生き物のすべての分野の進化であるイダッパッチャヤター


1972年1月29日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第五回の講義は、みなさんご存知のように、生き物のすべての分野の進化であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)と題してお話します。みなさん、すべての角度のイダッパッチャヤターを知るために、今までの講義のすべてを復習してください。

 仏教の心臓部であるイダッパッチャヤターは誰も知っている人がなく、話されることがなく、見過ごされて三蔵の中に沈んでいて、仏教の継承者、宗教の学習者、実践者と自称する仏教教団員にも明らかにされていない、憐れな状態と見なすと話したことがあります。

 その後、世俗の知識であるイダッパッチャヤターについて、世界のすべての知識はイダッパッチャヤターと呼ぶ法則次第で、それ以上ではないと話しました。何でも一定でないのは、常に縁と因が背を押して変化させるので、順に新しい物が生じるからです。

 これを、それらの学術はすべて原因であり、結果であり、行動であり、そのようでなければならない法則であるイダッパッチャヤターに関わる講義ばかりと言います。

 これを「人間が、自分たちは常に新しい状態になるよう背を押されている、あるいは強制されていると気づかない裏に隠れている秘密の一つで、自然に経過するのもたくさんあり、人間が解決、調整し、休みなく変化させているのもたくさんある」と言います。これを良く観察して見てください。

 また自分である、あるいはすべての人の身体、あらゆる角度の血肉・命であるイダッパッチャヤターについて、「イダッパッチャヤターと呼ぶもの以外の何でもない」と話しました。この身体も心も、毎回生じる私、私の物という感覚も、この法則で経過するばかりです。あるいはこの物になってしまいます。日常のすべての行動、すべての挙措もこれに因り、これが強制するからです。

 私たちが変わった考えをするのもこれのせいなので、私は神様であるイダッパッチャヤターと呼びます。例えば生じさせる創造神、維持する支配神、消滅させ、時々破壊してしまう破壊神と呼ぶ物など、いろんな物を支配して成り行かせます。

 今日は生き物のすべての分野の進化であるイダッパッチャヤターについて話します。述べてきただけで、イダッパッチャヤターと呼ぶ物はすべての物であり、そうでないものは何もないと見ることができます。進化がある物はまだイダッパッチャヤターで、進化がない物もまだイダッパッチャヤターです。だからこの角度で熟慮してください。

 仏教の心臓部は、すべての物の法則であり、法則で行動することであり、あるいは法則で経過すること、そしてその行動の結果、あるいは反応であるイダッパッチャヤターです。この世界に、この三つ以上の物はないので、私たちはこれらの物を良く知るべきです。しかしまったく知りません。

 みなさんがここに座っていても「イダッパッチャヤター」と大声で叫んでいる自然の声が聞こえないように、この事実を感じなければまだそれを知らないと言います。だからここに座っている時は、なぜ「これがあれば、これが縁でこれが生じる」と叫んでいるイダッパッチャヤターの声が聞こえないのですかと、忠告あるいは主張させていただきます。

 みなさんは今自分の周りにあるすべての物を、「すべてはイダッパッチャヤターであり、今イダッパッチャヤターで経過している」と見なければならないという意味です。

 この法則に逆らえる物は何もないと言うように、ネジのように流れると言うように、この木は、この法則によって経過すると仮定します。私たちがこの木のこの事実を理解すれば、イダッパッチャヤターという叫びを聞いたのと同じで、それ以上の物はありません。

 つまり「これがあればこれが縁で、これが生じる」と言い、「これがあれば、これが縁で、私、この木が生じます」と言います。そしてそれだけでなく、まだこの木の中に休まず生じる物がありますが、繊細な物です。木はそのように言い、どの木の葉もそのように言うので、きっと「すべての木の葉はイダッパッチャヤターと叫んで教える」と、思った以上に大きな声になるでしょう。

 それ以上に、木の葉の中のすべての細胞は、どれくらいの量があるか分らないので、規定できませんが、それぞれの細胞が「イダッパッチャヤター」と叫びます。それはきっと非常に大きな音ですが、なぜ人は聾者で、これらの声が聞こえないのでしょう。本当の仏教教団員で無いこと、あるいは十分な仏教教団員でないことが聞こえなくさせます。

 だから愚かな話、あるいは叱られた話と残念がらないでください。聞こえないのですから、そのようであるべきです。ブッダの仏教の心臓部を広く知る智慧があれば、どこにいても「イダッパッチャヤター」と叫ぶ声が、天地に轟いているのが聞こえます。これは一本の木の話で、何本か分からない木でも同じです。

 次に石を見ると、石もそのようです。ここの石の微粒子は変化があります。これがあれば、これが縁で、これが生じるので、イダッパッチャヤターです。なぜこれら一つ一つの石がここにあるのかは、原因があり、縁があり、それがイダッパッチャヤターだからです。何十億年、あるいは何百億年も前に生まれ、割れて石になり、最後にここへ運ばれて来ました。

 これを「縁があるからここにある」と言います。だからそれはイダッパッチャヤターと言うことができます。これがあれば、これが縁で、私はここに座っている。これはすべての石の話ですが、仏教教団員には聞こえません。

 次に深く見れば、石の微粒子も全部そのようであり、分子に分けても、核に分けても、核の分子のどの部分もそれ自体の中にイダッパッチャヤターであることが十分あります。それは一つ一つの核の中で変化し回転しています。それがイダッパッチャヤターです。しかしそれは普通より繊細な声なので、更に聞こえません。

 これです。すべての物は常に「イダッパッチャヤター」と叫んでいると考えて見てください。木も石も、砂利も砂も、アリも虫も、いろんな動物も人も、私たちの体、身体の中にある血でも肉でも何でも、休まずイダッパッチャヤターであることを叫んで教えています。

 私たちは無常・苦・無我と聞いたことがあっても、それがイダッパッチャヤターと知りません。無常・苦・無我の状態であればあるほどイダッパッチャヤターで、人間はそれを熟慮することができます。

