神様であるイダッパッチャヤター


1972年1月22日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。イダッパッチャヤター(因果。縁生)の話の講義は第四回になり、今日はみなさんご存知のように、神様であるイダッパッチャヤターと題してお話します。

 この話についても復習したいと思います。この講義の目的は、この話は仏教のすべての心臓部であり、三蔵あるいはパーリの中に沈んでいて、あるいは眠っていて不毛であることから、仏教の心臓部であることまでみなさんの心の中で明らかなものにすることです。そして本物であるにも拘らず取り上げて話されない部分なので、私は、少なくとも講義の一シーズンの時間を費やしてこの話をする決意をしました。

 このマーカブーチャー季の間中この話だけをする決意をしたように、たぶん十回の講義になると思います。これは、イダッパッチャヤターの話を、日常に話す普通の話にするため、そして仏教教団員であることを無駄にしないと言われるように、つまり述べたような仏教の心臓部を深く理解するために、急げるだけ最高に急ぐ以外に何も望みません。

 イダッパッチャヤターの話はパティッチャサムッパーダ(縁起)の話で、この話ほどブッダが気に入られた話はないと復習させていただきます。出家したのもこれを探求するためです。

 そして休まず探求し、最後に大悟する日までこの話を探求され、悟ったばかりの時、この話ばかりを考えられ、ブッダの生涯はこの話だけを教えられ、間もなく般涅槃するという時も、最期の言葉としてこの話、つまり「カヤヴァヤダンマー サンカーラー」と、このようにイダッパッチャヤターについてつぶやかれました。

 この話は、現代人にとっては可笑しいかもしれません。もう一つの話は、ある時ブッダが静かな所に一人で座っておられた時、現代人が歌を口ずさみ、口笛を楽しむようにこの話を述べられました。

 ブッダがそのようにされた時「目が形に依存すると、当然眼識が生じ、この三つの出会いを触と言い、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じ、すべての苦は当然このような状態で生じる」という主旨のイダッパッチャヤターの話を暗唱されました。

 目に関わる部分を暗唱し終わると、耳に関わる部分を、耳に依存して耳識が生じ、それからこのように数えた場合の九つの状態、あるいは普及して良く知られ、繰り返されている、縁起式に数えれば十一の状態を目の部分と同じように、子供が掛け算九九を暗唱するように暗唱されました。

 ブッダが暗唱して愉しまれた、あるいは口にして愉しまれた、あるいは鼻歌のようにされた話は他になく、あるのはイダッパッチャヤターの話だけと理解してください。このように熟慮して見ると、それは重要と見えます。

 イダッパッチャヤターは仏教の心臓部というのはまだ十分ではありません。イダッパッチャヤターはすべての物、この世界この宇宙のすべての話で、これほど重要です。だから後に述べられた経、先ほど僧サンガが唱えたのは、四十分でイダッパッチャヤターという言葉が二十二回ありました。

 さっきこの経を四十分唱えた中に、イダッパッチャヤターという言葉が二十二回あり、そしてダンマッティタター、ダンマニヤーマター、あるいはタタター、アヴィタタター、アンニャタターなどまとめた他の言葉がそれぞれ十一回あるのは、好きでない人や意味が分からない人は煩わしいと思います。

 この経はダンマの心臓部のすべてなので、標準である経と言うような状態があり、すべての話を要約した略語があります。これがこの話の重要点です。みなさん大変でも、煩わしくても、この話を理解するためにしばらくの間、忍耐していただくようお願いします。

 次に私たちはもっと広く、この世界の利益になる人間になるには、この話を知らなければならない、と考えなければなりません。

 この項目について、煩がられるのを恐れず、忌憚なく、誰でも常に「なぜ生まれて来たか」に関心がなければならない」と復習させていただきます。これに関心がない人は、生まれて来たことから受け取るべき物を受け取れません。あるいは「その人はなぜ生まれたかを知らないので、人間ではない」と、敢えて言うことができます。

 なぜ生まれたかを知らなければならず、そしてなぜ生まれたかにふさわしくしなければならず、そうすれば人間になります。イダッパッチャヤターの話を知らなければ、なぜ生まれたか、そして「しなければならないことがあり、それは何としてもしなければならない」と知ることができません。

 ここで、いつものように確認させていただきます。みなさん、出家も在家も例外なくすべての人は「生まれてきたら、自分自身の最高に満足すべき利益を受け取らなければならない。そして私たちが生まれたのは、自分が世界の一員として世界で生きている利益を、他人に受け取らせるため」と知りなさい。これは自分自身の利益と他人の利益、二つの利益です。このように二つの利益があれば、生まれたことが無駄にならないと言います。

 次に自分の利益も他人の利益も、すべての話はイダッパッチャヤターである真実と関わっているものばかりです。イダッパッチャヤターという言葉は、文字では「これがあれば、これが縁で、これが当然生じる」という意味です。何も知らない人はバカみたいな言葉だと非難します。この文句の深遠な意味を知らないからです。ブッダは「この言葉の利益は、知らなければならない物のすべて」と主張されています。

 これがあればこれが縁でこれが生じることは、私たちの内部、外部の至る所にあることが一つ、そしてそれは最高に恐ろしくあり、それは不動の原則、威力のある原則、すべての物をそのように支配する法則であることが一つです。

 それはこのような流れなので、すべての物がその法則で経過しなければならないこともイダッパッチャヤターであり、毎日人間に生じている結果は、幸福も苦も、あるいは何でも、個人的にも世界全体でも、その結果は「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という文句のイダッパッチャヤターだからです。

 聞いて意味が分からなければただの言葉であり、バカみたいに聞こえます。このように感じる仏教教団員はまだ仏教教団員でなく、皮だけの仏教教団員、口だけの仏教教団員です。本当の仏教教団員ならこの言葉を理解しなければならず、この言葉がしみ込んでいなければなりません。イダッパッチャヤターであるいろんな物が現れた時は、いつでも心に動揺を感じなければなりません。しかしこの深遠な真実を知らなければ、何も起きていないのと同じです。

 次に今日は、神様であるイダッパッチャヤターと言うものを指摘して見せたいと思います。みなさんは、最初の日から話したことについて復習しなければなりません。

 第一回は仏教の核心であるイダッパッチャヤター、第二回は知識、あるいは世界のすべての物のすべての学識であるイダッパッチャヤター、前回の第三回は、イダッパッチャヤターと呼ぶものは自分、すべての意味とすべての挙措の自分と見えるよう説明しました。

 いつでも、どんな意味どんな挙措の自分と呼ぶものもイダッパッチャヤターという意味です。今日は神様であるイダッパッチャヤターという話をします。しっかり聞いて有益にしてください。

 神様と呼ぶものは非常に、数えきれないほどたくさん問題がありますが、すべての問題は神様を知らない愚かさから生じると要約することができます。神様を全然知らない人も、神様を間違って知っている人もいます。時には、私には神様がいるとか、私は神様がいないとか議論するために、そのように、このように愚かさを曝け出します。

 しかし真実は、神様と呼ぶものは、これらの人が感じなくてもいることができます。話している神様とはイダッパッチャヤター、つまりこれがあればこれが縁でこれが生じることです。

 法則であるイダッパッチャヤター、それが神様です。どうかしっかり観察して、本当にある物を知ってください。議論する必要はありません。私たちは神様を知り、神様を理解し、そして神様がなければなりません。私たちは何時、どのように、どこで知ることができるかは、今学んでいるように学習しなければなりません。さて次は神様という言葉について、神様とは何か、十分分かるよう話します。

