すべての意味、すべての挙措の「自分」である イダッパッチャヤター


1972年1月15日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。土曜講義第三回は、みなさんご存知のように「すべての意味、すべての挙措の自分であるイダッパッチャヤター」と題してお話します。

 これについてみなさんは、聞いたことがない話、この二回だけ聞いた話と見ているので、理解が大変かも知れませんが、仏教の重要な話なので理解する努力をし、忍耐するようお願いしなければなりません。

 ここで説明するイダッパッチャヤター(縁生、あるいは因果)と呼ぶものは、最高レベルの仏教の心臓部と説明します。私は、心臓部と言うレベルの仏教の重要な教えであるダンマについて段階的に話したことがあり、そして高くなって、ここではもっと理解が難しい、つまり更に深遠で、すべての物、あるいは仏教全体を覆う意味があるものです。

 このように深遠なレベルのダンマを知ることは、仏教を良く知ることです。イダッパッチャヤターという言葉を理解すれば、四聖諦など、他のすべての話を理解したことを意味します。四聖諦として話せば四聖諦の意味がになりますが、深く広く四聖諦と呼ぶものを指摘して見せれば、イダッパッチャヤターである角度が見えるので、もっと短く、しかしより深遠にするために「イダッパッチャヤターは仏教の心臓部」と言い直します。

 第一回の講義では、仏教の核心であるイダッパッチャヤターは三蔵の中に黙って沈んでいると言いました。無いのではなく、大乗側でなく、私たちテーラワーダの側の三蔵の中にありますが、誰も聞いた人はいません。だからその中に黙って沈んでいるのと同じです。こういうのはいろいろふさわしくありませんが、差し障りがある話になるので、あまり話したくありません。

 これからはこれを三蔵の中で沈黙させ続けてはいけない、とだけ話したいと思います。「如行だけがこのダンマダートゥを知り、到達した時、当然教え、当然説明し、当然公開し、すべての人が理解できる物になるまで当然細かく分類した」というブッダの望みどおり、すべての人に開かれた物にすべきです。

 これがブッダの望みで、私たちは助け合ってブッダの望みにふさわしくしなければなりません。つまりイダッパッチャターの話を仏教教団員の日常会話に引っぱり出さなければなりません。この心臓部は非常に短く、話す時は一語、数音で、仏教全体の深遠な意味があります。

 ここで「これは呪文のように名前を唱えるためにある」と誤解する人がいると忠告したいと思います。それはまだ理解していない証拠です。このようなダンマの文句はどの文句も、唱えるため、あるいは呪文にするためでなく、サティを喚起するためにあり、そしてサティを喚起できるのは、それを良く理解した時だけです。

 最高に簡単な例を挙げると、「プットー」という言葉は、びっくりした時に叫べば十分と理解しがちですが、本当はそれだけでは十分ではありません。この目的はあらゆる角度から本当に心に染みわたるまでブッダの恩を知り、それからこの話の本当の意味であるすべての気持ちと言葉を「プットー」という一語にまとめなければならないとあります。

 「プットー」と口から漏れたら、ブッダに関わるすべての話を思い出すことができ、ブッダのサティを持つことができるとこのようで、唱えるためでなく、あるいはほとんどの人がしているように、口から漏らすためにあるのでもありません。

 イダッパッチャヤターという言葉も、特にタタターという言葉も、口から発すため、あるいは唱えるためではありません。しかしそれはどこにあるか、それは何か、どのような威力、神通力があるかを詳細に、本当に明らかに理解しなければならず、理解したらイダッパッチャヤターと話します。

 例えば人が泣き叫ぶ状態、あるいは自殺するほどでも、いろんな物が生じたのを見た時、私たちは「それは本当にイダッパッチャヤターにすぎない」と感じ、こういうので十分です。あるいは人が嬉しく楽しく、非常に陶酔している時、この真実を見れば、これもイダッパッチャヤターという短い言葉があります。

 こちら側・そちら側、あるいは狂った側・善い側、幸福な側・苦の側と限定せず、それはすべてイダッパッチャヤターの話です。このように見れば妙な感覚は生じず、衝撃を受けるほど、あるいは恍惚として陶酔するほど執着は生じません。それは良い結果があり、イダッパッチャヤターを見ることで清潔で明るく静かな心がある人でになります。

 それは呪文として唱える話でなく、そして何も知らずにプットー、プットーと口から漏らす話でもないと捉えてください。仏教の心臓部であるイダッパッチャヤターを、今このような状態で知る人は誰もいません。次に段階的に、あの角度この角度で説明して理解させる努力をします。

 第二回目は、何の規則でも知識、あるいは世界の学問はすべてイダッパッチャヤターの法則で経過するだけなので、人間は何を考え、何をし、何を作るにも、目的に従って有益に使うと、世界中のすべての学問知識をまとめたものであるイダッパッチャヤターについて話しました。今日はもっと近くを、つまりすべての意味と、すべての挙措の自分と呼ぶもの自分を見ます。

 ここで、イダッパッチャヤターという言葉は法則があるという意味で、自然の法則でも良く、自然の法則で経過しなければならないこと、あるいは自然の法則になることを意味しても良く、その成行きから生じた結果を意味する、こういうのでも良いと、繰り返し、あるいは常に忠告させていただきます。私たちはいつでもこの三種類を理解しなければなりません。そして何か一つ詳しい話をすれば、簡単になります。

1.法則であるイダッパッチャヤター。イダッパッチャヤターの法則、四聖諦の法則、無常・苦・無我の法則、あるいは宗教面の何の法則でも、あるいは世俗の法則、気象の話、宇宙の話でも、自然の不動の法則は何でも法則と呼びます。このような法則のすべては、法則であるイダッパッチャヤターで、因と縁で経過しなければならない法則です。

 次にこの法則は何よりも威力があり、誰がこの法則を作ったか知らず、作った人はいないので、ブッダが「如行が生まれても、あるいは如行が生まれなくても、そのダンマダートゥ、あるいはその法則はあり、いろんな物を永遠に一定に支配している」と言われたように、それ自体で存在すると言わなければなりません。

 このような状態の法則は、誰が作ったと言うことはできません。そしてこの法則は原因や縁より上にあります。因と縁が作ることができれば、その法則は変化するので、偽りの法則、本物でない法則です。本当の法則なら変化してはならず、変化しなければ加工できる原因はなく、縁もないという意味です。

 だから法則であるイダッパッチャヤターは、すべての物は因と縁で経過しなければならない法則という意味で、この種の法則をアサンカタ(無為)と言います。作り出す因と縁がない物で、ブッダが「如行が生まれても生まれなくてもこの法則はある」と認めるほど、それ自体で存在できるものです。これが何よりも威力がある法則である物の形のイダッパッチャヤターです。

2.イダッパッチャヤターの二つ目の意味は法則で経過することで、行状、態度、状況、状態、自然の法則で経過している何でも、その行状などはイダッパッチャヤターと呼ばれます。つまり因と縁で経過しなければなりません。

 こういうのは違う状態があり、後のは加工する原因があり縁がある状態があって、経過するよう背を押すので、サンカタダンマ(有為)の側、作り出す原因と縁があるダンマです。私たちはこれらの物は法則、あるいは原因と縁で経過する物であるイダッパッチャヤターと知っています。これも法則と違う一つの部類です。

3.三つ目の意味は結果であるイダッパッチャヤターです。結果である物は、人間が欲しがるもの、あるいは人間に最高に影響がある物です。この結果は幸福もあり、苦もあり、幸福は一つの影響があり、苦はもう一つの影響がありますが、人間に対する影響で、場合によって人間に幸福、あるいは苦の感覚を受け取らせます。この種の結果は作り出す因と縁がある状態にあるので、サンカタ(有為)の部類です。

