はイダッパッチャヤターと呼ぶもの一つに掛かっているので、仏教の心臓部である話と言います。

 これが、十二回、今日も合わせて十三回話して来たイダッパッチャヤターの話を、繰り返し復習し、繰り返し理解をお浚いさせていただくものです。

 次は予定しておいた項目、いろんな形のイダッパッチャヤターの話を集めた、いろんな形のイダッパッチャヤターについて話します。今まで何回も、何らかの形の縁起、あるいはイダッパッチャヤターについて述べましたが、一度に全部述べませんでした。今日はすべての回を全部対比して述べたいので、このような題にしました。

 次はイダッパッチャヤターの話、特に呼ぶための名前を復習します。前の講義を聞いたことがない人、始めて来た人は聞いて分からないので、この言葉の要旨を、もう一度まとめて述べさせていただきます。

 イダッパッチャヤターは、文字面としては「これがあれば、これが縁で、これが生じること」です。初めて聞いた人は、何も意味がない「中らずと雖も遠からじ」という類の言葉のようだと感じます。

 しかし意味が分かる人は「非常に深い意味があり、そしてそれは、すべての物はこのような自然の法則で経過し、こういうのは、それ自体の道理以外に何にも影響されず、このような自然の法則で経過する自然である状態の仏教の心臓部」と知っています。

 イダッパッチャヤターは何でも創ることができ、何でも支配でき、あるいは何でも破壊でき、あるいは私たちのすること次第で、苦にも幸福にもできる神様です。

 「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」ことは、最高に中立に話した言葉で、左にも右にも行かず、あるいは前にも後ろにも行かず、上にも下にも行かず、最高に真ん中にあり、これがあれば、これが縁で、これが当然生じると言います。それは良い方にも悪い方にもなります。イダッパッチャヤター自体は善くも悪くもないからです。

 何が善い何が悪いと言い、何かを気に入ると良いと言い、気に入らないと悪いと言うのは人間です。イダッパッチャヤターは善い悪いという感覚がなく、あるのは、これがあれば、これが縁で、因と縁にふさわしくこれが生じるだけで、善い・悪い、幸福あるいは苦と感じません。

 人間は自分の感覚を標準にし、こっち側を苦と呼び、そっち側を幸福と呼ぶと規定し、こっち側は善い、そっち側は悪いなどと対になるので、人間の知性で右や左に傾きます。

 人間はそのように話せる人を賢いと見なします。しかしまだイダッパッチャヤターを深く見る時のもう一種類の凶悪な愚かさで、それは自然の法則で経過する自然にすぎず、最高に真実です。

 次に人は自分が好きな時に善いと言い、自分が好きでない時は善くないと言います。そして自分の好みで善いとか悪いとか言うのはそれぞれ違い、愚かな人、ヤクザな人、盗人、愚か者たちが、自分の様式で善いと見なし、善いと言うのが一つです。

 学者である人は正しい知識、正しい理解があるので、また別の自分の様式で善いと言います。しかし双方ともまだ本当でなく、どちらもモーサダンマ、つまり気づかない嘘、あるいは虚言であるダンマがあると言います。本当は、それは「イダッパッチャヤター」にすぎないのに、まだ愚かで、善い悪い、徳罪、幸福苦と、自分の感覚で何かを規定します。

 イダッパッチャヤター、あるいは本当の自然はこのような、そのような価値である意味はありません。それに意味があるのは、それの因と縁で経過しなければならないだけで、義務はこれだけです。善い・悪い、幸福・苦、嬉しい・嬉しくないという部分は、それぞれの人間が自分で感じたように、言うようにさせておきます。

 だから私は、世界に善と悪が生まれ、そして愚かな人が善と言うのと、学者が善というのは一致しないと見ます。学者が善というのにはいろんなレベルがあり、初歩の学者の善を、完璧な学者は受け入れられません。これが、善趣を段階的に規定した原因で、欲界動物、形界動物、無形界動物、何でも段階的で、善の側ばかりです。

 しかし上の段階は下の段階を受け入れることはできません。前者はまだ幼児だの善だからです。これは「これが欲しい時は縁の法則で正しくこのようにしなければならず、結果は縁の法則で生じ、つまりこれがあれば、これが縁で、当然これが生じる」と教える義務だけがあるイダッパッチャヤターに関わりません。

 イダッパッチャヤターは至る所にあり、石にも土にもイダッパッチャヤターの法則があります。石や土もイダッパッチャヤターの法則で変化しなければならないからです。もっと上の木やクワズイモもイダッパッチャヤターの法則で変化します。もっと高等になって魚やカニや亀や、ネズミ、犬、猫、何でもイダッパッチャヤターの法則で経過しなければなりません。ここに座っている人も、イダッパッチャヤターの威力で来ました。

 ね、私は今、イダッパッチャヤターの話をしています。話し手も聞き手も、全員の話です。私たちはイダッパッチャヤターの知識を増やすべきで、イダッパッチャヤターとは何か、どこに、いつあるのかと問えば、それはすべてであり、至る所にあり、そしてどの時代と限定せず、例外なく永遠にあると答えます。つまりそれは至る所に、いつでも、いつの時代にもあるすべてです。

 良く観察して見ると、それは神様以上ではないかと、あるいはイダッパッチャヤターの法則以上の神様はどこにもいないと見えるので、これを仏教の神様と見なします。

 他の宗教の神様について彼らが話している意味は、世界を創った人、世界を支配している人、世界を破壊する人、何でも知っている人で、至る所にいて、どのようにでも言い方次第、それはイダッパッチャヤターという言葉の中に揃っています。だから私たちはこれを知っておくべきです。

 イダッパッチャヤター(縁生。因果)という言葉は、時々縁起と呼び換えて使うことができます。意味を比べて見ると、イダッパッチャヤターは「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という意味です。次に論理で言えば反対に言うことができ「これが無ければ、これが縁で、これは生じない」、あるいは「縁である物が何もなければ、何も生じない」という意味です。

 これが加工してある物を生じさせる状況を縁起と呼び、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」とあるイダッパッチャヤターの法則で経過する状況だけを表し、その状況を縁起と言います。その物質、あるいは本当のダンマはパティッチャサムッパンナダンマ(縁起のもの)と言います。

 つまりそれが正常にあり、何も加工する義務がなければ、これをパティッチャサムッパンナダンマと呼び、何かに依存して生じ、維持しているダンマ、現れているダンマです。

 次にそれがその後、他の物を加工する因になれば、それは新しい物を生じさせるイダッパッチャヤターの法則で経過する状況になります。この間の状況を縁起と言い、一つの物に依存して新しい物を生じさせることです。

 この二つの言葉は非常に近いので、良く理解する努力をしてください。パティッチャサムッパンナダンマ(縁起の物)という言葉は、それで経過する自然という意味で、パティッチャサムッパーダ(縁起)はそれで経過する状態で、「それで」とはイダッパッチャヤターの法則です。

 仏教の教えでは、すべての人に内部を見させたがり、外部を見させたがりません。苦や幸福の話、いろんな問題は人の中にあり、心の中に生じるからです。だから私たちは内部を見なければならず、外部を見る必要はありません。それが外部の因である物に依存していても、何かが生じれば、それは心の中に現われ、あるいは心にあり、苦は心にあり、困難は心にあるからです。

 だから大部分は心の中を見なければなりません。身体はどのようか、何があるか、そしてどのような法則で経過するか、適度に詳細に見なければなりません。どこから先に見ても良いです。

 体を見ると、その因と縁から生じます。述べておいた経の言葉で話せば、原因である父母に依存して、それからご飯とおかずで成長し、そしていつでもそのように、つまり常に変化します。

 私たちはすぐに「この身体は常に縁起の状態を表しているパティッチャサムッパンナダンマ(縁に依存して生じた物)である」と見ることができます。この身体は両親から生まれ、ご飯に依存し、それだけでもパティッチャサムッパンナダンマの一つであるご飯に関わっています。

 ご飯はどこから生じるでしょうか。米は田んぼで生じ、魚は水の中で生まれ、そしてイダッパッチャヤターの法則で、イダッパッチャヤターの状態で生まれて成長して人間の食べ物になり、人間の身体を変化させます。この変化はイダッパッチャヤターの法則で経過します。

 身体がイダッパッチャヤターの法則で正しく経過すれば、成り行くことができ、死なないという意味です。この子供は少しずつ大きくなり、死にません。生きて成長する身体、身体の中の抽象物である感覚も、生きている物は当然感覚があるので、一緒に成長します。

 生きている細胞は当然細胞の感覚があり、幾つもの細胞が集まると、感覚の形も大きく広くなり、これもイダッパッチャヤターの話、つまりイダッパッチャヤターの法則で加工した縁起です。

 それが加工する義務をしないで、他の物に加工されればパティッチャサムッパンナダンマと呼び、縁に依存して生じた物です。それが他の物を加工した途端に他の物を加工する原因になり、新しいパティッチャサムッパンナダンマの状態が生じます。自分の身体を見れば、それは常に変化していて、ほとんど一呼吸毎で、そして身体も心も成長があります。

 私たちが一人の人と呼ぶものは、イダッパッチャヤターの法則で変化する各種のパティッチャサムッパンナダンマ以外の何でもないと、基本としてこのように見ます。繊細で良く見えない物もあり、粗くて簡単に見える物もありますが、人は自分で見ないので、見えません。

 生老病死などの粗いデーヴァドゥータも見えません。次にもっと繊細な見えにくい話を見ます。繊細な話とは心の話で、目が形を見た時が一つ、あるいは耳が声を聞いた時が一つ等々、心の面の経過が生じ、心の行動と呼ぶこともできる動きが始まります。

 たとえば目が形を見ると、そのような、このような目の感覚が生じ、その後で心はその感覚を規定します。心に満足や不満足である感覚が生じると感情の触と呼び、こういうのは重要な一つの段階です。次に満足や不満足が生じると、満足、あるいは不満足によって何かをしようという考えが生まれます。

 ここでの心の行動は非常に危険で、幸福か苦、あるいは苦でも幸福でもなくなります。この部分で正しくするか、あるいは間違うからです。たとえば煩悩と一致する美しい形を見ると、煩悩の望みで何らかの行動をしようと考えなければならず、貪り、あるいは怒り、あるいは迷いに加工します。

 ここで、呼ぶために使う言葉はややこしく混乱します。たとえば愛が生じると煩悩、つまりローバ(貪り)、あるいはラーガ(貪欲)と呼ぶこともでき、カンマ、つまり意業と呼ぶこともできます。心が何らかのカンマ、つまり貪り、復讐心、願望、渇望、望みであるカンマを作ると、カンマと呼ぶことができます。

 これも、パーリ語の話す言葉をタイ語に訳すと常に混乱すると、観察するために話しておきます。言葉が同じでなく、一致する言葉、あるいはすぐに譬えられる言葉があまりないからです。たとえば何かに腹を立てると、こういうのは何と言うか、考えて見てください。

 煩悩と言っても正しいです。怒りは煩悩だからです。つまり心を憂鬱にします。怒りをカンマと、心の行動であるカンマ、意業と呼ぶこともでき、十善業の中の何らかの意業もカンマです。

 怒りはカンマでも良く、煩悩でも良く、どの角度、どの部分に注目するかで、煩悩なら心を憂鬱にする部分に注目し、カンマなら心の中の動きが生じることに注目し、心の面になります。カンマを作ればカンマの結果があり、自分自身を炙って熱くします。この種の意業がいつ生じても、その心を炙って熱くします。これもカンマの報い、あるいは結果です。

 煩悩は怒りで、カンマも怒りで、報いも怒りで、それは熱いからです。言葉はこのように曖昧になるので、実物を基準にしなければなりません。言葉を基準にしないで、何を意味するかハッキリさせて話さなければなりません。

