三宝と三学であるイダッパッチャヤター


1972年2月12日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第七回の講義は、みなさん予定表で良くご存知のように、三宝と三学であるイダッパッチャヤター(縁生。因果)と題してお話します。

 この項目で、多くのみなさんが三宝と三学はどのようにイダッパッチャヤターなのか、怪訝に思われるかも知れません。これが「三宝と三学と呼ぶものも、イダッパッチャヤターであることから逃れられない」と見えるまで、これからもっとたくさん、もっと深く理解しなければならなりません。

 ここまで深遠に見て見えれば、仏教教団員であることにふさわしく十分に、どこでもすべての物に仏教の心臓部であるイダッパッチャヤターを見ることがある、と言うことができます。

 私はいつものように、この名前の仏教の心臓部を、話すことにも、実践にも、何か口から漏らすにも「イダッパッチャヤター」と口にするくらい、私たち全員が慣れ親しんだ言葉にする大きな望みがあると繰り返させていただきます。

 何か心を惹くものがあると「プットー プッタン アニッチャン アナッター」と漏らす人がいますが、こういうのも正しいです。しかし非常に散漫に見えます。プットーはブッダを意味すると知っていますが、プッタンは何か知りません。それです。それはいい加減に話していることの現れです。

 無常・苦・無我はイダッパッチャヤターですが、むしろ言い慣れた口癖のように見えます。しかしイダッパッチャヤターという言葉が口から漏らせば、それは知性がないから口から漏れる話でなく、知性があるからイダッパッチャヤターと話します。

 だから良く見てください。自分にとっても他人にとっても非常に心に衝撃があると言う状態の何かが起きたと見ると、感じると、「イダッパッチャヤター」と漏れ出て来る、それが、その人が仏教教団員であるということの現れです。今仏教教団員であることを現さない、別種の失言である恐れがあります。

 これは心が消滅する時、つまり死ぬ時までたくさん考えて、イダッパッチャヤターを思い出すことができ、心の中をイダッパッチャヤターという言葉の意味にすれば、耳打ちするなら「イダッパッチャヤター」と言うべきです。

 これは病気と闘うことができ、死ななければならなくても死ではありません。良く聞いてください。死ななければならなくても死ではないとは、その人は知性でイダッパッチャヤターと知っているので、これがあればこれが縁でこれが生じ、つまり土・水・風・火・形・受・想・行・識、何であろうと縁である物のダートゥ(元素)の崩壊は当然あると知っています。

 これが「これがあれば、これが縁で、これが生じること」です。このように感じていればその人は死にません。その人はすべてのサンカーラが因と縁によって、つまりイダッパッチャヤターで経過するのが見えるだけです。

 最期の瞬間には、何としてもこのように到達しなければなりません。そうすれば死ななくても良くなります。非業の死は言うまでもなく、普通の死も死にません。つまり心の中でイダッパッチャヤターが明らかな人の感覚には、このように死はありません。これは、その人がこの項目にどれだけ明るさがあるか、この項目を忘れたり、ぼやけたりしない知性がどれだけあるかを表しています。

 どうかみなさん、自分の仏教教団員としての資質が、ここまで十分あるようになさい。これ以上も、これ以下も欲しがりません。だから助け合って、永遠にこの言葉とこの言葉の意味に慣れるよう繰り返しお願いします。何か心を震撼させる物がある時は、イダッパッチャヤターをという言葉がすぐに現われなければなりません。

 そうすれば心の震えが止まり、愛が止まり、怒りが止まり、憎しみが止まり、何でも全部止まり、他人を侵害する成行きになる考えも止まります。だから自分も加害せず、他人も加害せず、大変な人は誰もいません。それが仏教の結果です。

 だからみなさん、このダンマダートゥに慣れてくださいという、このお願いの言葉を喜んで受け取ってください。このダンマダートゥはイダッパッチャヤターという項目で、そうすればブッダが「如行は深く理解し、深く理解した時話し、教え、伏せてある物を裏返したようにしました」と言われたように、そのダンマダートゥを深く理解した人と言われます。

 この話は私たちにとって、今まで伏せてあった物のようだと良く見て、ブッダのことを考えて、助け合ってそれを裏返さなければならないと良く見ます。

 伏せてある物とは、明らかに現れてないので良く分らない物という意味で、仰向けの物とは、どのように実践行動をし、どのような結果を得るか、あらゆる角度から明らかに理解し、結果を得てもまだ明かという意味です。このように決意すれば、この話はその後秘された物ではありません。

 今もう一段良く見ると「自分と呼ぶ物もイダッパッチャヤター」と言うほどイダッパッチャヤターに関わっていることができるという項目を見ます。自分の身体もイダッパッチャヤター、心もイダッパッチャヤター、心の中で生滅を繰り返している物もイダッパッチャヤター、人の中にイダッパッチャヤターでない物は何もないという意味です。

 こういうのを撫で回す以上と言い、それは私たちが撫で回す物だけでなく、自分の体です。

 これです。それは「魚は水の中にいて水が見えない」と罵られるべき魚のように多すぎます。これは仏教教団員にとって強烈に非難する言葉と捉えてください。このような状態の魚と罵れば、当然それは、何もかも残らず侮辱する言葉と言います。このようにしないでください。これを「この身体の中はイダッパッチャヤターであり、イダッパッチャヤターがある」と言います。

 次に外部の物、それもイダッパッチャヤターで、この世界の何もかも、全部イダッパッチャヤターです。このパティッチャサムッパーダ(縁起)は、ブッダが内面だけを意図された話、つまりこのように煩悩が生じて苦になる話でも、イダッパッチャヤターの法則はすべてのサンカーラに、つまり生じさせる原因と縁があるすべての物に使うことができます。

 だからイダッパッチャヤター、あるいはパティッチャサムッパーダ(縁起)の話をあらゆる角度から説明をする人がいて、例えば広大な世界の変化を歴史で見ると、地球に人間が生まれて、一時そこが沈んで、一時そこが隆起して、一時そこが沈んで、地球の表面の部分はこのように説明します。

 次に人に関わる部分は一時その王朝が生まれ、一時その王朝が滅びてこの王朝が生まれ、歴史上の偉大な王朝も海の波のように生まれては滅びるので、これもイダッパッチャヤターの法則で経過すると言います。

 歴史家が方向転換してダンマを学べば、これほどたくさんの歴史のイダッパッチャヤターは、すべての世界、世俗の部分もこのようで、個々の人物の部分もこのようで、それでするからこのような部分が見えず、愚かにする部分、つまり怒らせ、嫌わせ、愛させ、怖れさせる部分だけが見え、気持ちを正常にして、それらの煩悩の威力で転げ回らない部分は見えないと良く知ります。

