すべてのダンマ、あるいは

身の周りのすべての物であるイダッパッチャヤター


1972年2月5日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第六回目のイダッパッチャヤターの講義は、みなさん良くご存知のように、すべてのダンマ、あるいは身の周りのすべての物であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)と題してお話します。

 この話については、仏教の心臓部である最高に重要な言葉にも拘らず、誰も話す人がなく、誰も聞く人もなく、三蔵の中に黙って沈んでいる憐れむべき物であるという理由で、仏教教団員全員がイダッパッチャヤター(因果)という言葉に慣れるよう強く望んでいると、講義の度にお浚いしたいと思います。

 だからみなさん誘い合って、力を合わせて、私たちの日常会話に使われる物にしてください。多少難しくても不可能ではありません。時々話していれば、当然聞く機会があるので普通の言葉になり、最後には簡単に理解できるようになります。

 僧が四十分ほど読経した短い経の中に、イダッパッチャヤターという言葉が二十二回もあります。そして重要な言葉である、更に短くまとめたタタターという言葉は十一回もあり、アヴィタタター、アンニャタタターなどは十一回あると観察して見てください。これらの言葉は全部関連した意味があります。綴りは違っても同じ話と言います。

 イダッパッチャヤターは、「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」という意味です。タタターはそのようになるという意味で、それはそのようでなければならず、別のようにはなりません。

 つまりこれがあればこれが縁で、これが生じなければなりません。そしてダンマッティタター、当たり前にあり、そしてダンマニヤーマター、自然の普遍の法則です。私たちは仏教教団員であることにふさわしく、幾つでもないこれらの言葉に慣れるべきです。

 イダッパッチャヤター(因果。縁生)はパティッチャサムッパーダ(縁起)に注目します。ブッダは縁起をイダッパッチャヤターと呼ばれました。縁起は互いに依存し合って生じる物で、これがあればこれが縁で、これが生じます。これが仏教のすべての心臓部です。

 仏教の心臓部はこのよう、そのよう、あのようと何十種類述べられていても、それはイダッパッチャヤターという言葉に集約されます。パーリ(ブッダの言葉である経)の中で、無常・苦・無我についてだけ言及したダンマニヤーマスッタの中の言葉と同じ言葉を使って、ダンマッティタター、ダンマニヤーマターと言うのは、無常・苦・無我の説明です。

 この経は無常・苦・無我を、これがあればこれが縁で、これが生じると言うくらいハッキリ説明します。それはそのようであり、他のようではありません。だからダンマダートゥであり、ブッダが生まれても生まれなくても、それを考慮に入れなくても、これはイダッパッチャヤターとして、当然このように永遠にある仏教の心臓部です。

 ブッダは「私はこの話を知り、見え、理解したからブッダであると宣言しました」と、このように言われています。この話がまだ理解できない間は、まだアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟った人と宣言しませんでした。この話を良く知った時公開し、規定してすべての動物に説明されました。それは、今まで伏せてあった物を裏返して理解できる物にしたようです。

 そして「ダンマが見える人は私が見え、私が見える人はダンマが見える」と話しておかれたブッダバーシタがあります。この話はどれほど重要か、考えて見てください。如行が見るのと同じ価値があるダンマを見ることは、イダッパッチャヤターを見ることです。だからこのダンマを言い慣れ、聞き慣れ、目でも耳でも日常的に慣れた物にしてください。

 本当は、これについて話す人は多少はいますが、パーリ語として話さず、庶民語として話します。「それはそれ自体の成行きになる」と言うのは、イダッパッチャヤターについて言っています。そして「それはそのようになるのだから、喜んだり悲しんだりしてはいけない」と言うのはタタターです。このようなのは、これはお婆さんに恥ずかしいと思いなさい、と繰り返し忠告します。

 田舎に住んでいる文盲の年寄りでも「息子よ、孫よ、悲しんではいけないよ。それはそのようになるんだよ」、あるいは「そのようでなければならないんだよ」と言えます。

 誰かが死ぬと、あるいは損害やいろんな災害があると、人はよく泣き、反対の場合は小躍りして喜んで笑いますが、年寄りは「それはそのようになるんだ。それはそれ自身の成り行きになる」と言います。これを「そのお婆さんは仏教の核心に到達し、変化するすべての物に動揺しない人」と言います。これが、そこに本当に仏教があることです。

 しかし今はあまりいません。いるのは愛すか嫌うか、二つに一つしかありません。日常話す言葉にイダッパッチャヤター、あるいはタタターという言葉はありません。あるのは猿が耳を洗わなければならないほど「俺の銭、俺の金、俺の子、俺の妻」という言葉だけです。こういうのが日常的にあります。

 それはどうか考えて見てください。毎日私たちにあるのは、俺の銭、俺の金という言葉だけで、一時そこに、一時ここに山ほどあり、イダッパッチャヤター、タタターなどと話す人はいません。

 心がイダッパッチャヤターを見れば、つまりこれがあればこれが縁で、これが生じると見ればイダッパッチャヤターが見え、俺の金と叫びません。俺の銭、俺の金、俺の子、俺の妻と叫ぶことはできません。今私たちは、俺の銭の話、俺の金の話を至る所でし、至る所で聞きます。それは当然イダッパッチャヤターが見えないことを表しています。

 だから助け合って探求して、仏教教団員をブッダに至らせてください。つまりこのダンマを見ることでブッダが見え、如行を見ることが増えるようにしてください。それがそのようになる物なら、それはそれ自体の話になると、こういうの言葉を使うことを増やしてください。

 運が良い時に宝くじに当たって巨大な得をするのもイダッパッチャヤターだけです。あるいは一文無しになるのもイダッパッチャヤターで、それはそのようになります。これは、身体に知性がまだあるという意味です。

 もう一度言うと、仏教の心臓部が体にあると言います。もう一度「ダンマが見える人は私が見え、私が見える人はダンマが見える」と言われたように、この体にブッダ、如行がいると言うこともできます。そしてある経で「縁起が見える人はダンマが見える、ダンマが見える人は縁起が見えると呼ばれる」と言われたのは、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」とイダッパッチャヤターを見ます。

 だからみなさん、イダッパッチャヤターの要旨をこのような状態で憶えてください。それは私たち仏教教団員のいろんな物をもっと良く、もっと利益があるように解決します。

 述べたような理由で、聞いて分からない人にとって眠気を誘う話でも、聞いて分かる人にとっては耳目を明るく澄ませる話なので、私はこの講義をする努力をしています。述べたように、これは仏教の心臓部だからです。だからマーカブーチャー季の講義の予定は、イダッパッチャヤターの話だけで十三回です。これはすべて、イダッパッチャヤターを広く知るまで、いろんな角度からイダッパッチャヤターを説明して見せるためです。

 最初の回で、仏教の心臓部はまだ三蔵の中に黙って沈んでいると説明しました。誰も言及せず、日常で口癖のように「これが縁で、だからこれが生じる」と話す人はいません。いるのは俺の銭、俺の金、俺の何という形で見る人だけで、それで怒ったり、嫌ったり、愛したり、憎んだり、世界中このようです。仏教教団員でない世界を見ると、これ以上かもしれません。

