宗教間で交渉する物であるイダッパッチャヤター


1972年2月29日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。第八回目の講義は、みなさん良くご存知のように、予定どおり「宗教間で交渉する物であるイダッパッチャヤター」と題してお話します。

 この話の目的を、イダッパッチャヤター(縁生。因果)の話である教え、あるいはパティッチャサムッパーダ(縁起)、あるいはイダッパッチャヤターという言葉でも、みなさんにとって明らかな物、聞き慣れ、言い慣れ、心で慣れたものにすることを目指しているので、私は何度も何度もこの話について話し、そしていろんな角度で理解するために、いろんな角度で話す努力をしていると繰り返させていただきます。

 要旨は、イダッパッチャヤターと呼ぶものは「すべての物」であり、「すべての物の心臓部」でもある点にあります。それがすべての物の心臓部なら、すべての物はこれと矛盾すべきではありません。つまりこの角度と一致し、外面はどんなに違っても中身は同じであるべきです。

 イダッパッチャヤターである法則、あるいは状況は、例外なくすべての物にあり、過去の講義で述べたように三宝、あるいは三学に関わる場合も、例外なくすべての物にあります。

 宗教と呼ぶものもイダッパッチャヤターの状態と法則の中にあります。つまり因縁の法則と、因縁の威力で経過します。すべての角度の宗教と呼ぶものは、イダッパッチャヤターの情況とイダッパッチャヤターの法則と関わっています。みなさん、世界のすべての宗教の歴史を見られるだけ探して、学べるだけ見てください。

 すべての宗教の歴史は、当然その宗教はイダッパッチャヤターの情況に関わり、イダッパッチャヤターの法則次第で、時間の威力、国の権力、つまり場所と環境的すべての出来事の威力で経過します。このような状態に陥っていない宗教は何もありません。

 その宗教の由来を良く見るべきで、そうすれば、どの宗教もイダッパッチャヤターの法則に関わっている深遠な心臓部があり、そして外部の出来事、つまりその宗教の歴史はイダッパッチャヤターの法則で経過し、その法則で経過しない物は何もないと気づきます。これがイダッパッチャヤターの話の講義の度に、この話の講義の期間が終わるまで繰り返し復習していだだきたいことです。

 今日は、宗教間で争わないで、憎み合わないで、軽蔑し合わないで一つになるために、宗教間で交渉するものであるイダッパッチャヤターについて述べます。

 今私たちの世界は危機に瀕していて、複雑困難で苦しいという、一つの事実を見てください。なぜでしょうか。それは知らないから、あるいは間違って知っているからです。つまり矛盾して知るので、宗教に関した場合も悪意で考えます。宗教の関係者は盲人のようなので、直接でも間接でも他人を虐待凌辱します。宗教を間違って理解するので、自分があり、他人があるからです。

 これらの人は、物質や身体の利益の威力下に落ちています。物質面や身体面の利益だけを探求すれば、宗教を自分の利益を集める道具にするので、宗教を道具に使う利益のことばかり考える威力で争わなければなりません。宗教間の争いはこのような理由であります。

 次に同じ宗教界でも争いがあると、もう一度詳しく見ます。これは仏教教団員の中でも違う勉強をし、違って知り、そして何を知れば良いか分からないほどたくさん知って、そのダンマを向こう岸に渡るイカダに使う代わりに、解いた竹で叩き合って争い、憎み合い、宗派に分かれると言います。同じ宗派の人も争います。

 これはその宗教の本物を理解しないから「私、彼」があり、私の見解、彼の見解があり、そして宗教と呼ぶもので喧嘩をします。これが目前の事実、あるいは目前にある問題です。どうすればこれらの問題を無くしてしまえるでしょうか。あるのは理解し合うことだけと、私は見ます。

 直接理解し合うことができなければ交渉して、互いに強情にならず、すべての角度から理解するために他者の考えや見方に耳を傾ければ、正しく理解できます。正しく理解すれば一致します。正しさは一つしかなく、何種類も、あるいは幾つもの側と言うことはあり得ないからです。これが同じ宗教の中でも、あるいは違う宗教でも、意見の違う人との間で妥協し合わなければならない項目です。

 次に交渉する物、あるいは交渉する道具は何でしょうか。私は、イダッパッチャヤターの話の教え以上に良い物は何もないと見ます。

 冒頭で「イダッパッチャヤターはすべての物の、すべての人の、すべての宗教の心臓部」と述べたように、それぞれの人がその話の心臓部を良く理解すれば同じになります。これが今日の講義の目的です。私たちは、宗教と呼ぶ物の間で理解し合うために、交渉することで理解し合うことができます。

 それ以上なら、人間に関わるいろんな物の間で理解をするために交渉できます。私は「すべてのヴィダヤーダンマ(知識である物)間の交渉」と呼びたいと思います。

 ヴィダヤーダンマという言葉は、何と呼んだら良いか分からないので、今組み合わせて使った言葉です。ダンマヴィダヤーとはヴィダヤー(学識)であるダンマ(物)という意味で、知識でも良いです。

 あるいは知識の基盤であるダンマでも良く、あるいは知識として使うダンマ、つまり実践のための知識でも良いです。この言葉は宗教、ヴィダヤー知識、ヴィダヤー学、芸術、人間になくてはならない物何でもを呼ぶための合成語です。

 宗教の一族であるものは簡単に見え、宗教は道徳を意味し、倫理を意味し、法律を意味し、文化を意味し、文明を意味し、呪術と呼ぶものまで意味するよう説明でき、これらのダンマはダンマヴィダヤーの一分野で、正しさの多寡により、時代により、国や地域により、まとめていろんな角度、いろんな面がある宗教に関わっていると言うことができます。

 ヴィダヤーの一族、あるいは一般の知識はたくさんあり、哲学、形而上学、論理学、心理学、生理学、衛生学、宇宙科学、まだたくさんあり、すべての学識を彼らはダンマヴィダヤーと呼びます。

 次に科学の一族を詳しく見ると、物理、化学、工学、科学の中で最も緻密な相対性理論まで、すべてはヴィッダヤーダンマ、あるいは分けられた一つ一つのヴィダヤーダンマです。

 次に技術、あるいは芸術の系統を見ると、それも多く、芸術のための芸術、その芸術の元々の意味は、腕前を見せる科学です。シッパとシンラパは元々一つの言葉でしたが、今私たちは使い方が違うと見、芸術は美しさを目指し、技術はブッダの時代から変わらず、技術がある人物の利益を探求する道を目指します。

 今は美しさだけに関わる学問知識である美学もあり、すべては技術がある人の望み次第で何らかの利益を目指し、見ると欺瞞する物のように見えます。

 このようにたくさんあるこれらのすべてを見ると、それぞれ別の方向へ歩いているように見えます。しかし詳しく見ると、同じ核である物があると見えます。つまり人の要求にしたがって生じた人の知識は、イダッパッチャヤターの法則で経過すると以前に説明したように、これらのダンマ学の核心であるイダッパッチャヤターの法則があります。

 宗教と呼ぶものに矛盾があるように、ダンマ学というものにもたくさんの矛盾があり、お前の物より良い俺の物があり、彼の物より良い私の物があり、すべて世界中に複雑で困難な問題を生じさせる話ばかりです。だから時間の無駄にせず、そして他人より有利になる道具にせず、望ましくない他人を攻撃せずに、簡単に同調でき、調和し、そして直接利益になる成り行きになるよう理解し合う種類の行動があるべきです。

 次にどのような交渉で理解し合うことができるか、そして世界の多岐に亘るダンマヴィダヤーも同じ状態で交渉できると、宗教と呼ぶものの角度から見ます。

 宗教と呼ぶものも数えきれないほどたくさんあり、過去と現在を合わせれば更に多く、ある宗教は消滅してしまい、ある宗教は今もまだあります。次に私は、世界でまだ動きがある宗教だけを見ます。静かになってしまって何千年にもなる古い宗教は止め、今もある宗教もたくさんあり、何千年もの古い宗教もあります。

 今ある、今知られている、つまりまだ世界で動きがある宗教だけにすれば、十二の宗教があると数えることができます。聞いている人は「一ダースもかい」と叫ぶかもしれません。つまりこのように十二の宗教を一ダースと言うこともできます。


 最初の部類はインドで生まれた宗教で、仏教を一番の宗教に挙げ、二番目はジャイナ教、三番目はヒンドゥー教あるいはバラモン教、四番目はシーク教、この四つの宗教はインドで生まれました。

 次にペルシャで生まれた宗教はパーシー教、あるいはゾロアスター教、あるいはソロサドゥーラ教は言い難く、ゾロアスターも言い難いので、パーシー教と呼び、それが五つ目です。

 次に右手、つまり東を見ると、六番目は道教、七番目は儒教、これらは中国で生まれ、八番目は神道で、これは日本で生まれました。

 次に左手、西を見ると、九番目の宗教はユダヤ教、十番目の宗教はキリスト教、十一番目の宗教はイスラム教、十二番目の宗教は新しく混合し、普及が目に見えている宗教で、例えばバハイ教、バポイ教です。このように新たに混合した宗教がまだ幾つも、アメリカにも、ヨーロッパにもあります。

 しかし他より先頭にいるのはバハイ教で、前からあった古い宗教と肩を並べています。だから私は、まだ生きている、まだ活動している、死んでいない十二の宗教を数えます。

 これです。「世界中に宗教があるんだね」と叫ぶ人もいます。このようにたくさんあり、これほど多ければどうしたら良いでしょうか。すべては矛盾を増やす道ばかりで、多ければ多いほど矛盾が増えるだけです。ある宗教は威力が多く、つまり宗教人口が多いです。

