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カンマの法則・カンマ・カンマの終わりである
イダッパッチャヤター


1972年3月11日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。イダッパッチャヤターの話の第十一回目の講義は、予定表で良くご存知のように、カンマの法則であり、カンマであり、カンマの終わりであるイダッパッチャヤターと題してお話します。

 誰が煩がるのも恐れず毎回復習をさせていただくことについては、この話の講義の目的の大部分は、イダッパッチャヤター(縁生。因果)という言葉を、この言葉の重要性にふさわしく、日常的に話さなければならない仏教の心臓部である物にふさわしく、仏教教団員が日常的に使う言葉にすると言います。

 だから人間の日常の話は、イダッパッチャヤター(因果)の法則で経過するいろんな行動であり、私たちが何を考えても、何を話しても、何をしても、それはイダッパッチャヤターの法則で経過します。あるいはその行動を見ると、それはイダッパッチャヤターです。しかしこの角度で見ることに関心がなく、そして真実と一致するよう正しく話しません。これが、この言葉を日常的に使う言葉にしたい目的の一つです。

 もう一つ、この話の講義を明かに理解している物にするには、日常生活に生じる問題解決に間に合うように使える教えにするため、そしてこの教えは本当に何の問題でも解決できると言うに相応しく、何でも解決するためです。

 これが、私が努力して講義する目的です。そしてすべての仏教教団員がイダッパッチャヤターの話に明るさがあるようすること、そしてこの教えを使って日常生活の問題を解決する仏教の目的、あるいはブッダの目的と見ています。どんなに長くても、この目的を実現するために、私はこれから努力しなければなりません。

 次に、今日の講義の主題は、みなさんもカンマの話の講義と見ていますが、カンマの法則、そしてカンマ、そしてカンマッカヤつまりカンマの終わりの三つに分かれています。三つの話、三つの項目ですが、それは一つの話です。カンマに関わることばかりなので、カンマの話です。

 カンマの話は誤解している話で、今仏教教団員も、仏教教団員でない人、西洋人のように仏教を学習している人も非常に誤解しています。一般に仏教のカンマの話を真実と違う理解をし、カンマの話全般、他の宗教の話を仏教のカンマの話にします。つまり善行は善、悪行は悪、それで終わりです。これしか話さなければ仏教のカンマの話ではありません。

 仏教のカンマの話は、カンマを終わらせるカンマについて話さなければなりません。良いカンマでも悪いカンマでも、それを終わらせてしまうカンマがあります。善いカンマも悪いカンマも、悪いカンマの威力にならなくて良いように、善いカンマの威力で経過しなくても良いように、どの種類のカンマの威力も消してしまって、カンマで循環しなければ涅槃と言います。これがカンマッカヤ、あるいはカンマッカヨー、カンマの終わりです。

 カンマを終わらせてしまう行動も、もう一種類のカンマです。関心をもったことがなく、話したことがなく、カンマと呼ばない人もいます。だから私は、これからこの話について詳しく熟慮しなければなりません。

 カンマの法則と言うのはカンマに関わるいろんな法則で、自然が規定した不変の法則もあり、教祖や誰かが規定したのもあります。カンマの話は、サンマーサンブッダによって仏教だけで規定していると理解しないでください。

 本当は、他の人たちにもカンマの話の規定はありますが、サンマーサンブッダが規定されたのには及ばず、あるいは同じではありません。それでもブッダはそれらの人をカンマヴァーディーと、つまり完璧でなくても「カンマの話を教える教祖」と承認されています。

 完璧でないのは、カンマの終わりまで全部教えていない点です。彼らが教えるのは、善いカンマによって善くなることだけで、その善いカンマに執着します。こういうのはカンマの終わりでなく、仏教の教えの完全な滅苦ではありません。

 というのは、通常私たちは、当然常見である感覚があり、自分の望みどおりに永遠不変の自分がある点に大きな問題があります。これは誰でもそうです。普通は「私、俺、俺の物」と感じます。だから俺の利益のためになる物は何でも、それに特別の関心があり、善い、あるいは善いカンマは良い結果を得る、出世するとか何か話せば興味を持ちます。

 しかし全部止めてしまい、何もいらないと話せば興味がなくなり、受け入れようとしません。まだ自分があり、まだ何かを手に入れたいからです。

 これはカンマの話が最後まで行かずに、人間が規定したように、あるいは常見である感覚で感じるように、自分がある道徳レベルのカンマの話で停滞している原因です。

 自然のカンマの話は「善いカンマも、悪いカンマも人を困窮させるだけ。悪のカンマは悪い困窮、善いカンマは善い困窮をさせる」というほど深いです。カンマの威力に陥っていれば困窮しなければなりません。つまりそのカンマの圧迫によって循環しなければならず、カンマより上にいることはできません。

 ここで「カンマより上」と言うのは、カンマの終わりです。このような善いカンマ、悪いカンマの二種類は自由でなくします。善悪より上のもう一種類のカンマがなければなりません。そうすれば人は自由になれます。善悪の上にいさせるカンマは高いレベルのカンマで、常見、あるいは自分があると言う我語取を抜いてしまいます。

 だから一般庶民のカンマは道徳レベルのカンマ、その人を安心させるため、あるいは社会を幸福にし、加害しないようにする道徳の話です。真実のレベル、あるいは第一義諦のカンマの話はそのように望みません。完全にカンマより上にいること、喜びや悲しみを感じない、あるいはその後は幸福や苦を感じない心があるよう望みます。

 だから、私たちがカンマの話を学ぶなら、正しく、全部揃えて、そして最高に明らかにします。みなさんはカンマを分類しなければならないと、あるいはカンマに関わる話を二種類に分類しなければならないと、ハッキリ見なければなりません。つまり道徳の教えで経過するカンマが一つ、真実の教えで経過するカンマが一つです。

 道徳の話は真実ではないの?と、内心で反論する人がいるかも知れません。道徳の話は世界を基準にし、世界の人の感覚、あるいは社会の人、世界の人全員の願望を基準にしていると、詳しく見てください。

 誰でも「自分がある」という感覚があるので、道徳の話はまだ自分と関わっています。自分と関わっていればまだ真実と言いません。それが真実なのは仮定でだけで、本当の真実ではありません。自分に関わらなくなった時、つまり自分と執着するべき何もない自然でこのようになってしまえば、真実と言うことができます。

 カンマの話には、道徳の種類と真実の種類があります。このように見なければ一緒くたに見て、何が何か分からないので、途端に問題を生じさせます。理解できないからです。一人はある角度で見て、もう一人は別の角度で見るので、生じる結果は論争です。

 偶々一人は道徳の角度で見ますが、もう一人はパラマッタム(第一義諦)の角度で見ると、喧嘩になるほど論争しなければならない話になることもあります。これは、カンマの話の理解が一致しないことから生じる、一つの結果です。

 カンマの話を、二種類とも正しく理解しなければ、実践も当然正しくありません。歪んで混同し、一時は掴み、一時は掴みません。自分が欲しくない時は「自分はない」と言い、自分が欲しくなると「自分はある」と言います。何かが気に入っている時はそのように言い、ほとんどは本当の心の中で、自分はあると感じ、休まず善いカンマの結果を受け取ることを渇望しています。

 こういうのは滅苦、あるいは完全に自分を消滅させるために実践する望みはありません。カンマで循環するのを嫌うまで、あるいは倦怠するまでカンマの話を理解しないので、上等なカンマ、善いカンマで循環したいと望んでいます。しかし口では執着しない、あるいはカンマで経過したくないと言います。

 だからほとんどの仏教教団員は、頭は王冠で後ろは竜のように不釣り合いなってしまいます。こういうのを、口と心が一致しないと言います。見解や考えも内面で矛盾し、一時そのよう、一時このようで、終わりがありません。

 だからカンマの話は二種類揃って知らなければなりません。どのように、あるいはどれだけ実践するかは、サティの力次第です。しかしこの段階では、カンマと呼ぶ物を全部揃って正しく知らなければなりません。そうすればカンマとカンマカヤ、つまりカンマとカンマの終わりが同時にあると言います。

 カンマの話を理解するには、文字、綴りで熟慮することに時間を掛けるべきです。パーリ語の文字面で確かでも、タイ語では確かではありません。たとえばキリヤーという言葉は行動という意味で、カンマという言葉も行動という意味ですが、カンマとキリヤーは同じではありません。

 タイ人は全部行動と呼んでしまい、キリヤーは行動という意味で、カンマも行動なので、知らないうちに誤解します。キリヤーは行動で正しいですが、根源に無明がある意図のない行動です。カンマと言えば根源に無明がある意図による行動を意味しなければなりません。だからキリヤーと呼ぶ物とカンマと呼ぶ物は全然違います。

 その結果の名前も違います。キリヤーの結果はパティキリヤー(反作用)としか呼べず、アバヤーカタ、つまり善とも悪とも言えない状態があります。しかしカンマの結果はヴィパーカ(報い)と言い、善と悪とアバヤーカタの状態があります。

 それ自体も違い、その結果も違い、名前も違います。しかしタイ語では特定せず、ハッキリせず、ぴったりせず、ブカブカで、カンマは行動、キリヤーも行動なので、この話を理解し難くします。