 しかしサンカタ(有為)とアサンカタ(無為)の双方は、常にそのような性質があるという理由で、タタター、つまりそのようであると言ってしまいます。因より上、縁より上にあるタタターもあり、因や縁で経過するのもありますが、そのようである点は同じです。そのようであること、あるいはそのようでなければならないことを良く知っていれば、何も不思議に感じず、何にも恍惚とせず、何の奴隷にもなりません。

 今私たちは愛の基盤である感情の奴隷であり、そして鬼や悪魔に生まれ、怒りや憎悪の基盤である感情については、人間性、人間としてあるべき正常な心が消失してしまうほど人間に影響があると言います。

 人間は何からも影響されない高い心がなければなりません。人間に正常な心を持たせて穏やかな幸福の中で暮らさせれば、愛らしい物も誘惑して愛させることができず、憎らしい物も唆して憎ませることができず、恐ろしい物も煽って怖がらせることができず、悲しいことも煽って悲しませることはできず、何でも全部、誘惑してどうにかすることはできません。

 その人はそれを良く知っているからです。そのダートゥを知っていると言うのは、その系統を知り、イダッパッチャヤター以外に何もないと、それは自然に、当たり前の法則でそのようであると、それの最高の真実を知っています。これもその人間は最高に知っている人と言います。

 その人が最高に知れば心を最高に正しく維持することができ、最高に正しく維持できれば苦はまったくないので、人間が得るべき最高の利益を受け取る人と言うことができます。短くまとめれば苦を知らないと言います。

 この心は苦を知りません。法則としても、それが法則で経過する物としても、法則で経過することから生じた結果としても、すべての物の真実を知ったからです。仮定で言うなら、神様まで知ったと言い、創造、破壊、支配する神様がいるなら、それはイダッパッチャヤターの法則です。

 だから仏教にはこのような状態の神様がいます。子供たちのために作られた人である神様ではありません。イダッパッチャヤターである神様は人間でなく、それ自体、つまり「タタター」である以外に何でもなく、それ自体の法則で何でも生じさせることができます。

 ね、熟慮して見てください。そうすれば、この種の神様より高い、あるいは凄い、あるいは巧みな神様はいないと見えます。このようであることを「タタター」と言います。時にはダンマダートゥと呼び、あるいはダンマと呼ぶことも、プラタムと呼ぶこともあります。

 だから私は、仏教には最高の神様であるプラタムがあり、ブッダもプラタムを尊敬したと言うことができます。ブッダは自分自身の話を、過去、現在、未来のどのブッダもプラタムを尊重したと言われました。これが最高の法則であるイダッパッチャヤターの意味です。

 次に短く、しかし広い意味で呼べばタタターと言い、そのようであることです。そしてもう二三語の意味があり、アヴィタタター、つまりそのようである状況と異ならないこと、アンニャタター、他の物にはならないこと、この三語は同じです。

 タタターはそのようであること、アヴィタタターはそのようである状況と違わないこと、アンニャタターはそれと違う物にはならないと憶えておいてください。良く理解したらタタター、つまり「そのようになる」という一語にまとめておきます。私の便利な言葉では「それは自然にそのようになる」と言います。

 すべての物を理解して「それはそのよう」と見える人はタタターを知る人で、それがイダッパッチャヤターを知る人です。だからその人はパーリ語を聞いたことがないかも知れませんが、その人の心の中では、そのパーリ語が意味する物、つまりタタター、あるいはイダッパッチャヤターなどが見えます。

 良く思って見れば、それは何段階に、簡単な段階になっていて、私たちのほとんどは簡単な段階と見え、時には「それはそのようだよ。それに関心を持たないで、喜んだり悲しんだりしないで、それはそのようだから」と感じる、あるいは口にすることができます。

 これも時々言うことがあり、庶民も話すことができます。それです。本当は、それはその人に見えるレベルのタタター、あるいはイダッパッチャヤターです。次に私たちは更に見る義務があり、最高になればブッダが目指された意味のタタターに到達します。

 ブッダは重要な話全部を、タタター「そのよう」という短い言葉にまとめたのを忘れないでください。自然のダートゥ、自分、俺、彼、私たち、彼の物、私の物という意味があるようにするのは無明であり、愚かであり、そして煩悩、つまり貪り・怒り・迷いが生じて苦になります。

 自然の法則でそのようであること、当たり前であることを見れば愚かでなく、無明がありません。反対の物、明、光、智慧、目があるので、煩悩が生じる道がなく、貪り・怒り・迷いになる道もないので、苦になる道もありません。これが、これを知った時の価値、あるいは利益です。

 だから私たちは知らなければなりません。あるいは知っていても少なすぎるので、仏教教団員であるために最高に知らなければなりません。階段を昇ることを知りましょう。そうすれば一番上に到達して終わります。最上段を、梵行が終わり、学ぶべきもの、あるいは実践すべきものが何も残っていない段階と言います。

 これを梵行が終わる段階と言い、要旨としては阿羅漢という意味です。つまりイダッパッチャヤター、タタターが最高に見え、何も残ってないので、煩悩が終わり、すべてのアーサヴァ(漏)が終わり、すべての苦が消滅します。私は仏教教団員のレベルを上げることを知るためにブッダの後を追って学んでいるので、話さなければなりません。

 イダッパッチャヤター、あるいは直接タタターであるダンマは、先ほど僧が読経したパティッチャサムッパーダ(縁起)です。たった十分読経した間に、イダッパッチャヤターという言葉が二十二回もあり、タタターなどは十一回あります。

 ブッダがこの話をどんなに強調し、どれだけ強調したか、強調ばかりと思って見てください。それがパティッチャサムッパーダ(縁起)、そしてパティッチャサムパーダに関わるすべての話です。そして四聖諦の話など、パティッチャサムパバーダに関わるどの話もパティッチャサムッパーダです。

 この話は以前にここで話したことがあります。聞いたことがある人は、ブッダが「比丘のみなさん。私は四聖諦の説明をし、そしてパティッチャサムッパーダを説きます」と言われた話で、パティッチャサムッパーダ(縁起)の話は四聖諦の話と憶えています。だからパティッチャサムッパーダの話と四聖諦の話は同じ話です。

 だからブッダが直接四聖諦を説かれた幾つかの箇所で、「タター」あるいは「タタター」と呼ばれたことがあり、「四つのタターであるダンマは苦・集・滅・道」と言われ、時にはターという言葉を付けずにタター、アヴィタター、アナンニャターと呼ばれました。

 だからある物、つまりダンマのクンナームとしては、タターであるダンマと言うのはそのようであるダンマ、アヴィタターであるダンマはそのようである状態と違わないダンマ、そしてアナンニャターであるダンマは、他ではないダンマです。

 しかしこの言葉をナームナームとして使うと直接その状況を意味するので、語尾にターという言葉を加えなければならず、タタター、アヴィタタター、アナンニャタターなどになります。

 だからタタター、アヴィタタター、アナンニャタターという言葉も、タター、アヴィタター、アナンニャターだけでも、それらの言葉を聞いたらそれは同じ話で、二つ、三つの話ではないと知ってください。相応部のニダーナヴァッガにタタター、アヴィタタター、アナンニャタター、イダッパッチャヤターという言葉がありますが、四聖諦の話であるマハーヴァーラヴァッガでは、タタター、アヴィタタター、アナンニャタターと呼ぶ言葉を使われています。