 神様とは何か、小さな子供や、子供の時から大人になるまで教えを受けた人は、幼児のような感覚があるので、神様とは何かを知らないと簡単にまとめることができます。恐ろしい人物、あるいは幽霊、あるいは神々、あるいは何かのような状態があり、人と言うのでもなく、人でないというのでもありません。

 今の人は、西洋人もタイ人も神様の話を聞いているので、このような状態の神様の話を理解しています。つまり人物で、人のような感覚がある神様と理解し、人物のような神様、あるいは Personal Good、ね、このようにだけ知っています。

 一部の人は善いと言って信仰し、もう一方部の人は拒否しますが、両方とも神様は幽霊のように恐ろしい物と理解していて、何と呼んだら良いか知りません。つまり人でもなく、人でないのでもありません。このような状態で神様を知っている人は、幼児のような神様を知っていると捉えてください。その種の神様はその種の人のための幼い子供の神様でもあります。

 次に私たちは、どのように本当の神様を知ることができるでしょうか。本当の神様はイダッパッチャヤターの法則、つまりこれがあればこれが縁で、当然これが生じることですと、私が前もって言っておいても、これだけ話しても聞いて理解できないので、「神様」と呼ぶ物の特質を知らなければなりません。それからすべての宗教共通の意味の神様を知ります。

 宗教の話でなくても、神様はすべての物を創って生じさせ、すべての物を永遠に支配し、そして時にはすべての物を破壊、あるいは全部追い出してしまう義務があります。だから基本である何かを創り、すべてを支配し、そして再び創るために時々破壊、あるいは停止させてしまう三つの特質がある神様が生まれます。

 次に人は愚かさ、賢さに関して非常に隔たりがあり、愚かな人には、「神様は私たちのような人で、創り、支配し、そして破壊する威力がある」と聞いているように、実体がある人物と話さなければなりません。なぜならこれ以上話しても、別の話し方をしても理解できないからです。これは幼児の神様です。

 そして神様は人でない、天人でもなく、幽霊でもなく、何でもないと言えば何か分からず、知らないことばかりですが、すべての物を創り、すべての物を支配していて、そして時々、新たに生じさせるためにすべての物を破壊する義務があります。

 これはあり、そしてこのような性質があると認める人は、その人は意味として正しい神様を知っていると言います。人か霊か分らなくても、すべての物を生じさせ、成り行かせ、そして消失させ、そして生じさせ、存在させ、消滅させ、このようにさせる威力がある何かがあると認めます。これは、今私が法則と呼ぶ物、つまり自然の法則です。

 太陽や月、宇宙のすべての星はどのように生まれたか、今どのような法則で運行しているか、どのように消滅するか、そして再び何の威力でどのように生じるか、その規則が神様です。

 幼子になら「神様は人」と言わなければなりません。時には長いひげを蓄えて杖を突いている絵を描きますが、法則でと言えば人でなく、霊でなく、天人でないと言います。だからそれは法則、あるいは威力にすぎず、ルーパダンマ(物質)でないので、姿を描くことはできません。仏教教団員もこれほどまで賢かったことがあります。あの大きな建物の壁に貼ってあるレリーフなど(の時代の人)は、ブッダの像、プラタムの像、僧の像を作ろうとしませんでした。

 彼らは「本当のブッダ、本当のプラタム、本当の僧は絵で表すことはできない」という不動の教えを遵守していたからです。そしてブッダや僧より、プラタム(ブッダの教え)について話しました。ダンマは絵で表せないので、形がないので、そしてブッダが「私が見える人はダンマが見える。ダンマが見える人は私が見える」と言われたような、そのダンマがブッダだからです。これは身体を基準にしないことです。

 だからブッダはプラタムで、プラタムは絵で表せるものではないので表さないと、彼らはこのような教えを遵守しました。今でもまだ、インドのこのように感じる人物は、このように叫んでいます。プラタムは絵に描けるものではないと短く憶えておいてください。彫像にも、絵画にも、何の像にもできません。だからその絵のブッダ、あるいはプラタム、あるいは僧である所は空にしておく必要がありました。他の人、他の物の絵は描けます。

 次にプラタムとは何かを見ると、プラタムとは法則です。法則と言う時、先ほど僧が「如行が生まれても、あるいは生まれなくても、ダンマダートゥはいつまでもあり続ける」と唱えたように、「ダンマダートゥ」という言葉を思い浮かべるべきです。この文章の言葉は、仏教のダンマの面だけでなく、法則があり、法則で経過するすべてのもの何にでも使うことができます。

 だからみなさん、これらの法則の埒外にある物は何もなく、この世界にあるすべての物の中で、現代人が知っているのは物質、あるいはエネルギーである物だけと良く見てください。その人が物質とエネルギーの両方を知れば、それは百パーセント確実に法則で経過すると認めます。私たちはこれらの法則を知らなければなりません。そうすればそれらの物から利益を得るために関わることができます。

 まだ現代人が知らないものがあり、それはナーマダンマ(抽象物)の部類で、ルーパダンマ(具象物)に関わらないダンマの面で経過です。ナーマダンマと呼ぶものにも法則があり、法則で経過しなければなりません。だからルーパダンマもナーマダンマも法則があり、法則で経過しなければなりません。

 法則、あるいは法則で経過しなければならない部分は、神様と呼ばなければならないほど厳格です。それを呼ぶだけの価値がある最高の言葉がないので、制度と呼ぶこともできます。その法則は制度で、誰に助けてもらわなくても、自分自身で毅然と存在できます。

 人間の国の制度は人間が力を合わせて作って制定しますが、神様の法則、あるいは制度は、神様あるいは法則自身が制定し、つまりどのように生じたか分らないほどあります。

 物理的、化学的、物質的ないろんな法則も同じで、心の面の法則、つまり煩悩が生じて苦になるのも同じで、それがどのように生じたか、そして誰が制定したか分かりません。だからこの教典では自然に生じたと見なし、そしてアサンカタ(無為)と呼びます。つまり作った人はなく、そして誰も作れません。

 ここでまだ聞いたことがない人は、アサンカタ(無為)、つまり誰も作った人がなく、誰にも作れないものと、もう一つのサンカタ(有為)、つまり作ったもの、作った人がいて、そして作れるもの、触れることができ、変化できるものの二つの言葉を聞いてください。

 法則、自然の法則と呼ぶものは、誰も作れる人がなく、あるいは変化させられる人もいません。これが法則です。これが、私たちが神様と呼ばなければならないものです。すべての物を生じさせる威力があり、そしてすべての物を法則で、つまり自然に経過させる威力があるからです。

 次にすべての物は変化でき、そして法則で経過するので、サンカタ(有為)と呼ぶ物に分けられます。つまり加工する因と縁があり、因と縁で変化するものです。このような状態をイダッパッチャヤターと呼び、これがあれば、これが縁で、これが生じることです。

 だから私たちは、法則を除いてしまうだけで、それ以外はサンカタの部分の、つまり法則で経過しなければならないイダッパッチャヤターと言うことができると見ることができます。法則自体もイダッパッチャヤターと呼ぶことができますが、法則であるものであり、つまり上の威力があるので、他の物に対して行動する主体的な側です。

 次にその法則で経過するものは受け身なので、直接イダッパッチャヤターと呼び、法則で変化しなければならない物です。あるいは法則でもこれの法則です。だからこのようであることを、法則としてと言います。