 だからカンマと呼べば意図がある行動を意味しなければなりません。その意図は無明の愚かさで善に迷い、悪に迷い、徳に迷い、罪に迷い、幸福に迷い、苦に迷い、何に迷っても自由ですが、すべては迷いの話です。そしてこの迷いは、そのカンマを作る意図の原因です。それをカンマと呼びます。キリヤーの話なら動きだけで、意図はありません。心の中に思考はあっても、動きは煩悩から生じた意図がない動きです。

 歩いて行ったり来たりし、水浴をし、ご飯を食べるのもほとんどは何かの煩悩から生じた意図がない動きであるように、それはカンマではありません。顔を洗い、歯を磨き、何でもできますがカンマではありません。

 風が吹くように、あるいは木の枝が折れて落ちるように、あるいはそのような何かのように意図がないので、それはただのキリヤー(行動、動作)です。すべては歩き回ったり、水浴をしたり、顔を洗ったり、歯を磨いたりするのと同じキリヤーばかりです。

 だから私が今話しているのはカンマとカンマの結果の話で、キリヤーの話ではないと理解してください。

 これはあらかじめ文字、あるいは綴りで理解することが、カンマという言葉を「意図がカンマを作らせる原因で、意図は煩悩」と教えます。だから煩悩はカンマを作らせる原因と言うことができます。カンマを作れば、当然報いと呼ぶカンマの結果があります。報いを受け取れば、新しいカンマを作るためにその後何らかの煩悩を生じさせます。

 カンマの循環は煩悩とカンマ、そして報いです。煩悩→カンマ→報い、煩悩→カンマ→報いと、正しい方法で、ブッダが教えておかれた教えでそれが終われるまでこのようです。

 次にブッダについて話せば、ブッダは「アハムピ ビッカヴェー エータラヒ オラハン サムムアサムブッドー カンマヴァードー キリヤヴァードー ヴィリカヴァードー マムピ ビッカヴェー マッカリー モッガプリソー パヴィバーハティ」と言われ、ました。

 「比丘のみなさん! 今私は阿羅漢サンマーサンブッダでも、まだ生きているカンマヴァードー、キリヤヴァードー、ヴィリヤヴァードーです。比丘のみなさん! しかし無益の人マッカリ(ゴーサラ)は、当然私に反論します」という要旨です。

 ブッダはご自身をカンマヴァードーと言われ、一般にはカンマヴァーディーと言いますが、カンマヴァーディーは「カンマの行動があると述べる人」です。

 しかしカンマの行動をする人物がいるとは言いません。ブッダ式のカンマの話を教えるには、カンマである行動があり、その行動は願望、あるいは煩悩の威力で経過し、心に煩悩があれば、それはカンマを作る原因で、カンマを作ります。これを「行動する人がなくてもカンマはある」と言います。

 深遠で偉大な真実はこのようです。しかし庶民は「カンマの行動はあるが、行動する人はいない。そしてブッダはカンマヴァーディー、カンマの話を教える人」と理解できません。

 これはカンマの話に関わるすべてを教える人という意味で、カンマはどのようか、カンマは何から生じるか、カンマはどのように終わるか、あるいは消滅するか、そしてカンマの消滅に至る道は何か。このように全部揃っていなければなりません。そうすればブッダ式のカンマヴァーディーと呼びます。

 しかし同時代のライバルである教祖、マッカリゴーサラは「話すだけ無駄だ。カンマはない。誰が善、あるいは悪と呼ぶ何をしても、それは行動しないのと同じだ」と、正反対の教理を述べました。これは最極端の、極めて誤った見解です。これはアカンマヴァーディーである人たちです。

 ブッダはカンマヴァーディーで、「カンマはある。行動はカンマである」と言い、もう一部の人たちは「カンマはない。どんな行動があっても、どんな意図ででも、カンマではない」と言います。この人たちはアカンマヴァーディーです。

 「如行はキリヤヴァーディーです」と言われたのは、そのキリヤー、あるいはその行動は、当然行動であり、行為ということで、その行為を解決できる行為があるという意味です。

 反対の人たちをアキリヤヴァーディーと呼び、行為と見なしません。誰がどのような行動をしても行為でなく、「何かを考えてはいけない。幸福か苦か、あるいはすべての動物は神様、あるいは偉大な人の威力で経過するので、私たちは解決できない。私たちが何かをしてもしないのと同じ価値しかない」と信じる人たちです。このように述べる人たちはアキリヤヴァーディーは、何をしても行為ではないと言います。

 しかしブッダは、如行はキリヤヴァーディーで、行動した行為は行為であると、つまり結果があると言われています。木が枝を折って落としても、それは何かを何らかの成り行きにします。私たちがどんな状態の行動をしても、意図があってもなくても、何らかの結果がなければなりません。

 「行為はない。行為の結果もない」と言うことはできません。だからすべての行為は行為であり、そして行動する人なしに結果があります。つまりそれはイダッパッチャヤターの流れにすぎません。

 原因である煩悩が強制してさせ、あるいは行為を生じさせれば、結果を生じさせる法則があります。このような状態を全部イダッパッチャヤターと呼びます。これがあれば、これが縁で、これが生じるからです。このように見えれば、行為する人物はいないと見えます。

 これは「行為はあり、あり得る。あるいはそう経過して来たが、行動した人物はない。あるのはイダッパッチャヤターだけ」と、しっかり記憶しなければならい重要な教えです。

 名があり、形があり、無明、欲望、取などの煩悩があり、心をそのように、このように欲しがらせ、そして体と言葉のそのような行為をさせる、そういうのは自然のイダッパッチャヤターの法則で経過します。だからすることができ、そしてし終わり、そして行為する人は必要なく、行為の結果を受け取ります。

 しかし一般の人は、いつでも行為者である「俺」がいます。「俺の物」を受け取ったと感じるので、無知、あるいは無明があるカンマの話になります。行為者である自分がいる。行為者である俺がいる。こういうのを無明のカンマと言い、道徳面だけの経過になります。

 行為者が必要ないカンマなら、全部イダッパッチャヤターと感じるほど深遠に高く感じるという意味で、それはパラマッタダンマ(第一義諦)のカンマの話です。ブッダのカンマヴァーディー、あるいはキリヤヴァーディーはこのようです。

 ブッダは「如行はヴィリヤヴァーディー」、つまりヴィリヤはあると述べる人ですと言われました。ヴィリヤとは精進、奮闘、努力です。他の教理の中には「ヴィリヤという物はない。誰がどのように奮闘努力をしても、望みどおりに生じるどんな結果もない。神様などの方が上で、あるいは霊や鬼・妖怪、彼らが上と信じる何でも、いつでもそれらの方が上だから。そして人の精進、努力奮闘も意味はない」と教える教理もあります。

 中には「自分が作っておいた古いカンマが不動の結果を与える。私たちはその時抵抗も解決できないので、何の利益もなく、徒労だ」という人がいます。こういうのをアヴィリヤヴァーディーと言います。つまり精進はない、あるいは結果はないと信じます。

 しかしブッダはヴィリヤヴァーディーで、ヴィリヤ、つまり精進努力、奮闘は結果があり、自分が望まない物を解決することに使える結果があると教えました。例えは罪や悪いカンマが追って来たら、精進、努力、奮闘を使って善行をする努力をします。あるいはそれ以上にカンマを終わらせる努力をし、述べた様に「自分はない。行為者はいない」というまで、明らかな知識があるようにします。

 人が聖向聖果涅槃に到達するのは、ヴィリヤ(精進)と呼ぶ物があるからです。カンマ、あるいはカンマの法則があっても、人に努力がなければ結果がないという意味です。だからヴィリヤと呼ぶ物は、カンマと同じだけ重要です。

 ブッダはヴィリヤヴァーディーで、ブッダに抵抗した人たちはアヴィリヤヴァーディーです。

 サンマーサンブッダの弟子である人は、この項目をブッダは、あるいは仏教はカンマヴァーディーであり、キリヤヴァーディーであり、ヴィリヤヴァーディーである規定があり、三つのヴァーディーはカンマを信じる人、行為はいろんな物を解決できる結果があると信じる人、そして努力は結果があると信じる人と知るべきです。

 しかし三つともカンマという一語でできています。カンマヴァーディーはカンマで、キリヤヴァーディーもカンマの話ですが、解決部分を増やすだけです。ヴィリヤヴァーディーはカンマを作る精進、奮闘努力があるので、そのカンマの話には述べたようなカンマヴァーディー、キリヤヴァーディー、ヴィリヤヴァーディーである正しいカンマの法則があるという意味です。

 人が、ブッダが教えたようなカンマの話を知っていれば、あるのはイダッパッチャヤターだけと知ります。つまり因であり縁である物が加工して繋がっているだけで、行為者、あるいはカンマの結果を味わう人である人物はいないと知ります。すべてはルーパナームの感覚、つまり煩悩と呼ぶ物の加工によって経過するだけです。こういうのを、カンマを終わらせることができる人と言います。

 カンマの終わりの話は一つの重要性があります。ブッダはカンマを終わらせることができた人で、「ゴータマサマナが卓絶しているのは、すべてのカンマを終わらせたことにある」と、広く知れ渡っています。

 スッタニパータのパーラーヤナヴァッガに次のような話があります。どの部類かはともかく、天人たちがブッダの美徳を称賛しに行き、ゴーダーヴァーリー川の所にある館のバーヴァリーバラモンという館長が、ザッバカンマッカヤン パットー=すべてのカンマの終わりに至った人という部分がある、ブッダの徳を称賛する言葉を聞きました。

