世界のすべての学識であるイダッパッチャヤター


1972年1月8日

 ダンマに関心のある善人のみなさん。土曜講義の第二回目は、世界のすべての学識であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)について話します。みなさん。この話の講義をする目的から、この話の理解を復習する努力を、最高に良くしてください。仏教教団員を更に仏教教団員にし、完璧な仏教教団員にする望みがあると思っておいてください。これから、なぜイダッパッチャヤターを理解しなければならないか熟慮します。そしてもう一つ非常に重要なことは、これは仏教の心臓部であり、仏教の本物のすべてですが、誰も知る人がなく、話す人もいないことです。

 本当は一度も話したことがない訳ではありませんが、他の言葉で話しています。つまりイダッパッチャターという言葉でなく、直接イダッパッチャヤターの経である語句でなく話しています。本当は私たちも毎日、原因の話、縁の話していますが、イダッパッチャヤターという言葉に言及していません。

 特に四聖諦は原因の話、結果の話、そして原因と結果の関わりで、それはイダッパッチャターの状態ですがイダッパッチャヤターについて言及せず、あるいはこの項目の重要な内容を取り上げて話さず、たぶん四聖諦の話だけ、つまり苦・集・滅・道だけ話します。

 このようなら、それらの人は苦・集・滅・道と呼ぶ物の中にあるイダッパッチャヤターが見えない虞れがあります。核心まで深く掘り下げずに外部だけ話すという意味です。だからこれからは関心を持って、仏教の心臓部であり、仏教の本体のすべてである状態を見てください。これは講義の度に忠告しなければならない項目かも知れません。まだ新しく、慣れていないからです。

 次に忠告するのは、私たちが遊びで短い経を唱えるように、あるいは若者が歌を口ずさむように、ブッダがイダッパッチャヤターを独り言のように口にされた項目です。幾つかの経は、縁起の十一の情況を、生起の側も滅の側も復習されたと明言していますが、また別の経、アビサマサンユッタ、ガハパティヴァッガの第五経などは、イダッパッチャヤターの内容、つまり短い四つの文だけをつぶやかれたと述べています。

 しっかり聞いてください。そうすれば、今後全員がすらすらと唱えることができ、どんな理由があるか知ることができます。

 ブッダが一人でつぶやかれた時、イティ イマスミン サティ、イダン ホーティ=このような状態で、これがあれば、当然これがあり、イマッスッパーダー イダン ウッパッチャティ=これが生じたので、これが当然生じ、イマスミン アサティ イダン ナ ホーティ=これがなければ、イマッサ ニローダー イダン ニルッチャティ=これが消滅するから、これは当然消滅する。パーリ語では、イティ イマスミン サティ、イダン ホーティ、イマッスッパーダー イダン ウッパッチャティ、イマスミン アサティ イダン ナ ホーティ、イマッサ ニローダー イダン ニルッチャティとあるだけです。

 タイ語なら「このような状況で、これがあれば、これは当然あり、これが生じれば、これが当然生じる。これが無ければ、これは当然ない。これが消滅するので、これは当然消滅する」とこれだけです。パーリ語では「イティ イマスミン サティ、イダン ホーティ、イマッスッパーダー イダン ウッパッチャティ、イマスミン アサティ イダン ナ ホーティ、イマッサ ニローダー イダン ニルッチャティ」で、一字一句しっかり記憶するべきです。これがガーター(詩)であり、すべての仏教の核心として常に思っているべきガーターと呼ぶべき言葉です。

 そしてブッダがそのように言われた、つまりニダーナサンユッタ、カラーラカッティヤヴァッガの第七経に、「比丘のみなさん。この宗教の聖なる弟子は、当然心の中をイティ イマスミン サティ、イダン ホーティ、イマッスッパーダー イダン ウッパッチャティ、イマスミン アサティ イダン ナ ホーティ、イマッサ ニローダー イダン ニルッチャティと、このようにしておきます」という内容があります。

 ご自身がつぶやかれたように、聖なる弟子も常にそのように、同じようにしておくよう言われました。だからブッダ自身もこのようにつぶやかれ、この宗教の聖人である弟子もこのようにつぶやくよう教えられました。

 つぶやくという言葉は、うわ言のように口にするという意味でなく、内心に最高の知識と理解があり、そして独り言として口にするという意味です。このような時、誰でもこの真実が見えるまで熟慮し、そして口から「これがあるから、これが当然あり、これが生じたから、これが当然生じ、これがなければ、これは当然なく、これが消滅すれば、これは当然消滅する」という言葉が出るままにします。これをイダッパッチャヤターと言い、これだけの短い要旨があります。

 イダッパッチャヤターという言葉は、これがあればこれが縁で、これが当然生じると、みなさんが聞き慣れているような意味で、「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」これだけ暗唱しても良いです。短くて憶えやすく、最初は「これがあれば、これが縁で、これが生じる」は短く、長くすれば

「これがあれば、これは当然あり、
これが生じたから、これが当然生じ、
これがなければ、これは当然なく、
これが消滅するから、これが当然消滅する」と言います。

 これは四つの文章、四度です。二つだけ残せば「これがあればこれが縁で、これが当然生じる」と言います。ブッダが独り言をつぶやかれた時、ブッダご自身も時折、常にこのようにつぶやかれ、そして私たちにもこのような気持ちでつぶやくよう教えました。

 次にそれはどうして非常に重要なのか、更に深く見て、この機会に、それはどのように学問知識と関わりがあるかまで、一度に話してしまいます。

 主婦が台所へ行って薪を掴んでかまどで火を点けると、火が燃え上がり、それから研いであった米に水を入れた鍋を火の上に乗せ、しばらく待つと沸騰し、米粒が水を切っても良いくらい、あるいは水を切らなくても柔らかくなり、最後にはよそって食べられるご飯になります。これはどのように物質面のイダッパッチャヤターか、学んでみてください。知らなければ、それがイダッパッチャヤターであると、あるいはどのようなイダッパッチャヤターの規法則か見えません。知らないからです。

 私たちは親がしているのを見て自分もそのようにし、それでご飯が食べられます。子供は大人がそのようにするのを見ているので、なぜそのようになるのか、イダッパッチャヤターの話を知る必要はありません。

 次に薪があること、あるいは薪を置く援けをする物があること、火が点くには薪などの燃料がなければならないことに、「これがあればこれが縁で、これが生じる」というイダッパッチャヤターを思います。火に必要な空気、特に酸素がなければならず、そして燃料が燃え上がるために多少の熱がなければならず、そうすれば空気と燃料の中にある物が合わさって火が燃え上がります。