 だから仏教の心臓部を、三蔵の中に黙って沈ませておかないため、仏教教団員集団に普及させて理解し合っている物にするため、そしてこの言葉を言い慣れ、聞き慣れ、目がこの文字を見る機会が時々あるよう、このようにするために何でもします。

 第二回目は、イダッパッチャヤターは学問知識、あるいは世界のすべての学術として重要であると説明しました。これは、人が惑溺している、あるいは有益に使っているすべての学問知識は、どれもイダッパッチャヤターの法則で経過すると説明して見せるためです。どのレベルの鋭敏な哲学者でもイダッパッチャヤターの法則に依存しなければなりません。そうすればそれらの学術、あるいは知識を規定でき、実践に使える物にできます。

 この法則に反せば、学術、あるいは知識として成立しません。あるいは規定しても実践できないので何の利益もありません。これは学術の話、知識の話は、仏教の心臓部より卓絶した別の話と理解しないと、関心を持ってください。

 第三回目は、私たちがあらゆる角度で「自分」あるいは「自分の物」と言い、考え、思う物は、全部イダッパッチャヤターの流れと説明しました。すべての意味の自分はイダッパッチャヤターの流れにすぎません。これがなければ、自分もいません。

 それは縁で経過するので、そのような考え、このような考えを生じさせ、身体を成長させ、イダッパッチャヤターの法則の成り行きばかりです。あるいは今現われているイダッパッチャヤターです。どこでも、私たちをこのように見えなくなせます。

 第四回は神様であるイダッパッチャヤターについて話しました。これはすべての物より上にある、断固とした威力がある物の角度だけの意味で、すべての物を生じさせ、どんな状態にするのでも、それはイダッパッチャヤター以外の何物でもないと話しました。神様と呼んでも良く、神様と呼ばず、イダッパッチャヤターと呼んでも良いです。

 だから仏教教団員も神様、つまり何かを生じさせ、それを支配し、そしてそれらの物を時々破壊して再び生じさせる物であるイダッパッチャヤターがあります。これが神様の義務を行うイダッパッチャヤターです。私たちは本当の神様を本当に知らなければなりません。そしてこのような状態で正しくしなければなりません。そうすれば考えの中で神様を信じる人たちを蔑視しないで、あるいは宗教間で憎み合わないで話しができます。

 その後、進化した物のすべての分野の進化はイダッパッチャヤターばかりと話しました。命のある物で進化しない物はなく、進化しなければなりません。それがイダッパッチャヤターの法則で現われたイダッパッチャヤターです。

 だから地球がない時から進化があり、その後地球が現れ、蒸気と水があるようになり、それから単細胞の生物、多細胞の生物、細胞の群れが組み合わさって身体と呼ぶ物になり、次々と進化して心と呼ぶ物が感覚・思考として現れました。畜生が現れ、半獣が現れ、人間、天人、あるいは何とでも呼び方次第の動物が現れました。すべてはイダッパッチャヤターですが、私たちは、ブッダが「このよう」と言われたように見ません。

 さて今日は、私たちを囲んでいるすべての物であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)と題して話したいと思います。目的は私たちの周囲にある外部の物について話したいとハッキリ見えています。しかしイダッパッチャヤター、あるいはパティッチャサムッパーダ(縁起)の話は内面だけの話と証明して見せたいと思います。

 ブッダは、縁起の話が私たちの心に、苦の発生として、あるいは苦の消滅として生じるよう目指されました。これが内面のイダッパッチャヤターで、誰にも日常的にあります。まだ最高位の聖人でない限り、人間の心には「アクサラチッタ(不善の心)」と呼ぶ物が必ずあるからです。

 アクサラチッタがある時はいつでも、その時はイダッパッチャヤターの形でハッキリ現れている縁起があります。

 ブッダバーシタ(ブッダの言葉)であるすべての経は、この項目を明らかに説明しています。何十、何百ものたくさんの経は、縁起の話は無明触がある度に生じると言っています。つまり無明で世界に触れれば、その時イダッパッチャヤターがあります。

 目が愚かさによって何かを見た時、耳が愚かさによって何かを聞いた時、鼻が愚かさによって何かの臭いを嗅いだ時、舌が愚かさによって何かを味わい、皮膚が愚かさによって接触し、心が何らかの感情を愚かさによって考えた時、これを無明触と呼び、無明の威力による六つの接触です。

 無明触がある時はいつでも、無明触から生じた受があり、それを無明受と言います。無明から生じた、あるいは無明が根源にある受で、そのようなら欲望が生じないよう解決する道はありません。無明が基礎にあるので、その受から欲が生じ、取が生じ、有が生じ、生が生じ、苦が生じるからです。

 無明触ですべての物に触れれば、その時五取蘊が生じたことを意味します。その五取薀は常に生じていると考えないでください。

 これです。五取蘊の発生と、五取蘊の消滅を熟慮して見ることは、ブッダが「これが漏(アーサヴァ)の終わりのためになるサマーディバーヴァナー」と言われたような最高のヴィパッサナーです。

 この状態のパティッチャサムッパーダ(縁起)を見ることは、当然漏の終わりをもたらすイダッパッチャヤターを見ることを表しています。だからイダッパッチャヤターは、ブッダが望まれたように内面だけの話と見なします。

 アビダンマ(論蔵)の内容はもっとハッキリしています。アビダンマのアクサラチッタの各項に、ヤスミン サマイェー アクサラン チッタン ウッパンナン ホーティ=悪が生じている心の時は、喜悦で天国へ行き、あるいはディッティで関わり、ルーパーラマナン ヴァー スッダーラムマナン ヴァー等々=形が感情でも、声が感情でも、臭いが感情でも、何かを考えることが感情でも、

タスミン サマイェー アヴィッジャーパッチャヤー サンカーロー等々=その時行は、当然無明が縁で生じ、識は当然行が縁で生じ、名形は当然、識が縁で生じ、六処は当然名形が縁で生じ、最後にすべての苦はこのような状態で生じると言っています。

 これは「アクサラチッタがある時はいつでも、その時は十分な、あるいは完全なイダッパッチャヤターである縁起がある」と短く明らかに明示した言葉です。これも、何の感情に依存してでも、心が悪のダンマの流れのように異常になれば、多くても少なくても、近くても遠くても、このような物は苦を生じさせる原因である縁起の類のイダッパッチャヤターがあると、良く理解しておくべきです。

 この話は何回も説明したことがあるので詳しく説明しません。しかしイダッパッチャヤターの話はこのような内面の話と思うよう忠告させていただきます。

 次に今日は、ブッダはイダッパッチャヤターの法則を、最高に中立に話しておかれたと外面を見ます。外面も内面も、物質も抽象物も、すべてイダッパッチャヤターの法則があり、ます。あるいは全部イダッパッチャヤターです。だからそれがどこにあっても知るべき、見るべき、見えるべきです。

