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カンマの法則・カンマ・カンマの終わりである
イダッパッチャヤター(つづき)


1972年3月18日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。イダッパッチャヤター(縁生。因果)の講義の十二回目は、前回に引き続いて、まだ終わっていない「カンマとカンマの終わり、カンマの法則であるイダッパッチャヤター」と題してお話します。

 この項目については、理解しなければならないことが少しあります。つまりこの講義は、予定どおり順に話さなければならないので、途中から聞きに来た人は、以前の講義の内容に関わるので、それらの内容が理解できないことがあるかも知れません。これは一連の講義なので当たり前です。

 イダッパッチャヤターの話は十三回あるので、どこかの部分が理解できない方は、全部の中から特にその部分を探して、自分で理解を増やさなければなりません。前回も、なぜイダッパッチャヤターの話を講義するのか、常に復習しています。これは誰が煩がるのも恐れず繰り返し復習します。イダッパッチャヤターという言葉を、口を滑らす時「イダッパッチャヤター」と口を滑らすほど庶民の話す言葉にしたいからです。

 何かに驚いた時も、イダッパッチャヤターを思い出すことができれば驚きは消え、何か嬉しくなったら、イダッパッチャヤターと言えば興奮は消え、最後に自慢が消えます。

 イダッパッチャヤター(縁生。因果)は仏教の心臓部で、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と、全部このようであること以外にどのようでもないことを表しています。幸福の話、苦の話、善の話、悪の話、徳の話、罪の話、得をする話、損をする話、何の話もイダッパッチャヤターである点は全部同じで、これがあれば、これが縁で、自然の法則に従ってこれが当然生じます。

 人は愚かなのでそれを好み、その側を好み、そしてこれを嫌い、この側を嫌いますが、これは無明、あるいは痴と呼ぶ迷いで、すべての物を事実のままに知って、一方を愛し、一方を嫌い、喜んだり悲しんだり、膨らんだり、萎んだり、イダッパッチャヤターを知らない人式になります。

 驚いて何か口から漏らすにも、愚かさの表出として漏らし、あるいは嬉しくて興奮し、自分が手に入れた物に惑溺する人の気持ちの表出として口から漏れます。

 今イダッパッチャヤターという言葉を、庶民が使い慣れた言葉にしたいです。何かが生じても「イダッパッチャヤター」と言うサティがあれば、喜ばず、悲しまず、平生で正常でいられます。こういうのを、仏教教団員であることにふさわしいと言います。みなさん、どうか我慢して続けて聞いて、イダッパッチャヤターの話を学んでください。これが復習しなければならないことです。

 仏教教団員のレベルを上げなければならない時に、時代になりました。イダッパッチャヤターという言葉に集約されている仏教の心臓部を知れば、何も奇妙と見て恐れず、あるいは喜んだり悲しんだりせず、あるいは興奮しないようにさせます。それらは心を正常でなくする物ばかりです。イダッパッチャヤターと呼ぶものを明らかに知る人は一定で、膨れたり萎んだりせず、一時笑い一時泣き、一時喜び一時悲しむ状態の変化はありません。

 次に仏教教団員は口だけの仏教教団員で、仏教の心臓部に至らないので、不釣り合いな仏教教団員と呼ぶことができます。自分を智者、教える人と認めている人の中にも、まだ不釣り合いの人がいて、カンマとカンマの終わりに関わるイダッパッチャヤターの話を理解できません。

 前の講義で述べたようにカンマの話は二種類あり、混同すれば混乱します。

 最初の種類カンマの話は、まだ煩悩があって自分の話に執着し、自分という感覚を捨てられない自分が厚い人のためで、一方のカンマの話を教え、一方の実践しなければなりません。次に世界を長く見て来た、あるいはダンマを十分見て来た人物は、自分という執着を抜いてしまいたいので、別のカンマの話、カンマを終わらせる種類のカンマの話を教えなければなりません。

 一般の人、あるいは前者のような人のための話を道徳レベルのカンマの話と言い、後者のような話をサッチャダンマ(真理)のレベルのカンマの話と言います。

 道徳レベルのカンマの話は、まだ良くなりたい、幸福になりたい、煩悩の望みで何かになりたい自分がある一般庶民の望みに従って規定します。真実のレベルのカンマの話は、善悪などは欺瞞の話で、善悪という感覚で駆け回らなければならなくさせるので、上がったり下がったり、膨れたり萎んだりし、一時喜び、一時悲しむと知るので、それらのカンマの上にいたいと望みます。

 縁起の話も同じで、道徳側と真実側の二つの側があります。カンマの話も縁起の話も、道徳レベルなら、自分に執着する人が執着する物を手に入れるために実践できるよう教えます。真理のレベルのカンマの話、縁起の話なら、すべての物はイダッパッチャヤター以外には何もないと、つまりそれ自身の因と縁で経過し、これがあれば、これが縁で、これが当然生じ、あるのはこれだけと説明します。

 善い悪いと言うのも、人が勝手に言っています。人は自分の煩悩で、何かを愛せば「善い」と言い、愛さなければ「悪い」と言うので、真実ではありません。真実の話なら、執着させる善悪の欺瞞の威力の下にいないので、無関心でいられます。

 だから勝者である人の話になり、負けを止め、勝利になり、触れて来る世界のすべての感情に勝ちます。これは、カンマの話は二種類あり、常見がある普通の人には道徳レベルのカンマを教えると、復習しなければならない項目です。

 次に常見、つまり自分、自分の物という感覚を捨ててしまいたい人は、真実レベルのカンマの話を学んで、善いカンマ悪いカンマは堪らないと知り、善いカンマ悪いカンマを抜いてしまう、もう一種類のカンマがあるようにしなければなりません。

 それが仏教本物、つまりアッタンギカマッガ(八正道)、あるいはマッジマパティッパダー(中道)と呼ぶ物です。だからみなさん、八正道は善・悪と分けていると理解しないで、あるいは話さないでください。

 八正道は、徳や善や罪、つまり善も悪も、何でもすべての執着を抜いてしまうための実践です。そうすれば善悪より上にいるので、「善いカンマ悪いカンマを抜いてしまうカンマ」という新しい名前になり、三番目のカンマと呼ぶこともできます。

 一番のカンマは悪いカンマで、二番のカンマは善いカンマで、これは世俗の庶民の成行きになります。次に三番目のカンマは聖人の話になり、人の心を支配する善悪の威力を抜いてしまうカンマです。

 私たちは善の話・悪の話を基準にする問題があります。善の話・悪の話を知らなければ、善悪の話の知識がないすべての畜生のように問題はありません。だから動物の問題は人間ほど多くなく、人間は善悪の話に執着するので問題が尽きません。

 どの宗教も執着しないように教えますが、人は聞いて正しい意味が分かりません。キリスト教もこのように教えています。聖書の初めの一二ページを開いて見てください。最初の人間は苦がなく、罪がなく、善悪を知る木と呼ぶ木の実を食べた途端に、アダムとイブは罪人になりました。つまり永遠に罪があり、永遠に罪がある人間になりました。

 善悪を知るまで彼らに苦はなく、布を纏う必要もなく、男女という感覚もなく、善悪という感覚もありませんでした。人間であることの始まりは、善悪の問題との遭遇の始まりです。

 これです。善悪の話が始まればいつでも、人間は罪があり、その時苦があると理解してください。しかしそれは新しい物で、人間式の罪、あるいは苦で、善悪を知った人間に生じたばかりの物です。まだ善悪の意味を知らない人間は動物と同じです。姿形は人でも、善悪の話を知らないので動物と同じと言います。だからカンマの法則は人と動物で違います。

 以前に、猫がネズミを捕まえて喰っても罪でありませんが、人が動物を殺して食べれば罪と話したのは、猫は善悪、徳罪の話の知識がなく、善悪に執着せず、「これは罪だ」と知って敢えてしていないので、罪ではありません。猫がネズミを捕まええるのはただの行動で、結果があればただの反作用です。ネズミに噛まれることもあり、あるいは何でも、それはただの反作用で、カンマ、あるいはカンマの結果と言いません。