 人がイダッパッチャヤターと呼ぶものを普通に撫で回しても、イダッパッチャヤターは見えないと指摘したいと思います。撫で回すという言葉を使えば、毎日飯を摘まんで口に運ぶことをイダッパッチャヤターと感じたことが一度もなく、感じるのは美味いか不味いかだけで、不味ければ料理人か使用人に対して大騒ぎするだけ、それでイダッパッチャヤターが見えるはずがないと思うべきです。

 飯を掴んで口に運んで美味しくなく、それでイダッパッチャヤターと一言口にすることができるでしょうか。あるいはそれが美味しければ「イダッパッチャヤターは私たちを騙すだけ」と言えば、愛す必要も怒る必要も、嫌う必要もありません。

 何かを解決、あるいは改善したければ、動揺や衝撃のない心でしましょう。これを、イダッパッチャヤターを見ることの威力で無駄に撫で回さないと言います。「すべてはイダッパッチャヤター」とその物の真実を洞察する心があり、常にイダッパッチャヤターが見えているという意味です。

 これです。自分は常に撫で回しているのに、そして気付かずに経過しているのに、人間はイダッパッチャヤターの話に関心がないと、多少うるさく話さなければなりません。

 気づかずになるというのは、簡単に見えます。優秀な科学者、最高の科学者は物理学、化学、機械工学、相対性理論、どの面の何でもイダッパッチャヤターである物を撫で回すばかりで、物質化学は極めてイダッパッチャヤターで、化学面の変化がそのような規則でそのようにあると話せば、みなさんも話したように見えると思います。

 物理学も同じで、秘密機器面もそのようで、それらの人たちは、それをどのように使えば利益になるか、という角度だけでこれらの物を良く知っていて、そして使うことができます。彼らは、私たちが昔式に野原で排便するのと同じくらい簡単に月の世界へ行くことができますが、常にイダッパッチャヤターを撫で回している科学者は、イダッパッチャヤターが見えません。

 もっと卓絶した科学者でもイダッパッチャヤターが見えません。つまり彼を淡泊にする、つまり愛さず、憎まず、怒らず、恐れず、利己主義でなくする角度、そして自分を苦しめず、他人を苦しめない角度で見ないで、自分が有利になる方向、他人を侵害して自分が有利になる方向だけを見ます。

 医者や医師たちも外科手術の部分だけを撫で回し、手術で心臓移植でも何でもできますが、イダッパッチャヤターは見えません。イダッパッチャヤターの角度、つまりイダッパッチャヤターである物に、イダッパッチャヤターの法則でしていても、イダッパッチャヤターが見えないので、すべてのサンカーラ(行)に倦怠が生じません。

 産科医も不浄な物に倦怠しません。子を産んだ女性、初めて出産した女性は「もう懲りた、二度と産まない」と叫ぶと言いますが、幾らもしないで再び産みます。これを「それをイダッパッチャヤターの角度で見ない」と言います。

 隱坊たちが幽霊を見ても、イダッパッチャヤターの話、あるいは不浄の意味は何もないと言うような、いろんな種類のいろんな物があります。

 比丘や沙弥が糞拭衣を拾う行事のために墓地へ行くのは、むしろ庶民のお金を貰うためなので、遺体安置堂(の扉)が開いているのを見てもイダッパッチャヤターは見えません。イダッパッチャヤターを見るべきすべての種類の人物がこのようです。

 私たちを妨害してイダッパッチャヤターを見えなくしている物はどこにあるか、熟慮して良く見てください。これらに関わって撫で回していても、まとめて言えば、繰り返し繰り返し述べているように無明触があるので、世界の普通の人はすべての物に無明触で触れます。

 つまりすべての物に愚かさで触れ、すべての物に賢さで触れないので、イダッパッチャヤターに対して無明触です。だからそれは煩悩の利益になるだけの触で、ボーディ(智慧)、あるいは明の利益にならずに、煩悩、あるいは無明の利益になるので、無明触と呼びます。

 だから私が何度も述べたように「良く注意してください。この世界は無明触がいっぱいで、私たちが無明触で世界に触れると、それは全部欺瞞の角度で正しく、真実の角度では正しくない」とまとめることができます。これが、イダッパッチャヤターの話を更に明らかに理解しなければならない理由です。

 もう一度お浚いしたいのは、深遠なレベルの話す言葉は、その深遠さと同じだけ極めて隠された物があるという項目です。このように話すのは、間違う余地がない、中らずと雖も遠からじという話し方で言えば、深ければ深いほど隠すものがたくさんあるという意味なので、それは深く沈みます。だから深遠なダンマを隠して見え難くする物が多いのは、深遠な意味がある物の当たり前です。

 次にもう一つ障害があり、それは話す言葉、毎日話している言葉は変動でき、曖昧で、人がどれだけ言葉を知っても、すべての物の意味を知るだけと知っておいてください。

 もう一度復習させていただくと、私たちが言語の意味を幾ら知っても、すべての物を知るだけで、それ以上の意味は知りません。最高に深い話でも話すための普通の言葉を使わなければならないので、深い言葉なら深いほど見るのが難しいです。

 次に私たちは普通の人のような言葉を、普通の人が知っているだけ知ります。タイ語を知るのは普通の人が知っているだけ知り、それ以上深くタイ語を知ることはできません。私たちは深い話をせず、両親、祖父母も普通の話だけするからです。幸運と言えば、深いダンマを知る祖父母がいて、初めから深いダンマの話をし、そして子供である私たちもそれほど深い言葉を知り、深いダンマを簡単に理解できることです。

 しかし今はそのようでなく、私たちは普通の人のような普通のタイ語を知り、深遠なダンマの言葉を話すとタイ語に訳さなければならないので、誤ることがあります。たとえばアナッターというパーリ語、ダンマ語が入って来ると、タイ語に訳さなければならず、タイ語に訳すと「自分はない」と訳し、私たちの普通の言葉の知識は「何もない」と理解させるので、大きく違います。

 あるいはスンニャターという言葉を聞くと、このパーリ語は「空(から)という意味で、私たちのタイ語の知識では空のように空っぽで何もないと理解し、中にはもっと間違う人がいて、スンニャターを「何も無い空」と訳し、何も利益がありません。こういうのは更に重大な誤りです。

 難しいダンマの言葉は別の意味があり、普通の言葉の意味で捉えると理解できません。これです。アナッター、スンニャターという言葉はこのようになれます。

 タタターという言葉になるともっと重くなります。タタターとは、そのようである、自然にそのようになるよ~という意味なので、「自然にそのようになる」はアナッターやスンニャターという言葉より更に誤解することができるので、正しいのとヤクザなのと二つの形になります。

 ダンマ語の深い言葉、ロークッタラ(脱世間)の言葉は二つの意味が生じ、正しいのと、ヤクザ(アンダパーラ)なのがあり、アンダとは暗いという意味で、バーラは愚か、または盲という意味で、合わせて盲人のように愚かという意味と憶えておいてください。正しければ何が何かを知るからです。

