質問と回答

 質問はメールやゲストブックで寄せらせたものです。ゲストブックが廃止されたので、ご質問はメールでお寄せください。

 

1.このサイトの一連のアーナーパーナサティの講義と『観息正念』はどんな関係でしょうか

このサイトのアーナーパーナサティ講義は、さまざまな機会にタイ人仏教教団員(四衆)に対して説いた講義の中から、ターン・プッタタートが選りすぐって出版人に提供したものです。

「観息正念」の底本である mindfulness with breathing  には 、西洋人僧の要請により、西洋人僧だけ話した講義録だと、英訳者の前書きがあったように記憶しています。内容は「アーナーパーナサティ解説」の前半と同じです。

「アーナーパーナサティ解説」は、仏教海外大使に、アーナーパーナサティの教え方を教授した講義です。前半で教え方の見本として観息正念と同じ技法を述べ、後半でなぜそのように教えるのか、理由を詳細に解説しています。

「アーナーパーナサティ解説」の外に、「アーナーパーナサティ完全技法と自然法」の前半でも、同じ技法について述べています。しかしその他の講義は、実践を始める前の段階で完璧に理解すべき知識と、整えるべき環境的条件と心の状態、様々な観点や角度から見たアーナーパーナサティの意味や意義、目的、注意点等々、非常に詳細に解説してあります。技法だけでなく、あらゆる角度から深くご理解いただくことができます。

 

2.ブッダとお釈迦様は同じですか

ブッダというのは「真実を悟った人。無明から覚めた人。智慧で明るい人」という意味で、過去にたくさんいます。私たちが「ブッダ」と呼んでいるのは、ゴータマ・ブッダのことです。

ゴータマ・ブッダは約二千六百年前に、インド北部で、ストーダナ王とマーヤ王妃の第一王子として生まれました。お釈迦様は詳しいことは知りませんが、ブッダより七百年くらい後に、インド南部で生まれたと見られています。それ以前に存在した痕跡がありませんから。

お釈迦様とブッダは同一人物と言いながら、それまでどおり「ブッダ」と呼ばず、超人的な説話を加えたり、わざわざ「シャカムニ」と呼び変えなければならなかった所に、大乗の意図があるかもしれません。ブッダとお釈迦さまが同一と考えているのは、あるいは主張するのは、おそらく大乗圏の人だけだと思います。以上は人物についてです。

教えに関してはさらに複雑で、正真のブッダの教えは、三蔵の四割以下しかないとターン・プッタタートは言っています。元はブッダの律と法だけだったものに、解説であるアビダンマが加えられ、後世になってアッタカター(清浄道論等)が加えられ、現在の三蔵になりました。お釈迦様の教えである大蔵経は五千巻余りと言われています。三蔵にたくさんの経が加えられ、何倍に膨れているのか私は知りません。とにかく「沢山」と聞いています。

ブッダの仏教の教えの目的は「苦からの解脱」あるいは「涅槃」ですが、お釈迦様の教えの目的は、いろんな系統の数だけあると言えるかもしれません。以上の理由で二人の人物は別人と見なさなければなりません。

ブッダとお釈迦様を同一人物と見なしていることが、仏教を複雑で誰も把握できないものにしている最大の原因です。数種類の絵をかき交ぜたジグソーパズルで、一つの絵を組みたてようとしているのと同じように、本当は複数の人の言葉の集まりなので、一つに集約することができないからです。

本当の仏教とは何かが掴めなければ、仏法を体系化して、目的に向かうことはできません。本当のブッダの教えと、お釈迦様の教えを見分けるポイントは、ターン・プッタタートが言っているように、「苦と滅苦」について、あるいは「空・無我」について説いているのがブッダ、直接滅苦に関わりのない善や徳や哲学について説いているのがお釈迦様と分ければ理解しやすいです。

お釈迦様の教えの中にも、ブッダの教えをそのまま説いている部分もありますが、それは、元々ブッダの教えであり、お釈迦さまはブッダの教えを受け継いでいるだけなので、様々な混乱の害を避けるためにも、それを理由に同一人物と見なすべきではないと思います。

テーラワーダ(この場合は現在東南アジアにある仏教という意味)の教祖がブッダで、大乗の教祖がお釈迦さまと定義するのも事実と一致しません。なぜなら東南アジアの仏教も、実際にはお釈迦様の教え、つまりブッダの教えでないものがたくさん混入しているからです。そして好んで教え好んで学ばれているものは、(自我のある)一般人の心情に合う、ブッダの教えでないレベルのもの(アッタカター)ばかりです。だから一つ一つ、これは滅苦ができるからブッダの教え、これは滅苦に至らないからお釈迦様の教えと、確認するべきだと思います。