 このたった一つの言葉で、バーヴァリーバラモンはブッダに非常に関心を持ち、問題を質問させるために十六人の弟子を遣わし、いろんな話を全部質問させました。ソーラサパンハーという話が生まれたのは「ゴータマサマナはすべてのカンマの終わりに至った人」という一語からです。


 それです。知性の高い人は誰でも、このようにカンマの終わりに関心があり、だからブッダに関心があると理解してください。カンマしか知らず、そしてカンマで経過すれば、こういうのは誰も尊敬しないので、カンマを終わりにできなければなりません。つまりカンマの威力より上にいなければなりません。そうすれば完全な滅苦ができ、輪廻しません。

 だから「カンマの終わり」という言葉に正しい関心をもってください。そしてカンマの終わりの話は、パラマッタ(第一義諦)レベル、あるいは真実であるカンマの話です。

 カンマの終わりについて話さなければ、カンマの話は道徳の話、子供の話、あるいはまだ甘い物、美味しい物が食べたい普通の庶民の話なので、道徳レベルのカンマの話と言います。しかしカンマの終わりの功徳を理解すれば、すべてのカンマの終わりになるカンマを目指します。それがブッダの本当の教えです。カンマの終わりはニローダ(滅)、つまりカンマの消滅の状態のイダッパッチャヤターの話です。

 だからカンマと呼ぶ物を、初めに道徳レベルのカンマが一つ、真実あるいはパラマッタダンマ(第一義諦)レベルのカンマが一つと、述べたように二種類に分けなければなりません。道徳レベルのカンマは休まず自分があり、カンマの終わりを知りません。

 パラマッタダンマレベルのカンマは自分がなくなります。自分がなくなればカンマも終わります。短く憶えやすい言葉で憶えるなら「自分があればカンマがあり、自分がなければカンマは終わる」と言います。

 カンマの終わりの話は、自分、自分の物と執着しない話なので、忘れないように「自分があればカンマがあり、自分がなければカンマは終わる」と短い言葉を憶えるべきです。カンマを終わらせたくない人は、自分を持ってください。だから私は、カンマがある話と、カンマが終わる話の二つのカンマの話をします。

 カンマがある話は道徳の部類のカンマの話で、生起側のイダッパッチャヤターの法則になります。自分が終わり、カンマが終わる話をすれば、滅側のイダッパッチャヤターの話です。

 イダッパッチャヤターは二つの側があり、生じる側を生起側、消滅する側を滅側と言います。初めのカンマは生起になり、二番目のカンマは滅になり、正反対のように違います。自分があればカンマがあり、自分が終わればカンマも終わります。

 カンマの話は隠れた縁起の話で、カンマの話は縁起の流れ、あるいは縁起の中に隠れています。私が、内面に苦が生じる話である縁起の話をしても、それは生起側のカンマの話で、その中に隠れているカンマで経過します。しかし滅の側の縁起について話せば、自分の消滅と、その流れの中に隠れているカンマの消滅があります。

 ここまで話したら、カンマの話が二種類あれば縁起の話も二種類なければならない、あるいはカンマの話が二種類あればイダッパッチャヤターの話も二種類なければならない、あるいはイダッパッチャヤターの話が二種類あればカンマの話も二種類なければならないと例えたいと思います。

 生起側のイダッパッチャヤターは輪廻するカンマで、滅の側のイダッパッチャヤターは終わりにするカンマです。

 だから縁起の話を二種類する人がいます。一部の人は生(世)を跨ぐ話である縁起の説明をします。前世について、現世について、来世についてという意味で、これも自分がある人たちの縁起で、道徳式のカンマの話です。

 次にもう一部の人は一瞬の心でしかない縁起の説明をします。生(世)を跨ぐ必要はありません。生という言葉の意味は、心に一回俺が生じると一生と言い、一日に何回も、何十回もあると言う意味にします。このような縁起は生を跨がないカンマの話の説明をします。このような縁起は生を跨ぐ必要がないので、現世で、生きているうちにカンマの終わりを現わすことができるからです。

 だから縁起の話とカンマの話は同じ話です。あるいは同調できます。二種類教えているのは、生を跨ぐのもあり、生を跨ないのもあるので、二つとも知っておかなければなりません。

 ローギヤ(世俗)の話、あるいは道徳の話に夢中にさせるカンマもあり、世界の上、カンマの上に行かせる、真実の話であるカンマもあります。

 今日私は二つの話をします。それはちょっと多すぎるかも知れませんが、一度に全部聞いてしまうべきです。自分がある三生(三世)に跨る縁起の流れのカンマは、「善いカンマを作れば良い結果を受け取り、悪いカンマを作れば悪い結果を受け取り、善いカンマを作れば天国へ行き、悪いカンマを作れば地獄へ行く」と、子供でも簡単に知って理解できるカンマです。

 あるいは今苦であるのは、苦を受け取らなければならないのは、前世で作っておいた悪いカンマのせい。あるいは今とても幸運なのは、前世で自分が作っておいた徳があるから。こういうのも一つで、道徳レベルの状態のカンマと言います。世俗の話で、世界の上でなく、世界の中で関わり合います。しかしそれより高い話はサッチャダンマ(真実)レベルのカンマと言い、世界の上に行かせます。

 さて次は、道徳の類のカンマの話、世界の中にいる話を先にします。良く規定して一緒くたにしないでください。聞いて意味が分からなくなります。私は今、世俗の領域である道徳レベルのカンマの話をして、損失の流れを終わらせてしまうと言います。

 カンマは二つの話、二つの種類があり、一つは自分がある人の物で、まだ常見である感覚があり、自分があり、カンマで輪廻しなければならないと憶えておいてください。これが最初の一つで、先に話してしまいます。しかし世界より上というカンマにも、カンマでも、順に並べれば関わりがあります。

 カンマの話は大きな原則、大きな種類で話せば、増支部ティカニパータのパーリ(ブッダの言葉である経)で、大勢の比丘に対してブッダが「カンマには三種類あり、一番目はカーマダートゥヴェパッカカンマと言い、カーマダートゥ(欲界)になる報いがあるカンマ、カーマダートゥにする結果があるカンマです。

 二番目はルーパダートゥヴェパッカンマ=ルーパダートゥ(形界)である報いがあるカンマで、三番目はアルーパダートゥヴェパッカンマ=アルーパダートゥ(無形界)である報いがあるカンマです」と言われたと述べています。

 簡単に短くまとめれば、カーマバヴァ(欲有)に輪廻させる結果を受け取らせるカンマが一つ、ルーパヴバヴァ(形有)へ輪廻させる結果を受けらせるカンマが一つ、アルーパバヴァ(無形有)へ輪廻させる結果を受け取らせるカンマが一つで、三種類です。

 しかしニローダダートゥへ輪廻する、つまり涅槃へ行くと言いません。だからそれは、世界、あるいは世俗を輪廻しなければならないカンマということです。カーマローカ(欲界)、ルーパローカ(形界)、アルーパローカ(無形界)の三つの世界は世界で、世界に関わっている物をローキヤと言います。

 だから三種類のカンマは世界のカンマで、世界の人の物で、世界で経過すると言います。そのようにすれば生まれさせる結果があります。あるいは欲界の愛欲である結果を味わいます。そのようにすれば形界で形である結果を味わい、三番目の無形界で無形である結果を味わいます。

 一部の人は「これらの結果は他の世界にあり、この世界ではない。そして死んだら行くだけ」と信じています。そのように考えれば死ぬ時でなければなりません。カーマローカ(欲界)も死んだ時、いろんなレベルの天国もカーマローカと呼び、行くのは死んだ時で、アルーパローカ(無形界)、形のないブラフマローカ(梵天界)はもっと死んだ時になり、もっと遠くなり、死んだ時の話ばかりになります。

 もう一部の人たちはそのように説明しません。作ると快適に感じさせるカンマは、欲情面の成り行きになり、これをカーマダートゥ(欲界)、あるいは今ここでのカーマローカ(欲界)と呼ぶと、心を基準に説明し、欲情面の美味しい結果を受け取ればカーマローカ、あるいはカーマダートゥと呼びます。

 次に感情である純粋な形がある静寂な結果を受け取ればルーパローカ(形界)、あるいはルーパダートゥ(形界)と呼びます。愛欲に関わらない幸福である結果があっても、それが欲情に関わらない、純粋な、物質に関わらない心の感覚である無形が促進させるなら、こういうのをアルーパローカ(無形界)、あるいはアルーパダートゥ(無形界)と呼びます。

 欲情の話を作って結果を受け取る人もあります。ある人は時々、あるいは同じ人が時々、愛欲に関わらない満足できる結果を受け取ることもあります。心が空だけの結果を受け取る人もあり、静寂で快適で、何も妨害する物がない空の心で暮らします。それも幸福です。

 これです。この三種類のカンマは、受け取る結果で分けると、愛欲も形も無形も、イダッパッチャヤターがあります。

 このように分けるのは、、欲界・形界・無形界の三つの世界しかないので、すべての世界をまとめるためです。欲界動物である天人、人間である動物も、苦界の動物も、これらは欲界の動物で欲界である結果を味わいます。次に形梵天たちは形界で、無形梵天たちは無形界です。

 まだ非常に遠く、遠すぎるので、死んでどこへ行くかもまだ知らないのでそのように話したくなければ、今ここの話にして、「欲情面の感覚で濡れていて、心が快適なら、それはカーマダートゥ(欲界)で、純潔清浄でもまだ形に依存しなければならないならルーパダートゥ(形界)と言い、愛欲に依存せず、何も形に依存しなければアルーパダートゥ(無形界)と言う」と言います。