 ある宗教は経済力があり、権力が小さく、どれもあまり同じでない部分があります。愚かな人のための宗教、賢い人のための宗教があり、同じ宗教でも愚かな人のための教えと、賢い人のため、そして中間の人のための教えがあります。つまり一つの宗教も幾つもの宗派に分けることができます。先に仏教を例にします。

 ほとんどの人は今、仏教には二つの枝があると知っています。つまりテーラワーダと大乗です。

 テーラワーダは本来のもの、初めと変わらず厳格なものと見なされています。大乗は生まれたばかりで、新しく改革したばかりで、初めのように厳格に遵守しないと見なされています。このような教えがあれば仲良くできません。みなさん、考えて見てください。

 一人は広く開放し、一人は狭くまとめ、それは仲良くできません。私はテーラワーダも大乗も、元の仏教、初めの本物の仏教ではないと見ます。本当の仏教は、テーラワーダでも大乗でもない仏教でなければなりません。テーラワーダと大乗に分かれる以前の仏教でなければなりません。

 テーラワーダ、あるいは大乗と自称しない仏教でなければなりません。テーラワーダ、あるいは大乗と自称することは、それ自体が矛盾を表しています。矛盾点があれば信用できないと言います。テーラワーダでも大乗でもない、つまり原初の仏教でなければなりません。

 ブッダの仏教は、明らかに、明瞭に公開されたイダッパッチャヤター(因果)である心臓部があります。イダッパッチャヤターはテーラワーダでなく、大乗でもありません。イダッパッチャヤターはイダッパッチャヤターでなければなりません!

 テーラワーダもイダッパッチャヤターの話をし、大乗もイダッパッチャヤターの話をし、テーラワーダ式の話、大乗式の話をしがちで、一方は厳格にし、もう一方は広く拡大し、これは変化できます。だから調整し直してテーラワーダと大乗に分かれる前の、ブッダの初めのイダッパッチャヤターに戻さなければなりません。

 この分裂には、変化をさせる因と縁がなければならず、それがあったから分裂しました。変化する因と縁が介入しなければ、分裂はありません。分裂があれば、介入してそれまでと違わせる何かがあると見なさなければなりません。テーラワーダは保守的で、大乗は進歩的で、どちらも多少は、元からの物に触れて変化させる方に針を向けます。

 本当の仏教教団員は、自身をテーラワーダ、あるいは大乗と呼ばないでください。呼ぶなら口だけにして、心の中はテーラワーダにも大乗にもしないでください。そうすればブッダの正しい仏教教団員です。

 さて次はどのように分裂したかという角度で見ます。

 テーラワーダと大乗に分れた時、他にも小さな分裂があり、テーラワーダにもいろいろあり、大乗にもいろいろあり、それでどれが正しい話でしょうか。テーラワーダのある人たちは律に厳しく、例えばタイ国内は律を厳格に遵守すると言われます。

 スリランカなどの一部の人はパーリ、あるいはスッタが得意で、ビルマなどの一部の人たちはアビダンマが得意で、それぞれ何かを手に入れると確信して全部を見なかったので、タイとスリランカとビルマの仏教は協調できないと言われるように違い、あるいは矛盾が生じました。

 それぞれが何らかの方向で成功しようとしたからです。あるいは何らかの方向で成功する能力があり、そしてこの種の人の心は成功することだけを目指し、この方向で成功すれば他の方向はできないので、自分ができる方向でだけ秀でたので、自分ができる方向だけたくさんしました。しかし元々の心臓部はイダッパッチャヤターを目指したことを忘れないでください。


 次に大乗側を見ます。

 大乗は三つの範囲があるとハッキリ、簡単に見えます。功徳の大乗が一つ、極楽浄土の大乗が一つ、空の大乗が一つです。知ったことがなかったら大乗を軽蔑しないでください。大乗はこのようにたくさんあるので、彼らが「大きな乗り物」と自慢するように、たくさんの人を連れて行くことができます。

 まだ非常に愚かに見えるのは功徳の宗教で、紙を燃やし、何かを燃やして死人に上げます。生きている人が死者を愛しているからです。こういうのは簡単にできます。これも大乗と呼び、至る所で行われているので、説明する必要はありません。

 次に二段階目は極楽を好む人たちと言います。これはすべての小母さんたちで、ほとんどは阿弥陀仏の名前を唱える以外は何も理解できず、一日に何千回も唱えて霊験にし、心臓が止まれば車が迎えに来て、極楽浄土へ連れて行きます。他の方法、他の言葉があっても、極楽に集まります。このような状態はテーラワーダの中にもあります。初めは大乗が切掛か、あるいは自身の物があったかもしれません。

 何かを厳格にし、聞く耳を持たずたくさんし、死んで天国へ行って、それだけで終わり。これも一つのレベルです。最高に望ましい極楽浄土を描写し、極楽浄土への行くにはこのような行動をする、と教えて置きます。大乗のようなのはすごく簡単に見え、何も投資する必要がなく、ナンモーアミダーバ(南無阿弥陀仏)と名前を言うだけで、おばさんたちの南無阿弥陀仏は一日に何千回にもなります。

 テーラワーダはこれをしなければならない、それをしなければならないと教える時もあり、例えば八万四千本の花、八万四千本の線香を供えれば弥勒菩薩の世界に生まれるとか何とか、これはたくさん投資をしなければならず、おばさんより不利ですが、どちらも浄土に行けます。

 次に良いと言うべき本当の大乗は、空の人たちです。

 スンニャター(空)、あるいはタタター(真如)という教えを持す大乗は、テーラワーダより多く(それについて)話します。タイではあまりスンニャター、あるいはタタターについて話しません。私が初めて空について話した時、大乗と非難されました。私が空の話をするので、彼は私のことを大乗と言いました。

 タイのテーラワーダの愚かさを見てください。スンニャターの話は三蔵の至る所にたくさんあるのに。タタターの話も、先ほど僧が読経したように三蔵の中にあり、タタタ-、アヴィタタター、こういうのも三蔵にありますが、私がスンニャターの話をすると、大乗と見積られます。このように知ってください。そして大乗の人たちが空についてたくさん話すのは本当です。

 空について話せば、タタターについて話すことです。彼らの方がたくさん話し、たくさん書き、たくさん宣伝し、何でもたくさんしています。だからタイの人たちは、空の話は大乗と理解します。全部テーラワーダなのに。これです。みなさんテーラワーダと捉えず、大乗と捉えず正しい仏教にしてください! テーラワーダでも大乗でもない本来の仏教、中道の教え、つまりイダッパッチャヤターにしてください。

 イダッパッチャヤターと呼ぶものを正しく理解した人は誰でも、それが中道です。つまりどちらの端も実践せず、「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と中間で話し、生まれるとか生まれないと話さず、自分があると言わず、無、あるいは自分はないと言わず、極右極左であり、対である言葉のどの対も話さないで、イダッパッチャヤターと言います。

 「これがあることが縁で、これが生じる」。これを、中間にいるのは元の法則で正しくふさわしいイダッパッチャヤターと言います。

 次にそれが功徳になり、浄土になり、律が得意になり、パーリが得意になり、ダンマが得意になるのは熱狂しているイダッパッチャヤターです。沸騰し、熱狂しているイダッパッチャヤターは、ちょうど良い最初の状態ではありません。それには休まず熱狂するよう促す物があるので、ブッダの本来の仏教ではないと見なすべきです。

 これです。テーラワーダと大乗の間で、あるいはテーラワーダ同士で、どの人たちも、どのグループも調整すべきで、功徳の話も浄土の話も、空の話も調整してちょうど良いイダッパッチャヤターにするべきです。

 功徳の話もイダッパッチャヤターですが、少し無明が多すぎるイダッパッチャヤターです。愛や愛惜や何か、介入した他の威力があり、すべては無明の状態がそのようなものを生じさせる状態です。

 極楽浄土の話もイダッパッチャヤターですが、貪り、あるいは度を越した儲けを取引があります。イダッパッチャヤターの威力の外にある物は何もなく、あるのは度を越した、あるいは欠落したと言う物だけです。度を越した物、あるいは膨張しすぎたものは調整して丁度良くします。

 功徳を積む話も徳や善があると仮定します。功徳という言葉は「徳」または「善」という意味で、少なくとも恩を知る気持ちでするので、それは徳であり善です。しかしどうすればすべての側の利益になるか思うべきで、無駄にすべきではありません。死者を思う時、どうすれば利益があるか。

 それです。イダッパッチャヤターは正しい道、つまり膨れ上がらない道を歩くことができます。これを「本当の仏教の側も、仏教の原始の状態に戻るためにテーラワーダと大乗の間で調整しなければならない」と言います。


 二番目の宗教はジャイナ教、つまりニグロンダ教で、正式にはディヤラティーニグロンダと言います。ディアラティーとは宗教、あるいは教理という意味で、ディヤラティーニグロンダは、ニグロンダの宗教という意味です。もう一つの名前はジャイナ教で、これはサンスクリット語です

 。ジャイナはチャナで、パーリ語のチナと同じです。二つの言葉は最高の意味があり、チナは勝利という意味です。ブッダも時々、ご自身をチナと呼ばれ、私は勝利したと、つまりジノー(勝者)と言われています。