 これを、身体のどの部分もこのように叫んで教えていますが、私たちは仏教教団員であることが少なすぎるので、聾なので、イダッパッチャヤターの叫び声が聞こえないと言います。だから取り上げて話し、どちらの方向を見てもイダッパッチャヤターの景色、あるいは状態だけと見え、イダッパッチャヤターが叫ぶ声だけが聞こえると感じるまで、明らかに理解し、心にしみ込んでいる物にしなければなりません。

 そのようなら「その人はダンマが見え、煩悩が見え、苦が見え、そして煩悩と苦を防いで排除し、非常に少なくできるくらい、無常・苦・無我が見える仏教教団員」という意味です。

 前回、イダッパッチャヤターの知識のある人がいるという例を挙げ、その上その人が知っているのは本当のイダッパッチャヤターと言いました。「そうだ! これはこのようだ」と感じると、怒りが消え、愛が消え、憎しみが消え、恐怖が消える。これを「その人はイダッパッチャヤターが見える人と呼ぶ」と言います。しかしまだ全部でなく、いろんな複雑な問題を全部消滅させるには十分ではありません。

 イダッパッチャヤターを普通の人の言葉で言えば「自然にそのようになる!」で、つまりこれがあれば、これが縁で、これは当然生じる。これがそのようであることです。簡単に「そのようになる」「そのようになる」と言い、本当にイダッパッチャヤターが見える人は、どの方向を見ても「そのようになる」「そのようになる」と感じます。

 何を聞いても、聞こえても、嗅いでも、触れても、そのようと感じ、そして愚かでなく、迷わず、珍しい物と感じません。今人は愚かで、珍しい物を見ると恐れたり愛したりして買いたくなるので、お金が足りません。愚かだから珍しい物と見て「それはそのよう」と見ないからです。

 最初に月の世界へ行った時、眠い目を擦ってテレビ画面に釘付けになり、「この話はそのよう」と感じた人は一人もなく、何度も何度も見ると、この話はそのようになると見ることができ、それで珍しくなく、奇妙でなく、不思議でなくなったのと同じです。

 だから何でもイダッパッチャヤターと感じない時は、怪しみ、疑い、興味津々で興奮します。あるいはそれに関して心配し、貪り・怒り・迷いなどの煩悩を生じさせ、そして始終そのことを憂慮して眠れないのは、そのようになると思えないからです。それはそのようと見れば眠ることができ、手に入れても失っても眠れます。何百万手に入れても眠れ、何百万損しても眠れます。それはそのようになるからです。

 今は何バーツか損しただけであまり眠れません。何バーツか手に入れただけで小躍りして喜びます。これを「イダッパッチャヤターを知ない愚かな人は、安定していることができない」と言います。しかし本当は、安定していられるのは阿羅漢だけです。

 彼らは安定の人を「ターディー」と呼びます。安定の人という意味で、安定でいられるのは阿羅漢だけです。預流、一来、不還は多少動揺があります。イダッパッチャヤターと見るのがまだ最高度でなく、仏教の心臓部が、まだその方に最高に明らかに現れていないからです。

 凡人なら凡人であるほど多く動揺し、聖人は少なくなり、阿羅漢になればいろんな物に動揺しなくなります。イダッパッチャヤターを、「タタター」と呼ぶ「それはそのようであること」を見るからです。

 だからみなさん、これらの言葉を良く憶えておいてください。それはサティがあり、簡単に、間に合うように「タタター。そのようであること」を思い出す援けになります。大乗ではユーシー(如真)と言い、そのようという意味で、タタターに相当します。

 ユーライ(如来)であるタターガタ、あるいはそのようである人物という言葉と対です。如真が自然、あるいはそのようであるいろんな物という意味なら、私がタタターと言う物、つまりそのようであることを見て知って理解すれば、何も問題はありません。

 最後に生もそのようになり、病もそのようになり、死もそのようになり、恐れを感じず、心配もしません。治療する機会があれば、それはそのようになるという法則で治療するので、解決でき、因縁の法則で正しく解決すれば、治癒します。

 ね、病気が快癒するのもイダッパッチャヤターの法則です。病気もどちらかの側のイダッパッチャヤターの法則です。死ななければならないと言って笑うことができるのは、それは自然にそのようになるからです。
   それはそのようになり、そのようになり、因と縁でそのようになるので、それはそのようになります。これがあれば、これが縁で、これが生じるなら、これがあれば、これが病気の縁で、病気が生じるのは何も不思議ではありません。快癒する縁があれば快癒し、病気は治ります。それが最高になれば死の縁に関わり、死の縁がたくさんあれば、私たちが死と呼ぶ崩壊をしなければなりません。

 次に自分の心に触れる結果だけを見るので、生まれることと見たり、老いと見たり、死と見たりしますが、本当はどれもイダッパッチャヤターで、これがあれば、これが縁で、これが生じます。

 このようにイダッパッチャヤターを見れば、生も老いも死も同じに見えます。得も損も、何でも全部同じ、イダッパッチャヤターに見えます。そして喜ぶ必要も、悲しむ必要も、愛す必要も、憎む必要も、恐れる必要もありません。

 これが教えの言葉の角度の仏教の心臓部で、このように教え、実践の角度ではこのようになるために実践し、実践の結果の角度ではこのような結果、述べたような安定を受け取ります。これは普通以上の安定で、イダッパッチャヤターを見ることで心はまったく変化しません。

 石はここで静かにしていますが、イダッパッチャヤターが見える心ほど安定していません。人が石を見ると、石は動じないようにジッとしていると見えますが、本当に、そして最高にイダッパッチャヤターが見える心、動揺も変化もしない心ほど静かではありません。この石は静かに見えても、まだその中に変化が潜んでいます。

 しかし最高にイダッパッチャヤターを見る心があれば、ブッダがアングリマーラに「私は止まった。お前は止まっていない」と言われたように、歩いていても走っていても、静かにいる人と言います。ね、ブッダは止まっています。歩いていても止まっていると言います。