 アナッター(無我)と話してもヤクザな意味で捉え、誤解によって自分を騙す人もいます。それ以上なのは、他人より優位になる利益のために使って、「無我」と言い訳をします。

 スンニャターの話は正しい意味とヤクザな意味があります。執着しないこと、このような意味ならまだ正しい意味があります。そして私たちが見ているようなヤクザな意味があり、ヤクザな人たちも悪事をする言い訳のため、あるいは自分の煩悩がしたがるいろんな異常行動をするために「執着しない」と言います。執着しないことはヤクザな側と正しい側にあります。

 次にタタターという言葉はそのようになるとしか言わないので、もっと簡単で、もっと広く、そしてもっと緩いです。イダッパッチャヤターの状態の「そのようになる」という意味を捉えれば正しいです。しかし煩悩でしていることが挫折しないよう自分を慰める、あるいは騙す意味の「そのようになる」なら、それはヤクザなタタターに傾きます。

 だからタタターという名前のダンマも、スンニャター(空)も、イダッパッチャヤター(因果)も、ターで終わるすべてのダンマは気を付けてください。正しいのもヤクザなのもあります。

 これは、私たちの言語が十分でなく、私たちが普段話している言語が十分でないからこのようあること以外の他の何でもありません。私たちは自分で責任を取らなければならず、自分で注意しなければならず、ヤクザな方に傾かないよう注意し、正しい意味を捉え、正しく実践しなければなりません。

 次に比較して見ると、私は仏教の深いレベルの心臓部であるすべてのダンマの中で、このイダッパッチャヤターという言葉が一番良いと見ます。安全、あるいはかなり安全で、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と意味を限定していて、善い方、悪い方に言及していません。つまりすべての成り行きになり、そして空、あるいは空っぽ、あるいは何も無いというような言い方をしないので、ヤクザになり難いからです。

 「これがあれば、これが縁だから、これが生じる」とハッキリ説明しています。そして自分がある、自分がないというような話をしていません。だから自分で見てください。これがあれば、これが縁で、これが生じなければならない時、その人がそれを「自分がある」とか、「自分がない」と言うのはその人の自由です。

 これを「イダッパッチャヤター(縁生。因果)という言葉の方が安全」と言います。だからこの言葉を特別にたくさん紹介させていただきます。そうすればアナッター(無我)、スンニャター(空)、タタター(真如)、何でも真実と一致する正しい理解ができ、基本であるイダッパッチャヤターの意味を掴めば、ヤクザになる余地はありません。

 基本であるイダッパッチャヤターの意味を掴めば、スンニャター、アナッター、タタターなどの言葉の意味を、歪む余地がなく正しく捉えることができると憶えておいてください。似ている言葉、そして曖昧な言葉は間違わせることがあるので、他の言葉の意味を掴まないよう保証するものであるイダッパッチャヤターの話に特別な関心を持ってください。

 次に量る物、あるいは何かの試験するものである教えに関して、誤った見解に導いてはならないとあり、アナッター(無我)、スンニャター(空)、タタター(真如)でも、何の言葉の意味でも正しければ誤った見解が生じるのを防止でき、誤った見解に導きません。

 誰かがタタターと話し、そして邪見である実践をしているなら、その人のタタターの理解は正しくないという意味です。タタターを正しく「それはそのようになる」と理解すれば、誤った見解に導くことはなく、反対に誤った見解を防ぎます。

 そのようであること、あるいはタタターは、軽率な人、利己的な人、あるいは煩悩が多すぎる人に使うことはできず、その人は意味を変えて利己的な方に使います。

 だからブッダが話されたどの言葉も、自分自身に正直な人に話すことを目指したと捉えてください。誰でも先ず真実を基本とし、自分自身を尊敬し、先ず自分に素直であることを基礎にし、土台にし、それからタタター、アナッター、スンニャターなどの言葉の意味を解釈します。

 そしてイダッパッチャヤターの原則と違わないようにし、タタター、アナッター、スンニャターなどの言葉の意味を解釈する時、いつでもイダッパッチャヤターという言葉の意味に監督させます。

 このようにイダッパッチャヤターがタタターを監督していれば、正しい成行きだけになります。スンニャターは彼らが言うようにただの無という意味でなく、執着すべき部分がないだけで、執着すべきでない部分だけがあります。それを空っぽと言います。アナッター(無我)と呼ぶのは、本当のアッター(我。自我)である部分は何処にもなく、原因と縁で成り行く物だけだからです。

 イダッパッチャヤター(縁生。因果)の法則はこのような利益があり、特に最高レベルの仏教のすべての教えを間違って解釈するのを防ぐ利益があります。これに慎重にしてください。

 すべては、理解しなければならないイダッパッチャヤターと呼ぶ物の重要性を見せるよう、諭す努力をしている見本です。

 次にみなさん、第六回を復習して見てください。すべては、あれこれすべてはイダッパッチャヤターの法則で経過し、イダッパッチャヤターの法則になってしまうと指摘して見せています。

 今日は「三宝、あるいは三学もイダッパッチャヤター」と言うほど非常に大胆です。聞くと不遜のようですが、本当はそうではありません。どのようか熟慮して見ます。今回の講義は三宝と三学、一度に二つの話です。どちらもイダッパッチャヤターだからです。

 「三宝と三学」と話す時、十分学んだことがある人は、三学は三宝の心臓部で、三宝は三学の外形、あるいは外部と見ます。しかし普通の人の感覚では、ブッダ・プラタム・僧はそのよう、そのようと見るだけで、彼らは外面しか見ません。しかし本当のブッダ・プラタム(教え)・僧の中に戒があり、サマーディがあり、智慧があり、解脱があり、解脱智見があります。

 どのように言い換えることもできます。この二組は関わりがあり、互いに縁であり、三学はプラタムと呼ぶ物を生じさせ、プラタムはブッダを生じさせ、僧などを生じさせます。だからこのダンマ、あるいは三宝と三学の二組を一度に話します。

 次に一つずつ、特に三宝と呼ぶ物はどのようにイダッパッチャヤターかを見て行きます。私が、どのようかという状態だけを話せば、みなさん自身が、これはどのようにイダッパッチャヤターか見えます。

 三宝、つまりブッダ・プラタム・僧について話せば、この三つに内面の関わりがあり、この三つの内面に関連があるのはイダッパッチャヤターで、この三つの物は互いに縁で、内部で関わっていて切り離すことができず、離せば全部崩れてしまって何も残りません。存在できるのは三つがあり、そして依存し合っているからです。

 初歩の教えでは、みなさんは「寄りかかって立っていられる木は、一本抜いてしまうだけで全部倒れてしまい、これを内面の関わり」と言う譬えが好きで、このような内面の関わりが三宝にあります。これだけ話すだけで、みなさんは思い出せます。