追記 : 「釈尊」という呼称は、日本にしかない呼び名であり、空海が「三教指帰」という著作で初めて使った言葉だということが分かりました。空海は「吾師釈尊」といっているそうです。空海の真言密教はブッダの教えとは遠く隔たっているので、「ブッダ」という呼び方を敢えて回避するために考えた名前ではないかと推測します。 

 

3.ブッダタート比丘は、「瞑想はしないでください」と言っているそうですが、輪廻転生の有無を、どのようにして知ることができたのでしょうか 

 次の説法で、自分の寺の弟子やその他の人に、「瞑想をしないでください」という意味のことを、繰り返し言っています。仏教という名で有料で瞑想を教えるので、「金儲けの仏教」「金稼ぎの仏教」などという言葉で遠まわしに批判している話は数え切れません。

http://buddhadasa.hahaue.com/kuu/jissen.html

http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/sizenhou.html

http://buddhadasa.hahaue.com/ningen/7.html

http://buddhadasa.hahaue.com/t1/t-tikamiti.html

  「しないでください」と言っているのは、「仏教の目的(涅槃)に到達する修行,と執着してする、世間一般の技法による瞑想」「ブッダの言葉に根拠がない技法」という意味と理解しています。

経典の中には、自然のヴィパッサナーで解脱した、つまり普通に熟慮して解脱した人の話ばかりで、瞑想で阿羅漢果に到達した人の話はほとんど無い、とターン・プッタタートは言っています。(ブッダの言葉でない)一般の瞑想の代わりに、ブッダの言葉であるアーナーパーナサティや四念処を勧めています。

輪廻があるかないかは、他の真実と同様に、「智慧」「智見」「洞察力」が具わってくれば「見えて」来ます。いろんな智見は、戒と定と慧が等しい分(たとえば定が五あって慧が一しかなければ、智見は一)だけしか生じないと理解しています。実際には、定と慧は等しい量しか存在せず、従って慧を越えた定は技巧的一時的でしかないので、日常のヴィパッサナー、あるいは高度なアーナーパーナサティ(13段階以上)の力として使えないと思います。

(大乗の習慣に従って戒・定・慧という言葉を使いましたが、パーリ語では、戒・サマーディ(三昧)・智慧です。ジャーナ=定とサマーディ=三昧は多少意味が違います)。

 

4.アラカンになるには心を止滅させる必要がありますが、「瞑想をしないで心を止滅させる方法」があったら教えてください。

「心は常にあるもの」と捉えません。ブッダは『心は本来純潔である。煩悩は客人として訪れる』と言っているので、「心は普段はなくて、ときどき生じるもの」と見なします。

境が根に触れて触や受が生じ、欲や取が生じた段階を「心が生じた」と見なします。分かりやすく例えれば、美人の姿が目に触れて視覚(触)が生じ、「すごい美人だ」という受が生じ、「話をしたい」「付き合いたい」などの欲や執着が生じだ時、その時「心が生じた」と見なします。

受が生じても、その感情(心が捉えている概念。対象)を良い・悪い、好き・嫌いなどに分けて、愛したり憎んだり執着しなければ、その受は煩悩のない純潔な受なので、心は生じません。だから、「常にある心」を滅すのではなく、「心を生じさせない」のです。簡単に言えば、「感じるだけで考えない」です。

 一般の技法では、「心を滅す」よりずっと前の段階で「体を滅す」必要があります。しかしこの方法で心を生じさせなければ体も生じないので、体も心も消滅させる必要はありません。この方法を日常生活の中で、気がついた時いつでも実践すると、それほど長くない期間で、必ず結果が見え始めます。

参照 : http://buddhadasa.hahaue.com/maaka/nanimo.html

 

5.何をどう学んだら良いのか分かりません

どんな領域の学問を学ぶ時にも、先ず全体の概要を勉強し、目的は何か、全体はどんな構造か、どんな方法で目的に到達するのかを理解してから、細部の勉強に入ります。仏教を学ぶにも、仏教とは何か、何を目指しているのか、どんな方法で目的に向かうのかを理解しなければ、すべてはただの断片的な知識にすぎず、目的に向かう正しい実践はできません。

ですから、初めには「初心者のための仏教」「「俺、俺の」「人間マニュアル」などの、仏教全体の地図のような本を読まれることをお勧めします。これらを読まれれば、仏教の全貌を掴むことができます。