 止まるというのは、興味を持たなければならない物、執着しなければならない物が何もないから、つまり心が何物にも変化せず、心はすべての物に同じように静かだからです。

 これを「心は微動が止まり、動揺が止まり、渇望が止まり、変化が止まり、何でも全部止まる」と言います。最高のダンマ語である深遠な意味の「止まる」という言葉を使い、歩いている最中でも止まり、静かにしている石より静かな種類の止まることです。

 私は「最高に知り最高に実践すれば結果は安定させる」と、イダッパッチャヤターの結果を説明します。一定になれば、それは幸福でなく、苦でなく、何でも全部なく、変化しません。そしてまだたくさんの呼び名があります。これを「イダッパッチャヤターを見る」と言います。すべての物は因と縁で経過し、それが私たちを無関心にさせると見ます。

 だから動じない人、つまり苦でない人になる努力をしてください。身体の部分はしなければならない話に従ってしますが、心は何が起ころうと無関心でいられます。笑うなら「それは本当になった。私が想像していたとおり、信じていたとおりになった」と笑うだけです。このように笑うのもまだ静かにしていると言います。

 手に入れたから笑うのでなく、欲しいから、望みが叶ったから笑うのでなく、すべてはこのようであり、自分が知っているようだから揶揄して笑います。だから病気になった時も笑うことができ、死が訪れても笑うことができます。笑う力がなければ内心で笑います。そしてそれは消滅し、問題はありません。イダッパッチャヤターを見ることの結果を、述べた状態にしてください。

 私たちは忍耐して闘うと思わなければなりません。異国、異教の人間同朋に対して、あるいは他の宗派の人が無関心でいるのに、私たちが無関心でいられず、貪り・怒り・迷い、嫌悪や恐怖で動揺するなら、これは「まだ自分は仏教教団員でない」と恥じるべきです。

 実践することについては、彼らは彼らの方法があり、私たちは私たちの方法があります。つまり今勉強しているイダッパッチャヤターを見る方法があるので、イダッパッチャヤターを本当に明らかに見せます。みなさん、このように決意してください。そうすれば個人的にも社会的にも、複雑困難な苦であるいろんな問題を解決できます。

 今私たちは、小さな子供の問題も解決できないで、若者や年寄りの問題を解決できるでしょうか。まだ小さな子供の問題も解決もできないのに、なぜ笑わなければならず、なぜ泣かなければならず、なぜこのようにならなければならないかをまだ知らず、解決できません。

 私たちの幼い子供は間違った状態で成長しています。ダンマの教えに反して苦にならなければならなくても、解決できないという意味です。間もなくこの世界に、どの国にも、問題がある大きな子供、青少年が今よりも増えます。非常に狂っている国ほど早く混乱します。

 仏教教団員はこのようになるべきではありません。保証であるイダッパッチャヤターの知識があるからです。知れば敢えて自分が狂うのを放置しないようにします。それは恐ろしいので恐さを知り、心を抑えることを知り、苦にならなくても良い法則の中に居るよう自分を支配することを知っているからです。

 これが、幾つもの角度から話したイダッパッチャヤターに関わる話の、常に復習しなければならないすべてです。そして知るべきと見るすべての角度が揃うよう、これからも話さなければなりません。言い方を変えれば、ある人はこの面から見て知るに相応しくありませんが、他の面から見るのがふさわしいです。

 だから私は取り上げて話し、全員がいずれかの角度で見ることができる機会にする努力をしています。だから我慢して聞いてください。我慢して聞くと言うのは、話したように、中には合わないのであまり聞きたくない人もいますが、すべての角度を話して完全な話にするために、他人のことも思って我慢して聞くべきです。

 今日は生物のすべての分野の進化であるイダッパッチャヤターという角度でお話します。命がない物は感覚がなく、感覚がなければ問題はないので話さなくても良いです。話すなら命と、素早い感覚、高い感覚、平均以上に深遠な感覚のある生きている動物が、いろんな物を良く比較して知るためです。

 生き物と呼ぶ物はいろんなレベルがあり、植物の種類は木、クワズイモ、苔から微生物まで、これが植物です。高くなると小動物、移動できる動物、移動できない動物、人動物までになります。

 次にもっと高くなったら何でしょうか。彼らは(私はそのように見たことはありません)天人とか、鬼とか、悪魔とか、梵天とか言い、どこにいるか知りませんが人より高い生き物と見なします。そして人でない物、あるいは何らかの非人間も同じ命がある物とします。

 しかし私たちにハッキリ見える物なら、植物、畜生、そして人の三段階で十分です。天人、悪魔、梵天か何かがいるなら、心の言葉としてあります。人に一定レベルの善い心があれば天人と呼び、清潔、繊細、緻密で、もっと複雑になれば梵天などと呼びます。それが狂えば鬼、悪魔、霊、悪霊と呼び、呼び方次第です。まとめて人と呼ぶ物に含めます。

 次に植物である生き物は非常に低く、感覚は非常に少なく浅いです。動物である生き物はもっと高く、早くたくさん感じることができます。人は更に感覚が素早く、高く、多くなり、今はどんどん自分を管理できなくなっています。それは好きなように、つまりあのように、このようにくるくると素早く変化する心で、鬼、悪魔、あるいは梵天、あるいは天人などになる機会があります。

 次に植物、あるいは動物、あるいは人でも、生き物はすべてイダッパッチャヤターで、その体の中もイダッパッチャヤター、その考えもイダッパッチャヤター、行動や発言も全部イダッパッチャヤターと言って話を端折ってしまいます。

 たとえば何か一言口にするには、その因と縁がなければなりません。そうすればこのように話します。ほとんどは考えで、どんな考えがあっても考えたように話し、その考えはイダッパッチャヤターです。

 それにはそのように考えさせる何らかの縁があります。たとえば形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、あるいはある状態の何であろうと、それは一つの考えとして生じます。次に私たちは形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わう等々させる縁が際限なくあります。ね、人も動物もこのようです。

 木については、人と同じように目・耳・鼻・舌・体・心が揃っているかどうか、知ることはできません。しかし私は、少なくとも多少は感じるための物があると知っています。例えば樹皮や葉や幹を通して感覚があると、食べ物を求め、光を求めて生き抜くためにあらゆる闘いをしています。これが木の、あるいは木のレベルのイダッパッチャヤターであることです。