 怒りが心を憂鬱にする物にすぎなければ、怒りを「煩悩」と呼びます。怒りが心の行動なら、「マノーカンマ=意業」と呼びます。怒りは疑うまでもなく、待つ必要もなく、怒った途端に熱くなり、それが「報い」です。

 このような成り行きは自然にそうなり、あるいは自然の法則、つまりイダッパッチャヤターの法則で経過します。私たちは怒った途端に憂鬱になり、そしてイダッパッチャヤターの法則で火のように熱くなります。

 イダッパッチャヤターの法則は至る所に介入してお節介をし、便通が悪いのもこれのせいで、便通が良いのもこれのせいです。イダッパッチャヤターの法則はお節介焼き、あるいはどこの神様か知りませんが、あらゆる場所のあらゆる場面に介入すると知っておいてくださいと、時間を節約して話すのをお許しください。

 イダッパッチャヤターと呼ぶものを、いつでもパティッチャサムッパンナダンマに動きがあるようにする法則として、このように知れば、パティッチャサムッパーダ(縁起)と呼ぶ物、つまり変化して行く状態を知ると言います。


 講義する大きな項目は、各種のパティッチャサムッパーダ、つまりいろんな形で見える縁起です。そして何種類話せるか、時間が許す限り話します。

 何生にも跨がる形の縁起

 いずれにしても縁起の話は二つの側があり、どこででも、タイ・スリランカ・ビルマなどの一般の人々が話している、一般の学校で教えているのが一つと、もう一度忠告したいと思います。

 人々が率直に話しているのは生を跨ぐ縁起で、原因をこの生で作り、そして結果が来世にあると信じている人のための縁起で、来世の結果がその次の生の結果を生む原因になり、このように時間が掛かるのもあります。アッタカター(注釈書)レベルの教典にたくさんありますが、ブッダバーシタ(仏説)ではあまり見ません。つまりブッダバーシタの縁起はここだけ、この生だけです。

 刹那的な縁起

 次にここだけ、今だけでも何百回か数えきれない縁起があります。一日では数えきれず、三つの生を待たなければならず、それで縁起の一回になるのと違います。そのような縁起は道徳を教え、人に罪を恐れさせ、この生で善行をするように教えるためにあり、死んだ後、来世で結果になるのは常見の状態があると見えます。

 つまり一人の人が死んで又生まれ、現世で作っておいたカンマの結果を受け取ることができると信じます。つまり俺です。こういうのは常見の状態で、正しい仏教ではありません。しかし道徳として教えることができ、罪やカンマを恐れさせ、善行に専念させ、善に依存することを望み、善で暮らし、善で危機を脱せば、それも善だけの成り行きになります。これが一つです。

 常見をなくすための縁起

 もう一つの縁起は自分がなく、分解して残るのは縁起の流れと一つ一つのパティッチャサムッパンナダンマだけで、十二の中のどこにも自分はないと教えることを目指します。「憶えていろ、来世で結果があるぞ」と言う類のカンマを作る人は誰もなく、こういうのは教えません。

 この段階になったら、「堪らない! もうダメ! そのように輪廻するのは堪らない。善くても、悪くてももう堪らない」と捉えさせます。天人に生まれても、梵天に生まれても堪らず、金持ちか何かに生まれる話ばかりしないで、それはどれも堪りません。だから人がいないよう、残っている人がいないよう教える縁起です。

 自分、あるいは俺は残ってなく、自分あるいは俺の話は残ってなく、心から人という感覚、あるいは善い自分・悪い自分という感覚をなくせば、違う目的になります。常見はなく、作って手に入れる自分がいる、あるいはそのようなものがいるという、引き留める考えはありません。

 前者は「私は善行をし、布施をしているので死んでも安心だ」と必ず話し、これが一つの部類です。もう一つの部類は自分がなく、あるのはイダッパッチャヤター・縁起の法則で変化する自然の流れだけという角度で見ます。

 私は善も悪も何も欲しくない。何でもできる自由な心が欲しい。しかし得た、あるいは失ったと捉えず、食べる物があれば食べ、命が正常であるために食べ、それらの物、これらの物の所有者、あるいは所有権者、あるいはそのような物である自分はいません。

 今日は前者の縁起の話はしません。彼らがいつでもどこででも話しているので、自分がない方向を説明するブッダの言葉に従った縁起の話だけをします。

 このように二種類の縁起がある時、私は、常見でも断見でもない、本当の正しい見解である、つまり自分がなく、自分と見なすべき物は何もなく、あるのはイダッパッチャヤターの法則で経過する自然だけの、後者の話をします。

 それはすべての物の何でも感じることができますが、俺、俺の物という感覚はありません。それがマハーパデーサ(四大法教)の教えで正しい仏教の教えです。後者の縁起だけを順に話します。

 パティッチャサムッパーダ(縁起)と呼ぶものは、これがあれば、これが縁で、これが生じるというイダッパッチャヤターの法則である物が生じ、ある物がある物を加工して生じさせ、一つの物が一つの物を加工して生じさせる状態を狙っています。

 この項目は、一部分だけ加工しても、一部分だけでも縁起と言うと理解してしまってください。その場合の結果に至るまでたくさんの部分を加工しても縁起と呼びます。

 だから私たちが良く知っているように、そして僧のみなさんが何十回も読経しているように、それは「無明が行を生じさせる」という一部分だけでも縁起で、「行は識を生じさせる」も縁起で、このように一部分、一つの情況も縁起と呼び、十一の状態が繋がっていれば、それも縁起で、完全型、あるいは流れ全体の違いだけです。

 縁起とは、ある物が縁で新しい物を生じさせる状況です。だからどの角度で、あるいはどれだけ見るかで、たくさんあります。線のように繋がって加工することは全部縁起で、自動車など命がない物は呼び方を変え、命のない物のためのイダッパッチャヤターと言います。しかしここでは命がある物について話します。それらは幸福と苦を知っているので、生き物だけについて話します。

 縁起と呼ぶ状況は、ある物がある物を生じさせる行動をする状態で、原因が結果を生じさせる状況を縁起と言います。同義語はたくさんあり、イダッパッチャヤター(縁生。因果)、ヤターパッチャヤパヴァッタナターなどです。そして話したことがあり、僧もいつも唱えているタタター、アヴィタタター、アンニャタターという名前を復習すべきです。

 タタターは「そのようであること」、そのようであるとは「自然の成り行きであること」です。アヴィタタターは、「そのようである状態と違わなければ正しい」という意味で、そのような時、それはそのようである状態と違いがありません。

 そしてアンニャタターは「他のようにはならないこと」で、これはよりハッキリ言葉を定義するためです。繋げて話さなければならない言葉として管理するために、曖昧にならないようにハッキリ定義するために、ブッダは繋がっている言葉で話されました。

 「タタター、アヴィタタター、アンニャタター、イダッパッチャヤター、パティッチャサムッパードー」は、イダッパッチャヤターが見えればパティッチャサムッパーダ(縁起)が見え、パティッチャサムッパーダが見えればタタターが見え、タタターが見えればアヴィタタターが見え、アヴィタタターが見えればイダッパッチャヤターが見え、全部をパティッチャサムッパーダと言うことができるほど繋がっている言葉です。

 しかし最高にふさわしいのは、全十三回の講義の要旨であるイダッパッチャヤターです。

 さて次はイダッパッチャヤターを暴れさせて見ます。イダッパッチャヤターはどこまで暴れられるでしょうか。本当は聞いているだけ、一般に知られているだけです。しかし知りません。「自分でなく、全部イダッパッチャヤター」と言うようにイダッパッチャヤターを基準に話せば、タタター、アヴィタタター、アンニャタターで、ダンマディッタターにまでなります。

 一日一回読経しても、ちょっと唱える間にこの言葉が十一回も出てきます。そしてダンマニヤーマターは当たり前の不変の法則です。三つのダンマが維持していることを「ダンマディッタター」と言い、当たり前の不動の法則を「ダンマニヤーマター」と言います。

 次に、広く宇宙を覆うように言えば「ダンマダートゥ」、ダンマダー‐トゥと言います。ダンマダートゥと呼ぶ物は、測れないほど大きな物です。イダッパッチャヤターも測れないほど大きいですが、聞いて見るとダンマダートゥほど大きくありません。

 ダンマダートゥはどこにあるか、どのくらい大きいか、ダンマダートゥでないものは何もないと、自分で考えて見てください。この世界、どこ世界、他の世界、あるいは世界の消滅、すべての世界の誕生、すべての世界の消滅、あるいは全ての世界に関わる行動を「ダンマダートゥ」と呼ぶことができます。

 それを「ダンマダートゥ」と呼べば、イダッパッチャヤターはこのように大暴れできます。しかしそれほどたくさん見て時間を無駄にする必要はありません。自分に必要なだけ、一人一人の人間の問題に関して、どれだけ知れば心の中の苦を排除できるかだけを見ます。

 ダートゥマッタカー ダートゥマッタコーという言葉があるパッチャヴェッカナ(省察)の文句は、「ダートゥにすぎない」という意味と思いなさい。イダッパッチャヤターは「自然のダートゥ」に過ぎない物を意味しますが、自然のダートゥでない物は何もありません。

 自然のダートゥ(界。元素)以外に何もないと見れば、自分があると見えず、俺はなく、俺の物もなく、自我もありません。だから私たちはダートゥマッタコー、ニッサットー、ニッチヴォー、スンニョーの話を沙弥として出家した時から学び、そして目を瞑って学んで、亀に「バカ野郎!」と罵られます。

 この亀は映画館(スアンモークの中の建物の愛称)の亀という意味で、それは愚かな人を「この俺がプラタムだ。お前がプラタムと言うのは、それは紙ぺらだ」と罵ります。亀はいつでもこのように罵らなければなりません。それはヤターパッチャヤン パヴァッタマーナン ダートゥマッタメヴェタン云々と今まで学んで、まだ「それは何か」を知らない多くの人たちを罵っているのと同じです。

 今日は、ダートゥマッタコーはイダッパッチャヤターと言ってしまわせてください。それはイダッパッチャヤターの法則で自然に加工し合うダートゥにすぎません。

 人が着る物、チーヴァラ(衣)や着る物はダートゥにすぎません。人がチーヴァラを着ているのはダートゥにすぎず、食べるご飯もダートゥにすぎず、使う物もダートゥにすぎず、人が家で寝たり座ったりするのも、住まいもダートゥにすぎず、病気を治す薬剤もダートゥにすぎません。

 これは、人間にとって重要な四つの縁である物はダートゥに過ぎないとハッキリ見せてしまうためです。そして人間もダートゥにすぎず、それがイダッパッチャヤターです。これらは当然イダッパッチャヤターの法則で経過しなければなりません。だから人が着たい、食べたい、座り、寝、病気を治し、あるいは身体の状態を維持し、病気が治るのはこの法則で、それがイダッパッチャヤターです。

 ニッサットー ニッチーヴォと言うのは、これらの物を動物、あるいは人物、あるいはチェッタブータ(生き物)、チーヴァ(生命)、自我と見ない状態でイダッパッチャヤターを説明しています。これらの物はイダッパッチャヤター、あるいは自然に過ぎず、イダッパッチャヤターの法則で経過しているダートゥだけと見させます。

 少し理解が難しいのは「スンニョー=空」という言葉です。

 この空という言葉を何も無いという意味にすれば、それはイダッパッチャヤターではないと反論する人がいるでしょう。イダッパッチャヤターという言葉は、これがあれば、これが縁で、これが生じるという意味だからです。今空で何も生じない、それでイダッパッチャヤターにはなれません。