 後世のパティサンビダーマッガ(無碍解道)もこれらの言葉を使っています。そして後世の教典すべて、つまりアビダンマ(論蔵)、カターヴァットゥ(論事)もスッタンタの中のこれらの言葉を借りて話しています。だから論事の中も、タター、アヴィタター、アナンニャターや、タタター、アナンニャタターという言葉が至る所に溢れていますが、私たちは聞いたことがありません。興味がないからです。

 そして昔の人、昔の先生もこれらの内容を話して聞かせるのを、あるいは自分で見るよう提言するのが好きではありませんでした。理由走りませんが研究する必要はありません。しかし今知らなければなりません。助け合って知らせなければならないのは私たちの義務です。だから話し、規定して憶えるようお願いします。縮めてタタターだけにしたイダッパッチャヤターという物の重要さは、このようです。

 次にすべての意味とすべての挙措の中の「私」であるイダッパッチャヤターを見なさいと言うのは、細かい話があります。以前話したことがあってもこの言葉に言及したことはなく、つまり特別な種類の生、縁起に関わる話の心の面の生について何回も話したことはありますが、イダッパッチャヤターという言葉を出したことはありません。

 だから聞いているみなさん全員がジャーティ、何度も何度も話したことがある、母の胎から生まれる必要がない心の面の生まれることである生について復習して理解し直してください。その種のジャーティ(生)という言葉を知れば、そこでイダッパッチャヤターが見えます。このように生という感覚の自分、俺の感覚が生じればいつでも、それがイダッパッチャヤターです。

 次にタイ語では生まれる、あるいはジャーティという言葉は二種類ある点が大変です。私たちがジャーティと呼ぶ「生まれること」には二種類あるとしっかり憶えてください。体の面、物質の面が一つで、短く「体、あるいは形の面の生」と言います。

 次にもう一種類のジャーティは心の面、ナーマダンマ(抽象物)面の生、一度俺という思考が生まれることで、このように二つの生です。この二つの生のどちらが凶悪か、分るまで良く熟慮しなければなりません。どちらの生が凶悪で危険か、良く聞いてください。しかしこの二種類の生は、どちらもまだイダッパッチャヤターです。

 体の面、あるいは物質面、形の面のジャーティ(生)を先に見て行きます。これは身体を意味します。この生は母の胎から生まれた一人の人に一度あり、誰が何歳かは年を遡って数え、母の胎から生まれた最初の日を「生」と言い、終わったのでオギャーオギャー泣きます。これが身体の生の話で、そして棺に入るまで生きます。これは身体が基本ですが、このような生も、イダッパッチャヤターです。

 パーリでも、発生源である両親に依存し、ご飯と果物で成長すると言われています。普通はこのように話し、これはイダッパッチャヤターの法則で正しく両親が同居することに依存しなければならず、そうすれば母は懐妊し、子を産むことができるという意味です。

 両親の同居もイダッパッチャヤターの法則の縁に依存しなければならず、二人は煩悩欲望の威力、あるいは善悪正誤を知る常自覚で一緒に暮らし、生殖を望んだかどうかはともかく、すべてはイダッパッチャヤターで、煩悩で望んでもイダッパッチャヤターで、知性で望んでもイダッパッチャヤターで、逃れることはできません。

 両親が子を望むのもイダッパッチャヤターの話で、両親が子を望まず副産物として生まれてもイダッパッチャヤターの話なので、この子の身体の面の生もイダッパッチャヤターです。次に生まれると当然育ち、大きな子供になり、若者になり、娘になり、これもイダッパッチャヤターで、そして老い、病み、死ななければならず、すべての状態はイダッパッチャヤターです。

 このすべては繋がっていますが、身体の面、物質の面です。それは恐ろしくなく、危険でなく、もう一種類の生まれること、つまりナーマダンマ(抽象)面の、心の面の生まれること以外は、心にとってあまり危険ではありません。

 もし自分、自分の物、俺、俺の物と言う抽象面、心の面の生なら、身体の面の苦も、途端に最高の苦になります。だから心の面の生にしないよう気をつけてください。一日に何回か、何十回か知れないほど生じるのは心の面の生で、俺、俺の物と一度考えれば、一回生まれたと言います。

 次に二番目の種類の生、つまり凶悪な抽象面、心の面の生について熟慮しなければなりません。物質面、身体面の生は本当の自然で、母の胎から生まれればイダッパッチャヤターで、本当の自然に経過し、そして一回しかありません。次に子が身体面で生まれれば、次にあるのはナーマダンマ(抽象物)面、あるいは心の面で生まれるだけです。

 しかしブッダはマハータンハーサンカヤスッタ(愛尽大経)等で、その子は欲情と呼ぶものの意味を知るのに十分なだけ大きくならなければならないと言われ、その子は、形・音・臭・味・接触・考えと呼ぶものの意味を知るだけ成長しなければなりません。そうすれば二番目の種類の生まれることができます。ブッダは何歳とは言われていませんが、それは多分、欲情面の知恵がついた子供を意味しています。

 初めは砂遊びを知り、小さな車で遊び、小さな家で遊び、こういうのは、まだ生まれません。そしてその後、欲情面になる形・音・臭・味の面の美味しい意味を知ると、その時生まれます。つまりその子供は幸受などを受け取り、そして取でその受に執着し、あのような、そのような願望が生じ、そして欲しがっている物に執着します。

 だから俺という感覚が生じ、俺は手に入れなければならない、俺は絶対に欲しい、俺は美味い、あるいは俺は美味い物を失ってしまうという感覚が生じます。このように俺という感覚が生じれば何時でも、その時その子は二番目の生、ナーマダンマ面の、あるいは心の面の生を知っていると言うことができます。

 先ほど僧が読経した縁起と呼ぶものがその子供の心に現われたことを意味します。つまり人と同じように無明があり、欲望があり、取があり、いつが始まりとは言い難いですが、欲望・取である種類の感覚が生じれば、僅かでもそれは縁起になり、そしてその子供は二番目の生、つまり心の面の生を知ります。

 次に私たちは心の面の生の話を、学んで理解し合っている物にすべきです。そうすれば心の面の生れる話を理解できます。「この種の心」と呼ぶものの発生を知らなければなりません。この種の心は、煩悩がない自然の心ではなく、煩悩がある心を意味します。

 子供が母の胎から生まれ、あるいは母の胎内にいても心はあり、生まれてまだ煩悩を知らない子供も心はありますが、その種の心は、まだこの種の心ではありません。話すと可笑しいです。私が話す種類の心は成長して「俺、俺の物」になる種類の心です。

 この話を良く知れば、彼らがバヴァンガチッタ(有分心)と呼ぶ普通の心、つまり生き物は必ずバヴァンガチッタの類の心がありますが、煩悩になる種類の考えはしません。次に目耳などを通して関わって来る物があると、普通の心はこれらの物を規定する別の種類の心に変化します。つまり普通の状態を捨て、これらの感情を規定する心になります。

 このようならパヴァンガチッタと呼ばず、サマンナーハーラチッタ(存念心)と呼んだり、アーヴァッジャナチッタ(転向心)と呼んだりします。つまり形・音・臭・味・接触・考えに接近している心で、彼らはサマンナーハーラチッタ、感情で引き留めて規定する心「アーヴァッジャナチッタ」と呼びます。

 パーリ語が憶え難ければタイ語で、立ち上がって感情を引っ掴む心と憶えても良いです。それらの間中無明、つまり無知、知識に欠けることがあります。この項目は、教育を受けていない、聖人の説法を聞いていない、聖人のダンマの薫陶を受けていない人の心は明がない心で、明がなく、知識がないので、意味として無明、無知があると見なす、としっかり憶えておいてください。