その後、知らなければならないこと、つまり「四聖諦」や「縁起」あるいは因果律、八正道などについて話している講義を順に読まれると良いと思います。

記憶するために読むのではないので、読んだら考え、考えては読み、何度も繰り返し読むことをお勧めします。(二三度目からは、気になる部分だけでも良いです)。一定期間心がその事柄から離れないようにして、いつでもそれについて熟慮すれば、それがヴィダッカ(尋)ビチャーラ(伺)という実践になり、内容が身に沁みます。

あるいは「仏教の概要」を知る前に、「ラジオ法話」を読まれて、「ブッダの仏教の味」を熟知なさるのも良いと思います。祭って祈る呪術の形の仏教しか知らない一般庶民に、本当の仏教とはどんなものかを分かりやすく説いているので、仏教の「味」が良く分かります。味を知ってから、学習に入るのも良いと思います。

大事なことは、仏教の知識を知るだけでなく、必ずそれについて深く考え、納得したことを実践することです。つまり、最も大切なのは「熟慮(広く観察しながら深く考える)」することです。熟慮すれば自然に心も鎮まり、智慧が生じます。本当に良く理解すれば、自然にその項目を実践するようになります。滅苦ができる深遠な知識も、実践しなければ自慢するため、執着するための世俗の知識の部類になってしまいます。実践をした時初めて、苦を減らすことができる「仏教の知識」になります。

付記 :  ターン・プッタタートは「日没まえに」の中で、「まったくの初心者は何から読み始めるべきですか」という問いに、「ボロマタム(ブラフマダンマ)」と答えていました。このサイトにそのシリーズの講義はありませんが、一部分、三話だけあります。

http://buddhadasa.hahaue.com/seiji/mondaiookosu.html

http://buddhadasa.hahaue.com/seiji/mondaihatten.html

http://buddhadasa.hahaue.com/seiji/mondaikaiketu.html

 

6 タイで出家したいのですが、お勧めのお寺があったら教えてください

なぜ出家なさりたいのですか。出家でも煩悩で望んですれば苦の原因になるので、決意なさる前に、何のために出家するのか、出家した後どんな人生を送るのか、繰り返しお考えになることをお勧めします。

出家すれば瞑想する時間がたくさんあるので、心の面で著しく進歩するだろうとお考えなら、本当にそうかどうか、現実を調査し観察してください。ターン・プッタタートは「出家などしてどうする」と言っています。

仏教以外の出家は、瞑想三昧の生活をしたくなったら決意するのかもしれませんが、仏教の出家は、ブッダの時代のような本来の出家は、四聖諦や縁起などの原則を聞いて心が衝撃を受け、世俗に興味をなくして本気で滅苦を目指す人がするものです。目的も良く知らずに出家して、心が四聖諦や縁起に関わらない生活をすることではありません。

人は通常、宗教に関心がある時期は数年間、最高に長い場合でも十数年しか続きません。その時期が過ぎれば、今までの人生でいろんな物に興味が変遷してきたように、宗教への興味も薄らいでしまいます。数年で関心が失せてた時、すぐに気付いて還俗できれば良いですが、気付かずに惰性で続けているうちに何年も経過すると、社会復帰が難しくなります。だからと言って、興味が薄れた後も出家生活を続ければ、本人にとっても仏教にとっても、社会にとっても不幸です。

あなたが朝、日の出の三十分後から正午前までの時間帯に生まれていて、子供の頃から(瞑想や信仰の部分でない)ブッダの教えに関心があったのなら、生涯宗教に関心を持ち続けられる可能性はあります。しかし他の時間に生まれているなら、仏教への傾倒は一時的なものと見えます。

ブッダのタンマで聖向、聖果、涅槃を目指すには、世俗の生活を十分経験し、善に厭きるまで善を行ない、世俗に厭き厭きしなければなりません。俗の段階を十分体験していないうちに出家しても、ローグッタラ(脱世間。聖人)の領域に到達することは期待できません。形(体)だけ出家になるだけで、心は世俗に興味がある「俗人」であり「凡夫」のままです。

それに、「自宅で出家する」にあるように、タンマの実践は家で十分にできます。ターン・プッタタートは「火のある所に消火があるように、苦のある在家の生活にこそ滅苦のチャンスがある」と言っています。オカマが女性より女性らしいように、在宅出家は、黄衣をまとって「出家している」と満足しているお寺の出家者より、ずっと真面目な修行者になります。何も実践しなくてもお寺では出家でいられますが、実践しなければ在宅出家でなくなるからです。