 徳や善を積むこともたくさんあり、布施があり、持戒があり、慈悲の念に励むことがあります。その人の意図次第で、正しくすればしたようになります。だから布施をし、持戒をし、慈悲に励む人の中にも、愛欲のための人も、形界で静かに暮らすための人も、遠く無形界に行くための人もいますが、すべては現世で行為して現世で結果を受け取ります。

 ブッダはカンマの話を、このような三種類に分類されていると憶えておいてください。カーマダートゥヴェパッカンマ=欲界である報いがあるカンマ、ルーパダートゥヴェパッカンマ=形界である報いがあるカンマ、アルーパダートゥヴェパッカンマ=無形界である報いがあるカンマ、これが一つの部類です。憶えておいて後で考えれば、本当にこれしかないと見えます。

 次に別のカンマの分類法があります。一般庶民の話なら二種類に分けるべきで、善いカンマ悪いカンマ、これで十分です。ブッダは息子であるラーフラと「カンマを見る眼鏡を知っていますか。それは何と言いますか」と、そのような会話をなさり、最後に「カンマはどのようかを見る眼鏡は、善のカンマと不善のカンマの二種類」と言われています。

 善のカンマを眼鏡を通して見れば、自分を苦しめず、他人を苦しめず、自分と他人を苦しめないのが見えます。これを善のカンマと言います。ブッダは「自分を苦しめず、他人を苦しめず、自分と他人のどちらも苦しめない」とハッキリ言われています。

 悪のカンマを眼鏡を通して見れば、自分を苦しめ、他人も苦しめ、自分と他人の両方を苦しめるのが見えます。これは憶えやすいです。自分を苦しめるのは誰にも関わらなくとも、自分自身が困窮します。次に他人を苦しめるのは、他人を困窮に巻き込み、もっと酷いのは同時に両方を苦しめます。

 これを「カンマを見る眼鏡」と言います。誰でもこの眼鏡を使って、どの瞬間も自分のカンマを、毎日の行動や動きは何種類もあり、それらは善か、あるいは悪か、このように眼鏡を通して見るべきです。このように見れば見れば極めて良いと言います。

 誰も困窮させなくても、自分を困窮させれば悪(不善)と言います。広く緩く考えないでください。それがどこにあるのか分からなくなります。自分自身を不要に困窮させれば、愚かであり悪であると言わざるを得ません。その上他人を困窮させ、同時に双方を困窮させれば、もっと愚かで、更に大きな悪です。

 これを、カンマと呼ぶ物を善と悪に分け、まだカンマが終るカンマに関わっていないと言います。


 次に結果を出す状態で分けたカンマの話をすると、彼らはカンマを十二種類並べ、ナックタム(比丘の試験)二級の課程にあります。ナックタム二級を学んだ人は知っているので詳しく調べて見ることもできますが、ブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味)の中にはありません。

 十二種類のカンマは三蔵の中にありません。探した限りではありませんが、後世に書かれた清浄道論の中にあります。しかし聞く価値はあります。そしてあちこちで話されたブッダバーシタを一か所に集めて章分けし、十二種類のカンマと呼んでいると明かに見えます。聞くと憶えるのにうんざりしますが、それほど難しくありません。

 この十二種類のカンマを三群に分けます。一群は結果を出す時を基準にし、即刻結果があればディッタンマヴェーダニーヤと言い、その後結果があればウパパッチャヴェーダニーヤと言い、もっと後に結果を出す機会があればアパラーパラヴェーダニーヤと言います。次に結果が出終わり、あるいは交渉できる人物同士で決着がつけばアホシカンマ(過去に有った業)と言います。

 次にウッパッチャヴェーダニーヤとアパラーパラヴェーダニーヤと呼ぶ物は、清浄道論の中では、あるいはある人たちは、死んだ後に結果が出ることを狙っている問題があります。ディッタダンマヴェーダニーヤは現世、ウッパッチャヴェーダニーヤは先の世を意味し、そしてアパラーパラヴェーダニーヤは、死んで棺に入った後の生を意味します。

 しかし本当のパーリの中のブッダバーシタであるこれらの文字は、呼び方が違う二語があります。ディッタンマという言葉は一致しますが、ウッパッチェーという言葉をウッパッチャヴェーダニヤという言葉の代わりにし、そしてアパラパリヤーヤという言葉を、ここではアパラーパラヴェーダニーヤの代わりにしています。

 パーリ(ブッダの言葉)の意味を熟慮して見ると、「ディッタダンマ」という言葉は「即刻」を意味するべきです。「ウッパッチェー」という言葉は「その後」、つまり即刻の後で、「アパラパリヤーヤ」という言葉は「もっと後の時」を意味するべきです。この三種類すべては現世に、同じ生にあると説いていることもあります。観察点を設けて熟慮し、学習を続けてください。

 一つのグループは現世と来世、つまり死んで棺に入った後、その後の生と見なします。もう一つのグループはカンマを作ったその時、そしてその後と言う違いが生じます。そしてもっと後、心が生じている一瞬、あるいは幾つもの心が生じる時間でも良く、もっと後があり、何日も、何時間も経った後でも良いです。

 パーリの中の教えでは「即刻と、その後と、そしてもっと後」という意味があり、この三語は同じ日を意味することもできます。

 しかしナックタム(僧試験のため)の学校で、彼らは清浄道論の本で教えています。昔からそのように教え、彼らは「現世、来世、もっと先」の生に注目します。このように違います。

 第一群は四つの言葉があり、現世で結果を出し、来世で結果を出し、その後の生で結果を出し、そして結果が出終わります。これは教えられているように話しています。


 第二群は結果を出す行動で分け、飾り付けて生まれさせればチャナカ(生まれさせる)カンマと言い、援助する結果を出せばウパタマバカ(援助する)カンマと言い、抑圧する結果を出せばウパピラカ(妨害する)カンマと言い、切ってしまう結果を出せばウパカータカ(破損する)カンマと言います。この四つのカンマは結果を出す動作を基準にしています。

 飾り付けて良く生まれさせ、悪く生まれさせるのが一つ、そして援助して善くし、多くするのが一つ、そして抑止して軽減させ、悪を少なくし、善を少なくするのが一つ、そしてもっと上の物があるので中止させてしまう、これが一つです。この四種類は理由があり、他のブッダバーシタにある規則の意味があるので、清浄道論の著者が集めて、このように一まとめにしたと理解します。


 第三群は重さで分け、重いカンマ、多いカンマ、死に近いカンマ、あるいは非常に軽いカンマ、つまり作っただけのカンマです。

 重いカンマは、一度しただけで非常に力があるアンタリヤカンマで、次は多いカンマで、力はないカンマですがたくさんのカンマ、バフラカンマと呼ぶように何度も何度も作ります。そして死に近いカンマは、先々に結果を出す機会があり、アーサンナカンマと言います。

 意図がなく、あるいは半分意図した、あるいは他の意図で作っただけのカンマ、ほとんどは軽率による意図がある、このカンマをカタッタターヴァーパナカンマと言います。アーサンナカンマの話は、ブッダも重要な教えとして使っています。これから話して聞かせます。

 これが十二種類のカンマの話です。三群、四種類に分けることができます。このようにあり、どれも道徳レベルのカンマばかりで、パラマッタダンマの話はありません。つまりカンマを超える話はしないので、休まず善の結果、悪の結果を受け取らなければなりません。道徳の種類のカンマと言います。


 次にそのカンマは善い方へ行くか、あるいは悪い方へ行くか、カンマを観察する道具になる話になりました。これはディッティ(見解)が基準です。ディッティは正しい見解と誤った見解の二種類あります。誤った見解の威力になれば悪の側であり、正しい見解で経過すれば善い側です。

 誤った見解、正しい見解に関わる教えは、ブッダが自身で話され、誤った見解には、①恥じるべきでない物を恥じ、②恐れるべきでない物を恐れ、恐れるべき物を恐れず、③そして害がない物を害があると見、害がある物を害がない物と見る状態があります。このように反対です。

 教えとして使う物は恥じるか恥じないかの話、怖れるか恐れないかの話、害があるか害がないかの話で、このように全部間違って見れば誤った見解です。これは道徳レベルで、一般の人にとって普通のレベルなので、彼らはこのようなのだけにします。

 話したように間違って見れば誤った見解です。正しく見れば正しい見解で、①恥じるべきでない物を恥じず、恥じるべき物を恥じ、②恐れるべき物を恐れ、恐れるべきでない物を恐れず、③害のある物を害があると見、害のない物を害がない物を害がないと見ます。

 誤った見解・正しい見解の話は、臨終の時に正しい見解があるか、誤った見解があるかが重要です。ブッダはこの項目を強調され、道徳の話について述べると、間もなく二つの物の関係について話されました。

 次はカンマの原因に注目するイダッパッチャヤターに関わる部分になりました。仏教の教えでは、すべての物に原因があると見なし、至る所にある有為の物なら、原因がないことはあり得ないと見なします。

 カンマの原因は、善いカンマなら貪らない・怒らない・迷わないで、悪のカンマなら貪り・怒り・迷いです。この項目のブッダバーシタは美しく長く話されていますが、要旨をまとめればこれだけです。

