すべての行動の中の極楽

 

 法友と善人のみなさん、法話の形でお話できませんが、できる形で、普通の談話の形でさせていただきます。ご存じのように、講演者は病身ですが、まったく話さないのは正しくないので、今朝のように、談話の形でお話します。

今朝は贈り物を差し上げました。つまり「生きるためにタンマを信奉する自由」です。そして大切なこと、つまり三蔵の核心部分であるダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具についてお話しました。ダイヤモンドとは、直接滅苦の道具であるタンマです。ここでもう一度繰り返させていただきます。

何にも執着するべきでないという知識は、ダイヤモンドである知識です。何にも執着しないためにする実践は、ダイヤモンドである実践です。執着しない実践から得られる結果は、ダイヤモンドである実践の結果です。どうぞこれらの贈り物を受け取ることに知識と理解があり、そして実践できるようにしてください。つまり生きるためにタンマを信奉する自由です。そしてダイヤとダイヤを掘り出す道具とは、カーラーマ経と呼ぶ十項目です。どうぞこれを贈り物として受け取って、持ち帰ってください。

 つぎは二つ目の贈り物です。その贈り物は「すべての立ち居振る舞いの中の極楽」と言います。中には不思議に思う人、怪訝に思う人、びっくりする人もいるかもしれません。すべての立ち居振る舞いの中に極楽はあり得ます。そして私は今、それについて理解を生じさせ、そして二つ目の贈り物として差し上げる努力をしています。良く聞いていください。

 初めに細かいことを理解をしてください。一部の人たちは、私が「極楽はない、地獄はないと否定し、極楽も地獄も取り消す」と、私を非難します。みなさん、これから証人になってください。私は今、すべての立ち居振る舞いの中に極楽があると話しています。死ぬまで待つ必要はありません。生きているうちにあります。

死んだら行くという人たちの昔からある極楽には触れません。否定もしません。疲れます。いつまでも希望の極楽にしておいてください。しかし、生きているうちに得られる、すべての立ち居振る舞いの中にある本当の極楽こそ、知って、実践して、そして、すべての立ち居振る舞いの中に極楽があるようにしていただきたいです。

 聞くと、大きな話で不可能なように見えます。中には、「できるはずがないから、すべての立ち居振る舞いの中の極楽は聞かなくても良い」と、初めから興味のない人もいるかもしれません。しかし私は、それは可能で、不可能ではないと主張させいていただきます。できることであり、その上楽しくできます。どうか興味をもって良く聞いてください。なぜなら興味がないのに、深遠で緻密で精巧な話しをするのは、これ以上しても滑稽だからです。

すべての立ち居振る舞いの中の極楽には、お金を投資をする必要はありません。今まで以上に苦労をする必要もありません。つまり、みなさんの生活の日課である義務をしてください。しかしちょっと加えさせていただくと、その務めを行なう時に、タンマーヌサティ(タンマを思い出すサティ。法隋念)があるようにしてください。良く聞いてください。何も増やしていません。今していることを、サティで行なってください。

 稲作をしている人は田の仕事をし、果物を作っている人は果樹園の仕事をし、商売をする人は商売をし、公務員は公務をし、労働者は労働をし、乞食は今までどおり座って乞食をします。今までどおりしますが、少しつけ加えさせていただきます。仕事をする時、タンマーヌサティ、つまりタンマを思うサティをもってください。「タンマ」という点に秘密があります。人は本当にはタンマがありません。本当にはタンマを知らないので、タンマを生じさせることができません。

できるのは「タンマ、タンマ」と口で言うだけで、心の中に本当のタンマを生じさせません。つぎに本当のタンマを生じさせるには、理解しなければなりません。あるいは行動を改善しなければなりません。それは微妙で秘されたこと、つまりタンマは「義務」という言葉の意味にあるという秘密です。

 タンマは義務であるもの。義務であるものがタンマです。こう言うと、一部の人は「バカだ」と非難します。それは、「タンマは義務。タンマの実践は義務を行なうこと」という秘密を知らないからです。そんな時は特に、本当の拠り所であるタンマとは何か、というタンマの話をしなければなりません。タンマとは、実践する人を苦の海、あるいは悪に突き落とさないよう護り、苦の上に居させるものだと、どこででも聞いています。そのタンマは、実践する人を平等に苦より上に居させることができます。