 プラタムは最初に思い出さなければならないものです。このプラタムは最初の原因と見なすべきです。どの宗教も、何がすべての物を生じさせた根源か、創世の話の問題があり、他の宗教は最初の原因である神様がいます。私たちは最初の原因であるプラタムがあり、ダンマがあると言います。

 三蔵の中の言葉に「ダンマが先にある」とあり、ダムモー ハヴェー パートゥラホーシ プッペー=ダンマが先にあったよ~。これは、ブッダが話して聞かせたあるボーディサッタの言葉です。ね、最初の原因はプラタムです。

 最初の原因は何よりも先になければなりません。だから起源と言います。この起源はいろんな物を成り行かせ、ブッダを生じさせ、僧サンガを生じさせ、ブッダが単独で理由もなく生じたと見なすなら、聞いて意味が分かる人はいません。

 僧サンガも因と縁があって生じ、何の脈絡もなく生じることはあり得ません。だから起源はダンマ、あるいはプラタムと呼ぶ物です。

 しかしダンマ、あるいはプラタムと呼ぶものはたくさん、いろんな角度があり、つまり多すぎ、原因である部分もあり、結果である部分、知識である部分、実践である部分もありますが、いずれにしてもダンマという言葉に含まれます。

 ダンマは最高に奇妙なもので、普通の言葉で説明し尽くせません。説明できますが全部はできません。隠された部分がたくさんあり、ある人たちは別の呼び方ができないので、神様、あるいは最高の物、あるいは根源と呼びます。

 私たちも同様に、ダンマ、あるいはプラタムと呼ぶものはすべての物を生じさせた根源であり、ダンマダートゥの状態があると見なす以外に道はありません。先ほど読経したダンマダートゥは、「そのダンマダートゥはそれ自体で存在し、如行が生まれても、如行が生まれなくても、ダンマダートゥはそれ自身で存在する」と言います。

 ダンマダートゥもどの角度を狙うかで、いろんな角度、いろんな面があります。しかしどの角度のダンマダートゥもプラタムです。ブッダが生まれても生まれなくても、タタター、そのようで、例えばタタターであること、そのようである状態と異ならないこと、他のようでないことなど、プラタムはそのようです。プラタムにはどんな種類もあり、原因でも良く、結果でも良く、原でも良く、環境でも良く、何でもプラタムという一語に含まれます。

 イダッパッチャヤターである部分はすべての物を成り行かせる義務があり、その結果世界にブッダが生まれ、僧が生まれ、世界に宗教が生まれ、ここに座っている私たち仏教教団員がいます。

 みなさんがここに座っているのは商売の考えをするためでなく、あるいは庶民のような何かをしようと考えるのでもないと理解してください。みなさんはもっと仏教を理解するために、仏教教団員としてここに座っています。ここに座っている一部の仏教教団員が生まれたのは、根源として何があるか、考えて見てください。

 それは世界にブッダを生じさせ、僧を生じさせ、世界に仏教教団員を生じさせた根源から順々に生じさせたイダッパッチャヤターで、仏教教団員、つまりみなさんの望みが、みなさんをここへ来させて座らせました。

 このような状態の根源を見るべきで、それがプラタムです。だから私たちは最初にプラタムを思います。キリスト教の教典が「神様は世界の何よりも先にいた」と見なすように、世界の何よりも先にあったからです。私はこのダンマは世界の何よりも先にあったと言います。

 次はブッダの話で、私は人物の角度のブッダをブッダと呼び、すぐに「ダンマが見える人は如行が見え、如行が見える人はダンマが見える」と思ってしまい、プラタムと如行を同じとする、こういうのは聞いて意味が分かりません。今私は、大悟してダンマダートゥを発見し、そしてダンマダートゥを公開した人物である状態のブッダについて話しています。

 これは、ブッダはダンマ、あるいはプラタム(ブッダの教え)を現した人、あるいはもう一つの根源という意味で、プラタムは至る所にあるのに、人間の心に現われません。あるいはその人物自身にありますが、そのプラタムはブッダのような人物が生まれるまで、まだ人間の心に現れません。

 ブッダであるのはプラタムがあるから、ダンマを知っているからです。ダンマを知った時ブッダになり、このダンマを現しました。だからブッダは世界にダンマを現した原因と言うことができます。世界に現し、そして世界に広め、そしてダンマが世界にあることで世界に利益を生じさせました。

 プラタムの利益が世界に生じ、世界は最高の利益が溢れて僧が生まれました。ブッダがいなければ僧は生まれません。これはハッキリ見えます。しかしブッダがいなければ普通の生き物の心にプラタムも現れません。

 ブッダは心の面で、つまりボーディ(悟る智慧)と呼ぶ物で最高に発展した動物です。普通の人がブッダになるのはこれが原因で、正しい進化である状態で、ダンマで正しく経過させるイダッパッチャヤターの法則があるから、だから世界にブッダのような人物が生まれました。

 次に良く見てください。僧が群れから離れて行けるのは、教える人であるブッダがいたから僧サンガが生まれ、本当の僧サンガは、ブッダから受け取ったプラタムがあるからです。

 ブッダは「私は聖水で人を僧にすることができる」と言われていません。しかしダンマの実践をするようアドバイスすると、四組八人の聖人である僧にすることができ、ブッダが説明したダンマを受け取った僧サンガが生まれました。僧サンガはダンマの結果を受け取ってダンマを布教し、プラタムを伝承できました。

 誰がどの言葉を話しても、その言葉のイダッパッチャヤターになり、プラタムによって僧サンガが生まれ、それがイダッパッチャヤターの状態、つまりプラタムの影の力です。

 あるいは僧サンガが生まれたのは、ブッダが輝きを生じさせた人の群れを生じさせたからと言えば、これはイダッパッチャヤターで、ブッダが原因です。ダンマの結果を受け取ることはイダッパッチャヤターの法則で経過します。ダンマを普及させて広く増やすのは、イダッパッチャヤターの法則と異なりません。それはこのように、いつでも大物の法則です

 次にプラタムの寿命を延ばし、宗教の寿命を延ばせるのは、仏教の寿命を延ばすことに関して僧サンガにイダッパッチャヤターの状態があり、正しい伝承があるからこのようにあります。

 ブッダ・プラタム・僧サンガの三つは内面で関わり合っていて、「内部でイダッパッチャヤターの法則で関係しているから存在できる三本の木」のように、切り離すことはできないと見ることができます。

 私が関わり合うと言っても、関係すると言っても、全部イダッパッチャヤターという意味で、これを「ブッダ・プラタム・僧を見れば、出合うのは述べたようなイダッパッチャヤターばかり」と言います。