 それは「これがあれば、これが縁でこれが生じる」という規則で火が燃え上がります。これは質の良い燃料があり、酸素があり、最初の熱があるからで、少なくとも三種類あり、これがあれば、これが三種類の縁で火が燃え上がります。

 私たちはこれほど知る必要はありません。本当はこの話は、教えるつもりでなく、「これがあればこれが縁で、これが生じる」イダッパッチャヤターという言葉を理解する見本としてだけです。

 ね、料理する人は、薪があり、酸素があり、多少の熱があり、三種類が合わされば縁になって、火の炎と呼ぶものが赤々と生じ、米を研いで水を張った鍋を火の上に置くと観察して見てください。次に薪や何やらの結果である火が原因になり、つまり火には熱があり、米が入っている水を熱し、いろんな分子が膨張して、膨張すると硬さが取れて柔らかくなります。

 米と呼ぶ物が変化するのは、鍋の中に水の熱があるので米は別の物になり、別の物であることが生じ、最後にご飯が生じるのが見えます。そしてそれは止まらず、続きがあり、つまりご飯があり、食べることがあり、それは空腹、渇きの消滅があり、そして確実に排便をしなければならず、誰も溜めておけません。それはこのような状態で繋がっていて、物質面のイダッパッチャヤターと言います。

 次に物理や化学の知識でも、それはすべての物の中にこのように隠れていると考えて見てください。熱の話、分子の話、彼らはいろんな物の話を探求したので、それはそのよう、そのような時それはそのよう、そのような時それはそのよう、何度の熱があればこれは燃え、あるいは変化し、あるいは水がこのように沸騰するだけでも、規定することができました。

 彼らはこのように詳細に知り尽くしたので、汽車を造り、蒸気船を造り、それ以上の物を造ることができました。造るための緻密で深遠な規則があるので、彼らは月の世界へ行くことができます。間もなく、月の世界へ行くのは子供の遊びの話のように簡単になります。しかし今はまだ聞くと壮大で深遠に聞こえますが、見ていてご覧なさい。あと何十年もしないで、月の世界へ行く話は玩具の人形を作る話と同じになります。

 すべてを「どうしてか」と良く見てください。まとめれば「これがあるからこれが縁で、これが生じる」イダッパッチャヤターとブッダが言われた一語になります。主婦が台所へ行ってご飯を炊く時も、百パーセントイダッパッチャヤターと関わっていると思ってください。そして順々に経過します。これを、それは関わりがあると言います。直接人と関わらない部分もイダッパッチャヤターばかりです。

 たとえば木がこのように現われているのはイダッパッチャヤターの結果で、土、縁である大地がなければならず、その土は水と木の栄養であるダートゥ(元素)が依存する基盤であり、そして木はあれだけこれだけの水を必要とし、あれだけこれだけの光を必要とし、そうすれば成長できる木になり、このような大木まで成長できます。どこからどこまでイダッパッチャヤターの話です。

 しかし私たちには見えません。私たちは知る必要がなく、「それは成長した」と知れば良いので、私たちは毎日いつでもどこでも明らかに見えているイダッパッチャヤターと呼ぶものが見えないと言います。命のない物もこのように、そのように、あのようにさせる因と縁が次々にあります。

 いろんなテキストに書かれているように信じるなら、地球が太陽から飛び出して、冷えて地球になったのはイダッパッチャヤターの法則から逃れられません。あるいはもう一つの側が言うのを信じれば、固まっている分子、Nebular がゆっくり回転し、どんどん速く濃くなって、最後に物質になり地球になったのは、こういうのは更にイダッパッチャヤターで、だから地球ができました。

 火の玉である地球ができ、それはじっとしてないで休まず回転し、休まず変化し、段々冷えて変化した結果、水が生じました。空気は水を含んでいるので同時に水があり、適度な温度で正しい回転があれば、地球上で水と呼ばれる物になれます。以前は燃え上がっていた火の玉が、今は冷えて水がある固まりになったのは、水蒸気が包んでいて、水が落ちて来たからです。

 だから地球には水がなければなりません。そうすれば水中に植物や動物など、生物と呼ぶものが発生します。これらはどこからどこまで、一呼吸毎に、あるいは変化している一瞬一瞬がイダッパッチャヤターです。これを私は「もれなくすべてにイダッパッチャヤターを見る」と言います。

 次にブッダは、幾つかは必要ないと見られ、「私が悟ったことは森全体の木の葉のように多く、教えるのは一掴みの木の葉だけ」と言われたように、私は、私たちの苦に関わるイダッパッチャヤターだけを見ます。一掴みの木の葉だけが必要というのは、人は苦しいので、人は狂うので、人は死ぬので、滅苦を教えるためにこの話を先にしなければならないからです。

 これは素晴らしい項目です。だから私たちに常に心の中でつぶやいているよう教えられたイダッパッチャヤターは、目と形に依存して眼識が生じ、この三つを触と呼ぶなど、直接滅苦の話に言及しています。

 次に無明が介入すると無明触と呼び、無明触が縁でアヴィッジャーサンパッサジャーヴェーダナー、つまり無明触から生じる受が生じ、この種の受が縁で欲望が生じ、つまり受の中に混じっている無明の威力で欲しがること、望むことが生じます。次に欲望が取、俺、俺の物というような感覚を生じさせ、取は有、つまり「俺はどのよう」「俺の物はどのよう」という何らかの断定的な考えを生じさせます。

 次にこの有が生・老・死・憂い等々を生じさせ、生老死に意味が生じます。それまでは意味がなく、それがどこにあるのか知りませんが、心の中が「俺、俺の物」になると、生に意味があり、老いにも意味があり、病・死・損得に意味があり、すべてに意味があるようにさせられ、何が生じるか、あるいは心が何を掴むかで苦になります。これが「これがあればこれが縁で、これが生じること」です。

 目なら形と目があり、目と形が依存し合って眼識、つまり目の識が生じると、初めから説明して見せました。声と耳に依存すれば耳識が生じ、耳識は今生じたばかりです。臭いと鼻に依存すれば鼻識が生じ、接触と皮膚に依存すれば身識が生じます。次に心の感覚と心に依存すれば、意識が生じて、内面の感覚を感じれば意識と呼び、この六識をヴィンニャーナ(識)と呼びます。

 この三つが一つになったのが接触で、外部のアーヤタナ(処)と内部のアーヤタナと、そのアーヤタナに依存して生じた識を合わせてパッサ(触)と呼びます。触はヴェーダナー(受)を生じさせる縁で、縁である受があるからタンハー(欲望)が生じ、欲望が縁で有が生じ、生が生じます。これは実践的な内容で、ブッダはこのように縁起を説きかれました。つまりこのような状態でイダッパッチャヤターを説かれました。