 善と呼ぶ側は「ローバ(貪り)はアローバ(貪らないこと)から生まれることはできない。貪らないことは貪らないことから生まれる。ドーサ(瞋恚)は、アドーサ(無瞋恚)から生まれることはできない。怒らないことは怒らないことから生まれる。モーハ(痴)はアモーハ(無痴)から生まれることはできない。迷わないことは迷わないことから生まれる」と言われています。

 悪の側は「貪らないことは貪りから生まれることはできず、貪りは貪りから生まれ、怒らないことは怒りから生まれることはできず、怒りは怒りから生まれなければならず、迷わないことは迷いから生まれることはできず、迷いは必ず迷いから生まれる」と言います。

 次に善趣は、貪・瞋・痴から生じれるカンマで現れません。悪趣は当然、貪り・怒り・迷いから生じるカンマで現れます。悪趣は貪らない・怒らない・迷わないことから現れません。善趣のどれも、貪らない、怒らない、迷わないことで現れます。ブッダは悪趣のどれも変動しないように、言い訳する機会がないように、このように話されたようです。

 要旨だけにすれば、貪らない・怒らない・迷わないは善業の原因で、貪り・怒り・迷いは悪業の原因です。

 しかし重要なことは、貪り・怒り・迷いで作ったカンマは、その後カンマを成長させる点にあります。これは、ローバ(貪)・ドーサ(瞋)・モーハ(痴)から生じるカンマはその後カンマを成長させると、良く憶えておかなければならない重要な項目です。

 しかしアローバ(無貪)・アドーサ(無瞋恚)・アモーハ(無痴)から生じるカンマは、カンマを終わらせ、その後成長させない方向になります。

 これは、煩悩で作ったカンマは仲間を増やし、その後すべてのカンマを成長させ、ボーディ、智慧で作ったカンマはこのカンマを減らして、仕舞にはなくなり、カンマの終わりになると言うに近いです。

 カンマのイダッパッチャヤターの話はまだ詳細があります。貪りの話・怒りの話・迷いの話は、当然行為をした体に結果を与え、そして行為の結果を味わわせると観察するよう提案させていただきます。ブッダは「彼がどの体でカンマの行動をしても、当然その体の結果を味わう。即刻のこともあり、その後のこともあり、ずっと後のこともある」と言われています。

 「即刻」と「その後」と「もっと後」と言うのは、その行為をした体の中で繋がっている話だけで、死後の話ではありません。ブッダバーシタにはハッキリと、

『ローバ・ドーサ・モーハで作ったカンマは、これらの発生源であるローバ、ドーサ、モーハがあり、当然行為した、あるいは結果を味わう人物の体に結果を与えます。カンマは当然、その人物が生まれる結果を与えます。カンマがどの体に結果を与えても、その人は当然その体の結果を味わいます。即刻のことも、その後のことも、もっとずっと後のこともあります』と言われています。これが不動の教えであるブッダバーシタです。

 だからまだ腐っていない、枯れていない、まだ切られていない良い状態、根が良く、雨が良く、土が良い木は、当然成長して密林になるように、貪り・怒り・迷いで作ったカンマはすべてのカンマの成長を助け、カンマで厚くします。

 しかし貪らず・怒らず・迷わないで作ったカンマは、まだ新鮮で良い状態の木も、火で燃やして灰にして風に飛ばすか、水に流してしまえば何も残らないように、カンマを減らします。

 貪らず・怒らず・迷わないで作ったカンマは、残りが無くなるまでカンマを減少させるため、カンマの終わりのためになると見なします。

 しかし私たちはあまり関心がなく、あるいは貪り・怒り・迷いの話、あるいは貪らず・怒らず・迷わない話を重要と見ません。だから理解できないで「貪り・怒り・迷いがなければ何のカンマを作るか分らない。何も欲しがらなければ何もしないのではないか」と言います。

 ここでは「智慧があり、明があり、光がある心は、貪り・怒り・迷いがない」とことだけを意味します。この種の心が何かをしたければ、どんな種類のカンマを作ってもカンマを止め、カンマが終わるまでカンマを減らすことだけを望みます。本当に貪らず、怒らず、迷わなければ、何もしないと言うのに近いからです。

 よく考えて見てください。誰でも貪り・怒り・迷いがなくなったら、あるいはその時だけ心に貪りがなく、怒りがなく、迷いがなかったら、何のカンマを作れば良いか分りません。誰が欲しがるのも、すべては貪り・怒り・迷いの話ばかりだからです。少なくとも徳を貪り、名誉を貪り、天国などを貪り、どれもカンマばかりです。

 だから貪らず、怒らず、迷わずに何かをすればカンマが減り、カンマの流れが減り、カンマの数が減り、カンマの成長になりません。だから貪・瞋・痴、あるいは無貪・無瞋・無痴という言葉を遊びにしないでください。それは天と地、あるいは天地以上に違います。


 次に人物に関わるカンマです。いずれにしても話したら、まだカンマで経過しなければならない、まだカンマの奴隷である人物に関わるカンマは、カンマを作らなければならず、カンマを作る原因である貪り・怒り・迷いがあると、全部話してしまいます。この種の人は作り方を知らないので、貪らず、怒らず、迷わないカンマを作ったことがありません。彼らは貪り・怒り・迷いだけでカンマを作ります。


 ブッダはカンマを作る人物、あるいはカンマの結果に関わる人物を四つに分けています。

 一番目は自分の奮闘努力の結果で生きている人たちで、関わって来る古いカンマの結果はありません。この部類の人たちは奮闘努力、疲労困憊の最中で汗を滝のように流し、自分自身の労力で生活していて、関わる古いカンマの結果がないので、いつでも汗を流さなければなりません。

 善いカンマの結果、悪いカンマの結果も関わって来ません。いつでも滝のように汗を流さなければならず、努力の結果、自分自身の努力で生活します。これが一般の人間です。

 二番目は古いカンマの結果で生きていて、現在努力した結果で生きていません。これは四天王以上の天人で、欲界の天人を意味し、古いカンマの結果で生きています。新しいカンマを作る気はなく、努力して疲れて汗を流したがりません。次々に古いカンマの結果を消費する人たちを天人と呼びます。

 三番目はどちらもし、現在の努力にも依存し、古いカンマの結果にも依存して生きています。王族、国王、その下のいろんな家臣(公務員)は古いカンマの結果もあり、現在の努力もあります。

 四番目はどちらもなく、今の自分を助ける努力もなく、幸福があるように養ってくれる古いカンマの結果もありません。これは地獄の動物たちです。

 このブッダバーシタは、一人一人違う人物とカンマの関係を指摘しています。人を四つに分類し、一つはこの角度のカンマに関わり、もう一つはそのカンマ、あのカンマに関わる四つの部類です。そして今の努力、あるいは古いカンマの結果を基準に正反対に分けます。

 奇妙なのは、ほとんどの人間は「現在の努力で生きる人たちは、あまり古いカンマの結果に関わらない」と規定するのを好むことです。これは、人間世界はこのような方法でなければならない。人間世界で暮らすには汗を流さなければならない」と言うのと同じです。これは、この四種類の違う人たちのイダッパッチャヤターの流れ以上に何もありません。

 このように違いを説明したら、その後、カンマで生まれる違いを見るべきです。つまりジャーティ(生)、生まれと呼ぶ物、人の生まれと動物の生まれの違いという意味です。


 人の生まれはカンマによって違います。動物の生まれはカンマを基準にしません。カンマの教えでは、畜生は人間のようにカンマを作る原因である煩悩がないと見なすからです。たとえば猫がネズミを捕って喰うのは罪ではないと見なしますが、人間が動物を殺して食うのは罪と見なします。

 これは、畜生と人間の違いを表す大原則です。

 それは異常に賢く、無明の話を知り、明の話を知り、そして悪と知っていても、気持ちに逆らって悪を行う無明がある、人間自身の罪業です。畜生は徳があります。つまり考えることを知らず、考えが少なく、善悪を知らず、知識も無知もないので、気持ちに逆らう必要はありません。だから猫がネズミを捕る時、罪という知識がなく、逆らってすることはありません。人は「動物を殺して食うのは罪」と知っていて、そして敢えてします。

 だから私たちは、カンマに関わる場合に、人間と動物の違いを分けることができます。ブッダは、畜生はカンマを基準にしないで、母の胎から産まれることを基準にし、どのように生まれたかで、それを生まれと規定されました。一方の人はカンマ、あるいは行為を、この種の人、その種の人、あの種の人に分類する基準にします。このようにカンマに関わる場合の人と動物の間の違いを説明されたブッダの言葉があります。

 カンマを動物に使わないでください。動物は人のように無明がなく、煩悩、欲望がないからです。人は無明があり、煩悩欲望があるのでカンマを作ります。だから自分の行為によって、カンマでそのように、このように分類します。

 猫に生まれれば、全部同じ猫です。しかし人に生まれると商人、百姓、公務員、強盗、泥棒、学者、ヤクザがあり、行為であるカンマ次第、カンマによって違います。しかし猫は全部同じ猫で、犬も全部同じ犬で、人のような違いを生じさせるカンマ、行為はありません。

 この話は、二人の若いバラモンが言い争ったとあります。一人は「善人は生まれによってなる」と言い、もう一人は「善人は行為、カンマでなる」と言い、このように反論し合う角度があります。一方は善い両親から生まれれば善人に、高尚な人になると見なし、もう一人は「そうではない。それが善いか悪いかは行為次第だ」と反論しました。この二人の若者は合意できず、どのようか説明してくださいとブッダにお願いしました。