 だから私は、どの角度、どの面でも、毎回、どこででも見えるよう理解し合い、助け合う決意があります。みなさんも、このように言う私と同じ決意があるよう望みます。

 時々心にだけ生じる、内面だけのイダッパッチャヤターは、重要な話と意図されたイダッパッチャヤターです。

 広く見れば、人間・動物・生き物に生まれたこともイダッパッチャヤターと言います。このような身体面のイダッパッチャヤターは、説明する人がたくさんいます。今説明する人がいますが、身体面の命の話として、生物はどのように生まれたかを説明します。これを外面になったと言います。内面なら命や身体について話す必要はありません。煩悩が生じる話、つまりアクサラチッタ(不善な心)が生じる話だけをすれば十分です。

 しかし今はアクサラチッタ、あるいはクサラチッタ(善い心)、あるいは何でも、それは外部の縁である身体に依存しなければなりません。そうすれば心は義務をすることができます。外皮、あるいは心を受け止める容器のような身体、それもイダッパッチャヤターです。

 次に世界中の生き物、何でも全部合わせてもまだイダッパッチャヤターの話、あるいは縁起の話と、広く遠く見ます。このように説明する人もいます。そのような状態の縁起の説明を書いている本を見たことがあります。それは正しくありません。あるいは縁起の説明の全部でなく、世界はどのように生じたかだけ、物質世界だけに注目しています。本当の核心である話は、世界の生き物の心の中の話に関わる話です。

 しかしいずれにしても、それはまだ正しいと言います。世界全体をイダッパッチャヤターの角度で見て動転せず、世界に惑溺しません。世界をイダッパッチャヤターと見るからです。

 次にもっと狭めて、私たちを取り囲んでいるすべての物のイダッパッチャヤターを見ます。これは「私たちの身近で取り囲んでいる物が凶悪なので、良く注意しなさい。問題はそこにある」と、重用な物、あるいは極めて危険な物を先に見てください。

 在家なら俺の銭、俺の金、俺の子、俺の妻と話した以上の物は何もありません。俺の家、俺の仲間、俺の牛・水牛、俺の田畑、俺の何でも、それが自分を取り囲んでいる物です。

 出家もそれに近い物があり、イダッパッチャヤターの知識がなければあれこれ自分の物にし、俺の寺、俺の身上、鉢、衣まで俺の物になります。こういうのはイダッパッチャヤターを知らないので、在家と同じだけ愚かさがあります。

 だからこの項目を熟慮して、今自分を取り囲んでいるすべての物にあるイダッパッチャヤターを知るべきです。自分はどんな環境の中にいるか、よく見てください。職務、責任、お金や荷物、妻子、夫、これらは問題を生じさせる物で、他の物はあまり問題になりません。他の物は遠くにあるので、私たちを取り囲みません。

 体でなければ心の、危険になる物を見なければなりません。それは私たちを死なせるほど、身体面で非常に危険なこともあります。あるいは清潔、清明、静寂になる道がないほど心を害します。だから自分を取り囲んでいる物を遊びにしないで、それを良く見なければなりません。

 次に残っているのは「良く見なさい」という言葉で、良く見るという言葉は実践の心臓部です。仏教の実践をどのように話しても、何百何千通り話しても、残るのは「良く見る」という言葉だけです。その人が良く見れば問題はありません。そして滅苦ができます。

 みなさん全員が「良く見なさい。あるのは得だけで損はない」という短い言葉の教えを守ってくださいと、ちょっと挿ませていただきます。これは心の中にお守りを下げているように、各種の危険を防ぐお守りになります。そのお守りの威力でいろんな物を良く見れば、あるのは得だけで損はありません。

 何が起きても、何が来ても、何が出て行っても、あるのは得だけで損はありません。お金を手に入れても何も損はなく、全部失っても得以外に、何も損はありません。つまり知識を得、真実を得、理解を得ます。

 お金を手に入れるようなのは、往々にして自分を愚かにします。良く見ないので、お金を得たことで煩悩が生じるからです。次にお金を失う段になると相変わらず愚かになり、泣いて騒いで食事も喉を通らず、寝ても眠れません。それは愚かです。あるのは損ばかりで得はありません。二つだけ例をあげました。

 良く見れば、あるのは得だけで損はありません。手に入れれば賢くし、失えば更に賢くし、更にイダッパッチャヤターに過ぎないと言えば、得以上です。手に入れることは不注意にし、自分を忘れさせます。失うことも自分を失わせますが、得ることより考えさせ、気づかせます。病気や死は便利で潤沢なことより良く教えます。

 私たちが良く見、見ることを知り、見ることができれば、何が起きてもあるのは得だけで損はありません。得ても失っても、あるのは知識を得ることだけです。生きても死んでも、あるのは知識を得るだけ。これを「良く見なさい。あるのは得だけで損はない」と言います。

 このような教えを掴んでください。あるのは得だけで損はありません。大便を排泄してもまだ得があり、見方を知っていれば、少なくとも知識を得、身体的生活に関して何かを得ます。あるいはその行動をどんどん正しく、良くすることができます。だから重要なのは良く見ること、それだけです。

 良く見ることはヴィパッサナーです。ヴィパッサナーとは「絶妙に見る」「明らかに見る」「いろんな物を正しく見る」という意味です。それはつまり良く見ることです。「良く見なさい。良く見るだけでいろんな問題は全部解決する」と、庶民が話す言葉があります。

 だから得だけで損はありません。人が泣いていれば、私たちは得をします。家が全焼しても、私たちはまだ得でき、見方を知っていればたくさん得になります。見方を知らなければ座って泣くしかありません。ね、良く見る話は得があるだけで、損はありません。

 見方を知っていると言うのは、綿密に周到に見ます。心の話なら、見るに相応しい心がなければなりません。ヴィパッサナー(見ること)をし、カンマターナ(念処。業処)し、いろんなことをして見るに相応しい心に訓練してしまわなければなりません。それから見れば本当に見え、本当に良く見えればいろんな問題を解決できます。

 ここで意味を理解するために例を引きたいと思います。いろんな技術者の機械、エンジン、機器の話をすれば、彼らは今動いている機械を見、愚かな庶民である私よりはるかに良く見えます。考えて見てください。今働いている何らかの機械に視線を投じると、機械技師たちは良く見、どのようかを良く見ることができます。

 私たちが見るとそのように見、そのように回転している、そのように働いていると見ますが、私は知りません。技術者たちは、それが正常に動いているか、どの部分が異常を来たし始めたかまで感じます。目で見るだけで、それが動いていると見る以外にほとんど何も知らない私より、彼らは多くのことを知ります。

 その技術者は遠くから聞こえる音を聞くだけで、今機械のどの部分がどのようかが分かり、私は相も変わらず愚かです。あるいはその技術者は、今動いている機械の臭いを嗅いだだけで、何に、どこに欠陥があるかを知ります。彼らはこのように、私より深く見ます。

 ダンマの話になると、私も機械技師のように、誰もが熟練者になる努力をします。今形・受・想・行・識のどこがどうなっているか、今どこに何があるか、貪り・怒り・迷いがある、あるいはどこに何があると知ります。特に「今どのような状態のイダッパッチャヤターがどこにあるか」知るようお願いしたいと思います。

 みなさんが何か、ある人、あるいは私たちの周囲にある物を見る時、何かを見る人になる努力をし、見て理解し、見方を知ってください。あるいはこのように本当に見てください。