 タンマは遂行する義務の中にあります。

 さて、どのようにタンマの実践をすれば、すべての立ち居振る舞いが苦より上にあるようにできるでしょうか。それは、すべての立ち居振る舞いに心を投入してタンマにしてしまいます。すべての立ち居振る舞いとは何でしょうか。ふさわしい職務の遂行、あるいは日常しなければならないことです。お百姓は田を耕し、商人は商売をして、と列挙しなくても分かると思いますが、そういう義務があります。これは直接義務です。職務、職業である義務と言います。

 もう半分の義務は、命を営む義務です。この部分は健康や衛生など、命を正常に維持する義務です。ご飯も食べなければならず、排泄もしなければならず、体を維持管理しなければならず、他にもいろいろしなければなりません。すべて命と体を管理します。

 だから私たちは二種類の義務を行なわなければなりません。直接の義務は、生活を維持すること、間接の義務は体を管理することです。しかし、どちらも自然の要求に従って正しく行なわなければなりません。ご飯も食べなければならず、排泄しなければならず、水浴もしなければならず、衣服も着なければならず、仕事にふさわしい服装をしなければなりません。

二種類の義務をまとめてタンマと言い、常に身に付けていなければなりません。少なくとも、たとえば痒いと感じたら掻かなければなりません。小さなことですが、痒くなったら掻かなければならないことも、正しくきちんと行なわなければならない義務です。このような義務を行なうこともタンマと見なします。

 タンマは義務、義務はタンマです。これはみなさんにとって奇妙な言葉、変な話ですが、真実はこうです。インドの言葉を基準に言えば、インドの辞書では、タンマは義務という意味です。誰かの教えという意味ではありません。タンマは義務という意味ですが、いろんな教え、つまり義務として、あるいは義務を行なうよう教えた教えは、ここで一つになります。

 つぎにこの言葉の由来、あるいは歴史を勉強しましょう。原人から脱した人間が定住を始めると、発展がありました。初期の人間はある大切なものを観察したと信じられています。それが、今私たちが義務と呼ぶものです。人間は、「しなければならないことがある。しないでは居られない」と考えることができました。これらが明らかに見えると、から「タンマ」という言葉が出ました。つまり「義務」です。その人は「タンマ」という言葉を使って、友達に義務であるものを教えました。だからタンマは義務です。だからパリヤッティ(学習)は義務の知識であり、パティバッティ(実践)は義務を行なうことであり、パティヴェーティ(結果を出すこと)は、義務の結果を受け取ることです。

 つぎに高レベルの義務には何があるかを見て行きます。高レベルになった生活の任務を知るために、それぞれの寺務所の先生たちが高度な義務を説いたので、煩悩や苦を根絶させる精神的な義務を知りました。高度になって、集団になり宗派になって、どこもタンマを教えました。つまり実践すれば精神的な苦から脱せる義務です。それで世俗的なものと世俗を脱すものの、二つの義務が生まれました。働く義務、病気を治療する義務、幸福であるように体を管理する義務を世俗のタンマ、あるいは世俗の義務とします。

一方、心の煩悩をなくして涅槃に到達するために、高くする心の義務はローグッタラ(俗を脱すこと。脱世間)のタンマ、あるいは義務です。このように二つに分かれても、同じタンマと言います。正式にはローギヤダンマとローグッタラダンマです。このタンマと言われるものは、教えを受け、そして常に調整されて完璧になり、宗教教義や宗教の宗派になりました。現代では狭い意味、あるいは大まかに「タンマは宗教の教え」と言われ、「タンマ、あるいは本当のタンマは義務」であることを忘れ、あるいは見落としています。

義務に関する知識は、タンマの勉強であり、義務を行なうことがタンマの実践であり、義務の実践の結果、あるいは私たちが望む結果を受け取ることがタンマの実践の結果です。

 これが、みなさんが考えたことも夢見たこともない、あるいは「タンマとは義務」と知らなかった秘密です。だから初めに、「タンマは義務、義務はタンマと知ってしまってください」とお願いします。私たちは、タンマの実践と知らずに義務を行なっています。これは本当でしょうか。みなさん全員が、すべての自分の義務を、生まれてから死ぬまで行なっています。しかし「タンマとは義務だよ」と考えたことはありません。だから義務を尊重したことがなく、義務を行なうことを喜ばず、仕方なく義務を行ないます。それは、すべての立ち居振る舞いで地獄に落ちているようなものです。

