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すべての法則より上の法則であるイダッパッチャヤター


1972年3月4日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第十回目の講義は、すべての法則より上の法則であるイダッパッチャヤターと題してお話します。法則であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)という言葉は、当然法則である角度、あるいは法則である状態だけを述べる目的で、法則以外の部分、つまり現象である部分はまだ話しません。

 法則と現象は同じではありません。法則は見えない物、ナーマダンマ(抽象物)です。その上ナーマダンマ以上のナーマダンマ、つまり無為と見なされています。一方現象は見えるものですが、どちらもイダッパッチャヤターです。簡単な例は、時計の裏の蓋を開けて見ると、時計の機械が組み合わさって動いているのが見え、こういうのは現象であるイダッパッチャヤター、つまり現象です。

 それはなぜ動くかという法則である部分は見えません。法則と呼ぶものは見えませんが、現象と呼ぶものは見えます。今日は法則であるイダッパッチャヤターについてだけ述べます。だから現象と混同しないよう、良く観察して見なければなりません。

 いずれにしてもみなさんに、なぜイダッパッチャヤターの話ばかりするのか分からんと煩がられるのも恐れず、常に復習させていただきたいと思います。というのは、仏教の心臓部である一つの話だけを、重要な話にふさわしく普及した話にする目的があるので、私たちが日常の言葉で日常的に話して、仏教教団員の日常生活の言葉にするべきだからです。

 そうすれば仏教教団員にふさわしいです。仏教教団員がイダッパッチャヤターの法則と違う状態で何かを話せば、愚かな仏教教団員になります。つまり仏教教団員でなく、座って泣かなければならない、仕舞には自殺しなければならない結果があります。

 もう一つ手慣れた、つまり毎日滅苦をするために熟練した実践に使われるものになるべきです。人はイダッパッチャヤターの話の知識がなければならず、話すだけでなく、日常の問題解決に使わなければなりません。何かが問題になったら、毎日のどんな問題も、この最高に重要な規則で解決して片付けなければなりません。だから学んで理解して、毎日実践に使っていただきたいと思います。

 もう一つ、この話は自慢する物に使うべきです。これはちょっと煩悩のように話し、この話は仏教教団員、あるいは仏教でも、自慢する物に使うべきです。仲間内、あるいは宗教内、国内で自慢する、あるいは私たちにはこのような物がある、このように善い物があると提示して、あなたには何がありますかと交流するという意味です。

 私たちが他人に自慢する物、あるいは他人と交流するために提示する物を持つなら、イダッパッチャヤターにしなければなりません。誰にも負けない、誰にも引けを取らない自慢に相応しい最高の物だからです。これは執着の言葉で話しています。まだ私たちが煩悩のある人で、執着のある人なら、執着すべき物に執着すべきなので、イダッパッチャヤターの法則に執着します。

 このような目的で、話すことがなくなるまで、あらゆる角度からこの話をする努力を続けます。だから、誰が煩がっても恐れないと言います。それは仏教教団員という名前にふさわしく、仏教教団員の日常生活の話し言葉になるべきで、そして日常生活のいろんな問題を解決するために実践に使われるべきです。

 これらの問題を解決するため、あるいはそれらの問題に関わる苦を滅すため、そして国際間、宗教間、他の団体と交流するために、私たちには最高に良いものがあると自慢して提示する物として使うべきです。

 次にタタターという言葉はイダッパッチャヤターより広く、イダッパッチャヤターはパティッチャサムッパーダ(縁起)より広いと復習します。この三語の意味の広さを、このように規定しておいてください。

 パティッチャサムッパーダ(縁起)と言えば、パーリでは直接私たちの心の中の苦を消滅させることに関わる法則を意味しますが、イダッパッチャヤター(縁生。因果)と言えば私たちの外部、あるいはいろんな物まで広くなります。タタター(真如)と言えばもっと広くなり、自然である、あるいはダンマッティタター(当たり前にある)、ダンマニヤーマター(当たり前の普遍の法則)であるすべての物に使うことができます。

 今私は、教育のための重要な教えであるイダッパッチャヤターという言葉を使いますが、狭い範囲では縁起を意味し、限度のない広い範囲ではタタターを意味することを忘れないでください。

 イダッパッチャヤターにこのような幾つものレベルの意味があれば、何が起きても、どんな場合にもいろんな利益に使うことができます。イダッパッチャヤターという言葉をどこででも、至る所で話される言葉にしてください。

 今私たちは、タンマダー、あるいはタンマチャート、あるいはヤターカムという言葉しか使いません。今私たちが使えるのはタンマダー(当たり前)だけで、あるいは当たり前だから悲しむな、あるいはタンマチャート(自然)、と言い、それは自然だから悲しむな、あるいはヤターカム(運命で)だから悲しむな、それはカンマで経過しなければならないと言います。

 これらはもう話しています。日常的に話して口癖になっています。本当はイダッパッチャヤターですが、なぜ直接イダッパッチャヤターと言わないのか。それは答え難いです。しかしイダッパッチャヤターという言葉は話すのが難しく、発音が難しいので、短く簡単な方が良いので、タンマダー、タンマチャート、ヤターカムと言うのだと思います。

 しかしヤターカム、あるいはタンマダー、タンマチャートでと言うだけでは、イダッパッチャヤターと呼ぶものの意味全部ではなく、イダッパッチャヤターはもっと広い意味があり、原因である種類、先に心に触れて来るまだ結果が出るに至らない、問題の初めである種類もあることを忘れないでください。

 だから私たちは、この言葉の意味を知らなければならず、初めから正しく使い熟せなければなりません。これから一つずつ判断して行きます。

 しかしここで「私たちが話す時、常に外国語を使うことが増え、そして外国語をたくさん使うことはボロ布のような話になる」と言いたいと思います。西洋の言葉は、ビタミン、プロテイン、コンピューター、B52、M16、こういうのは口癖になるほど話していますが、ボロ布のような話で、滅苦に関わりません。

 パーリ語も同じです。タイ語の話し言葉の中にもパーリ語がいっぱいで、健康もパーリ語で、衛生もパーリ語で、地獄・天国などもパーリ語で、お寺全体に轟音を立てて乗り回しているオートバイ、それもパーリ語です。

 しかしそれは、イダッパッチャヤターと比べたらボロ布みたいな話です。だから外国語を話すのが好きなら、人間の言葉の中で最高に重要な言葉、つまりイダッパッチャヤターという言葉について話すべきです。

 これです。だから私はイダッパッチャヤターという言葉を仏教教団員が日常的に話す言葉の流れの中に入れるために、話し続ける努力をしています。他の人たちはその人の自由ですが、本当の仏教教団員(比丘・比丘尼・清信士・清信女)である人は他の言葉より、あるいは話さなければならないどの場合にも、あるいは生じた出来事に応じて、この言葉を知って使いこなせる方が良いです。