 次になぜ世界に三宝が生まれたのか、原因を見ます。なぜ世界に三宝が生まれたのか。誰でも、それまで世界に三宝がなく、そして世界に後から三宝が生じたのはどのような状態か、話すことができます。

 プラタムだけしかなければまだ三宝と呼ばず、三宝と呼ぶなら、ブッダ・プラタム・僧が揃っていなければならないと忠告させていただきます。

 世界に三宝を生じさせた原因は、間違いを恐れずに言えばイダッパッチャヤターであり、イダッパッチャヤターの威力で三宝が生まれたと、中らずと雖も遠からぬ言い方をします。

 見てください。まだ人間がいない最初の時代の世界は、まだ人間がいない時代、あるいは生物が何もいない時代から、単細胞生物、多細胞生物、植物類、動物類と、イダッパッチャヤターの法則がこのように一つずつ、小さな生物を生じさせてきました。これがイダッパッチャヤターの法則です。

 次に命のある動物になり、世界の動物になり、この世界で人にまでなりましたが、動物と同じレベルでまだ何も知らず、まだ半分人、半分動物、あるいは動物と同じ人でした。

 その時代の世界は、知っているのは物質の話だけで、それしかないのは、イダッパッチャヤターの法則がそれしかなく、それしかできないから、世界は「生き物は動物、あるいは物質しか知らない動物に近い種類の人しかいない」と言うだけの進化しかできないからです。

 目を瞑って思い出してください。その時代、世界に動物に近い人しかいなかった時代は、心の面の話の知識はなく、野原にいる牛や水牛は物質の話しか知らないで草を食み、あるいは何でもするように、知っているのは物質の話だけで、心の話はまだ世界にありませんでした。物質しか知らない時代の世界は、イダッパッチャヤターでまだそれしかできず、それしかありませんでした。

 イダッパッチャヤターの威力は止まろうとせず、まだ回転させ、変化させ、もう一段階変化した世界の時代、つまり人間あるいは人が、動物のようにすることに堪えられない時代になります。良く見てください。人が生まれたばかりの頃は動物のようにし、別の時代になると、それらの人たちが動物のようにすることに堪えられなくなったので、変化して何でも動物と違うようにしました。

 これはイダッパッチャヤターで、これがそれらの動物群に法律、規則、あるいは秩序を生じさせ、最後に道徳が生まれました。道徳、法律、法学の誕生の話を読むと、それまでどおりに放置できない状態に発展すると、世界で最初の王や領主を仮定して、原始的と言うレベルのそのような規則、このような規則が生まれたと言います。

 それです。人間がそれまでどおりに暮すことに堪えられなくなり、法律、道徳の知識がなければならない程まで変化し、そしてイダッパッチャヤターの法則でどんどん良くなりました。

 その後もっと高い時代になり、世界あるいは世界の人が、法律あるいは道徳の結果だけに満足できない時代になります。これは、初めは道徳と法律の結果に極めて満足して、手を頭上に挙げて「ラージャー(王様)。ラージャー」と叫びました。これはパーリ、ディーカニカーヤ(長部)の文章にあります。

 ラージャーという言葉は、人物が制定した規則を維持していることから受け取る穏やかな幸福に、国民が満足した結果生まれました。ラージャーという言葉は「満足」「喜び」という意味で、満足して「嬉しい。満足だ」と叫びました。それがパーリ語のラージャーです。初めに漏れた言葉で、その人をラージャーと呼びました。その人は最高に満足させたからです。

 その後人間は道徳、あるいは法律の結果だけでは満足できなくなり、異常な人間が悪戦苦闘して、法律や道徳が生じさせる結果より、心の面の穏やかな幸福である良い結果を生じさせる物を探したので、更に高い物、道徳や法律より高いダンマが生まれました。

 つまり物質に依存する必要がない、社会による政治に依存する必要がない、そのような外部の物に依存する必要がない幸福、極めて深遠な心の面の話に依存する幸福であるジャーナ(定)、あるいはヴィパッサナー(観)と呼ぶ物が生まれました。

 心の面の実践をして静かに安定させることをジャーナと言い、無常・苦・無我のいろんな真実を探求して明かに知ることをヴィパッサナーと言います。

 次に人は物資面の規則や道徳から受け取るより高い幸福、ジャーナ(定)、あるいはヴィパッサナーから得る幸福に関心を持ち、この話をたくさん探求しました。一時期ヴィパッサナーが最高になり、独覚ブッダの類の人物が生まれ、あるいは独覚ブッダになり、涅槃である最高の利益を受け取りましたが、義務を行わず、他人に関わらず、サンマーサンブッダのように他人に教えませんでした。

 三宝はまだ生れず、生れたのは独覚ブッダだけで、三宝と呼ぶ物はまだ生まれません。しかし道徳や法律の結果だけに満足しない人間のイダッパッチャヤターの法則で、独覚ブッダが生まれました。それは人間を堪えられなくした極めて強い内面の圧力です。

 次に同じようにイダッパッチャヤターの法則が、世界にサンマーサンブッダである人物を生まれさせました。これは説明しなくても、プラタムと僧サンガが付いてきて、ブッダ・プラタム・僧サンガの三つが揃って完璧になり、この世界に三宝が現れました。

 休まずより良い、より本当の、より素晴らしい物を欲しがる人間の心の内面を押すイダッパッチャヤターの威力で現われたので、この世界に最高に素晴らしい物が生まれました。これをイダッパッチャヤターの圧力で経過すると言います。

 この法則は「仏教の神様はいろんな物を生じさせ、そして成り行かせる」と言うべきです。どの宗教も、本当の神様がいるならこのような意味でなければなりません。あのような、このような人物である神様なら、それは子供のための神様です。あるいは子供のような心情の年寄りは、人物である神様がいます。つまり人物である神様とは人々が話しているような神様で、それは子供のための神様なので、イダッパッチャヤターの神様と一緒にしないでください。

 イダッパッチャヤターの神様は本当の神様で、本当にすべての物を作ることができ、本当にすべての物を支配することができ、本当にすべての物を破壊することができ、身体面も心の面も、すべての物の進化は神様と呼ぶべきイダッパッチャヤターの法則で経過すると言います。

 ね、「これほどまで、この世界に三宝があるまで最高に高いのは、イダッパッチャヤターの威力だから」と言います。だから私は、三宝であるイダッパッチャヤターは、少なくともイダッパッチャヤターの法則に従い、そしてそのような変化はそれ自体がイダッパッチャヤターであり、人間の群れの中に最高の状態を生じさせ、奴隷であることから脱させると言います。