 しかしタンマは義務、義務を行なうことがタンマの実践と知れば、満足します。義務を行なった時、自分に満足します。だからすべての行動に極楽があります。心の中の感覚を正反対に変えるだけです。もしまだ愚かなら「義務はタンマ」と知らないので、義務は疲れるもの、仕方なくしなければならないこと、食べるためにはしないと駄目なものと感じます。このようなら義務に苦しめられます。だから今ここで、すべての行動から地獄を受け取ります。これもいい気味です。

 今、義務はタンマ、義務は神様のように私たちを助けることができるプラタンマ(仏法)と知ったので、義務を行なうことが楽しく、喜びを感じて満足します。義務が心を苦しめて苦を生じさせないだけでなく、満足や安心や喜びを生じさせて幸福になるよう促進します。だから、義務を行なう時はいつも幸福があります。これがすべての立ち居振る舞い中の極楽です。

すべての行動の地獄と反対です。ほとんどの人は今、自分の義務を必要に迫られて仕方なくしています。必要がなければしません。必要でしなければならない時は、苦痛や苦を感じます。それが、すべての行動で地獄にすることです。義務はタンマ、タンマは義務と、正しい感覚に変えてしまいましょう。義務を行なえば、義務を行なった時満足して、嬉しくなり、幸福になります。

 

 「義務の遂行のある所にタンマがあり、義務の遂行のないところにタンマはない」というのは大原則です。本堂にあるものは何でもある本堂でも、タンマの義務の行動がありません。あるのはおみくじと、花や線香を上げて祈願する儀式と、額などに粉を塗る儀式だけしかなければ、その本堂には少しもタンマがありません。その本堂には少しもタンマはない、と主張させていただきます。

しかしタンマは、自分の義務を知って満足して楽しく田を耕している農民のいる田んぼにあります。バタバタと田を耕している田んぼにタンマがあり、反対に本堂にはタンマがありません。義務の遂行がないからです。義務の遂行があったとしても、義務はタンマという気持ちがなく、仕方なく我慢してするのでタンマがありません。だから場所を基準にしないで、正しい義務の遂行がある所に本当のタンマがあると、タンマを基準に、事実を基準にしてください。

 みなさんは絶えず義務を行なっているのに、義務はタンマという真実を知らないのは滑稽です。だから義務を行なうことが地獄になり、我慢しなければならない、耐えなければならない、苦しまなければならないと思わされ、義務を遂行することに喜びがありません。それが非常に失業者を生じさせています。いま改めて知ってください。タンマは義務、義務はタンマという秘密を知ると、義務の実践はタンマの実践なので、いつでもタンマの実践をしています。

いままでしてきたこと、農作業でも、商売でも、サムロー(三輪自転車)漕ぎでも、請負の舟でも何でも、すべてタンマになります。職務の遂行はタンマと考えれば、仕事をすることに非常に満足します。満足すれば、土を掘る時、田の仕事をする時、商売や公務や労働をする時、乞食をするとき幸福があります。「職務を行なう時、幸福になるくらい満足する」と言います。これを「すべての行動に極楽があるようにする法則」と言います。自分の義務を行なう時、すべての行動に満足と楽しさがあります。

 具体的に言わせていただくと、朝起きると、普通、顔を洗わなければなりません。その時タンマーヌサティで、「顔を洗う義務はタンマの実践」と考えれば満足するので、顔を洗うことが幸福です。しっかり顔を洗えば、顔を洗っている時極楽になるほど満足します。今はそうではありません。こういう気持ちで洗っていません。顔を洗いたくない気持ちで洗います。心が入っていません。だからトイレの後手を洗うようにパパッと洗います。

そしてそこに「タンマ」の結果がありません。だから朝起きて最初の義務は、顔を洗うようお願いします。顔を洗う義務は、体を管理する義務、命を管理する義務であり、タンマなので、行なうことに満足し、楽しさを感じます。満足すれば嬉しくなって、確実に幸福になります。