 それにイダッパッチャヤターと呼ぶ物と関わらない場合や出来事は何もないと言うことができます。だからこれからしっかり観察してください。これが、煩さがられるのを恐れず繰り返し復習しなければならない項目です。

 次は法則とすべての法則より上にある法則について話します。

 初めに「法則と呼ぶものは何か」を知るべきです。答えは当然たくさんありますが、必要な二つ三つだけにします。

 法則とは、人間が生きていく時、滅苦をする時、そして規則で騙されないために闘わなければならない時になくてはならないもの、使わなければならない物です。法則と呼ぶものは幾重にも複雑で、知らなければ騙されるので、すべての法則の法則、あるいはすべての法則より上にある法則と呼ぶことができます。

 法則と呼ぶものを正しく知らなければ、法則と呼ぶものを間違って知れば、自分を困窮させます。あるいは自分を騙して、本当は惑溺するべきでないものに惑溺させます。だから誰でも法則、あるいは規則と呼ぶ物を良く知るべきです。

 もう一つ法則は、自然が厳格に不変に、そして人間より上に規定してくれたものです。自然は法則を規定した人です。私たちはこれをあまり知らずに、人間が法則を規定したと考えます。だから本当の法則は自然が規定者ですが、自然は話すことができないので、法則を観察した人間がその法則を話したと見なします。だから人間が規定者のように見えます。

 これです。誤解しないでください。誤解すれば法則と呼ぶ物に騙されます。自然が規定してくれた、あるいは規定した法則は不動で変化せず、そして厳格で誰の顔色も見ません。それは救助、あるいは改変と呼べない種類の絶対で、不動で、つまりそれは変化せず、人より上に規定してあります。

 人より上というのは、人の心情より、人であることより上という意味で、つまり避けようもなく人より上に規定しました。これが法則、あるいは自然が規定してくれた法則と呼ぶものです。

 もう一度、人間が規定、制定した規則は、当然間違うことも正しいこともあります。人間は真実を知らないので、正しく規定したり、間違って規定したり、一時正しく、また一時正しくなく、ある所では正しく、またある所では正しくありません。

 こういうのは、一切智、あるいは覚者と呼ぶブッダのような人間以外の人間が規定した法則は、誤りだったり正しかったりすると言う見本です。だからブッダが説かれた法則は、普通の人のように間違いはありません。普通の人はまだ悟りで最高に知ったのでなく、法則である何かを話しても間違いだらけで、そして重要な法則ではありません。

 ブッダは最高に必要で重要な法則だけを規定し、そして正しく、誤りはありません。人間が規定した法則は、自然の法則で経過させる努力をしなければなりませんが、その人が自然を最高に正しく知らなければ、全部正しく規定できません。あるいは自然を誤解していれば間違うこともあります。

 ブッダは「如行が生まれても、如行が生まれなくても、そのダンマダートゥはそこにあり続ける」と言われています。そこにあり続ける何のダンマダートゥも法則で、特にイダッパッチャヤターの法則、あるいはタタター(真如)、あるいはアヴィタター(真如と違わない)、アンニャタター(他ではない)などは自然の法則としてあり、ブッダが生まれたか生まれないかは基準ではありません。

 しかしブッダが生まれたことは、これらを中途半端でなく、全部揃って正しく知る人物が生まれたことを意味します。ブッダはこの法則を自然に従って正しく規定したので、自然がブッダの口を通して話したように誤りがありません。こういうのは人間が規定したと言いません。

 ブッダが公開され、説明され、分類され、分析され、伏せてあるものを裏返したようにされたこれらのものは、ブッダが作ったのではなく、既にある物を公開し、説明しただけと言います。このような状態の法則というものを理解してください。

 次に法則は何種類もあり、最高に多いのは人間が制定した法則と述べました。あるいは自然の法則でも、イダッパッチャヤターの法則でない小さな枝葉の法則なので、すべての法則の中の法則、すべての法則より上の法則と言えば、イダッパッチャヤターの法則を意味します。

 これから、その法則の源は種類別にあると分類して見せます。

 法則の源は、自然の法則なら自然から、あるいは神様からと言うことも、自然から生まれたと言うこともできます。ダンマはブッダが言われたようなダンマダートゥで、このダンマダートゥはすべてを支配しているイダッパッチャヤターの法則という理由で、私は神様と命名します。

 イダッパッチャヤターで世界が生まれ、イダッパッチャヤターで世界が維持され、イダッパッチャヤターで世界が崩壊するので、イダッパッチャヤターは神様と同じです。

 この種の自然の法則は自然から生じたと言うことも、述べたように神様から生じたと言うこともできます。あるいは自然を意味するパーリ語のような、ただのダンマから生じたと言うこともできます。これを、自然の法則は自然から生じたとまとめます。

 次に人間による法則、人間の法則は人間の知性から生まれ、あれこれ規定しなければならない人間の必要があるので、むしろ人間の人間による人間のための経過になります。これは人間の知性、あるいは必要から生まれた法則で、直接自然の法則と比べることはできません。人間は自然を、最高に完璧に知らないからです。

 次に、まだ介入、二つの法則の交錯から生まれた法則があります。あるいは同じ法則、同じ種類の法則から生まれた法則にも幾つもの段階があり、複雑に介入し合うのはすべての法則の複雑な関連から新しく生まれた混乱した法則で、それが枝葉の法則を生じさせます。

 つまり、いろんな法則の源は何種類もあるということです。

 すべての法則より上の法則、つまりイダッパッチャヤターの法則はすべての法則の根源と見なしてください。小さな法則はたくさんあり、根源はイダッパッチャヤターの法則にあります。

 だからイダッパッチャヤターはすべての法則の起源で、すべての法則、すべての法則を重ねた法則、すべての法則より上の法則、裏側にある法則、すべての法則の幕の裏にある法則と言います。これがすべての法則の法則という項目で述べたようなイダッパッチャヤターの法則です。

 次に、イダッパッチャヤターはどのようにすべての法則の起源、あるいは根源なのか、少し詳しく見るべきです。原作を知れば、簡単に翻案を知ることができ、根源を知れば、簡単に枝葉を知ることができます。これが、すべての法則の根源であるイダッパッチャヤターと呼ぶ物の法則を知らなければならない必要性です。

 私は、法則であるイダッパッチャヤターという言葉は、身体の内面と人の心の話である縁起だけを意味せず、法則がある物、そして法則で経過しなければならないすべての物を意味し、体の外部でも内部でも、あるいは両方でも良いと述べました。良く見てください。そうすれば、すべての物は法則で経過しなければならないと見えます。

 現代の世界で最高に多く話される法則は、科学の法則のように見えます。今科学は世界を攪乱させていて、人を科学の奴隷にする形で何かをします。知るためもあり、科学が生産した物を消費するためもあり、あるいは他人を掃滅する道具にするのもあり、世界は今、科学と呼ぶ物の奴隷に陥っています。