 すべての生き物はイダッパッチャヤターであり、それは今法則で経過し、そして法則に従った結果があるという意味です。今それは、いつでも何らかのイダッパッチャヤターであると言います。それらは休まずこのように叫んでいますが、私たちは興味を持ったことがありません。

 次に詳細に見ると、人、あるいは畜生、あるいは木にも年齢期があり、発芽したばかり、生れたばかりの、成長し初めの少年期があり、そして中年期、それから老年期になります。人に子供、若者、大人、年寄り、老人などの年齢があるのと同じで、どの年齢もすべてイダッパッチャヤターという意味です。

 「年齢」と呼ぶ物は、イダッパッチャヤターと呼ぶ物によって意味が生じます。イダッパッチャヤターがなければ年齢と呼ぶ物はありません。イダッパッチャヤターがなければすべての物は一定で、変化しないので、少年期も青年期も老年期もありません。

 しかしイダッパッチャヤターは、支配してすべての物を生じさせる権威者なので、変化があり、年齢と呼ぶ物が生じ、子供、若者、大人、老人と規定されます。だから生きている一つの生き物は、生まれる前から成長して死ぬまでのどの年齢でも、すべてはイダッパッチャヤターで、避けようがないということです。

 次にもう少し、すべての生き物、特に人は知識があり、能力があり、賢さがあり、進歩し、非常に進化し、その結果教育があると見たいと思います。一方多くの動物は教育がなく、いろんな物は本能で経過し、賢く訓練されて珍しいことができる種類の動物も、まだ本能の状態があります。

 つまり記憶できる本能、生きることを愛す本能は、闘うこと、あるいは行動することを知らなければなりません。犬などが飼い主に気に入られることを知っているのは、犬には飼い主に気に入られようという気持ちはなく、そのようにすればもっと食べられると考えるだけです。

 だから犬はそのようにし、たくさん食べられます。だから犬は本能ですることができます。非常に賢くても、ほとんど本能に依存しています。まだ人間のような教育・訓練と呼ぶレベルになっていません。

 だから私は、本能以上に何かたくさんできるのは、人間だけと見なします。別の言い方をすれば、人間の本能は畜生の本能より簡単に、たくさん、早く、遠く変化することができると見なします。だから人間は進歩し、たくさん、そして早く、ものすごく早く、走るより早いというほど早く変化する考えがあります。

 百年にもならない間に人間は学問知識で進歩し、月の世界へ行くほどです。しかし畜生の進歩は百万年経っても不可能です。犬が進歩して飼い主に気に入られることを知っていると言うのは、こういうのは何百年、何千年もの時間を使います。

 これは、教育は非常に威力があると見ることができますが、イダッパッチャヤターに勝つことができるでしょうか。それは不可能ですと、簡単に話を端折らせていただきます。教育もイダッパッチャヤターで、発見するいろんな法則もイダッパッチャヤターなので、人間が新しく何を知って増やしても、新しい何ができても、すべてはイダッパッチャヤターだからです。

 月の世界へ行くことができる知識もイダッパッチャヤターで、本当に作ること、あるいは実際に土を踏むこともイダッパッチャヤターなので、教育があってもなくても、それはすべてイダッパッチャヤターの話です。

 教育自体もイダッパッチャヤターであり、教育がないこともイダッパッチャヤターです。それにはそのような因と縁があるので、教育がないからです。だから教育を道具にしてイダッパッチャヤターを消す術は、何もありません。

 自然にある教育、例えば野蛮人が家を造ることを知っているのは、自然が強制した教育です。しかし私たちには自然に反した教育があります。人間は賢いので自分であれこれできます。他の動物と違って意味のある言葉を知り、意味のある声を作り、最後にこのように文字を使うことを知り、月の世界へ行くレベルの珍しい物を造る学問知識を知りました。

 その変化のどこからどこまで、あるいはすべての分子は全部イダッパッチャヤターです。教育があってもなくても、全部イダッパッチャヤターで、中途半端にあってもイダッパッチャヤターで、ヤクザにあってもイダッパッチャヤターで、学者のようにあってもイダッパッチャヤターと話しを端折ります。

 教育に溢れている生き物はどの種類もイダッパッチャヤターです。つまり縁で経過し、縁で変化する進化する点は同じで、進化であるイダッパッチャヤターと言います。どんどん発展すれば、進化はイダッパッチャヤターから脱すと理解しないでください。イダッパッチャヤターを知らない人間の感覚で発展すれば、イダッパッチャヤターが強制する威力から逃れる道はありません。

 聞いて分からないかもしれないので、あるいは理解できなければもう一度、「イダッパッチャヤターを知らない人は、発展すればするほどイダッパッチャヤターの首かせに首を突っ込むだけ」と繰り返します。だから発展させなさい。イダッパッチャヤターを知らない人が進歩し、発展し、何を探求しても、試せば試すほど、更に苦の首輪に首を伸ばすだけです。

 その人がイダッパッチャヤターの話を勉強して、正しく理解し、最高に明らかにすれば、首かせ、あるいは泥沼、あるいは淵、あるいはイダッパッチャヤターの何でも、それから少しずつ遠ざかります。しかしその正しさが教育制度として最高になり、実践行動をすれば、イダッパッチャヤターが苦の完全な消滅である終わりに導きます。

 苦の絶滅を、目的、あるいは一つの結果と言います。どんな方法で到達できるかは、イダッパッチャヤターの話の知識で到達できます。そしてそれの威力を少なくす、加工を少なくする方向だけになるよう管理します。

 もう一度言うと、それは貪り・怒り・迷いを生じさせる方向に加工しないで、貪り・怒り・迷いを終わらせる方向に加工にすると言います。どの点が終わっても、それは苦の終わりであり、苦の完全な消滅です。これです。苦の完全な消滅はイダッパッチャヤターの法則で生じられます。つまりその法則で正しい行動がなければなりません。そうすれば涅槃に到達できます。