 天文学者が星を仰ぎ見ると、私の何百倍も知ります。愚かな私たちが空を仰ぎ見ても、一斉に星空が見えるだけですが、本当の天文学者は、それらの星に関した何らかの話を、少なくとも私の百倍も多く知り、理解します。このように見なければなりません。

 あるいは猟師が海を見ます。漁に精通した人が海に視線を投げると魚がどこにいるかを知り、私は相変わらず愚かで一匹も見えません。海の中がどのようか知りません。

 地図を描く人が自分で作った地図を見ると、明瞭すぎるほど、知り過ぎるほど良く知り、私は地図を見ても、ややこしい線がある紙にしか見えません。ね、何百倍も違います。このように考えて見てください。

 ベテランの医師が患者を見ると、私より深く見ることができます。この患者は今内部のどの辺がどれだけどうなっているか見え、私は知りません。気象学者は天候について熟知し、私と同じように見ても、私よりたくさん見えます。

 鹿の後を追って飛び歩いているこの寺のセキレイは私より上手で、嘴でミミズを突いて引き上げます。私は相変わらず愚かで普通の土にしか見えませんが、小鳥は目を瞑っていても見えるように、そこにミミズがいると知っていて、嘴でミミズを引っ掛けて出します。この鳥と比べたら私は愚かで、きっと餓死して、食べて行けません。

 「良く見る」と言うのは、このように普通以上に見ることです。私たちはすべてのダンマを、例えばお金、荷物、妻子、夫、名声名誉、職務など、身の周りの物を、鋭い視線があると言うように見る訓練をしなければなりません。

 例えて見れば技術者、あるいはいろんな熟練者たちのようにですが、それは物質の話です。これはナーマダンマ(抽象物)、内面の話、心の話で、身の周りのすべてのダンマをどれだけか、どのようか、どのような事実かを見ます。

 今私たちは、なぜ見るのが少なすぎるのでしょうか。煩悩の曇り、つまり「無明触」という、何度も名前を出している最高に重要で最高に凶悪な物が、いつも先導しているからです。ブッダが「これは非常に注意しなければならない物」と話されている、仏教で最高に重要な言葉です。無明触! 無明触! しっかり記憶して、イダッパッチャヤターという言葉と対と見てください。

 無明触がなければ内部のイダッパッチャヤターは生じることができないので、煩悩はなく、苦もありません。無明触はイダッパッチャヤターと対です。イダッパッチャヤターがあれば、初めから無明触があったことは確実です。あるいは今無明触があれば、必ずイダッパッチャヤターがあり、苦の塊の発生が、このような状態であります。

 だからどんな物にも無明で触れないでください。身の周りの物がどのようか、これらが見えるまで良く見ることで、無明触は生じることはできません。どれだけ見るか、どのように見るか、どれくらい見るかと問うなら、目・耳・鼻・舌・体・心で、無明触が生じられない状態で見れば、ぼんやりした、あるいは不注意の、あるいは無明と呼ぶ何かによるどんな触もないと答えます。

 しかし私たちは遊び半分にし、サティを管理する、あるいはすべての物への感覚を管理する決意をしません。そして私たちは恐れません。罪を恐れる気持ちがなく、これらの苦を恐れません。そして自分はこのように煩悩が生じるのを放置していると、誰にも恥じません。

 私たちは慙がなく、愧がない人です。恥を知らない厚顔の人で、怖れを知らない狂人のように何も恐れません。仏教教団員のような恥があれば、ぼんやりした時は非常に恥じます。煩悩が生じられれば、非常に恥じなければならない話で、そして輪廻の危険や苦を非常に恥じます。

 このように恥があり恐れがあることは、私たちが無明触で何かに触れることに、注意深く慎重にさせる最初の原因です。これを「いろんな物を見ること、あるいは身の周りのすべてのダンマを見る職人、あるいは熟練者に生まれた」と言います。そうすれば「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と言う度に、どんどん真実が見え、どんどん深くなります。

 「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という項目はたくさんあり、苦も何十種類、何百種類もあります。本当の幸福でない感情面の陶酔である幸福も、何百、何千種類もあります。しかし見方を知って本当に良く見れば、一つしかないように簡単に見えます。

 それはイダッパッチャヤターの法則で経過するだけで、百種類、あるいは千種類になれません。タタターはそのようになり、他のようでなく、そのようになり、そのようであることと異なりません。つまり「これがあれば、これが縁で、これが生じる」から生じた物ばかりです。

 だから「得」も可哀そう、「損」も可哀そうです。得に迷い、損に迷い、善に迷い、悪に迷い、徳に迷い、罪に迷い、迷うための対である何かに迷えば、要するにそれは善に迷い、悪に迷うことです。これは人間の感覚の中に生じる最高に重要な話で、それが善悪の話です。

 善と悪しかなくても、迷う方法は何十種類、何百種類、何千種類もあります。善に迷うのも何十種類も迷うことができ、悪に迷うのも何十種類も迷うことができます。事実、真実、あるいは本物を知ってしまえば、それだけで何にも迷いません。

 それがイダッパッチャヤターの話の知識があることです。だから私が「私の物」という、自分の身の周りのすべての物を見るために、この話に関心を持つ努力をしてください。

 「私」は「私の物」と対です。「私の物」と言う物は、常に自分の外部にあると言わなければなりません。この身体の中にあっても、私の物なので自分の外部にあると言わなければなりません。私は俺で、私の物は俺の物です。俺の物は俺の外側になければなりません。そしてこの俺が惑溺するために何種類もあります。愚かでこれらの物を無明で撫で回すので、無明触になり、問題が生じ、苦になると言います。

 二つの触の話は、前に一度話したことがあります。一度では理解できない人がいるかも知れません。あるいは忘れたかも知れません。無明触と呼ぶ物は無明で触れますが、それには二つの区間があります。初めの区間をパーリ語でパティガサンパサ(有対触)と言い、衝突の触です。この場合のパティガは衝突という意味で、煩悩の名前ではありません。

 煩悩の名前と訳すと、意味が分かりません。パティガという言葉は衝突という意味で、パティガサンパサは衝突の触です。例えば目が形に衝突し、耳が声に衝突し、鼻が臭いに衝突し、舌が味に衝突し、皮膚が接触に衝突し、心が心に生じた感情と衝突します。

 有対触はまだ幾らでもありません。つまり幸福になるか苦になるかまだ分かりません。その時サティがぼんやりすれば、その触が苦をもたらすのは確実で、それはアディヴァチャナサンパサ(同義語触)と呼ぶ二段階目の触を生じさせます。

 同義語触は心だけで触れます。有対触が終わると何かが生じ、心はもう一度それに触れます。後者をアディヴァチャナサンパサ(同義語触)と呼びます。それはナーマダンマ(抽象物)で、名前だけの触です。

 触のための最初の対はルーパダンマ(具象物)です。ルーパダンマと言うのは、目と形、耳と声、鼻と臭い等々で、これはルーパダンマとルーパダンマの出会いで、これを衝突と言います。衝突、パティガという言葉を使うのは最高に正しいです。例えば目が形を見た時、想で何の形か、どんな意味があるかという感覚が生じ、受である感覚が生じて味を知り、触の美味しさを知ります。