 だから世界の人は科学の法則に関心があり、そして他の物(の法則の関心)より多いです。利己主義で煩悩があるので、恐怖、あるいは何かいろいろこれらの物があるので、恐怖をなくす援けになる、あるいは彼らが欲しがる物を手に入れさせると考える物、信じる物に関心があります。

 次に、科学の法則はどのようにイダッパッチャヤターの法則の下にあるか、あるいはすべての科学の法則はどのようにイダッパッチャヤターの法則の、自然の、あるいは神様の子分かを見ます。一般に知られ、そしてハッキリ見える科学の法則は物理の法則、化学の法則、メカニックの法則、あるいは相対性理論の法則の四種類で全部のように見えます。

 物理の法則を理解できない人もいるかも知れません。それは物体、あるいはエネルギーが現れる法則で、光、聞こえる音、あるいは電流や何やらいろいろに言及し、これらは姿を現して人間に見せることができ、人間は光や音や、電流を有益に使うことを知ります。正しい方法、あるいはそれらの物を望みどおりに経過させる法則で正しくするからです。

 電気などはどこにあるのか知りませんが、あるいはどのようか、それは何か知りませんが、このようにすれば電流が来て使えるという小さな法則を知るだけで、今拡声器を使っているように、あるいは電球を使っているように、物理面のちょっとした法則で正しくすれば、これらを手に入れることができます。光の話、音の話も同じで、私たちは望みどおりに有益に使うことができます。

 このような物理の法則は「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という、すべての法則の原型であるイダッパッチャヤターの子分にすぎないことを忘れないでください。しかしそれは一度だけ、あるいは一時だけでなく、何度も、幾つもの部分が錯綜していますが、イダッパッチャヤターの法則から脱せません。

 次の法則は化学の法則と言い、分子と呼ぶ原子の変化の法則で、分子と呼ぶ元素の細かい部分のほとんどは原子でできていて、核の量、あるいは状態の変化で一つの分子の変化を生じさせると、化学の変化が生じます。だから私たちは非常にたくさんの物、溶液、いろんな製品、あの元素この元素を、化学的な分離や変化によって手に入れました。

 この法則は学生が死ぬまで学んでも、非常に多くて学びきれませんが、それはイダッパッチャヤターと呼ぶ法則、つまり「これがあれば、これが縁で、これが生じる、あるいは当然現れる」法則の子分です。

 次にメカニックについて見ると、エネルギーの調整は動きを生じさせ、いろんな物を押すために使うエネルギーの法則です。メカニックの法則と呼ぶものもたくさんあり、彼らは将来、まだ何百か何千か分からないほど発明出来ますが、それはイダッパッチャヤターの子分です。

 次に、最後の非常に重要な法則は、相対性理論と呼ぶ法則です。時間と物質の関係変換の法則で、一定の比率で変換すると幸福である物として現れ、誤った比率だと幸福になる道がない別の現れ方をします。

 簡単な例は、誤った時刻にご飯を食べる、あるいは適量より多く食べると、こういうのは必ず苦になりますが、ちょうど良い時刻に適量を食べると、苦にならなければならない話は生じません。それは時、あるいは物質ですが、それにはそのようにしなければならず、そうすればそのような結果が生じるという不動の関連があり、そのようにすればそのような結果が生じます。これは小さな話、簡単な話で、大きな話はまだたくさんあります。

 良く見れば、イダッパッチャヤターの法則と比較した時、この四つの分野の科学は浅い物か、あるいは子供の玩具か見えます。あるいはもう一度詳しく言えば、四つの話は同じ話と言うことも出来ます。つまりメカニズム、四つの物の動きや変化であり、それは物理、あるいは化学、あるいはメカニック、あるいは相対性理論に関わるイダッパッチャヤターで、分ければ四つの話になります。しかし見ると、それは四つの物のイダッパッチャヤターにすぎません。

 イダッパッチャヤターはすべてのレベルの、すべての分野の、すべての段階の科学の法則より上であり、それはイダッパッチャヤターの法則、あるいはイダッパッチャヤター次第と見ることができます。

 庶民の科学にする方が、簡単に理解できて良いです。主婦が鍋で飯を炊くようなのは、そうです、四項全部の科学の法則が関わらなければなりません。火から得る熱がなければならないなどの物理の法則は、火が点いて熱になる薪、あるいは炭に物理の話があります。そしてそれは化学の法則の話で、その火が点くには、炎になり煙になる化学的な変化がなければならないので、それは化学の法則、あるいは化学の話です。

 メカニックの法則というのは熱が米粒に変化を生じさせ、熱の力が米粒を膨張させ、あるいはそんなようにするのでご飯になります。相対性理論の法則は、時の法則や物質の法則で正しくしなければなりません。つまり米粒や火、あるいは水でも何でも適正でなければご飯にならず、それは焦げ飯、粥、糊になって食べられません。

 主婦が一鍋の飯を炊くにも、科学の法則の四つ前部がいっぱいあるとまとめます。しかしこれらの法則も、より意味があり、より重さがあり、より真実があるイダッパッチャヤターの法則と比較すれば子分であり、子供の玩具の法則です。

 あるいは医師が一人の病人を治療して治すにも、この四つの法則で経過しなければなりません。物理的には、医師は光を使い、熱を使い、病人の情況に対して正しいいろんな物を使わなければなりません。化学面の治療薬も化学の法則による化学的実践の産物で、だから薬を飲むことができます。

 メカニックの話は手術、塗布、洗浄、湿布、下剤の話でも何でも、相対性理論で、時と病気にふさわしく正しくしなければなりません。時を誤るだけでも確実に死に、あるいは先に死んでしまいます。

 一人の病人を治療して治すにも、科学の重要な四つの法則が揃っていなければなりません。しかしイダッパッチャヤターの法則と比較すれば、それは子分であり、子供の玩具の法則です。

 これは、座って科学の悪口の山を積み上げる訳でなく、普通の科学の話と神様の精神面の科学の話を比較して見て知らせます。

 あるいは庭師が一本の木を美しく育てるにも、科学の法則で正しく経過しなければならず、物理的には光、良い気候がなければならず、科学的には良い肥料や良い何でもで、メカニックは良い剪定など、相対性理論は時と季節と量が正しくなければなりません。これも科学の法則の四種類です。

 科学の面も遊びでなく、望みどおりに成功を生じさせる威力があり、主婦がご飯を炊くにも、医師が一人の患者を治療するにも、庭師が一本の木を育てるにも、それらの法則がいっぱいありますが、それはイダッパッチャヤターの法則の子分です。

 世界の中にあるいろんな物の変化は、物理面も化学面もメカニック面も、何でも全部変化があり、相対性理論の面でももっと変化があり、そして更に変化した結果があります。次にこの変化を見ると、それはイダッパッチャヤターの本物ばかりです。少なくとも時というものは変化し、環境や影響も変化するので、変わらずにいられるものは何もないというもう一つの法則があって、現状を維持できないからです。