 一方のニグロンダと呼ぶのは、最高のダンマの言葉で煩悩がないという意味です。ニは無い、グロンダはカンタで、繋ぐ物、つまり煩悩を意味し、ニグロンダは煩悩がありません。

 ニグロンダ教は煩悩がない宗教で、ジャイナは勝利です。この宗教を今世界中はジャイナと呼びますが、読む人が間違えてJainをチェンと読みました。本当はジャイナ、あるいはジャーヤナと読まなければなりません。ほとんどの人が読んでいるようにチェンではありません。

 ジャイナ教は、仏教教団員として知っておくべきです。概略だけ知っておくだけでも良いです。シッダッタ王子が、何が解脱する物かを探して出家した時、王子は何処へ行ったでしょうか。当時教えていた最高に良い施設に行かなければなりません。何の施設かは、当時最高に良かったニグロンダ教です。哲学財がある施設であるアーラーラ行者、ウダカ行者を訪ね、それで満足しなかったので、ディアラティーと呼ぶような行動をしに行きました。

 ブッダはご自身で語られています。他人を信じる必要はありません。三蔵のいろんな経の中で、如行はあのような行動、このような行動をし、すべてはニグロンダの勤めばかりだったと言われています。

 一番簡単で便利な「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を読めば、その本にまとめて収められているので ブッダがニグロンダの勤めをどのように行動されたか、裸行の話、絶食の話、棘の上に寝る話、墓場で寝る話、大便を食べる話、これらのいろんな話を読んで見ることができます。ブッダがその時そのようにしたのは、当時の一番良い教理のすべてを学ぶためです。

 王子がニグロンダの弟子であった時は、同級生が何人もいたに違いないという意味です。王子の学友の少なくとも一人はマハーヴィーラ、あるいはニカンダナータプッタは学友と見なすべき人と言います。同時代に同じディアラティー(教団)の修行をしたからです。

 しかし最後にシッダッタ王子はできないと見て止め、他の実践に変えました。マハーヴィーラあるいはニカンダナータプッタはまだ「学び」続け、その後ニグロンダ教の二十八代目の教祖になりました。

 これは、ニグロンダ教はブッダが生まれる二三百年前からあったことを意味します。彼らがパールスヴァナータと呼ぶ石でできた裸の彫像が、ジャイナ側の記念の地の至る所にあります。ブッダよりニ三百年前に、この教祖は最高に名前が鳴り響いていたので、その後たくさん、その方の石の彫像があります。

 次に後の時代の、ブッダに近い時代のジャイナ教については、歴史的経緯や教えも、初めの部分は似ていました。ジャイナ教は限界がないほど拡大し、そこに掛けてある写真のように布を纏わない種類があるほどです。

 私は運良く、彼らのお寺に行って、彼らの教理で阿羅漢と見なされている人に会いました。彼は、彼のようにインドの南部と中部の至る所にあるこの宗教の地点を巡回して旅している阿羅漢は今、三四人しかしないと話していました。

 インドには、このように布を纏わない全裸の出家がたくさん、何十人、何百人もいますが、それはジャイナ教ではありません。ジャイナ教は、写真を見せた人を含めて三四人しかいません。これは、考えて見るべきジャイナ教の話です。彼らは自由であるためなら何でもします。自由でなければグランタ、あるいはガンタがあるからです。グランタ、あるいはガンタがあるとは、絡みつく物があります。

 絡み付く物について話せばどのように感じるか、あるいは何が絡み付く物か、自分で考えて見てください。だから脱ぎ捨ててしまい、彼らは腰巻まで全部脱いでしまい、住む場所もなく、腰巻もなく、鉢もなく、手を突っ込んで食べ、カミソリも必要なく、髪が伸びたら抜いて捨てます。

 今日までこのようにしていて、庶民も、少なくとも厳格さを尊敬しています。ニグロンダ教の阿羅漢が髪の毛を抜くと、地に落ちるのは一本もなく、奪い合って持ち帰って祭るほど、彼らはこれほど尊敬しています。

 次に、今のインドに仏教が戻れないのは、たくさんの縁の中に一つの重要な縁、つまりジャイナ教があるからです。ジャイナ教の僧はこのように絡みつく物がないばかりか、まだたくさん厳格で、肉を食べません。これは普通です。次に野菜も同じで、その人のために採ってきたものは食べません。タイの僧は、誰かが特別に採って来たものでも食べ、食べないのはウッディササマンサ、つまり肉だけです。

 ニグロンダの僧は、僧のために採って来た野菜も食べず、普通にある物でなければならず、それを掌に載せて食べます。掌から食べて終わると手を洗い、昼食用に溜めて置きません。鉢がないからです。食べ物もこのように純潔です。もう一つ実践するのが大変な規則があり、持って来て供える時ハエが集ると、そのような食べ物は貰いません。ハエが食べる物を奪い、ハエを困らせるので、その食べ物は食べません。

 ブッダもそのようになさったことがあり、ご自身で話されているそれらの経を読んで見てください。妊婦が食べ物を献じに来たら、受け取らずに逃げます。赤ん坊、つまり胎内の赤子に迷惑を掛けるからです。彼らが厳格に守っていたことはまだたくさんあるので、庶民は尊敬し、その宗教の意味の阿羅漢と呼びます。

 次に仏教が入り込めないのは、私たち僧が煙草を吸って見せると、庶民はキチガイ坊主と言い、僧が肉を食べて見せると、庶民は鬼と言い、僧がカメラを持って歩くと、僧でなく金持ちだと言います。だから仏教がインドに戻るのは、ジャイナ教があるので非常に大変です。このように矛盾があります。良く見てください。理解し合い、何かし合えばこれよりずっと良くなります。
 
 布を纏うジャイナ教をシュヴェーターンバラと呼び、白衣を纏います。布を纏わない方をディガンバラと言いますが、同じジャイナ教で、同じ教えであり、布を纏うべきか、纏うべきでないかは考え方次第です。だから阿羅漢たちは、布を纏う人も纏わない人もいて、纏う人は白衣で、私たちのように黄衣を纏うのは沙弥だけです。

 彼らの寺を見に行きましたが、成功者なら、白衣をちょっとだけ巻いた人も、全然纏わない人もいますが、あまり見つからず、ニ三人だけでした。教えは非常に慎重にすることで、チャトゥヤーマサンヴァラサンヴトーと言います。すべての方向のすべての態度に注意深くし、注意深さで解脱し、あまり智慧に関わりません。

 ヴィリヤーディカ(精進で滅す)の状態があり、仏教のようなパンニャーディカ(智慧で滅す)ではありません。だからブッダは止めてしまわれ、ご自身の方法で探求して仏教が生まれました。しかし問題はまだこのようにあります。

 ジャイナ教はインドから消滅したことがない点で非常に強かです。仏教はインドから無くなり、そして復活が困難です。それは大衆、特に低レベルの大衆、一般庶民の信仰の基盤であるジャイナ教が障害になっているからです。

 今は教えが現代的に改定されたので、上層、中間層もこの宗教を信奉しています。アショーカ王もかつてはこの宗教を信じていました。リッジャヴィー族全部が、ブッダの時代にこの宗教を信じていて、信じる人が多いということです。

 今は弁護士、商人、富豪の大部分がこの宗教を信じているので、物質的にも、生活も教えも非常に繁栄しました。この宗教のお寺は石、黄金、銀で造られ、非常に大きくて美しいです。行って見てください。菩薩堂は時々金箔、銀箔でできています。これを、二つの宗教の教祖は一時学友であっても、現在まで仏教とライバルであり、相反する一つの宗教と言います。


 次に三番目の宗教、ヒンドゥー教になりました。

 ヒンドゥーという言葉は共通の言葉で「インドの」という意味です。だからどの宗教も、あるいはインドで生まれた何でも全部ヒンドゥーと呼びます。だから一般庶民も愚かで、仏教もヒンドゥー、ジャイナ教もヒンドゥーと言います。しかし教えが同じでないので分けることができます。

 今明らかに見えているヒンドゥー教と呼ぶものは、現在のバラモン教だけで、彼らも分けるよう望んでいます。ブッダはヒンドゥーではありません。ジャイナはヒンドゥーではありません。ヒンドゥー教は現在のバラモン教です。

 バラモン教について話せば、それも同様で、数えられないほどたくさんの宗派があります。バラモン教に関わる宗教の宗派は多く、数え切れません。しかし三つに分類することができます。

 儀式しかない人たちは信じやすく、基礎として呪術があり、あるのは儀式だけで、説明する必要はありません。こういうのは愚かな人が好み、教育のない庶民が儀式を行うのを好み、人を生贄にする儀式さえ好みます。今も残っているのは動物を贄にする儀式で、書き表すことができないほど多種多様な儀式です。

 人が信じれば罪を恐れ、そして社会にとっても結果があります。儀式がどんなに愚かでも、信じれば罪を恐れるので罪を犯しません。彼らが祭っている神様の望みと知っているので、どれほど犠牲にしても罪を犯しません。彼らが犠牲にするのは神様に気に入られるためです。だから神様を信じます。ヒンドゥー教、あるいはバラモン教は儀式の話です。

 もう一つの部類は最高に賢く、ヴェーダの教典が発祥で、ヴェーダの内容を正しく選ぶことができます。ヴェーダは祭祀についてたくさん述べています。しかしサッチャダンマ、真実について述べているのもあり、ヴェーダの要旨を選べる人たちはダンマを持す人、哲学を持す人になります。