 しかし人間が動物を殺せば、それはカンマです。善の話、悪の話、徳の話、罪の話の感覚があり、そして殺す意図でするので人間が動物を殺すのは罪です。しかし猫がネズミを捕まえるのは罪でなく、レベルが違います。

 これです。善の話・悪の話は普通以上に複雑で厄介な問題を生じさせます。みなさんが苦労してわざわざここへ来られたのは、善くなりたいからです。このようにハッキリ言うのをご勘弁ください。善くなりたくなければ来る必要はありません。進歩があるのは良くなりたいからで、善の毒を知るまで善に執着し、善の毒を知れば次の実践、つまり善の上にいる段階の実践になります。

 キリスト教の話をすれば、永遠の命と呼ぶもう一つの木があり、人間が二番目の永遠の命の木の実を食べた時、途端に人間の罪は終わります。次にアダムとイブの子孫は二番目の木の実を食べることを知らなかったので、イエスなどの教祖が現れて、ブッダが教えたのと同じように善や悪に執着することを恥じるよう教えました。その時、人間は元罪から脱し、善の上、悪の上にいます。

 善悪より上にいることは、カンマより上、善のカンマより上、悪のカンマより上と呼ぶもので、カンマの終わりとも言います。

 私が説明しなければならない項目は三つあり、カンマの法則と、カンマの話、そしてカンマの終わりの三項目です。まだ自分がある一般の人が実践しなければならない道徳レベルのカンマは、前回の講義で非常に詳しく説明したので、今日残っているのはカンマを終わりにするカンマ、あるいは短くカンマの終わりと呼ぶ話だけです。

 私たちはこのカンマの終わりについて、それは「初めのように戻る」と思わなければなりません。猫がネズミを捕まえ喰っても罪でなく、あるのは行動だけのように、初めは何をしてもカンマではありませんでした。人間が善悪を知った時、何をしてもカンマになりました。意図で、煩悩でするからです。

 だから善悪、善悪、善悪のカンマの報いが生じ、転んだり這ったりして、一時溶け、一時固まり、一時溶け、一時固まる蜜蝋の海のような輪廻に行き、長くなると執着が緩むことができ、最後の段階、つまり阿羅漢になる段階になり、阿羅漢になると徳も罪もなく、善も悪もなく、何をしてもただの行動になります。

 阿羅漢はどんな理由でも罪になる道はありません。意図の威力で行動する、意図させる煩悩がないからです。だから阿羅漢は何をしてもただの行動で、たとえ動物を死なせても、殺す意図がないのでカンマはありません。似ていても同じでない話を良く知らなければなりません。猫がネズミを捕まえて喰うのは行動で、阿羅漢が何かをするのもただの行動ですが、同じではありません。

 次に猫でも阿羅漢でもない、中間の私たちにも、ただの行動である話はあります。毎日私たちが行動だけしてしていることはたくさんあります。たとえば起きて顔を洗い、歯を磨き、情況によって何かをするのは行動で、カンマではありません。しかしこれは珍しくなく、問題はありません。

 たとえば駆虫薬を飲まなければならないなど、もっと重要なことが生じた時の問題になりました。私たちが純粋な意図ですれば、あるいは「意図はない方が良い」と言う駆虫薬を飲むことはただの行動で、カンマではありません。しかし寄生虫に対して怒りがあり、殺してしまいたいと思い、そして駆虫薬を飲めば、こういうのはカンマです。つまり殺生、あるいは悪のカンマです。

 これです。日常の普通の事でもカンマから脱す話に注意しなければなりません。宵の口や夜中に歩くと、必ず何かを踏んで死なせるので、理解できなければどこへも歩いて行く勇気がなく、あるいは虫下しを飲む勇気がなく、あるいは生き物を死なせなければならないので誰かを護る行動はできません。

 もっと詳しく見ると、私たちが一度息を吸うと、微生物、ある種の生物が一緒に入り、そして私たちの中で死ぬようなのも、殺す意図ですれば罪でなければなりません。それなら計り知れない罪、吐き出すことができない罪です。永遠に呼吸をしなければならないのですから。

 しかし今私たちは、それらの生物を殺す意図はありません。だからそれらの生き物を死なすことは、全部行動で、罪の結果でなく、徳の結果でなく、何の結果でもありません。これは善悪を知る人物の意図ですれば、善いカンマ・悪いカンマになると知らなければならないカンマの話、カンマの話に関わる事実です。

 悪いカンマは「これは悪いカンマだ」と知っている気持ちに逆らう時に作ります。善いカンマは「これは善いカンマだ」という気持ちでし、すればそれは善いカンマです。しかし夢中になって善い悪いと小躍りしていれば、それも堪らず、最後には両方から脱してしまいたくなります。

 だから中道、あるいは八正道に従った仏教の梵行はをします。だからこの道は善いと言わず、悪いと言わず、善悪より上にいるためになります。そうです。初めは「この道は善い」と言い、善と言いますが、この道は善を脱し、悪を脱す道であることを忘れないでください。

 中道と呼ぶものは、低いレベルなら八正道に注目し、正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力などがあり、善の側、つまりサンマー(正しい)という言葉を使う正しい行動になると見ることができます。しかしブッダは、もっと高い中道はイダッパッチャヤターと言われています。つまりこれがあれば、これが縁で、これが生じること。これです。本当の、あるいは最高の中道は。

 イダッパッチャヤターは善、あるいは悪より上にあり、どの方向にも傾かず、得でも損でもなく、善くも悪くもなく、徳でも罪でもなく、幸福でも苦でもない純粋な自然であり、因と縁で経過します。しかし私たちは「中道はイダッパッチャヤター」とブッダが言われたのを、あまり聞いたことがありません。

 解説すれば、パティッチャサムッパーダ(縁起)が中道で、これがあるからこれが生じ、縁起の流れでこれがあるからこれが生じると教えるだけで、善いと規定せず、悪いと規定しないので中道で、人を「善は欲しくない、悪は欲しくない」という気持ちにさせ、善の話、悪の話に迷わせません。これがカンマより上にいる道、あるいはカンマの終わりになる話で、理解している物にするために話しを続けます。

 今は、カンマの話は二種類あるとだけ話したいと思います。普通の人、あるいは凡人は道徳レベルのカンマで、聖人まで高くなればサッチャダンマ(真実)で、つまり善悪の上にいます。

 道徳なら善悪の話で、休まず悪を避けて善にし、それは道徳です。しかし高いレベルになると、つまり真実レベルはどちらも堪らない、善も悪も堪らないと言って善悪より上にいたがるので、善いカンマ、悪いカンマの威力を全部なくしてしまうカンマが生じます。

 これがカンマの終わりに到達すること、カンマの上にいることで、カンマの話は終わります。このようにできる人物は阿羅漢しかいません。もっと下の預流などはそのようになりつつあるだけで、まだできません。できるのはきっとカンマの上にいる阿羅漢だけです。

 まだカンマの威力、つまり善悪の抑圧の威力下にいればまだ苦なので、まだカンマの上にいない時は、まだ苦の上にいません。まだカンマが終わらないので、まだ苦は終わりません。だからカンマの上にいると言う、あるいはカンマが終わって、二度とカンマになる行為がない、行動だけでなければなりません。

 さて、次はカンマの終わりと呼ぶものを理解させるために、詳しく話します。


 この話の例は前に話したことがあります。バーヴァリーバラモンは有名なバラモンで、ゴーダーヴァーリー川の畔に住まいがあり、誰もが智者として帰依していました。次に深い禅定や何やら凄いものがある森に住んでいる出家が現われ、このバラモンに財産を要求し、寄越さなければ頭を粉々にすると、つまり彼の神通力で頭を爆発させると言いました。

 バーヴァリーバラモンは困って苦になり、どうして良いか分からず、森から来た仙人やヨギーなどの神通力を信じているので、頭を爆殺させない、頭を粉々にしなくても良いダンマ、二度と誰からも危険に遭わされなくても良いダンマ、つまり死なない、あるいは危険に遭わないと明かに見えるダンマを探さなければなりませんでした。これが拠り所を探そうと考えさせる原因で、だからこの天人に質問しました。