 すべての物は流れのように休まず流動していると、良く思って見てください。見えれば、この石も休まず流れていると見えます。つまりこの石の中に隠れている変化があり、それは触れる物次第で休まず変化しています。変化が早いか遅いかは外部の縁次第ですが、その外部の縁も、無常によって変化します。それの分子には核があり、それも核自体の中で、目に見えない変化をしなければなりません。

 これが、すべての核に潜入していると言うくらい緻密なイダッパッチャヤターの法則です。私たちは、すべての原子の中にイダッパッチャヤターがあり、たくさんの核が集まって分子になり、それは更にイダッパッチャヤターの集まりと見えるまで見なければなりません。たくさんの分子が集まって元素になり、何らかの元素は更にイダッパッチャヤターです。

 次に元素は蘊としての、アーヤタナや何かとしての義務があり、それは更にイダッパッチャヤターである意味があります。だからイダッパッチャヤターはすべての法則の原型である法則と言います。

 先ほど私は物理、化学、メカニック、相対性理論の四項に依存している科学の法則について話しました。

 次は広い自然の法則である科学の法則について、粗く広く話して見ます。例えば生物学の法則は、闘って、悪戦苦闘して生き抜く話で、そうすれば生殖し、種の保存、種の維持ができ、生き延びることができ、消滅しません。この法則がなければこの世界に残っている物は何もなく、あるいは何も生まれません。

 つまり動物もなく、人もなく、植物もなく、何も世界に生まれません。あるいは生物学的に正しい法則がなければ、一時生まれても消滅します。しかし生物学的な法則はイダッパッチャヤターの小さな法則で、イダッパッチャヤターの法則から派生した物ばかりです。

 あるいは進化の法則、進化の面から見れば、無からこのようになるまでの進化に関わる進化の法則と言う物は、この世界の初めは何もなく、それからあれがあり、これがあり、草があり、クワズイモがあり、動物がいて人がいます。あるいは最初は地球もなく、火の球である地球が生まれ、このように大規模な進化もイダッパッチャヤターの法則の子の法則、小さな子供です。

 地球を生まれさせることができる、あるいは成り行かせる法則も、これがあれば、これが縁で、これが生じるというイダッパッチャヤターの法則と比較すれば、まだ子供と見てください。

 イダッパッチャヤターは至る所に入り込み、何もかもその法則に集約できると、注意深く観察して良く見てください。極めて興味深いのは、その法則は二つの角度から見ることができることです。原因より上、縁より上にある無為と呼ぶダンマダートゥである角度で見ることもできます。これは法則である、あるいは法則で経過しなければならない角度で見ます。これは、変化させる他の因縁、あるいは作った人はなく、それ自身で生じます。

 時には神様と呼ばなければなりません。そして誰が神様を作ったか、神様は何から生じたか、誰が創ったか、質問する必要はありません。しかしイダッパッチャヤターの神様という意味でなければならず、他の神様は要りません。イダッパッチャヤターの神様はどんな神様より威力があります。

 あるいは他のどの神様も、本当にいるならイダッパッチャヤターの神様でなければなりません。しかし彼らは神様と呼び、インドラ神、ブラフマ神、ヤマ神、何の神様も中身はイダッパッチャヤターの法則です。このようなら「無為(アサンカタ)」と呼びます。

 アビダンマ(論蔵)のカターヴァットゥなどは、これらの法則を無為と説明をする努力をしています。つまり涅槃は無為で、誰も装飾できる人はなく、維持管理できる人はなく、そして消滅させられる人もいないように、作り出す原因、あるいは維持する原因も縁もなく、どのように生じたか知らず、教えることができません。

 ずっとダンマタートゥで、それ自体が無為の側のダンマタートゥです。ブッダが生まれても生まれなくても、それに関わらず、それはそれ自体であり、そして時に関わらず、つまり発生を知らず、変化を知らず、消滅を知りません。こういうのを無為であるイダッパッチャヤターの法則と言います。

 「無為」という言葉は、聞き慣れない人、あまり聞いたことがない人もいるかも知れません。無為とは自然にあるもの、それ自体で存在するもので、作ってくれる物がなくてもそれ自体で生じる物、例えば私たちがダンマダートゥと呼ぶ、あるいはダンマッティタター、ダンマニヤーマター、イダッパッチャヤター、タタターなどと呼ぶ物のように、いろんな名前で呼ぶ物はすべて無為で、生まれることも、変化も消滅もないので無為と呼びます。

 次に反対は有為で作る物があり、変化し、消滅し、そして生じ、変化し、消滅します。有為の法則は人間が制定した法則で、経済面、政治面、教育面、宗教面の法則です。教祖が真実を知らなければその法則は変化し、宗教面でも変化する物だけを規定し、変化する物だけに使う法則だけを規定することもあり、その法則は、変化する物に応じた発生と消滅があります。

 ダンマダートゥ、あるいはダンマジャーティ(自然)の話である法則は何でも無為で、もう一つの、法則が作った物に関わる法則であるものは何でも有為の側の法則です。

 だからその無為は起源、あるいは根源、あるいは仮定で言えば他の物を生じさせる法則と見なします。そして生じた物は有為で、変化しなければなりません。変化と言えば、それは変化を現わす種類のイダッパッチャヤターで、変化しなければ、それはイダッパッチャヤターの最高点という種類のイダッパッチャヤターです。

 つまり作り出す因や縁は何もなく、手が届かず、イダッパッチャヤターと呼ぶ物の最先端という意味ですが、それでも私たちが現すことができるイダッパッチャヤターの範囲にあります。

 縁と呼ぶものは二種類あり、一つは生じさせることができる物で、すべての有為を生じさせます。そしてもう一つの縁は現すための縁で、現すだけで生じさせる訳ではありません。これは私たちに涅槃、あるいは無為を明かにさせる縁です。

 無為は、私たちが生じさせることはできませんが、明らかにする、つまり心に現すことができます。だから私たちは生じさせることができる物を生じさせるため、あるいは生じさせることができないけれど、現すことができる物を現すために、二つの使い方のイダッパッチャヤターがあります。

 だからイダッパッチャヤターの法則は不動のもの、つまり無為ですが、無為の物が作った物、あるいは生じさせたものは有為で、縁によって変化します。そしてそのためだけの法則、有為の法則がなければなりません。

 次に、すべての有為の物は、形も、名前も、土界・水界・風界・気・識、何であれこれを作る原因と縁があり、因と縁の威力で経過するという意味の有為と呼ぶと、緻密に深く見てください。

 ルーパダートゥ(形界)、あるいはルーパダンマ(形の物。具象物)は、先ほど、一つの物質はたくさんの分子、数えきれない分子があると述べたように細かい部分があり、一つ一つの分子はたくさんの原子があり、一つの原子の中にイダッパッチャヤターの法則があります。

 私たちは原子も見えないので、核は尚のこと見えません。原子の話、核の話を現代科学で学べば、一つの核の中にも現象であるイダッパッチャヤターがあり、そして法則にすぎないイダッパッチャヤターがあると気づきます。