 涅槃と呼ぶ物はイダッパッチャヤターでなく、イダッパッチャヤターの目的である物です。そしてイダッパッチャヤターの法則で正しく経過することで到達できます。しかしより深く見れば、アサンカタダンマ(無為の物)である涅槃は法則の部類に含まれ、タタター、つまり「そのようであること」という意味です。

 タタターであるイダッパッチャヤターは二種類あります。もう一度言えば、そのようであることは二種類あります。因がなく縁がなく変化しない類の「そのようであること」もあります。涅槃などのそのようであること、そして因と縁で経過し、苦にならなければならないそのようであること。こういうのは苦になるタタターです。次に両方を良く知って苦を終わらせ、苦がなくなる経過になる方を選ばなければなりません。

 だから涅槃も輪廻も珍しい物ではないと捉えてください。これを良く理解すれば、涅槃は涅槃だけ、輪廻は輪廻だけ、自分ではなく、執着する物ではないと見えます。涅槃を執着する物と見れば、涅槃になりません。だからそれは全部タタターで、執着できません。変化するタタターも、変化しないタタターも、執着できません。

 こういうのを「タタターを最高にハッキリと良く知れば、この命を苦からの脱出に導くことができる」と言います。イダッパッチャヤターの話を知り、イダッパッチャヤターの法則に依存して、イダッパッチャヤターの流れを消滅させる方にだけ経過させるからです。それ以上の物は何もありません。

 聞くと、ここで話が循環しているようです。イダッパッチャヤターであることはいろんな角度、いろんな面、いろんな分かれ道があるので、歩くべき正しい道を歩けば滅苦に向かい、正しい道を歩かなければここで、苦であるイダッパッチャヤターの輪の中で循環にしています。因と縁で変化しなければならないからです。これは生き物にとって重要な物です。

 今日私は、進化と呼ぶ物に惑溺しないレベルまで、進化と呼ぶ物を知るために、進化であるイダッパッチャヤターという発展の話、進歩あるいは進化がある話だけをします。進化と呼ぶ物に惑溺しなければ、それは心の進化です。まだ心が心の進化に惑溺していれば、まだ愚かなので進化がある心ではありません。本当の進化なら二度と進化の話を好まず、あるいは惑溺せず、狂ったようになりません。

 今誰でもまだ狂っていて、まだ進化に迷い、休まず進化を望みます。この進化はイダッパッチャヤターと、私はこのように言いたいと思います。惑溺するのは愚かさで、貪りで、望んだようにならなければ怒りで、まだ疑っていれば迷いです。貪り・怒り・迷いから脱せなければ進化しません。あるのは貪りが増えるだけ、迷いが増えるだけ。こういうのを進化と呼ぶべきではありません。

 さて次は身体の面、身体面の進化について話します。良く見てください。私たちはたくさん話し、人間は進化の話をたくさん探求し研究しています。宗教に関わりのない科学者も物質面の進化の話を探求し、生物学の進化の法則など、物質面の進化の話を知りました。

 ダーウィンなどの科学者、あるいはそれらの科学者は、生き物の物質部分の進化を「地球上に火の塊、火の石、あるいは燃え上がっている何か以外に何もない時から、世界が少しずつ変化し、だんだん今あるような人間の世界になった」と知りました。

 考えて見ると、進化は物質面の変化が先にあり、同時に物質でない、あるいはその中に隠れている心の面の話がありました。そうでなければ、生きている植物もなかった地球に、動物、あるいは生き物である人間が生じられません。本当に最初の地球は液状の火で、それから冷えて、地球全体が一塊になり、火成岩、あるいは igneous でも呼び方次第ですが、石の一種になりました。

 そしてその種の石は、その種の石の中にいろんな鉱石が混じっているので、何百年も経って冷えた石が日差しやその他によって変化し、崩壊して小さな部分、分子になり、重さが違う分子毎に分かれたので、いろんな元素に分かれて同類が集まったと言います。

 重量のある元素は流れて行って一か所に固まり、重量の異なる元素の分子は分かれて別の場所で固まり、次々とこのようになり、その結果地球には元素でできている元素があり、地球の一部分子になりました。例えば金があり、錫があり、何があっても、地球の中に集まっているどの元素も、系統的に、固まりに、種類別になっています。こういうのは最初にはなく、そして現れることができました。

 もう一方、これらの熱がなくなった時、湿気があり、湿気が多くなって水になり、降雨になり、日光と雨が変化させたので、地球が変化しました。地球の表面に水が生まれると、水中の堆積物が、命のある細胞と呼ぶ新しい物を生じさせました。

 それは命があり、感覚がある細胞になり、心、あるいは心の分子、マノーダートゥ(意界)、ヴィンニャーナダートゥ(識界)と呼ぶ物が姿を見せ始めます。初めにそれは現れません。玉となって燃えている火しかないので、現れることはできません。

 冷えて水があれば、命のダートゥ、感じるダートゥである物が小さな細胞の中に現われる機会があります。その後たくさんの細胞が一つの単位に集まり、幾つもの細胞の塊が集まって一つの動物になり、植物になり、生きている動物になり、成長発展して、今見えるような動植物になりました。

 だからどの角度、どの隅をどのように見ても、それは更にイダッパッチャヤターで、更に強くなると、燃え上がっている火の球が動物、人、植物になり、今ここに座って見ているような物になるほどのイダッパッチャヤターと挑ませていただきます。これらの物は昔はなく、あったのは火になって燃え上がっている地球だけでした。

 イダッパッチャヤターが本当に巧みでなければ、これらの物を生じさせることはできません。だからこの角度を見てください。物質部分の進化は、この分野の知識の首領と名誉を与えるチャールズ・ダーウィンを初め、科学者、生物学者の知識を全部合わせた研究、教育によるイダッパッチャヤターです。

 これを「事実で話し、証明できる物がある科学で話せば、身体はこの状態で進化して来て、最後に心、あるいはナーマダンマ(名の物)と呼ぶ物が現れる機会があり、感じることができる生物になり、植物、動物、人、それを超えると天人、梵天、心の面の何かになる基盤になった」と言います。