 ある天人が「頭をバラバラにしなくても良いダンマを知る人はブッダしかいない。ブッダはカンマの終わりに至った人、サッバカムカッカヤン パットー=すべてのカンマの終わりに至った人です」と言いました。バーヴァリーバラモンはカンマが終わった人であるブッダに関心を示し、ブッダに質問するために、何としても全すべての項目を質問するために、自分の弟子を十六人も遣わせました。

 十六の問題の話が生じたのはこれが原因で、カンマの上にいる深遠なダンマの説明ばかりです。この十六の問題で説かれているダンマは、カンマより上にいる話ばかりで、道徳の話ではないと熟慮して見てください。これは、カンマより上の話はどのレベルにあるか、理解しなければならない見本です。

 カンマの法則は何があるか、話を続けなければなりません。ここでの法則はすべての種類のカンマを網羅しなければならないので、カンマの法則と言います。

 教典を調べて見た限りでは、ニッベーディカスッタ(抉択経)がすべてのカンマの法則を説明するのに一番ふさわしいと見えます。ニッベーディカスッタは非常に良い名前です。つまり楔のように差し込んですべての物を粉砕する消滅させる物について述べています。この経は最高に良い法則の状態でカンマについて述べていますが、カンマの話だけでなく、他の話も述べていて、カンマの話は最高に完璧に述べられているだけです。

 細かい項目では、この経は始まるとカンマの状態、あるいはカンマとは何かという状態でカンマを説明し、「カンマは三つの門、つまり体と言葉と心の意図による行為である」と明示する言葉があり、意図でする点が重要です。

 意図とは強い決意です。この強さは無明に集約される煩悩から生じます。何が何かを知らないので、煩悩あるいは無明の威力による意図があり、そして体・言葉・心の三つの行動で、体と言葉と心の意図による行動をカンマと言うと、短い定義でまとめます。

 次の項目はカンマが発生する原因、つまりカンマの発生源は何かで、その経の中にバッサ(触)と説明があります。触とは目・耳・鼻・舌・体・心の面の接触です。これがカンマのニダーナサムバヴァ(因の発生)、発生源です。

 みなさんは、触はどのようにカンマの発生源か、観察して見て理解しなければなりません。詳しい触の話は以前に説明しました。今日は目が形に触れるなど、六処に接触がある時、この時をパティガサムバッサ=六処の衝撃による触(有対触)と呼び、それだけで、まだ無明や煩悩に関わらないと、短い要旨だけ話します。

 例えば私がここに座っていて、ちらっと眼を遣ると景色が見えます。これを、外部の景色と内部の目が触れてパティガサムバッサ(六処に衝撃がある触。有対触)になると言います。そしてそのサムバッサ(触)の時、無明が介入すると無明触になります。つまり得るため、手に入れるため、その物を何かするために期待が生じ、疑念が生じ、何かが生じる。こういうのが無明触、無明の威力で外部のものに触れる触です。

 これはパティガサムバッサではなく、無明が介入してしまったので無明触と呼びます。もう一つの名前はアデヴァチャナバッサ(同義語触)、名前だけの触と言い、接触する必要はありませんが、最高に接触があります。つまり無明が関わると「これは何」と感じ、そして喜んだり悲しんだりし、その喜びや悲しみでするのはアディヴァチャナサムバッサ(同義語触)です。

 形を見る例はただ見るのでなく、美しいとか美しくないとか、可愛い、可愛くないなど何らかの意味があり、そして煩悩と一致すれば願望が生じます。

 この願望の発生はカンマで、意業です。その触は意業であるカンマを生じさせる原因です。次に意業は、往々にして意業に止まらず、口から出て口業になり、体の行為、身業になり、これで三つの門、心・言葉・体が揃います。これです、触はこのようにカンマの発生源、あるいはカンマの因の発生原です。

 だから何がカンマの発生源かと問えば、答えは触で、触がある度にカンマがあり、触がある度にカンマに関わる話がなければなりません。煩悩が関わらなければ、それは行動です。煩悩が関われば、それは体・言葉・心のカンマで、それは人間が規定した善、あるいは悪です。それが自分や他人を困窮させれば悪業と言い、自分と他人を苦しめなければ善業と言います。しかし善業も悪業もカンマであり、すべてのカンマは触から生じます。

 次の項目は、カンマのヴェーマッタです。ヴェーマッタは「それぞれ違う標準」という意味です。ヴェーマッタ、つまりいろいろなカンマの標準は何でしょうか。その経の中にある説明は、人間が知るべき世俗面の結果を掴めば、カンマはどのような状態でも、人間を精神面で生まれさせる結果で、いろんな違いがあると言います。

 これは、地獄の動物に生まれさせるカンマもあり、畜生に生まれさせるカンマもあり、餓鬼に生まれさせるカンマもあり、そして人間に生まれさせるカンマもあり、天人に生まれさせるカンマもあると説明し、五つの段階に言及しています。一番悪いのが地獄の動物で、畜生・餓鬼・人間・天人と順に高くなります。

 カンマがいろいろ違って生れさせる項目は、ある人たちは新たに生まれることを、死んで棺に入って、それから生まれるという意味にします。彼らは、死んだら地獄の動物に生まれたり、死んで畜生に生まれたり、死んで餓鬼に生まれたり、人間に生まれたり、いろんな種類の天人に生まれるという、自分の信仰があります。

 しかしイダッパッチャヤターの言葉の「新しく生まれる」という意味は死ぬまで待つ必要はなく、今ここで生まれることができます。これは縁起の話、つまりイダッパッチャヤターの話の最初の講義で説明しました。

 この生まれることは心が生まれることで、今ここで、つまり触に続いて生まれることができます。無明がある類の触があればどこでも、そこで生まれます。たとえば目が形に触れて無明が介入すると、その形を喜ぶなどします。

 次にこの喜びはタンハー(欲望)と呼ぶものを生じさせます。ヴェーダナー(受)がタンハーを生じさせます。欲望が生じると、欲しいと感じる心があり、それが「欲しがる人」である自分で、それから「私」というウパダーナ(取)が生じ、私はそれが欲しい、私はこれが欲しい、私はそれを得た、私はこれを得た。このようにウパダーナが生じると「生」、つまりその「人」が生まれたと言います。

 今回の形を見る話に非常に焦燥を生じさせれば、その人は地獄の動物に生まれ、たった一分か二分のうちに、その人は地獄の動物に生まれます。

 その形を見た時に哀れなほど愚かになれば、その人は畜生に生まれたという意味で、畜生は愚かさを意味する言葉です。

 その時の形を見ることが欲望を生じさせ、それに対する渇きが強ければ、その後一分が二分くらいの間に、その人は餓鬼に生まれます。

 あるいはその人が人間の労力で汗水流して何としても手に入れたいと努力すれば、その人は人間に生まれ、つまり人になります。

 あるいは運良く、偶然でも何でも、その人が運良く、折良く、形を見ることに関わる身体面の美味しさを望みどおりに手に入れれば、彼は欲界の天人に生まれます。

 あるいはもっと高く、その形を見ることをサマタバーヴァナーに励む感情に使い、愛欲の話でないようなのは、ケースによって形界の天人、無形界の天人に生まれます。

 これがいろんな種類のカンマで、段階的な基準があり、地獄の動物に生まれさせるカンマ、畜生に生まれさせるカンマ、餓鬼に生まれさせるカンマ、人間に生まれさせるカンマ、そして天人に生まれさせるカンマの四種類しかありません。

 しかしそれぞれをたくさんに分けることができ、特に天人は何種類、何百種類もあります。だからカンマの順は、その結果を基準にするよう、このように述べています。

 これです。いつ生まれるかと問えば、死んだ時と言う人がいますが、イダッパッチャヤターの部類の経に現われている教えは、どれも「今ここで生まれる」と説明しています。

 「生まれる」という言葉は「俺」「俺の物」というウパダーナ(取)が生まれることです。だから「ディッタダンマ」と「サムプラージカ」という言葉も違います。彼らが使っている言葉では三語あり、「ディッタダンマ」「ウッパッチャ」そして「サムプラーヤ」で、訳語は「即刻」「間もなく」「生きているうちに」という意味です。これが一つです。