 この言葉は聞いてあまり美しくありませんが、非常に真実です。私たちは以前は奴隷下僕でしたが、三宝が生まれたことで、今奴隷であることから脱しました。

 すべての生き物はカーマラーガ(愛欲)の器官の奴隷と、簡単に全般的に見てください。生殖器も、愛欲の器官も、生き物の主人、神様です。ね、すべての生き物は愛欲の器官の奴隷です。ダンマ、イダッパッチャヤターをブッダが教えているように最高に知った時、その時はいつでもよじ登って、目・耳・鼻・舌・体・心、あるいは愛欲の奴隷に落とす器官何でも、愛欲の器官の奴隷であることから脱します。

 次に怒らなければならないことの奴隷から脱します。怒らせる物があると、私たちは怒らなければならず、怒りに慣れ、良く怒り、簡単に怒り、簡単に腹を立てることができます。ね、私たちは長いことこのようなことの奴隷で、今神様の法則で実践して、奴隷であることから脱します。

 次に恐怖の奴隷から脱さなければなりません。私たちは死を恐れ、すぐ棺に入る歳でもまだ死を恐れます。見てください。子供たちも死を恐れ、何でも死を恐れる恐怖の奴隷です。今奴隷であることから脱して自由になり、つまり恐れません。

 イダッパッチャヤターの話の知識の威力によって、それが何も恐れないようにし、死でも、死以上でも、恐れなければならない物は何もありません。イダッパッチャヤターを最高に良く知れば、奴隷であることから脱して自由になり、愚かさ、臆病、疑惑、執着の奴隷から脱します。それまではそれらの物の奴隷でしたが、私たちにイダッパッチャヤターの話を分らせたブッダの教えの言葉によって、今は自由になります。

 考えて見ると、愛欲の器官の奴隷であることから脱すだけでも、言葉で表わせないほど素晴らしいことです。しかし世界の一般人、世界の動物全般は愛欲等の器官の奴隷であることから脱すのは好きじゃありません。

 だから愛欲の奴隷、生殖の奴隷、いろんな複雑困難の奴隷であり、愚かで、それらの感情を無明触で欲しがって、志願して奴隷になり、自由を欲しがりません。こういうのは反対側のイダッパッチャヤターが助けることができます。つまり確実に苦を生じさせる側は支援し、苦にさせます。

 次にイダッパッチャヤターの話を本当に良く、明らかに知ることができれば、それは苦にさせる物に勝つよう助けるイダッパッチャヤターです。普通の人は好まず、奴隷でいたがり、感情の奴隷、貪り・怒り・迷いの奴隷でいたがり、そのように志願しますが、本当の知識は自由に導きます。

 これらの感情の奴隷であることから脱すのは狂った話か、善い話か、考えて見てください。時間の節約のために「煩悩欲望の奴隷から脱すのは狂った話か、善い話か」と、このように率直に言うのをお許しください。良い話なら、なぜしないのでしょう。だからそれは狂った話を善い話にする話、狂った人の良い話なので、善人の善い話にしなければなりません。それが低い話か高い話かは、同じです。

 イダッパッチャヤターの話を知れば高い話を正しく知り、イダッパッチャヤターを良く知らなければ、低い話を高い話にして、奴隷になりたいと志願します。次に私たちが善い方、あるいは正しい、あるいはなるべき方向に経過させたいと望めば滅苦ができ、奴隷になりません。この法則で何としても苦に勝って自由になる方向にしなければなりません。これが三学の援けです。

 善い側、正しい側のイダッパッチャヤターを、私たちは三学と呼びます。三学があれば、本当に善い側のイダッパッチャヤターの話があるという意味で、一般の凡人のように迷って誤りを正しいとし、悪を善としません。だからもう一つ三宝と三学であるイダッパッチャヤターという項目で、三学と呼ぶものを思わなければなりません。

 三学の話になったら、進歩発展である三学は低劣なものに堪えられないこと、低劣なものにこれ以上堪えられないことから生まれたと、話したばかりの言葉を思い出してください。

 低劣な物、あるいは苦であるものに堪えられなくしたのはイダッパッチャヤターの知識、あるいはイダッパッチャヤターの法則です。だから苦を脱ぎ捨ててしまうための実践体系である三学と呼ぶ物が生まれました。しかしそれはイダッパッチャヤターの法則の一部分です。

 最初の段階で苦を受け取り、そして堪えようとせず、解決しようと考えました。次に第二段階でもっと良い幸福があると見て止まろうとせず、進歩しました。このようであったに違いない、このように歩んで来たに違いないと良く見てください。

 最初には「今のようなのは耐えられない。それは苦で、我慢できない」と見て、そして我慢しないで探求し、そして解決しました。そのレベルの問題、あるいは苦を解決して無くして耐えられるだけになると、もっと善いのが、つまりもっと高いのがまだあると、第二段階を知ったので、探求し続け、解決し続け、止まろうとしませんでした。だからブッダが言われているような苦の終わりに到達しました。

 ブッダは私たちが呼びたがるように大げさに、最高に呼ばれず、アントー ドゥッカッサ=苦の終わりと呼ばれ、それだけで十分です。極楽の宮殿の幸福について話さないでください。それはもっと酷く狂います。

 私たちは複雑困難な問題に耐えるのを喜ばず、その後もっと高くもっと善いのがあると知り、最高まですれば、滅苦、あるいは苦の終わり以上の何でもないので、涅槃はこれだけの意味しかなく、これ以上と誤解してはいけないということを忘れないでください。

 これです。世界の動物は、ブッダのような人物が生まれるまで悪戦苦闘して探求して解決しました。聞くと些細な話のようですが、順々に、段階的にそのようにならなければならないたくさんの話で、何劫か知れない時間、順々に経過し、最後にブッダが生まれて生老病死の友を苦から脱出させ、あるいは滅苦をさせる手伝いをしました。

 ここでちょっと素晴らしい話をしたいと思います。三学と呼ぶ物、あるいは戒・サマーディ・智慧は、昔は低いレベルにあり、涅槃に到達させることができませんでした。だから三学と呼ぶものは、ブッダが生まれる前からなければなりませんが、三学で、戒・サマーディ・智慧の三つ揃っていましたが、まだ低い種類のものでした。その後サンマーサンブッダが生まれると、戒・サマーディ・智慧は最高になり、最高で本当の結果、つまり涅槃が生じました。

 だからブッダ以前の人、あるいは先生方は、この三つの教えを発見しました。この三つは自然の普遍の物で、自然のイダッパッチャヤターが感覚の中に生じさせるよう強制したからです。

 三学の規則、あるいは戒・サマーディ・智慧は、善くなっていくものの探求に止まることを知らない人間の自然の要求と、この三つの言葉を良く理解して、良く観察して見てください。それを心の面、識の面の進化と呼びます。

 進化に言及した途端にイダッパッチャヤターの話になり、イダッパッチャヤターなしに進化できる物は何もありません。次に満足する物を探求する本能の感覚、あるいは満足できるものである滅苦は止どまらなくさせるので、何度も何度も誤った物を見つけたことがあっても、最後に正しい物を発見しました。