 今彼らは分裂してヴェーダーンタと呼び、インドでは非常に有名で、昔のようにアートマンの話を教え、正しく行動すればアートマンはパラマートマン(真我)と一体になります。これが大きな教えです。

 アートマンを清潔に純潔にする行動はどのようにするか。この項目は仏教と似た教えがあり、時には区別がつかないこともあります。彼らもこのように時代に合わせて調整しました。このヴェーダーンタは非常に発展し、世界中に支部があります。サヴァーミー・サッタヤーナンタブリは死ぬまでタイにいましたが、ヴェーダーンタの人です。

 アメリカにたくさん住んでいる非常に有名なサヴァーミーのすべてはヴェーダーンタの人ばかりです。インドのルーシーケーサのサヴァーミーシヴァーナンダもヴェーダーンタで、私は会ったことがあります。残っている儀式は何もなく、あるのは教えだけのように見え、仏教より進歩しているヨガの話もありました。これもヒンドゥー、あるいはバラモンの一派です。

 もう一つは苦行全般ですが、ニグロンダのようでなく、ジャイナのようでもなく、バカみたいな苦行をします。昔からのもので権利を大切にしないで、自分を苦しめた分だけ神様が喜び、煩悩が早くなくなると考えて、益々自分を苦しめる苦行をします。

 これは愚かな人に埋め込まれた信仰で、苦行をしている人を見た人は尊敬し、尊敬すれば物や供物を上げます。次にお金のための苦行が非常にたくさん生まれ、棘を敷いた上に寝て、一枚布を敷いておくと、小銭をその布の上に置いて行く人がたくさんいます。お金のための苦行はヒンドゥーの一分野です。

 見てください。バラモン教、ヒンドゥー教でも、このように分派して理解し合えないと、考えて見てください。


 次に四番目の宗教を見るとシーク教で、これは政治的宗教で、国を助けるために最近生まれた宗教です。まだ何百年でもなく、インドの元からの宗教とイスラム教の闘いで宗教を取り戻すための志願者集団と言うのに近いです。軍人の宗教であり、標は鉄の腕で闘う人を意味します。シーク教はこのような必要によって生まれ、教えはインドのすべての宗教の良い項目を集めました。

 シーク教の創設者はインドのすべての宗教の良い所を学んで歩き、そして言い直したのでたくさんあります。そしてもう一つ、この文化を、この宗教の敵であるイスラム教の蹂躙から護って維持しなければならない発願があります。シーク教が生まれ、古い派も新しい派もあり、肉食をする人もしない人もいます。

 これは小さな宗派で、インドにあるだけでも、このように大きな宗教が四つあり、全部インドで生まれました。

 ペルシャのゾロアスター教は五番目の宗教です。この人たちは太陽を崇め、何千年、何万年前からか知らず、火、あるいは太陽を最高の物と信じます。それも真実で、何もかも太陽から生まれ、この世界は毎日陽光によって助けられていると言うなら、木、動物、人、これらは太陽光によって生き延びることができ、太陽光がなければ全滅、何日もしないで全滅します。

 だからこれらの人は太陽を信仰し、火を信仰します。だから火は尊敬され、火を汚れた使い方をしてはならないので、死んでも火で焼きません。火が汚れるのを恐れるからです。このようなのは何千年も非常に古いですが、まだ太陽を信仰して懇願する人たちがいます。


 次に中国・日本で生まれた宗教を見ると、六番目の宗教は老子の宗教、七番目の孔子の宗教と同時代です。老子は孔子の師、孔子は老子の弟子で、老子は五十年ほど早く生まれています。だから孔子は老子の弟子になるのが間に合いました。それに孔子はブッダと同時代に生まれています。ブッダが般涅槃された時、孔子は八歳で、同時代と言います。次に孔子と老子の間を見ます。

 老子はブッダと同じように、この世界は騙す物で、世界をマヤカシという角度で見るよう、心が世界の執着より上にあるよう教えました。教えの言葉は違っても、あるいはブッダほど完璧でなくても目的は同じで、世界を欺瞞のものと見て、迷って身を埋めさせません。だから目・耳・鼻・舌等から入って来るもののマヤカシの話を教えました。

 孔子はそのようにせず、この世界で正しく暮らさなければならないと教え、脱世間の話はしません。老子が脱世間について話す時、孔子は世間の話しかしません。この世界で正しく暮らさなければならないとして、先ず世界の話を正しくしてしまい、それから脱世間の話をします。それでも老子が孔子に教えた面もあります。

 脱世間の話の方が遥かに上で、この世界にいる人が世界について十分知っていなければ世界に迷い、世界を良く知っていれば正常な幸福で世界で暮らすことができるからです。だからこの理由で別々の方向について話していても、老子は孔子の先生になれます。これは面白いです。

 老子が教えたものをタオ(道)と言います。老子は『原始、一つの物があり、それは形でなく、名でなく、つまり身体でなく、心でもなく、何と呼べば良いか分からないので、取り敢えず道と呼ばせていただきます』という文章で始めています。ほら! これは最高の鋭さ、深さを表しています。

 この話は形の話、物質の話でなく、名の話、あるいは心の話でもありません。私は何と呼ぶか知らないので、取り敢えず道と呼ばせていただきます。そして道はそのよう、そのようと説明し、口で話すことができ、説明できるものは道ではありません。

 これです! それは仏教のダンマと同じです。本当のダンマは口で話すことができず、パッチャッタン(識者が自分で知るべき)の話で、サンディティコ(実践者が自分で見るべき)の話です。言葉で他人に話して聞かせられる物はまだ道でなく、道の外皮と、老子はこのように言いました。

 人が道を知り、道について深く理解すれば、その人は最高の人間、つまり完成した人、あるいは最高の人です。これを道教と言い、世界の上にいるほど非常に賢いです。

 一方孔子は、世界で暮らすために良い振る舞いの実践がなければならないと言い、道徳を教えました。人間になければならない道徳はどのようか、孔子は最高に良く教えました。これは中国の宗教の一つで、本当の中国のものと言います。中国の大乗は仏教なので、中国の物と言いません。インドから中国に入ったからです。

 中国で生まれた宗教は老子の道教と、孔子の儒教です。次にこの二人の師には、それぞれ支援者、つまり引き継ぐ弟子がいて、孟子、荘子などはこの二人の師の弟子ばかりで、弟子は師と同じに教えました。何人いても二人に集約され、一人は世界より上、もう一人は世界にいます。


 八番目の宗教は日本の神道で、日本の国と並行して伝承されて来た原初からの宗教で、国を愛す血の宗教、民族主義の宗教です。次に新しく何でも取り入れると増えて変化し、後に日本に入って行った仏教と関わり、細かい部分の変化はありますが、大部分は神道です。日本の子供は誰でも、命より国を愛し、命より国を愛すことが神道で、国を愛せば、先祖も愛さなければなりません。

 先祖が国を作り、そして国を維持して継承してくれたからです。命より国を愛すよう教えることは政治面の結果があるので、彼らは同意して消滅させません。次に後から入って行った他の宗教は神道を変化させましたが、神道はまだ政治面の利益があります。


 これで東洋は終わり、西洋に行きます。

 九番目の宗教はユダヤ教で、約八千年になります。この民族はきっとインド文化を受け入れたのでしょう。ユダヤ教の教典は簡単に知ることができます。つまり旧約聖書で、聖書全体の八十パーセントくらいがユダヤの教典で、神様が世界を創ったことから話していると言います。アダムとイブが出て来て、この一組が世界中の人になり、そして次々に経過してイエス以前の教祖になり、最高に重要な人はモーゼです。

 イエスが生まれると、一部分を切り取ってキリスト教にしました。新約と呼ぶ聖書はキリストの教典ですがユダヤで、新ユダヤと呼ぶことも出来ますが、それは不名誉なので、キリスト教と呼びます。イエスはユダヤ人ですが、見ると、ユダヤ教とキリスト教の間に幾つもの矛盾があります。しかしユダヤ教の物を受け入れてキリスト教で使っているものもたくさんあります。

 創世記、世界はどのように創られたか、ヤハウェ神がどのように世界を創ったかという話は変化させず、そのままキリスト教に受け入れました。しかしイエスは異端、あるいは革命家、あるいは常軌を逸したと呼ばれるユダヤ人なので、教えは変化しました。

 ユダヤの教典は「歯には歯を、目には目を」、彼が私の歯を一本抜いたら、私は彼の歯を一本抜き、彼が私の片目を盲にしたら、私は彼の片目を盲にすると教え、ユダヤの古い教典、つまり旧約にハッキリとあります。

 イエスになると「彼が左の頬を叩いたら、彼に右の頬を叩かせなさい。彼が上着を盗んだら、ズボンも持たせてやりなさい。捕らえて裁判所へ送ってはいけない」と教え、このように正反対になりました。

 次に興味深い話をもう一つしたいと思います。聞いたことがある人もいるかもしれませんが、イエスの時代に、イエスはまだ生まれたばかりなのでいろんな法律はユダヤ式で、ある女が不貞をして捕らえられ、モーゼのユダヤの法律での罰は、この女は石を投げつけられて死ななければなりません。次にこの女は逃げてイエスに出合いました。

 追って来た人たちもイエスを見つけ、これらの僧、司祭、検事、裁判官たちであるユダヤ人がイエスに、「この女は不貞があり、我々の法令、つまりモーゼの法令では、石を投げて死なせなければなりません。あなたはどのように言われますか」と質問しました。彼らがこのようにイエスに質問したのには謀略があり、つまりイエスの能力を試すため、大衆の前で恥をかかせるためでした。