 これに関してブッダは、初めて聞いた私がびっくりしたように、「この少年はまだ、二度と煩悩が生じないようにするチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)の知識がありません」と言われています。これはヴィッジャー(明)と呼ぶものは煩悩を生じられなくする知識で、その場合は心の威力、あるいは智慧の威力で煩悩から解脱します。

 このような解脱を小さな子供は知らず、若者も知らず、知らない部類に入り、常に無知です。だから心が、何の感情でもパッと掴んだ途端に無明がついて来ます。つまり無知が心に生じれば、知識に欠ける心は目・耳・鼻・舌・体・心から生じた感覚などをパッと掴むので、無明触=無明で感情に触れると言う状況が生じます。

 次に接触について多少知るべきです。接触と呼ぶものも二種類、あるいは二段階あります。それは知るべき以上で、あるいは知るべき状態でも、この二種類の接触の話は過剰か過剰でないか、自分で考えて自分で判断して見ます。目で形を見た時、目が何らかの物を見た時、このように目がその形を見ることを最初の接触と言い、目をとおして触れる接触です。

 これだけの接触では、まだ問題は生じません。これは目が形に接触しただけ、パーリ語でパティガサンパサ(有対触)と言い、目が形に触れた接触です。同じように、誰が目を開けてどの方向を見ても、形と呼ぶ物の接触で、木の形、人の形、いろんな物の形が見えます。

 それは触れることによる接触、パティガサンパサにすぎません。これはまだ大丈夫です。次に目が形を見た途端に、その形が美しいか美しくないか、女性の形、男性の形などが美しいか美しくないか、こういうのは二段階目の接触で、今度は心だけで見る形の美しさ、あるいは醜さに触れます。

 後の接触はその形と接触していなく、心が見た物の意味、あるいは価値と接触するので、触れることによる接触、パティガサンパッサと呼びませんが、「アディヴァチャナサンパッサ(同義語触)」名前だけの接触と呼ぶと、良く区別してください。名前だけの接触とは、心はその形と接触しませんが、目が一度接触した形等の意味と接触します。

 ね、すぐに混乱するので良く聞いてください。目が外部の形に接触すると、それはパティガサンパッサ(有対触)で、このパティガサンパッサから、美しい・美しくない、女・男、可愛い・可愛くないという感覚が生じ、その物の意味があり、心がそのものに接触し、それをサンニャー(想)と呼んだり、ヴェーダナー(受)と呼んだりします。

 これは全部マノーサンパッサ(意触)で、チャックサンパッサ(眼触)ではありません。よく注意してください。それは意触、目が触れられる物に触れる意触です。

 後者の接触をアディヴァチャナサンパッサ(同義語触)と言い、これが苦を生じさせる悪者です。その時心、あるいはマノーは無明でそれに触れ、それには明がなく無明があるので、目・耳・鼻・舌等が形・声・臭い等に触れるとサンニャー(想)やヴェーダナー(受)になります。

 これをアディヴァチャナサンパッサ(同義語触)と言い、それは心の接触なので触れる物がある接触と呼ばず、言葉だけ、名前だけの接触と言います。しかしこの名前だけの方が、衝撃である触より悪いです。

 これが、ブッダがこのように話しておかれたパーリ(ブッダの言葉である経)にある接触の話です。今ただの接触の話しかしないので、それは何種類あるか、そしてどの種の接触が危険で、苦を生じさせるかを分からなくさせる原因です。

 今次のようにまとめることができます。無明による接触は、接触した外部の五つのアーヤタナ(六処)から生じた何らかの意味へのマノー(意)の接触で、目が形に触れ、耳が声に触れ、鼻が臭いに触れ、舌が味に触れ、皮膚が皮膚に触れた物に触れると直接衝撃があり、こういうのを彼らは直接の衝撃と言います。

 次に五種類のいずれか一つが接触した後、心はもう一度、その五種類の衝撃から生じた価値、あるいは意味と接触をし、この二番目の接触をアディヴァチャナサンパッサ(同義語触)と言います。この接触は、無明がいっぱい混じっている接触で、無明触なら、何もかも無明の成り行きになります。

 無明による接触がヴェーダナー(受)を生じさせ、その受は無明が混じっている受で、それはタンハー(欲望)、つまり無明による望みを生じさせ、その結果無明によって「俺、俺の物」と感じ、そして無明の俺が生まれ、ジャーティ(生)になります。この種の生が生じるといろんな物が苦になり、老・病・死・損・得、全部苦になります。この種の生と呼ぶ物が先に生じなければなりません。

 だから「ジャーティパッチャヤー云々」、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じると言うのを思ってください。縁である生がなければこれは生じません。あるいはありません。次にこの種の生、つまり俺、俺の物という感覚である生は、外部の物に接触した時に無明から生じたばかりです。その前は生じてなく、無明はなく、無明は現れず、俺、俺の物はどこにも生じていませんでした。

 無明は終始生じていると、あるいは俺、俺の物はいつでも心に生じていると理解しないでください。無明も生じたばかりで、俺、俺の物もその後生じたばかりです。無明は無知で、人の心にあるようでも、生じたと見なさず、義務をした時生じたと見なします。つまりそれは義務をします。

 だから六処を通した触があり、心の面の接触があると、つまりもう一度内部の処と接触すると、この時無明、つまり知識がない状態が現れ、その接触が加工して人に危険を成す種類の結果を生じさせます。だから二種類の接触が十分ある時はいつでも、俺、俺の物になる部分の縁起の流れが生じ、無明で触れば受があり、幸福や苦、あるいは幸福でも苦でもないと感じます。

 幸福と感じるとローバ(貪)、あるいはラーガ(貪欲)の種類の煩悩が生じ、幸福と感じなければ、苦と感じればドーサ(怒り)、あるいはコーダ(憤り)の種類の煩悩が生じ、まだ幸福でも苦でもなければモーハ(痴。迷い)の種類の煩悩が生じます。だから無明で受け取った受は、どれも煩悩を生じさ瀬なければなりません。

 もう一度復習すると、幸受が生じればラーガ(貪り)あるいはローバ(貪り)の種類の煩悩が生じ、苦受ならドーサ(怒り)あるいはコーダ(憤怒)の種類の煩悩が生じ、幸福でも苦でもない受が生じればモーハ(迷い)の種類の煩悩が生じ、対である全部揃います。

 だから無明から生じる受は、無明で感情に触れるので無明から生じた受になり、この受は、貪り、怒り、迷いのいずれかの煩悩を生じさせます。次に私は貪り・怒り・迷いと呼ばず、タンハー、欲と呼びます。好きなら欲しい、嫌いなら叩き殺したい。ね、このようにカーマタンハー(愛欲)、バヴァタンハー(有欲)、ヴィバヴァタンハー(無有欲)になります。

 心が欲しいと感じる、その願望に自分の意味があります。心が無明によって欲しいと感じなければ、その心には自分という意味の感覚はありません。これは自然の簡単な規則で、西洋人でも分かります。西洋人が自我に関して書いた哲学書の中の、フランス人のデカルトという哲学者は「我思う、故に我あり」と言いました。これはラテン語で、cogito ergo sum =我思う、故にわれありと言います。

 私は欲しい、私はこれが欲しいと考えるので、私はこれが欲しいという感覚は願望が生じた時にあり、タンハー、つまり欲望が生じ、、これが俺を生まれさせ、欲しくなると、取で欲しがっている物に執着し、その生れることが熟すと受胎し、有になり生になり、俺、俺の物として開花すると、良く理解してください。だから「俺」は本物で常にあると考えないでください。それは無明が欲しがらせた時に生じたばかりです。