 イダッパッチャヤターとは、これがあればこれが縁で、これが生じるという意味です。この言葉が法則として存在すれば、それは神様です。それが法則で経過しなければならないなら、それは神様によって創られ、支配され、経過させられる物です。

 次に繰り返し忠告していても、今日も「良く憶えておいてください」と忠告しなければならない特別な言葉があります。それは「タタター」、あるいは「そのようであること」です。イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁で、これが生じる。これは、そのようなので、だから「タタター」と呼ばれます。次に法則自体もそのようで、これも「タタター」と呼ばれます。だからすべての物を成り行かせる神様も、神様によって経過させられるすべての物も「タタター」と言います。

 「タタター」という言葉は「そのようであること」という意味で、聞くと狂っている人の言葉のようです。「そのよう」と言うだけで他に何とも言っていません。この言葉を理解していない仏教教団員は、仏教教団員でないかもしれません。出家してマハーパリエン(パーリ語試験)九段を勉強しても、百段でも千段でも、「そのようであること」という言葉を理解していなければ、まだ仏教教団員ではありません。

 一人で森に住んでいる文盲のお婆さんに適いません。そのお婆さんが「あらまあ、泣いてはいけないよ、息子。それはそういうものだよ!」と言えば、タタターという言葉は何かを知らなくても、このお婆さんはここに座っているみなさんより仏教に通じていると言われます。彼女はタタターという言葉は何かを知らなくても、「泣いてはいけないよ。それはそのようだよ!」と言えます。

 あるいは宝くじに当たって「うひぁー、狂っちゃいけない。それはそのようだよ」と言い、何もかも、それはそのようという言葉だけで、可愛い、あるいは憎らしいと怪しみません。これがイダッパッチャヤターを知る人で、何も愛さず、何も嫌わず、上らず下がらず、喜ばず、悲しみません。

 だから私たちは、山の中に住んでいる文盲の年寄りが、時には同じように話すのを見ることができます。つまり「喜んじゃいけないよ。そういうことだから」、あるいは「泣いてはいけないよ。それはそういうものだよ」と言います。

 だから何を見ても、何を聞いても、どっちの方向を見ても「そのよう」と感じる人は迷って愛さず、迷って憎まないので、その人はイダッパッチャヤターの話を知っていて、イダッパッチャヤターと呼ぶ物を有益に使うことができます。つまり自分を解放することができ、可愛い物、あるいは憎たらしい物の奴隷になりません。

 これはタタター、つまり「そういうこと」について話していて、法則である「そのようであること」は神様で、その法則で経過しなければならないすべての物である「そのようであること」は、神様が創って支配している物です。

 だからみなさん、神様はいるかいないか、考えて見てください。すべての物は生じて、そして何らかの威力で経過すると信じたくなければ、その人は、神様はいないと否定できます。しかしすべての物が現れ、経過し、そして最後に崩壊するのは、何らかの原因があるからと考えるなら、そのような原因を神様と捉えることができます。

 今私たち仏教教団員は、昔から仏教の教えの言葉で信じ、それはぴったり一致ししますが、理解できなければ知らないのと同じです。

 アッサジが「すべての物は生じさせる原因があり、如行様はそれらの原因を説かれ、そして原因がなくなることによるそれらの物の消滅を説明なさいます」と言った、アッサジガーターと呼ぶ仏教の核心は、アッサジが、まだこの宗教で出家する前のサーリープッタに言ったガーター(詩)です。それです。アッサジは神様と呼ぶ物について、後に仏教で出家してサーリープッタになる、良家の御曹司ウパティッサに説明しました。

 つまりすべての物は生じさせる物である原因があり、世尊はこれらの原因と、原因が無くなってそれらの物が消滅することを説明されました。つまりブッダが「神様」を、つまりすべての物を生じさせる原因と、すべての物を消滅させる原因を説いたという意味です。

 しかし私たちは神様と呼ばず、タンマ等呼びます。パーリ語ではダンマ、ダンマー、タイ語ではプラタムと言います。だからプラタムは神様、原因である神様で、他方の行動されるものであるプラタムは世界、あるいはすべての物です。

 タム、あるいはダンマという言葉はすべての物に使うことができ、主体でも良く、目的でも良く、物質でも良く、行動の状態でも何でも良いです。ダンマという一語を使って、それがタイ語のプラタムになりました。だからすべての物の原因である部分のプラタムは、神様と同じ価値があり、それはイダッパッチャヤター、つまり厳格な法則で、誰も抵抗できません。

 「これがあれば、これが縁で、これが生じる」というのは、ブッダが「如行が生まれても、あるいは如行が生まれなくても、このダンマダートゥはこのようにあり、そして他のように変化しない」と言われたように、この法則は誰も抵抗できません。

 これは、ブッダも止めることができない物、誰も支配できない物があり、このイダッパッチャヤターの法則は本当の神様である物で、人物でなく、天人でもなく、霊でも何でもないと知らなければならないという意味です。人物や天人や霊などは、イダッパッチャヤターの法則で経過しなければならない物、つまり神様に創られたものです。

 法則であるイダッパッチャヤターが神様で、この法則で経過しなければならないものは神様が創り、支配しているものです。基本的な意味を掴んで、このような状態の神様を知らなければなりません。神様と呼ぶ物、あるいは神様と呼ばなくても、仮定次第、規定次第です。

 他の人たちは別の言葉を使い、外国語の God はタイ語の神様と同じ意味があります。それは幾つものレベルがあり、愚かな人が理解するのと、あまり愚かでない人が理解するのと、賢い人が理解するのとみんな違います。私たちは当然幼い子供で、そして自慢してキリスト教などの宗教の神様の意味と解釈するのは、非常に愚かで憐れな人です。神様という言葉を正しく知っていれば、仏教のプラタムという言葉と一致すると気づくからです。

 キリスト教のヨハネの教典の最初の行に word があり、word は Light、つまり「光」であり、そのLight は God と言っています。見てください! 光という意味の Light を光と解釈するのは誤りで、本当はこのような光ではありません。

 彼らは Word という言葉を使い、原初に THE WORD と呼ぶ物があり、THE WORDは The Lightで、The LightはGod です。子供が学校で習う文字で理解すれば全部間違いで、WORD は話す言葉で、Lightは光、Godは何と訳すか知りません。

 しかし彼らの教典では、THE WORD がすべての物よりも前からあり、その THE WORD が The Lightで、The Light は God と述べています。これが新約と呼ぶ、キリストに関した部分である新しく書かれた後世の教典です。古い教典には、最初の日に神様は The Light を創り、四日目に太陽と月を創ったとあります。愚かな人たちは「狂ってる! The Light を一日目に創り、四日目に太陽と月を創るなんて」と非難しますが、そう言っている人が狂っています。

 The Light は、太陽や月の Light でなく、太陽や月を生じさせる法則です。これは最初のヘブライ語から翻訳した時に最初に間違い、ギリシャ語に訳し、英語に訳す時も間違ったかも知れません。教典では最初はそのようだからです。しかし The Light、光と訳された言葉は、何よりも先にあり、神様は一日目に創り、四日目に太陽と月を創ったと知ってください。それは The Light は他の物を創る威力があるという意味です。これは古い教典にあります。