 パッチャヴェッカナ(省察)の文句の中の空は人物がいないので、イダッパッチャヤターの流れにすぎないと見せることを目的とします。そしてイダッパッチャヤターは最高に空で、人物が空で、自我が空で、チェッタブータが空で、人々が自分と呼ぶ物は何でも空だからと答えさせていただきます。だから空、あるいはスンニャターは本当のイダッパッチャヤターで、自分という自我も、自分の物という我所有もありません。

 次にアニッチャター・ドゥッカター・アナッター、つまり無常・苦・無我と、私たちが最高にたくさん話す言葉はイダッパッチャヤターです。

 アニッチャン(無常)という言葉なら更にイダッパッチャヤターを意味し、休まず変化します。ドゥッカター(苦)はイダッパッチャヤターの法則による加工の威力で生じて苦になったばかりの物です。アナッター(無我)という状態は、文字が「自我がない」とハッキリ表していて、それはイダッパッチャヤターだけです。アナッター=アッターが無いと言うのは、イダッパッチャヤターだけだからです。

 イダッパッチャヤターという言葉はこのようにどの方向にも広く説明できる意味があり、それが生まれても生まれなくても、すべての物を意味します。これが無ければ、これが縁で、これは生じない。これはイダッパッチャヤターの消滅側です。

 だから苦が消滅すれば煩悩が滅して涅槃になると、こういうのは「これが無く、これが生じなければ、これは生じない。これが消滅すれば、これも消滅する」というイダッパッチャヤターの法則になり、このように対になっています。

 イダッパッチャヤターの生起側は「これがあれば、これが縁で、これが生じる。これが生じれば、これが生じる」とあります。次に消滅側は「これが消滅すれば、これが縁で、これが生じない。これが消滅すれば、これも生滅する」とあります。だから生起側と消滅側のどちらもイダッパッチャヤターと言うことができます。

 煩悩と苦が絶滅した状態が涅槃で、イダッパッチャヤターの法則で現れることができます。私たちはイダッパッチャヤターの法則で正しく実践しなければならず、そうすれば涅槃が現れます。涅槃を作ることはできなくても、イダッパッチャヤターの法則で実践することで涅槃を現わすことはできます。心が幸福を受け取って苦がなければ十分です。

 もう一度普通の言葉で言えば、すべての物は原因と縁で経過すると言います。「ヤターパッチャヤンパヴァッタマーナン」というパッチャヴェッカナ(省察)の最初の言葉は、ヤターパッチャッヤンと、パヴァッタマーナンで、パヴァッタナ=経過、ヤターパッチャヤン=縁でと言い、これをヤターパッチャヤンパヴァッタナンター=すべての物は原因と縁で経過すると言います。こういうのはちょっとハッキリ言いますが、イダッパッチャヤターです。

 次にイダッパッチャヤターという言葉の同義語、あるいは代わりに使える言葉についてお話します。意味を捉えれば、アニッチャン(、ドゥッカン、アナッターから、スンニャター、ニッサットー、ニッチヴォー、ダートゥマッタカー、ダンマダートゥ、ダンマニヤーマター、ダンマッティタター、アヴィタタター、アンニャタター、タタター、イダッパッチャヤター、ヤターパッチャヤパヴァッタナンター、何語でもあり、すべて「自分である物はなく、あるのは原因と縁で経過するものだけ」という意味です。

 こういうのを私は、イダッパッチャヤターが暴れると言います。「藻が三蔵を書く」「ミミズが人間に手紙を書く」と言うのは、どれも誰も見える人はいないように、例外なくすべての物に当たり、人は見方を知らないから見えないだけという意味です。藻がある沼のどこかに座ってイダッパッチャヤターを見る方が、簡単に見えます。

 次に種類別に分けます。イダッパッチャヤターと話すと一語でパティッチャダ(縁起)になり、ある物がある物を生じさせる一つ一つの情況を狙えば、先ほど「みなさん、見にお出でなさい。生が縁で老死が当然あります」と僧がブッダバーシタを唱えたように、一組だけ、一つの情況だけでイダッパッチャヤター、あるいは縁起と呼ぶことができます。

 次に「このようであることは、このようである状態と違わず、他のようでなく、このように縁で経過することを、彼はパティッチャサムッパーダと呼ぶ」と唱えています。ブッダはこのように言われました。

 今私はパティッチャサムッパーダ(縁起)、あるいはイダッパッチャヤターという言葉を適度に知ったので、いろんなタイプについて更にハッキリと述べることができます。そして予定しておいた項目である四聖諦の話を取り上げて「四聖諦の状態のイダッパッチャヤターは、特に周到に理解すべき」と話してしまいたいと思います。


四聖諦の形の縁起

 四聖諦の話は、苦・苦の原因・苦がないこと・そして苦がない状態に至らせる道で、これが四聖諦と誰でも良く知っています。それは四種類あり、これをアリヤサッチャ(聖諦)=苦の真実(苦諦)、ドゥッカサムダヤアリヤサッチャ(苦集諦)=苦を生じさせる原因である真実、ドッカニローダアリヤサッチャ(苦滅諦)=苦の消滅、ドゥッカニローダガーミニーパティパダー(苦滅道諦)=苦の消滅に至らしめる道である真実と言います。

 次に聖諦の第一項、あるいは本当の苦はイダッパッチャヤターと見ます。苦は自然に生じること、漠然と生じることはありません。神様が苦を生じさせたと仮定すれば、それはまだイダッパッチャヤターです。神様が苦を生じさせるのは、神様が苦を生じさせる原因で、それもイダッパッチャヤターです。苦は何もない所から生じることはできません。

 あるいは友達が作ってくれる、それもイダッパッチャヤターで、自動車が偶然衝突するのもイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤターの法則に関わらないで生じる苦はどこにもありません。それは非常に意味が広い言葉だからです。

 しかし聖諦の第一項、直接心の面の苦について話すと、誰の心にいつ生じる苦も、必ず問題があるとハッキリと見ることができます。誰のどの問題も、必ずその人は問題があるから苦になると、自分で知ってください。だから苦を生じさせる原因と呼ぶものは、一つの問題として生じます。

 聖諦の第二項、苦を生じさせる原因は縁起の生起側で、お寺にいる人は誰でも暗唱することができます。

 縁起の生起側は、苦を生じさせる側の縁起で、「無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲を生じさせ、欲が取を生じさせ、取が有を生じさせ、有が生を生じさせ、生があればすべての苦が生じる」と、唱えるための文句があります。

 これを生起側の縁起と言います。どの状況もイダッパッチャヤターと言い、そして一つの情況もイダッパッチャヤターと言います。どの状況も縁起と呼び、一つの情況も縁起と呼びます。これが四聖諦の二項目であるイダッパッチャヤター、あるいは縁起です。

 聖諦の三項はドゥッカニローダサッチャ(苦滅諦)と言い、苦の消滅の真実です。

 聖諦の第三項は滅側の縁起で、「無明が消滅するから行が消滅し、行が消滅するから識が消滅し、識が消滅するから明形が消滅し、明形が消滅するから六処が消滅し、六処が消滅するから触が消滅し、触が消滅するから受が消滅し、受が消滅するから欲が消滅し、欲が消滅するから取が消滅し、取が消滅するから有が消滅し、有が消滅するから生が消滅し、生が消滅するから苦は維持できない」と暗唱します。

 これをイダッパッチャヤターの滅側、あるいは縁起の滅側と言い、イダッパッチャヤターの意味でいっぱいです。

 聖諦の第四項はドゥッカニローダミニーパティパダーアリヤサッチャ(苦滅道諦)と言い、苦の消滅に至らせる実践項目です。ブッダはこれを八正道で説かれ、誰でも憶えられます。

 小さな子供も「正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しサマーディ」と暗唱できます。これは良く見なければなりません。それは実践の話だからです。ただ知るだけの話は重要でなく、実践の話が重要で、縁起である八正道(アリヤマッガ)の話を良く知らなければなりません。

 マッガと呼ぶものは道、歩く道という意味です。次に道は目的地に至る原因で、これだけで縁起になってしまい、この道は最終目的に至らせる原因と言います。一つの情況を話すだけで、マッガというのは縁起、あるいはイダッパッチャヤターです。

 次に八正道の最初の項目は正しい見解、正しい知識、見方、信仰、理解です。正しい見解と言うのは知識、信仰、見方、理解が正しいからです。正しい見解と呼ぶものは理由がなく生じません。正しい方法の行動をしなければならず、そうすれば正しい見解になります。だからこの部分も正しい見解を生じさせる何かがあるというイダッパッチャヤターであり、縁起です。

 まとめると、正しい見解が生じた途端に、正しい見解は正しい望みを生じさせる原因になり、正しい知識や理解があるので、正しく願い、望むと言います。試しに正しい知識がなければ誤った考えをし、誤った望み、誤った願いをします。今正しい考え、見解があれば、正しい望みと呼ぶ正しい願望、望みになります。二つのものの間だけでも、一つの情況のイダッパッチャヤター、あるいは縁起です。

 正しい見解、知識、理解、信仰があり、何でも正しければ話すことも正しくなり、することも正しくなり、正しい生業を探し、どれもイダッパッチャヤターで、そしてそれは正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディを知ります。ね、私は順に話します。正しい見解、知識、理解があれば、正しいサマーディがあり、正しいサマーディがあれば、初めに戻って正しい見解を促進して正しい見解の力が増します。

 このように初めに戻るのもイダッパッチャヤターです。努力やいろんなことが引き返して来て、正しい見解を応援して進歩させます。それは、前へ進むことができる分だけ、どの項目も引き返すことができるイダッパッチャヤターで、どの角度で見るか次第で、ほとんど切り離すことができないほど群れになるよう促すイダッパッチャヤターになります。

 これが四聖諦の話全部で、苦の話・原因の話・滅の話・道の話です。それには何回イダッパッチヤターがあるか、考えて見てください。分けられないほどたくさんあります。簡単に見えるのだけでも、実に宇宙全体を覆うと言います。

 聖諦の話は、ブッダは「聖諦は世界にあり、世界は苦」と言われたと言わせていただきます。つまり「世界も、世界を生じさせる原因も、世界の消滅も、世界の消滅に至る道も、まだ識と心がある背丈二メートルばかりの身体にある」と言われています。これを内部の世界と言い、一つの身体の中にあることができます。あるいは外部の世界、つまり物質的な世界、宇宙、外部の世界と呼ぶこともでき、どこの世界もイダッパッチャヤターばかりです。

 太陽が生まれたのもイダッパッチャヤターです。月が生まれ、すべての星が生まれ、今までなかった物が生まれたのも、イダッパッチャヤターの法則で生じました。ある時代までこの地球はなく、月、太陽もなく、すべての星がなかったのもイダッパッチャヤターの法則です。

 これらは非常に遠いので話す必要はありません。私たちに関係ありません。私たちに近いもの、つまりこの世界、関わっている世界にはルーパダンマ(物質)とナーマダンマ(抽象物)と呼ぶいろんな物があります。

 身体と生命がある物をルーパダンマ・ナーマダンマと呼びます。この世界の至る所にルーパダンマとナーマダンマがいっぱいあり、それが一つの段階です。それはこの世界のすべてのものは、ルーパダンマとナーマダンマで満ちているという基本です。そのようであるのは、過去のイダッパッチャヤターの法則がルーパダンマ・ナーマダンマを作って一杯にしたからです。

 すべてのルーパダンマ・ナーマダンマは触の感情です。ね、問題が生じる部分、つまりこの世界にあるすべての感情は触の感情で、目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わい、皮膚が接触し、心が思考するとこのような触が生じます。