 無明で感情に接触すれば無明による受があり、無明で欲しがります。無明で欲しがることの中に俺という感覚があり、俺に関わる物があれば、それは俺の物で、俺と俺の物が一緒にあり、俺のために欲しい、俺の物のために欲しい、何でもたった今俺という意味になったばかりの感覚があり、これを生じたと言います。

 だから介入して関わる煩悩がある目の感情に依存して一時生じ、耳・鼻・舌等の感情に依存して一時生じます。介入して関わる煩悩がなければ、それはありません。

 復習させていただくと、無明が介入して関わらなければ、目が形を見ればそれで終わります。どの方向でも良いのでちらっと見てごらんなさい。耳が小鳥の声を聞いても、ほとんどの人は何も関心がなく、欲望は生じず、取も何も生じないので、それは終わります。鼻が臭いを嗅いでも同じで、何の臭いでもそれだけです。

 しかし俺、俺の物になる場合はこのように終わりません。形を見ると、思って、思って、思うので、得になり損になり、利益になり、そのようにこのようになり、最後に煩悩が生じます。あるいは鳥が鳴くのを聞くと、鳥に迷っている、あるいは鳥の声に迷っている、あるいは鳥を捕まえて売るか何かすることを考えている人は、じっとしていられません。それはただ生じて消えず、欲しがり執着する感覚があります。

 だから鳥の声を聞くことも、罠に掛けて捕まえて売る俺を生じさせることができます。しかし私たちがここに座って鳥の声を聞いていると、それは終わり、その後続きはありません。無明、つまり愚かさや迷いで鳥の声に触れないので、聞かないのと同じです。

 良く注意してください。第一の接触はまだ危険でなく、パティガサンパッサ(有対触)と呼ぶ六処の接触だけです。アディヴァチャナサンパッサ(同義語触)である二番目の接触になると無明が登場し、そして受が生じ、欲望が生じ、取が生じ、そして俺、俺の物が生じると言う時で、これは注意しなければなりません。

 だから「俺、俺の物」は今ここで生じたばかりと、はっきり見てください。すべては最高の、究極のイダッパッチャヤターの法則です。それは外部の物が触れることから生じ、それから内部のアディヴァチャナサンパッサが触れることが生じ、そして受が生じ、欲望が生じ、取が生じ、有が生じ、生が生じ、つまり十分な俺が生じます。これを心の面で生まれる、あるいはナーマダンマ面で生まれると言います。

 これが私、素早く簡単で、死ぬまでには数えきれない心ほどしょっちゅう生じる心の面の俺、ナーマダンマ(抽象物)の俺です。身体面の自分は母の胎から一度生まれたら終わり、棺に入るまで待つので、一度で終わり、一度しか生まれられません。しかしナーマダンマ面、心の面、煩悩面の生まれることはたくさん生れられ、一日に何回か知れず、場合によっては何十回かも知れません。

 最初の接触はアーヤタナ(六処)だけの触で、アビダンマの言葉では粗い触、粗い想、粗い受と言い、オーラーリカー(広大な)と言います。次にマノーだけの二番目の接触は繊細で、スクマー(繊細)と言います。葬式で僧がアビダンマを読経するのを聞くと、オーラーリカー ヴァー スクマー ヴァー ヒーナー ヴァー パニーター ヴァーという言葉を聞きます。

 想の、受の、何のオーラーリカー ヴァーという言葉は、パティガサンパッサである外部の接触という接触で、これは粗く、まだ意味はありません。しかしマノーが最初の意味と接触するとこれも繊細になり、名前だけと言わなければなりません。つまりこのアデヴァチャナは名前だけで、何も実体のある物ではありません。この接触、想、受はスクマー、つまり繊細です。

 そしてスクマーである物は困難を防止します。それは繊細で緻密で管理が難しいので、見るのが難しく、理解が難しいです。一方のオーラーリカーは石のようで、石を投げて木に当たるとポンと音がする、こういうのはパティガサンパッサ(有対触)の話で粗い接触です。しかしそれから得た意味なら、心が触れれば繊細で理解が難しく、知らない間に煩悩を生じさせる接触になります。

 次に自分はいつ生じるか、考えて見てください。イダッパッチャヤターの法則で、二番目の種類の自分が生じ、二番目の種類の生まれること、内処が外処に接触した時に生じ、それから目や耳の識が生じ、内部と外部のアーヤタナ(六処)と識が集まって何らかの結果が生じて、それを心が受け取る。こういうのを外部の物と触れるだけでない本当の触と言います。

 この接触は本当です。心で接触し、心で心に触れ、そして無明があるので、それが受・欲望・取を生じさせ、その感覚の中に私があり、俺があります。

 このように繊細になり、このように複雑になり、このように糸のように繋がれば、これがイダッパッチャヤターです。母の胎から生まれれば身体式のイダッパッチャヤターになり、無明から生まれれば、こういうのは煩悩式の、心の、ナーマダンマ(抽象物)のイダッパッチャヤターになります。

 だから母の胎から生まれた自分もイダッパッチャヤター、ナーマダンマから、無明から生まれた自分もイダッパッチャヤターで、どの種の自分もイダッパッチャヤターと言うことができます。自分は二つの意味しかないので、どの意味の自分もイダッパッチャヤター、「すべての意味の自分である物であるイダッパッチャヤター」と言うことができます。

 次に私たちは後者の自分、後者の生まれることを、もう少し詳しく知るべきです。ジャーティ(生)という言葉は母の胎から生まれることでも、無明から生まれることでも良いです。後者は無明から生まれ、煩悩から生まれ、ナーマダンマから生まれ、感覚の中で俺、俺の物になります。

 これはブッダが、マハータンハーサンカヤスッタ(大愛尽経)の中で、「ヤー ヴェーダナース ナンディ=すべての受の中のどんな楽しさも、タドゥパーダーナン=その楽しさが取です。ウパーダーナパッチァヤー ヴァヴォー=その楽しさの取は縁であり、だから有が生じます」と話しておかれました。

 聞いてみてください! すべての受の中のどの楽しさも、それは取です。私たちに受がある時はいつでも、つまり幸受でも、苦受でも、不苦不幸受でも、直接でも間接でも、どのようでも心の満足があれば、その受の惑溺が苦受なら怒りを愉しみ、嫌悪を愉しみ、幸受なら愛を愉しんで恍惚となり、どちらもナンディと言います。その受が愉しみになることが取で、そしてその取は有を生じさせます。

 だから私たちが有と呼ぶ物が、そこでその時、心がその受に陶酔している時に生じます。棺に入る時に有があるのでなく、それで有があるのでなく、それは今ここで、つまり受がある時に生じ、そしてその受に愉しさがある時はいつでも、その愉しさが取で、その取が縁で有があります。ブッダはそのように言っています。

 次にバヴァパッチャヤー ジャーティ=その有が縁で、ジャーティ、生まれることがあります。これが二番目の生で、俺、俺の物が生まれること、ジャーティです。俺、俺の物がやきもきしている、これをジャーティ=生と言います。

 先にこのようなジャーティがなければなりません。そうすればその後苦があります。生、つまり俺がなければ、老・死はなく、あり得ません。たとえあっても意味がありません。毎日老いて病んでいても、心の中に俺、俺の物という生が生じるまでは何も意味がなく、それが生じれば病気を恐れ、患いを恐れ、死を恐れ、そして病・死の話の問題があります。