 そして「次の世」が一つ、そして「もっと後の世」がもう一つで、死んだ時生まれると信じる人は死ぬ時にし、イダッパッチャヤターの話を信じる人たちは、述べたように三つとも今ここにします。

 ディッタダンマとは、六処に接触があって間もなくです。ウッパッチャ、あるいはウッパッチェーは、その後幾つも心が生じる時間で、パーリ語のアパラパリヤーヤならこのようですが、一般庶民はサムプラーヤと言い、これはそれからずっと先、つまり初めの二つよりもっと先を意味します。

 カンマの話はこのような順で、このように結果を出します。合わせて二つの意味があり、身体を基準にする人たちは死んだ時に関わらなければならず、心を基準にする人たちは、全部今ここです。心は体より比較にならないほど早く生まれるからです。

 だから二種類の「生まれること」はどちらが恐ろしいか、どう考え、どう信じるのが恐ろしいか、あるいは利益があるか、あるいは有益に解決できるか、考えて見てください。イダッパッチャヤターを基準にすれば、より恐ろしく、より真実であり、より有益に使える「今ここ」でなければなりません。

 地獄・畜生・餓鬼・人間・天人であることは、全部今ここで、カンマの行為がある度に、即座に生まれます。カンマの行動をする度に無明による触があり、サティがぼんやりして煩悩で目・耳・鼻・舌・体・心を通して触れます。触はカンマを生じさせ、そして五つの中の何らかの結果が生じます。

 しかしその触に無明がなければ行動だけになります。これをカンマのヴェーマッタ五種類と言います。このヴェーマッタをタイ語に訳すのは難しく、文字的に訳せばカンマの尺度という意味です。

 次の項目、カンマヴィバーカ=カンマの報いは、述べたような結果が出る時間で、三種類に分け、①ディッタダンマ、つまり即刻結果が出る、②ウッパッチャ、間もなく結果が出る、③アパラパリヤーヤ、それからずっと後に結果がでます。

 本当は他の結果を出す規則を基準にすることができますが、ブッダは他の規則で説明なさらず、結果を出す時間で説明されました。ヴィバーカ(報い)とは結果を与えるという意味です。ヴィバーカが結果を与えるのは同じでなく、すぐのこともあり、間もなくのこともあり、もっと後のこともあります。これが報いです。カンマの報いはこのように三種類あります。

 しかし、関心を持たなければならない教えが一つあり、ブッダは「どの体にカンマがあっても、カンマは当然その体に結果を与え、カンマがどの体に結果を与えても、その人は当然その体のカンマの結果を味わう」と言われています。これはその体の報いを受け取るという意味ですが、その体でも即刻、その後、もっとずっと後の違いがあるという意味です。

 イダッパッチャヤターの教えを規準にすると今ここばかりで、カンマの結果は、カンマの行動をした体にあり、そしてカンマの行動をした体のカンマの結果を味わいます。この体で触があり、この体でカンマになり、それからこの体で結果を出て、そしてこの体でカンマの結果を味わうという意味です。

 しかしすぐに出る種類、間もなく出る種類、ずっと後に出る種類の三種類あり、すべてこの体の中です。これはイダッパッチャヤターの法則に従っています。

 しかし一般の人が信じているのは、彼らはそのように言いません。彼らは死んで棺に入れば、基本としてあのようにこのように生まれ、あのようにこのように受け取ると言います。それは道徳の、そしてブッダの時代以前からある信仰でカンマの教えを信じる人の別の話です。パーリでもそのように述べています。そしてブッダも、同じように道徳の状態のカンマを教えていますが重要な話でなく、仏教の心臓部ではありません。

 仏教の心臓部の話ならイダッパッチャヤターの教えで、今述べたように話されました。詳しくは一度話したことがあり、どの体に触があってもその体にカンマがあるという項目です。

 どの体に何カンマがあっても、その体に結果を与え、その体に結果を与える時その体のカンマの結果を味わい、地獄の動物や畜生や、餓鬼、人間、天人になり、そしてその体で即刻のことも、しばらく後のことも、ずっと後のこともありますが、それでもその体、その体の中です。これがこの経で、イダッパッチャヤターの法則を基準にするカンマの報いです。

 次に最後の項目はカンマニローダ、カンマの滅=カンマニローダです。

 カンマの滅とは何でしょうか。カンマの滅は触の滅です。触、あるいは接触が消滅し、カンマが消滅します。この触の話は、無明がある触に注目します。カンマの話になる触はただの行動でなく、無明がある触でなければならないと理解しておいてください。

 特に良く観察しなければならないのはカンマニローダという言葉です。ブッダは、それはバッサニローダ=触の消滅と言われ、欲望の消滅、あるいは無明の消滅と言われていません。このように奇妙です。

 ドゥッカニローダなら欲望の消滅、煩悩の消滅を意味しますが、カンマニローダになると触の消滅になり、この種の触、つまり無明が混じっている触を生じさせてはいけないという意味です。このような触が生じれば当然カンマも生じ、このような触が消滅すれば当然カンマも消滅します。

 もっと詳しく狭めて話せば、目が形に触れると触になり、そして明が駈け寄り、サティが駈け寄って無明に機会を与えなければ、このようならカンマは消滅します。だからカンマの消滅は触の消滅と言われました。

 触の消滅には多くの結果があり、カーマ(愛欲)が消滅します。カーマニローダは触の消滅で、ヴェーダナーニローダ=受の消滅は触の消滅で、サンニャーニローダ=想の消滅は触の消滅で、ここでのカンマニローダは触の消滅です。

 聞いて意味が分からない、あるいは薄れる人もいるので、「触の消滅は愛欲の消滅、受の消滅は想の消滅、そしてカンマの消滅で、簡単に言えば五取蘊の消滅」と復習します。それはどんな機会にも五取蘊は生じません。触の消滅があれば、触が無明に関わらなければそれは消滅します。

 触の消滅はカンマの消滅です。カンマを持ちたくない、カンマを生じさせたくない、すぐにカンマを消滅させたい人は触で消滅させなさい。無明に無明触を生じさせなければ、無明触から生じる受は生じません。そして当然欲望は生じず、取も有も生も生じません。それが何も生じないことです。

 ブッダは本当の科学の手法で説かれ、そして最高に狭い状態でハッキリ限定して説明され、つまり「触で」と、最高にハッキリ言及しています。この経で奇妙なのは「触で」と明示された点で、多くの経のほとんどは「受で」と明言されているからです。

 受は欲望を生じさせ、有を生じさせ、生を生じさせる主犯であり、主人公ですが、ニッベーディカスッタではもう一段、つまり触へ移動して触に注意させ、無明触を生じさせないで、目・耳・鼻・舌・体・心が触れた時無明に関わらせません。それは触が生じません。

 触、あるいは受は事実上は同じです。触が生じれば逃げ切れず、受が生じなければならないからです。あるいは受と言っても同じで、受は他の物から生じず、当然触から生じるからです。だから時々、あるいはこのように明確に限定した時、ブッダは「触で」と明言されていますが、一般的には「受で」と明言されています。

 サティに欠けることで幸受・苦受・不苦不幸受が生じれば、欲望・取が生じなければならないのは確実ということです。

 次にもっと近くなって、つまりより根源に近づくと「触で」と明言し、パッサニローダ(触滅)はカンマニローダ(業滅)です。ここを憶えておいでください。これからカンマの終わりについて話します。

 最後の問題はカンマニローダーミニパティパダー(業滅道)です。カンマニローダーミニパティパダー=動物をカンマの終わりに至らせる実践項目、つまり動物を触の消滅に至らせる実践項目です。「アリヨー アッタンギコー マッゴー=アッダンギカマッガ(八正道)はカンマニローダーミニパティパダー(業滅道)」と言われている言葉があります。