 初めは外部の衝突にすぎないので「パティガサムバサ=硬い物の衝突だけの接触」と言い、例えば目が形に触れると眼識による眼触と言います。しかし眼触が生じると、生じた感覚である結果があり、心はその感覚を意識で受け取ります。

 この部分を「アディヴァチャナサムバッサ」、あるいは触と呼ぶべき本当の触と言います。これは問題になります。この部分を無明、あるいは愚かさが占領して私たちに愛させ、あるいは嫌わせ、あるいは怒らせ、あるいは恐れさせ、あるいは何かさせる機会があり、苦のための縁起の生起側が生まれます。

 ね、見てください! 私たちが自然に暮らしても、人間を苦にする自然の法則になります。この世界は触の感情である物がいっぱいで、触は執着の基盤である受を生じさせ、そして貪り・怒り・迷い、あるいは他の煩悩が生じて苦になります。これが縁起の生起側です。

 縁起の十一の情況は、すべて苦を生じさせる成り行きになります。これを、世界の苦はイダッパッチャヤターの法則で生じると言います。消滅は打ち返すイダッパッチャヤターで反対です。苦を生じさせる部分と、苦の消滅の部分は正反対です。

 次に必要に応じて増える人間に関わる部分を話すと、正しく行動しなければならないと八正道について話します。このように危険に満ちた世界で生きる私たちは、正しく行動しなければなりません。この正しい行動することをマッガ(道)と言います。

 正しい行動、あるいはマッガはイダッパッチャヤターの法則で経過し、自分勝手に言うことはできません。私が勝手に決めることはできず、ブッダも規定できません。ブッダもこれらを命令強制できません。

 ブッダは自然のこの真実、つまりイダッパッチャヤターの法則を知り、それから話してイダッパッチャヤターの話を教えただけです。ブッダがイダッパッチャヤターの法則を作り、イダッパッチャヤターの法則を支配できる訳ではありません。

 そうではありません。ブッダは「そのようにできない。自然にある自然を知った人で、自然を説明し、説き、公開し、明らかにし、伏せた物を裏返したようにし、閉じた物を開け、あるいはそのようにしただけ」と言われました。これは、イダッパッチャヤターは断固としているということです。マッガ、あるいは滅苦の道はイダッパッチャヤターの法則で経過します。

 もっと詳細に見ると、八正道は、心に無明を生じさせることができない八項目の正しさです。

 これは八正道、八項目の正しさ、つまり知識、見方、理解も正しく、望み、願いも正しく、話すことも正しく、することも正しく、生業も正しく、努力も正しく、サティも正しく、サマーディも正しければ、無明が生じられないようにすると、観察しなければならない一つの観察点です。

 Logic の言葉で言えば、「無明が生じられないことを生じさせる」と言わなければなりません。無明が生じないことを生じさせるのは縁起の滅側で、無明が生じられないから、あるいは消滅するから、次々に消滅していくので、苦は生じないのと同じです。

 狭くすれば実践している八項目のマッガは、いろんなヴィパッサナーニャーナ(観智)を段階的に生じさせ、最後にイダッパッチャヤターの法則で聖向聖果が生じます。

 ヴィパッサナーニャーナは、煩悩を突き抜けることができるニャーナ(智)という意味です。八正道! 八正道で暮らしなさい! それはイダッパッチャヤターの法則でヴィパッサナーニャーナを生じさせ、どんどん強くし、最後に煩悩を突き抜け、あるいは煩悩を焼き滅ぼし、あるいは煩悩を絶滅させます。

 これを八正道が縁起の滅側を生じさせ、無明が生じられないことを生じさせ、そして取がある行、識、名形が生じないので苦はないと言います。

 この部分に、これらのダンマの消滅をなぜ縁起と呼ぶのかと、疑念が生じる人がいるかも知れません。縁起という言葉は「依存し合って一斉に生じる」という意味だからです。次に滅側をなぜ縁起と呼ぶのかは、これは話す言葉の曖昧さです。どのように消滅を生じさせるのかは、縁起の生起側が縁起の滅側、あるいは消滅の情況を生じさせます。これから語句を観察して見ます。

 無明の消滅が行の消滅を生じさせ、行の消滅が識の消滅を生じさせ、識の消滅が名形の消滅を生じさせ、名形の消滅が六処の消滅を生じさせ等々、それが消滅を生じさせ、それからそれが消滅して行くことを、この言葉が依存し合って生じるという意味で縁起と呼びます。今消滅が生じました。

 イダッパッチャヤターは「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という意味です。だから無明の消滅が縁で行の消滅が生じる等々と話すことができます。これを縁起の滅側と言い、消滅である側です。

 八正道の全項目を実践すれば滅苦ができ、話は終わるでしょうか。見てください。縁起の法則では終わりを知りません。滅苦ができてもまだ終わりません。考えて見てください。滅苦ができたことが滅苦ができる知識を生じさせ、幸福と呼ぶものが生じ、それからダンマラーガ、ダンマナンディと呼ぶ物が生じます。

 滅苦ができた途端に、ダンマラーガ、つまりダンマへの愛や欲情が生じ、ダンマナンディ、このダンマの満足陶酔が生じ、まだ止まらず、それが加工して幸福な、満足な何かの感覚にし、その成行きになります。しかし苦が生じる縁起と呼びません。

 阿羅漢になってしまったと仮定すれば、それはまだ苦でない命があり、苦になる必要がなく暮らし、その方は何でもできると言います。阿羅漢は教えて歩くことも出来、何でもできます。その方が滅苦をしたことは、他人を援けに行かせる原因であり縁であるからです。あなたが阿羅漢でなければ、その段階の人助けはできません。

 見ると阿羅漢でも、イダッパッチャヤターがない物は何もないと見えます。それは煩悩に関わらない部分のイダッパッチャヤターに形を変えただけで、煩悩に関わる物しか話したことがないのでイダッパッチャヤターと見えない人もいます。

 イダッパッチャヤターは煩悩だけと関わらなければ正しくないと理解したことがある人は、正しくありません。この言葉は広く、それは因と縁が結果を生じさせると言うほど広いからです。煩悩に関わる話も、煩悩に関わらない話もイダッパッチャヤターと呼ぶことができます。これからこの話を熟慮します。

 だから、八正道の中の一つの道にもイダッパッチャヤターがいっぱいあり、正しい見解が生じるには複雑なイダッパッチャヤターがなければならず、聞かなければならず、自分を信じなければならず、智者の傍に座らなければならず、そして智者に質問し、それを熟考し、学んで実践していれば正しい見解だけが生じると、目前の問題を詳細に熟慮してください。

 正しい見解だけでもイダッパッチャヤターがなければならず、あるいは正しい見解が生じるまでに、それ自身の縁起がたくさんなければならないと見ることができます。

 八正道も、その部分のイダッパッチャヤターが何段階も複雑にあれば生じることができます。そして八つ揃って生じれば自分自身に専念するイダッパッチャヤターがあり、そして最高に重要な、つまり苦滅諦を生じさせ、滅苦ができるイダッパッチャヤターがあります。

 だから四聖諦の中には、イダッパッチャヤターの法則がいっぱいでない物は何もない、あるいはイダッパッチャヤターの法則で経過しない自然は何もなく、原因であり、結果であり、止まらないと見ることができます。滅苦をしたら、滅苦ができたように何かをしなければならないと言うほどです。

 これを「縁起の中の聖諦、あるいは聖諦の中の縁起は、最高に重要な教えがありますが、このように最高に縮小できる」と言います。ブッダが聖諦を話された時、時々「比丘のみなさん。みなさんに四聖諦の話をします」と話され、そして縁起の生起側と滅側の両方を話されました。


最高に知られている様式の縁起

 私たち仏教教団員が見慣れ、耳慣れている様式の縁起は、一般に僧が唱えている様式の縁起で、アヴィッジャーパッチャヤー サンカラー、サンカラーパッチャヤー ヴィンニャーナン、ヴィンニャーナパッチャヤー ナーマルーパン等々、最後はジャーティパッチャヤー ジャラーマラナン ソーカパリヴェードゥッカドーマナッスパーヤーサー サムバヴァンティ エーヴァラッサ ドゥッカッカンダッサ サムダヨー ホーティと、このような縁起です。これが最高に普及している、最高に良く知られている縁起です。

 そしてこの形の縁起しか知らない人もいます。他の様式の縁起を知らないのは、ほとんどこのようなのしか聞いたことがないからです。この様式のは前回の講義でたくさん説明したので、テキストを探して読むこともできます。

 縁起の十一の情況というのは、「無明が行を生じさせ」から、「生が老死を生じさせる」まで、一つの形の縁起に十一の情況があります。苦に向かえばアヌローマ(順行)と言い、苦から遡ればパティローマ(逆行)と言います。

 無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ云々と言えば、こういうのは順行と呼び、順に進行し、後戻りすれば苦は生から生じ、生は有から生じ、有は取から生じ、取は欲から生じ、欲は受から生じ云々と、行は無明から生じるまで続き、これを遡る、あるいは後戻りすると言い、逆行と言います。それも十一の状況です。これが順行も逆行もある生起側です。

 次に滅側、消滅側も順行式に話すのもあり、無明が消滅したから行が消滅し、行が消滅したから識が消滅し、識が消滅したから名形が消滅し、名形が消滅したから六処が消滅し、等々から苦が滅すまで話します。これを滅側の順行と言い、順に述べます。

 逆戻りして話せば、すべての苦が消滅するのは生が消滅するから、生が消滅するのは有が消滅するから、優雅消滅するのは取が消滅するから、取が消滅するのは欲が消滅するから、業が消滅するのは無明が消滅するからまで、こういうのを逆行と言います。

 苦が生じる側、あるいは生起側の縁起は順行と逆行があります。次に滅苦側、あるいは滅側と呼ぶ縁起も、順に話すのと逆に話す、二つの話し方があります。だから四つの流れがあり、苦が生じるのが二本、苦が滅すのが二本です。これが十一の情況がある種類の縁起です。


暗唱された縁起

 次にブッダが話された様式の、実践についてハッキリ説明された縁起があります。ブッダは無明から始めてなく、これも一つの様式です。一方みなさんが耳慣れている一般の様式は、喧しく暗唱している無明から始まる様式です。

 ブッダが話された、あるいは一人で鼻歌を口ずさまれるように独り言を言われたのは別の様式で、「目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合を触と呼び、触が縁で受があり、受が縁で欲があり云々」と始まり、この後は最後まで普通の様式と同じで、始まりの部分が違うだけです。

 目と形に依存して眼識が生じる、あるいは声と耳に依存して耳識が生じる、あるいは臭いと鼻に依存して鼻識が生じる、あるいは皮膚と接触に依存して身識が生じると言い、次にダンマーラマナ(心の中の概念)と心に依存して意識が生じると言います。

 つまり外処と内処が出合うと、その名前の識が生じ、三つを合わせると、外処と内処が触れ合うと触と呼び、触が触れると受があり、一般の縁起の様式の物があります。これが一つで、簡単に理解でき、無明から始まる様式とハッキリ理解できます。

 無明から始まるのは、良く説明しなければならず、そうすれば理解できます。そうでなければ理解できません。そしてほとんどは無明という言葉、行という言葉を理解できません。


受から始まる縁起

 もう一つの様式はこのように長く話されない縁起で、真ん中で切れ、始まりも受からです。受は日常的に生じているもので、誰でも知っていて、何が原因で生じると話す必要がないほどです。

 しかし満足が生じた時、あるいは満足した時、これを受と言い、受によって欲が生じ、欲によって取が生じ、取によって有が生じ、有によって生が生じ、次々に何かが生じて、最後は当たり前の法則で苦になると話します。