 次にイエスに関した新しい教典になると、最初に THE WORD があり、つまり言葉があり、その言葉は The Light、光であり、The Light は God です。THE WORDは法則で、話す言葉という意味の WORD は、法則である言葉です。それで誰が話すのかは、その法則が話します。そして THE WORD、話す言葉、あるいはその聖旨が The Light で、The Light はすべてのものの根源です。

 物質面、ルーパダンマの面の例は、私たちは、光は太陽から生じると信じています。しかし何から生じても、すべての物の根源です。物質面はこのようです。今の新しい物理や化学でも、The Light はすべての物の Source と、そのように言います。

 しかし彼らは何千年も前から The Light は God であり、それがすべての物の根源と話していることを忘れないでください。だからその The Light は日光でなく、すべての物を生じさせ、発展させる根源です。

 次に The Word は、すべての物より威力がある法則、あるいは聖旨です。キリスト教徒が印刷した本は、最初はこの THE WORD は神の言葉と訳していますが、私は正しくないと見ます。チエンマイで話した時「これを仏教ではプラタムと言い、神の言葉ではない」と話しました。神様の言葉なら何の意味もありません。

 ただの話す言葉だからです。法則であるプラタムは話す言葉でも良いですが、法則であるものが話す言葉でなければなりません。しかし次に、彼らは反対に人物の言葉と理解してしまい、こういうのは正しくありません。そしてその後、彼らは修正しました。

 つまり彼らの本の The word を、全部プラタム(教え)と訳しました。以前は At the beginning the word was という文章の、WORDという言葉一語をプラタムと訳し、最初のように訳しませんでした。つまり私が「神の言葉は法則」と言ったのに賛同しました。

 キリスト教は「最初にTHE WORD、あるいは The Light があったとハッキリ述べています。人でなく、霊でなく、天人でなく、それは God で、God は法則で、この法則はイダッパッチャヤターの法則です。だから法則であるイダッパッチャヤターは、すべての物を創った神様として存在しています。

 次に神様によって創られたすべての物は、キリスト教徒側はまだ次のように、「神様はすべての物であり、法則も、あるいは法則で経過する物もすべての物と呼び、神様もすべての物に含まれる」とあります。だから私は、もしそうなら神様が創った物、あるいは神様の法則で経過する物はすべての物と言います。

 だから偶然、物質でも法則であるものでも、つまり無為の側でも有為の側でも、すべての物に使うことができる仏教の「ダンマ」、あるいは「ダンマー」という言葉と一致します。だから God の意味がすべての物、つまり創った人も、創られた物も意味するなら、ダンマという言葉、あるいは仏教のプラタムもはもっと God という言葉と一致します。

 内容としても、要旨も、事実関係でもイダッパッチャヤターは神様と見ることができます。法則であるイダッパッチャヤターは創造者である神様で、そしてイダッパッチャヤターは法則に従って経過しているすべての物で、神様も含めたすべての物です。

 キリスト教側は、神様は何の例外もなくすべての物と言います。次にプラタムも同じで、何の例外もなくすべての物で、サンカタダンマ(有為)もアサンカタダンマ(無為)もすべてで、このように一致します。これがイダッパッチャヤターの神様です。

 すべての物、神様、神様が創ったすべての物であるイダッパッチャヤターと呼ぶ物を知ることに、愚かな人になるか、あるいはどれほど賢くなるか考えて見てください。そしてみなさん、神様はいるかいないか、考えて見てください。みなさんはなぜ、ここに来て座っているのか、どこから来たのか、誰が創ったのか。

 仏教教団員式に答えるなら、イダッパッチャヤターが作ッタと答えます。人間の最初の家族を創り、最初の一族を創ったのはイダッパッチャヤターで、あるいはまだ何年でもない昔、両親が作ったのもイダッパッチャヤターです。両親はイダッパッチャヤターで、作る状況もイダッパッチャヤターなので、どの角度から見ても、すべての人間はイダッパッチャヤターが作り、そして支配し、そして時々、破壊するべき時に破壊します。

 つまりイダッパッチャヤターの神様は作り、常に支配し、そして時々、新しく生まれるため、新しく作るために破壊する義務があります。ね、私たちに神様がいるかないか、考えて見てください。

 だから私は、神様がない人たちは良く調べもせずに話し、話すのも子供のように話していると見ます。創り、支配し、そして時々壊す義務がある何かがあれば、それを神様と呼ぶと、すべての側に公正に話さなければなりません。私たち仏教教団員の世界ではプラタムと呼び、一部はアサンカタ(無為)、つまり法則で、もう一部はサンカタ(有為)、つまり法則で経過しなければならない部分です。

 次にタイ語でも向こうの God でも、神様という言葉を錯綜して捉えていたことがあると、少し話します。タイ語の神様は、アユタヤ時代まではブッダを意味していました。事実ではブッダは神様ではありませんが、タイで話されていたタイ語の話し言葉は、アユタヤ時代の神様という言葉は、ブッダを意味して使われていたと、よく聞いてください。例えば三印法典には「比丘は遺産を受け取ってはならない。その方々は神様の子だからである」という章があります。

 聞いて見てください。この法律は「比丘は遺産を受け取ってはいけない」、あるいは「遺産に関して何かの権利と捉えてはいけない」と言います。その方は神様の子だから、つまり仏教で出家した人を神様の子と呼んだからです。これはタイ語で、タイ人自ら制定し、西洋人がこれらの法律を書いたのではありません。だからまだ何年でもない時代に、神様という言葉はブッダを意味し、そしてまだ他の意味もありました。

 だから人間がその時だけ話し、その時代だけ規定した文字を本気にしないでください。それ自体が法則で、誰も作った人がなく、誰にも従わず、すべての物を運命づけ、つまり生じさせ、維持させ、消滅させる物は何でも、それが本当の神様という本当の意味でなければなりません。誰が何と呼んでも勝手で、プラタム、あるいは God、あるいは何と呼んでも自由ですが、それは有ります。

 ブッダは「これ、つまりタタターはあります。如行が生まれても、如行が生まれなくても、これ、つまりタタター、アヴィタタター、アンニャタター、イダッパッチャヤターはあります」と言われました。これとはタタター、つまりそのようであること、これとはアヴィタタター、つまりそのようである状態と違わないこと、これとはアンニャタター、つまり別の状態ではないこと、イダッパッチャヤターは、これがあればこれが縁で、これが生じることです。

 みなさんが良く聞き、良く規定すれば、先ほど僧がタタター、アヴィタタター、アンニャタターなどの言葉を十一回も唱え、タタターは「そのよう」で、他のようにならず、そしてアヴィタタターは、そのようである状態と違わないことで、アンニャタターは他のようでなく、イダッパッチャヤターは、このような縁があれば、これが法則で生じます。科学の法則も、このような原因があれば、その法則にふさわしい結果が生じなければなりません。

 今世界の人たちは何でもでき、月の世界へ行くことも、どこへ行くこともができるのは、イダッパッチャヤターの法則を使うことを知っているからです。ここで簡単に稲作や畑作ができるのも、イダッパッチャヤターの法則を知らなければなりません。そうすれば稲が良く育ちます。養豚や養鶏もイダッパッチャヤターの法則を知らなければならず、そうすれば死なず、そうすれば良く売れます。

 イダッパッチャヤターの法則に関係のない物は何もありません! それはこのように重要なので、私は「神様」と呼び、そしていつでも、どこでも、どの出来事でも、老若男女誰にでも非常に必要です。