 みなさん良く知っているアッダンギカマッガ(八正道)とは何でしょうか。それは正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい業等々、これらをアッダンギカマッガと言います。ここでブッダはアッダンギカマッガを、カンマの消滅のための道として話されています。

 すべての経を調べれば、このアッダンギカマッガ(八正道)は他のたくさんの物、何十種類もの消滅に至らせる道であると気づきますが、すべては煩悩を消滅させる点で同じ話です。

 八正道がいつどこに介入しても、すべて煩悩の消滅になります。正しい見解が主犯であり、問題の張本人なので、休まず無明を消滅させませます。だから八正道が介入すればいつでも、毎回、どんな場合でも、どんな話でも、その時煩悩の座は白けます。

 これはブッダに「アリヨー アッダンギコー マッゴー」と言わせた項目です。つまり欲望の消滅のためにも、カンマの消滅のためにも、苦の消滅のためにも、生の消滅のためにも、何の消滅のためにも素晴らしい八正道道について言及すれば、どこででも「アリヨー アッダンギコー マッゴー」と言われました。カンマの話はこのようだからです。

 次にアリヨー アッダンギコー マッゴーは涅槃への道と良く知られています。八正道は涅槃への道です。涅槃は煩悩、苦、輪廻、何でもすべてのものの消滅で、八正道は涅槃への道なので、このように偉大な威力があります。

 次にカンマの終わりを理解する角度を見て行きます。

 ニッベーディカスッタだけを見ればすごく簡単で、あまり話さなければならない問題はありません。八正道を実践していれば、触が消滅し、カンマが消滅します。八正道を始める努力をするだけで、それは涅槃へ旅する道なので、カンマが消滅し、触が消滅し、苦が消滅し、消滅しなければならない何でも消滅します。

 消滅しなければならない物は、その人が八正道を歩いている時にすべて消滅します。それがカンマの終わりのためにすることで、そこでカンマが終わり、このように簡単です。

 ブッダも含めたすべての阿羅漢がすべてのカンマの終わりに到達したのは、八正道を歩いたから、あるいは最高に実践したからです。カンマの終わりの話はここにあります。まだ善趣、悪趣、地獄、天国へ行っているならカンマで経過しなければならない話であり、そしてまだ無明があります。

 この項目は、アッダンギカマッガ、あるいは八正道は正しい理解、正しい望み、正しい言葉、正しい仕事、正しい生活、努力があり、正しい努力、心の中に正しいサティ、思い出すことがあり、正しいサマーディがあり、これら八つの正しさが休まずあるので、非常に威力があり、非常に力があり、無明触が生じられないようにすると、広い原則を憶えておいてください。

 この八つがある正しい道を歩いている人は誰でも、無明触を生じさせる隙は何処にもありません。これが古いカンマを終わらせ、新しいカンマも生じない原因になります。今私は古いカンマ、新しいカンマの話について話しますが、ここではまとめて、すべてのカンマはここで終わり、終わるのは私たちが八つの正しさで生きるからと話します。

 八つの正しい生活があれば新しいカンマは生じられず、古いカンマも消滅します。一時的に八正道があれば一時的に終わり、永遠に八正道があれば永遠に終わります。今私たちのほとんどは一時的な八正道がありますが、三十分にもならないこともあります。

 八正道はいつどこにあっても、新しいカンマは生じず、古いカンマは永遠に静まるだけと言うことができす。

 心が消滅する時、死ぬ時、正しい見解は最高に重要なものと、ブッダが正しい見解の規則を話された前回の話を忘れないでください。他の時にぼんやりすることがあっても、死ぬ時、心が消滅する時にはぼんやりしてはいけません。これは心が消滅して棺に入るという意味です。

 しかし一時的に心が消滅すること、つまり目・耳等に生じる話の変化を意味するなら、正しい見解でそれを消滅させます。例えば今、目の話が生じて複雑困難になったら、私たちに明があり、知識があり、目の話に関わる正しい見解があることでそれを消滅させます。このようなら煩悩を消滅させる面、あるいは滅苦の面で良くなる希望があります。

 もう一度短く言えば、私たちの生活の一瞬一瞬に何の問題が生じても、賢さで問題を終わらせてください。私たちの生活に何かの問題が生じ、一日に何回か知れなくても、どの問題も賢さで話を終わらせ、あるいは教えて自分を賢くし、その都度自分を正しい見解にすれば、正しい見解で心が消滅すると言います。

 次に目・耳・鼻・舌・体・心、何の話でも新しい話が生まれれば、それは善くなり、善い方に経過し、苦は生じられません。

 正しい見解をこのように理解してください。八正道全体の先導者なので先頭にあります。それは先導する先導者、あるいは要人で、他のものは力だったり、賛同者だったり、道具だったり、何かを消滅させる直接の義務は正しい見解次第です。

 八正道の重要さは先導者である正しい見解にあり、その他は部下です。しかし隊長だけで部下がいなければ何もできないので、全部揃わなければなりません。隊長が一人、そしてすべての部下、重臣が揃えば何でもできます。

 まとめるとカンマの法則は次のようです。

 カンマラッカナ、あるいはカンマの状態は意図による体・言葉・心の行為。

 カンマのニダーナサムバヴァ、カンマの発生源は無明がある触。

 カンマヴェーマッター、カンマのいろんな基準は、地獄の動物・畜生・餓鬼・人間・天人にさせるカンマで、合わせて五段階です。

 カンマヴィバーカ(業報)はカンマの結果で、即刻結果を与える、少しあと結果を与える、もっと後に結果を与えると言うように分けます。

 カンマニローダ(業滅)はバッサニローダ(触滅)、触の消滅で、それがカンマの消滅です。

 カンマニローダーミニーパティパダー(業滅道)はマッジマパティパダー(中道)、あるいは最高レベルのイダッパッチャヤター(縁生。因果)で、一般のレベルは八つの正しさがあるアリヤアッダンギカマッガ(八正道)です。

 これが増支部サッカニパータ、マハーヴァッガの第九経、パーリ・ニッベーディカスッタで話されているカンマの法則です。これはややこしく、良いのはパーリを知る人にとってで、三蔵があれば役に立ちますが、庶民は、ブッダがこのように話されておいたと知っておきます。

 次にカンマニローダ、つまりカンマの死で、この経に珍しい説明があります。この経はカンマを消滅させる道具、あるいはカンマを終わらせる道具である八正道に言及しているという意味です。しかし他の経は他の物を明示し、増支部マハーヴァーラヴァッガでは七覚支はカンマを消滅させる道具と明示しています。

 この経の詳細は先ほどの経と矛盾しません。この経では七覚支を欲望の終わりになる道と言っています。こういうのは、誰でも至る所で聞いています。仏教教団員なら学んだことがあり、説教を聞いたことがあり、七覚支は欲望を消滅させてしまう道で、欲望の消滅は苦の消滅と聞く機会があります。

 次に欲望の消滅、あるいは欲望の終わりと言えば、それはカンマの終わりで、カンマの終わりは苦の終わりです。苦の終わりはカンマの終わりから生じ、カンマの終わりは欲望の終わりから生じ、全部同じ話です。しかしこの欲望を消滅させ、カンマを消滅させるダンマをアリヤアッダンギカマッガ(八正道)と言われる代わりにボッチャンガ(七覚支)という名前にしました。


 次に七覚支を見ると、

 七覚支の一番目はサティで、サティがあれば無明がなくなります。サティがある所どこでも、そこに無明はなく、サティがある所はどこでも、そこには全身に張り巡らせた感覚があります。七覚支がある時はサティが一番の項目で、サティが無明を防ぎます。目・耳・鼻・舌・体・心の触が無明触になる道はありません。七覚支のサティがあるからです。

 七覚支のサティは七覚支のダンマヴィチャヤ(択法)を生じさせ、ダンマを選ぶことを知り、分析することを知ることを知り、どの道がどのようか、いつどの方法にするかを正しく選ばせるので、七覚支の択法は無明触が生じないよう、カンマになる触を生じさせないよう助けます。