 そのように信じない宗教、特に神様がいると信じる宗教は、ダーウィンが言うように信じません。「人間を創り、いろんな物を創ったのは神様」という教えにとって害があるので、そのように自然に生じたのではないと言います。

 私の所に、身体が猿で頭が人間の一体の石膏の人形があります。それを熟慮して見ると、その猿は生物学の本の山の上に座っています。宗教者たちはダーウィンを揶揄し、人間は燃え上がる火の他に何もない火の球から進化してきたと信じません。

 しかしいずれにしても、神様が創ったと信じる人も、初めに人間はなく、それから神様が生じさせたと見せる方法で話します。これは仮定の言葉、譬えの言葉で「人が話す言葉は、人が粘土で人形を作るように話すので、そのような言葉は解釈しなければならない」と言います。

 すべての物を変化させ、そして生じさせる威力がある物があると認めるという意味です。だからどの宗教が神様を規定しても、あるいは何を規定しても、それはイダッパッチャヤターの状態から脱しません。

 「神様はイダッパッチャヤターの法則」と以前から述べているように、神様がいろんな物を変化せるのは更にイダッパッチャヤターです。創ることがあり、成り行かせることがあり、変化させることがあるので、それは全部イダッパッチャヤターです。ダーヴィンの学説もイダッパッチャヤターで、神様がある宗教の教理も十分イダッパッチャヤターです。

 仏教も、イダッパッチャヤターという言葉を規定することで、その事実を受け入れます。ブッダは「イダッパッチャヤターが仏教の心臓部になるのは、すべての物は、これがあれば、これが縁で、これが生じるからです」と言われています。

 だからブッダダンマは誤る道はありません。ブッダが言われた言葉は間違う余地がなく、イダッパッチャヤターという言葉はすべての時代すべての時期、あらゆる角度あらゆる面で検証に耐えると、このように理解しておいてください。

 これです。物質面、あるいは身体面のいろんな物について話せば、それらの物のすべての進化はイダッパッチャヤターです。簡単に見えるのは、現代人の体、自分自身の体と石器時代の人の体を撫でて見ると、石器時代の人はまだ全身が毛で覆われ、木の根元や洞窟に住み、非常に違います。

 硬さ、柔軟さなどは非常に違います。陽射しや雨に曝されたことがない現代人は、食生活の違いや、いろんな物を塗り、スキンケアとか何とかいう皮膚の手入れをするので、血統はその時代の原始人の系統でも、肌は非常に違います。このように変化があります。

 だから別々の話と理解しないでください。それは同じ話、イダッパッチャヤターの法則による変化の話です。昔の原始人が、現代人が体を撫で回すのを見たら、天人か何か分からない別種の動物と考えます。それらの原始人が現代人の暮らしぶりを見ると、普通の私たちは天人で、どんな食べ物を食べ、どんな道具を使い、浴室や厠はどのようで、衣服や装身具はどのようだろうと考えるに違いありません。

 見てください! それらの原始人はどんな物を食べ、どのように寝て、どのように大小便の排泄をしたでしょう。何もなく、風や日差しや雨に曝され、困苦に堪えなければならないので、皮膚は矢も刺さらないほど硬くなります。だから、現代人の生活は天人のようと思うに違いありません。

 時には現代の人間である初等の天人が生まれることもあります。それでも現代人は、他の種類の天人がいることを期待します。要するに物資流面、身体面のすべての進化はイダッパッチャヤターであり、他の物はありません。

 次に心の面を見ると、それも進化があります。善も悪も分からないのから、それから善に拘り、悪に拘り、つまり執着するために善悪を知り、それから執着しないために知ります。心に関わる部分は三種類だけです。

 人間の心の面の進化の初めは、動物から生まれてまだ善悪を知りません。動物から生まれたばかりで、何が善で何が悪か規定がなく、布を纏うかどうかも規定がありません。その時代の人は「布を纏う」あるいは「布を纏わない」という言葉もなく、便宜のままにし、善悪を知ることはできませんでした。

 キリスト教の教典は、この話を非常に分かり易く説明しています。ある種の果物を食べたので「あらっ! 布を纏っていない」と知り、布を纏うことと纏わないことの違いが生じ、男と女の違いが生じ、最後に善と悪の違いが生じました。初めは善悪を知らないので、善も悪も同じでした。善と知らず、悪と知らなければ、あるのは同じ物だけです。

 その後人間が善悪を知る十分な段階、あるいは一定レベルまで進化すると、キリスト教徒たちが「その果物を食べ食べた」と言うように、善と悪の二種類があると知りました。しかしまだ正しい善悪、あるいは最高の善悪を知りません。まだ知ったばかりの物で、善悪に執着するために知るので大々的に善に夢中になり、大々的に悪を非難し、大々的に善を称賛しました。これを善に夢中になり、悪に夢中になると言います。

 一時、一時代だけそのようで、それからブッダ、あるいはブッダのように賢い人が生まれ、「このように善に夢中になり、悪に夢中になるのは心がまだ幸福になれず、まだ静かになれない」と考えたので、「執着すべきでない」と言うほど高い善悪を知りました。これは善の話、悪の話に執着しないレベルの心、善より上、悪より上の心です。

 だから最初は善も悪もなく、善も悪も知らないのが一つの段階で、そして次の時代は善を掴み、悪を掴み、そして次の時代は善の上、悪の上と呼び、善の上、悪の上にいて、善にも悪にも執着しない進化がある、心の面の三つの段階が揃いました。

 これが自由で、脱出して涅槃になり、イダッパッチャヤターの抑圧からの脱出します。善悪を知らない時もダッパッチャヤターがあり、その法則で一種の抑圧をします。

 次に善悪に執着すると、これは最高に欺瞞する美しいイダッパッチャヤターです。騙して善や悪に執着させますが、これも進化と呼ばなければなりません。その方が高いからです。

 次にイダッパッチャヤターが抑圧する威力が休まず苦に堪えさせ、長くなると「堪らない」と知るので、善悪より上に行かせます。つまり涅槃、あるいはその宗教の様式のそのような物の援けをするイダッパッチャヤターの法則の話を知ります。