 次に何らかの欲望が生じるために、心はもう一度その美味しさに触れます。後の触を同義語触と言います。そしてここは最高に重要な部分で、ぼんやりするのは、ここでぼんやりします。

 例えば芳しい花の匂いを嗅いだら、鼻は花の香と有対触があると言います。次にこの香りに対する感覚は、同義語触で触れた心の感情である一つの感覚です。次に心は芳しい、あるいは満足の感覚に同義語触式に触れます。ここで無明触が十分な形になり、受に対する無明触が欲望を生じさせます。仮定で言えば香りの良い花を手に入れる、独占する、摘んで嗅ぐなど、欲望で何かします。

 だから無明触は問題を生じさせ、事件を生じさせ、ここで危険になります。目・耳・鼻・舌・体・心の面もこのように二段階です。初めのは有対触と呼ぶ衝突するだけの触で、「何が何か」を知らせ、それから何らかの結果が生じ、心はもう一度接触します。この部分を同義語触と呼びます。

 ここでサティがあれば良いばかりで、苦になる話はありませんが、ぼんやりすれば苦になるための無明触になり、避けようはありません。

 これです、何かを良く見、良く知り、良く管理し、「私たちは触の世界の最中にいるようなもの」と、述べたような触の話を知らなければならないことは。

 いつ脱出できるか、考えて見てください。私たちがこの世界にいるのは触の世界にいるのと同じです。一時目、一時耳、一時鼻、一時舌、一時体、一時心、つまりその感情に触れて、感情である思いにならない物は何もありません。何かの味が生じれば、心はその感情に執着します。

 次に目・耳・鼻・舌・体・心をたくさん使ったことがあるので、想の中に、その蔵の中に溜めて維持しておき、いつでも持って来て見て楽しむことができ、何でもできます。だから心の話は難しいです。考えられる時はいつでも、何の考えでも持ち出して考えられるので、無明触が生じる機会は常にあります。楽しく夢を見ることまでできます。

 重要なことは、すべてはイダッパッチャヤター以上の何物でもありません。最初の触も後の触も、受、欲望、取、何でも生じさせます。それは繰り返し話したように苦であるイダッパッチャヤターです。

 その触は二段階あり、初めの段階は感情と六処の衝突で、何らかの結果が生じ、心が同義語触でもう一度触れると、ブッダはこの二語を使われました。新たに規定する必要はなく、アビダンマ(論蔵)から借りて来る必要もないと、触の話を理解するまで観察し、観察することを知るよう忠告させていただきます。

 時にはアビダンマの中にないこともあります。あれば、触はこのように二段階あると、スッタンタ(経蔵)の中のブッダバーシタ(仏説)から持って来ています。

 私たちは、自分の身の周りにある物は無明触を生じさせると、俺の銭、俺の金、俺の子、俺の妻、俺の家、身の周りの何でも、それが次々に無明触を生じさせると知っています。生じれば何時でも、その時は必ず苦があると言うことです。だから身の周りの外部である物に関して、自分の心に良く注意しなければなりません。感情になる物がなければ、心は何もできません。

 「心に注意する」と言うのは正しいですが、感情に触れる心に注意しなければなりません。だから感情に注意すると言うのは正しいです。今身の周りのいろんな感情の最中にいて、それらの感情は自分に対して何をするか、知らなければなりません。そのように知れば,心に注意するのが簡単になります。このような話を知らなければ、心に注意できません。

 これです。私たちがダンマの実践に成功しないのは、二種類のいずれかの欠陥があるからで、心に注意ができず、心に衝突してくる感情に注意できず、何もしたことがなく、サティも十分でないからと理解します。

 今日は、これらの身の周りの物を良く知ることと、イダッパッチャヤターに過ぎない物として何としても管理することとに分けて話します。

 身の周りの何もかもイダッパッチャヤターに過ぎないという知識があれば、心に注意するのは簡単です。すでに半分有利です。心がすべてはイダッパッチャヤターと知っているので、迷って愛し、迷って憎み、迷って執着することに億劫になるからです。

 だから私たちに関わってくるすべての物を、「イダッパッチャヤターに過ぎない物」と勤勉にたくさん見てください。子供から棺に入るまで、誰にも、苦になるために執着する話が最高にたくさんあります。子供同士は遊び友達の間で、若者になると恋人同士で、結婚すれば夫婦で、年寄りになれば閻魔を待つ友達がいます。

 九十歳、百歳の老人で夫婦であることは滑稽で、あり得ません。それはイダッパッチャヤターの法則で経過する友人です。

 だから生まれてから棺に入るまで、イダッパッチャヤターに関して注意しなければならない話が、折々にあると言います。正しく対処できないほど非常に変化するので、私たちが「それは一つだけ。使うのはずっと一つの方法」と考えるのは滑稽で、哀れです。

 ダンマの実践が成功しないのはこれが原因です。だからイダッパッチャヤターという項目に関心を持って、この世界の暮らしを見事にするために、どの年代のどの時も、それぞれの年齢のすべての瞬間を、正しくしなければなりません。これは仏教教団員の目的です。

 私たちはなぜ仏教教団員でいるのでしょうか。私たちはどうして仏教教団員でいるのか、愚かに人の真似をして熱中するのか、あるいはどうして仏教教団員でいるのか、一緒に考えてください。煩悩があるように言えば、私たちはそうでない人たちより善くなるために仏教教団員でいるのですか。

 滅苦の面で他の人たち、他の部類より有利になるために仏教教団員でいるなら、世界の人間は誰でも、自分の苦を消滅させる義務があるので、まだマシです。

 次に「私たち仏教教団員は有利で、簡単に滅苦ができ、他の人たちより上手に滅苦できる」と信じる、こういうのはまだマシです。私たちは滅苦をする便宜のために仏教教団員であると、このようにしてください。

 次に私たちは何もありません。あるのは「ブッダはどのように、どんな方法で滅苦をするよう提案されたか」、ブッダの話を知る教育だけです。今ブッダはイダッパッチャヤター(縁生。因果)の話、つまり縁起の話を知らなければならないとハッキリ話されています。

 「如行が生まれても、如行が生まれなくても、これは永遠にこのようである」とブッダが主張された話は、パーリ全体に二つしか見つかりません。つまり無常・苦・無我の話が一つ、そして僧が先ほど読経したイダッパッチャヤターの話が一つ。この二つだけです。

 無常・苦・無我の話とイダッパッチャヤターの話は同じ話です。それはイダッパッチャヤターなので、無常・苦・無我です。分けて話せば、これがあればこれが縁で、これが生じるので、無常・苦・無我です。次にこれがあれば、これが縁で、これが生じるので、イダッパッチャヤターとまとめてしまいます。残るのは一つです。次にもっと縮めて短くしたいので、残るのはタタターです。

 タタターは、そのようになる、自然にそのようになるという意味です。そのようになること、他のようでなく、そのようになるだけ。つまりタタターなのでタタターを知らなければなりません。一語だけ話すなら、誰でもタタターを知らなければなりません。仏教教団員はタタターを知らなければなりません。そうすれば滅苦の競争に於いて、世界の外の人たちより有利です。