 七覚支の択法は七覚支のヴィリヤ(精進)を生じさせ、努力を生じさせ、このように正しくすれば、重くなり、強くなり、能力の限りにさせます。これが七覚支の精進です。このように無明は後退し、生じさせることから更に遠退きます。

 七覚支の精進は七覚支のピーティ、つまり満足を生じさせ、このような行動で幸福になります。だからこの話は憂鬱な話、あるいは飽き飽きする話でなく、愉しさに誘い、幸福に誘う話です。七覚支のピーティの威力で、人は成功したと感じるとピーティだけがあるからです。次にそれはただのピーティでなく力を増したピーティで、何かの力が増え、無明を遠ざけ、更に生じ難くします。

 七覚支のピーティ(喜悦)は七覚支のパッサッティ(軽安)を生じさせ、つまり静まって順調になり、軌道に乗り、騒ぎや緊張はなく、静かに静まって進歩するという意味で、それに相応しくなり、静まれば、膨張あるいは噴出し難くなります。七覚支のピーティは七覚支の軽安、つまり静まることを生じさせます。

 七覚支の軽安は七覚支のサマーディを生じさせ、盤石になり堅固になり、更に本気にします。

 七覚支のサマーディは七覚支のウペッカー(捨)を生じさせ、つまり正しい状態の無関心になり、果物が熟すのを待つように、あるいは薬缶の水が沸騰するのを待つように、時を待つだけです。

 炭の上に置いた薬缶を突然沸騰させることはできません。正しい方法ですれば、ちょっと待てば水は沸騰します。これは、時の使い方が正しいという意味です。時の使い方が正しくなければ止めてしまいます。あるいは時の使い方を知りません。

 ウペッカー(捨)でいることは、すべてが正しいことを意味します。次に捨は時に従った結果を出し、果物を熟させて食べられるようにするように、時を使わなければなりません。聖向聖果の話も同じで、何でも正しくしなければなりません。そして時を待ちます。この七種類全部を七覚支と言い、共通の教えで何にでも使うことができます。

 しかし煩悩を消滅させる話、カンマを消滅させる話なら、煩悩を消滅させカンマを消滅させる方向にしなければなりません。だからブッダは「ヴィラーガ(離欲)に依存した七覚支、ヴィラーガニッシトーで、あるいはニローダニッシトー、ニローダに依存した七覚支、あるいは煩悩と苦を振り捨てるために傾く七覚支、ボーサッガパリナーミでなければならない」と、変化させない諭す言葉で話されました。

 このように目指す七覚支でなければなりません。七覚支の要旨である教えを畑仕事、田んぼの仕事に使って食べて行くことも出来るからです。しかしカンマを終わらせ、煩悩を終わらせ、涅槃へ行くために使うなら、ヴィヴェカ、ヴィラーガ、ニローダと関わっていると言うほどでなければなりません。そうすれば偉大な、大きな、巨大な、大きさを計ることができない七覚支と言うことができ、この七覚支はカンマを終わらせます。

 その後もタンハー パヒヤティ=このように七覚支がある時、欲望は当然捨てられ、タンハーヤ パハーナー カムナン パヒヤティ=欲望が捨てられるので、苦は当然捨てられ、イティ コー ウダージ タンハッカヤー カンマッカヨー=ウダージ! このような理由で、カンマの終わりは当然欲望の終わりによってある。カンマッカヤー ドゥッカッカヨー=苦の終わりは、当然カンマの終わりによってある、と教えとしてこのように話されています。

 学んだことがなければ、二つの話、三つの話に見え、一時そのように、一時このように言い、例えば八正道はカンマを終わらせると言い、一時七覚支はカンマを終わらせると言います。それは名前を呼ぶ話で、いずれかの角度を目指してそのように呼ぶ話です。

 しかしその本物は同じ行動の話です。つまり目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぎ、舌が味を味わい、体が接触し、心で何かの感情を感じる時に無明を妨害して関わらせない物があります。

 これは情況に合わせて生じる知性によってカンマが終わる話で、七覚支、あるいは八正道を歩いています。ダンマを全身で学んでいれば、誰も説明する人がいなくてもハッキリ見えます。八正道は正しい状況がある方向に注目し、七覚支も正しい方向に注目し、このように段階的に繋がっている知識があり、その知識の中に正しさがあれば七覚支になれます。

 次に八正道を戒・サマーディ・智慧にまとめることができます。戒・サマーディ・智慧は、カンマを終わらせる道具です。戒・サマーディ・智慧は他の形、他の様式、他の姿で説明することができますが、時間の無駄です。八正道、あるいは七覚支のどちらか一つを基本にすれば十分で、そうすればカンマの終わりに導きます。

 次に、カンマは古いカンマも新しいカンマも終わらなければならないと、さっき言いかけたことについて話します。

 何が古いカンマで、何が新しいカンマかは、「チャク ビッカヴェー プラーナカンマン=比丘のみなさん。目は古いカンマで、アビサンカタン=縁が特に作り、アビサンチェタジタン=意図である感覚があるようにする縁であり、ヴェーダニヤン=縁が受を感じさせることができる」と、相応部の中で言われているブッダバーシタがあります。

 それは、この人から取り出してその人に移植できるようなただの目ではなく、便利さ、あるいは目で感じるために常に具わっている目で、この目に触を感じさせるために縁が加工し、そして無明と共演して、目の無明で接触するという意味です。これは古いカンマ、あるいは古いカンマの結果として残っている目ですが、それは前からあります。

 目・耳・鼻・舌・体・心はすべて古いカンマと呼ばれます。チャク ビッカヴェー プラーナカンマン、ソータン プラーナカンマン、ガーナン プラーナカンマン、チヴゥハー プラーナカンマン、カーヨー プラーナカンマン、マノー プラーナカンマン、アビサンカトー アビサンチェタジトー ヴェーダニヨー ダッタッボー、イダン ヴゥッチャティ ビッカヴェー プラーナカンマン。

 これが古いカンマです。目・耳・鼻・舌・体・心がなければ問題はありません。しかし今、作った因と縁があるので、待っている目、待っている耳、待っている鼻・舌・体・心があり、それらは接触を待っています。ブッダはこれを、古いカンマと呼ばれました。

 誰にも古いカンマがあります。探って見てください。いつでも触の話を作るのを揃って待っている目・耳・鼻・舌・体・心があります。

 次は新しいカンマで、何が新しいカンマでしょうか。「ヤン ヨー ビッカヴェー エータラヒ カンマン カローティ カーイェン ヴァージャーヤ マナサー、イダン ヴゥッチャティ ビッカヴェー ナヴァカンマン=比丘のみなさん。人物は当然、体・言葉・心で、今カンマである行為をします。比丘のみなさん。これを私は新しいカンマと呼びます」。目・耳・鼻・舌・体・心から伸びた物は何でも、それを新しいカンマと言うという意味です。

 私たちは目・耳・鼻・舌・体・心があるので、目・耳・鼻・舌・体・心の触があり、無明が関わると、無明から無明の威力下にある受が生じ、欲望が生じ、取が生じ、苦が生じます。

 このカンマは、取が生じた時に最高に完璧になります。どんな俺、俺の物という感覚があっても、それを、心の・体の・言葉の行動をしたと言うという意味です。新しいカンマは生まれたばかりで、そしてその後他のカンマを生じさせるために、話は終わります。

 このようなカンマの終わりは一時的で、カンマの種の消滅で再び生じないという意味ではありません。カンマが変わるだけです。私たちは目・耳・鼻・舌・体・心のカンマにいつも変えていて、新しいカンマは古い井戸、つまり目・耳・鼻・舌・体・心に常にあります。

 次にカンマニローダガーミニーパティパダー=カンマの消滅に至らせる道はどのようでしょうか。

 アヤメーヴァ アリヨー アッダンギコー マッゴー、セーッヤティーダン サムマーディッティ サムマーサンカッポー サムマーヴァーチャー サムマーカムマントー サムマーアーチヴォー サムマーヴァーヤーモー サムマーサティ サムマーサマーディ、アヤン ヴゥッチャティ ビッカヴェー カンマニロードー