 このような進化が人間の心に生じます。自然でと言うことも、神様によってと言うこともできます。同じ結果があるからです。自然による進化はイダッパッチャヤターで、神様による進化もイダッパッチャヤターです。前に、神様とは何かと説明して見せたからです。人間の心の系統は、イダッパッチャヤターの法則によって段階的に進化します。

 「心の面の進化もまだイダッパッチャヤターであり、正しくしなければならず、正しく管理しなければならない」と疑念を終わらせてしまってください。執着より上にいる成り行きにし、たくさん執着する話にしないでください。

 次に高くなった知性の面を見ます。ここでの心という言葉は、思考する、あるいは心の働きをする能力があるという意味です。知性の部分は心でなく、心本体でなく、心が感じることができる、あるいは心に関わらなければならない物で、それ自体で、知性の面で進化する道があります。

 それが知性があるようにする人間の本当の教育です。心と分けることができ、私たちは知性があるようにする方向に心を訓練することも、知性がない方向に訓練することもできます。だから同じ道ではないと見なします。

 しかし知性を訓練するには心を通した訓練、あるいは身体も含めたすべての生活を通して訓練しなければなりません。教育があって教え、知ったように本当に実践すれば、心の中の新しい光になります。それが心を変化させ、あるいは苦になる必要がない心にすることができます。

 身体だけでも、心だけでも、それは自然に変化して苦になるイダッパッチャヤターです。しかし十分高く進化した知性があれば、心が苦になる方向に進化しないよう、苦にならない、最高にに苦にならない、あるいは苦を知らない方向に進化するよう解決する援けになります。

 だから最高の知性は、心が最高に訓練を受ければ、同時に高い心になるという意味です。しかし能力、あるいは本物は知性にあります。だから彼らには知性だけを訓練する方法があります。心の能力を付けさせる訓練を心の訓練と言い、空を飛んだり歩いたり、神通や奇跡を現すまで心の力を高める心の進化です。

 そういうのは心を訓練して心の能力だけをつけますが、知性はないと言います。だから鬼や悪魔は飛ぶことができますが、聖向聖果の到達はありません。

 次に聖人は宙を歩いたり飛んだりする必要はありませんが、聖向聖果に到達して苦から脱し、涅槃を明らかにする知性があります。だから私は、心は知性と呼ぶ物と同じではないと見なします。以上の理由で、心はそれ自体の進化の系統、あるいは流れがありますが、結局知性の進化はイダッパッチャヤターから脱せません。

 まだイダッパッチャヤターであり、これがあれば、これが縁で、これが生じ、絶えずこのようであるイダッパッチャヤターの法則で経過します。この法則以外に何もありません。

 だからイダッパッチャヤターは、進化と呼ぶ物のすべてと見なしてください。物質面、身体面の進化も、知性の進化も、すべて「そのようになる」と言うイダッパッチャヤターです。素晴らしい物は何もなく、執着するべき物は何もありません。つまりそのようになり、自然にそのようになります。

 だから深く見れば見るほどイダッパッチャヤターに出合うだけと、この法則を掴んで良く熟考してください。表面を見れば簡単な、普通のイダッパッチャヤターに出合うだけですが、深く見れば深いイダッパッチャヤターに出合います。

 あるいは物質、命がない物を見ると、まだ命がない物、命がある核、分子があるだけの、まだ生きている細胞でないいろんな物もイダッパッチャヤターで、法則に従って変化して止まらず、固定ではありません。

 次に命はあってもまだ体を構成していない物、例えば一つ一つの細胞が、まだ生物がいない世界の歴史に初めて生じ、そしてこの地球に水があり、水に浸かることがあり、それが命のある細胞が生じさせた、こういうのもイダッパッチャヤターです。しかしこういうのはまだ身体と呼びません。細胞はまだ身体と呼びません。カーヤ(体)という言葉は群れという意味だからです。

 まだ知らない人は、カーヤという言葉、あるいはカーヤは群れ、あるいは纏まった物という意味と、今知ってしまいなさい。本当の文字は纏まった物、あるいは群れという意味です。そして今物質の纏まり、細胞の纏まりをカーヤ(体)と言います。パッサカーヨー=パッサがまとまった物、ヴェーダナーカーヨー=ヴェーダナーの纏まった物など、他の物の集まりも体と言います。

 これはいろんな種類のパッサ(触)の群れ、目の触、耳の触、舌の触等々をまとめて触の群れと言います。パッサカーヨー、あるいはパッサカーヤと言います。あるいはヴェーダナーカーヨー、目の受、耳の受もヴェーダナーカーヤ、つまり受の群れと言い、合わせてナーマカーヤと言います。ナーマダンマ(名の物)の群れ、ナーマダンマである物、つまり心である物の群れです。カーヤという言葉は群れという意味です。

 「大きなパラカーヤを挙げて戦闘する」などと言うパラカーヤは人の群れという意味で、カーヤは群れという意味です。次にこの身体は群れと言う意味です。蘊の、ダートゥの、アーヤタナの群れで、私たちは土・水・風・火の群れ、六ダートゥの群れを体と呼びます。カーヤという言葉は群れという意味です。

 次にこの世界にいるのは、まだ群として、多細胞として集まっていない、まだ体、形にならない、何にもならない単細胞の時代。それも一時代あります。まだ体はありませんが、同じだけイダッパッチャヤターです。

 その後それらの細胞は、たくさんの細胞が一つの群れになり、そして幾つもになって生物の一部分になり、最後には数えきれないほどたくさんになりました。身体になり、あるいは木になり、皮になり、葉になり、芯か何かになり、それは今完璧な体、植物の体、動物の体、人間の体になりました。

 こういうのを不思議と思わないでください。それはそのようになります。単細胞と同じ、まだ以前と同じイダッパッチャヤターですが、非常に進化しています。どれほど多くても植物のイダッパッチャヤターだけで、動くことはできません。

 その後動物と呼ぶ動くことができる物になり、低いのは畜生で、良いのは人間ですが、それもイダッパッチャヤターにすぎません。それ以上高く見ないでください。最高に卓絶したものと頭上で拝まないでください。それは非常に欺瞞するイダッパッチャヤターで、何もありません。