 私たちは科学の実験室にいないので核が見えず、そしてその法則はなお更見えませんが、確かなことは、一つ一つの核にもイダッパッチャヤターの法則があり、イダッパッチャヤターの現象があり、それで終わりで、何もありません

 それはイダッパッチャヤターの法則で変化し、神様によって、神様の腕でと言うことも出来ますが、イダッパッチャヤター、あるいはダンマッティタター、ダンマニヤーマターと呼ぶ神様でなければなりません。私たちはそれをただダンマと呼び、ダンマとは自然です。

 次に元々対である法則、つまりイダッパッチャヤターの法則は確実不変の法則で変化しませんが、後世の科学者がこのように、そのように見て、あの部分、その部分を規定した法則は枝葉である法則です。こういうのは不確実で間違うこともあります。真実を知らないから、あるいはすべてを知らないから、法則を規定した人の迂闊さで入り込んだ物があるので、こういうのは全部は正しくない法則で、まだ誤りがあります。

 もう一度時計の話は科学の法則とどのような関係があるかを例にすると、それはイダッパッチャヤターの法則とどんな関係があでしょうるか。時計の裏の蓋を開けて見ると、カチコチと動いて関連している機械が見えますが、それはなぜ動いているのでしょう。それはイダッパッチャヤターの法則だからです。

 それはどのように時計になったのか。それもイダッパッチャヤターの法則によってです。それはイダッパッチャヤターの法則によって正常であることができ、正常でなければイダッパッチャヤターの法則で誤ったからです。正常な部分はイダッパッチャヤターで、正常でなくする部分は動きません。

 例えばカチコチ動いている時計の中に、どこかの部分の部品に錆など化学的変化が生じれば、それも動かず、それは化学面のイダッパッチャヤターの法則に反すと言います。あるいは物理面のイダッパッチャヤターの法則に反せば、天候の変化など、すごく寒くて収縮して、その時計は動きません。あるいはそれはメカニック面のイダッパッチャヤターの法則に反し、一部分が湾曲などしても動きません。

 あるいは最高の、つまり相対性理論の面のイダッパッチャヤターの法則に反せば、つまり物質と時が良く関連しなければ、たとえば地球の回転が遅くなるようなのは、これも時計は使い物になりません。あるいは地球が反転し、逆回りすれば時計も反対に動きます。

 このように細かな法則はこの四種類あり、イダッパッチャヤターの法則に反すだけで、すべての法則に反し、そして時計は動かないと良く考えてください。

 次にそれが再び動くには、イダッパッチャヤターの法則で正しく解決しなければなりません。賢い主人がすべてを知ることで時計は再び動き、ある日ある夜、最後の時が来ると、消滅してアーカーサダートゥ(気界)になり、残っている時計はありません。それは、イダッパッチャヤターの法則だからです。

 イダッパッチャヤターの「神様」はどれほど威力があるか、観察して良く見てください。これも自然の法則と呼びます。大きな部分も小さな部分も、イダッパッチャヤターの法則の下にあります。

 さて私はイダッパッチャヤターの法則について話し、物質側、あるいはルーパダンマ(物質)の側を十分話し、たくさん時間を使ったと言うことです。次はナーマダンマ(抽象物)の側、あるいはナーマダンマの面のイダッパッチャヤターの法則を見ます。

 すべてのダンマ、あるいはナーマダンマの側の法則が幾らあっても、どれだけあっても、小さな部分、あるいはイダッパッチャヤターの子分ばかりです。無常・苦・無我と、誰でも良く理解している言葉があるように、無常・苦・無我と呼ぶものは三つの法則ですが、この三つは本当は同じ法則、イダッパッチャヤターの法則で、これがあれば、これが縁で、これが生じます。

 これがあれば、これが因であり縁なので、これは変化するという意味です。これがあれば、これが縁で、これが執着する人に苦を生じさせます。あるいはこれがあれば、これが縁で、これは自分と執着できません。それらは因と縁で経過するからです。

 だから無常・苦・無我という法則は、イダッパッチャヤターと比べれば玩具であり、イダッパッチャヤターという言葉の方が高く、上で、広いです。これを、ダンマの法則はどの法則も「イダッパッチャヤター」という言葉の意味より下にあると言います。

 狭くして発生・維持・消滅だけを見ると、ルーパダンマのものもナーマダンマのものも、これが主犯です。あるいはイダッパッチャヤターで経過するイダッパッチャヤターの現象です。

 法則は見えませんが、その現象、つまりイダッパッチャヤターの法則の威力で発生し、維持し、消滅するのは見えます。発生して維持して消滅し、発生して維持して消滅することだけを夢中になって見ていれば、外部の状態だけを見ていて、心臓部、つまりイダッパッチャヤターまで深く見ていないという意味です。

 だから愚かさはまだ終わらず、まだ残っている部分があるので、イダッパッチャヤターまで見なければなりません。そうすれば誤解がなくなった、あるいはこの話に迷う愚かさがなくなったと言います。

 私たちが因果、因果、因と果と言うものはまだ終わらないので、もう一つの物、つまり因と果の関わりを知らなければなりません。因と果に分ければ少し知ります。つまりイダッパッチャヤターを知りますが、因に関わるイダッパッチャヤターを少しだけ、果に関わるイダッパッチャヤターを少しだけ知ります。

 私たちは因と果の関連を知らなければならず、そうすれば直接イダッパッチャヤターが見える、あるいはイダッパッチャヤターと呼ぶ物の全体が見えると言います。

 だから原因だけを見ないで、結果だけを見ないで、変化、あるいは何らかの状態がある関係を見なければなりません。原因だけであり続ける物は何もなく、結果にならなければならず、あるいは結果になっても永遠に結果でなく、それが再び原因になるからです。

 簡単に見えるのは、母は子を産み、その子は幾らもしないで母になって子を産み、そしてその子も幾らもしないでまた母になります。それはそれが原因であり、それが消滅して結果が生じ、結果が生じると義務を行い、続いて他の物を生じさせる原因になり、原因が消えて結果になるのと同じです。これをパッチャヤカーラ(縁相)、因と果の間の関連である縁の状態と言い、これがイダッパッチャヤターです。

 これがイダッパッチャヤターという言葉の重要な意味です。つまり原因と結果の関係で、結果が原因になり、原因が結果になり、永遠にこのようです。

 だからどの角度の原因の話も結果の話も全部、見る角度によって法則であったり、現象であったりするイダッパッチャヤターです。

 原因であるものを縁と言い、結果である物を縁起の物(パティッチャサムッパンナダンマ)と言い、因と果の関係を縁起(パティッチャサムッパーダ)と言います。

 これは一般の物質にも使える言葉ですが、普通は私たちの心の中の話で、煩悩である、あるいは何かである原因がある、これが縁です。そしてそれは結果を生じさせる縁起の物で、生じさせる状況の部分を縁相(パッチャヤカーラ)、あるいは縁起(パティッチャサムッパーダ)と言います。