 どうか満足してください。満足こそが、ピーティ(喜び。喜悦)と呼ぶ重要なことです。今言ったようなピーティがあれば、「タンマピーティ(法悦)」「タンマのピーティ」と呼びます。顔を洗うことの中にタンマであるピーティがあれば、顔を洗っている間中幸福があり、顔を洗っている間中がタンマの実践です。顔を洗っている間中、このように考えることに時間を使います。顔を洗っていても、考えることはできるからです。このような実践をしなければ、心はどこへ浮遊して行くか知れません。上の空で顔を洗っていると、心が怒りや憤りになるかもしれません。そういうのは、顔を洗う度に地獄です。

どうぞ正しくしてください。そして満足してください。正しいと感じれば、タンマで正しいと感じれば、道徳の教え、そしてこのような自然の法則による義務として正しいと感じれば、満足します。満足すれば心配ありません。自然に幸福になります。他のものではなく、正しいという満足から、安全だという満足から、あらゆる種類の幸福が生じます。非常に満足すれば非常に幸福になり、少し満足すれば少し幸福になります。満足すれば幸福です。ロクデナシの満足ならロクデナシの幸福です。これは要りません。望みません。私たちはタンマの満足、タンマのある智者の満足が欲しいからです。

 さて、顔を洗ったら何をするかと言えば、トイレへ行って排泄をします。そうしたら心の中で、「排便もタンマの実践だ」と考えます。誰もタンマの実践と見る人はいないように見えますが、本当は体、あるいは命を正しく管理するタンマの実践です。排泄すること自体がタンマです。「排泄する時にもタンマーヌサティがあれば、排泄することにも満足し、幸福がある」と言います。いい加減にしません。心が別の場所にあれば、間違いが多くなり、排泄が原因の病気になります。だからたとえ大小便の排泄でも、「義務の行動のある所にはタンマの実践がある」と見てください。

 さてつぎに水浴をするとして、浴室へ行く時にも満足して、タンマの実践だと喜んで行ってください。柄杓で水を掬い、あるいは蛇口をひねって水を出すにも、自然に従って正しい、タンマで正しい義務の遂行だというタンマーヌサティがあれば、満足して幸福になります。水浴して垢を擦ることも垢を擦るタンマなので、垢を擦ることに満足し幸福です。他に何かしなければならないなら、同じようにタンマーヌサティがあれば、浴室でのすべての行動が幸福です。

 つぎは身支度です。浴室から出たら身支度をします。服を着たり穿いたり、どんなことでも、どんな行動でも正しい義務、つまりタンマと考えれば、身支度をしている間中満足を感じ幸福です。すべての行動の極楽は、このようにあり得ます。余計な時間を掛ける必要はありません。

 つぎはどこへ行きますか。食堂へご飯を食べに行くにも「正しい義務の遂行だ」と満足します。皿を持ってしゃもじを掴み、ご飯をよそい、何を取るにも正しい動きと考えれば、ご飯をよそって食べ、咀嚼するタンマーヌサティです。そして食べ終わるまでのすべての行動がみなタンマになります。それは正しいので、「私は正しい状態の中にいる」と満足します。満足して幸福なので、極楽です。あるいは食べている間中、極楽の意味の中にいます。

皿洗いの手伝いをしている時も同じ気持ちです。皿を拭いても、床を拭いても、どこかを掃いても正しいと感じるので満足します。このようにすると、余計な時間を使わずに、すべての行動に極楽があります。しかし以前はそうでなかったので、悶々とした気持ちでしていたので地獄でした。ご飯を食べるにも仕方なくして、心ここにあらずで、浮ついていました。ときには頭痛や神経症や胃病などに妨害されることもありました。義務をタンマにできなかったからです。このように、いつでも少しタンマがあるようにすれば、最後にはタンマがある習性、性質になり、偉大な価値のあるタンマが身につきます。

  家のことが済んだら仕事に行きます。お百姓は田んぼへ行き、公務員は事務所へ行き、労働者は労働をする場所へ行き、乞食は乞食をする場所へ行く時、「正しい」、そして「満足」と考えます。一歩一歩歩くにも、あるいはバスや舟に乗るにも、いつでもどんな瞬間にも満足します。職場へ着いたら心を集中させて、「義務はタンマ。これからタンマの行動を始める。私は義務を尊重し、仕事を崇拝し、仕事をすることに満足する」とタンマーヌサティにします。