 「老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・いろんな悩みと呼ぶあらゆる種類の苦は、「俺」、つまり有・取・欲・受から生じる「俺」である種類の生が生じてしまうまでは意味がない」と、良く憶えておいてください。だから無明による受がある時はいつでも取があり、有があり、そしてそこに生があります。

 生が生じ俺が生じた途端に、一時周囲に苦があり、それを思っても苦、これを思っても苦、手に入れても苦、失っても苦、全部苦になります。この種の生、つまり二番目の生と呼ぶ俺、俺の物になる抽象的な生が生じれば、すべてが苦になります。だからブッダは「すべての苦の山は、このような状況で生じる」と言われています。

 これを「心の面の生は煩悩から生じ、母、つまり無明・欲望から生じ、身体の面の生は本当の母から、人である両親から生まれる」と言います。しかし苦になる心の面、ナーマダンマの面の生はもう一種類の両親、つまり無明・欲望から生まれます。

 無明欲望が、俺、俺の物を産もうとヤキモキしている両親です。生まれることジャーティ(生)はこのような状態で、このような順に生まれ、このように確実です。これがイダッパッチャヤター、つまりイダッパッチャヤターであることです。

 次にもっとハッキリ理解するために、もう一つの経について話します。この経ではアーヤティン プナッバヴァービニッバティという言葉を使われ、それは「次に新しく生まれること」とハッキリしています。アーヤティンとは続いてという意味で、プナッバヴァー=新しい有、アビニッバティ=突然生まれ、その後新しい有に生まれるとはどのような意味か、聞いてください。つまり棺に入る時まで待つ必要はなく、今ここでという意味です。

 次にどのように新しい有に生まれることがあるのでしょうか。パーリ・ニダーナサンユッタには、ヤンチャ ビッカヴェー チェテティ パカッペティ ヤンチャ アヌセティ、アーラムママナメタン ホーティ ヴィンヤーナッサティティヤー、アーラムマネー サティ パティッター ヴィンヤーナッサ ホーティ、タスミン パティッティ ヴィンニャーネ ヴぃルルヘー アーヤティン プナッバヴァービニッバッティ ホーティとあります。

 要旨は短く、パーリでこれだけです。意味は、ヤンチャ ビッカヴェー チェテティ パカッペティ ヤンチャ アヌセティ=比丘のみなさん。心が何かの感情を考え、何かの考えがあり、何かの感情に埋もれると、その感情は識が維持するための感情になります。良く聞いてください。

 何かの感情=チェーテーティを考えると、心はパカプッペーティ=その感情を欲しがる考えが完成し、そしてヤンチャ アヌセーティ=その心は何かの感情の中に潜り込む、あるいは眠ります。その感情は当然識を維持するための感情です。ここでの識は、先ほど述べた二番目の、アディヴァチャナサンパッサ(同義語触)の働きをするマノーヴィンニャーナ(意識)です。これはチンプンカンプンのように見えます。

 もう一度繰り返させていただきます。心が何かの感情を考え、何かの感情の考えが終わり、それが何かの感情の中に埋もれると、その感情は識を維持するための感情、つまり密かにアディヴァチャナサンパッサ(同義語触)の働きをする意識になります。

 アーラッマネー サティ パティッター ヴィンニャーナッサ ホーティ=識を維持するための感情があれば、識の住む場所は当然あり、タスミン パティッテヴィンニャーネ ヴィルヘー=識に居場所があって成長すれば、アーヤティン プナッバヴァビニッバッティ ホーティ=次の有に生まれることは当然あります。つまりそこにあります。

 その感情は識を維持するための感情になり、その種の感情に居場所があれば当然識があり、識が居場所を得て成長すれば、その後新しい有に生まれることが当然あります。つまりそこにあります。

 ここでの新しい有とは縁起の中の有のことで、生、つまり俺、俺の物を生じさせます。次にその後の有があれば、疑うまでもなく老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みも居場所があるので、生じます。

 次に心が何の感情も考えなければ、何の感情の考えも出来上がらないので、何の感情の中にも埋もれません。その感情は識の基盤でなく、識に成長の基盤がない間はずっと、新しい有が生まれることはありません。

 みなさんは一時間も座っていて、まだ新しい有、新しい俺に生まれるための感情がありません。しかしぼんやりすればいつでも、心は何らかの感情の中に埋もれ、新しい有、つまり二番目の俺、三番目の俺、四番目の俺を次々に生じさせる基盤があります。それを新たに生まれる次の有と言い、ぼんやりする度に生まれることができます。心は考え、考えが完成し、埋もれ、つまりいつでも何らかの感情の中に寝れば、その時新しい有の感情が生じます。

 新しい有が生まれることを、今日の一番の「俺、俺の物」、二番の俺、三番の俺、等々「今日の俺」と言います。今日俺が何人生れても、それは有が生じただけで、どの種類、どの回もイダッパッチャヤターです。この種の自分もイダッパッチャヤターです。

 他にありません。幽霊でも天人でもなく、どこから来た霊でもなく、他の世界、あるいはどの世界から来たのでもなく、それはイダッパッチャヤターの威力で触れ、そして知らないうちに考えを作り出し、気づかせる術はありません。しかし俺、俺の物である時は必ず苦になります。これを「新しい有に生まれる」と言い、自分になり、何かになる、これをイダッパッチャヤターと言います。

 次にこのパーリには「新しい有に新たに生まれる」と言っても良く、「ナーマルーパ(名形)に進む」と言っても良いとあります。ナーマルーパッサ アヴァッカンティ、時にはナティと呼ぶこともあり、有に導くものという意味です。私たちがこのようにぼんやりすれば、ナティ、つまり新しい有に導くものが生まれます。

 先ほど言ったようにぼんやりすれば、続いて新しい有に生まれることが生じると言うことも、新しいナーマルーパに進むと言うことも、新しい有に導く物、ナティつまりタンハー(欲望)が生まれると言うこともできます。ナティあるいはタンハーがあれば、俺、俺の物が生じなければならず、それは苦だけに遭遇します。

 だからこの体を受け取ること、このように次々に新しい体を受け取ることがあり、無明の威力で愚かになる度、ぼんやりする度にあります。これを「体を受け取る」と言っても良く、アッタバーヴォーは自分であること、アッタバーヴァラーボー=体を受け取ることなので「生まれる」でも良く、「次の新しい有を生じさせる」でも良く、「新しいナーマルーパに進む」と言うこともできます。

 この「体を受け取ること」は非常に簡単で、仏教教団員の中では非常に簡単に見えます。ブッダは、ヤン コー ビッカヴェー カーマヤマーノー タッチャン アッタバーヴァン アビニッバッテーティ プンニャバーギヤン ヴァー アプンニャバーギヤン ヴァー タッチャン ヴッチャティ ビッカヴェー カーマーナン ヴィパーコー=

「比丘のみなさん。人(心を意味する)がどんな愛欲を求めても、どんな欲情があっても、彼は当然その感情から、その愛欲から体を生じさせます」と言われました。心がカーマキレーサ(愛欲煩悩)の威力でどんな欲情でも求めれば、彼は当然その欲情から新しい体を作ることができます」。

 意味が分かりますか。カーマヤマーノー=求めているというのは、これはキレーサカーマ、つまり愛欲であり、欲求である煩悩で、それがどんな愛欲の物を求めても、その愛欲から新しい体を作ることができます。プンニャバーギヤン ヴァー=徳の部分もあり、アプンニャバーギヤン ヴァー=罪の部分もあり、「比丘のみなさん! これがすべての愛欲から生じる、最高に熟した結果です」。