 次にイエスは答えました。それはどのようか、考えて見てください。イエスは「そうです。モーゼの法令では、その女は石を投げられて死ななければなりません。さあ、自身に罪がない人は誰でも、出て来て最初に石を投げなさい」と答えました。

 七八人は顔を見合わせ、誰が罪のない人として出て来て最初に石を投げるか、四方を見回したので途端に静まってしまいました。しばらくしてからイエスは「女よ。家へ戻りなさい。彼らはお前を罰しない。しかし今後は決してしてはならない。こういうのは善くない」と言いました。それで話は終わりです。

 ユダヤの従来の法令では、女は石を投げられて、石で頭を叩かれて死ななければなりません。次にイエスは「誰か投げる人はいるか、誰もいないなら、家へ帰しても良いが、二度としないよう忠告する」と言いました。これは非常に変化し、制度、慣習、伝統、あるいはいろんな法令の革命のようです。ね、ユダヤ教とキリスト教は同じユダヤでも、このように同じでないと知るべきです。

 だから彼らは、イエスはもう一つの宗教の教祖と見なします。他の教祖、たとえばアダム、アブラハム、モーゼ、ノア、何でもそれは全部ユダヤ教です。同じユダヤで同じ場所に生まれても、二つの宗教には矛盾があり、ユダヤ教とキリスト教の間に現在まで未解決になっている問題があります。ユダヤ教徒は豚肉を食べずないでキリスト教徒は豚肉を食べるなど面白い話です。


 次に十一番目の宗教はイスラム教です。インドにブッダが生まれて般涅槃してから五世紀くらい経ってキリスト教が生まれました。その後また五世紀くらいしてアラブのパレスチナに近い地域でイスラム教が生まれました。

 次にイスラム教は、ユダヤ教とキリスト教のダンマを受け入れ、つまりイスラム教はモハメッドの時代になるまで、ユダヤ教の教典を受け入れました。だから名前が一致し、アダムとイブもあり、アダム、アブラハム、ノア、モーゼからイサーまでを教祖と呼びます。

 イサーはイエスで、イエスつまりイサーの後はモハメッドで、クルアーンの中には、ユダヤ教の初めからの教祖が並べられています。何から何まで非常にユダヤ教に似ていて、豚を食べないなど、ユダヤの旧約聖書を守っています。これは、アラブの国は人が同じでなく、つまり凶悪でヤクザで教育がありませんが、ユダヤ人は教育があり、そして賢く勤勉です。

 違うのは、ユダヤはケチで、キリスト教は寛容です。アラブを見ると、そのようにすることはできないので改定しなければなりませんでした。ここで人に教育がなく、砂漠に住んで貧困で愚かなら、強制する手法を使わなければなりません。

 だからモハメッドは指揮権を行使し、強制して厳格に信じさせ、そして社会のことを考えさせなければなりませんでした。社会がまだ非常に悪いので、社会に関わる、両親に関わる、親戚兄弟に関わる、友達に関わる、何でもいろいろ社会が早く良くなるための法令があります。

 神様については最初のユダヤ人たちのように信じ、そしてイエスの部分も加えたので、利子を蓄えさせない話、何かいろいろ禁止する話は社会を善くするために、そこの人たちに最高にふさわしいです。そこにはこのような宗教がなければならない必要性があり、イスラム教と呼ぶものは末っ子と呼ぶことができます。十一番目の宗教は末っ子です。


 次につい最近「その宗教のその部分は良い、その宗教のこの部分は良い」と考える人が生まれ、ユダヤ教のもの、イスラム教のものを合わせてバハイ教にし、こういうのもペルシャに広まっています。これは新しく混合させた宗教で、意図は非常に良いです。今までなかった新たに合成させた宗教を生まれさせたのはイダッパッチャヤターの法則かどうか、もう少し見ます。

 アメリカにもヨーロッパにもあり、奇妙な名前で呼ぶので憶えられません。首長、あるいは教祖で女性もいます。全部合わせて一つにした合成宗教と呼びます。本当に最後の宗教はモハメッドのイスラム教で、十一番の宗教です。十二番目の宗教は、バハイ教など混合種の宗教です。


 この世界に、一つの世界に十二の宗教があります! それでどうしようもありません。人が十二もの宗教を信じなければならない時、すべての手法が同じということはあり得ません。外皮の話、辺材の話に執着すれば、それは諍いや奪い合いの根源です。だから私たちは、妥協して理解し、本物を対立させないで、愛を生じさせて一つになるべきと考えなければなりません。外皮の部分は違っても、中身を敵対させてはいけません。

 同じ家で暮らして夫が豚を食べ、妻は豚を食べないなど、こういうのはイダッパッチャヤターの教えを使えば、つまり本気で苦を滅し何かを滅す教えを遵守すれば、一緒に暮せるはずです。どのように着て、どのように食べるか、このようなことは執着すべきでありません。執着すれば、執着できないものに執着するので最高に愚かです。

 彼らが、このように滅苦の道具であるイダッパッチャヤターを使い、正しい教えを守っていれば、衣服はこのように纏う、そのように纏う、そのような身なり、このような身なりに執着するのは、すべきではありません。

 中国の僧はズボンを穿いても良く、チベットの僧はスカートを穿くことができ、タイの僧はサボンを穿くことができ、住んでいる場所が同じでなく、非常に違い、体が違い、何でも違うので、そういうのを宗教と捉えないで、滅苦ができる実践を宗教と見なせば、イダッパッチャヤターの法則から脱すものは何もありません。つまり苦はこの原因から生じると正しく知り、そこで正しく対処します。

 次に私たちはそのようではありません。それぞれの宗教の関係者は煩悩の威力下にあります。宗教面の関係者、つまりその宗教の出家は煩悩の威力下に堕ちていて、利益だけを考え、利益だけを求め、お金を得ることだけをします。

 「力を得なさい。探求するため、あるいは他人を侵害するために権力を得なさい。もっとたくさん得なさい」と言い、彼らは権力と威力を欲しがります。時には、ある国のある人たちは、宗教を先鋒隊にして他国を占領する、こういうのもあります。これは重すぎ、宗教の義務を逸脱しています。

 私たちは「宗教間の交渉があるなら、何を交渉の元手にして話して理解し合うか」と、今日私が話している項目で交渉しなければなりません。私は誰も反論できる人がないことを期待して、誰もが受け入れることができると期待して、「正しく理解し合うならイダッパッチャヤターの話の教えより良い物は何もない」と見ます。交渉の目的は、すべての宗教の関係者がすべての宗教の目的、あるいは要旨は一致すると認めることだけです。

 一致するのは身勝手を無くすことです。この角度で見ると、すべての宗教は煩悩を捨てるよう、身勝手を捨てるように教えますが、方法は違います。一つは刀を持ち、一つは口で話すだけ、あるいは一つは儀式で、もう一つは知性で説明し、時代と場所と、時と出来事、情況次第ですが、彼らは純粋な心で、身勝手を追放することを目指しています。

 イスラム教は残虐と非難されているようなのも、見てください。利子を蓄えさせず、友人から利子を取ってはならず、貸すならただで貸し、上げるなら上げ、利子を蓄えてはいけません。これを「身勝手を無くす」と言わなければ、何と言うでしょうか。

 強制的に宗教を信じさせる部分は、今信じている宗教は間違っていると見なし、正しく変えさせてしまい、変えなければお前を殺すと、その人自身の利益になるよう強制します。彼らは善意でします。しかし次に弟子、あるいは関係者は初めの目的の教えと違うことをそのようにし、このようにし、あのようにし、どの宗教も隠れてしまっているので、宗教間で顔を見ることができません。

 次に彼らは、子供たちに他の宗教を嫌わせる習性があるので、凶悪な被害はここにあります。両親や大人が他の宗教を嫌えば、骨身に染みるまで子供に他の宗教を嫌わせる話し方をします。

 子供の頃、家で聞いたことがあります。家はイスラムの家と隣り合っていたので、イスラムの子供が「俺の坊さんがジャックフルーツを食べると、お前のお坊さんが貰いに来る。俺のお坊さんは上げない。お前の坊さんはジャックフルーツの皮で頭を覆う」と揶揄して叫びました。

 仏像の髪はジャックフルーツの皮に似ています。ね、子供が話すことは、全部大人が教え、宗教間で嫌い合うよう煽ります。これは私自身が体験した実話です。子供は仏教を信じている子供を罵るため、つまりこのように罵らせるために次々に友達に教えます。これは一つの見本にすぎません。宗教間に憎悪を生じさせ、人を嫌わせる物はまだたくさんあります。だから現在も、骨に染みるまで嫌悪しています。

 私は融合させる努力をし、非常に努力をし、学識面の事実を教育する努力をし、結果も多少出ています。理解できない人はできません。私のアーチャンはイスラムの人たちを支援することで、救済することで、病気の時治療薬を与えて援けることで努力し、イスラムの家の子を治療するために、夜更けにわざわざ家を訪ねました。イスラムの人たちもアーチャンを尊敬して、愛して支援しましたが、人対人の支援で、宗教に関わる支援ではありません。できたのはそれだけです。

 これは、宗教の皮に執着が生じた時の宗教間、宗教徒間の憎悪を見せる見本で、皮は別の方へ投げ捨ててしまい、中身を見て交渉します。

 教祖は身勝手を無くしなさいと教えるだけです。どの宗教も目的は同じで、「他人の身になって考え、身勝手ではいけない」と言い、他人のことを考えさせると認めてください。イエスは「他人のことだけを考え、自分のことを考えてはいけない」とまで教えています。ブッダは自分という感覚をなくしてしまう方法があり、イエスより上手ということもできます。