 私たちはこの世界で生きていて、みんな違う時間があり、何かをしている時、あるいはどんな挙措で何かをしている時も、すべてはイダッパッチャヤターの威力下にあるので、その法則で正しくしなければなりません。

 水浴をするにもイダッパッチャヤターの法則で正しくしなければならず、そうでなければ水浴の結果は得られません。便所に行っても厠に行ってもイダッパッチャヤターの法則で正しくしなければなりません。

 そうでなければ危険が生じ、結果がなく、利益がありません。このように卑近な最低のことでも神様の法則、つまりイダッパッチャヤターの法則で正しくしなければなりません。だから私たちが食べ、寝、立ち、歩き、眠り、いつ何をする時も、この法則で正しくしなければなりません。この神様はいつでもどこでも支配しているからです。

 私たち仏教教団員は「カンマ」の話を聞いたことがあり、カンマを作れば、カンマの結果を避けてどこへも逃げて行くことはできず、逃げ切れず、逃げる方法もありません。カンマ、あるいはカンマの神様は何処にでもいて、淵の中、海の底、どこにいることも意のままになので、カンマの威力から逃れることはできないからです。それがカンマの神様です。

 次に私たちがしている仕事は銘々違いますが、この世界は自分の職務だけのイダッパッチャヤターがあり、男も女も、子供も若者も年寄りも、この神様はいつでもどこにいても支配しています。

 さて次は、いろんな物を支配している法則自体もイダッパッチャヤターで、法則で経過しなければならないものもイダッパッチャヤターで、生じる結果もイダッパッチャヤターです。生じる結果もイダッパッチャヤターですが、結果としてあり、そして最終目的に注目すれば、それは人間が得るべき最高に望ましい結果です。

 キリスト教徒、あるいは神様がいる宗教のように言えば、彼らは「私たちは最後は神様と一緒に暮らす」と言います。それが神様を信じる人たちの最終目的です。そして輪廻しなくとも良いため、あるいは神様にあのように、このようにしてもらわなくても良いように、彼らが神様になってしまって神様と一体になることを、最終目的は神様と言います。

 次に仏教教団員の目標は涅槃で、つまりイダッパッチャヤターの法則と一体になり、二度と作られる必要がないことです。神様が最終目標なら、仏教にも神様である涅槃があります。

 私は「涅槃は仏教の神様」あるいは「神様は仏教の涅槃」と話したこと、書いたことがあります。幼い子のような学者は嗤い、反論を書きました。彼は神様とは何か、法則である神様、すべての物を法則で成り行かせる物である神様、そして最後の結果、最終目標である神様と、三種類の神様がいると良く聞かないからです。

 次に幼児のような神様だけを見ると、霊か人か、あるいは天人か知らず、知っているのは Personal God だけで、サバーヴァダンマ(自然の物)である神様を知りません。だから彼らは文字を根拠に、彼らが子供たちに教える知識を根拠に、そのように口にすることができます。だから涅槃は神様ではない、あるいは神様は涅槃ではないと言うこの種の学者のように愚かにならないために、誰でもイダッパッチャヤターの話を学んで理解しなければなりません。

 だからみなさん、法則であるイダッパッチャヤター、つまり法則であるすべてのアサンカタ(無為)もあり、法則で経過しなければならないものであるイダッパッチャヤター、つまり法則で経過しなければならないサンカタ(有為)であるすべての物もあるとまとめてください。

 これが神様を信じる人たちが神様と見なすもの、つまり法則で経過する物でも、すべての物です。そして私たちが到達して一体にならなければならない、二度と輪廻する必要がない最終目標である神様、それは涅槃です。

 涅槃は、本当はイダッパッチャヤターの結果である状態です。アナンタ(無辺)である物として一種の法則性があり、それは輪廻しなければならないことと反対で、最後にアサンカタの状態に戻ります。

 ほとんど神様を信じる人たちと同じで、彼らは神様がいる、あるいはパラマートマン(大我)がある、あるいは大きなボロマアッター(梵我)があり、そして輪廻するために小さなものに分かれ、十分賢くなれば瓦解して故郷、つまり再びパラマートマンに戻ります。こういうのはヴェーダナータの人たち、つまりヒンドゥー教の人たちが言います。

 しかし良く見れば一つしかなく、あるのはイダッパッチャヤターだけです。話はどの角度でイダッパッチャヤターと呼ぶものを見るか次第で、創る人である角度のイダッパッチャヤターを見れば創造神で、作られたものである角度のイダッパッチャヤターは作られたすべての物で、最後の結果、到達しなければならない最終目的であるイダッパッチャヤターは何と呼んだら良いか分からない物、つまりイダッパッチャヤターの終わりで、それが仏教の涅槃です。

 これです。この例えのように信じれば、永遠に、何劫にもなる話です。しかし今本当にある最高に近い物にすれば、イダッパッチャヤターの法則に間違った行動すれば即刻苦があり、イダッパッチャヤターの法則に対して正しく行動すれれば苦はありません。しかし幸福も苦も、全部イダッパッチャヤターです。

 どの角度、どの面のイダッパッチャヤターかで、耐え難い部分のイダッパッチャヤターに触れれば苦ですが、堪える必要がない快適なイダッパッチャヤターに触れれば幸福です。しかしそれでもイダッパッチャヤターです。だから幸福でも苦でもある必要がないイダッパッチャヤターに移動してしまう方が良く、それは滅型のイダッパッチャヤターが最高になった時に現われる涅槃の話です。

 神様に関わる項目について、もう少し話したいと思います。先ほどアユタヤ時代のタイ語の「神様」という言葉は、法律用語の神様はブッダだったと話しました。こういうのは要りません。つまりタンマの教えでの正しい「神様」ではありません。ダンマの教えの正しさではありません。

 神様は創り、支配し、そして破壊できなければならず、それが本当の神様です。だから私たちには、他の人たちが神様と呼ぶパーリ語やサンスクリット語の言葉があります。私たちタイ人が神様と呼び、西洋人は God と呼び、インド人たちはイースワン、あるいはイスワンと呼びます。

 パーリ語はイッサラという言葉があり、サンスクリット語のイースワラに相当します。しかしイースワラ、つまりイスワラと言うと、私たちは別の意味があります。タイ語でイサラと言うと意味がなくなり、民主主義の目標である自由、独立、あるいは自由人、旦那である人でも何でも、神様という意味はありません。

 本当はイッサラという言葉は神様という意味で、イースワラ、あるいはイッサラも独立で、誰も何もできません。イサラという言葉は低い意味を掴まないでください。何もすることができない、誰も何もできない「自由独立」という意味を掴んでください。そのようなら、それが神様です。だからパーリ語の中には、他の人たちの神様という言葉と一致する意味の「イッサラ」という言葉を使っている所が何か所もあります。

 次にある時代ある場所に、インド文化のこの分野が入って行って、国中の領民に「国王はイスヴァラ(シヴァ)神。国王は神様」と信じるよう教えました。人である国王が神様、少なくとも神様の代理でした。カンボジアのアンコールワット城は、人である神様に捧げるために建造したと理解しています。つまりある国王は神様で、彼らはその神様のために建造しました。

 これは世俗的な低い意味を現わしていて、国王は世俗の意味のイサラです。国王は神様のように思いのままに、あのように、このようにさせることができるからです。これは最高の王制です。そのような文化の中では、国王はある様式の、つまり世俗の神様です。