 原則では、縁であるアヴィッジャー(無明)があればサンカーラ(行)が生じ、行が縁でヴィンニャーナ(識)が生じ、識が縁でナーマルーパ(名形)が生じ、名形が縁でヴェーダナー(受)が生じ、受が縁でタンハー(欲望)が生じ、欲望が縁でウパダーナ(取)が生じ、取が縁でバヴァ(有)が生じ、有が縁でジャーティ(生)が生じ、生が縁で老、死が生じ、そしてこの理由ですべての苦が生じます。

 これが人間に関わる、必要なだけのイダッパッチャヤターです。つまり苦を先に知らなければならず、それから口でも心でも。すらすらと言い慣れなければなりません。だから述べたように「このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、当然常に心の中を、イティ イマスミン サティ イダン ホーティ云々としておく」と言われました。

 「これがあれば、これが当然あり、これが生じたことでこれが生じ、これがなければこれは当然なく、これが消滅したことでこれが当然消滅する」。しかし今、みなさんはまだすらすら言えないので、すらすら言えるように暗唱してください。そうすればその後は「これがあればこれが縁で、これが生じる」と心の中で暗唱できます。何も思い出せなければ、薪が熱になり、ご飯が炊けるまで、ご飯を炊く話を思い出します。

 次に、なぜブッダは「このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、当然常に心の中をイダッパッチャヤターにします」と言われたのかを見ます。これはいろいろあります。それはいろいろあると考えて見てください。私たちが「これがあればこれが縁で、これが生じる」と本当に暗唱していれば、小さな子が頭痛発熱をした時、私たちは何を探しどのように解決するか分かります。

 しかし愚かでイダッパッチャヤターの話を知らなければ、小さな子が頭痛発熱すると、それは何故生じたかを知りません。それはイダッパッチャヤターにすぎず、頭痛と熱は食べ物が間違っていたか、あるいは陽射しの下に長く居過ぎた、雨に濡れ過ぎたからなのに、イダッパッチャヤターの話を知らないので、人に騙されてそうさせられ、こうさせられ、呪い師を訪ねて霊を払うこともあります。

 これはこのようなイダッパッチャヤターの状態があり、雨に濡れ過ぎたから頭痛と発熱で寝込みます。私たちは「これがあればこれが縁で、これが生じる」と憶えていれば、解決できます。

 そうでなければ愚かでなければならず、霊媒師、聖水師、厄払い師、延命師を訪ねて行かなければなりません。そしてしょっちゅう寿命を延ばしてもらう人は、イダッパッチャヤターの話を知らないからです。お金を持って行って寿命を延ばしてもらわなければならないのは、イダッパッチャヤターの話を知らないからです。

 だから仏教の聖なる弟子である仏教教団員はそのようにしません。その方は「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」というイダッパッチャヤターを知っているので、神々や霊など、どこの何にも関わらず、それは縁である物と関わっているので、何が縁かを見えるよう見ます。

 霊が縁でと言うなら、言うこともできますが、事実はそうではありません。その人の愚かさで、霊が縁になることもできますが、その人に無明がなければ、つまり愚かでなければ、霊や神々が入り込んで私たちに関わって困らせる機会はありません。だから霊や神々の話は、人がまだ愚かな時代の、まだ愚かな地方の愚かな人のためにあります。

 つまりブッダの時代より何千年、何万年も前、人は霊や神々に依存して、多少安心させなければなりませんでしたが、それは何も解決できませんでした。その後ブッダが生まれて、何が苦の本当の因と縁か見るよう教えたので、耳目が明るくなり、いろんな物を真実のままに知る人になりました。

 この話は、彼らは時々霊や神々が原因と言いますが、解決する段になると、あれを食べろ、これを食べろ、これを塗れ、それを塗れ、この薬を飲めと言う点に多少困難があります。たまたま一致すれば病気は治りますが、霊や神々に恩ができ、彼らが飲ませた薬にではありません。

 これはイダッパッチャヤターに関して混乱させる道です。しかしイダッパッチャヤターの原則は受け入れることができます。因と縁が本当に霊や神々にあっても、それでもイダッパッチャヤターなので、私は霊や神々に関わる物を解決しなければなりません。

 しかし次に本当の事実では、そのようではありません。それはそれの因と縁があり、特に神々に関わる必要はありません。今彼らは月の世界へ行き、神々が助ける部分はどこにもありません。事実である部分は何とか見ることができ、検証できる種類の真実でなければならないと良く見なければなりません。見えなければ、知る必要はありません。

 それは見える物で、見えている理由がなければならず、そしてその道理で正しく使えばイダッパッチャヤターになります。イダッパッチャヤターは、発展する話になるのもイダッパッチャヤターの話で、衰退、消滅、死ぬ話になるのもイダッパッチャヤターの話です。縁起に苦が生じる側と苦が滅す側の二つの側があるように、どちらの側もイダッパッチャヤターです。

 無明が縁の時は苦になり、無明の消滅がある時は苦の消滅になると、ハッキリと見えています。これがあればこれは当然あり、無明の消滅があれば苦の消滅があり、苦の消滅があるのは無明の消滅があるからです。次に苦の発生は無明の発生があるからで、発生の側も消滅の側もイダッパッチャヤターの話です。

 子供が生まれて大きくなり、娘盛り、男盛りになるのはイダッパッチャヤターの成長の側で、老いて老人になるのはイダッパッチャヤターの老化の側で、イダッパッチャヤターでないものは何もありません。苦に関わる部分はどれも非常に重要で、解決を知らなければなりません。

 他の部分は二番目の話で、商売をし、あれこれの仕事をし、何かを探求するのは二の次で、重要なのは心の中の苦を消滅させる話です。地獄が心に入り込んだような苦があってはいけません。次にこの問題が解決でき、あるいは何とかなったら、口を養い、腹を養い、何かを養う話に関心を持ちます。

 これだけの見本で、みなさんが「イダッパッチャヤターはどこにあるのか」目を閉じて考えるには十分のはずで、至る所に、一秒ごとに、自分の内部にも外部にもあり、自分の外部は数えきれず、太陽からして、イダッパッチャヤターの法則で回転している話ばかりと見えます。全体は膨大でも、眼が形を見、耳が声を聞くなどした時に注意深くする自分自身の内部のイダッパッチャヤターほど重要ではありません。

 それは無明触、つまりそれらの物に無明による触が生じ、そして苦になります。太陽も月も、どこの霊や神々も私たちを苦にできませんが、形を見、声を聞き、臭いを嗅ぐなどした時私たちが愚かになれば、その時いつでも苦になります。