 だからいろんな教祖がそのように教え、このように教え、あのように教えた残骸が、今日まで残っています。しかしブッダは休まずご自身の道を正しく行ったので、最後に、彼らが半分だけ発見した三学に頂きを足したようになり、サンマーサンブッダの弟子である私たちが言う所の、満足できる物になりました。

 さて次はこの三つの言葉、つまり三学の戒・サマーディ・智慧という言葉の意味を良く観察して、規定して記憶してくださるようお願いします。

 戒という言葉は、良く調べもしないで心を狭くして、パーナーティパーター(不殺生)か何かそのような物だけ話さないでください。それは大人が教えるように話す子供の戒です。戒という言葉は体の面も言葉の面も、個人的にも社会的にも「正しく暮らす」と定義します。

 私たちの体と言葉が、個人的にも社会的にも正しく経過すること、これが戒という言葉の規定、あるいは定義のすべてです。調べて見てください。何十項、何百項、何千項の戒も、何十万項あっても、戒という言葉の意味はこれだけで、個人的のためにも社会のためにも正しく経過する体と言葉です。

 だから誰でも戒を規定でき、そしてこの教えですれば、ブッダが規定したものと一致して正しいです。このように話すとブッダに無礼なようですが、最高に真実です。戒を規定することに関して、ブッダはこのように目指されたからです。

 次に私たちがブッダの目的と一致させれば、私たちが規定したものはブッダが規定したのと同じです。だから私たちは自分の戒を持つことができ、そして本当の戒が本当にあります。オウムや九官鳥のようにパーナーティパーターだけしかないのではありません。今はそのようなだけです。

 戒と話しても戒がなく、死ぬまで戒を持しても戒があったことがないのは、「戒と呼ぶものの要旨は個人と社会のための体の面と言葉の面の正しさ」と理解していないからです。

 次に人が「どういうのを正しいと言うのか、自分で分かるのか」と反論したら、分かると答えます。他人を困らせず、自分も困らせなければそれは正しいです。誰かに正しいと指摘してもらい、教えてもらうのを期待しないでください。誰にも危険でないと自分自身で知ることができ、自分にも他人にも危害を与えないのが正しいです。だから自分自身に危害がなく、他人にも危険がない体と言葉。それが正しいです。そして戒だけです。

 次はサマーディになり、サマーディとは良く訓練された心があること、つまり能力があり、自然に幸福になる用意があり、良く訓練された心だけで十分です。サマーディは良く訓練された心と話すだけで十分ですが、間違うことはないと、つまりその義務を行う能力があり、そして自然に幸福になることができると、ちょっと保証しなければなりません。

 私たちが心を訓練するのは、どんな形の訓練でも、サマーディの原則で心を能力があるよう訓練すると見てください。サマーディがあれば、心の面の義務や仕事を最高にする能力がある心になり、そして同時に、自然に幸福を受け取ります。心をサマーディにすると、サマーディである心は自然に幸福になります。

 だから受け取る結果は二種類で、能力がある心と、自然に幸福がある心です。このような心があればサマーディがある、その心にサマーディがあると言います。

 それは普遍的な物か、仏教教団員しか欲しがらないのか、それとも世界中の人が欲しがるか考えて見ると、この種の心は世界中の人が欲しがると見ることができます。それはなぜでしょうか。自然がそのように規定したからです。イダッパッチャヤター、自然の法則がこのような方向にだけ押すので、誰もが欲しがりますが、間違ってして歪んでしまうので、分裂が生じます。

 次は智慧です。智慧と呼ぶものは博識、知るべきことを広く知るという意味です。博識も、人間にとって知るべきことを十分に、と限定します。最初は博識と言わなければなりません。それは一種類ではないので博識という言葉を使いますが、それでも知るべきことに限定し、知る必要がないことまで広げ過ぎないでください。

 今人間は凶悪な病気で、知る必要がないものばかり知りたがり、知らなければならない部分は、反対に知りません。だから人間は苦や困難があり、どんどん大変になります。知るべき物より知る必要のない物を掻き集めます。次に知るべき物を十分と言えるだけ知り、それは欠かさないでください。誰にとって十分なのかは、人間にとって十分です。

 人間より高い動物がいても関係ありません。人間ばかりなので、人間として十分なだけ知れば十分で、仏教の智慧と呼びます。ブッダはこれしか知りませんが、知るべきことはすべて知り、知る必要がないことは、ブッダも知る必要はありません。

 これは、質問されて答えられない問題がありました。つまりブッダは何でも知っていると言うほど何でも知っている問題で、中国語が話せるか、今の自動車の運転ができるか、それは答えることができません。

 ブッダの一切智という言葉は、ブッダが全部知り、知り尽くしているのは、すべての角度、すべての面、すべての種類の動物、つまりすべての動物のための滅苦に関わる知識だけと、いろんな箇所に主張があります。

 どの種の動物でも、ブッダはすべての動物の代わりに知ることができ、教えることができました。これを一切智と言い、人間が知るべきこと何でも、人間として十分なだけ知っているという意味です。次にそれ以外は知る関心がなく、あるいはそれ以外をブッダは知らず、学ぶ必要はありません。

 しかし滅苦に関わる場合は確実に一切智であられ、サンベーチャニュー、あるいはサッバンニューで同じ言葉です。サンベーチャニューはサッバンニューという言葉と同じで、すべてを知るという意味です。

 「自然がイダッパッチャヤターの法則で私たちを押すから、戒・サマーディ・智慧がなければならず、そうでなければ堪えられない」と考えて見てください。堪えられず、通常人間が堪えようとしないのは、もっと善い物があると知っていて、最高でない物の中に沈むことです。つまりそれがまだ最高でなければすぐに飽き、最高まで行かなければならず、そうすれば満足するからです。

 これが自然の圧力で戒・サマーディ・智慧である感覚を生じさせ、そして仏教教団員だけでなく世界中の人の普通で、世界の誰もが、自分と他人のために体と言葉の正しさを欲しがります。これが普遍的な宗教です。そして能力がある心、幸福がある心、これも普遍で、仏教だけではありません。

 人間として知るべきことをすべて十分に知る、これも普遍です。だから話して教えて、仏教を立教する人は居なくても大丈夫です。イダッパッチャヤターの法則による動物の普遍であり、それが背を押して最高の物に至るまで、止まっていさせないからです。

 私たちは幸運にも、ブッダが分類し体系としてまとめ、この規則を簡単にして戒・サマーディ・智慧と呼び、簡単に明らかにすべての人に提示しました。こういうのを私たちは仏教に出合う徳があると言います。

 話して来たように言うと、それもたくさんの言葉で、重要な言葉三語に短くまとめたいと思います。しかし「戒は体と心の純潔」と、誰も関心がありません。これは簡単すぎて、話しても誰も関心がありません。もう知っているからです。