 これは、神様にはいろんな意味があるが、非常に重要なのは畏れなければならないことで、恐ろしいという意味があると見ることができます。本当の神様なら恐ろしく、そして畏れなければなりません。つまり言うことを聞かなければならず、従わなければなりません。

 イダッパッチャヤターの神様にどのような規定があっても、誰でも信じなければならず、従わなければなりません。さもなければ自然に破滅し、困窮します。イダッパッチャヤターの神様と遊ぶことはできません。知らなければならず、恐れなければならず、従わなければなりません。

 今みなさんは、神様より使うお金がないことを恐れるんじゃないですか。これは事実を言っています。回りくどく言わず、誰でも使うお金がないことを恐れると言います。これは神様を知らないからです。本当は、神様が罰を与える時は、お金がないよりもっと重い罰を与えます。イダッパッチャヤターである神様に対して本気で間違いをしてご覧なさい。

 それは死以上で、破滅あるいは死以上です。だから神様は恐ろしい物で、恐れなければなりません。次に私たちはどうするかは、知らなければならないだけです。そして正しくして神様の加護と呼ぶ物を受け取ります。

 イダッパッチャヤターの法則を唱えたように良く、つまり縁起を良く知っていれば、間違いをする道はなく、苦を生じさせる道はありません。それがイダッパッチャヤターの神様の加護です。私たちがそれを知り、そして恐れ、その法則に従って正しくすれば、神様も私たちを加護するだけです。先ほど読経したように、私たちはイダッパッチャヤターの法則で苦になる必要はありません。

 私たちは、この神様の加護はどんな加護よりも最高に良い加護と、もう少し見るべきです。私たちを最高に愛している両親の加護も、神様の加護ほどではありません。王族、あるいは霊、天人、あるいは何のでも、本物の種類の神様、特にイダッパッチャヤターの神様の加護ほど本気ではありません。良く知って、怖れて従えば、苦がないように加護してくれます。

 心に貪りは生じず、心に怒りは生じることができず、迷いが生じることもできず、愚かさも生じることができないので、喜びも悲しみもなく、苦も幸福もなく、何もありませんがすべての物より上にいます。これが、私が良く理解している、良く知っているイダッパッチャヤターの神様の加護です。

 だから私は、神様の法則で正しく行動するのが一つ、そしてもう一つは神様と一体になってしまうこと、つまり神様にならせていただくことを願っています。最初の段階で神様になれないので、神様の法則で最高になり、これを良く知り、すべての物の法則はイダッパッチャヤターと、これがあればこれが縁で、これが生じると良く知ります。

 そして仏教の教えの執着しないことが生じ、何にも俺、俺の物と執着しないと言います。何も自分、自分の物と捉えず、愚かに迷わなければ、自分がないこと、自分の物がないことが生じるので、アサンカタ(無為)式の神様、つまりアサンカタに導くイダッパッチャヤターで、その後は何も作ることができません。この心は解脱し、すべての物より上にあり、すべての物の引き留めから解脱します。これが神様になってしまうことです。

 最初に私たちは行動を投資し、神様の法則で正しくし、その結果すべての物から解脱したら神様になってしまいます。そうすれば何の問題もなく、幸福より上、苦より上、徳より罪より上、善より上、悪より上、勝ちより上、負けより上、すべての物より上にいます。これを「最終段階のイダッパッチャヤターは、この法則で実践してすべての物から解脱する」と言い、「神様と一緒にいる」と言います。

 だから、神様はイダッパッチャヤター、イダッパッチャヤターは神様と良く観察してください。子供の言葉を真似て話さないでください。みなさんは大人で白髪頭になり、長々しい学位があっても、神様は霊だ、あるいは天人だ、あるいは彼らが子供を恐れさせるために描いた絵のように恐ろしい何かだと言います。

 神様だけなら恐ろしくはありません。人以上の物は何もなく、そしてそのような神様は煩悩があり、一時怒り、一時愛す。こういうのは神様ではあり得ません。次にイダッパッチャヤターの神様を正しく知れば、本当の神様を知ります。

 本当は同じで、法則であるイダッパッチャヤターは創造者である神様で、すべての物がその法則で経過しなければならないイダッパッチャヤターは神様、つまりすべての物で、何にも執着しないほど良く実践したイダッパッチャヤターは、すべての人の最終目標である神様です。「神様から出て神様に還る」と、このように言うこともでき、彼らが言う「権利」があります。

 しかし仏教にはプラタムがあり、私たちを創る部分は、心や体を生じさせ、輪廻させ、最後に愚かさが消え、賢くなり、何にも執着しなくなり、輪廻する種類のダンマであることが終わります。最後に涅槃の種類のダンマに到達し、つまり輪廻しません。話は神様から出て、神様に戻るに近いですが、これは譬えです。

 神様を良く知ってください。それには少なくともこのような三つの部分があり、創造する神様、創られたすべての物である神様、そして最終目標である神様です。しかし仏教のダンマの言葉で言えばすごく簡単で、すべての物を創った原因、あるいはすべての物より上にあるイダッパッチャヤターなどの法則であるダンマも、アサンカタ(無為)の部類のダンマの一種と言います。

 そして作られた物はサンカタ(有為)の部類で、最終目標はアサンカタ、つまりその後は作られません。イダッパッチャヤターの話を熟知し、イダッパッチャヤターの法則で最後まで実践すれば、このような結果があります。

 私たち仏教教団員はこの話を良く知り、何としても勝たなければなりません。つまり苦にさせる種類の法則で経過しなければならないことに何としても勝ち、苦から出て、苦から脱して苦より上になり、自分がなくなる種類の法則にします。空であり無我であれば、どの種の神様も作ることはできません。

 どの種類の神様も、この人を人に作ることはできません。その人が知り、その後は輪廻より上にいれば、「空」あるいは「無我」と言います。心が空のレベル、無我のレベルの真実に到達すれば、神様の創造より上にいて、神様になってしまいます。

 次は、この神様に対してどのように実践するか、実践について話さなければなりません。そうでなければ完璧でなく、何も利益がありません。神様に対してどのように実践をするか話すなら、以前に「イダッパッチャヤターはどこに何としてあるか」と話したのを思い出さなければなりません。

 これも、私たちの体外のイダッパッチャヤターもあり、私たちの体であるイダッパッチャヤターもあり、体でなく心であるイダッパッチャヤターもあり、アナンタ(無限)であるイダッパッチャヤターもあり、どこでもなく、いつでもないのはアナンタとしてあると復習しなければなりません。


1.体の外部のイダッパッチャヤターは、この石もイダッパッチャヤターで、何百億年前か知りませんが、自然の法則、あるいは神様の法則、あるいはイダッパッチャヤターの法則が作り、今、この石として、木、土、小石、石も、この世界の物質であるいろんな形のすべての物として現れ、時と場所の関係で規定されました。だから多様な姿になり、私たちの体の外部は法則で経過しているイダッパッチャヤターばかりです。

 だからその中に法則も、法則で経過しなければならない物もあります。この石は体の外部のイダッパッチャヤターという意味で、これは「この石は私たちの体の外部にあるイダッパッチャヤター」と知らなければなりません。

2.私たちの体、あるいはルーパダンマ(具象物)にあるイダッパッチャヤター、髪・体毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・何であろうと、私たちの体の中にあるルーパダンマである物もイダッパッチャヤターです。この身体は最初にはまだなく、発生源である父母に依存して生じ、ご飯と果物などの食べ物で成長してこのようになったのは身体の部分です。それは体に関わる、あるいは体の中のイダッパッチャヤターで、独自の法則があります。