 自分で考えて見てください。友人であるキリスト教徒が「仏教は十字架にあります。あなたには見えませんか。立っている木は自分で、横の木はそれを切ってしまいます」と、彼が笑ったのを紹介します。反論はできませんでした。

 私が理解し合う努力をするのは、正しさと真実のためです。自然の真実は、愛し合わせるためにすべての人間を創り、憎ませるためではありません。そして世界に宗教が生まれたのは、誰もが愛し合うためで、憎み合わせるためではありません。だから融合、和解、交渉する道を探し、宗教のすべての人、すべての宗教の関係者が「どの宗教も心臓部は同じ」と認め、身勝手を無くさなければなりません。

 つまり他人より有利にならないで、他人を侵害しません。すべての神様を信じる宗教は一族で、ユダヤ教などは、すべての人は一組の夫婦、つまりアダムとイブから生まれたと言うので、世界中の人を一人にします。次に喧嘩をする人は狂人ですが、西洋人は信じないので喧嘩をします。

 仏教の教えでは、人間の根源はどこか一つの点、どこか一つの場所、一つだけの場所で、それから拡散してたくさんになったと見るイダッパッチャヤターの法則で見なければなりません。

 常識ではそのように考えなければならず、人は両親から生まれたと毎日見えていて、両親から生まれ、またその両親から生まれ、遡るとどんどん少なくなって最後に一組になるので、この教えはすべての宗教と一致します。だから私たちは、世界中の人は一人の人と言うように愛し合うべきです。これはすべての宗教の心臓部と捉えてください。

 一番には同じ目的があると認めます。二番目は、必ず付き合うことができる同じものがあり、敵になる部分はないと認めます。三番目は、もっと善くできると言うなら、付き合うのは最高に嬉しいという気持ちを生じさせます。私は要る一人です。みなさんが要るか要らないかは自由です。私はどの宗教も嫌わず、喜んで誰とも交際する一人です。

 四番目は、それなら他の宗教と同調させるために、自分の宗教を改善、変革するのを受け入れる交渉をします。自分の宗教の中にある矛盾するどの部分も、助け合って調整、改革、改善してください。そうすれば他の宗教と同調する障害になりません。

 一致するよう調整させる話を仏教の手法ですれば、一つあります。他人と矛盾するどんな物も土に埋めてしまい、止める、あるいは抜き取る必要はありませんが閉じてしまい、取り上げて話さないと言います。こういうのはブッダもイェブッヤシカー、あるいはティナヴァッターラカと呼ぶ物でも、何でも使われたことがあり、土に埋めてしまいます。

 問題を鎮める方法は、土に埋めるという方法が一つあり、「ティナヴァッターラカ」、草の下に置いてしまいなさいと言います。話し合いにならず、話して合意できるものが何もなければ、土に埋めてしまい、話してはいけません。

 ある時弟子である僧が信じないで、是が非でも分裂すると言い争いました。つまり一人のプラタム信奉者とヴィナヤ信奉者の言い争いが生じてサンガの分裂になり、ブッダが森へ逃げて行って象や猿と暮らしたレーライ森の話です。後で知った庶民が、これらの僧の鉢に食べ物を入れなかったので、心を入れ替えなければならず、サンガカンマ(四人以上の比丘でする宗務)をしなければならず、そうすることで托鉢の飯がありました。

 これはブッダを信じないので、この話はティナヴァッターラカ(原因を静める)の方法で静めなければなりません。誰が間違いで誰が正しいと蒸し返して分裂してはいけません。土に埋めてしまいます。話は重要でなく、枝葉末節の話だからです。

 だから宗教間も同じで、枝葉の話なら決して取り上げないで、他の宗教の人と話している時は、土に埋めてしまうようにします。ここまで調整できれば、すぐにどの宗教も笑って訪ね合い、愛を表す眼差して顔を見合わせ、「水と乳のように親しく」なります。パーリ語の言い回しはこのようで、私が考え出した言い回しではありません。愛や団結を、ブッダはこのような言い回しで話されました。

 今私たちは水と油のようで、溶け合おうせず、その上危害を加え合います。「心臓部は一致し、付き合うことができる」と深い部分を見るよう調整します。最高に見れば、喜んでお付き合いできます。どちらの側も針の部分、棘の部分、山の部分、何の部分も調整改革して、他人の邪魔になり、煩わせるものをなくしてしまえば、付き合えるに違いありません。

 これです。交渉する角度は、私たちにとってイダッパッチャヤター以上に良い物は何もないと見てください。私たち仏教教団員は、この元手を掴んで置いて、イダッパッチャヤターという元手で交渉してください。これは自然科学の法則なので、誰も反論できません。私は「これがあるから、これが縁で、これが生じる」、これを神様と見るよう説明します。

 私たちにも神様があります。みなさんの神様もそのようで、原因であり縁である何かがなければならず、そうすれば生じることができます。その原因、根源、何でも自由ですが、私はそれをプラタムと呼び、みなさんはそれを神様と呼び、それは言い争うべきではありません。しかし私の神様はイダッパッチャヤターです。

 イダッパッチャヤターはブラフマ神のようにいろんな物を生じさせるので、イダッパッチャヤターである法則があるダンマは、世界を創った神様と同じです。ナラヤナ神が世界を支配するように、イダッパッチャヤターはいつでもいろんな物を支配し、あるいはイダッパッチャヤターは世界を潰す義務があり、シヴァ神の義務のように時々世界を破壊してしまいます。

 ブラフマ神が世界を創り、ナラヤナ神が世界を支配し、シヴァ神が世界を破壊し、そしてブラフマ神が再び世界を創り、ナラヤナ神が再び世界を支配し、このように循環しています。

 「私の神様はイダッパッチャヤター、つまり知性がある人は簡単に検証して見える神様で、多くの人は譬えでブラフマ神、ナラヤナ神、シヴァ神と呼びます。それも良いです。私は嫌いませんが、あなた方も嫌うべきではありません」。こういうのを交渉すると言います。

 私たちの宗教、あなた方のでも私のでも、それはいろんな角度いろんな面があり、互いに邪魔な角度は取り上げない、と交渉するよう提案します。邪魔でない角度だけを選びなさい。これはイダッパッチャヤターになります。この事実は誰の邪魔にもならず、そして誰も見下さず、誰にも危害を加えず、誰も虐めず、誰でも「これがあれば、これが縁で、これが生じる」と受け入れられる状態があります。

 仏教には、これが心臓部としてあります。他の角度の部分は枝葉で、枝葉の部分は間違っていることもあります。長い時間が経過したので間違った説明をするからです。これは当たり前で、どの宗教も、知らずに間違って説明している部分があります。利益だけを考えて、気づいていてわざと間違った説明をする人もいます。

 あなたの宗教は一つの角度しかないと見なすなら、調整するべきです。あなたの宗教がイダッパッチャヤターの法則で反論されないようにしてください。あなた自身がイダッパッチャヤターの法則に反論できず、そしてあなたも、あなたの宗教をイダッパッチャヤターで反論できないように、「これがあれば、これが縁で、これがある」と、道理のある宗教にしてしまうべきです。

 自分の宗教は一つの角度しかないと見なすならイダッパッチャヤターに反してはならず、いろんな角度があるなら、イダッパッチャヤターに反す角度は話す必要はありません。

 次に誰が間違いで誰が正しいか、あるいは誰が誰を認めるか、検証しなければなりません。何が間違いで何が正しいか他の方法で検証できなければ、滅苦ができるかできないかで検証すると憶えておいてください。滅苦ができれば、それは確実に正しいものです。

 非常に正しいか少し正しいか、中程度正しいかは、どれだけ滅苦ができるか、永遠か一時的かを見て、確実に滅苦ができ、たくさん消滅すればたくさん正しく、永遠に消滅して一時的でなければ、全部正しいです。だからどの規則でも滅苦ができれば本物で正しいと見なします。

 このような規則で交渉し、矛盾する部分を少しずつ出さなければなりません。イダッパッチャヤターが裁判官のように検証します。「これがあれば、これが縁で、これが生じる」というイダッパッチャヤターと呼ぶ教えは、誰も反論できない法則としてあります。コミュニストも反論できず、宗教がない人たちも反論できません。

 そして今、何の宗教もない人はいません。神様を信じなければお金を神様と見なし、お金の神様を信じています。本当の神様を信じなければお金が神様で、前に話した日立教のように、お金が彼らの宗教です。これは、他の方法で検証できなければ、合意できなければ「このようにすれば滅苦ができるか、それはどれくらいできるか、一時的か永遠か」で検証します。

 このイダッパッチャヤターはどれほどすごいか一計を使うなら、いろんな物がイダッパッチャヤターでなければ、イダッパッチャヤターの法則で経過しなければ、私たちは何一つ自分の望みどおりにできないと検証する努力をしなければなりません。

 これは、イダッパッチャヤターで変化するものが何もなければ、私たちは何も作れない、あるいは何かを壊すことも出来ないという意味です。世界の、あるいは世界の外の、あるいはどこのでも、すべての物はイダッパッチャヤターの法則によってあるので、私たちはこの法則を知っていろんな物を作ることができます。