まずは「自宅で出家する」や「ヴィパッサナーの完全技法と自然法」「すべての行動の中の極楽」「ヴィパッサナー労働者」などを参考に、生活すべてをタンマの実践にしてみることをお勧めします。そして、いろんな考えが煩悩によるものか知性による考えか見分けができるくらい心が静まってから、それから出家を考えても遅くありません。その方がすべてにおいて、格段に良い結果になると思います。

どこのお寺が良いかというご質問には、ご自分の心の中をお寺にしてしまうのが最高に良いお寺と答えさせていただきます。自分の心にブッダをお招きし、いつでもブッダの原則で考えます。毎日ターン・プッタタートの法話や講義を読めば、毎日、最高に明解な説法を聞いているのと同じですから、ブッダの教えを簡単に理解できます。今の世界にこれ以上素晴らしいお寺はないと思います。

 

タンマはダンマと同じ意味ですか

同じです。パーリ語のダンマを、タイ語ではタンマと発音します。タイ語訛りです。


 
具体的に毎日どう過ごせばいいのですか 

  スマナサーラ長老はサティ(気づき)、すべての動きにラベリングして行く手法ですが、それとは違うのですか。

毎日の過ごし方は、常に心に煩悩が生じないように心を管理することと、何か判断するために考える時は、小さな子供がいつでもお母さんの判断を仰ぐように、そのことに関してブッダは何と言っているかを思い出し、必ずブッダの原則を判断基準にすることです。

しかし、盲信でブッダに従うのではありません。「ブッダの教えはすべて自然の法則なので、自然の法則に合った行動をすれば結果は決して苦にならないから、ブッダの教えと反対のことをすると、自分という基準で判断すると、結果は必ず苦になる」と見て、自然の法則であるブッダの教えを判断基準にします。

日常生活の問題なら、八正道やカーラーマ経などを基準にします。八正道の説明は、タイ仏教の中の「初心者のための仏教」二部4章の説明が具体的で使いやすいです。カーラーマ経は「三蔵経の中のダイヤモンド」に詳しい説明があります。

生憎「ラベリング」というのがどんな方法か知らないので、比較することができません。私がお勧めする方法、つまりターン・プッタタートが教える心が煩悩に領されないよう、心を管理する簡単な方法は、次のようです。

心に何もない時、心は静かで冷静です。何かを見たり聞いたり思い出したりすると(触)、幸福(喜び)か苦か、あるいは幸福でも苦でもないなどの感覚(受)が生まれ、続いていろんな欲の考え(欲)が生まれ、執着(取)が生まれ、その結果苦になります。この心の流れを縁起と言いますが、いずれかの段階で止めれば、苦の原因が生じるのを防ぐことができます。

簡単な方法は、心に幸福や苦などの感覚が生じた時、すかさず「あ、これは喜びの感情だ」あるいは「これは怒り(苦)の感情だ」と気づいて、「これらの感情にそそのかされて欲を生じさせると、すぐに執着が生じて苦になる」と考え、その感情を捨てます。心から追い出します。苦の原因になるものの発生に気づくのがサティ(消防士)で、そのサティは、苦を滅すタンマの知識(消化器)を持って来なければ、サティの働きができません。

心に欲が生じてしまったら、「これは欲だ」と気づいて、「欲は苦の原因になる」と考え、それらの考えが次々に生じて来るのを止めます。モグラ叩きのように、次々に生じる感覚や欲の考えを捨てます。

「私が喜んでいる」「私が嫌っている」という捉え方をしていると、喜ぶ主体、嫌っている主体である私が、意識する度に心に刻まれるだけなので、「捨てる」という意味が理解できないかもしれません。ブッダが、「煩悩は時々客人として訪れる」と言っているのを熟慮すると分かりやすいです。煩悩とは、心に生じる、結果的に苦になる考えの総称です。ターン・プッタタートは、煩悩とは「俺は、俺が、俺の」に関わるすべての考えと言っています。

煩悩の考え、あるいは喜怒哀楽や欲の考えを「捨てる」とは、ブッダの擬人的な譬えで言えば、煩悩が心に現れて話しかけて来た時、相手をしないで無視することです。何かを見て好きだとか嫌いだとか思った時、あるいは欲しいと思った時、「私はそれが好きだ」と見ないでください。心と感情と自分が一体であると見ている間は、感情に振り回されるだけです。感情を捨てられないので、心を管理できません。