 一人の人の中にこの三つのものの循環がいっぱいで、イダッパッチャヤターの法則で縁になり、結果になり、そしてそれを縁にする状態になり、結果を生じさせる状態になり、そしてどの角度で見るか次第で結果が生じます。

 だから因縁と結果、そして因と果の関係に関わるすべての話はイダッパッチャヤターで、すべての物をまとめた法則と言います。それぞれを分けて見れば、それの小さな法則で、もっと細かく分ければ、もっと小さな法則になります。

 次は最高に恐ろしいもの、つまり輪廻を見ます。輪廻は最高に恐ろしい物です。見えなければ、理解しなければ何も恐ろしくなく、時には楽しいこともあります。

 輪廻と呼ぶものは、煩悩が生じてカンマを作る原因になり、カンマを作ればカンマの結果を生じさせる原因になり、カンマの結果が生じると、当然再び何らかの煩悩を生じさせ、再びカンマを作り、再びカンマの結果があり、また煩悩が生じ、またカンマを作り、またカンマの結果があり、このように循環します。

 これが恐ろしく関係しているイダッパッチャヤターです。そして大きな状態は意味がたくさんあって恐ろしく、苦の話、滅苦の話で極めて人間に関わる状態です。

 煩悩を見ると、煩悩の中にもイダッパッチャヤターの法則がいっぱいです。煩悩の現象は、現象であるイダッパッチャヤターです。次にカンマを見ると、それも煩悩の結果である一つの状態のイダッパッチャヤターですが、それは一つの状態がカンマの結果を生じさせる原因になります。小さな部分を見ると、それは小さな部分のイダッパッチャヤターで、大きな部分を見ると、それは大きな部分のイダッパッチャヤターです。

 善いカンマ、悪いカンマ、善くないカンマ、悪くないカンマから、どのようにカンマが終わるかまでカンマの話、カンマとカンマの終わりであるイダッパッチャヤターの話を、次回の講義で話すつもりです。

 輪廻の輪である関わりは、煩悩-カンマ-報いで、イダッパッチャヤター以外には何もなく、それが恐ろしく猛威を振るうと理解する努力をしてください。その話を知らなければ破滅し、人間性か何かが消滅することもあります。

 これをイダッパッチャヤターの法則はどんなダンマの法則より上にあり、それ以外は小さな話ばかりで、分けてそれぞれの部分にして見せるだけと言います。煩悩の発生と苦の発生、煩悩の消滅と苦の消滅、これがイダッパッチャヤターの現象です。

 つまりこの角度、あるいは正反対の角度でも、煩悩が生じれば苦が生じなければならず、煩悩が生じなければ苦は絶体に生じません。煩悩が消滅すれば苦は確実に消滅し、発生の側も消滅の側もイダッパッチャヤターの法則ばかりで、他の法則はありません。

 次に枝葉の角度で見ると、それもカンマの法則、煩悩の法則、報いの法則等、そのようなものになり、曖昧で一方しか見えない原因になるので誤解します。何人もの盲人が象のいろんな部分を撫でて口論した昔話のように、一つの山を一方から見ると誤解し、この山はこのようだと推測しますが、全部正しく知れば、残るのは「おーい、それはその原則で現象を現したイダッパッチャヤターだけ」という、一言だけです。

 次に滅苦の道具である部分について見て見ると、ほとんどは戒、サマーディ・智慧・解脱(ヴィムッティ)・解脱智見(ヴィムッティニャーナダッサナ)などの物を見なければなりません。

 戒はサマーディを支援し、サマーディは智慧を支援し、智慧は解脱と解脱智見を生じさせ、このように繋がっています。それは消滅側でも、イダッパッチャヤターです。

 苦の側は全部話しました。次に滅苦の側も「これがあれば、これは当然あり、これが生じれば、これが当然生じ、これが無ければ、これは当然なく、これが消滅すれば、これは当然消滅する」というイダッパッチャヤターの法則です。

 戒は身体面の罪の消滅で、サマーディは心を支配する煩悩の消滅で、智慧は随眠や漏の消滅で、ヴィムッティ(解脱)は苦の消滅で、解脱智見は最後にすべての愚かさが消滅します。

 これらは発生と消滅の法則で、戒の発生、サマーディの発生、智慧の発生、解脱の発生、解脱智見の発生、あるいは発言の罪の消滅の発生、粗い煩悩、繊細な煩悩、そして苦がないことの発生、「今は苦がない」と知るニャーナの発生です。

 それが愛すべきイダッパッチャヤターですが、俺、俺の物と執着することはできません。俺、俺の物と執着した途端に、それは鬼になり悪魔になる側のイダッパッチャヤターになり、途端に苦になります。

 だから最悪なものから涅槃まで、何もかも執着できない物で、執着が生じれば団扇を裏返したように苦の話になります。これは、苦が生じるのも、苦が消滅するのもイダッパッチャヤターと見えます。

 アーナーパーナサティの十六段階の実践はどのように繋がったイダッパッチャヤターか、見えるよう指摘したいと思います。しかし時間が十分ないので、簡単に話させていただきます。

 長い息もイダッパッチャヤター、短い息もイダッパッチャヤター、呼吸が体を変調させるのもイダッパッチャヤター、呼吸が体を変調させるのを少なくし、静かにすることもイダッパッチャヤターで、アーナーパーナサティの初めの四段階、カーヤーヌパッサナー(身随観)は、その様式のイダッパッチャヤターです。

 そしてヴェーダーヌパッサナー(受随観)の部を、ピーティ(喜悦)が生じ、あるいはスッカ(幸福)を感じている、それは幸福の、ピーティのイダッパッチャヤターと見ます。二つとも心を変調させ、それは更にイダッパッチャヤターです。

 ピーティとスッカは心を変調させ、次にピーティとスッカの威力を抑えてしまい、チッタサンカーラ(心を変調させること)を静める、これは滅の側、ニローダの側のイダッパッチャヤターです。この四段階は姿形が違うイダッパッチャヤターの話です。

 次にチッターヌパッサナー(心随観)は、心にどのようにいろいろな状態があるかを知ります。それが心のいろんな形のイダッパッチャヤターです。心を喜ばせるのは生まれ立てのイダッパッチャヤターで、心を安定させるのもイダッパッチャヤターで、心を手放すのもイダッパッチャヤターです。

 そこでその時、イダッパッチャヤターと呼ぶ物の秘密を知る人の知性で生じたばかりの話です。だから心をそのように支配することもでき、このように支配することもでき、あのように支配することもできます。

 最後の部、ダンマーヌパッサナー(法随観)になると、無常を見るアニッチャーヌパッシー(無常随観)になり、これは見られるイダッパッチャヤターです。深く見えるようになると、それはヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)ヴィラーガが見える人で、ヴィラーガもイダッパッチャヤターで、新たに生じる「見ること」もイダッパッチャヤターで、ラーガ(貪欲)が薄れることもイダッパッチャヤターです。