3.もっと深くなったのは心です。心は考えで、目が形を見ると、ある種の心が何の形か、どんな意味があるかを知り、喜んだり悲しんだりし、美しい形、美しくない形でも愛が生じ、欲しくなり、そしてその願望で行動し、手に入れば一時狂喜し、手に入らなければ残念で苦になります。すべてを心の面の話と言い、すべては心に関わる、あるいは心の中にあるイダッパッチャヤターです。

 だから体の外部のイダッパッチャヤター、体の内部のイダッパッチャヤター、そして心の中のイダッパッチャヤターと三段階になります。

 次に最後の段階は特別で、時に関わらず、場所に関わらず、時と場所の関係に関わらない、こういうのをアナンタ(無辺。無限)と言います。それでもそれは、私たちが知らなければならない法則であるイダッパッチャヤターです。

 次に体の外部、体の内部、心の中、そしてアナンタのイダッパッチャヤターを、私たちはどのように実践しなければならないか、一つ一つ見て行きます。ヤクザのように言えば、ヤクザとういうかなり下品な言葉を使わせていただきます。仏教教団員のヤクザにとっては、最初の物でなければなりません。つまりそれを知らなければなりません。いずれにしてもそれと関わるには、それを知らなければなりません。

 アビンニャーヤ(最高に理解すべき)という言葉を使い、アビンニャーヤ、知らなければなりません。それを知るため、それを良く知り、そして何としてもそれを知るためのアビンニャーヤです。体の外部のイダッパッチャヤターも知らなければならず、体の内部のイダッパッチャヤターも良く知らなければならず、心の中のイダッパッチャヤターも知らなければなりません。

 だから最初に「それを知らなければならない」という言葉がなければなりません。そうでなければ愚かで、仏教教団員ではありません。「ブッダ」という言葉は「知る人、目覚めた人、明るい人」という意味だからです。このように憶えておいてください。

 だからすべてのダンマの法則の最初の段階は、先ずそれは何かを知ってしまうために「アビンニャーヤ」とか「パリンニャーヤ(遍知されるべき)」という言葉がなければなりません。だからこの部分は何は何か、何はどのようかを教えるだけで、何としてもそれを知ってしまいます。

 次にそれを知ったら、体の外部のイダッパッチャヤターに対してどのように正しく実践するか、たとえばこの石は、美しさを愛でることもできますが、それで苦になる必要はありません。あるいは石のイダッパッチャヤターを有益に使うこともできます。

 そうです! 潰して粉になるまで、どの角度の利益に使うこともでき、物質を化学面でも何の面でも有益に使うこともできます。このように芸術的物質に使うこともできます。これを、それに対して、そのようである物にふさわしく実践しなければならないと言います。

 要するに楽しく愛でても良く、利益に使っても良いですが、最後の結果は、それに喜びや悲しみを生じさせてはいけません。それがどのようでも、望んだように手に入れても手に入れなくても、最後の結果は喜びも悲しみも生じさせていけません。体の外部の物はこのようにしなければならないだけです。つまりそれを良く知り、そしてそれを利益に使い、あるいは直接利益がなければ、見て楽しむこともできます。

 次に身体に訪れたイダッパッチャヤターも何かを知らなければならず、そして正しい方法で管理しなければなりません。今私たちは正しい方法で管理しないので、高血圧や糖尿病や、胃病や心臓病になり、不眠もこの話に愚かで、イダッパッチャヤターの方法で正しく管理しないからです。

 身体になるイダッパッチャヤターは髪・体毛・爪・歯・皮膚・骨・筋・肉・何でも、良く知っています。正しく管理するだけでなく、後で教育の物として使わなければなりません。それを良く知り、正しい方法で管理し、そして有益な結果を増やすため、より高くするために、後で教育する道具として使いますが、それは「それを喜んだり悲しんだりしない」という言葉で終わります。

 外部の物と同じで、それを喜んだり悲しんだりしてはいけません。身体の中も、それを喜んだり悲しんだりしません。結局、何でもすることはし、何をしても心はそれに喜びや悲しみを生じさせません。

 どんな利益が欲しくてもそのようにし、管理するのも、能力をつけるのも、あるいは何をするのもしますが、それに喜びや悲しみを生じさせません。そうでなければ苦になり、それが噛みつきます! 簡単な言葉を使います。正しくない方法ですれば、それは噛みつくばかり。つまり苦があるようにします。

 次は、心まで深くなったイダッパッチャヤターで、私たちの心はチッタ(心)が一つ、チェッタシカ(心所)が一つ、二つの部分があります。このチッタ(心)は考える義務をする自分であるものを意味します。一方のチェッタシカ(心所)は考えを生じさせる感覚を意味し、合わせて「チッタ」「チャイ」「マノー」と言い、何とでも呼び方次第です。しかしそれは心であり、イダッパッチャヤターの一種であるそれ自体の法則で経過します。

 さっき例に挙げて話した話は、眼が形を見ると識が生じ、触が生じ、受が生じ、欲望が生じ、取煩悩が生じると言いました。だから私たちは、それは何か知らなければなりません。それは何か、どんな状態があるどのような存在か、成り行き任せにしてはいけないと知るまで、知ってしまわなければなりません。

 心と呼ぶ物は成行き任せにしてはいけません。私たちの元々は無知、何が何かを知らないので、自然のままにすれば、何が何かを知らないままにすることです。

 だから心を管理する十分正しいサティサンパッチャンニャ(常自覚)がなければ、結局貪りが生じ、怒りが生じ、迷いが生じ、そして火のように熱くなるだけと、学んで知らなければなりません。だから私たちは、それは何か、それはどのようかを知らなければなりません。そうすればそのように火のように熱くならないよう防ぐことができます。

 心の系統になると、あるいは心の病気と言えば、解決は幾らも利益がないので、予防という言葉をたくさん思わなければなりません。煩悩を生じさせない予防法を使うため、そして苦にならないために、仏教を学んで知らなければなりません。そうすれば苦はありません。煩悩が生じれば苦です。

 病気も同じで、治療より予防法の方が良いと見なし、何でも、どんな場合でも「予防は治療に勝る」と一般に言われているように見えます。昔の人は「予防は治療に勝る」と言いました。解決しなければならないほどになると、それは大変だからです。だからそれが生じないように予防しておきます。

 煩悩に関する話はこのようで、このような大原則があります。学んで知れば、目・耳・鼻・舌・体・心が煩悩を生じさせないよう予防する方法を知り、十分な常自覚があり、煩悩が生じないような練習をすれば安心です。そうでなければ苦で、誰も助けることはできません。神様は罰を与える人だからです。考えて見てください。神様が罰を与える人なら、誰も助けることはできません。「この法則に背いていけない。そうすれば神様が罰を与える」という方法があり、これが予防です。

 ここまで来たら、ここに座っているダンマの学習の話も同じで、ダンマを学習したいなら良く注意し、解決より予防にしてくださいと、付け加えさせていただきます。心が憂慮するに任せ、適度に防止するために使うダンマがなければ、ダンマで解決できない種類の病気が生じます。

 特に初めからサティを失う病気になります。中風で倒れて不随になるなど、こういうのは、ダンマは何の助けにもなりません。だから中風で不随にならないよう予防する方法がなければなりません。