ブッダは「愚かな人が自分だと考えているものはない」と言っています。まず、心と感情は自分ではないと学んで知ってください。そして自分ではなく「煩悩が喜んでいる」「煩悩が欲しがっている」と見て、それらの考え、つまり煩悩の言い分に耳を貸さないことです。相手にしないで無視していれば、煩悩は帰って行きます。(この説明は「タイ仏教」の「心の友」の中の「目を閉じて学ぶ」に少し詳しくあります)。

これを毎日、朝起きてから夜眠るまで、いつでも気がついた時に、習性になるまでします。ゴキブリは見るだけでは減らないし、決まった時間だけ叩いても効果はありません。同じように、煩悩や感情や欲望を見つけた時はいつでも、休まず「捨てる」か「追い返」さなければなりません。

ブッダは煩悩を客に譬えていますが、本当に客と同じで、その度に相手にしないで冷たくあしらえば、煩悩はだんだん来なくなります。本当にそうなります。つまり心に無駄な考えが生じる頻度が減るので、サマーディ(三昧。心の安定)が生じます。サマーディが生じれば、その分だけ智慧が生じ、ブッダの教えの意味が理解できるようになります。言葉の意味ではなく、話の意味が理解できるようになります。

この方法を四念処と言います。この手法に心を管理できる十分な理由があるか、滅苦をめざす実践の役に立つか熟慮して見て、本当に心の管理ができそうだと感じたら、少し試してみてください。(その実践行動に十分な理由があることを熟慮して納得し、十分理解するまでは、どんな実践も始めてはいけないとブッダはいっています)。早ければ数か月で変化が見え始めます。怒りや欲が減って来たのが見えます。少なくても、自分の心にどんなものがあるか自覚でき、心が明るく感じます。年単位で実践して、変化が見えないことはありません。

少し慣れてきたら、ヴィパッサナー自然法(ブッダが言っている意味のヴィパッサナー)を始めるようお勧めします。「ヴィパサナー完全技法と自然法」あるいは「自然のヴィパッサナー」に詳しい説明があります。コツは、何でも「無常・苦・無我」の三つで見ることです。

たとえば昨年の津波の映像を見たら、『新しい綺麗な家も、一瞬で瓦礫と化してしまう(無常)。今新しく綺麗な家を見ると、それもいつどんな原因で瓦礫になるやもしれないので、喜びより哀れを感じる(苦)。だから綺麗な家を「自分の物」と考えてはいけない(無我)。絶えず変化している自然の、一瞬の姿にすぎないのだから』という形で見ます。何でも同じように、つねに無常、苦、無我まで同時に見ます。一番見なければならないのは、自分の体の無常・苦・無我です。

無常だけではブッダの仏教ではないので(無常と苦はヒンドゥー教にもあるそうです)、仏教の実践の結果はありません。いつでもブッダが言っているように「無常・苦・無我」の三つ同時に見れば、その時苦が減り、あるいは消え、ブッダが意図している目標に向かいます。

 

8  怒らないようにするにはどうすれば良いですか

怒りの根源は、ターン・プッタタートが言う「俺、俺の」という驕りです。「私が世界の中心」「私は周囲から尊重されるべきだ」という考えが根源です。だから「俺、俺の」という感覚を減らせば、怒りも減ります。「俺、俺の」がなくなれば、怒りも無くなります。

使う言葉と心の感覚には切っても切れない関係があるので、「俺、俺の」という感覚を無くすには、話す時、書く時に、「私」「私の」「私に」という類の言葉を、極力使わないようにすることです。使うのは必要最小限にします。(日本語の文章は、無駄な主語のない文章を、美しいと見なします)。それらの言葉を使う度に、「俺、俺の」という感覚が強くなるからです。

同じ理由で、必要もなく英語や中国語等、「私」を多用する言語の使用を控えることをお勧めします。「私が幸福になる。私の好きな人が、私の嫌いな人も、云々」といった言葉を毎日繰り返していらっしゃるなら、そのような行為も、知らないうちに「私」という感覚を強くします。「私」も「幸福」も、本当にはない、世俗の人の仮定です。(ジオログの「英語について」を参照してください)。

直接怒らないようにするには、喜ばないように努力します。怒りは喜びの感情の揺り戻しのようなものなので、喜びを減らせば怒りも減ります。喜ぶのを少しにすれば、怒りも小さくなります。怒りの感情は勢いが強く、直接怒りを抑えるのは困難なので、反対の喜びを管理することで怒りを管理します。