 ブッダは、草、クワズイモ、植物は、自分はどのようか表すことができないので、その良し悪しは生まれてきた生まれで決まると、この規則を説明されました。良く聞いて見てください。木、草、クワズイモの類は、人のように自分の善し悪しを宣言公開することができません。人は「俺は善い。貴様は悪い」と、このように叫ぶことができます。

 草やクワズイモの良し悪しは、生まれた種類次第で、たくさんの種類があっても、それぞれみな同じです。その種類に生まれた状態を基準にしますが、人はそのようでなく、人は行動したカンマによります。

 ブッダは、バッタ、蝶、黒アリ、赤アリは「善い、悪い」と自分を宣言できないので、それの善し悪しは生まれによって決まっていて、人と違うと言われています。人は善い行為、悪い行為、行為次第です。

 ブッダは木やクワズイモについて話され、バッタや蝶、黒アリや赤アリについて話され、脚がある動物、小動物、大きな動物について、それらは「俺は良い。貴様は悪い」と叫べず、自分の長所短所を宣言できないので、それらの良し悪しは、それの生まれによって決まっていると、同じように話されました。

 牛や水牛も良い種類、悪い種類は生まれで決まり、その時行動したカンマには関係ありません。いろんな種類の牛や水牛もその生まれた種類次第で、人間のようにカンマによる違いはありません。

 ブッダは、腹が脚で、胸で歩く背の長い動物、つまり蛇などの這う動物も同じで、行動による良し悪しはなく、多くの種類があっても、その種類の成り行きになると言われています。魚、水中で生まれ、水中で生活する動物も同じで、善悪の感覚がなく、「俺は善い。俺は悪い」と公開せず、何種類あっても、「このようなカンマを作るのはそのように善く、そのようなカンマを作るのはそのように悪い」カンマを作ることに関わらないと言われています。

 鳥、翼で空を飛んで行く動物も同じです。種類によって、生まれによって成り行き、違いを生じさせるカンマはありません。

 しかし人間集団はそのようでなく、髪、耳、目、鼻、口、首、眉、あご、額、胸、腰、手、足、腕、脚など、あるいは生殖器を善人・悪人の基準にできません。その人は学者か、あるいはヤクザな人か、その人が行動したカンマを基準にしなければなりません。

 だから人間の良し悪しを観察する物の状態は畜生の物と違う。畜生に使う規則を人間に使うことはできないと言われました。人間集団の中では、その人が行動したカンマの善悪の状態がなければなりません。

 その人が牛や水牛で生活していれば、その人は農家でありバラモンではありません。
 その人が腕、技術で生活を立てていれば、その人は技術者で、
 商売をして生活していれば、その人は商人で、
 他人に使われて生活していれば、その人は下僕で、
 泥棒で生活していれば、その人は泥棒で、
 武器使って生活していれば、その人は兵士、武士で、
 儀式をして生活を立てていれば、その人は祭祀をする義務をする人です。
 国家を支配して生活をしていれば国王から身分の低い役人まであり、同じ人間でも、その人が何をするかで、その人は即刻そのような人になります。

 このような規則は動物にはありません。動物にある規則は人にはありません。だからカンマの話は人と動物を区別する話です。

 体と言葉と心での正しい行動振舞いがあれば、その人は戒・サマーディ・智慧があり、聖向聖果涅槃に到達して聖人になります。次に普通の人を善人と、それを善と呼ぶことはできません。その人に本当に善いカンマがある以外は、

 煩悩を終わらせた人だけが阿羅漢と呼ばれます。あるいは特別な言葉で言うバラモンです。バラモンという言葉は「罪が終った」、あるいは罪を浮かせ終った、つまり罪がないという意味です。

 しかしバラモンたちは、「バラモンである両親から生まれたからバラモンだ」と言います。次にブッダは「そのような決まりは使い物にならない。罪が終った人でなければバラモンにはならない」と言われ、その人の行為を基準にさせました。その人は種属で決まる動物でなく、人間だからです。

 種属に分けること、あるいはあのよう、このようとあだ名を付けるのは仮定の話だけで、カンマの話ではありません。バラモンの子、武士の子、商人の子、百姓の子と名付けるのは名前と一致しません。そのような名前と一致するカンマを、まだ作っていないからです。善人、悪人、下僕、家来、何でも話すことはできますが、それは本当でなく、その人が本当に何をしたかに因らなければなりません。

 私たちは生まれつき、生まれる前から愚かということもあります。生まれた途端に彼らがどう呼んでも、彼らが呼ぶように呼びます。私たちが生まれると、彼らは私たちを「〇坊、〇〇ちゃんは善い子」と言い、私たちも善いと言います。彼らはバラモン、ヴァイシャ(商人)、スードラ(賤民)か何かと言い、私たちも彼らが言うようにバラモン、ヴァイシャ、スードラと言います。

 目を開けて初めて世界を見た時から愚かさがあり、彼らが姓名、家名で呼ぶのに使う仮定の呼び方で呼びます。これはカンマの法則ではありません。

 カンマの法則は、その人が何をしたかを採用しなければなりません。そしてその人も、しなければならないことに従わなければなりません。この項目に関してブッダは「ナ チャッジャー ヴァサロー ホーティ、ナ チャッジャー ホーティ ブラフマノー、カンマナー ヴァサロー ホーティ、カンマナー ホーティ ブワフマノー」等と言われました。

 「生まれによって悪人でなく、生まれによって善人でなく、悪人はカンマ(行為)によって、善人もカンマによってなる」。ブッダはこのように言われました。

 次に、普通に縁起が見えるすべての学者は、カンマと報いに賢く、「世界は当然カンマに従って経過し、動物の群れは当然カンマで経過する。すべての動物は走っている車の楔(クサビ)のようにカンマと結びついていると、そのカンマを明らかに見る」と、まとめて言われた重要な教えがあります。

 ここでブッダは「パティッチャサムッパータ(縁起)が見える人は、これが縁で、これが生じるイダッパッチャヤターが見えるので、カンマとカンマの結果の話に賢い人でいなさい。そうすればその後、すべての世界の動物、カンマを作る人はカンマで経過しなければならないと見えます」と言われました。

 次にたくさんカンマを作ると、すべての動物はすべてのカンマに、縛られるようにぐるぐる巻きにされます。そして「走っている車のボルト」に譬えます。「走っている車のボルトのように」という言葉はパーリ語の成句で、聞いたことがない人は意味が分かりません。しかしちょっと説明をすれは何とか理解できます。

 自動車について話す方が良いです。自動車が走れるのは、すべてのネジ、ボルト、ナットが締まっているからです。ボルト、あるいはナット、あるいはネジが外れるだけで、車はバラバラになって走れません。すべてのネジ、すべてのナットがしっかり締まって固定していれば、車は走れます。だから車が走れれば、すべてのネジ、あるいはボルトは良く締まっているということです。

 すべての動物も、同じようにたくさん作っておいたカンマが縛っているので、カンマで、良く見えているようにカンマで経過しなければなりません。

 この項目は、自動車や荷車が走れるのは、ネジやボルト、いろんな締める物が締まっている時のように、「人車」はすべてのネジやボルト、あるいはカンマで走ると指摘している点が重要です。しかし私たちは、どこに私たちを止めつけるネジやボルトがあるか見えません。

 「おー! ネジやナットやボルトなど、たくさんの物があれこれを止めているから走れる車のように、私はまだごちゃごちゃしているから輪廻に走って行ける」と熟慮して見て、縁起、あるいはイダッパッチャヤター(縁生)に賢く、イダッパッチャヤターの法則で見ることでカンマと報いの話に賢い人以外は。

 カンマの楔を抜き取って見れば、それだけで輪廻に駆けて行くのは止まります。それがカンマの終わり、あるいはカンマの終わり側のイダッパッチャヤターの話です。


 次は人に関わる話になりました。

 長々と話して来たのは道徳側のカンマの話ばかりで、直接カンマの終わりの話でないことを忘れないでください。それはまだ仮定の道徳の側のカンマで、庶民はカンマを作る自分があり、カンマの結果を受け取る自分があり、善いカンマで行き、悪いカンマで行きます。しかし話さなければならないカンマの話はまだ終わりません。

 次はカンマに関して、カンマを作ることに関して、そしてカンマの結果を受け取ることに関して冗談を言って笑わせる、あるいは騙して誤解させる角度について話します。これは先に話を聞かせなければなりません。

 ブッダは他の宗教のサマナ・バラモン・出家の中には、最高にサマーディに励んで、プッベーニヴァーサーヌッサティニャーナ(宿住隨念智)、チュトゥーッパータニャーンナ(死生智)に達してすべての動物の輪廻が見える人がいて、彼らはブッダほどでなくても見えると言われています。

 そしてまだ、天眼を得て、すべての動物は四種類あるのが見えるサマナバラモンがいると言われました。一番は罪を成し、悪を成して死んで地獄へ行き、第二番目は罪を成し、悪を成して死んで天国へ行き、三番目は徳や善を成して死んで天国へ行き、四番目は徳や善を成して死んで地獄へ行くのが見えます。

 良く聞いてください。すぐに他の宗教のササマナバラモンがこのように見て、ブッダが「本当の話だ」と保証したと理解できません。あるいは信じられなくなります。これから話された言葉で説明するので、良く聞いてください。罪を成して地獄へ行くのが一つ、罪を成して天国へ行くのが一つ、徳を成して天国へ行くのが一つ、徳を成して地獄へ行くのがもう一つです。