 しかし「戒は体と心の純潔」という意味を知らないのではないでしょうか。この純潔は正しさ、ふさわしさ、何でも全部の意味を含んでいます。サマーディは心の純潔で、智慧は見解の純潔です。

 学校で教えている僧はぞんざいに教え、この規則まで教えません。ワット・テープスリントーン(バンコクにある著名な寺)のプラプッタコーサーチャーンは、この教えを最高に堅固に持されています。あの方はこの三項の規則だけを忠告しています。

 特に三番目のディッティ(見解)面は、一般の人は、体と言葉と体の面が純潔なら他に何も無く、すべてと見てしまいますが、それがぞんざいで、まだ知性の純潔があります。

 体と言葉の純潔は、体と言葉で間違いをしないことで、理解しているので、この話を説明して時間を無駄にする必要はありません。

 心の純潔は、今心に、妨害する煩悩・蓋がないことだけを意味しますが、誤った見解がいつ生じることもでき、心をサマーディにしても蓋の種類の煩悩が妨害しないだけの、心に蓋がない純潔で、見解あるいは知性はまだ正しくないこともあります。話すと可笑しく、知性はまだ正しくないこともあり、知性がまだ誤りで、まだ悪賢いこともあります。

 だからもう一度見解、つまり正しい見方、理解、信仰の純潔、あるいは正しさがなければなりません。純潔な心は蓋が妨害しないだけで、時にはどこかに気持ち良く座っていて、心は純潔で妨害する蓋がなくても、信仰や見解、知性はまだ使い物にならないこともあり、イダッパッチャヤターが見えれば、その時見解は正しく、あるいは純潔になります。

 戒だけでイダッパッチャヤターが見えるようにならず、サマーディだけでも見得るようになりません。智慧がなければならず、そうすればイダッパッチャヤターが見えます。知性という言葉は曖昧で、本当に聖人のような知性があれば使い物になりますが、「知性の頂点」と言う普通の人の知性なら、まだ使い物になりません。狡猾な成行きになるからです。

 今ハッキリと分別する言葉があり、私たちはすべての人間に関わる系統を、physical 面、身体面が一段階、そして mental 神経に関わる心の系統が一段階、そして spiritual、本当の智慧の面がもう一段階で、三段階に分別しなければならないと、そのように観察するようたくさんの人に提言したことがあります。

 そして、私たちはこのように三段階の病気があり、身体面は普通の医者に行き、心の面は精神病院へ行きますが、ヴィンニャーナ(精神)面、智慧の面、見解面はブッダを訪ねなければならない、他の病院では治療しても治らないと観察してください。

 幸福と言えば三つがなければなりません。体の幸福はバカみたいな話で、心の幸福は煩悩が妨害しないサマーディである心だけですが、spiritualの、精神の幸福は煩悩が消滅しなければなりません。この三語は、教科書や他の人たちは別の使い方をしていて、私が話すようでないかも知れません。。

 これは簡単に理解できるように、私はこの場合だけ「体・心・精神」面と規定したと言わなければなりません。誰でも精神面の病気で、ここに座っている人は、身体面、心の面は病気でないので、スワンサラーンロム病院(精神病院の名)に行く必要はありませんが、精神面の病気でブッダの病院、あるいは今スアンモークに造る努力をしている心の面、精神面の病院を訪ねなければなりません。

 こういうのは体の問題と心の問題はありませんが、この言葉の特別な意味の精神面の問題、つまりまだ純潔でない見解が残っています。

 体と言葉は純潔で、心も純潔ですが見解がまだ純潔でなく、執着があってまだ純潔でなく、まだイダッパッチャヤターを知らないので純潔でなく、まだタタター、そのようであることを知らないので、それは私たちを騙せます。だから「私たちは体と言葉と心と見解の純潔があるようになるまで、戒・サマーディ・智慧がなければならない」と見ることができます。

 ナックタム(僧の試験)を学び、ナックタムを教えるみなさん。戒は体と言葉の純潔を生じさせ、サマーディは心の純潔を生じさせ、智慧は見解の純潔を生じさせると、正しい規則に直してください。見解は心でなく、心に関わるものです。

 だから私たちは、このような状態の戒・サマーディ・智慧がなければならりません。このように不変の定義を知れば、どういうのが戒で、どういうのがサマーディで、どういうのか智慧か自分で規定することができます。だから普遍的な状態で、世界中の誰でも「戒は体と言葉の正しさ」と受け入れることができます。

 ちょうど時間も終わるので、戒は体と心の純潔で、サマーディは心の面の純潔で、智慧の部分は見解の純潔で、このようになれば「全部揃った普遍」と言うことができると、繰り返させていただきます。バカみたいでない人は誰でも好きになります。このよう、このようと教えて理解させれば彼らは好きになります。そしてこの三つは重複せず、同じではありません。

 だから愚かな人たちは三学を正しく知ってしまってくださいと、下品に言わせていただきます。このように話すのは下品ですが、愚かな人たちに三学を正しく知らせてしまおうと言うのは、今までに対して正しくありません。

 つまりイダッパッチャヤターの法則でそのようであるよう望み、そのように後押しし、そしてこのような状態になったので、人間誰でも必要と本当に知らなければなりません。三学は拠り所になるイダッパッチャヤターだからです。

 要するに、ブッダの大悟によって三学と呼ぶものが生まれ、僧サンガによって伝承され、世界を守護するダンマとして維持されるまで、段階的な自然の、自然の法則の後押しであるイダッパッチャヤターです。

 狭い部分を見れば、戒はサマーディの基礎で、サマーディは智慧の基礎で、智慧は苦の根を断ち切るもので、これがこの三つの物のイダッパッチャヤターです。逆に言えば滅苦は智慧に依り、智慧はサマーディに依り、サマーディは戒に依り、戒・サマーディ・智慧は三脚のように依存し合っているので、どれか一本を取ってしまうことはできません。

 あるいは智慧だけあれば、戒とサマーディを威力下に置くことができます。滅苦の原因である戒・サマーディ・智慧の三脚は、結果である、直接滅苦である解脱と解脱智見を生じさせます。

 すべては「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と言うイダッパッチャヤターの法則で経過し、戒・サマーディ・智慧を見ればこの法則を発見し、ブッダ・プラタム・僧を見ればこの法則を発見し、三宝と三学を同時に見ればこの法則を発見します。

 だから私は、後々すべての角度を知るために、今一つの角度を指摘するために、今日述べたように、イダッパッチャヤターは三宝と三学の土台としてあると良く熟慮して見るようお願いする努力をしています。

 さて、プラタムで実践する時、注意を喚起するものであるパーリ教典を、僧のみなさんが読経するちょうど良い時間になりました。


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