 つまりいつでもダンマの系統で正しく心を維持すれば、絶対に神経の病気にはなりません。神経の病気の人はダンマを知らない人と烙印することができます。自分を眠らせることができず、憂慮するに任せれば正しい仏教教団員でなく、外側だけ、あるいは相変わらず口だけの仏教教団員と烙印することができます。

 だから僧でも沙弥でも神経の病気なら、仏教の正しい僧・沙弥ではありません。清信士・清信女も神経の病気なら、仏教の教団員ではありません。仏教が教えていることに誤りをし過ぎると、いろんな物に執着、憂慮しすぎると神経の病気になります。

 だから同じ比率で糖尿病や高血圧症や、心臓病や胃病などになります。胃病も長く憂慮することから生じ、憂慮を解決するだけで、薬を飲まなくても胃炎は自然に治ると敢えて言います。これは解決に変わる予防法です。

 予防の状態のダンマを学んでください。カンマターナ(念処)をするのも、ヴィパッサナーをするのも、何をするのも予防にならなければなりません。識の面の病気になれば、サティも自覚もないので、ダンマは助けることができないからです。不随で寝ている人は、何を話しても分かりません。あるいは神経の病気になったら、何を話しても分かりません。どうしようもありません。助けられたとしても非常に困難で、たくさんの時間が掛かります。

 だから予防は解決より重要と、予防の重要性を見てください。予防の価値は八十から九十パーセントあり、解決の価値は残りの十パーセントです。このような原則を掴めば、神様、つまり実践しなければならない義務の中のイダッパッチャヤターに抵抗する利益があります。そして明らかな義務は、イダッパッチャヤターで無明と呼ぶものを殺してしまわなければなりません。

 無明、何が何かを知らないことを殺してしまわなければなりません。絶えず殺す努力をしなければなりません。それが予防です。善く暮らすという状態があるように、あるいは常に正しくし、そして最後は喜びや悲しみを生じさせないという所で終わります。

 心の中に生じる感覚、幸受でも苦受でも、不幸不苦受でも、それを喜んでも悲しんでもいけません。喜ばしい物を喜び、厭わしい物を厭えば無明で、結局私たちは負け側になります。だからいつでも喜ばず悲しまない結果がなければならないと確認するために、このように憶えておいてください。

 私は体の外部、体の中、心の中のイダッパッチャヤターについて、このように実践しなければならず、そうする必要があると話しています。つまりそれを知り、それに関わる法則で正しくし、そして喜ばず悲しまず、無関心でいます。

 次に奇妙に見えるイダッパッチャヤターは、時間、あるいは面積を越えたアナンタ(無辺。無限)のイダッパッチャヤターで、身体も心も、何でも全部イダッパッチャヤターの法則であるものは神様なので、それも知らなければなりません。最初の言葉は「知らなければならない」で、最後の言葉は「喜んでも悲しいでもいけない」です。

 真ん中の部分は神様である実践で、これも正しくしなければなりません。あるいは間違った実践をしないでください。間違っていないのは正しいです。だから私たちはこの法則を尊重し、この法則に対して正直で、この法則を良く守れば苦はありません。

 次に何時と問うなら、残りの時間がわずかなので「これらの義務を正しく実践できる時」と少し説明します。体の外部、体の内部、心の中にある物について話せば、それは全部関わり合っていて、心は外部の物を感じ、心は体に依存し、心と体が合わさって何かを感じることができ、接触すれば外部の物を感じます。接触がある時はいつでも、その時は気を付けてください。問題が生じます。

 つまり目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わい、体が皮膚の接触をし、心が考える感情を受け取ると、この六種類の内部の物が外部の物と出合う、それが最高に注意しなければならない時です。つまり身体が皮膚の接触をする時、それが最高に注意しなければならない時です。煩悩と苦はこの時生じます。

 愚かな人が形を見、愚かな人が声を聞き、愚かな人が臭いを嗅ぎ、愚かな人が味わう等々、これらは必ず煩悩があり、苦があります。だからいずれかのアーヤタナ(六処)に触れる物があっても、愚かになってはいけません。目が形と触れた時などに常に常自覚を持っておきます。何時と問うなら、このように答えます。それの危険は、外部と内部が接触する時にあるからです。

 アナンタに関わるイダッパッチャヤターは時間より上、空間より上にあり、Time と Space に関連性がない、こういうのは私たちの義務ではありません。それが法則としてあると知ったら、私たちに関わる法則で正しく自分を維持する努力をします。これだけできれば全部正しくできると言われます。「全部」というのはものすごく多くて計れず、アナンタ(無限)であり、時間的にも空間的にも計測できません。

 しかし私たちが正しくすれば、形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わう等々の時だけでもすべて正しくなり、計ることができないアナンタも正しくなります。だからこの部分は何も言う必要はありません。目が形に触れ、耳が声を聞いた時等に正しくするとだけ話します。これが体の外部、内部、心、そしてアナンタのイダッパッチャヤターで、これが神様です。

 さて、そろそろ終わるので、神様であるイダッパッチャヤターは本当の神様で、仏教教団員にもあり、どの人たちにもあると、少し功徳を説明させていただきます。すべての生き物になければならないという意味で、この種の神様は誰でも、特に物質主義の人たち、つまり労働者と資本家とコミュニストも、コミュニストでなくても使うことができます。バカみたいな神様をコミュニストにやっても受け取りません。

 このように本当の神様にすれば、コミュニストたちも受け入れ、労働者も受け取り、資本家も受け取ります。彼らが良く学べば「そうだ! これは自然の本当の神様だ、月の世界に行くことができるのはこの神様を知り、原子爆弾を創って落とすことができるのもこの神様を知るから」とハッキリ見え、コミュニストも良く知ります。

 だからこの神様、つまりイダッパッチャヤターを受け認めます。コミュニストたちも、本当の神様なら神様を持つことができます。

 今労働者も資本家も、どちらも神様を持っていません。彼らは「神様は死んだ、神様はいない」と、このようにだけ夢中になって言っています。だから私たちは助け合って、労働者にも資本家にも本当の神様、本当にいる神様を説明します。

 どちら側にも神様があれば、この神様を恐れ、労使間の闘争を止めることができます。労働者主義と、資本家主義の間の闘争は、神様が助けに入って利己主義を止めさせれば、「物質崇拝は苦だ」と、それを止めてしまいます。神様を持ってしまいましょう!

 そうすれば最後の文章は、「今ここの神様だ! 死んだ時神様に到達するのは相変わらず愚かで、何世も何十世も後の神様なら何倍も愚かだ」という要旨があります。冒頭で「このイダッパッチャヤターは体の外、体の中、心の中、すべてのアナンタにいるので、他の時間でなく、死んだ後でなく、この時に」と話したように、神様は今ここに、そしてどこにでもいるからです。

 このように本当の神様も知り、そしてこれらの神様に正しく対処しなければなりません。そうすれば問題はなくなります。これが、問題がなく、疑う必要がない本当の神様であるイダッパッチャヤターを知ることの利益です。話して来たように観察し熟慮する方法として、短くまとめた項目である説明の言葉があります。

 みなさん全員が持ち帰って熟慮し、ブッダを信仰すると言うにふさわしく、可能な限り有益に使うことを望みます。ブッダが口ずさまれたのも、この話しかありません。このような言葉を使うことをご勘弁ください。ブッダが口ずさまれたのは、イダッパッチャヤターです。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。
 


法話目次へ ホームページへ 次へ