美味しい物を食べたり、思うようにできたり、欲しい物を手に入れたりした時、「喜びは執着を生み、苦になる。決して良い物ではない」と見て、うっかり喜ばないよう注意します。もし喜んでしまった時は、その後心に「怒り」や「憂鬱」が生じるのを、注意深く観察して見てください。喜びと怒りまたは鬱の関係が見えると、管理しやすくなります。

 

9.空、無我の違いについて理解できません。違いを教えていただけませんか。どの項目を読めばよいかも教えていただければと思います(ゲストブックより)

ターン・プッタタートが言っている「空」と「無我」は同じです。空とは心の中に何もないという意味で、何もないというのは、煩悩・欲望などの類、つまり「俺、俺の」という感覚がない意味です。本当はそれらが無くなった分だけ、智慧や知識や知性などがいっぱいあります。

無我という漢語は「我がない」、つまり「私」という感覚がないこと、日本語では「無私」と言った方が近いかもしれません。つまりどちらもまったく違いはありません。

日本人が「無我」という漢語を聞いても意味をよく理解できませんが、同じようにタイの人が「アナッター」というパーリ語を聞いても良く分からないので、より理解しやすい言葉として、ターン・プッタタートは「から」「からっぽ」という言葉を使っています。空っぽと空と無我は、すべてブッダの仏教で目指す状態、「私は、私が、私の、私に」という感覚のない状態です。

空、あるいは無我については、法話のページの、タイトルに「空」という文字が入っている話が良いと思います。理解度や好みによってふさわしいものが違うと思いますが、私は、「空を知ってなお苦しみありや」が分かりやすいと感じます。

「無我」や「空」は仏教の最高に深遠なタンマですから、自然のヴィパッサナーの習性がない方が、文字や言葉を読むだけで理解するのは難しいかも知れません。もしそういう場合は、「ヴィパッサナーの完全技法と自然法」にある自然法や、「自然のヴィパッサナー」や、「ヴィパッサナー労働者」などを理解するまで読んで、習慣、習性になるまで実践なさるようお勧めします。

 

10.有為と無為をどう理解したらよいか教えてください(ゲストブックより)

有為とは、「作られた物」という意味です。たとえば生物のように、それを作り出すものによって作られ、それ自体も新たなものを作り出し、際限なく作り続けて行くものです。つまり、私たちが見ている何もかもです。

無為は、見ている人の心にある「私、私の」という感覚を消滅させた時の心の状態、煩悩によって何も作り出さない状態です。つまり、譬えれば、私という色眼鏡を外して見た世界が近いと思います。無為は、何かによって作られていないもので、涅槃しかありません。だから無為と有為を理解するには、涅槃とは何かを理解しなければなりません。

涅槃は、言葉は違いますが、前回のご質問の「空」や「無我」と同じ状態です。これらのタンマはローグッタラ(脱世間)あるいは第一義諦のレベルと言って、何もかも世俗と反対の感覚です。だからこれらの言葉が表している状態は、学校の勉強と違って、この世界に満足している人が、読んで理論で考察して理解できるものではありません。もし読んで考えて理解できるなら、高校程度の確かな読解力のある人が読めば、全員理解できてしまいます。

しかし、実際には、仏教学者でもテーラ(長老)やマハーテーラ(大長老)でも、涅槃や無我を正しく理解している人がほとんどいないように見えるのは、(世俗的な感覚に嫌気を感じて)心が高いタンマを受け入れられるレベルに到達していなければ、瞑想や知力によって理解できるものではないからです。

頭でなく何で理解するかと言うと、智慧や知性で理解します。儀式・形式でない本当の意味のヴィパッサナーから生じる智慧(バーヴァナーマヤパンニャーという)が、簡単なタンマから順に高いタンマを理解させます。そして智慧を生じさせるためには、八正道で述べられている八つの正しさが不可欠です。悪や間違いや贅沢は心や知性を曇らせるので、正しい見解が最重要です。正しい見解とは、因果律または縁生を信じること、世界を無常・苦・無我で見ることなどです。

正しい見解と戒とサマーディと智慧の度合いに応じて、生活様式が変化します。そして暮らし方(界)にふさわしい教えの項目が理解できます。それらがなければ(俗世にどっぷり浸かって満足していれば)、国語力だけで理解できるものではありません。 どんな教えでも、本当に理解すれば、生き方が変わります。だから生き方が変わるまで理解することです。(ヤフーブログの「タンマの実践は三本撚りの縄」「読書をする習慣」をご参照ください)