 ブッダはこの話の秘密を説明して、一番の「罪を成して、死んで地獄へ行く人たち」は、かつて悪を成し、罪を成し、そして死ぬ時に誤った見解があるからです。その人は罪を成し、そして死ぬ時に誤った見解があるとは、罪である考えがあり、その人は罪人なので地獄へ行きます。

 二番目の「罪を成して天国へ行く人」は、以前に善行をしたことがあり、死んで心が消滅する時正しい見解が生じるからです。次に通常誰でも罪を成し、悪を成していると見なしますが、死んで天国へ行くのは、善を成したことがあり、そしてその人の心が滅す時に正しい見解が生じるからです。

 三番目の「善行を成し、徳を積んで、死んで天国へ行く人」は、その人は善を成したことがあり、そして死ぬ時正しい見解があるからです。重要なのは死ぬ時に正しい見解がある点です。

 四番目の「善行をして、死んで地獄へ行く人」は、それまでに善を成したことがあり、そして死んで心が滅す時、誤った見解があるので、誰もが「彼は徳を積んだ善人」と見ても、死んで地獄へ行きます。これは一定の期間を基準にするからです。

 多くのサマナバラモンは天眼智があり、このように見えます。罪を成して地獄へ行くのもあり、天国へ行くのもあり、徳を成して地獄へ行くのもあり、天国へ行くのもあります。それは正反対の何かをし、そしてその人が死ぬ時、正しい見解で心が滅すか、あるいは誤った見解で心が滅すか、最後の一瞬の見解次第です。

 次に楽しく論争すると言う言葉になりました。それらのサマナバラモンは、何かを見ると見たように話します。罪を作って、死んで地獄へ行った人を見ると、そのサマナバラモンは、「うーん、これは悪のカンマもあり、悪の結果もある」と言い、ブッダは「そのとおり」と言いました。

 それらのサマナバラモンは「私は悪を成して本当に地獄に行くのを見た」と言うと、ブッダは「あなたは真実を見た」と認めました。次に彼は「悪を成して地獄に行くという言葉、この言葉は正しく、違う言い方をすれば間違いです」と言いました。

 ブッダは「それは違う。悪を成すと、いつでも死んで地獄へ行くことはない。悪を成しても、過去に作った善いカンマもあり、そして死ぬ時正しい見解があれば、これは悪を成しても地獄に落ちない。だから悪を成せば、全部死んで地獄へ行く、こういうのは正しくないという規則がある」と言われました。

 すべてのサマナバラモンは自分の教えだけが正しく、他の人の教えは誤りと言います。こういうのは真実ではありません。認めません。

 悪人が死んで天国へ行くのを見たと言う二番目の人たちは、そのサマナバラモンは天眼で見て、「この悪人は死んで天国へ行ったよ!」と言います。彼は「それなら悪のカンマは結果がなく、悪のカンマはない」と言います。

 ブッダは「このように言うのは悪のカンマの結果がない、あるいは悪のカンマがないので正しくない」と言われました。そのサマナバラモンが「私は悪を成した人が天国へ行くのを見ました」と話すと、ブッダは「それは本当で、悪を行って天国へ行く人もいる。過去に善行をしたことがあり、そして心が消滅する時正しい見解があったから」と言われました。

 それらのサマナバラモンは、「私は、悪を行った人は誰でも、天国へ行くに違いないと言います」と言いました。こういうのは誤りと捉えてください。それはその人が見た例だけを話し、そしてその人の教理は正しく、他の人の教理は誤りと見なすので、これは使い物になりません。

 善人が天国へ行くのを見た例は、彼らは「善いカンマもあり、善いカンマの結果もある」と言い、ブッダは「そう、その通り」と言われました。そのサマナバラモンが「私は善人が本当に天国へ行くのを見ました」と言うと、ブッダは「そう、あなたは真実を見ました」と認めました。

 そのサマナバラモンはその機会に「私は、善を成した人は誰でも天国へ行くと言います」と話しました。ブッダは「それは正しくない。善を成した人でも、過去に悪を成したことがあり、心が消滅する時に誤った見解があれば、天国へ行かない人もいるから」と言われました。

 四番目の例は、善人が死んで地獄へ落ちるのを見たと言い、それを見たサマナバラモンは「善いカンマはなく、善いカンマの結果もない。善人が地獄へ落ちるのだから」と言いました。ブッダは「そのように話すのは正しくない。善いカンマはあり、善いカンマの結果もあるのだから」と言われました。

 そのサマナバラモンは「私は本当に見ましたよ。善人が地獄に落ちたのを見ました」と言うと、ブッダは「そのとおり。私も、善いことをした人が地獄へ行くのを見ました」と言われました。

 そのサマナバラモンは「それなら私は、善行をした人は誰でも地獄へ行くと話さなければなりません」と言いました。ブッダは「それは駄目です。善行をした人の中には、地獄へ行く人も天国へ行く人もいます。その人が日常的に作ったカンマと、心が消滅する時にどんな見解があるか次第です」と言われました。

 これは、ブッダと他の教理の人でこのように反論した話です。

 善いこと、悪いことをした人が死んで地獄へ行くか天国へ行くかは、その人の心が消滅する時に誤った見解があるか、正しい見解があるか次第です。それ以前、あるいはその後でも、その人が何のカンマを作っておいたか、カンマ次第とまとめることができます。

 その人がそれまでに反対のカンマをたくさん作ってあれば、反対に解決することでもできます。悪のカンマの結果がまだ出ず、善いカンマが先に結果を出すので、悪を行った人も先ずは天国へ行きます。そして特に、その人は心が消滅する時に正しい見解があります。これは関心を持つべきことです。

 まだ自分があって自分に執着し、カンマの結果に執着するすべての人は、心が消滅する時正しい見解があるか、誤った見解があるか、どちらの心で消滅するか、そして日常的に作っておいたカンマは、善いか悪いかに注意してください。

 もっと短くまとめると、善いカンマだけを作り、特に心が消滅する時正しい見解だけがあるようにする、それだけで十分です。特に重要な時に、拠り所である正しい見解に依存する人と言います。

 この方便はまだ自分があり、自分と捉え、自分があって世界で生きている人のためで、解脱して涅槃に行く人のためではないことを忘れないでください。私は今、自分がある人、あるいは善いレベルの、常見が基礎としてある人の道徳レベルのカンマの話をしているからです。

 このように正しい見解が拠り所になると言えば、後もう少し正しい見解について話し、いつでも正しい見解で暮らし、そして心が消滅する時も正しい見解で心を消滅させます。そして正しい見解は今し方話したような規則があります。正しい見方があり、恥じるべきことを恥じ、恐れるべきことを恐れ、罪である物を罪と見る、このような正しい見解を常に持っていてください。

 それが拠り所です。まだ世界で暮らす人、まだ自分があり、まだ自分に執着する人の拠り所です。どうぞ正しい見解で生きてください。この項目に不注意でなく、正しい見解、誤った見解と呼ぶ物に注意深くあってください。

 正しい見解があれば、誤る道はないと考えて見てください。誤る機会はありません。次々に正しくなり、元手、あるいは原資になるばかりです。次に心が消滅する時、正しい見解で消滅すれば危機を脱し、善趣へ行くだけです。

 このように正しい見解で暮らす人は、正しい行為だけがあります。だからブッダは、その人は安心があると言われました。安心とは確信で、心が軽く爽快です。四つの安心は、この世界の話、次の世界の話、何の話でも何かをたくさん考えて、心の中を混乱させないという意味です。そして心が消滅するまで、常に正しい見解があることだけに関心を持ちます。

 このようにできれば、その人は四つの安心があります。第一項は、次の世界が本当にあれば、あるいは作っておいたカンマの結果が本当にあれば、その人は正しい見解の話だけを作っているので快適です。来世が本当にあり、作っておいたカンマの結果が本当にあれば、その人は最高に快適で、最高に安全で、最高に確実、つまり善い結果しかありません。

 第二項は、もし来世がなく、カンマの結果がなければ、来世がなくカンマの結果がないと仮定して、こういうのも損ではありません。その人は今から心が消滅する時まで正しい見解で生きるので、その人が生きている間中苦がなく、十分幸福になるので儲けがあります。その人はこのように十分善い結果を受け取ります。

 次に来世がなく、何もカンマも結果がなくても、その人は何も損はなく、「私は十分受け取っている」と確信し、安心します。

 第三項は、行為が行為なら、つまり罪を罪と言い、徳を徳と言い、私たちはいつでもこのように正しい見解で暮らします。こういうのは誰にも危害を与えず、そして誰も自分に危害を与えません。あるいは死ぬ時自分を苦しめるどんな罪業もありません。そして自分に触れるどんな苦もありません。正しい見解の人は罪を作りません。

 第四項は、行為が行為でないと仮定しても、私たちは何も損はなく、上っても下っても安全です。そのカンマが行為でも、行為でなくても、いつでも正しい見解で暮らせば、上も下も安全という意味です。つまり来世があってもなくても、全部受け取ります。このカンマが行為でも、行為でなくても、全部受け取れます。

 だからブッダは正しい理解、あるいは正しい見解、あるいは目いっぱい名誉ある呼び方でヤターブータサッマッパンニャー(如実正智慧)と呼ぶ物があることの功徳を称賛されています。