 ここでの愚かさは簡単に見えます。つまり迷って愛す、迷って嫌う、これを愚かと言います。愛す必要も嫌う必要もありません。それはどのようになるか、正しく対処するだけです。愛すのも愚か、嫌うのも愚かです。気を付けてください。得した、結果を得た、儲けを得たと感じるのも愚かさの一種で、赤字で大損害と感じるのも愚かさの一種です。

 イダッパッチャヤターであることは自然の法則で、ああだ、こうだと断言する余地はありません。つまりそれはこのように加工する縁があるので、人と言わず、人でないとも言いません。だから注意してください。話す言葉は騙します。イダッパッチャヤターはイダッパッチャヤター以外の何でもありません。

 人はいるかと問われれば、「人ではありません。人はいませんが、イダッパッチャヤターです」と答えます。そのようなら人ではないでしょうよ。だから人がいると言いません。あるいは空で何もありません。しかしイダッパッチャヤターの流れだけがあると言います。

 年寄りがミリンダ王の問題の説教を聞いたことがあり、ミリンダ王がプラ・ナーガセーナに「この人は死んだ後生まれるのか」と質問すると、プラ・ナーガセーナはヤクザのように「この人ではなく、他の人でもない」と答えました。それはイダッパッチャヤターという意味です。人が死ぬ時、この死人は生まれるのでしょうか?

 「生まれるのはこの人です」と言えばその人はバカで、そのように言うのはバカです。「他の人が生まれる」と答えればそれもバカで、同じだけバカです。他のものに生まれるのは同じだけバカです。ブッダの規則では、「この人ではない。そして他の人でもない」と答えなければなりません。そして中間はどのようか、それはイダッパッチャヤターです。

 だから「いると言ってはいけない。いないと言ってはいけない」と言うように正しいのは中間にあり、それはイダッパッチャヤターです。無明で言えば「金持ちになった」と言い、「すっからかんになった」と言い、どちらかと言い、いつでも正反対の意味があり、正反対の物です。次にブッダの弟子のように言えばどちらとも言わず、話して中間にいなければなりません。あるいは人が話すように話しても、心の中ではそのようではないと知っています。私たちは心と口は違います。

 例えば私たちが「自分」と言っても、心は「自分ではない。イダッパッチャヤターであるだけ。これがあるからこれが生じ、あるいはこれがあるから、これが縁で、これが生じると、このように次々に繋がっているので、この身体と心と感覚と思考はイダッパッチャヤターにすぎない」と知っているからです。

 これをイダッパッチャヤターが見える人と言います。だから病気を恐れず、死を恐れず、幽霊を恐れず、人が恐れるもの何も恐れません。イダッパッチャヤターを知っているので、幽霊はいないと知っているので、幽霊を怖がりません。

 だから仏教のダンマが見える人はイダッパッチャヤターが見えるので、死を恐れません。本当には死はなく、居ることもなく、あるのは今流れている、加工し続けているイダッパッチャヤターだけです。だから何も恐れない心があり、そして何も欲しがらず、何も嫌わず、何も愛さないでいられます。この話は、話すのは簡単でも見るのは難しく、理解が難しいです。信じなければ、ブッダバーシタを引用して聞かせます。

 ブッダは難しい話、見るのが難しく理解が難しい二つの話をされ、ドゥッダサン コー ビッカヴェー イダン ターナン ヤディダン イダッパッチャヤター パティッチャサムッパードー。「これは、あるいはこの場合は見るのが難しい。これはイダッパッチャヤター、あるいはパティッチャサムッパーダで」、ドゥッダサン コー ビッカヴェー イダン ターナン。パティッチャサムッパーダ(縁起)という言葉を使っているのもあります。

 二つの話を同時に話されている時は、パティッチャサムッパーダという言葉も使い、そしてもう一つは「ドゥッダサン エータン ターナン ヤディタンサッバサンカーラサマトー サッブーパティニッサッゴー タンハッカヨー ヴィラゴー ニロードー ニッバーナン」で、ニッバーナンが最後の言葉です。

 最高に難しい話は二つだけで、一つはイダッパッチャヤターの話、もう一つは涅槃です。そして二つの話を同時にされたのは非常に少なく、多くはどちらか一つの話をされました。私たちが一番耳慣れているのは涅槃の話で、「サッバサンカーラサマトー サッブーパティパティニッサッゴー タンハッカヨー ヴィラゴー ニロードー ニッバーナン」、幾つもの言葉が繋がっている話し言葉ですが、意味は「涅槃は深遠で見るのが難しい」だけです。

 ある所では、見るのは難しいのはパティッチャサムッバータだけと、イダッパッチャヤターを話されました。そしてブッダが悟ったばかりの頃「教えるだけ無駄だ、教えても苦労するだけだから教えない方が良い」と心が挫けられたのはこの話です。これはそれほど深いです。イダッパッチャヤターの話と涅槃の話は、これほど深遠です。

 しかし偶々ブッダは慈悲の面のパーラミー(功徳)があったので、「大変は大変でも苦労は厭わない。愚かすぎない動物、つまり目の中の埃が少ない」、本性や習性に愚かさが少ないという意味ですが、「世界にはそれもいる」という方向に考えを変えたので、それらの動物の利益のために教えられました。教えなければこれらの動物は利益を失い、つまり目の中の埃が少なくなれず、そして何の利益も受け取れません。だからブッダはイダッパッチャヤターの話、あるいはパティッチャサムッパーダ(縁起)の話を教えられました。

 ここまで話してきて、もう一度、煩く忠告したいと思います。ブッダが出家したのは、イダッパッチャヤターの話を探求したいと望んだからで、この苦は何から生じるか、どのように消滅できるか探求しました。このようなことを問題にするのは、何があるから何があり、何がないから何がないというイダッパッチャヤターを問題にすることです。

 次にブッダが出家して国を出たのは、苦はなぜあるのか、苦は何で消滅するのか、つまりイダッパッチャヤターを探求するために出家したということです。そしてブッダがあの施設この施設を次々と訪ねて歩いたのも、すべてイダッパッチャヤターの話だけを探求するためです。大悟された夜、イダッパッチャヤター、この縁起だけをつぶやかれたほどです。初更に縁起、あるいはイダッパッチャヤターの生起の部分を熟慮し、それから一度感嘆の言葉を発せられました。

 二更にはイダッパッチャヤターの滅の部分を探求し、そして二回目の感嘆の言葉を発せられました。三更にはイダッパッチャヤターの生起側と滅側の関連を探求し、悟ると「そのバラモンは、太陽が闇を追い払うように、当然悪魔とその部下を全滅させた」と、第三回目の感嘆の言葉を発せられ、ちょうど夜が明けました。ブッダはイダッパッチャヤター、つまり縁起を洞察することで大悟しました。