 例えば車を一台造るには、車を造るいろんな物質のイダッパッチャヤターの法則を知らなければなりません。そうすれば車を造ることができます。次に神様が創ると言うなら、神様は車を造ってくれません。私たちは自分で作らなければならず、何の法則で造るかは、イダッパッチャヤターの法則です。これが車を造ってくれる神様です。

 だからイダッパッチャヤターの話は、意味を良く理解しなければなりません。仏教教団員である私たちも、ここに座っていても、イダッパッチャヤターがなければ涅槃に行けないと、つまり涅槃に至れず、涅槃に到達できず、滅苦ができず、家を建てることも出来ないと知ってください。それはイダッパッチャヤターの法則で経過しなければなりません。

 私は子供たちが誤解をしないよう、他人を軽蔑しないよう、他の宗教を軽蔑しないよう、イダッパッチャヤターの話を教えて理解させる努力をしています。彼らが人物について話す時、私は出来事だけを話し、そして彼らが人物について話さなければならなくても軽蔑しません。庶民はまだ十分賢くないからです。

 これは、私たちは宗教間で交渉して愛と親睦を生じさせ、世界中の人間は一人であるのようにしなければならない大きな糸口です。どの宗教にどんな儀式があり、どのように執着する方法があっても、彼らも身勝手をなくすことを目指します。おばさんたちの浄土もそれしかできないからで、おばさんたちはそれしかできません。

 アミターバ(阿弥陀)を念じれば罪や悪を成しません。アミターバは罪や悪をさせたがらないと知っているからです。アミターバの下には観世音菩薩がいて、すべての方角を見守って、誰が罪を成したか知り、誰が善を成したか知り、観世音菩薩の目から逃れられる人は誰もいません。アミターバは浄土で待っているので、私たちは善行しかしません。

 一日に何千回も「アミターバ、アミターバ」と唱えるのは、心が悪の成り行きにならないよう管理するためです。こういうのは、彼らは死ぬまで善いです。彼らがそのように信じれば苦になる道はありません。間もなく死ぬ時でも、車が待っているので更に喜び、恐れる必要はありません。

 心が消滅した途端に車は浄土へ昇り、それも苦はないので、それも恐れません。それは厳格で信仰の篤い人、篤い信仰で解脱する人としてください。彼らを軽蔑しないでください。小母さんたちは無頼なヤクザより善です。仏教教団員でありながら五戒も守れない、こういうのはどうしようもありません。

 高等な大乗の人たち、つまり空の人たちは、アミターバは最高のダンマと説明します。アミターバとは無量の光という意味で、ミターユは数えられない寿命があり、それは無為の物しかありません。名前について言及すれば、何も作ることができないスンニャター(空)を明示します。スンニャターは作れる縁が何もない物です。恵能は「自性」と言いました。自性とは何も変調させるものがなく、何も変調させない心です。その自性がアミターバ、つまりアミターユです。

 これは更に端折って、アミターバ、アミターユという名前で無為の物、涅槃を教えると言います。人物主体に話せば、涅槃だけが計ることができない光があるので、涅槃がアミターバ、アミターユです。智慧の類の大乗の人たちは、アミターバをこのように説明します。小母さんたちは小母さんたち式のアミターバに期待していれば、その後生老病死はありません。

 選ばせるためにあらゆる角度、あらゆる面があるのは、教えた人は非常に賢かったと見ることができます。八千年前、五千年前、ニ千五年前、そして二千年くらい前、千六百年くらい前、そこでは、その地域ではそのように教えなければなりませんでした。

 同じ場所、例えば中国で、今五千年前と同じように教えることはできません。相応しく変えなければなりません。だからイダッパッチャヤターを元手にして交渉の話をし、大きな宗教間に矛盾があるべきではありません。私はこれしか考えられず、このようにしか話せず、そしてこのようにしたいです。つまり宗教間で理解したいです。

 時間が少し残っているので、もう一つの、反対の交渉について話したいと思います。つまり最高に近い反対の敵、たとえば一方が極左の宗教を信じ、もう一方が極右の宗教を信じ、正反対という意味です。今この世界には極左、極右の宗教があり、何を狙っているか、大体理解できます。私はイダッパッチャヤターの方が良いと言います。

 イダッパッチャヤターは中間にあり、著しい左でも著しい右でもありません。右手と左手があればすぐに叩き合いになり、どちらも無くなれば何も叩けません。こういう方が良いです。つまりイダッパッチャヤターだけで、左手も右手も要りません。

 次の対の一方は神様はいると信じ、もう一方は神様はいないと信じます。神様がいるとかいないとか信じるのは、言うだけ無駄と言わせていただきます。何の神様、どのような、どの種類の神様と話さなければなりません。

 正しくはイダッパッチャヤターだけと見るべきで、神様と呼んでも良く、呼ばなくても良いです。神様と呼ぶなら、何でも創ることができ、何でも支配でき、何でも破壊できる、これがイダッパッチャヤターの神様です。神様と呼ばないなら、それも良いです。

 怒ることができ、嫌うことができ、褒美を与え、罰を与えることができる、あなたが考えているような、人であり天人である神様ではないからです。イダッパッチャヤターを神様と呼ばなくても良いです。そのような感情がある人ではないからです。

 しかし神様にすることもできます。これは見えない、知らない威力で、老子は「それは形(具象)でなく、名(抽象)でなく、心でなく、体でなく、取り敢えず道と呼ばせていただきます」と言いました。これも同じで「取り敢えず神様と呼んでください」でも良いです。しかし形でなく、名でなく、人でなく、霊でなく、魂でなく、そのような何でもなく、それが何かは知りません。

 だから神様はいるとかいないとか、夢中になって論争しないでください。いるのは創って支配して壊すものだけ、そしてどこにでもあり、すべての物にあると認めてください。それはあります! 神様と呼びたい人はそう呼び、神様と呼びたくなければ呼ぶ必要はありません。そして私たちはイダッパッチャヤターの法則で交渉することができます。

 さて次は、お婆さんと学生を揶揄する、あるいは見下すと非難しないでいただきたいのですが、昔のお婆さんと博学の学生は正反対の見方があります。彼らは「お婆さん、あんまり期待しないでください。それはイダッパッチャヤターにすぎないので、お婆さんの天国や宮殿は、あまり望まないでください」と交渉します。

 学生である人も同じで、天国や宮殿は当然イダッパッチャヤターと見、それに憧れるべきではありません。天国の宮殿よりここの利益を取る方が良いです。これはお婆さんと博学の学生はイダッパッチャヤターに依存して理解し合うことができ、どちらも、聞く耳持たずに執着するどこの宮殿にも、迷って執着しません。

 一人がお金の宗教を信じ、もう一人がダンマの宗教を信じるのは矛盾するので融合させておしまいなさい。お金の宗教は身体面を自慢し、ダンマの宗教は心の面、精神面を自慢するので、正しく相応しい方法でどちらもあるようにすれば、体の面も心や精神の面も善くするので、お金やダンマの宗教でなく、最高にふさわしい宗教になります。イダッパッチャヤターの宗教を信じるのが最高に善く、体も善く心も善いです。

 昔の人の宗教と現代人の宗教は、どちらも使い物になりませんよ。古いのは一つの狂気で、新しいのももう一つの狂気で、古くも新しくもないのでなければなりません。古くも新しくもないのはイダッパッチャヤターで、その他は、古くても新しくても全部変化します。

 古さを知らず、新しさを知らないのがイダッパッチャヤターです。頭の古い人にならないでください。頭の新しい人にならないでください。昔のように信じないでください。現代のように信じないでください。古い宗教を信じないでください。新しい宗教を信じないでください。

 それはイダッパッチャヤターを知らずに仮定する話です。本当の宗教はタオ(道)、あるいはダンマのようです。ダンマには時間がなく、時に関係ありません。これを古い宗教は必要ない、新しい宗教も必要ないと言います。

 あるいはみなさんの時代の人は宗教がなく、頭の古い人は宗教に熱狂的なので、彼らに「正しい宗教がある」と言います。つまりイダッパッチャヤターは正しい宗教で、古くも新しくもなく、あるいは古くも新しくも使うことができます。

 一人は富豪で、もう一人は貧困で、信じる宗教が違って妥協できません。金持ちは身の程を忘れないでください。貧しい人は悲しまないでください。すべてイダッパッチャヤターだからです。有り余ること、あるいは貧しいことは、同じだけ騙し、真実はイダッパッチャヤターです。

 貧しい善人も、金持ちの悪人も、貧しい悪人も、善人の金持ちもいるので、何も確かでなく、確かなのはイダッパッチャヤターです。イダッパッチャヤターがあれば貧しさも富裕もなく、富裕である必要もなく、そして貧しくもありません。何の神聖さか知りませんが、快適に暮らさせます。

 貧民は貧民の苦があり、富豪は富豪の苦があります。これを見れば金持ちにも貧困にもなりたい気持ちはなくなり、イダッパッチャヤター、つまり中道、正しい中間にいたくなります。仏教は貧富について話しません。滅苦ができるとだけ話せば使い物になります。裕福なら裕福なほど苦が多いのは狂っています。貧しい人も滅苦ができればそれは善く、苦はありません。最高に豊かでもそれだけです。

 一人がコミュニストで、一人が資本家なら確実に喧嘩します。一人が資本家で、一人が労働者、それで殴り合うのはイダッパッチャヤターを知らないからです。人が叩き合い殴り合うのは、イダッパッチャヤターを知らないから、特にカンマの話を知らないからです。