 つまり真実のままに正しく見る智慧をヤターブータサッマッパンニャー(如実正智慧)と言い、略してサンマーディッティ(正しい見解)と呼びます。カーラーマの人たちに正しい見解で生きるよう教え、彼らが信じているような十項目で信じなければ、上も下も安全ということです。

 「上っても下っても」とは、この世があっても、あるいは来世があっても無くても、私たちは十分受け取るという意味です。カンマが行為でも、あるいはカンマが行為でなくても、私たちは十分受け取っています。私たちは受け取るべきだけを十分受け取り、損はありません。自然が与えるだけ全部受け取ります。

 この世界にいる人物、この世界にいる人物に関わる安心は、行為、カンマに関わっています。如実正智慧、あるいは正しい見解か何かに正しく執着させます。特に「これが縁なら、これは必ず生じ、これが縁なら、これが必ず生じる」と言うイダッパッチャヤターの法則は、常に縁に従います。

 このように見えれば、最高に正し見解があると言います。まだカンマで経過する人、あるいはカンマに従いたいと願う人は、まだカンマを終わらせて正しい見解を拠り所にすることができません。サンマーディッティサマーダーナー サッベー ドゥッカン ウパッチャガン=正しい見解によってすべての苦から脱すことができる。ブッダはこのように言われました。

 どのようにこの安全を維持するか、話す時間がもう少しあります。これは「心を維持すればカンマを維持する」と、憶えやすい短い言葉があります。人が身業・口業・意業を維持しなければ維持しないということで、「心を維持しなければカンマを維持せず、心を維持して清潔にしなければカンマを清潔に維持しない」と言われたブッダバーシタがあります。

 心を維持しなければカンマを維持しないということで、カンマを維持しなければ煩悩に濡れたカンマです。カンマが煩悩で濡れていれば腐り、ブッダは腐るという言葉を使われ、カンマが腐れば死は善くありません。死んでも美しくありません。。

 次に例えれば、ブッダは何を言われるにも、機会があれば、あるいは例えるべきなら、ブッダは比喩されました。維持しない話、さっきの維持しない話は、心を維持しません。

 家の話に例えれば、屋根を良く維持しなければ雨漏りがし、雨漏りがすれば最初の木、棟木が濡れ、棟木が濡れれば垂木が濡れ、天井が濡れ、床が濡れます。だから屋根を維持しなければ棟木を維持しないのと同じで、棟木を維持しなければ垂木を維持しないのと同じで、垂木を維持しなければ床を維持しないのと同じです。

 家の床が維持されていなければ、それらの木も濡れ、濡れれば朽ち、朽ちれば住む家がありません。屋根が維持されなければ、いろんな木が維持されず、床も維持されません。維持されなければ朽ち、朽ちれば住めません。

 ね、心を維持しなければカンマは維持されず、カンマが維持されなければそのカンマは煩悩で濡れます。カンマが煩悩で濡れればカンマは腐った物で、カンマが腐った物なら死は良くありません。死んでも良くありません。

 これは、善いことをすれば善く行き(逝き)、悪いことをすれば悪く行く(逝く)という教えについて話しています。善く行き(逝き)たければ維持することがなければなりません。カンマを維持し、心を維持しなければなりません。心の維持はカンマの維持です。

 だから心に注目して心を善く維持すれば、カンマは善く維持されるということです。心を善く維持するとはどのようにするのでしょうか。それは「正しい見解があるようにします」。正しい見解があれば心は良く覆われ、良く守られ、良く保護している屋根のように良く葺かれていると言うことです。正しい見解を心を覆う屋根にし、心を保護して善い心にします。

 心が護られれば身業・口業・意業も護られ、身業・口業・意業が護られれば煩悩で濡れず、煩悩で濡れなければ腐らず、腐らなければ善く、死も善く、一巻の終わりも善いということです。

 ブッダはこのように言われました。正しい見解で心を護り、心が護られればカンマも護られ、カンマが護られればカンマは腐らず、そうすればカンマは良いと言うことです。


 カンマに関わる最後の話は、デーヴァドゥータ(天使)と呼ぶ物について話したいと思います。デーヴァドゥータの話を、人々は意味がない話で重みがなく、何も恐ろしさがないと見がちです。本当はデーヴァドゥータは不注意でなくし、正しい見解があるようにし、心を護り、カンマを護る重要な物です。

 ブッダは、デーヴァドゥータは不注意でなくし、心を護り、カンマを護り、そして述べたように何でも護り、イダッパッチャヤターは良い方にだけ経過すると、そのように言われました。

 デーヴァドゥータを見ることから始めれば、デーヴァドゥータを見ることは不注意でなくします。不注意でなければ心を護り、心を護ればカンマを護り、カンマを護れば腐らないことが生じ、そして最期に善趣に行きます。

 デーヴァドゥータの話は、罪を作った人のためだけにあると見なすべきではありません。徳を成した人、善を成した人もデーヴァドゥータを思うべき、あるいは見るべきです。

 デーヴァドゥータを四つに分けている所がありますが、この経では三つしか見えず、老人、病人、死者で、老・病・死です。上辺を見れば老人、病人、死者で、深く見れば老・病・死が見えます。子供は老人、病人、死人は見えますが、老・病・死は見えません。知性や正しい見解を使わなければなりません。そうすればデーヴァドゥータである老・病・死まで深く見ることができます。

 この話は擬人法で、人は死ぬと、閻魔に捕まえられて尋問されると言い、その人が閻魔から「デーヴァドゥータを知っているか」と質問されると、愚かな人は「知らない」と答えなければなりません。

 次に閻魔は、「老いさらばえた年寄りを見たことはあるか」と質問を下げると、「それは見たことがある」と答えます。見たことがあるのになぜデーヴァドゥータを見たことがないのでしょうか。それは何も思ったことがなく、老人と見るだけからです。

 今、誰でも老人を見、良く見ているのに、見え見えなのに、時には嫌悪します。しかし真実である部分の「老い」は見えません。老人を見たことはありますか。見たことがあるのに、なぜデーヴァドゥータが見えないのでしょうか。それはこのように損失です。そして「それなら、あなたは自分もその人と同じように老いなければならないと考えたことがありますか」と訊けば、考えたことはないと言います。

 これが、人はデーヴァドゥータであるイダッパッチャヤターが見えないことです。

 デーヴァドゥータが見えればイダッパッチャヤターが見え、イダッパッチャヤターが見えればデーヴァドゥータが見えます。つまり老いが見えます。その老いはイダッパッチャヤターの一部分と見えます。

 次にその人はイダッパッチャヤターが見えません。その人は老人が見えても、老いが見えません。その人が老人を見ても、自分もそのように老いなければならないと考えず、全部違う考えをします。これを最初のデーヴァドゥータである老いが見えないと言います。

 病人も同じです。病人を見たことがあるか。見たことがあります。それでデーヴァドゥータは見えません。自分が病むと考えたことがあるか。それは考えたことがありません。死人を見たことがあるか。見たことがあります。それでデーヴァドゥータは見えません。死ななければならないと考えたことはあるか。死の話は考えたことがなく、思う関心がありません。

 それは教える物であり、教え、毎日明かになっているのに、この世界の人には見えません。あるいは認めません。あるいは聞こえないと言うことです。

 これは自然の法則、あるいは何でも、それが教え、毎日、毎時、至る所で教えを説いています。老・病・死はイダッパッチャヤターの象徴として教えていますが、見えません。

 次に自分が老いているのにまだ見えないというほど重症になります。白髪頭の年寄りでも、まだ自分の老いが見えず、病が見えず、自分に近づいている死が見えません。これを「正しい見解がない人、そして最高に不注意がいっぱいの人は、恐れるべき物を恐れず、恥じるべき物を恥じず、罪がある物の罪が見えない」と言います。その人は何も見えません。

 だから彼らが仮定でデーヴァドゥータと呼ぶ物、神様が送って来て見せて教える使いが見えず、話を聞かず、自分がそうであることを認めないと言います。

 だからカンマの成り行きにならなければなりません。つまり誤った見解で、悪のカンマだけを作ります。そして心が消滅する時、誤った見解で消滅するので、閻魔に見つかって捕まり、銅鍋に入れられ、腕や脚を押さえられ、斧で刻まれ、頭を落とされ、鋭い刃物で薄切りにされ、何でも非常に苦しい話ばかりと言います。

 最後にこの経は、良い結果になる状態で終わります。つまりそのような閻魔の責めが重くなると倦怠し、輪廻したくなりなり、悪のカンマを作りたくなくなり、何もしたくなくなります。閻魔は反対に、善いデーヴァドゥータは危機から脱出させると見て知ります。

 私たちは、誤った見解で暮らすか、正しい見解で暮らすかということについて思うべきです。正しい見解で暮らせばダンマの、プラタムの象徴が見え、あるいはニミッタが見え、いろんな標が見えるので、罪のないカンマを作り、善いカンマになり、現世と来世、両方の世界の幸福があります。

 話して来たことすべては、どの話も道徳レベルのカンマの話です。まだ自分があり、まだ自分と自分の物に執着している人が、善い方向にだけ執着し、善くさせ、良い結果を受け取らせるために話しました。まだカンマを超える話、カンマの終わり、カンマが無くなることについては話していません。

 時間もなくなり、長くて多すぎるので、これだけで一旦終わりにしなければなりません。時間も話す力もないので、道徳の角度のカンマの話だけで終わらなければなりません。


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