 タタターという言葉は教典の中に最高にたくさんありますが、どんな理由で取り上げて話さないか、言うことはできません。論蔵にも多くの個所にあり、時にはタタターという言葉の代わりにタターという言葉を使い、タターとだけ言い、アヴィタタターの代わりにアヴィタターとだけ話しています。

 パーリ(ブッダの言葉である経)のある所では、四聖諦をタター(そのようになること)、アヴィタター(そのようである状態と異ならないこと)、アンニャタター(他の物でないこと)と呼ばれています。四聖諦と呼ぶ代わりにこのように呼ばれているのもあります。

 昔のお爺さんお婆さん、私たちの先祖はこの言葉を使えたと推測します。「駄目、駄目。考え過ぎては駄目だよ息子。(あるいは孫)。それはそのようになる。それは自然にそのようになるよ」と話しました。これは、ここの土地が長い間仏教を正しく持して来たからかも知れません。

 話すと、自分の故郷の自慢をしていると非難されます。「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中」云々という子守歌は、全部、タタターの話と同じ深い話です。私たちの先祖であるこの辺の住民は、なぜこの話を知っていて、このように話すことができ、このような内容で子供を寝かせたのでしょうか。彼らはある時代に(これらの話を)理解したことがあり、利益を受け取ったのでしょう。その後の人たちが愚かで衰退しました。

 先祖が利益を受け取ったダンマを復興させるべきです。千二百年以上前、シーウィチャイ時代の国土は、チュムポーンから南はマレー半島、スマトラ、ジャワまであったと推測します。多分このようです。だからこの言葉を使えました。自然の偶然でなく、自分自身で言いました。「それはそのようになる、それは自然に、それ自体の事情でそのようになる」と言いました。

 次に、誰か自分で思い付いて話すことができた人がいたら、その人はブッダのように優秀です。この話を良く知る人がいて、ブッダの根源に依存しないでこのように自分で言い出すことができたとすれば、これもイダッパッチャヤターの話です。

 さて次は、ただ仕舞っておくだけでなく、愛用する道具であるイダッパッチャヤターと呼ぶ物から利益を得ます。愛用する道具はこの杖のように、いつでも手の中で握っていて、いつでも使うことができます。苦を予防し、苦を撃退する道具であるイダッパッチャヤターを、いつでも有益に使ってください。

 すべてのダンマはこの項目のダンマに集約され、すべての仏教はこの言葉に集約されるので、ブッダは「縁起が見える人は私が見え、私が見える人は縁起が見える」と、このように言われました。

 だから私たちが常にブッダを見ることは、ブッダが常に私たちと一緒に居るのと同じです。それでまだ何が必要でしょうか。だからこのことにサティをぼんやりさせないでください。何が来てもイダッパッチャヤターが出て行く準備があるようにしてください。話すのは簡単ですが、するのは難しいです。

 身の周りの日常生活で生じる物、財産、資産、金銀、荷物、妻子、夫や何かが、何かの感情として飛び込んで来たら、それをイダッパッチャヤターで打ち返してください。これが仏教のすべてで、学習であり、実践であり、実践の結果でもあります。知るならこのように知り、実践するならこのように実践し、実践の結果を受け取るならこのような結果を受け取ります。

 パリヤッティ(ダンマの学習)も、パティバッティ(ダンマの実践)も、パティヴェーダ(実践の結果)も、このようなのがあるだけです。仏教の心臓部はこのようにあるだけです。私たちは身の周りのすべての物に直面するための道具として、いつでも、日常的に身に付けて置きます。

 常に私たちを取り囲んでいる物、それはイダッパッチャヤターです。それはそのようで、他のようではありません。しかし私たちは愚かで、そのように、このように、あのように受け取ります。すべての物はイダッパッチャヤターであり、それはそのようであり、それはそのようだけ、と説明して見せた以前の講義の言葉を忘れないでください。

 しかし私たちに触れると、私たちの愚かさ、賢さ、知識、無知、博識、浅識によって変化できます。例えばお金が流れ込んだらどのような状態で迎えるかは、愚かか賢いか、私たち次第です。間違った方法なら苦になり、正しい方法なら苦はありません。お金は、本物はイダッパッチャヤターです。つまりお金はただのお金ですが、私たちに関わると愚かさ次第、賢さ次第でいろんな物に変化できます。

 後で話す時間がないので、今、一度に話します。私たちの身の周りのすべての物が私たちに近づいて衝突するのは何のためでしょうか。私たちをどのようにするためでしょうか。貪り・怒り・迷いを生じさせるなら、それは私たちに苦を生じさせる物です。

 銀を得、金を得、何を得ても、「得た、得た」と手に入れるのは、無明触でします。時には貪りが生じて自分自身を焼き炙り、時には怒りが生じて自分自身を焼き炙り、時には迷いが生じて自分自身を焼き炙ります。それらは自分に貪・瞋・痴を生じさせる話になります。

 私たちがそれを責めるのは、最高に愚かです。良く見ないので、あるのは破滅だけです。本当は、それは何でもなく、それはイダッパッチャヤターです。つまりそれはそれの法則でそのようになり、あるのはそのようであることだけです。次に心は愚かで貪るため、怒るため、迷うために受け取ってそれを責め、自分を責めません。これが愚かな人です。

 しかし知っている賢い人は、それは(自然に)そのようになるので、他の物を責めません。しかし何も知識がない、あるいは知っていても心を支配できない人は、「それは私を騙した餌」と責めます。なぜ「自分はその餌を食べた愚かな魚」と考えないのでしょう。「自分は最高に愚かな魚」と責めないで、なぜ「この餌は私を騙す餌」と責めなければならないのでしょうか。

 だからすべての物が私たちを釣るためにあるのでなく、それらの物を餌にする、自分が愚かな魚です。イダッパッチャヤターと知れば、それは餌にはなれません。イダッパッチャヤターと知った途端に、それは餌になれず、イダッパッチャヤターであり続けます。

 さて次はそれほど多くなく、それほど多く愚かでなく、「おお! それは利益がある物だ。何でもそれは利益になる」という角度で考えます。見てください。見えるだけの床板も、土、砂、砂利でも何でも、コンクリートの建物を建てるには利益があると見るのは、利益に惑溺してイダッパッチャヤターが見えません。

 しかしこれもまだマシで、貪・瞋・痴が生じる原因になるより良いです。つまりこれらの物を、木で床を造り、砂や石で工事をするなど、知性で有益に使える物と見ます。

 次にもっと良いのは、見れば目が清々しく、心が安らかになる話と言うべきです。例えばこの森は目に涼しく、快く、清々しく、ここへ来て座ると「俺、俺の物」である考えを生じさせません。木のように、石のように止めて涼しくします。これらは目を保養し、心の保養になります。

 しかしそれもイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤター以上の何でもありません。しかしその時、身の周りにあるこれらの物から得た穏やかな心を有益に使うことを知っています。家も同じで、家屋、荷物、お金、道具類は何にでもなります。貪り・怒り・迷いをもっとたくさん生じさせることも、見て楽しむことも、普通に利益に使うこともできます。