 このように述べるのは短くするため、学習者が観察し易いように時間を縮め、受の発生だけに注意させるためです。受が生じた途端に止めてしまい、あるいは流れを変えてしまい、賢さを生じさせるようになり、受で愚かに放置してはいけません。それは、受から欲・取が生じ、そして苦になります。

 もう少し説明すると、受が生じた時に常自覚があるだけで欲は生じず、受は欲・取に加工することなく消滅し、反対に智慧、あるいはこの問題にどのように対処するかという知識に加工します。

 これは縁起の六つ七つの情況だけで、あるいは半分で別の形に、生起側から滅側に変化すると言います。これも一つの様式で、王立学士院会員でない、非常に考えるのが好きでない一般人に話すなら、受の所を話されれば十分です。

 これは、この世界のいろんな物、人間が熱狂している物は何でも全部受にしかなく、目の受、耳の受、鼻の受、舌の受、皮膚の受、そして心の受だけだからです。この受は人間が欲しがる物を集約したもので、人間が努力して汗水流すのは、一つだけ、つまり受のためです。

 どの時代のどこの人間でも、受と呼ぶものは人間を奴隷にする物です。人間は受の奴隷であることに陥り、必死で学び、必死で掻き集める、こういうのは受だけのためです。

 だからこの受を「良く知っておかなければ欲が生じ、取が生じ、有が生じ、生が生じて苦になる」と教える教えにします。受が生じれば何時でも、快適な受でも快適でない受でも、受は、美しく呼べばイダッパッチャヤターと呼ぶ自然の法則で経過する物に過ぎません。

 美味しい受に惑溺しないで、美味しくない受に怒らないで、あるいは嫌わないでください。それを一定にし、常に正常に、つまり常に知性にしていてください。

 このような縁起を「半分の縁起」と呼びましょう。苦が生じるために受から始まるからです。滅苦なら受で消滅して滅苦と呼び、受を最初の項目にして話された縁起です。これが一つ。幾つ話したか、憶えておいてください。


途中で流れが変わる縁起

 次に話す様式は十一の情況がある様式、あるいは好んで暗唱なさった八つの情況がある長い形式でも、生起側の縁起を、すべての流れになって苦が生じるまで話されないで、反対にもう一つの様式の、順に生じて欲まで行くと反転する滅側を、欲が消滅して取が消滅し、取が消滅して有が消滅し等々、次々とこのようになり、すべての苦が消滅すると話されました。

 ね、よく聞いてください。
 無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲を生じさせ、(欲まで来ると、逆戻りして)欲が消滅することで取が当然消滅し、取が消滅するので有が消滅し、有が消滅するので生が消滅し、生が消滅するのですべての苦が消滅します。

 目を閉じてイメージを見ると、元が黒く先が白い紐のようで、真ん中で色が変わり、生起する部分は黒で始まって、欲まで来たら白に変わって欲が消滅し、取が消滅し、有が消滅し、生が消滅します。このような縁起がブッダバーシタにあり、十一の状況が揃っている縁起ですが、初めの部分は生起側で、後の部分は滅側です。


アビダンマピダカのような縁起

 私たちが聞いている縁起は一般の様式で、一般の規則で述べてあり、特別ではありません。しかしアビダンマピダカ(論蔵)のようなら、特にその話についてだけ述べています。

 つまりいつでもエカヴァチャナ、つまり一種類だけに限定して述べます。例えば彼らは、ただサラーヤタナ(六処)と言う代わりに、マナーヤタナ(意処)などと、何のアーヤタナか明言しなければなりません。

 私たちが唱えているような縁起の見本は、私も「無明はすべての行を生じさせる縁で、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ」と唱え、こういうのは何のアーヤタナが生じるか限定してなく、六つ全部のアーヤタナになります。

 論蔵ではそのように言わず、彼らはマナーヤタナ、あるいは何のアーヤタナとハッキリさせ、六処を意味するサラーヤタナと言いません。

 だからアビダンマ式の読経があり、アヴィッジャーパッチャヤーサンカーロー、サンカーラパッチャヤヴィンニャーナン、ヴィンニャーナパッチャヤーナーマルーパン、ナーマルーパパッチャヤーマナーヤタナンと、このようで、普通に唱えるのと違います。

 論蔵の中ではそれぞれの場合に分け、その場合だけ、この心のため、その心のために分けるからです。だからその名前のサンカーラ(行)、あるいはその名前のアーヤタナ(処)と明示しなければなりません。

 論蔵式の縁起と呼ぶものはより特定され、より明確です。私たちが一般に唱えているのは、すべての話のための一般の縁起です。論蔵の中で彼らは、不善な心だけの縁起を述べています。どの心か明示したいので、読経の言葉は場合によって違います。

 十一の状況がある縁起はこのようで、述べたようにいろんな種類があります。

 まだ我慢して聞けるなら、次に縁起はどのように始まるかについて話します。つまり縁起の状態を説明して、それがどのように始まるかについて詳しく説明します。


考えから始まる縁起

 ブッダはこの経を、考えの基盤である感情があり、そして考え終わる基盤である感情があり、そしてその中に埋もれる心があると、ハッキリ見えるよう分けて話されています。たとえば形・音・臭・味・接触、何でもそれは、その時目前に生じた感情で、心がその感情で考えれば、感情は考えが完了する基盤である感情になります。

 考え終わる基盤になれば、心はその感情の中に随眠があり、その感情の中で眠ります。私たちに一度ぶつかった感情は、目のもあり、耳のもあり、鼻のもあり、どれも考えさせる一つの感情になり、そしてその考えを完成させ、そして私たちの心を、考えている物の中で眠らせると言います。

 これをチェナン パカッパナ アヌサヤ アーラッマナン=考えの、考え終わることの、そしてその感情の中に眠ることの基盤である感情と言います。もう一度復習すると、

 考えさせる何かがあると、それは考えることの感情であり、私たちが考え終わるまで、どうすると言うまで考え、終わった話になると、これを「考え終わった感情」と言います。考え終わると心はその感情の中に埋もれ、その感情は心を埋める感情になります。

 誰でも考えて見てください。すべての人の日常生活の中の、どの話もこのようです。これを「ブッダは感情を三つの時点に分けて、縁起の始まるきっかけを更にハッキリ説明している」と言います。

 次にその感情です。考えの基盤、考え終わる基盤、そしてその中に埋もれて眠る基盤である感情は、識の基盤です。

 ここでの識は「行が縁で識が生じる」という縁起の識を意味します。例えて言えば、それは「パティサンディヴィンニャーナ(結成識)」で、間もなく「俺、俺の物」という取が生じます。これをパティサンディヴィンニャーナと言います。しかしすべては死ぬ時ではありません。今日話を始めた時から「今日は一日中、死後に関係なく、今ここでの話だけです」と言っています。

 考える感情があり、そして考え終わり、そしてその感情に埋もれる、その感情は識の基盤で、つまり俺、俺の物を生じさせる原因になる縁起の識です。アーラッマナメータン ホーティ ヴィンニャーナッサッテヤー=その感情は識の基盤になる、縁起の中の識です。

 次に、アーラッマネー サティ パテッター ヴィンニャーナッサ ホーティ、タスミン パティッテー ヴィンニャーネー ヴィルッハ=感情があれば識の基盤があり、基盤であり住処である識があれば成長します。

 ナーマルーパッサ アヴァッカヌティと呼ぶ物があれば、名形、あるいは体と心があります。しかし母の胎内に入るのではありません。ナーマルーパが降りると言うのは、母の胎内に生まれるのではなく、今そのように言う人の心に降ります。

 今まで名形、つまりこの心身は何もせず、どこに寝ているのか分からないようだったという意味です。

 言っている物が生じた途端に、つまり考えるため、考えが完成するため、心が埋もれるための感情を得た途端にパティサンディヴィンニャーナ(結成識)になり、この心と体を一瞬で変化させ、縁起の法則で加工する準備がある心と体になります。それから縁起の規則、あるいは様式で六処・触・受・欲・取・有・生・老死があります。つまり執着する取があります。

 これが始まる所だけを詳しく説明した縁起で入って来た感情があり、心が考え、心に考えが出来上がり、心がその中に埋もれ、そのようにされた感情は識の基盤になり、この識は基盤があるので成長し、名形、つまり心と体が降り、生まれて義務をすると言います。次はその後の縁起で、名形・処・触・受・欲・取等々から生、老死からすべての苦まで、この原因で生じます。

 これが述べたように十一の状況がある種類の縁起ですが、無明から始まると話さず、実際の、あるいは心に関わる実際の成り行きで話します。この場合無明について話す必要はありませんが、その中に、考えること、考えが出来上がり、心が愚かさによって埋もれる基盤がある所に無明があります。

 愚かさがなければ身を埋めることはありません。これも一つの形、最高に詳細で明らかに説明している一つの様式の縁起で、相応部教典の中にあります。

 ここで相応部の縁起の部は最高に薄幸で、開いて見る人があまりいません。ニダーナ相応と呼ぶ理解が難しい縁起の話しかないからです。このニダーナ相応は最高に薄幸で、触れる人があまりいません。

 訳しても逐語で概略を訳し、誰が理解しても勝手で、誰も理解しなくても責任をとりません。だから縁起の話も薄幸で、触れる人があまりないのであまり理解しません。だから仏教の心臓部を理解する仏教教団員ではありません。


四食で始まる縁起

 次に縁起のある様式は、アヴィッジャーパッチャヤ- サンカーラ、サンカラーパッチャヤー ヴィンニャーナンで始まらず、四食から始まっていると、もう一つの様式を話します。

 「食べ物」という言葉は良く理解している人もいますが、まだ理解していない人もいます。食べ物とは、口に放り込む物だけを意味しません。食べ物とは「結果をもたらすもの」という意味です。

 口に放り込む食べ物をカヴァリンカーラーハーラ(段触)と言い、身体である結果をもたらします。これが一つ目です。目・耳・鼻などの触をバッサーハーラ(触食)と言い、これが二つ目で、先ほど話したように問題を起こす種類の受である結果をもたらします。

 マノーサンチェッタナーハーラ(意志食)は、このように、そのように、あのように意図で考えることは三つ目の食べ物で、意図が食べ物です。意図があれば、必ず行動があるからです。

 その行動が食べ物の結果、つまり意図によってもたらされる物です。最後、あるいは四つ目はヴィンニャーナーハーラ(識食)で、目・耳・鼻・舌・体の識、特に心の意識で、意識は最高に食べ物です。

 パーリには「ヴィンニャーナーハーロー アーヤティン プナッバヴァービニッバッティヤー」とあり、ヴィンニャーナーハーロー=識食は、アーヤティン=次に、プナッバヴァービニッバッティヤー=新しい有を生じさせる成り行きになる。新しい有は、死んで棺に入って新しく生まれるのではありません。

 新しい有は、新しい「俺、俺の物」という考えで、古い俺、俺の問題が終わって、他の感情を手に入れ、識は新しい感情を得て、この識触が触・受・欲・取・有・生になるもう一つの新しい有を生じさせます。タスムン ブーテー サティ サラサヤナン=新しい有があれば、有になれば当然六処があります。

 話した識食があれば、それは新しい有を生じさせる成り行きになり、新しい有があれば、普通の様式の縁起の同じ意味で六処があり、六処が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲等々が生じるという意味です。

 しかしこの経でブッダが何を望まれたのか知りません。あるいは食べ物と呼ぶ物について良く観察項目を立てるよう望まれたのでしょうか。

 私たちがご飯を口に放り込むと、このカヴァリンカーラーハーラ(段食)は本当ですが、そのご飯の美味しさは識食を生じさせます。それは食べ物の美味しさの無明で、アディヴァチャナサムバッサ(同義語触)を生じさせます。この意触はここで意識に、あるいは識食になり、それから新しい俺を作ります。