 次にブッダが大悟すると、話して見ると滑稽で、忘れるのが心配でもあるように、あるいは忘れるのが心配でも、どのようでも、本当は忘れることはありません。ブッダは知性が完璧な人なので忘れることはありませんが、それでもブッダはイダッパッチャヤターを、ぶつぶつとつぶやかれました。

 つまり悟った後、菩提樹の木の下、あるいは榕樹でも何の木の下でも、あるいは菩提樹の周りの小屋でも、何度も何度も復習して熟慮し、一週間、その菩提樹から離れて行くまでイダッパッチャヤターの話だけをつぶやいていました。次にブッダはどこで教えるにも、イダッパッチャヤターの話だけを教えました。

 しかし私たちは耳が聞こえず、耳が使い物にならないので別の話に聞こえ、イダッパッチャヤターの話に聞こえないのでイダッパッチャヤターの話と感じません。ブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)であるプラタム(教え)を八万四千項、八万四千蘊と見積もれば、すべてのダンマ蘊はイダッパッチャヤターの話だけを教えていると主張します。

 煩悩の話なら煩悩の中にあるイダッパッチャヤターで、苦の話の教えは、苦の中にあるイダッパッチャターで、実践の話を教えれば、このように実践すればこのような結果が生じ、このように実践すればこのような結果が生じるので、更にイダッパッチャターです。

 布施の話、戒の話、バーヴァナーの話、何の話もイダッパッチャヤターになるだけだからです。次に、聖向聖果涅槃である結果が生じれば、それは滅苦である部分のイダッパッチャヤターです。八万四千項目の中のどの言葉、どの項目もイダッパッチャヤターでないものはありません。

 次にブッダは、このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、常に心の中をイダッパッチャヤターに到達しているよう、このように目指されたのに、私たちはこのように聞いたことがありません。みなさんはこの言葉に慣れていないので、この言葉を良く知らないので、私が取り上げて話し、講義し、ブッダの望みどおり明らかにする行動をします。

 さっきみなさんは僧が、興味を満つべき言葉について唱えているのを聞きました。タン タターガトー アヴィサンブッチャティ アビサメーティ=如行はそのダンマ(つまりイダッパッチャター)をすべて知り、一斉に知り、アビサンブッチトゥヴァー アビサメートゥヴァー=知った時、理解した時、アージッカティ デーセーティ=当然教え、当然説明し、パンナペティ パッタペティ=当然規定し、当然規則として設定し、ヴィヴァラティ=扉を開け、閉じている物を開けたように当然公開し、ヴィバチャティ=当然分類し、つまり、理解が難しい塊を切り裂いて細かい部分にし、理解を簡単にしました。

 そして最後の言葉はウッターニーカローティ=伏せていた物を仰向けにするようにしました。伏せている物はその中に何があるか、あるいはどのようか知らないので、仰向けにして見なければなりません。ブッダの行動は、ブッダが言われた限りではこのようです。

 ブッダはこの話を知った時、理解した時、話し、説明し、規定し、設定し、開いて見せ、分類して見せ、仰向けにして見せました。だから私は、この項目は、私たちに助け合って伝承して欲しいと願われたブッダの望みと信じます。誰でも知ったら、理解したら、続いて人間同朋に対してこのようにさせます。そうでなければ消えて無くなり、ブッダの梵行は消失します。

 今私たちは助け合って宗教を伝承し、梵行を伝承します。だからブッダがされたようにしてください。ブッダは「知って見えただけ、説明し、解説し、話したように公開するよう望まれました。まだ知らない人、あるいはまだ知らない子供たちが、最高に重要なこのイダッパッチャヤターを知ることができる行動をすべきです。

 先生が学校で薬缶でお湯を沸かす話を教えるなら、イダッパッチャヤターが見える角度で教えるべきです。そうすれば、子供が仏教の心臓部を知る良い出発点になります。しかし今、彼らは見本を見せ、お湯を沸騰させて見せますが、水が水蒸気になって水に戻るとだけ教えます。これだけなら幼児の科学で、浅すぎ、仏教教団員にふさわしくないと言います。

 だからイダッパッチャヤターと呼ぶ物について教えて、知らせなければなりません。これがあるから、これが縁で、これが生じる。終わりがないので、次々とこのようで、水を沸騰させると蒸気になり、そして蒸気はその後どこへ行ってどうなるか、それは一つの方向です。しかし水は何から生じるかを知るべきで、水は何から生じるか遡るべきで、そうすればイダッパッチャヤターになります。元に、最初に逆っても終わりがありません。

 だから同じ水の話でイダッパッチャヤターの話を勉強でき、その子は道理のある子になり、最高レベルの道理、つまりイダッパッチャターの威力下にいる人になります。その子が成長して、目で見るのが難しい深遠な道理であるものを知るくらい進歩すれば、心の面の話になって滅苦ができます。

 新たに発願してしまいましょう。この宗教の聖なる弟子は、当然常に心の中を「これがあれば当然これがあり、これが生じることでこれが当然生じ、これがなければ当然これはなく、これが消滅することでこれが当然消滅する」という文言で知るようブッダが望まれた物を世界の人に知らせるために、みなさん一緒に、発願し直しましょう。

 これだけで利益があり、世俗面でもダンマの面でも、何でも全部、子供たちは道理があり、幽霊を怖がらず、あっちの方こっちの方に執着せず、美味しい美味しくない話に執着しすぎません。不味い物を食べて烈火のごとく怒り、美味しい物を食べて狂気して舞い上がる、こういうのはイダッパッチャヤターの話の知識がないからです。

 子供がイダッパッチャヤターの話を良く知れば、美味しい時も不味い時も心が狂って上がったり下がったりしません。彼らは「これがあるからこれがある」、砂糖を入れたから甘い、塩を入れたから塩辛いと、当たり前の物と見ます。そして他にもいろんな物を知り、迷ったことがある物何でも、不思議に感じません。

 かつては迷い、不思議で訳が分からなかった物全部、迷いが消え、混乱が消え、智者、覚者、明るい人という意味の仏教教団員の資質が形になります。愚かな人は明るくなれず、目覚めることができません。これが愚かな人です。知らない人は、知らなければならない物を、イダッパッチャヤターを知らなければなりません。

 イダッパッチャヤターを本当に知れば臆病でなく、走って逃げず、死を恐れません。体が痛んでもイダッパッチャヤター、そのようだからそのようになったと見るのであまり恐れず、まったく恐れません。良くできれば全然怖がらず、そして苦しまずに治療して解決します。