登山道を登り始めた人や、中腹を登っている人に山頂が見えないように、心が俗世に満足している人には、涅槃や無我や無為は理解できないと思います。山頂に近づけば時々山頂が見えるようになるように、俗世のものに厭き始めれば、涅槃や無我や無為が見え始めます。心が涅槃を理解できるレベルまで熟していれば、タイトルに「涅槃」という言葉のある講義をお読みになれば、ご理解いただけると思います。

しかし、それらを読まれて理解できないようなら、学校の勉強のように理解しようとしても、時間の無駄だと思います。仏教が難しいと言われるのは、世俗の知力は理解の役に立たないからです。高度なタンマを理解するには、正しい見解に導かれて八正道を歩き(仏弟子にふさわしい慎ましく正しい生き方に満足を感じるようになり)ながら、自然のヴィパッサナーを積み重ねて、「自分の体」「自分の考え」「自分の信仰」など、一つ一つ「自分のもの」を減らして、消滅させて行くことが、唯一確実な道と信じます。

どう勉強すれば良いかというご質問には、先ずは、煩悩(物質的快楽)より義務の遂行(タンマの喜び)を愛すよう、心を育てること。それから、無常・苦・無我で見る自然のヴィパッサナーで、「この体が自分」という感覚(有身見)を捨てる実践をなさるようお勧めします。

仏教の最高のタンマを理解には、世俗に厭き始めるまで、まだ何千世、何万世も時間を必要とする人もいるし、出合う切っ掛けを待っているだけの人もいるということをご理解ください。

 

11.日常生活で心を捕えるものに出合ったら、そのものの「無常・苦、無我」が見えるように、ヴィパッサナー(自然法)する実践で、「本能的に自分を感じる自我」を無くなすことができるのでしようか。「無常・苦、無我を見る」ことの、より具体的方法をアドバイスいただければ助かります。 (ゲストブック) 

ブッダの教えを実践する人は、いつの時代でも結果を出すことができ(アガリコ)、自分自身でハッキリと見えるので、他人の言葉を信じる必要はない。実践しない人は、他人が言うのを聞いても見ることはできない(サンディッティコ)』と言われているので、私が答えるより、ご自身で答えを出される方が良いと思います。(結果が)見えるようにならなければ、方法が正しくないか、理解に誤りがあるか、あるいはブッダの教えでないのかもしれません。

無常・苦・無我を見るには、非常に気に入っているもの、欲しい、なりたいと強く思っているもの、あるいは苦の原因になっているものを素材にするのが良いです。

たとえば結婚相手や恋人を切望しているとか、失恋で苦しんでいるなら、恋人や配偶者のいる状態は変わらないかどうかを観察します。途中で一方に他の恋人ができたり、相手に物足りなさを感じたり、相手の身勝手さに我慢できなくなったり、あるいは事故で亡くなったり、相手が病気になって看病生活になったり、あるいは自分が相手の重荷になったり、世の中にはどんなことも「アリ」だという事実を観察し(無常)、幸福の状態は長続きしないという相が見えるまで見ます。

「だから恋人ができても、結婚しても、永遠に続く幸福などどこにもない。必ず最後は生別か死別をしなければならない」という真実を、自分を納得させられるまで、いろんな例で観察します(苦=ドゥッカター)。そして「どんなに固く誓い合った恋人も、配偶者も、自分のものと執着すれば、いつか耐えがたい苦に襲われる。だから自分の物と捉えることはできない(無我)」と、このように、自分の体験や、自分の周囲や見聞きした知識を道具にして、幸福も不幸も続かないので、自分のものと執着すれば苦になるという真実を見ます。

一回の考える時間が、長ければ長いほど考え(観察)が深くなります。そして一つの項目(熟慮するテーマ)をいつも念頭におき、十分深い洞察(ある項目、あるいはあるレベルの悟り)に到達するまで、折に触れて同じ項目について繰り返し熟慮(ヴィパッサナー)します。つまり、いつも念頭を離れないくらい強く心を捉えていることについて観察します。さっきと今、昨日と今日、先週と今週、毎回違うことについて観察しても、浅い観察を繰り返すだけで、深い洞察になる機会はありません。

 