=生き物をカンマの消滅に至らせる道は、素晴らしい八つがある道で、正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい仕業、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん! これを、カンマの消滅と言います。これがカンマの終わりです。

 そして「イティ コー ビッカヴェー デーシタン ヴォー マヤ- プラーナカンマン=比丘のみなさん。このような内容で、私はみなさんに古いカンマの説き、デーシタン ナヴァカンマン=みなさんに新しいカンマを説き、デーシタン マンマニロードー=私はみなさんにカンマの消滅を説き、デーシタン カンマニローダーミニーパティパダー=私はみなさんにカンマの消滅のための道を説きました」と諭された言葉があります。

 次に「それは木の根元! それは静寂な場所! みなさん。カンマの終わりのために努力をなさい」と言われました。

 そしてまだ特別に「これは私が知った話で、他人から聞いたのではありません」と言われました。このようなカンマの法則は、ブッダご自身が知り、誰かから学んだ話ではないと主張されました。
 
 このようなら、古いカンマ・新しいカンマは、私たちが聞いたことがある物と違うということです。私たちが聞いたことがあるのは、道徳のように話し、自分があるように話し、新しいカンマ、古いカンマが有を跨ぎ、生を跨ぎ、棺に入ってもついて来る、何かそのように、人々が話しているように話します。

 しかしブッダ式のイダパッチャヤターを基準に話せば、仏教の心臓部であるダンマの教えでは、この古いカンマは、常に待っている目・耳・鼻・舌・体・心です。次に無明がある方に移動すれば、それは新しいカンマ、体と言葉と心の行動であり、そしてここにあり、すぐ近くにあり、そして非常に多く些細に見えます。

  私たちは正しく身を立て、正しく自分を維持なければなりません。そうすれば、これらのカンマは生じることができず、(そのカンマは)私たちをどうこうできません。正しく身を立てるとは、中道、あるいは八正道、つまり八つの正しさがあることです。

 古いカンマ、新しいカンマについて説いている他の経があっても内容は同じで、ある経は「ナーヤン ビッカヴェー、カーヨー トゥムハーカン=比丘のみなさん。この体はみなさんの物でなく、ナーピ アンニェサン=この体は他の人たちの物でなく、プラーナミダン ビッカヴェー カンマン=比丘のみなさん。この体は古いカンマで、アビサンカタン=縁が変化させ、アビサンジェタジタン=縁が考えられるようにし、ヴェーダニヤン=縁が受を感じさせるようにした、ダッタッバン=みなさんが見るべき」と説いています。

 ここでブッダは「古いカンマはこの体で、この体は目・耳・鼻・舌・体・心の集まりで、これが古いカンマです」と指摘されています。この話は、先ほどの経と同じ相応部にあります。しかしこの経でブッダは「体、つまり古いカンマはあなたのものでなく、そして他の人のものでもありません」と、多少特別に話されています。

 この体を私の物と言えば、それは自分の自我があり、それは無明の話、常見の話です。そして他の人はいないので他の人の物でもありません。自分も、他人も、どちらもいません。さっき僧が十一項だけ読経した時、イダッパッチャヤターという名前が二十二回も出て来たように、あるのはイダッパッチャヤター、パティッチャサムッパータ(縁起)の流れだけだからです。

 イダッパッチャヤター。それが「あなた」とか「他人」と仮定されるものです。あなたの物ではない、他人の物ではないと言われているのは、それは自然にすぎません。つまりイダッパッチャヤターの流れはそのようになります。

 それは、無明が行を生じさせ、行が識を生じさせ、識が名形を生じさせ、名形が六処を生じさせ、六処が触を生じさせ、触が受を生じさせる等々というイダッパッチャヤターの法則で生じます。このようなのは聞いたことがあります。聞いたことがなければ簡単に探して読むことができます。それがイダッパッチャヤターの流れです。

 だから真実である深いレベルのカンマの教えで述べれば、カンマを作る人は誰もいない、そしてカンマの結果を味わう人も誰もいない、というような述べ方をします。良く聞いてください。すぐに聞いて分からなくなります。「カンマを作ることはあるがカンマを作る人はなく、カンマの結果を味わうことはあるが、カンマの結果を味わう人はいない」と話しています。あるのはイダッパッチャヤターの流れだけだからです。

 体と心、そして体と心がある物はイダッパッチャヤターの法則でするので、どの人物が作ったと言わず、A氏、B氏、C氏、D氏が作ったと言いません。しかし庶民のように言えば、その人この人が作った、女が、男が、A氏、B氏、C氏、D氏はカンマを作った人、カンマの結果を味わう人と言います。

 次に「誰がカンマを作るのか。誰がカンマの結果を味わう人か」と問う人がいれば、それは「いない」と答えます。続けて「それならカンマを作ることもなく、カンマの結果を味わうこともないだろう」と問うなら、「ある! カンマを作ることはあり、カンマの結果を味わうこともあるが、カンマを作る人物、カンマの結果を味わう人物はいない」と答えます。

 つまり人物と呼ぶものは本当にはなく、それは心身だけで、それが「それはカンマを作る人である私」と考えるだけです。まだ頑なにこのように迷っていればカンマを作り続け、カンマから脱すことはできません。邪見だからです。

 だから「私はカンマを作る人」という迷いをなくしてしまわなければなりません。そうすれば正しい見解になります。「人物がいない時はいつでも、あるのはイダッパッチャヤターだけ」と言います。みなさんがここに来た、いろんな場所からここに来たと話せば、来た人はいません。誰も来た人はなく、いるのは来たイダッパッチャヤターだけです。一時大笑いします。

 全員人でなく、イダッパッチャヤターの流れだけで、それが後押して来させました。身体と心などが来させました。来ることはありますが、来た人物は、このようにいません。

 事実関係の理解がこれほど深くなると、カンマの終わりの話の知識に導き、自分があってはならないので、カンマの行為はありません。自分があれば、カンマを作る行為が次々にあります。動物であり人物である部分はないと見なければならず、見る努力をしなければなりません。

 しかし私たちが自然に「私は動物、私は人物」と感じるのは、どうにもなりません。私たちは感じたように話さなければならず、他の人も同じです。だから貴様がいて俺がいて、競争で奪い合い、このような原因で喧嘩の縁起になります。

 さて次はブッダの時代、ブッダがご存命の時にも、ブッダはアナッター ルーパン アナッター、ヴェーダナー アナッター=形は自分ではなく、受は自分ではなく、想は自分でなく、行は自分でなく、識は自分でないと、ご自身でこのように教えました。

 ある比丘はいつでもこのように聞いていましたが、話し終わった途端に、最後に「私たちは、形は無我で、受は無我で、想は無我で、行は無我で、識は無我で五蘊は無我だが、無我が行動したカンマが、行動しない私に来た。行動しない自我に来た」という知識を得ました。あるいは知識が生じました。

 ね、複雑で、無我が行動したカンマが、カンマの所有者である自我に当たります。別々の場所で話し、それを聞いた時、全部無我で、無我がカンマを作ると聞きますが、カンマの結果が生じると痛みがあり、あるいはそれにとって、その自我にとって幸福や苦です。これが、このように理解が難しい話です。

 これは無我の話に関わる冗句です。無我は「無我」と聞いただけで、一方の自我は心の本当の感覚なので、カンマを作ること、あるいはカンマの結果を受け取ることに関わると冗句になります。人々は休まず自我があり、自我を捨てたがらないので、いつでも何かを握り占めていなければならないからです。

 私自身の経験では、執着しないよう、すべての物は執着できない物として手放してしまいなさいと教えると、話し終わった途端に「執着しないで、その後は何を掴むんですか。執着しなかったら、その後何を掴めと言うのですか」と質問する人がいました。

 まだこのようにまだ問題があります。何でもすべて手放しなさい。それで「え、それなら何を掴むんだよ」。これは、習慣になっている感覚で執着しようと考える心が、まだ残っているからです。