 人がサティを失うと何でも間違ってしますが、それはこの項目の知識がないから怖がり、迷い、神聖な物と見ます。今は多くの人がそのようになっていると見えると敢えて言い、誰かがそうでないと言っても、信じたくありません。

 つまり験を担ぐ話で、何かちょっと落ちて来ると考えは幸運や予兆の方に傾きます。ヤモリが一匹目の前に落ちると鳥肌立ち、自分は死ぬと考えるほど愚かです。あるいは何かちょっと失望しただけで魂消て、破滅する悪い予兆と見なします。それはイダッパッチャヤターを知らない愚かさで、原因以上に愚かです。

 だからイダッパッチャヤターは最高の物で、そして最高に価値がある物です。そうでなければブッダはこのように言われません。「この宗教の聖なる弟子は、いつでも心の中をイダッパッチャヤターと呼ぶ項目にしている」と言われません。そしてブッダがしょっちゅうつぶやかれたといろんな経にあり、省略したのも詳細なのもあります。

 縮小したのは短い四文で、詳細なら、しょっちゅうつぶやかれた二つの側の縁起です。私たちがつぶやくなら別の話で、別の話の夢のような寝言でダンマがありません。だから何かを話すなら、譫言を言うなら、寝言を言うならダンマにしてください。寝言を言わなければこのような譫言でなくても良く、何でも知性でし、何が何か見えるようにしてください。

 縁である物があれば何かが生じ、縁である物があれば何かが消滅するとこのようにだけ知って、夢を見るならこのように夢見、寝言を言うならこのように言います。生きている物も、正常でいる物も、このようにだけ明らかに知ります。

 これは世界のすべて、あるいは宇宙のすべての世界の基礎で、そしてそれはこれにとってどれくらい威力があるか自分で見てください。地球が生じたのもこれによって、世界を生じさせた原因である物もイダッパッチャヤターによって生じました。

 自分は地球が何から生じたか知っていると自慢する人が、地球は太陽から生じ、太陽はどこから生じたか、すべては何から生じたかを知っていれば知っていると認めます。しかし最後は良く見てください。それはイダッパッチャヤターから生じたと見えます。

 次に人、命のある動物が出現して地球に生まれたのも、命のない物の状況から生じ、それもイダッパッチャヤターからです。西洋人、現代科学者を信じなければ、「それ以前は地球に人間はいない。人間はこの地球にいたことがなく、まだ生じたばかりで、それがいつかはご勝手に」と言う以外に道はありません。

 生まれることができたのはイダッパッチャヤターの威力によってです。フラフマが降りて来て地味(註あり) を食べて煩悩が生じ、そこに止まったと信じるのも自由で、それもイダッパッチャヤターです。あるいは科学者のように、それは段階的に生じて生物になったと信じても、それもイダッパッチャヤターです。次に全身が人になったのも、すべてはイダッパッチャヤターです。(註:三界経にある言葉で、天地開闢の時に地上に生じた味で、蜂蜜のようだと言われている)。

 時間があったら、髪・体毛・爪・歯・皮膚・骨・血・肉は、土・水・火・風のダートゥ(元素)と熟慮すると、それぞれはイダッパッチャヤターばかりです。考え、思い、感覚である心、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)でも何でもイダッパッチャヤターです。そしてイダッパッチャヤターはルーパカーヤ(形身)より強烈です。

 つまり名、あるいは心の部分は身体の面より強烈で敏捷なイダッパッチャヤターでです。しかしその後、心と体が共演して別のイダッパッチャヤターになり、イダッパッチャヤターであることに止まっていません。これについて良く知らなければ、苦があります。

 だからイダッパッチャヤターを解決するためにイダッパッチャヤターを知ります。ね、良く聞いてください。私たちがイダッパッチャヤターを知るのは、望ましくないイダッパッチャヤターを解決するためです。苦を消滅させる部分のイダッパッチャヤターで、苦を生じさせる部分のイダッパッチャヤターを解決します。私たちは知識を求め、ブッダが完結した形で教えられた実践方法を求めます。人は愚かすぎるので、たくさん話せば成功しないので、完結しているという言葉を使います。

 だからブッダは「このようにだけしなさい。これだけ、このようにだけしなさい。」と言われ、罪を成さず、徳だけを成し、心を純潔にすると、こういうのはイダッパッチャヤターの話をする必要がない完結している経です。しかし本当は、もう一方の苦であるイダッパッチャヤターを解決するイダッパッチャヤターです。だからイダッパッチャヤター以外に何もありません。

 次に人がブッダと同じくらい賢ければ、ブッダは「幸福はない。苦もない。あるのはイダッパッチャヤターだけ。あなたがどの部分を幸福と呼び、どの部分を苦と呼んでも、どれも正しくなく、あるのはイダッパッチャヤターだけです」と言われました。

 今日は、一般の法則であるイダッパッチャヤターの状態を見るよう話します。続いて知らなければならない物、つまり仏教はどのようにイダッパッチャヤターしかないかを知り、その後イダッパッチャターは中道と知ります。

 私たちは正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい仕事、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、八正道は中道と聞いたことがあり、それはブッダが、まだ深い智慧がない一般の人のために簡単にした経なので、このような八種類の実践を中道と呼ぶとあります。

 次に非常に賢い人のためのたくさんの経があり、特に縁起の部類はマッジマパティパダー(中道)、つまりイダッパッチャヤターパティッチャサムッパードー(縁生縁起)を説かれました。中道はイダッパッチャヤターパティッチャサムパバードーです。縁起の法則で「これがあればこれが縁で、これが生じる」と話す時、その縁起が中道です。それは中間にあります。それは全部中間にあります。

 イダッパッチャヤターはサッサタディッティ(常見)でなく、ウッチェダディッティ(断見)でもありません。人は本当にいて、死んで生まれると言えば、こういうのは常見です。こういうのはイダッパッチャヤターの法則に反します。不変である人がいると見なしてしまうので、このように固定的なので常見です。

 次は何もない空で、死ねば消滅する、今人もいないと反対に誤解すれば邪見の話で、断見と言います。断見であるものはイダッパッチャヤターではありません。イダッパッチャヤターは「これがあればこれがある。これがあればこれがある」と、このように言うだけです。人が死んだ後生まれるのかと問えば、「あるのはイダッパッチャヤターだけ。人はいない」と答えます。人がいなければあるのはイダッパッチャヤターだけです。

 だからこのようにバカみたいな質問をしないでください。私は答えようがありません。人がいなければ、あるのはイダッパッチャヤターだけなので、人が死んだら生まれる、あるいは死んだら生まれないと答えられません。これがイダッパッチャヤターであり、中間にいること、マッジマパティパダーです。