 だから天人にさせても、それはイダッパッチャヤターにすぎません。ブラフマ(梵天)、清潔清浄な天人にさせても、それはイダッパッチャヤターにすぎません。だから仏教は、何にも執着しないよう教えます。それはイダッパッチャヤターにすぎないので、執着すべき物は何もありません。あるいは広く言えばタタターと言い、それはそのようになります。

 体の面と心の面、知性の面の三つは、「アンニャマンニャ、互いに縁」と言います。アンニャマンニャとは互いにという意味です。アンニャは他という意味で、アンニャマンニャは他と他、つまり一人と一人で、タイ語では互いにと言います。

 身体面の進化は心の進化に対してアンニャマンニャ縁で、心の面の進化は体の面の進化です。そしてそれは知性面の進化にとってアンニャマンニャ(互いに)縁で、知性面の進化は体と心の面の進化にとってアンニャマンニャ縁です。

 火葬時の読経の度にアンニャマンニャパッチャヨーという言葉を聞きます。「アンニャマンニャパッチャヨー」と言うのは、互いに依存しなければ成り行かないないという意味です。体は心に依存しなければならず、心は知性に依存しなければならず、知性は心に依存しなければならず、心は体に依存しなければならず、体は心に依存しなければならないと、このようです。

 このように互いに依存しなければなりません。これは更にイダッパッチャヤターです。つまりそれだけで成り行くことができず、危機を脱すことができないので、互いに関連し合い、依存し合わなければならないイダッパッチャヤターです。

 述べて来ただけですべての隙間を塞ぎ、イダッパッチャヤターの威力から逃れられる物は何も残っていないように見えます。人間がその法則を解決するよう、あるいは変更するような努力をしても、それはできません。解決しようとすればするほどイダッパッチャヤターです。信じなければ試して見てください。医者なら死を解決できるという訳ではなく、解決すればするほど、別のイダッパッチャヤターが増えます。

 だからそれはどのようかを知り、そして自分・動物・人物・俺・お前、何と執着しない心があれば、すべてはイダッパッチャヤターと見えます。だから敵同士でいるより、愛し合い、可愛がり、慈しみ合う方が良いです。

 仏教の中の話は、緊急で必要な、心の中にある苦だけを話したがるので、僧が先ほど読経したように、イダッパッチャヤターの話はパティッチャサムッパーダ(縁起)の話をだけを目指します。

 縁起はどのようでしょうか。縁起とは、無明がサンカーラ(行)を生じさせ、行がヴィンニャーナ(識)を生じさせ、識がナーマルーパ(名形)を生じさせ、名形がサラーヤタナ(六処)を生じさせ、次々とそのようにして最後に苦を生じさせることです。これが苦を生じさせる縁起です。

 これが、先ず知らなければならない、最高に必要で、最高に急ぎのイダッパッチャヤターです。そうでなければ、生まれたことが無駄になります。生まれている間は何年でもなく、崩壊して死んで、蘊が消滅してしまうので、この話を知らなければ、生まれてから死ぬまで苦のために生まれ、それ以上の物は何もないのと同じです。

 イダッパッチャヤターの話を知れば愚かさが消え、苦がなくなり、そして苦を嘲笑し、死を嘲笑し、イダッパッチャヤターであるすべてを嘲笑します。だからイダッパッチャヤターは嘲笑させる物、執着しないための物になります。

 だから縁起を良く憶えておいてください。後日詳しく話します。そして無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ云々と、前にも話したことがあります。

 目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わい、体が皮膚に触れると、あるいは心が感情を感じ、私たちが愚かになる度に縁起があります。この六つの時に愚かなら、途端に苦になるための縁起が生じます。

 これは、苦を生じさせる凶悪なイダッパッチャヤターなので、何の話よりも先に知っておかなければなりません。そして何の話よりも先に、何としても実践しなければなりません。後で詳しく、角度ごとに話します。

 今日はまとめて「進化は素晴らしい物」と崇拝してはいけない。もっと愚かになり、普通は苦でない物に惑溺すれば苦になるとだけ」と話したいと思います。買う必要がない、使う必要がない、生活に必要がない新しく出た物は、買わないでください。新しい物、珍しい物、進歩、進化した物の話に愚かなら、大枚を投じて買って、子供や家族の食費を無駄使いします。ここまで愚かになれます。

 進化は、何か考えることができるイダッパッチャヤターの話以上の何でもないと知っていれば、見ても良いです。本当に利益になる場合以外は、買って浪費する必要はありません。商売か何かは別の話です。しかし迷って歩いて、人より良い物を持っていると感じて満足するために買うのは、こういうのは賢くないと言います。もう一度言えば、イダッパッチャヤターに騙されると言います。それはただ騙さず、噛みつくので痛みます。

 珍しい物、何か珍しさがある、珍しい進歩か何かがある物の話に夢中にならないでください。迷わないでください。見ても良いですが、お金を使って買う必要はありません。それとも、それは前より少し狂っている以外の何もないと勉強するために、他人と一緒に見ても良いです。

 これを「私たちはイダッパッチャヤターを知っているので、愚かでなく、勝利で世界の中で生活し、混乱した世界の何にも、誰にも、興奮動揺しない」と言います。これは重要か重要でないか、考えて見てください。興奮しないとは、関心をもたず、興味をもたず、大騒ぎをしないことです。動揺しないとは非常に混乱したこの世界の何も、あるいは誰も怖れず、怖がりません。

 ね、これは援けになります。何も恐れず、何も恐れる必要がなく、彼らが恐れる物を私たちは嘲笑できます。その後は何をしても嘲笑することができます。死もイダッパッチャヤターにすぎないからです。

 死ぬ時が来たら笑って死に、恐れる必要はありません。イダッパッチャヤターに対して、いつでも十分たくさんの知性があれば、危機を脱すことができます。

 みなさん全員が、すべての進化はイダッパッチャヤターにすぎないと、今日話した知識と理解を受け取れるよう希望します。そうすればわざわざ聞きに来た価値があります。私も話した甲斐があります。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。


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