 次にもっと良いのは教育であるべきで、自分に訪れる物は何でも全部教育にしてしまいます。そして先ほど「良く見なさい、あるのは得るだけ、失う物はない」と言ったのを忘れないでください。良く見ればあるのは得るだけで、失う物はありません。

 蚊が耳の傍を刺したら、良く見れば、蚊が歌を聞かせに来たと見えるので怒る必要はありません。常に「あるのは得るだけ、失う物はない」と見る努力をします。大きな散財をさせるなら、たくさんの利益がなければなりません。つまり知識を得るか、普通は教えない深遠な何かを得ます。

 病気や患いや死も教えるので、それから利益を得なければなりません。だから私たちには、苦はないと言うことです。何でもかんでも得ることで、何も失わないからです。考えて見てください。損をさせる物は何もありません。あるのは得るだけです。得るべき物を、身の周りにあるすべての物に対するイダッパッチャヤターの知識を得ます。このように最低の物から最高の物まで、全部教育にします。

 科学者が世界の知識をたくさん発見し、月の世界まで行けるのは、すべてを教育の状態で迎え、煩悩を生じさせる状態、あるいは苦で混乱する状態で迎えないからです。だから彼らは教育の話で進歩します。ダンマの話も同じです。もっと深くする教育を知らなければなりません。つまり休まずイダッパッチャヤターを見れば、いろんな問題を解決できる種類の、普通の凡人が使っているのと正反対の教育です。

 凡人は聖人のダンマを聞いたことがないと言います。それは(自分自身の)教育がないから、すべての物を苦の状態で迎え、苦へ向かう流れになるからです。次に聖なる弟子は知り、聞き、聖人のダンマヴィナヤ(法律。教えと規律)の忠告を聞く人で、正反対です。これが良い教育です。

 これはブッダが「私は伏せてある物を仰向けにし、閉じてある物を開けたようにし、人がいろんな物が見えるよう闇の中に篝火を灯した」と言われたのと同じです。

 ブッダを尊敬する人は、誰もがこのように称賛しました。そしてブッダ自身も、何らかの「人」に過ぎず、閉じてある物を開き、伏せてある物を裏返し、そして目の見える人が自分で見、自分で見え、自分で考えられるようランプで照らす以上のことはしていない、というようなことを言われています。

 ブッダは「(自分は)何を創った人」と自慢なさらず、神様でなく、創造者でもなく、自然の支配者でももありません。「如行が生まれても、如行が生まれなくてもイダッパッチャヤターにとって意味はなく、これを見、これを深く理解した点に意味がある」と告白なさっています。

 これを深く理解し、これが見えた時当然説明し、当然教え、当然規定し、当然維持し、当然公開し、当然分類し、当然伏せてある物を裏返したようにしたと、このように主張なさいました。

 次に私たちが自分の周囲の物をこのような状態で学べば、私たちはブッダの望みを叶える人になることができます。つまり伏せてあった物を裏返したことを受け取ります。もう一度言えば、私たちもブッダの忠告どおり、ブッダ式に伏せてある物を裏返します。

 誰でも自分で歩かなければならず、自分で実践しなければならないことを忘れないでください。如行はただ道を指さす人に過ぎません。伏せてある物を裏返すとは、私たちが自分で裏返すことができる方法を示したという意味です。見ること、感じること、あるいはこのダンマに到達することを、代ってすることはできません。それは内部を見ているので、普通の物のように、して見せることができないからです。

 だからその人は自分ですることを知り、自分で煩悩を消滅させ、自分で明らかに知り、自分で悟り、そして自分で見なければなりません。自分の回りのすべての物を、イダッパッチャヤターである状態で見ることを知っていれば、ブッダが教え、望まれたように、伏せてある物を裏返すことができます。

 次にすべての物を正しくイダッパッチャヤターと見れば何も問題はありません。自然に経過します。それはそれ自体で経過します。正しくイダッパッチャヤターを見れば、それはそれ自体の成り行きになり、ニッピダー(厭離)が生じます。

 ニッピダーは倦怠という意味です。普通の人の倦怠はニッピダーではなく、繰り返すから、あるいはたくさん繰り返したのでうんざりし、飽きて鬱陶しくなります。このような普通の人の倦怠はニッピダーではありません。まだ無関心でないからです。

 しかし本当のニッピダー(厭離)である倦怠は、無関心でいられます。煩わしさによる倦怠はニッピダーではなく、倦怠してもまだ嫌い、まだ煩わしく、まだ何かでいます。こういうのは正しいニッピダーではありません。正しいニッピダーは、苦がなくなり始めたことで、無関心でいられます。つまり倦怠があれば欲情の弛緩があり、執着せず、そしてヴィムッティ、解脱があります。

 これは他で探さないでください。他でニッピダー(厭離)、ヴィラーガ(離欲)、ヴィムッティ(解脱)を探さないで、すべての物にある、あるいはすべての物であるイダッパッチャヤターを見ることで探しなさい。

 この項目については、二つの意味があると何度も話して来ました。すぐに「すべてはイダッパッチャヤターであり、そしてイダッパッチャヤターの法則で経過する」と忘れてしまいます。例えばこの木は変化があり、この縁が生じたから、これが生じたという法則で経過し、この縁が生じたから云々という、これを「この木はイダッパッチャヤター」と言います。

 そしてそれがそのようであることは、当然イダッパッチャヤターの法則で経過します。普遍的な法則は全部そのような法則です。だからそれがイダッパッチャヤターの法則で経過することも、あるいはそのようであることもイダッパッチャヤターです。

 自分の周りのすべての物をこのような状態で見れば、その見ることは、ニッピダー(厭離)、ヴィラーガ(離欲)、ヴィムッティ(解脱)が生じる利益があります。考えて見てください。それは小さなことではありません。周りのすべての物をイダッパッチャヤターの法則で正しく見ることには良い結果があり、厭離、離欲、解脱を生じさせます。しかしこのような状況もイダッパッチャヤターであることから脱せません。

 なぜ心に厭離、離欲、解脱が生じるのかは、イダッパッチャヤターの法則だから、このように見るからです。

 このように見ることは、熟慮するから、あるいは正しく見るからです。

 熟慮すること、正しく見ることは、良い教育を受け、良い実践をすることであります。

 良い教育、教え、訓練を受けることは、聖人の近くに座ることによって、良い教育、良い訓練を受ける機会があります。

 聖人の近くに座ることは、聖人がいる国でふさわしい時代に生じます。天国に生まれてしまえば困難なこともあり、これらの物を聞く機会は簡単にありません。天人たち、あるいは天人のように暮らしている人の群れはこれらの話に興味がありません。この世界でも天人のように暮らしたいと志願する人は、この話に興味がありません。