 労働者たちが「自然の法則で、イダッパッチャヤターの法則で、私たちは同じではあり得ない。同じにはなれない」とカンマの話を知れば、貧しい人は貧しさと闘うことに満足すべきです。富豪も富豪であることに満足すべきで、嫉妬すべきでなく、あるいは弱い者虐めをするべきではありません。イダッパッチャヤターやこのようなカンマの法則を知っていれば、殴り合いません。

 大戦、戦争は、資本家と労働者が自分の権利だけを主張し、相手の権利を支配して闘う話です。これを私は「イダッパッチャヤターを知らないから殴り合う」と言います。だから急いで世界の人にイダッパッチャヤターを教えれば、資本家であること、あるいは労働者であることはなくなり、同じ宗教を信じます。

 更に細かいことは心の話で、一部は常見があり、もう一部は断見があり、どちらも狂っています。良く見てください。あるのはイダッパッチャヤターだけです。真実は、あるのはイダッパッチャヤターだけで、イダッパッチャヤター次第です。それが消滅すれば、それはイダッパッチャヤターの法則の成り行きで、それが生まれて存在すれば、それもイダッパッチャヤターの法則の成り行きになります。

 これを「自我、無我」と捉えるのは正しくありません、しかし話す言葉がないので、無我と言わなければなりません。自我と言わず、無我と言わない。それが正しいです。残っているのはイダッパッチャヤター、あるいはタタターだけと言います。

 タタターとは、イダッパッチャヤターの法則でそのようであることです。こういうのは二つとも止めさせることができ、自我と言わず、無我と言わず、話すのは「これがあれば、これが縁で、これが生じる」とだけです。それを自我と呼びたい人は呼びなさい。私は無我と呼びたいので、私も呼ぶことができます。

 そして私たちは争うべきではありません。本物はタタター、そのようであること、他のようでないこと、ダンマディティ、ダンマニヤーマだけです。これをイダッパッチャヤターと言います。自我の話、無我の話で論争するのを止めれば、二度と他のディッティマーナ(見慢)の面で狂いません。

 愛欲耽溺の話、苦行耽溺の話も同じです。ブッダは真ん中に、つまりイダッパッチャヤターに居させ、愛欲に惑溺しても、愛欲を嫌悪してもいけません。苦行耽溺式に体を苦しめる人たちは、体の能力をなくしてしまえば煩悩も愛欲も生じないという哲学があります。だから彼らは苦行耽溺を信じて休まず体を苦しめ、愛欲追求能力をなくします。それは彼らの正しさで、正しさはそれだけです。

 次に愛欲耽溺の人たちは「ほら、幾日もしないで死ぬのだから、飲んで食べて目いっぱい楽しもう。明日には死ぬこともあるのだから」と言います。これも彼らの正しさですが、正しいのはそれだけです。彼らはそれしか望まず、それしか欲しがりません。しかし本当に正しのは、どちらのようにもしないで中道に、イダッパッチャヤターにしなさいと言います。

 次に殴り合っているもう一組のボクサーは、再び生まれると信じる人と、二度と生まれないと信じている人たちです。一人は生まれると信じ、もう一人は生まれないと信じて殴り合います。ストップを命じる良いレフリーはイダッパッチャヤターです。

 二人とも狂っていて、それは「これがあればこれが縁で、これが生じる」以外の何でもありません。みなさん、再び生まれる、あるいは生まれないと一方だけ話さないで、このように妥協する方が良いです。

 頭が鋭く小煩い考えの人は、「世界の道徳だけ守れば良い。宗教のダンマを信じてはいけない。道徳だけ持ちなさい、宗教を持ってはいけない」と言います。もう一人は「道徳は使い物にならない。足りない。宗教を持つ方が良い」と言い、これも争いになります。私は良い道徳ならイダッパッチャヤターがあり、良い宗教はイダッパッチャヤターがあると言います。

 イダッパッチャヤターがあれば道徳と呼ばなくとも良く、宗教と呼ばなくとも良く、真実であり正しさであるダンマと言います。実践したダンマは滅苦ができます! 私は道徳があれば宗教はいらない、私は宗教があれば道徳はいらないと言い争わないでください。

 クルンテープにはたくさんいます。私が宗教の話である空の話を教えに行った時、人は「ロークッタラ(脱世間。涅槃へ行く話)の話、涅槃の話を教えるのはバカだ。稼ぐことと道徳の話だけ教えなさい」と非難しました。本当は正しくないだけです。

 私はそのように厳格に分けた道徳、あるいは宗教を教えるつもりはなく、イダッパッチャヤターの話を教えたかったのです。それは空である結果にし、つまり自分がなくなります。イダッパッチャヤターは俺を無くすので快適に暮らすことができます。

 二つに分けてどちらかの側にしないでください。そうすれば持すのが難しくなります。どちらかの側になれば、守るのが大変になります。それを一つに、つまり真ん中にすれば全部使い物になり、それがイダッパッチャヤターです。

 庶民が空を把持すれば庶民のような苦は無く、出家が空を把持すれば出家の苦はありません。庶民のように暮らすことも、出家のように暮らすこともできますが、苦が無いようにさせるこのダンマに依存しなければならないという意味です。

 宗教を持つ方が良いと言う人もあり、哲学を持つ方が良いと言う人もあり、このように論争します。仏教は宗教でなく哲学にすぎないと言う人がいて、仏教は哲学ではないと言う人もいて反論し合い、どちらも狂っています。

 この話の事実はイダッパッチャヤターだけ、イダッパッチャヤターの法則だけで、論理の言葉の形で話せば哲学であり、実践原則にすれば宗教だからです。イダッパッチャヤターは宗教の形であることも、哲学の形であることも出来ます。学ばなければならない時は、話に合う物を選んで学ばなければならず、そして話に合わせて実践すれば滅苦ができます。だから分けることはできません。

 滅苦ができるには、教育にも、実践にも、実践の結果の獲得にもイダッパッチャヤターがなければなりません。つまり知る知識であるイダッパッチャヤター、実践しなければならない実践であるイダッパッチャヤター、そして実践の結果であるイダッパッチャヤターが全部揃って現われれば滅苦になります。

 宗教が良い、哲学が良いと論争し、ああだこうだと勝手に言わないでください。宗教は実践で、哲学は実践に関わらない考えるための話です。しかし実践も正しく考える話がなければならず、全部合わせれば、正しい実践以上の何でもありません。これが宗教です。

 哲学は正しい実践の中にあり、哲学を知らずにブッダに倣って実践して滅苦ができることもあります。仏教は教えの言葉、実践、イダッパッチャヤターの法則で実践した結果だけで、それ以上にあれこれ複雑にしないでください。

 最後の対は、仮定の方が良いと言って争って喧嘩をすると話したいと思います。一人は第一義諦が良いと言い、もう一人は、自分は仮定を掴むと言い、一人は自分は第一義諦を把持すると言います。第一義諦を把持する人は仮定を掴む人を愚かと罵り、仮定を掴む人は第一義諦を把持する人を狂人と罵ります。

 仮定を掴むか第一義諦を把持するかの問題で反論する必要はありません。膨れ上がった仮定もあり、ちょうど良いのもあり、膨れ上がった第一義もあり、ちょうど良いものありますが、イダッパッチャヤターを正しく掴めば適量で、それは滅苦ができます。

 仮定で話せば仮定のように話し、第一義のように話せば第一義のように話し、それは話すことの話です。しかし本当は、今実際にある状況に合わせて正しくし、どの場合もその場合に滅苦をさせるイダッパッチャヤターの実践をすることなので、仮定の話、第一義の話、規定の話、好んで論争している何かいろんな話で言い争う必要はありません。

 アビダンマ家ならアビダンマ家であるほどケチで、第一義諦を知れば知るほどケチなのは、イダッパッチャヤターを間違って知り、どんどんケチにする類のイダッパッチャヤターを知るからです。寛大で情け深くする類のイダッパッチャヤターを知るのとどちらが良いか見てください。

 仮定を知る人は大人しくて信じやすく、第一義を知る人は多弁で取り留めもなく喋り、ちょうど良くありません。だからどちらも消し去ってしまい、「これが縁でこれが生じる」なら、苦を生じさせる原因は何かを知って、そこで対処します。

 苦の縁に対処して静かな感情で座って、この場合、何が今自分を危険にしている苦の縁かを見て、イダッパッチャヤターの法則で対処し、考えて問題を増やして時間を無駄にしないで、その時間にイダッパッチャヤターで静める方が良いです。

 すべてを、私は宗教間で交渉するものであるイダッパッチャヤターと言います。見解、考え、教理、教義の小さな枝の間にあるのは、私、彼という区別だけです。それが今この世界で大きな問題になり、愛と団結ができなくし、「優位に立って世界の主人になる」と夢中になります。

 私たちには同じ問題があり、同じ心情があり、生老病死の友であると見ないからです。イダッパッチャヤターを知らなければ、まだ堪えなければなりません。

 みなさんが持ち帰って考えるよう希望します。そして人と人同士でも、集団と集団同士でも、国と国の間でも、世界の半分と半分の間でも、交渉して理解することがあれば、心の面で正しく理解してしまうこと、つまりイダッパッチャヤターの法則での苦と滅苦の話ほどふさわしいものは何もありません。

 そして苦の友になり、一緒に滅苦をし、そして苦がない友になり、話は終わります。ブッダはこのように目指され、仏教の中でいろんな話をしておかれました。イダッパッチャヤターは、相手と交渉する元手になるかどうか、考えて見るに相応しいと思います。

 これで講義を終わらせていただきます。


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