 愛欲から生じた最高に熟した結果は「新しい体」で、この心がどんな愛欲を求めても心の状態を変化させ、その人物の状態を別の状態に変化させるので、そこで、その座っている場所で新しい体を得、徳である体も、罪である体もあると言われます。

 普通の庶民の言葉で言えば、心が徳である考えをすれば徳のある人に生まれ、心が罪である考えをすれば、そこで罪のある人に生まれます。これをこの意味の新しい体を受け取ると言います。

 次にそれは愛欲だけでなく、ブッダは「ヤン コー ビッカヴェー ヴェーダヤーマノー云々=比丘のみなさん。どんな受でも味わっている人物は、彼は当然その受から特別な体を生じさせます。徳の部分がある体もあり、罪の部分がある体もあります。比丘のみなさん。これが受の報いです」と言われました。ね、受を遊びにしないでください。これが受の報いとは、受が今ここで新しい体である報いを生じさせ、徳の体も、罪の体もあるという意味です。

 そして先ほど話した受は、アディヴァチャナサンパッサ(同義語触)から生じた受で、無明があり、無明触であり、これは詳しく話しました。そしてその受について思わなければなりません。人物がその種の受を味わえば、彼は当然その受から新しい体を生じさせます。「比丘のみなさん。これがそのヴェーダナー(受)から生じた報い(熟した結果)です」。

 次に第三項も同じですが、アーサヴァ(漏)という言葉を使い、ヤン ビッカヴェー アヴィッチャーガトー 「比丘のみなさん。無明に至った人、つまりどんなアーサヴァでも無明がある人は、当然そのアーサヴァから新しい体を生じさせ、徳の体もあり、罪の体もあります。比丘のみなさん。これがすべてのアーサヴァから生じる報い、結果です」。

 次に「アーサヴァ(漏)」と呼ぶもの、これは何回も話して聞かせたことがありますが、「それは何か」あまり関心がなく、本性の中にジッと静かに眠っていて、生じたり消滅したりしない物と誤解しているように見えます。それは常見です。

 勝手に言うのをお許しいただければ、それは狂っています。アーサヴァ(漏)は本性の中でジッと静かに眠っている不変の物で生滅せず、本性の中に眠っていて、感情を手に入れると起きて来ると言うのは、最高に狂っていると言います。

 アーサヴァは生滅するもので、そして生じたばかりですが、生じてどんどん増えます。どんどん習慣が増え、一度愛すとラーガ(貪欲)の種類のアーサヴァ(漏)が生じ、カーマーサヴァ(欲漏)、あるいはラーガの種類のアーサヴァが愛す習慣を集めます。一度怒ると怒る習慣が一度増えます。

 次にその習慣は厚くなり、生じ易くなり、あるいは怒るか愛すか確信がなく、幸福か苦か分からない時はアヴィッチャーサヴァ(無明漏)が生じ、愛らしい幸福の感情ならカーマーサヴァ(欲漏)が生じて愛させる煩悩が増え、愛が流れ出す類の煩悩の習慣が増えます。

 苦である感情、苦である受に出合えばパティカーヌサヤ(瞋恚随眠)の堆積が生じ、幸福か苦か確信がない感情なら、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)、あるいは愛でも嫌悪でのない種類のアーサヴァ(漏)が増えます。これが愛欲、あるいは限られた範囲で話されているヴェーダナー(受)から分れたアーサヴァ(漏)です。

 次に無明があれば、アヴィッチャーガトー、つまり無明があれば無明の威力で行くので、アーサヴァ(漏)に導きます。無明はアーサヴァ、つまり何らかの煩悩を生じさせる習慣に導き、その人はそのアーサヴァから、徳の部分もあり、罪の部分もある体を生じさせます。「比丘のみなさん。これがすべてのアーサヴァ(漏)の報い、結果で」、愛欲に依存することもあり、ヴェーダナー(受)に依存することもあり、アーサヴァに依存することもあります。

 人が愛欲、受、漏を感じれば、それはその時、その途端に新しい体を作ります。これが心の面のナーマダンマ式の体です。だから人は一日に新しい体をたくさん作り、つまり生じてたくさんの俺、俺の物になり、生になります。

 しかし今、生まれる、あるいは進むと言わないでアッタバーヴァ(体)と言います。別の呼び方の代わりにアッタバーヴァと呼び、アッタバーヴァを得るとは、自我の状態です。自我の状態は自分の状態で、自分の状態は俺の状態です。アッタバーヴォーは俺の状態です。

 体、あるいは俺の状態は一日に何回も生じることができ、そして何らかの愛欲を味わい、何らかの受を味わい、愚かなので何らかの漏を訪ね、これを「一日に何回も新しい自分になる」と言います。こういうのが自分です。これはイダッパッチャヤターで、それ以上の何でもありません。本当の自分は「自分」と考える感覚にすぎません。この状態の自分は、どの部分も百パーセント、最高にイダッパッチャヤターです。

 これです。人間の目・耳・鼻・舌・体・心の触に介入する無明があれば、煩悩の話である内部の触が生じ、執着してその受に意味を持たせ、そしてそれが生を作り、自分である状態を作り、新しく生まれることを作り、俺を作り、その時そこに、呼び方次第の何かを作ります。これを「すべての意味の自分は、本当はイダッパッチャヤター」と言います。

 次はすべての挙措です。すべての挙措の中に「私たちは挙措と呼ぶ行動で生活している」と付け加えさせていただきます。煩悩のない心で体の行動をしていれば、どんな時のどんな挙措も身体だけの話で、ご飯を食べ、水浴をし、排泄をするなど、このような普通の行動に煩悩はありません。

 つまり煩悩が介入して関わらないで歩き、座り、立ち、日常的な何かをしている場合という意味です。煩悩がない時、立つ、歩く、座る、寝る行動はまだ煩悩がない、物質のイダッパッチャヤターです。しかしそれは、煩悩がまだ生じないだけなので、まだイダッパッチャヤターです。

 次に煩悩が生じればいつでも、私たちをジッとしていられなくし、煩悩に満ちた事情で立ち、煩悩で座り、寝、すべての行動に専念し、悶々とします。それがイダッパッチャヤターです。

 一部の人は煩悩がない心だけで行動し、もう一部の人は煩悩がある心で忙しく行動する。私たちの挙措はこれしかありません。

 今ここに座って、煩悩で座っているか、あるいは煩悩がなく座っているか、自問して見てください。しかしこの二種類の座ることもイダッパッチャヤターで、ここに座らせる原因があり縁があり、煩悩で、あるいは煩悩なしに座る、立つ、歩く、寝る、眠る、覚める、食べる、水浴する、排泄する、どんな挙措も、それは全部イダッパッチャヤターです。

 あるのは煩悩に満ちたイダッパッチャヤターばかりで、自然にすぎないイダッパッチャヤターです。このように思ってください。つまりイダッパッチャヤターと呼ぶものを知るために、このように見てください。

 次に話してしまいたいもう一つの話があり、それはカンマの話です。私たちに煩悩があればカンマを作り、カンマがあればカンマの結果があります。心に煩悩があれば、身業、口業、意業を作ります。カンマを作ることがあれば報い、つまりカンマの結果があります。煩悩もイダッパッチャヤターで、カンマもイダッパッチャヤターで、カンマの結果もイダッパッチャヤターです。それでカンマなしに、あるいはカンマの結果なしに暮せるでしょうか。

 ブッダは「この身体、この名身である体は古いカンマ」と言われています。ブッダが何を意味されたかは、「これは古いカンマ」と言われた言葉次第で、古いカンマの結果であり、少なくともカンマの流れに関わっている古いカンマの結果です。身体があり、命があり、ここに座っている私たち、このナーマルーパ(名形。心身)は古い結果です。