 だから迷わない人、不注意でなく暮らす人にふさわしくなければなりません。そうすればふさわしい心があり、人間に生まれ、仏教に出合えた機会が無駄になりません。

 人間に生まれたことを幸運と捉えてください。これが良いことの一つです。そして偶々仏教がある時代に生まれたのがもう一つの幸運で、この話を聞いたのももう一つの幸運です。そしてこのダンマを理解したのはもう一つの幸運です。それで正しい実践ができ、ニッピダー(厭離)、ヴィラーガ(離欲)、ヴィムッティ(解脱)が生じます。

 この項目は私たちが知り、イダッパッチャヤターの知識があり、それを有益に使うことを知っている点で成功しています。私たちの身の周りのすべての物は利益のため、滅苦だけのため、無常・苦・無我を見るため、イダッパッチャヤター、タタターを見るためになります。

 すべての物をイダッパッチャヤターと見させる項目は、短い言葉で話すのは簡単ですが、実践が難しいか難しくないかは、その人次第です。イダッパッチャヤターが何音もで憶え難かったら、タタターだけを憶えます。中国語ならもっと憶えやすくユーシー(如真? 真如)と言います。

 ユーシーはタタター、そのようであること、他のようでないことという意味です。そのようでしかありません。これは私が勝手に言っているのではありません。それは自然の法則でも正しいです。

 ユーシー(如真)がある人はユーライ(如来)、つまりタターガタ(如行。漢訳では如来)です。中国語は憶えやすく、このように短いです。なれるのは、世界全体をマヤカシと見ることによってです。私たちに見せる現象はマヤカシであり、心に入って来る味も騙します。アッサーダ、旨さは惑溺を生じさせ、それが現れて欺瞞し、舌のも、どこの美味しさも欺瞞の話と見ることによってあります。

 だからそれらと正しい状態で関わるために、常に身に着けている武器がなければなりません。「執着しないでそれらの物と関わる」と何百回、何千回も話したように、執着しないでそれらの物と関わります。それがイダッパッチャヤターの教えに関わる実践のまとめです。

 今私たちは、いつでも執着する準備があります。そして執着を緩める気持ちがありません。常に執着する言い訳があり、そして執着できる物を探し、涅槃にまで執着します。これが最後の愚かさで、ほとんどの人は今まで、してきたように涅槃にまで執着します。涅槃に執着して何度も生死を繰り返せば、涅槃に出合う機会はありません。

 ヴィパッサナー家が群れになって狂うのは、執着すべきでない、あるいは執着できない物に執着し、それらの物と正しく関わらないからです。市井の庶民も同じで、神経の病院へ入院する人がどんどん増え、まだ入院していない人がたくさんいるのは執着病だからです。だからイダッパッチャヤターを遊びにしてはいけないと言います。

 だから最高に偉大なこのダンマであるこの知識を、満足して喜ぶよう調整してください。ダンマに満足するには高い心がなければなりません。低い心を持たないでください。低い心は人でしかなく、高い心は人間です。「ダンマと人」と「ダンマと人間」は同じではありません。ダンマと人なら、人はダンマを嫌います。

 良く見てください。ダンマと普通一般の人は、ダンマを嫌い、俺、俺の物、俺の銀、俺の金、何でも俺の物を欲しがります。これが普通の人です。彼らはこのように欲しがるのでダンマを嫌います。人間なら心が高く、それらの餌にだんだん注意し、ダンマを求め、ダンマを好きになります。

 だから私は「人と人間は違う。人はまだ心が高くない」と定義して話すことができます。だから彼らはダンマを嫌います。人間なら心が高く、少しずつダンマを愛し、ダンマに満足し、ダンマを好み、ダンマになり、最後には阿羅漢になって、全身全霊ダンマになります。

 まだ凡人ならヤクザな人で、非常に凡人ならダンマを嫌います。誰もがダンマを嫌う今は、大暴れする話があり、ヤクザな青少年、大暴れする青少年の問題があります。見てください。全部、ダンマを嫌う以外の何でもありません。ダンマを知らないので、彼らにダンマがあるようにする人が誰もいないので、今危険な問題であります。そして世界でどんどん増え、どんどん悪くなっています。

 世界はダンマを嫌います。それでこの世界は何になるか、どのようか、見ていてください。人がこのようならダンマを嫌います。一掴みの宝石を欲しがらないで、一粒の米を欲しがる、子供に教える昔話の「鶏と宝石」のようです。それは鶏で、関心がないばかりでなく、嫌うほどです。

 猿はカピ(小エビの発酵調味料)が嫌いだと話して聞かせる人がいました。本当かどうか、事実はどうか知りませんが、猿はカピが嫌いで、猿を死なせるには、カピを猿の手に塗れば、カピが嫌いなので我慢できずに駆け出して拭き、肉が切れるまで拭き、肉が切れて血が流れて、まだカピの臭いがすれば骨だけになるまで拭きます。猿はカピが嫌いで、それは猿だからです。

 これは猿が嫌うことの重さの譬え話です。本当に嫌えばそのように嫌います。今私たちは人で、ダンマを嫌います。お金だけを欲しがり、肉体の美味しさだけを欲しがります。この感覚に支配されるとダンマのことを考えず、ダンマを知らず、世界からダンマがなくなり、神様は死にます。このように言う人ばかり世界中に増えています。

 しかし彼らが人間で心が高く、明るく、伏せてあった物が裏返されて、何を見るにも適度に見れば、その人はダンマが好きになり、ダンマに満足し、ダンマを欲し、ダンマを喜び、ダンマを貪ります。

 ダンマカーマとはダンマを愛すという意味で、ダンマナンディはダンマに恍惚とするという意味で、ダンマラーガとはダンマを欲して陶酔するという意味ですが、これはその人が人間だからです。

 鶏と米粒のように、鶏は宝石を好かないで、米粒をそれほど好みます。猿がカピを嫌えば、果物を好み、カニを好み、シオマネキを好み、情況によって何でも好みます。このように身と蓋が合えば、話は上手く行き、苦はありません。

 だから仏教教団員全員で助け合って仏教の心臓部を現させ、自分の利益にしてください。そして世界中の人間同朋が、守護する物を受け取る手伝いをし、この世界を煩悩・貪り・怒り・迷いの威力下に沈ませないでください。自分も利益を受け取り、世界の人間同朋も利益を受け取ります。

 人間のすべての教育・実践として現れた、ブッダの正しい知識と理解なので、イダッパッチャヤターの話ほど重要なものはありません。それはすべての角度で最高に発展しています。そしてすべての人にとって満足できる物です。コミュニスト、あるいはコミュニスト以上の誰にも認められる宗教になります。ブッダの正しい宗教が検証されてすべての人に広まれば、知性のある人は好むに違いありません。

 だから私は、仏教教団員全員が助け合って、後退しないで、この本当のダンマを現代世界の人の感覚の中に、もっともっとたくさん現れるようにすることを望みます。持ち帰って普及させ、たくさんの人に知らせるみなさんのご協力によって、私も挫けず、毎週土曜日、知性の限り、力の限り休まず努力をしています。

 ここで聞いている人は何人でもありませんが、次々に話して伝えれば、多くの人が知ることができます。あるいは印刷してたくさん普及させれば、きっと利益になります。このように希望してイダッパッチャヤターの話を三か月間話す決意をしました。

 丁度良い時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。


法話目次へ ホームページへ 次へ