 話は「心に縁起を生じさせないように注意することは、カヴァリンカーラーハーラにも触食にも、意識食にも識食にもなれる」と、簡単にするように見えるということです。

 しかしすべては識食に集約されること、あるいは識食が重要であることを忘れないでください。触が受を生じさせ、触食が受を生じさせると、意識の深い部分がその受に触れ、そして「アヴィッジャーサムバッサーヴェーダナー」になり、縁起が生じます。

 次は「食べ物である考え」、あるいはマノーサンチェタナーハーラ(意志食)と呼ぶもので、この考えを熟慮して見てください。この考えを行薀と言います。それにあれこれと関連する主犯である識に関わる話がなければ考えられません。

 考えが俺、俺の物の方へ傾くと言えば、意識のためのダンマーラマナ(心の感情)の部類になります。そのような考え、このような考えのすべてはダンマーラマナになり、それから意識で接触し、それから新しい次の世代の識食が生じます。

 あまり何かと関わらない部分も直接識と関わり、それも識食です。だから四食のどの食べ物も、当然縁起を生じさせる縁です。この様式の縁起は食べ物、つまり段食、識食等々から始まって、無明やサンカーラ(行)などに多く言及せず、食べ物の所だけにし、識が食べ物を得ると、その後食べ物になり、その中に無明が潜んでいます。

 すべては、苦を生じさせる縁起の話で、幾つ様式を話したか忘れました。自分で数えて、それは苦を生じさせる縁起とだけ記憶してください。


苦に関わらない縁起

 次は縁起、あるいはイダッパッチャヤターは「苦を生じさせることもでき、苦を生じさせないこと、つまり消滅できる一般の法則」と言っておいたように話を変えます。原因と縁に関わる法則なら全部イダッパッチャヤターと言います。

 善くなれるのもイダッパッチャヤターの法則で、悪くなるのもイダッパッチャヤターの法則で、苦が生じる、あるいは消滅するのもイダッパッチャヤターの法則によります。次に苦が生じる側は十分で、時間を超過したので滅苦の側を話します。


真実の縁起

 サッチャダンマ(真実)、あるいはサッチャと呼ぶ物の形で縁起を話されたブッダバーシタがあります。サッチャはサッチャダンマを意味しなければならず、サッチャダンマはサッチャで、それは滅苦をもたらします。滅苦のための縁起、あるいは滅苦のためのイダッパッチャヤターと話しても、あまり信じる人、あるいは聞く人はいません。

 彼らは、イダッパッチャヤターは苦を生じさせ、そして消滅させるためになると良く観察しないからです。ブッダは、イダッパッチャヤターの方法で、依存して生じるダンマの状態を説明されましたが、滅苦のためになるのもあります。

 サッチャの縁起は三つの部分に分けなければなりません。サッチャーヌラッカナー=サッチャを維持し、次はサッチャーヌボーダー=サッチャを知り、そしてサッチャーヌパッティ=サッチャに至ると言い、どれも憶えやすいように見えます。

 最初の段階はサッチャーヌラッカナー=サッチャを維持することです。私たちは一人の人であり、人であることを認めなければなりません。人であること、あるいは人であることの誇りを捨てないでください。人に生まれたら「人である」と自分を尊敬させます。

 これは「自分に信仰がなければならない。自分を尊敬しなければならない。私は人だから人のようにしなければならない」と自分を信じなければならない最初の項目です。これは誰にあり誰にないか、この気持ちがあるかどうか、考えて見てください。この感覚があれば動物のようなこと、人でなしのようなことはしません。ブッダはどの「手法」に来るか、聞いて見てください。

 最初の項目はサッチャーヌラッカナーと言い、サッチャを維持する、つまり自分を人であると尊敬します。だから何でも人のようにし、そうでなければ人ではありません。しかしいずれにしても、自慢をするほどすっ飛ばないでください。そのような意味ではありません。

 俺、俺の物、自慢、自分があるのはまた別で、行き過ぎです。私は人なので、何でも人のようにしなければならないというレベルにいるべきです。自分が人であることを確信し、自分が人であることを信仰するだけで十分です。これをサッチャーヌラッカナーと言い、良く維持しなければならず、大切にしなければならず、それを消失させてはいけません。

 しかし他人を見下さないでください。自分を褒めて他人を腐さないで、イダン サッチャン モーガマナヤン 何かこのように話さないでください。「私は正しい。他人は間違っている」と言うのは使い物になりません。

 そこまでにしてはいけませんが、実践する努力をし、維持し、護り、何かを熟させて、述べたサッチャーヌラッカナーにし、それを十分発展させ、そしてそれは進行してサッチャーヌボーダーに移動し、つまりサッチャを知ります。

 良く基礎を埋めた人間性がある人なら、執着するのはダンマだけで、ダンマに立った基礎があり、ヤクザか何かにしないので、誰のように見るか、あるいはどこの何を手本にするかを知る、という項目に自然になるという意味です。だからダンマを知る人、あるいはダンマの行動をする人、あるいはダンマがある人に見える人がいれば、その人を訪ねます。

 この項目はプラアッサジを思い出せます。プラアッサジがただ歩いていると、ウパティッサ(サーリプッタ)とコーリタ(モッガラーナ)が後をつけました。ウパティッサとコーリタは既にサッチャーヌラッカナーがあり、つまり自分を敬い、自分を信じていて、自分自身の規則があったので、アッサジを見ただけで、そのようであることが我慢できなくさせ、「プラアッサジは善いに違いない」とこのように知らせたので、後を付けました。

 次にサッチャを知るサッチャーヌボーダーはサッダー(信仰)から始まり、正しいダンマに立つことから生じた理由のあるサッダーが一つの段階、つまりサッチャーヌラッカナーと呼ぶ段階です。

 私たちはダンマの教えを掴んでいるので、誤りでない信仰がある人、あるいは誤る余地のない人を見ると、二番目の段階、サッチャーヌボーダー=サッチャを知る段階になり、ダッサナーヌッタリヤラブッガラ(見無上人物)を見ると信仰が生じ、善人、あるいは学者、あるいは何を見ても信仰が生じます。

 次は縁起の順に歩く話で、サッダーがあるからウパカンカマナ、つまり訪ねて行くことがあり、訪ねて行くことがあればパジルパーサナと呼ぶ近くに座ることがあり、近くに座ることがあればソターヴァダーナと言う耳を穿って聞くことがあり、耳を穿って聞くことがあればダンマッサヴァナという良くダンマを聞くことがあり、

ダンマッサヴァナがあればダンマダーラナ、つまりダンマを記憶することがあり、ダンマを記憶することがあればアットゥパパリッカー、つまりダンマの内容を熟考することがあり、ダンマの内容を熟考することがあれば、その人の検証に堪えるすべてのダンマと言う状態が生じます。これをダンマニッジャーナッカンティ(法知忍)と言います。

 ダンマニッジャーナッカンティはその人物の検証に堪えるダンマで、その人が注目すればするほどそのように見え、そのように真実に、そのように正しく見えます。本当のダンマはいつでも検証に堪え、そのダンマはその人物の検証に堪えるからです。

 ダンマニッジャーナッカンティはチャンダ、つまりそのダンマの満足を生じさせ、そのダンマの満足はウッサーハ、つまり本気を生じさせ、これは善い、正しいに違いないと信じるので真剣になり、本気になるのでトゥラナー、つまりバランスを取るというものが生じます。

 ここで考えて見ると、更にブッダを尊敬します。つまりブッダはいつでも「バランス」という言葉を差し挟みます。バランスがなければ、多すぎたり少なすぎたりすれば全部破滅します。

 だからウッサーハ(本気)があっても、まだバランスを取ることがあり、ウッサーハがあって最高の力を注いで、それでもまだトゥラナー、つまりバランスの良い知識を生じさせる「測ること」がなければなりません。トゥラナーがあれば努力という意味のパダーナがあります。

 見てください。「本気」を「努力」より先にしてしまえば非常に遠いです。ウッサーハ(本気)は正しくなければならず、トゥラナー(測る)で測ります。

 トゥラナーがあればパダーナ(努力)があり、パダーナがあれば疑うまでもなく八正道の法則、あるいはパダーナ、四つの努力で行きます。いろんな物は進歩する方向になります。ここでサッチャーヌボーダー、つまりサッチャを知るために知る、追って知る話は終わります。

 次は三番目の段階になり、サッチャーヌパッティと呼ぶのは、サッチャに至ります。つまりパダーナ(努力)の後ダンマセーヴァナー、ダンマと付き合うことが生じ、麻薬と付き合うように付き合います。

 ダンマと交際があると、これほどのダンマセーヴァナーはバーヴァナー、つまりダンマの発展があると言い、発展すればバフリカター、つまりそれを増やして熟練させることがあり、バフリカターカンマ、つまり多くする行動があります。

 これを、滅苦をするダンマを生じさせる縁起と言います。そしてすべての状態で休まず涵養して、時を待ちます。待つことができる人でなければなりません。それはすぐにできる訳ではないので、このように正しくしておき、そしてそれが聖向聖果涅槃である結果を出すまで待ちます。

 だからブッダはこの教えを普段の実践項目にして「私は人だ! 人より劣ってはいけない。そして正しい物だけを受け取り、間違っている物は受け取らない!」と自分を尊敬しなさいと言われました。

 ダッサナーヌッタリヤブッガラ(見無上人物)、あるいはそのようの人がいればついて行く努力をし、できそうな兆しがあると見れば信仰があり、訪ねて行くことがあり、近くに座ることがあり、耳を穿って聞くことがあり、聞くことがあり、記憶することがあり、内容を熟考することがあり、そのダンマを熟慮熟考に堪えるものにすることがあり、満足があり、本気があり、測ってバランスを取り、そして発展の段階の努力をし、それからそのダンマと、麻薬と付き合うように付き合えば、それは継続して増やすことで発展します。

 見てください。これは明らかに縁起です。一つずつ後押しして仏教のダンマの到達を生じさせ、低い段階でも高い段階でも、このような規則があるからです。


  貪・瞋・痴を捨てる縁起

 さて次は、貪・瞋・痴を捨てる縁起について話します。聞くと不思議で、不思議なプラタムで、つまり貪・瞋・痴を捨てる縁起です。

 この経は「アバッバスッタ」という美しい名前で、適さない人物の話である経です。不適でない人物は、聖向聖果に到達できる人です。経は適さない人物、つまり聖向聖果に到達できない人について述べていますが、対にして話しています。だから適さないのと適すのがあり、アバッバスッタという名前ですが、どちら側も十分明らかに理解するために両方を説明しています。

 不適にならないためには貪・瞋・痴を捨てなければならず、何としても貪・瞋・痴を捨てるには、サッカーヤディッティ(有身見・ヴィチキッチャー(疑)・シーラッバッタパラーマーサ(戒禁取)を捨てなければならない、という側から始めます。ここで貪・瞋・痴を完璧に捨てられれば阿羅漢です。

 貪・瞋・痴を捨てることで阿羅漢になるには、先ず有身見・疑法・戒禁取を棄てなければならないと、復習の説明を挟ませていただきます。有身見・疑法・戒禁取を捨てる話は預流である話で繰り返し話し、どのように捨てるか、詳しく話しました。

 有身見を捨てるとは、俺、俺の物という見方を捨て、疑法を捨てるとは、プラタムに対する躊躇いを捨て、戒禁取を捨てるとは、愚かに実践してきたものへの執着を捨てます。この三種類を捨てることができれば預流で、預流になれば阿羅漢になるのは確実です。だから貪・瞋・痴を捨てることは有身見・疑法・戒禁取を捨てることと、原則を述べることができます。