 あるいはイダッパッチャヤターと言えば、有るとも無いとも説きません。有ると言えば常見で、無いと言えば断見で、イダッパッチャヤターは有と無の中間にあります。その人が「有る」あるいは「無い」と言いたければ、その人の勝手ですが、本物はこのようにあるだけです。これがあるからこれがあり、これがあるからこれが縁でこれが生じ、絶えず変化しているので、人がいることはできません。

 有ると言いたければ、それもイダッパッチャヤターの状態があり、無いと言えば、それは正しくありません。それはあり、イダッパッチャヤターの状態の変化があるだけだからです。一方的に有ると言えば正しくなく、一方的に無いと言っても正しくありません。だから「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と言わなければなりません。

 そしてどこまでもこのようなら、原因、縁、結果の流れで、原因が結果を生じさせ、結果が原因になって結果を生じさせ、結果は原因になって結果を生じさせます。結果も原因になり、そして結果を生じさせる。こういうのをイダッパッチャヤターと言います。だからそれはどこまで行っても中間にあり、右にも左にも偏らず、苦行でも、幸福耽溺でもありません。それはイダッパッチャヤターだからです。

 「この人、あるいは死んだ人は生まれるか。死んだ人が生まれるのは同じ人なのか」と質問すると、プラナーガセーナは「その人ではなく、他の人でもありません」と答えたほどです。それはイダッパッチャヤターだからです。

 これは、中道を歩いて愚かに対であるものに迷わないために、イダッパッチャヤターを良く知らなければならないという見本です。どちらか一方だけと断定して明示する対の物はイダッパッチャヤターでなく、そのようとイダッパッチャヤターで仮定しただけです。本当はイダッパッチャヤターは何にもなれません。それはイダッパッチャヤターであるだけです。

 何かと言うなら「仮定」と言い、「徳・罪」と言う、こういうのは仮定で言います。イダッパッチャヤターと言えば徳でなく、罪でなく、あるのは「これがあればこのようになければならず、このようにあれば、それはこのようになければならない」とあるだけです。幸福と呼ぶものが生じるのも、彼はイダッパッチャヤターと言います。

 しかしその人、あるいはその人たちが気に入れば幸福と呼びますが、本当はイダッパッチャヤターだけです。だから対である物の意味は消滅するので、阿羅漢は善悪、功罪、苦楽、勝ち負け、損得、主従、対であるもの何でも、百組でも、イダッパッチャヤターが見える人の心にはありません。

 だから愚かな側と賢い側の知識を集めた物と見なします。愚かな人の知識は無知次第で、賢い人の知識はイダッパッチャヤターの知識次第です。イダッパッチャヤターを最高に知れば阿羅漢で、何かであることを超えてしまいます。知らなければ対の物に沈んでいて、一時喜び、一時悲しみ、一時地獄の動物になり、一時天国の動物になります。

 ここに座っていて一時地獄の動物に生まれ、一時欲界の天人に生まれるのは、イダッパッチャヤターを知らないからです。天人たちは更に知りません。天人は今狂っていて、心を魅了する天の財産に恍惚としているからです。こういうのは更にイダッパッチャヤターを知りません。

 だから天人が死ぬと、一人の天人が死ななければならないと、どこへ行けば良いかという問題が生じ、友人である天人たちが「善趣に行かなければならない」と言った話があります。死ななければならない天人が、善趣はどこだと聞くと、友人は知らないと言います。次に賢い天人、あるいは知っているインドラ神が、天人たちにとっては人間界が善趣だと言いました。この人間界はブッダ・プラタム・僧があり、苦と滅苦を知ることができるからです。

 だから人間界は天人の善趣です。その天人は「よし!分かった。私は死んだら善趣である人間界に生まれる」と言いました。天人たちがこのように言うのは、イダッパッチャヤターを知らないからです。だから欲界、形界、無形界の話に迷い、他人より良い、他人より幸福だと言います。これは疑うまでもなく自慢します。

 イダッパッチャヤターを知らなければ、絶えず他人より良いと考えまなければなりません。あるいは本当に負ければ悔しがって、俺は他人より劣ると言い、苦になります。イダッパッチャヤターの法則に反すので、イダッパッチャヤターである以外に「それは良い、あるいは悪い」と言うことはできません。

 私たちが善い・悪い、勝った・負けたと勝手に言い、勝手に仮定するのは欺瞞の話ばかりです。勝手に考えることもでき、友達に騙されても安心していられます。これがイダッパッチャヤターを知らないことで、だから本当の滅苦の道はありません。

 さて次は、知性があれば、あるいは自分を知性がある部類に分類しなければならないので、パダパラマ(言葉だけ最高に話すが、その言葉の意味は理解していない人)にならないでください。全部水中のカメや魚の餌になってしまいます。知性があるなら、この話を理解しなければなりません。

 何とか話が理解できるなら、世俗のどんな知識も、ダンマの話も、その知識はイダッパッチャヤターと関わっているとイダッパッチャターを理解するべきです。科学も何学も、世界の何の学問知識も、世界のすべての学問を規定することは、本物はイダッパッチャヤターに基礎があり、そうすれば良くも悪くも望みどおりに成功します。

 しかし今、この世界のイダッパッチャヤターは利己的な結果があり、この世界の人が良いのは利己的なだけで、身勝手ができ、どんどん身勝手が上手になるので侵害し、喧嘩し、幸福に暮らす時間がないほど争います。彼らはイダッパッチャヤターを知らないので、イダッパッチャヤターの話と一致しないイダッパッチャヤターがあります。

 しかしイダッパッチャヤターの威力で経過しなければならないので、苦を生じさせるイダッパッチャヤターだけが、現代の世界の人を支配しているので、彼らは侵害する物を愛します。今の世界の人は最大限に優位になる物を愛します。彼らのイダッパッチャヤターはこの面を目指し、この面のイダッパッチャヤターにならなければならず、他の方面にはなりません。

 イダッパッチャヤターはいつでもイダッパッチャターで、いろんなタ様式があるだけです。地獄へ落ちるのも天国へ行くのも全部止めてしまって、涅槃行くこともできます。あるいは益々侵害しながらこの世界で暮らすこともできます。これもイダッパッチャヤターの法則になり、本当になります。だから私たちは望ましくないイダッパッチャヤターを解決する部分であるイダッパッチャヤターを知らなければなりません。