 12.三相の苦についてもう一度説明してください

言葉である三相の「苦」の意味が分からないだけで、「すべてのものは無常であり、無我である」つまり、「自分の体や心を、自分・自分のものと捉えることはできない」ということは理解できれば、ブッダも時々、「無常であり無我である」と、苦を省略して言うことがあるというので、まったく問題はないと思います。苦という言葉は、無常である状態を、別の角度から、念のためもう一度説明しているだけなので、「無常だから無我である」で理解できれば、念のための回りくどい説明は要らないと思います。

肝心なのは、無我を理解することなので、それに導く「言葉」や、言葉の説明に囚われないでください。

たとえばあなたが皇帝で、絶世の美女に惚れていると想像して見てください。傍にいるだけで天国にいるかと勘違いするような美しい女性も、時間と共に老化します。あるいは不慮の出来事で突然美しさが失われることもあります。(無常) 

どんなに権力があっても、自然の威力に逆らって彼女の美しさを維持することはできないので、「私の妃」「私の側室」と執着すると苦しく感じます。(苦)

だから、「私のもの」と執着することはできません。(無我)自分の愛人と見ないで、自然に変化しているものの一瞬の姿、今だけの姿と見れば美人の彼女がいても苦はありません。

あなた自身が絶世の美女であると想像して見てもいいです。その美しさを自分のものと執着すると、その美しさを永遠に維持できないことをたぶん知っているので、変化が現れた時、現在の地位や名誉や愛など、すべてを失う不安や心配による苦が生じます。だから苦のない心にするためには、自分の体に執着してはいけない、となります。

「無我」が理解できない場合には、ちょっと面倒です。無常であるものに執着したらどうなるか、自分が何かに執着した時はどうだったか、今執着しているものは変化しないかどうか、そう考える心は苦ではないか、そういったことを、心が何かを考えようとした時にはいつでも他の考えを封じて、そういった内容で、心の中や自分の経験を観察して見てください。

あるいは「空」を知れば無我になるので、「空を知ってなお苦があるだろうか」や「心を空にするには」など、空について話している講義を読まれると良いかもしれません。「この言葉はこういう意味で、この文章は、何を言っている」という国語の勉強のような読み方ではなく、「なるほど、そうかもしれない」「いや、本当だろうか」というように、心を耕すような、著者と対話するような読み方をします。

何かの話の中で、「空を理解できないのは欲(あるいは執着だったかもしれません)が深いからです」というような意味のことをターン・プッタタートが言っていました。「理解したい」という気持ちが強すぎても、それが理解を妨げます。

 

13.どんなに厳密な仏語と言っても、誰かによって聞かれた言葉であることは否めず、必ずブッダ以外の人の認識を経たものと言われます。それでも本当の仏語と言えますか

それは、三蔵の成立過程と、阿羅漢とは何かを確認していただけば分かります。文字で書かれるまでブッダの教えを伝承してきたのは阿羅漢の方たちであって、自我の厚い一般人ではありません。阿羅漢はブッダと同じように心が永遠に無我に到達した人なので、一瞬たりとも心に自我が戻ることはありません。

 ブッダの死後「法」と「律」を編纂した初めての結集では、選ばれた五百人の阿羅漢が集まり、マハーカッサヴァが質問して、ウヴァリが答え、それを五百人全員が認めたものを復唱したとあります。だから「誰かによって聞かれた言葉」とは、ブッダが誰かに話したことを、他の五百人のブッダ(阿羅漢)が「聞いた」と認めた言葉です。「ブッダ以外の人」とは、サンマーサンブッダ(自力で解脱したブッダ)ではない、仏弟子であるブッダのことです。

 つまりサンマーサンブッダの言葉を聞いて確認し合い、記憶して伝承してきた人も阿羅漢ばかりなので、(初めて文字で記録されたアショーカ王が行なった第三結集では、千二百人の阿羅漢が選ばれたとあります)、ブッダの言葉が、凡夫の認識で歪められる余地はありません。

文字で記録されると、ブッダの言葉でないものを混入する機会が生まれましたが、純金の小判の中にマガイモノの小判が混じっても、純金の小判の質は変わらないように、ブッダの言葉自体は変わりません。

 万一パーリ経典にそのような工作が行なわれても、それをチェックする方法(マハーパデーサ)をブッダは言い残していますし、その後も必要に応じて(現代まで)、三蔵の内容をチェックする結集が行なわれています。また、すべてのブッダの教えは、実践して正しい結果を出すことで、真偽を自分で検証することができます。(正しい方法で実践しても苦が減らなければ、それはブッダの教えでないことが明らかになります)。

 そのような見方は、預流になるのを妨害する「ヴィチキッチャ=疑」の類かと思います。


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