 次に煩悩と苦、あるいは執着の消滅、ニローダーヌパッシー(滅随観)になり、それは望ましい、望むべきイダッパッチャヤターです。最後はパティニッサッガーヌパッシー(捨随観)で「私は脱した。私は捨てることができた」と見ています。これがイダッパッチャヤターで正しく実践した結果を見ることで、振り捨てられることはイダッパッチャヤターです。

 イダッパッチャヤターでないものは何もなく、好い結果もイダッパッチャヤター、悪い結果もイダッパッチャヤター、行為もイダッパッチャヤター、行為の結果もイダッパッチャヤターです。これを詳細に見ると言います。詳細で大きな実践にもいろんな形のイダッパッチャヤターと呼ぶものがいっぱいですが、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」イダッパッチャヤターという一語に集約されます。

 これは、あの人この人にある薀の話、ダートゥの話、アーヤタナ(六処)の話は、時間に応じて、環境に応じて経過するイダッパッチャヤターばかりで、私たち一人一人にはイダッパッチャヤター以外に何もないと、持ち帰って自分で考え、観察して学ぶことを知る見本として話しました。

 しかし、イダッパッチャヤターは有為のために使うのと、無為のために使うのと二つの側に分けられることを忘れないでください。イダッパッチャヤターの知識を因と縁がある有為の物のために使って、それを生じさせること、消滅させることができます。しかし使って無為の物と関わるなら、私たちはそれを現すだけで、それを生じさせる、あるいは消滅させることはできません。

 イダッパッチャヤターがどんなに秀逸でも、現して明らかにする以外に、無為のものと遊ぶことはできません。生じさせる、あるいは消滅させる法則、これが一つ、そして発生でも消滅でもなく明らかに現すだけの法則、これが一つありますが、二つの法則はイダッパッチャヤターです。

 もっと良いのは、このイダッパッチャヤターはバランスの法則であり、中道であることです。バランスを取ることは危機を脱すことで、バランスがなければ危機を脱せません。今私たちが危機を脱せるのはバランスがあるからです。

 つまりあっち側こっち側に行かないで真ん中に、つまり多すぎず少なすぎず、ちょうど良い所にいます。多すぎるほどあるのでなく、まったくないのでもありません。そういうのは適度でなく、時間も物も、何でもいろいろ正しく適度にしなければなりません。

 ブッダはイダッパッチャヤターを、中道(マッジマパティッパダー)、あるいは真ん中の状態、つまり真ん中の道である実践を教える目的で説かれました。

 イダッパッチャヤター、イダッパッチャヤターと話す時は真ん中にいて、どちらの端へも行かず、イダッパッチャヤターの法則であの方向この方向へ行くことも出来ますが、それは行きません。特に話すのは、あれこれ、そのようこのよう、そっち側こっち側と言わず、良くても悪くても、幸福でも苦でも、これがあれば、これが縁で、これが生じると中間で話します。

 だからイダッパッチャヤターを最高の価値がある角度で理解してください。つまり中道であることを出現させ、体は中道がなければならず、発言は中道がなければならず、知性も中道がなければならないので、そうすれば穏やかな幸福でいられます。しかし人はあまり見ないで、「正しく」しましょうとだけ言ってしまいがちです。「正しくする」と言うのは正しく、それは滅苦ができますが、まだ賢い言葉ではありません。

 賢い言葉は中道と言い、正しい、正しくないという言葉を使いません。イダッパッチャヤターを正しく知っているので、中道という言葉を使います。だから中道、バランスの法則は、すべての法則の頂点です。だから今日のテーマであるすべての法則より上の法則、すべての法則より素晴らしい法則、すべての法則の頂点である法則は、すべての苦の消滅のためになると言うことができます。

 すべての法則の頂点、あるいは上、あるいは何かと言うのは、すべての苦の消滅のためになるからです。誰がその中道であるバランスを規定した人と理解しないください。誰が規定したと理解しないでください。自然が規定し、ブッダが大悟したので公開されました。だからブッダに関わる物は何もなく、話す必要はないと言うほどで、ブッダが生まれても、あるいは生まれなくても、これはこのようです。

 これはブッダご自身が言われ、私が言ったのではありません。私がブッダを尊敬していないのではありません。ブッダご自身が「如行が生まれても、あるいは如行が生まれなくても、これはこのようであり、このようにある」と言われています。

 ブッダが生まれても生まれなくても、イダッパッチャヤターの法則は何にも影響されません。ブッダが生まれてこの法則が公開された以外は。ブッダが生まれなければこの法則は公開されません。しかしこの法則自体は何も気にせず、不動不変で、ブッダに関係ありません。

 イダッパッチャヤターの法則で生まれ、イダッパッチャヤターの法則で滅尽しなければならないのはブッダの方です。ブッダが生まれたのもイダッパッチャヤターです。このように言うのは、ブッダを軽視しているようですが、ブッダご自身もこのように言われています。

 ブッダが涅槃したのもイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤターの法則で、この部分のイダッパッチャヤターの現象であるブッダを生まれさせたので、ブッダは、私が生まれても生まれなくても、これはこのようにあると言われています。

 次にブッダはなぜ生まれなければならなかったか。ほら、考えて見てください! なぜブッダが生まれなければならなかったのでしょうか。それもイダッパッチャヤターの法則で我慢できなかったからです。

 人間の知識がイダッパッチャヤターの法則で高くなった時、人間界にブッダが現れました。なぜブッダが生まれなければならなかったかは、イダッパッチャヤターの法則による発展が、世界にブッダを生まれさせました。

 ブッダの誕生、あるいはブッダの滅尽は有為で、因と縁で経過し、イダッパッチャヤターの法則で経過します。「生まれて死ぬのは、それはブッダではない」と別の言葉を使う例外以外は。そのダンマダートゥをブッダにしてしまう、それは見事です。ブッダは「ダンマが見える人は誰でも、その人は私が見え、私が見える人は誰でも、その人はダンマが見える」と言われ、これも一つだからです。

 次に中部の経に「パティッチャサムッパータ(縁起)が見える人は誰でも、その人はダンマが見え、ダンマが見える人は誰でも、その人はパティッチャサムッパータが見える」とハッキリとあります。ここでのパティッチャサムッパータ(縁起)は直接イダッパッチャヤターの法則という意味で、イダッパッチャヤターを見ることはブッダを見ることです。

 だからブッダは、この意味のイダッパッチャヤターの法則です。ダンマが見える人は誰でも、その人はブッダであるダンマが見えると言われます。つまり「ダンマが見える人は誰でも、その人は私が見え、私が見える人は誰でも、その人はダンマが見える。縁起が見える人は誰でも、その人はダンマが見え、ダンマが見える人は誰でも、その人は縁起が見えます」。