 ブッダはそのように言われ、それはイダッパッチャヤターです。次に煩悩がある時もイダッパッチャヤターで、新しいカンマを作ることもイダッパッチャヤターで、結果を受け取らせ、そしてそれはカンマを作り終わった人になりこの形の中にいる、あるいは適度に変化をしても、それもまだイダッパッチャヤターです。

 次にいつカンマを作るか、いつカンマを作ったと言うかは、無明がある時にカンマを作ります。無明が生じればいつでも、その時カンマを作ります。心が大人しくしていて無明が生じなければまだカンマを作らず、無明が生じた途端にカンマを作ります。

 いつ無明が生じるかは、目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅ぐなどした時に触が生じ、知識がなく無明がある触、アディヴァチャナサンパッサ(同義語触)である触の意味を受け取れば、「その時その人物に無明が生じた、その人物はアヴッジャーガトー=無明で行く人」と言います。それは無明と同じです。ブッダはこのことを、

 アヴィッジャーガトー ビッカヴェー プリサプッガロー=比丘のみなさん。無明で行った人物は、
 プンニャンチェー サンカーラン アビサンカローティ=当然徳であるサンカーラを作り、
 プンヤパガン ホーティ ヴィンニャーナン=その人の識は徳に行った識で、  プンニャンチェー サンカーラン アビサンカローティ=当然徳でないサンカーラを作る、
 ウプンニュ-パガン ホーティ ヴィンニャーナン=その時その人の識は徳に行った識で、  アネジャナジェ サンカーラン アヴィサンカローティ=当然不動であるサンカーラを作る、
 アネジューパガン ホーティ ヴィンニャーナン=その時その人の識は、不動に行った識、と言われています。

 このカンマの結果は、徳・不徳・不動の三種類に分けることができます。徳は良く知られているようで、不徳は罪です。一方不動は徳と言う以上で、これは無形禅定、あるいはいろんな空無辺処、つまり高いレベルの徳・罪の威力に動揺しない心の状態を意味します。

 しかし煩悩がなくなったから動揺しない訳でなく、煩悩は終わっていないけれど動揺しないのは、禅定が占拠しているから動揺しないでいられます。こういうのは徳より高いと見なし、不動(アネジャー)と言います。

 次に人はこのような三種類だけのカンマを作って循環し、徳や罪や不動にするサンカーラを作ります。徳であるサンカーラを作れば、その人のヴィンニャーナ(識)は徳に行き、つまり徳になり、あるいは途端に良くなります。

 ね、私は何度も何度も話しましたが、善いことをすれば善だけ、悪をすれば悪だけ、一瞬も待つ必要はないと誰も信じる人はいません。このブッダバーシタは「徳であるサンカーラを作れば、その人の識は(そこで即座に)徳に行く」と言われた教えがあります。だから私は、善を行えば善だけ、悪を行えば悪だけ、善行は本当の善を得、悪行は本当の悪を得ると言います。

 しかし強欲な人たちは「そのお金を手に入れた時が善。布施をしてお金を手に入れ、御殿を手に入れた時が善」と勝手に言い直してしまいます。ブッダはそのように言われません。徳であるサンカーラを(行)作れば途端に徳になり、罪であるサンカーラ(行)を作れば途端に悪になります。だから善を行えば善で、悪を行えば悪と信じる人は、このように言われたブッダバーシタを信じなさい。

 しかしこのように確実で、このように真実でも、まだそれはイダッパッチャヤターで、徳もイダッパッチャヤター、罪もイダッパッチャヤター、不動もイダッパッチャヤター、カンマを作る原因である煩悩もイダッパッチャヤター、カンマもイダッパッチャヤター、カンマの結果もイダッパッチャヤターで、三つ繋げれば更にイダッパッチャヤター、つまり縁起の段階のイダッパッチャヤターです。

 次にブッダが「無明と呼ぶものはすべての物に生じることができる」と言われたと、注意しなければならない項目があります。ブッダは「イメース アーナンダ ダンメース アヴィッジャー アヌパティター=比丘のみなさん。この無明は、当然すべての物に取を生じさせるすべてのダンマに落ち、無明がそこに繋がっている」と言われています。可愛いくても、可愛くなくても、形・音・臭・味・接触・考え、取を生じさせる物は何でも取の基盤です。

 これらすべてのダンマの中で、アヴィッジャー、アヌパティター、アヴィッジャーが後を付け、陥り、アヌパティターはその中に陥ると言う意味で、無明がこれらの取の基盤であるダンマの中に陥っています。

 すべての世界の中を考えて見てください。取の基盤であるすべての物以外に何もありません。この世界の一種類でも、何百種類、千種類、万種類、十万種類、百万種類、数え切れなくても、すべては取の基盤で、それらすべての中に、ヴィッジャー アヌパティターです。見てください。あるのはイダッパッチャヤターだけで、無明が介入すればどこでもイダッパッチャヤターです。

 次に無明の餌である物は何でも、それはイダッパッチャヤターです。つまり加工する因と縁が生じさせ、変化して行くものです。すべての行はイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤターの物は何でも、それは有為の側の、つまり因と縁がある側のタタターです。

 だから人にはカンマである行動があり、徳でも罪でも不動でも、私たちが意図したすべての挙措にこれらのカンマがあります。徳でなければ罪、罪でなければ不動なので、すべての挙措は何らかの意味のイダッパッチャヤターです。

 だから何回も話して来ただけで、イダッパッチャヤターという言葉の意味に、うっすらと理解が生じていると希望します。今までたくさん聞いた他の話のように明確明瞭な理解でなくても、みなさんはイダッパッチャヤターの意味、あるいは何らかの状態を、うっすらと理解し始めていると期待します。

 イダッパッチャヤターについて三回話したからです。私がイダッパッチャヤターという言葉を何百回口にしたか数えて見ると、千回になるかもしれません。今回イダッパッチャヤターという言葉を、ほとんど千回話しています。

 だからみなさんがイダッパッチャヤター(縁生。因果)の話に、ぼんやりした理解があることを期待します。「これがあれば、これが縁で、これが生じる」という意味で、ルーパ(具象)でもナーマ(抽象)でも、煩悩でもカンマでも、報いでも原因でも、縁でも結果でも、何にでも使うことができ、イダッパッチャヤターの流れの外にある物は何もありません。

 それは一つの法則であり、それで経過し、そしてその法則で経過した結果を受け取ることがあります。これが今生まれ、老い、病み、死に、動き、すべての挙措を循環している人、私です。これがイダッパッチャヤターの流れです。

 見ると、俺はいないと感じ、俺の物はなく、自分はなく、自分のものはなく、あるのは、そのようであることタタター、そのような状況と異ならないことアヴィタタター、他のようにはならないことアンニャタター、これがあればこれが縁でこれが必ず生じ、これがあればこれが縁でこれが生じると、このように続くイダッパッチャヤターである自然だけと感じます。

 これがダンマッティタターで当たり前にあり、これがダンマニヤーマターで当たり前の物不変の法則であり、これがダンマダートゥ、つまりブッダが「如行が生まれても生まれなくても、これはこのようである」と言われたダンマのダートゥで、これがイダッパッチャヤターです。

 どうぞこの言葉を持ち帰って考え、思い、熟慮してください。そうすれば仏教のすべてを更に深遠に知ります。これがすべての意味の、そしてすべての挙措の自分であるイダッパッチャヤターです。

 時間もちょうど良いので、これで今日の講義を終わらせていただきます。
 


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