 次の項目は、有身見・疑法・戒禁取を捨てるには、アヨーニソーマナシカーラ(非如理作意)を捨て、クッマッガセーヴァナ(邪道親交)を捨て、チェタソーリーナッタ(心萎縮)を捨ててしまわなければなりません。どの段階も三つ、三つ、三つです。非如理作意とは雑な考えの人、雑な心のある人で、何を考えても雑で、何を感じても雑、あるいは性急にします。

 ほとんどの人はこのように性急で、如理作意がないので非如理作意と言い、これは捨てなければなりません。何をするにも大雑把ではいけません。そして邪道親交、つまり間違った道、あるいは間違った系統、間違った考えと付き合うことで、何でも間違ったことを好んではいけません。つまりそれに近づきません。そして心退縮、心の消沈を捨てなければなりません。

 今心の落胆を捨てることがあるか、考えて見てください。良く見ると負けっ子ばかりで、最初から降参しています。それが心の落胆、あるいはチェタソーリーナッタで、ダンマに到達することに本気ではありません。時には本気でも口だけ本気で、心は挫けていて、アディターナチッタ(決意した心)と言う努力をしない時もあります。

 「必ずできる! でなければ死を!」。こういうのはありません。そこまではありません。だから失望があり、いつでもだれて緩んでいます。今、話はこの三種類を捨てなければなりません。つまり先ず非如理作意・邪見親交・心萎縮を捨ててしまい、それから有身見・疑法・戒禁取を捨ててしまいます。私たちが預流になれないのは、非如理作意・邪道親交・心萎縮を捨てないからです。

 次にブッダは、どうすればこの三つを捨てられるか、更に下げられました。それは先ずムッタサッチャ(忘念)・アサマパッチャンニャ(不正知)・チェタソーヴィッケパ(散漫)の三種類を捨ててしまわなければなりません。

 ムッタサッチャは忘れっぽく迷いやすく、サティがぼんやりし、アサマパッチャンニャは常自覚がなく、チェタソーヴィッケパは散漫な心、散漫な心がある人です。そして常自覚がなく、いつでも忘れられたサティがあり、いつでも汚れた事実があり、事実の規則があります。何としてもこのような三つを捨てなければなりません。そうすればこの三つを捨てることができます。

 この三種類、つまりムッタサッチャ(サティがないこと)・アサマパチャンニャ(常自覚がないこと)・チェタソーヴィッケパ(散漫)を捨てることは、もっと低い物を捨てられることによってあり、どんどん簡単になります。

 つまりアリヤーナアダッサナカムマヤター(聖人を見るのが好きでないこと)、)・アリヤダンマアソートゥカンマヤター(聖人のダンマを聞くのが好きでないこと)・ウパーラマバーチッタター(煩悩の基盤である話だけを考え話すこと)、この三項を捨てることであり得ます。

 聖人を見たがらないのは、善人にとってはあまり問題でないように見えます。善人は聖人を見たがるからです。しかし大変ならしません。ね、このようになってしまいます。聖人に会いたがるのは、どんなに大変でも構わないというほど十分でも、本当でもありません。

 もう一つ、誰が聖人か知ることができない問題があります。現代的発展をしている国、今この世界に、聖人の話を聞きたがらないで、退屈と見る人がたくさんいます。ウパーラマバーチッタター(難結心)、心が煩悩の餌、美しい話、綺麗な話、楽しい話、美味しい話だけに陶酔しています。

 見てください! 映画館を見て、それからこの寺を見てください! これが現代の人間の心についての話です。

 次にこの三つを捨てることができるのは、次の三つを捨てることによってです。それはもっと下の、最高に低い三つの項目です。話した三つを捨てられるのは、ウッダッチャを捨てられ、アサンヴァラを捨てられ、ドゥッシーラヤンを捨てられることでできると話されています。

 ここでのウッダッチャは散漫、散漫な人で、普通の落ち着きのない人です。アサンヴァラは慎みがない、不注意、慎重にする決意がなく、軽率なままにしておくことで、ドゥッシーラヤンはドゥシーラ(悪戒)であること、破戒と知っていながらする、これをドゥシーラと言います。この三つ全部を捨てることができれば、先ほど述べた三つを捨てることができます。

 まだこの三つを捨てられなければ、もっと下のもの、つまりその原因を捨てる努力をしなければなりません。アサッダヤン=信仰がないこと、アヴァダンニャタン=智慧がないこと、コーサッチャン=怠惰を捨てると言われました。

 この三つのうちのサッダー(信仰)と呼ぶものは話すのが難しいです。その人が口でサッダーと言っても、ブッダ・プラタム・僧が本当に見えなければ、サッダーはまだサッダーではありません。ある程度ダンマが見えなければならず、そうすればブッダ・プラタム・僧にサッダーがあります。友達に合わせて、あるいは伝統儀式で信仰するようなのは、まだ信仰ではありません。

 それをサッダーにしなければなりません。つまり信念があると言う状態の善を見ることがあり、述べた状態のブッダ・プラタム(ブッダの教え)・僧の恩恵を見ます。アヴァダンニュタン(不寛仁)は、訓練できる智慧がある人で、訓練できるどの智慧も訓練しなければなりません。そうすれば智慧があると言います。コーサッチャンは怠惰で、これは説明する必要はありません。

 この三つを捨てることができず、何としても捨てるには更に下のもの、つまりアナーダリヤン=あまり支援をしないことを捨て、そしてドーヴァチャッサタン=人の言うことを聞かない頑固を捨て、そしてパーパミッタター=悪人と友達として付き合うことを捨てます。この三つは、何としても捨てなければなりません。そうすれば前の三つを捨てることができます。

 アナーダリヤンはあまり面倒を見ません。僧や沙弥の多くが破戒するのはこの項目です。面倒を見ないというのは、シッカーヴィナヤ(律の学習)の面倒を見ないからです。庶民も同じで、戒がないのはアナーダリヤン、つまり面倒を見ず、重要な話と捉えず、遊び半分の話と見るからです。

 いろんな教条戒律を重要と見なければ、ドゥシーラ(悪い戒)を避けることはできないという意味です。だから世話をし、少しの罪、小さな破戒も大きいと見なければなりません。「小さな火を見くびってはいけない。それは家を焼くこともできる」と年寄りが言うように、少量の罪も大きな危険と見る、そういうのを面倒を見ると言います。

 ドーヴァチャッサターは言うことを聞かないことで、誰も注意できず、注意したがる人がいません。そしてパーパミッタターはヤクザな人と友達になります。ヤクザな人と友達になると言うのは、いろんな意味があります。ヤクザな人、あるいは罪な人は、時にはヤクザな人、あるいは罪な人と知らないこともあるからです。

 愚かな人や何かは全員その部類にいます。悪人、罪な人と友達にならないと言うのは、その人に従わないという意味で、その人を援けるのは構いません。そういうのは付き合うと言いません。その人を救い、その人をの世話をして善くするのは構いません。付き合うと言うのは、彼に従うという意味です。

 まだこの三つが捨てられず、そして何としても捨てるには、更に低いのを捨てなければなりません。これが最後の組で、アヒラカ=厚顔無恥を捨て、アノッタッパ=怖れを知らない狂気を捨て、そしてパマーダ=つまり不注意を捨ててしまいます。

 これは非常に理解し易く、不注意を最後にします。恥じないことを捨ててしまい、恐れないことを捨てしまい、不注意を捨ててしまい、そうすれば順に高い物を捨てることができます。一組三つずつ、最後に貪り・怒り・迷いを捨てることができます。これが、貪り・怒り・迷いが消滅する側の縁起です。

 もう一度、項目だけを復習します。

 厚顔無恥を捨て、怖れを知らない狂気を捨て、不注意を捨ててしまいます。

 そうすればダンマヴィナヤの世話をしないことを捨て、言うことを聞かないことを捨て、悪人と友人になることを捨ててしまえます。

 そうすれば信仰がないことを捨て、智慧がないことを捨て、怠惰を捨ててしまえます。

 そうすれば、散漫を捨て、慎しみがないことを捨て、悪い戒を捨ててしまえます。

 そうすれば常にぼんやりしたサッチャがあることを捨て、無自覚を捨て、散漫を捨ててしまえます。

 そうすれば非如理作意を捨てることができ、邪道親交を捨てることができ、心萎縮を捨ててしまうことができます。

 そうすれば有身見・疑法・戒禁取を捨てることができ、有身見・疑法・戒禁取を捨てることができれば貪り・怒り・迷いを捨てることができ、貪・瞋・痴を捨てる縁起の話は終わります。

 このように原因と縁があるそれぞれの段階で捨てることを、縁起、あるいはイダッパッチャヤターの法則と呼ぶことができます。貪・瞋・痴を捨ててしまえるイダッパッチャヤターの法則は、このように善くします。


善と悪に関わる縁起

 さて次は、いずれにしても最後の講義なので終わらせなければなりません。もう少し眠気と脚の疲れを我慢しなければならないと言わなければなりません。苦を生じさせる側と、滅苦の側の縁起の話が終わり、そして煩悩を捨てる側の実践項目も終わったので、次にもう一つ、善と悪に関わる縁起について話してしまいたいと思います。

 この様式の縁起をブッダは「ウパニサダンマ」と呼ばれ、「依存し合うもの」という意味です。依存し合う物とは縁起です。呼び名は違っても内容は同じです。ウパニサとは、互いに依存し合うという意味で、単独で自由なダンマは何もなく、依存し合って因になり、縁にならなければなという意味です。

 これはあまり説明は要らず、名前を出すだけで理解できます。しかしそれは悪と苦である側に関わり、越えると善と滅苦、そしてロークッタラ(出世間)の側になるので面白いです。この話は相応部の経の中にあり、誰も開いて見る人がいないアーバッバ経典の中にあります。

 ブッダは「無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を庄司させ、名形が六処を生じさせ、六所が触を生じさせ、触が受を生じさせ、受が欲を生じさせ、欲が取を生じさせ、取が有を生じさせ、有が生を生じさせ、生が老死を生じさせ、つまり苦を生じさせる」と言う、良く知られている縁起の無明から始め、これは理解していてます。これは何度も聞いて良く知っています。

 次に苦はサッダー(信仰)を生じさせる原因と説かれています。この話はちょっと指摘させていただきます。苦は信仰を生じさせると以前に話したことがありますが、忘れている人もいます。無明は何を生じさせるかは、苦を生じさせます。苦があれば、それは信仰を生じさせる原因になります。

 考えて見てください! みなさんに苦がなければ、走ってブッダを訪ねて来ません。ね、身勝手でしょう? 苦があって行く所がないから、信仰とブッダに駆け寄って来ます。苦がなければブッダ・プラタム・僧に関心がありません。

 今苦が抑圧するから、方向転換してブッダ・プラタム・僧を訪ねて来、そしてブッダ・プラタム・僧に信仰があります。ね、ブッダは「苦はサッダーを生じさせる」と言われ、それは非常に正しいです。

 次に信仰はパモーダ(喜び)=安心を生じさせます。人がもし自分を信じなければ、自分を信頼しなければ幸福になれず、眠れません。信仰があるから確信し、満足し、気が楽になり、あるいは眠ることができます。信仰は喜びを生じさせます。

 次に喜びはピーティ=満足、行動して成功したダンマの、あるいは可能な限り生じさせた満足を生じさせます。

 次にピーティはパッサッディ(軽安)を生じさせる原因で、心が良く静まって順調になります。

 次にパッサッディは幸福を生じさせます。パッサッディがある分だけ幸福である感覚を生じさせます。この種の幸福は目・耳・鼻・舌・体・心で生じる幸福ではありません。この種の幸福は、内面の静かさから生じます。