 執着はどのように生じ、どのように俺、お前と感じさせるか、それは全部無明であり、無明は本物ではないけれど、本当にそのような感覚を心に生じさせると知るまで、学んで明らかにしなければなりません。

 カンマの話は無我と呼ぶものまで関わってきます。カンマと呼ぶものは無我、あるいはイダッパッチャヤターの法則にすぎず、イダッパッチャヤターで経過します。しかし私たちはそのように感じないで、いつでも「私」の話と感じます。

 「これは、このすべては、この命はイダッパッチャヤターだけで、俺でなく俺の物でもない」と知るまで一生懸命頑張らなければなりません。まだ「俺、俺の物」ならカンマを作り、カンマの結果、善い結果・悪い結果を休まず受け取り、一時泣き、一時笑い、一時泣き、一時笑うことに堪えなければなりません。

 まだ自分があれば、自分は善いカンマ・悪いカンマで経過していると感じなければならず、そして銘々が善いカンマを探求し、悪いカンマを捨てなければなりません。しかし次に善いカンマに執着すれば善いカンマの重さがあり、善いカンマなりの憂慮があり、貪るのも善の貪りで、怒りも善の怒りで、何もかも善のようで、飽きるまで善人の苦があります。

 飽きれば真実の類のカンマを探し、つまりカンマを終わらせます。だから生まれた時から今まで、カンマの終わり、あるいはカンマの上にいる話の手掛かりがなく、まだ善を欲しがり、際限なく善を欲しがり、切りもなく善のものを作りたがり、そして気づかない苦があります。

 だからこのダンマには苦にならない利益があり、少なくとも執着してはいけない、あるいはあまり執着してはいけない、取り敢えず依存して、執着しないという項目でブッダを信じ、いつか自分自身で、この命にも執着してはいけないと見えるまで、時間を引き延ばします。

 この命も、あるいは命に係わる物も、執着すべきではありません。執着すればいつでも、途端に苦になるからです。執着すればその途端に苦になると述べたカンマの法則になります。目の触があって執着が生じれば目の苦があり、耳の触があって執着が生じれば、耳の苦があり、苦が生じるイダッパッチャヤターの法則でどの処も苦になります。

 次に仮に、運良く智慧があって観察を知っていれば、間もなく「そうだ! 執着しないでいられれば、その方が良い」と知ります。だからこの世界に執着しないで、この世界で暮らす方が良いです。何も食べる物がない訳でなく、何も使う物がない訳でなく、きっと今までどおり何でもすることはできますが、苦ではありません。

 苦になるためにお金を持つのではなく、苦になるために名誉名声があるのではないので、財産、名誉名声、お金や物に正しく良く対処しなければなりません。つまり執着しません。そうすればカンマは生じません。執着がないので、どんな種類の意業も生じないからです。

 執着すればすぐに盗もうと考え、これは最高に悪いです。あるいは執着すれば正当に手に入れても心配があり、あるいは身勝手が酷くなり、このように苦です。

 執着しない話の教育は、カンマにならないため、カンマに抑圧させないため、あるいは私たちに噛みつかせないためで、「カンマの終わりについて知っている」「カンマを終わりにするカンマを知っている」と言います。これがまとめの言葉です。

 みなさん、それは三つのカンマがあると知っておいてください。もう一度まとめて話すと、三つのカンマ、悪いカンマ、善いカンマ、そして悪でも善でもないカンマがあります。

 簡単に憶えれば、①悪いカンマ、②善いカンマ、③善悪より上のカンマと憶えなければなりません。悪いカンマ、善いカンマは道徳レベルのカンマです。悪くも善くもないカンマは善悪より上にある真実のレベルのカンマで、執着しない法則で経過するカンマです。

 すべてのカンマはイダッパッチャヤターに関わり、無明から始まるイダッパッチャヤターは人物に噛みついて苦にするカンマです。しかし明から始まるイダッパッチャヤターは無明が生じるのを放置しません。知性があり、八正道があり、七覚支などがあるので、善悪より上のカンマになり、善いカンマ・悪いカンマが静まって威力をなくすからです。

 今善いカンマ・悪いカンマは威力があって私たちに噛みつき、寝ても覚めても抑圧します。「幸福がある」と言うのは、そう言って自分を騙すことで、そのように言い訳をします。お金がたくさんあり、名誉がたくさんあり、名声がたくさんあって非常に幸福だと自慢するのは無明の幸福で、全部欺瞞です。そして最高に重要なのは自己欺瞞です。

 本当の幸福はお金があること、あるいはお金がないこと、あるいは何かそのようなことでなく、執着しないこと次第で、私たちには、善悪より上、幸福より上、苦より上、勝利より上、負けより上、得より上、損より上、何より上の三番目のカンマがあります。このカンマを善悪より上のカンマと呼ぶこともできますが、本当はカンマの終わりで、それはカンマの法則で経過します。

 無明があれば、つまり普通の人は無明があり、善いカンマ、悪いカンマの威力下にあるので、悪のカンマを避け、十分善いカンマを作る努力をし、先ず、それを良く知るまで自分を手放さなければならないとまとめることができます。

 次は明(ヴィッジャー)になり、もう堪らない、善悪は堪らない、一時膨らみ、一時しぼみ、一時膨らみ、一時しぼむようでない方が良いと見ます。そのようでないと言うのは、どのようと言うより難しいです。そのようでないのが、どのようと言うより難しいのは、それはどのようでもなく、それは縁によって何かに加工されず、どのようと規定できないからです。

 一種類しかありませんが、カンマの威力で経過せず、煩悩欲望で経過せず、無明は止まり、静まって、清潔・明るさ・静かさがあります。まとめればそれは止まり、あるいは冷えます。これをカンマの終わりに至った、あるいはカンマの上に至ったと言います。

 カンマより上にいたい、カンマを終わらせたいなら、カンマの上にいさせる類のカンマを作らなければなりません。善悪を塗り重ねるカンマを作ってはいけません。それには終わりはありません。そして八正道を歩くために、方向転換をしてブッダを訪ねなければなりません。つまり人々が「サッベカンマッカヤン パットー=すべてのカンマの終わりに至った」とブッダを称賛したような、すべてのカンマを終わらせる種類のカンマを作ります。

 カンマは三種類あり、ブッダのように呼べば「黒いカンマ、白いカンマ、黒くも白くもないカンマ」です。すぐに意味が分からなくなるので、悪いカンマ、善いカンマ、そして悪でも善でもない、つまり善悪より上のカンマと、このようにあると言い直します。

 人間を苦にする人間に関係するカンマは、無明(アヴィッジャー)と関わっています。すべのカンマを終わらせるカンマは明(ヴィッジャー)に関わっています。明は無明と正反対です。次に悪善のカンマは無明と関わり、それは自分がなければならず、自分を背負い、担ぐ話です。善悪より上のカンマなら無明はなく、あるのは明だけなので自分という感覚がなく、何も担ぐ必要がないので快適です。

 自分はただの幻ですが、山より重いです。これはイメージで喩えて話しています。自分と呼ぶものは当てにならない物で、無明の愚かさですが、それは山より、あるいは地球全体より重いので苦になり、「重荷を背負う」あるいは「重荷を運ぶ」と言います。

 カンマを終わらせたい人間の話はこのようにあり、その人間がカンマで経過することに飽き、そして終わらせたくなった時、智者を訪ねます。この話を良く知っている人は、最初に知った人、あるいは本当に知る人であるブッダがいます。どのブッダもカンマを超える話を教え、カンマの終わりを教え、苦の終わりを教えました。

 仏教の教えのこの部分を、カンマの話、カンマの法則の話と言います。カンマが終われば苦は終わります! 中道を歩くと言うこともでき、もう一つの名前、七覚支でも良いです。

 話して来たような概略を憶えて、持ち帰って自分で詳細に学習し、更に理解し、黒いカンマ、白いカンマ、黒くも白くもないカンマを知ってください。そうすればカンマの話は終わります。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。
 


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