 望ましい方向のイダッパッチャヤターを理解しなければなりません。そうすれば望ましくない部分、つまり苦のイダッパッチャヤターを解決することができます。苦がない部分のイダッパッチャヤターを知っても、迷って最高に素晴らしい物と執着しないでください。それは苦でなくする物にすぎないので、教えとして掴んでおきます。こういうのは苦が生じることはできません。

 このような理由でブッダは「この宗教の聖なる弟子は、当然常に心の中を、これがあるからこれが縁で、これが生じる、としています」と言われています。聖なる弟子が心の中をこのようにしておけば苦は生じられず、苦がないことが現れます。このようにした時は迷いがなく、何もなく、すべての物、何にも執着しないからです。

 執着しない時は苦でなく、上下する心がなく、煩悩でも苦はなく、これを忘れた途端苦になります。だから良いサティがなければなりません。対の物、善悪、功罪、苦楽、損得、男女、何でもこれらの話に迷わないよう、それがイダッパッチャヤターの状態であるようサティに良く管理させなければなりません。絶えず「私、私の物」と執着すべきではありません。

 今日はどの種の知識も、世界を地獄へ導く種類も、あるいは世界を天国へ導く、あるいは世界を涅槃へ、つまり滅苦へ行かせる種類の知識も、すべての知識をまとめたものであるイダッパッチャヤターだけを述べました。だからみなさん、この言葉をしっかり憶えてください。第二回目の講義は、全員がこの言葉、イダッパッチャヤターという言葉を正確に記憶する以外に何も望みません。

 もっと良くするなら、私が続けて話す熟語を全部憶えます。こういうのはタイ語にあり、代わりに使うことができます。パーリ語はブッダが一連の言葉で話され、タイ語で何と言うのか知らないので、勝手にサムハワリー(言葉の集まり)と言います。つまり繋がっていなければならない熟語で、西洋人は collective phrase と言い、通常房のように繋げて話す phrase (句)です。

 英語には少ししかなく、パーリ語にはたくさんあります。たとえばサッブサンカーラサマト- サッブーパティパティナッサッゴー タンハッカヨー ヴィラゴー ニロードー ニッバーナンは、何語も話していますが、本当は涅槃という意味だけです。プーカオラオカオは、山という意味だけで、これらは代わりに使える言葉です。

 次にイダッパッチャヤターという言葉は、言葉の房のように引っ張る言葉があり、タタター アヴィタタター アンニャタター イダッパッチャヤター、これは四語で、要旨は同じですが、言葉は違います。タタター=そのようであること、アヴィタタター=そのようである状態と異ならないこと、アンニャタター=別のようではないこと、イダッパッチャヤター=これがあればこれが縁で、これが生じること。これで一房で四語あります。

 次にこの房に引き込む房もあり、たとえばダンマティタター=当たり前にあること、ダンマニヤーマター=当たり前の道理、だからスンニャター=空であること、アナッタター=自分がない物であることになります。

 すべてター、ター、ターで終わる言葉ばかりです。次にターで終わらない言葉もあり、たとえばヤターパッタヤン=縁で経過する、タートゥマッタン=ダートゥであるだけで、自分はない。これもイダッパッチャヤターですが、言葉は遠くなります。

 一番身近な言葉にすれば、タタター=そのようであること、アヴィタタター=そのようであることから免れないこと、アンニャタター=他の状態にはなれないこと、イダッパッチャヤター=これがあればこれが縁で、これが生じることです。次にブッダはこのような状態をダンマダートゥと呼ばれ、ダンマ ダートゥは、ブッダが生まれようと、ブッダが生まれまいと、このダンマダートゥは永遠にあると強調されました。

 イダッパッチャヤターは過去もなく未来もなく、つまり生もなく滅もありません。イダッパッチャヤターは発生や消滅があってはならず、生まれる必要も消滅する必要もない規則です。だからブッダが生まれてもそれはあり、ブッダが生まれなくてもそれはあります。

 ブッダは常に「ウッパーダー ヴァー ビッカヴェー タターガターナン、アヌッパーダー アナンアタター、イダッパッチャヤター パチッチャサムッパードー」と強調され、パティッチャサムッパードーという言葉で終わります。パティッチャサムッパーダ(縁起)という言葉が好きなら、それがイダッパッチャヤターで、イダッパッチャヤターはパティッチャサムッパーダと知ってください。だからブッダが生まれても生まれなくてもパティッチャサムッパーダはあり、そして永遠にあります。

 私たちは無常・苦・無我の話ばかり聞き、僧が唱えるダンマニヤーマスッタの、アニッチャン ドッカン アナッター サッベー サンカーラー アニッチャー、サッベー サンカーラー ドッカー、サッベー ダンマー アナッター、それはダンマニヤーマター ダンマッティタターで、ブッダが生まれても生まれなくても、すべてのサンカーラは不変でなく、苦であり、無我であると、このようにだけ聞いています。この経よりもっと重要な部分、あるいはもっと広大な部分は聞いたことがありません。

 なぜ子や孫に聞かせてくれなかったの?と先祖たちを責めないでください。先祖は、子や孫は聞いても分からないと見たのでしょう。だから浅くて簡単な物ばかり聞かせました。次に現代の私たちになると、今後は浅い子や孫でいるべきでなく、多少は良くなるべきなので、ちょっと移動して、仏教のすべての心臓部であり、仏教のすべてであり、宇宙の真実であるイダッパッチャヤターを良く知るべきです。

 この世界のすべての学問知識は、どの学問のどの分野も、当然イダッパッチャヤターの法則次第です。これが第二回目の講義の目的で、イダッパッチャヤター以外に何もないとみなさんの心配をなくし、疑念をなくし、躊躇いをなくしてしまうためです。この話を良く知らなければ大変で、この話を良く知れば聖向聖果涅槃に到達するのが簡単です。

 聖向聖果涅槃は難しいか簡単かと問えば、イダッパッチャヤターのように答えます。難しいと答えれば狂っていて、簡単と答えれば狂っていて、イダッパッチャヤター次第と答えれば最高に正しいです。それでもそれほどの人、サティ、知性、根、能力、何でも同じではないこれほどの人にふさわしい方法があり、それも段階的なイダッパッチャヤターです。

 どうぞイダッパッチャヤターに信頼、希望、何でも託して、正しい話にする努力をしてください。そうすれば自然の法則で経過し、自分が滅苦をするのも難しくなく、ふさわしい時に、棺に入る前に滅苦ができます。

 これがイダッパッチャヤターを知ることの利益で、同じ法則の威力でその後苦にならない種類の実践ができます。苦と滅苦は、どちらの側を選ぶかで、繋がっている一つの法則、つまりイダッパッチャターです。

 今日はこれで講義を終わらせていただきます。これから僧のみなさんに読経をしていただきます。


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