 幸福はサマーディ(心の静かさ)を生じさせます。このように次第によじ登ってきた幸福だけがサマーディを生じさせます。身体面の幸福はサマーディを生じさせることができず、そして敵になります。

 サマーディはヤーターブータニャーナダッサナ(如実智見)=すべての物を真実のままに見ることを生じさせ、これは「サマーディがあれば心はダンマを真実のままに見る」と、ハッキリ見えます。

 如実智見はニッピダー(厭離)を生じさせます。ニッピダー(厭離)が生じるとすべてのサンカーラ(行)に倦怠し、五取蘊、あるいはすべての行に倦怠が生じ、かつて愛したこと、執着したこと、溺れたことは後退します。

 次にニッピダー(厭離)はヴィラーガ(離欲)を生じさせ、かつて日常的に取で執着したことがある物の執着が緩みます。

 次にヴィラーガ(離欲)はヴィムッティ(解脱)を生じさせます。この解脱は、本当は目的である結果ですが、その後次の物を生じさせます。

 次にヴィムッティはヴィムッティニャーナダッサナ(解脱智見)を生じさせ、つまり解脱すると、私は解脱したと知る知識が生じるので、解脱したと知ります。

 解脱し、解脱したと知るニャーナ(智)があること、それが涅槃で、話はそれで終わります。それは煩悩と苦の話の終わりだからです。

 これをウパニッサダンマ、つまり依存し合うダンマと言い、無明から涅槃まで依存し合って縁起の形で生じます。良く見ると、無明から涅槃まで次々に、途切れることなく依存し合って巨大な縁起になります。長くて大きな二十三の情況があり、無明から始まっても涅槃に至れます。

 話は流れの途中で変わり、一本の線の初めは黒く、先端は白です。黒が白に代わる点は苦にあり、歩いて、歩いて、最高に黒い苦になり、それから信仰に変わって白くなり、それから涅槃までどんどん白くなって、黒を脱し白を脱します。

 これが「一人の人である私たちは、無明から涅槃までこの縁起を通らなければならない」と、理解しておかなければならない大きな縁起です。他の人のためでなく、友人のためでなく、自分のためです! 無明から始めて涅槃まで、順々に通過しなければなりません。

 これが知らなければならない、理解しなければならない、実践できなければならない、危機を脱すことができ、仏教教団員であることができる、法則であるイダッパッチャヤターです。これが最高に広くて長くて大きな様式の縁起です。


喧嘩の縁起

 次に残るのは細々したもので、後ちょっと話せば終わります。それに最高に面白いです。この経を初めて見つけた時、この縁起、あるいはイダッパッチャヤターは何処にでもあるものだと可笑しく思いました。特にこの話は喧嘩に関わり、私たちが喧嘩や争いをし、刃物で殺し合う、そのような何かをするのはイダッパッチャヤターのこの項目だからです。

 この話は以前に一度、在家に関わるイダッパッチャヤターの話の時に話したことがあります。しかしそれはイダッパッチャヤターの一つなので、今回イダッパッチャヤターの全種類を揃えるために、この部類としてここに入れておきます。

 プラアーナンダに話された喧嘩の縁起の話は、ヴェーダナー(受)を出発点にして話されています。先ほど「この世界は宇宙全体、天人も人間も、どの世界でも、最高に凶悪なのは受」と話しました。誰でも、どの動物、どの天人も受の奴隷で、受の奴隷・受の下僕にを志願するからです。

 だから受と呼ぶものは、幸受を探求するために取引をする、すべての世界で重大です。子供たちが努力して勉強するのも幸受のため、年寄りが孫や子の面倒を見るのも老いたら養ってもらうため、幸受のためで、徳を積んで天国へ行くのも幸受のため、心がある生き物の話なら、何もかんでも幸受のためです。

 ブッダはこの幸受を、次のように喧嘩の原因として取り上げ、次のように話されました。

 ヴェーダナン パティッチャ タンハー=受に依存して欲がある。これは一つの縁起で、受があるから欲があります。

 タンハン パティッチャ パリイェーサナー=欲に依存して探求がある。勉強を探求し、お金を探求し、名誉名声を探求し、世界中を掌握する権力を探求します。これを探求と言い、欲があるから探求があると言います。

 パリイェーサナン パティッチャ ローボー=探求に依存して得ることがある。これは説明は要りません。探求があるから得ることがあります。

 ラーバン パティッチャ ヴィニッチャヨー=得ることに依存して愛すことがある。何かを手に入れて自分の物にすると、納得して愛さなければならず、何か少しでも愛さなければなりません。

 ヴィニッチャヤン パティッチャ チャッダラーゴー=納得して愛すことがあるからチャンダラーガがある。つまり満足によって欲情します。

 チャンダラーガ パティッチャ アッジョーサナン=満足することで欲情があるので、平伏して陶酔することがあり、心をその中に埋め込むことがあります。

 アッジョサーナン パティッチャ パリッガホー=平伏して陶酔することがあるので、心を奪われることがある。つまりそれに心を奪われ、それは私たちが心を奪われるのを酷くします。これは、霊に憑つかれたようなパリッガホーです。

 パリッガハン パティッチャ マッチャリヤン=心を奪われることがあるので、ケチがあります。誰かに、自分は何かを持っていると思われたくないほどケチで、他人に分けることは愚か、人に見られるのも嫌がります。マッチャリヤは、ここまで遠い意味があります。

 これほど愛している何か良い物があると、他人に一瞬でも見られたくなく、美しくて良い妻がいると、見るだけでも見せたくなく、あるいはそのような何かで、ヴェンナマッチャリヤ(称賛ケン=ケンはリッシン偏に賢)と言います。

 マッチャリヤン パティッチャ アーラッコー=惜しむことがあるから嫉妬、あるいは心配で妨害することがあります。嫉妬は心配で妨害し、嫉妬で邪魔し、アーラッコーと言いますが、次の説明で正しく分かる普通のアーラッカーではありません。

 アーラッカン パティッチャ アーラッカーディカラナン ダナダーダーナサッターダーナカラハヴィッガハヴィヴァーダトゥヴァン トゥヴァンペスンヤムサーヴァーダー=嫉妬があるから嫉妬による喧嘩、衝突がある。つまり刃のない武器を使い、刃のある武器を使い、乱闘、俺、貴様と言うこと、告げ口で仲間割れをさせ、嘘を言うなどがあります。

 アネーケー パーパカー アクサラー ダンマー サムヴァヴァンティ=だからすべての下品な不善のダンマの多くは、当然このような状態で生じる。

 ブッダはプラアーナンダに、受がなければこの喧嘩は生じるだろうかと言われ、プラアーナンダは生じないと答えなければなりませんでした。

 これは珍しい縁起で、喧嘩の縁起です。どうぞ憶えておいてください。そしてこれで全部ではありません。これは人間がこの世界で喧嘩をするのも、縁起と呼ぶ物の形になる受があるから、という見本として話しました。

 次は縁起の最後の話で、誤った見解は縁起の結果か、それとも縁起の原因かという項目です。喧嘩をする状態の縁起、あるいは普通に執着するのでも、無明から生じた誤った見解に原因がなければならないという意味です。無明が誤った見解を生じさせ、誤った見解が、苦になるあらゆる種類の縁起を生じさせます。

 正しい見解は、滅苦の縁起になります。縁起を二つの側、苦を生じさせるためと滅苦のために分ければ、誤った見解は苦を生じさせる側にあり、正しい見解は滅苦の側にあります。

 しかしもう一度深く話せば、それは全部、縁起を生じさせる誤った見解です。この経でブッダは最高に短く、そして最高に憶えやすく、「この世界のすべての物は三種類しかない。マノー、心があり、すべてのダンマ、つまりすべての物があり、そしてアヴィッジャーダートゥ(無明界)がある」とまとめて話されています。

 三つだけで十分で、心があり、すべての物があり、そしてアヴィッジャーダートゥ(無明界)、つまり愚かさのダートゥ、アヴィッジャーダートゥ、アヴィッジャーのダートゥがあります。三つの中のどれか一つでもなければ、いろんな話はありません。

 この三つを良く熟慮して見ると、心が一つ、そしてすべての物が一つ、そして愚かさのダートゥが一つ、このような三つがなければなりません。この世界にどれか一つがなければ、この世界にブッダが生まれる必要はなく、苦もなく、世界もありません。

 今心があり、そして心に触れるすべての物があり、そして愚かさのダートゥがあり、心の中で共演する準備が整い、三拍子揃えば問題が生じます。

 普通の人凡人が受け取らなければならない何らかの受を受け取ると、世界に心とすべての物があるので、何らかの物が心にぶつかった時触が生じ、受が生じると説明されました。受が生じた途端に、その凡人は無明触で受に触れます。無明のダートゥ、あるいは愚かさのダートゥはいつでもどこにでもあるからです。

 その人が受を受け取るだけで無明のダートゥが共演し、凡人はその受の中に無明触があります。例えば美味しい物があり、心で美味しいと感じると、無明触と呼ぶ無明の威力でし、そして俺、俺の物が即座に生じます。つまり心が受の味を感じた途端にその受に心を奪われるので、何等かの俺、俺のものが生じます。

 彼らは「俺、俺の物」をディッティ(見)の名前の細かな九種類に分け、その時代のインドで好んで話され、教えられ、教育したのは、

①アスミーティピ=私はいる。
②アヤハマスミーティピ=私はこのようだ。
③バヴィッサン イティピ=私は生きている。あるいはいる。
④ナ バヴィッサン イティピ=私はいない。あるいはいなくなる。
⑤ルーピー バヴィシサンティピ=私は形があり、形のある動物になる。
⑥アルーピー=バヴィンサンティピ=私は形がなくなる。
⑦サンジー バヴィッサンティピ=私は想があるようになる。
⑧アサンジー バヴィシサンティピ=私は想がないようになる。
⑨ネヴァサンニャーナーサンジー バヴィッサンティピ=私は想があるのでもなく、想がないのでもなくなる。この九種類の執着が心に生じると言います。

 俺がなりたい状態はこれだけです。 先ずは生きていて、それからこのようになり、このようになり、このようになると、つまり苦になり、取になり、そして有があり、生があれば苦になります。私は生きていると言うのは、あるいは私は生きる、私はそのようこのようでも、それは縁起の中の取です。

 この取は受、欲から生じ、受、欲があるのはこの世界に心があり、すべての物があり、愚かさのダートゥがあるからで、三つがあればアスミマーナの類の誤った見解に変化させ、あるいは呼び方次第で有身見でも「私はそのようだ、私はこのようだ、私はそのようだ」と理解させます。

 次にその人の目・耳・鼻・舌・体・心は目・耳・鼻・舌・体・心に執着を生じさせるためにあるようになり、そして当たり前の物である苦があります。

 いろんな様式、いろんな種類の縁起の話を、学習の中で比較する物にするために取り上げて述べました。それはこのようにあり、苦が生じる縁起、滅苦の縁起、苦を滅苦に変える縁起、喧嘩の縁起、誤った見解を生じさせるだけの縁起まで、これらは見本で、今日説明したように、見本として十分何種類もの様式の縁起と言います。そして四聖諦に関わるものも最高に詳しく説明しました。

 これが第十三回の講義の終わりである縁起と言うことです。次の講義は新しいシリーズで、ヴィサーカブーチャー期と言い、新しい話に変わります。次の話は「ブッダチャリヤー」、つまりいろんな状態のブッダについて説明し、十二週あります。

 今日は知るべき、そしてみんなで毎日話す口癖である言葉にするべきイダッパッチャヤターの話をまとめさせていただきました。もう十分と思います。どうか決意にふさわしくしてください。寝言もイダッパッチャヤターにすると言うのも、それも良いということです。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。


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