 そのようなら、ブッダという言葉は人物を意味しないで、ダンマ、つまりイダッパッチャヤターを意味するので、大爆笑いですが、行ったり来たりしてイダッパッチャヤターはブッダです。イダッパッチャヤターを見る知性、あるいはニャーナダッサナ(智見)も、ブッダを見ることを意味します。だから誰でもこのような状態のブッダを見る努力をする方が良いです。つまりイダッパッチャヤターを見る状態、それがブッダです。

 おまけにもう一つ、ブッダはこのようですが、神様はどのようか話したいと思います。これは誤解を防ぐためです。他の宗教の神様は別の状態で、イダッパッチャヤターの神様ではありません。しかし彼らにイダッパッチャヤターの種類の神様がいるなら、神様という言葉の意味だけを捉えた時にあります。つまり神様は人物とみなすような、すべての神様は人と信じる人たちは、何の神様を信じているか知りません。

 彼らが正しく書いておいた他の宗教の教典は、神様は何か知らないと分かる状態で書いてあります。つまり人でもなく、霊でもなく、何でもありませんが神様です。言葉がないからです。このように話せば、少しずつイダッパッチャヤターに近くなります。

 神様は何をするかと言えば、神様は創り、神様は支配し、神様は破壊し、神様は至る所にいて、神様は悪を行った人を罰し、善を行った人に褒美を与え、このようです。このように話すとすぐイダッパッチャヤターになり、仏教のイダッパッチャヤターもその人たちの「神様」になります。

 あるいは仏教にも彼らのように神様がほしければ、イダッパッチャヤターです。鋭敏で、厳格で、不動で、神様のように最高の法則ですが、私たちは短くダンマ、あるいはダンマダートゥ、あるいはダンマディティ、あるいはダンマニヤーマター、あるいはイダッパッチャヤターと、このように呼びます。

 要するにすべてをただ「ダンマ」と呼びます。しかし要旨をちょっとハッキリ限定すればイダッパッチャヤターと言い、ダンマという言葉の意味です。神様と呼ぶものは法則で経過する必要はありません。神様が法則、つまりイダッパッチャヤターだからです。だから神様は何の法則に従う必要もなく、自分自身で存在することができます。それは無為である法則なのですべての法則より上にある法則、他の神様より上にいる神様です。

 これは大きなイダッパッチャヤターで、宇宙全体、宇宙以上で、何百何千の宇宙があっても宇宙のすべてです。このイダッパッチャヤターは宇宙全体と同じだけ大きく、すべての種類の宇宙にはいろいろな違いがありますが、一つの根源から生じます。

 なぜ、どうしてこのようなのかというすべての問題に、イダッパッチャヤターという言葉で答えることができます。つまりイダッパッチャヤターだから、イダッパッチャヤターで、あるいはイダッパッチャヤターが生じれば、世界の不思議な物何でもイダッパッチャヤターから生じているからです。

 世界のすべての動物は何種類いるかと問えば、子供のように話すこともでき、無足動物、二足動物、四足動物、数えられない多足動物がいます。非常に違うのは、ある動物は足がなく、ある動物は二本足、四本足、ある動物は数えきれないほどありますが、イダッパッチャヤターの法則によるイダッパッチャヤターの現象である点は全部同じです。

 あるいは水の中で生まれるジャラーブジャ、泡卵で生まれるアンダジャ、積み重なって生まれるサンセダジャ、突然生まれるオッパーティカ、これは非常に違って見えますが、本当は同じで、イダッパッチャヤターから生まれます。あるいはそれらすべての動物の中に、今将にイダッパッチャヤターの状態、イダッパッチャヤターの現象があります。

 だからそれらすべての生物を、非常に違うと見ないでください。無足動物と有足動物は同じで、水中で生まれ、胎内で生まれ、卵胞で生まれ、あるいは突然生まれる生物も同じです。だから中国人、インド人、タイ人、西洋人、あるいは女性、男性、何々と見る必要はありません。それは更に滑稽です。

 これが、彼らがどのように質問しても、イダッパッチャヤターという一語で答えられる問題です。

 おーい、愚かでいることを止め、自慢を止めてしまい、愚かでなく、自慢せず、イダッパッチャヤターを遊びにしてはいけないとまとめます。今まではイダッパッチャヤターと遊び、つまり気にしないで、あるいはイダッパッチャヤターの重要さに見合うだけ十分配慮しませんでした。

 このようなのを、知らないから遊びにすると言います。知らないから自慢し、それでいつ滅苦をするイダッパッチャヤターに出合えるでしょう。出合うのは苦の中で押さえつけて苦を増やすイダッパッチャヤターばかりです。

 仏教教団員は「知る人、目覚めた人、明るい人」で、私たちもそのように「仏教教団員は知る人、目覚めた人、明るい人」と宣誓し、それで本当に知り、目覚め、明るいでしょうか。まだイダッパッチャヤターを知らなければ知ることはできず、明るくなれず、目覚めず、まだ愚かで自慢します。

 イダッパッチャヤターを拠り所として遵守し、イダッパッチャヤターを正しく使って拠り所にし、自分を「知る人、目覚めた人、明るい人」にしてください。他のものではできません。イダッパッチャヤターの法則に反せば何も助けてくれる物はないので、拠り所である教えを遵守しなければなりません。

 だから、みなさんがイダッパッチャヤターと呼ぶものに慣れるよう、体も慣れ、口も慣れ、心も慣れ、体もこの法則で正しい実践をし、口もこの法則で正しい実践をし、心もこの法則で明らかに知るよう、能力の限り努力してください。

 こういうのを「毎日の実践でイダッパッチャヤターに慣れている人」と言います。イダッパッチャヤターを正しく十分に知ってください。大きな法則、つまりイダッパッチャヤターをすっかり知り尽くせば、小さなイダッパッチャヤターに騙されません。

 一つしかない本当のイダッパッチャヤターを完璧に知れば、一つの出来事のため、あるいは小さな部分のために枝分かれした小さなイダッパッチャヤターに騙されません。今物質面、身体面、楽しく美味しい面の発展に迷っているのもイダッパッチャヤターですが、苦に連れて行くイダッパッチャヤター、つまり苦を生じさせる生起側で、これを少ししか知らないと言います。

 苦はどのように生じ、どのように消滅するか、滅の側はどのようか、そして執着してはいけないと全部知らなければなりません。生起側も滅側も、何も執着できません。執着すれば、苦を生じさせる新しいイダッパッチャヤターが生じます。

 だからこのような決意をますます期待できる物にしてください。つまりイダッパッチャヤターの知識が正しく、そして全部揃っているので、イダッパッチャヤターの法則に騙されなくします。

 まとめると、これがあれば、これが縁で、これが生じるという一つしかありません。しかし要旨は深遠でたくさんの分野に隠れているので、銘々持ち帰って良く考えて見てください。時間になりましたので、今日はこれで終わらせていただきます。


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