「働くことができればタンマ」と満足を感じれば、幸福になってしまいます。ここで、仕事部屋を尊重するべきだと提案したいと思います。仕事の道具や用具も尊重し、あるいはたとえば仕事を始める前に一度合掌するなど、名誉を与えるべきです。

 お百姓なら、牛を引いて鋤を担いで田んぼへ行ったら、それを下へ置いて、田んぼに、牛または水牛に、耕すのに使う鋤に、タンマの実践つまり義務を行なう用具として合掌します。商売をする人も同じです。職場の仕事用具なら、一回合掌をします。労働者も同じです。仕事に使う道具を尊重し、仕事を尊重すれば、資本家が得をしているなどという問題でうんざりしません。お互いに不誠実な行動で得をしようと考えて、働く気力を失いません。

サムロー漕ぎなら、タンマの実践と見てサムローを漕ぐときに極楽があります。舟の船頭でもいいです。道路清掃夫でもいいです。下水洗いでも、大卒の人にはできない、人々が低いと見なすどんな仕事でもいいです。それこそ義務であるタンマと捉えてください。志願して汗を流せば、浴びて涼しくする聖水になります。こうすれば失業者、今問題になっている、何十万人もの大卒の失業者は居なくなります。誰もが、どの仕事も同じようにタンマと見て、義務を行なうことに満足すれば幸福です。すべての行動に極楽があるからです。

 これが今日差し上げる贈り物です。「仕事はタンマの実践」という、短いちょっとした言葉、ちょっとした知識、小さな原則です。それがすべての行動に極楽があるようにします。行動する人に知性があるので、あるいは仕事をする前にタンマーヌサティがあるので、流れる汗が涼しい聖水になるほど心が満たされ、働く間中極楽になります。仕事なんか放棄して泥棒をする方がいいと、イライラカッカさせる地獄の水と感じません。

昔の人は何をするにも、どんな行動をするにも、合掌して心を集中させ、それから何かを始めました。それが仕事を始める前にタンマーヌサティがあるようにする秘訣です。何でもあらゆる点で正しく、冷静に、気丈に、安定してするために知性を集中させます。小さな子供も同じようにしつけられるので習慣になり、楽しく遊ぶにも、木に登るにも、水に飛び込むにも、いつでもその前に合掌しました。

 別の角度から見ることもできます。「義務はタンンマ」なら、義務は私たちを助ける神様です。朝から晩まで座って神様に祈願しても、何も義務を行なわなければ、助けてくれる神様、助けられる神様はどこにもいません。自分の義務を落ち度なく行なうだけで、すべての神様、すべてのレベルのどんな神様も、寄って集って助けてくれます。だから「助けてくれる神様は義務。あるいは善である正しい行動」と言います。これを「拠り所であるタンマがある」と言います。

見えますか。本当でしょうか。「拠り所であるタンマがある」は本当でしょうか。真実でしょうか。それとも推測でしょうか。それは真実以上に真実です。義務を行なうことはタンマの実践であり、それが行動に応じて、すべての神様に精一杯支援させます。だから満足があり、幸福です。すべての行動に極楽があると言います。

人生の伴侶として最高に価値のあるものがあると言うなら、どうぞタンマを生きる伴侶にしてください。夫にも伴侶であるタンマがあり、妻にも伴侶であるタンマがあれば、お互いに人生の伴侶として暮らせます。そうでなければ、つまりタンマがなければ噛みつき合う伴侶で、ほとんど毎日のように怒鳴り合います。そうなってしまいます。

だから本当の人生の伴侶はタンマで、タンマは義務です。夫も妻も、子や孫も、誰でも自分の義務を落ち度無く行ってください。そうすれば、その家族は、その村は、その国は、あるいは世界中が穏やかな幸福と平和になります。みなさんにこの項目が見え、そして生きる伴侶であるタンマがあることを望みます。これが最高に生きる秘訣です。

 一瞬ごとに、一刹那ごとにタンマがあることは、多少の秘訣はあっても可能です。秘訣とは、知性がすべての自分の義務にタンマーヌサティを生じさせ、義務をタンマとして、あるいは助けてくれる神様として尊敬することです。生きるために命を管理する義務も、煩悩を絶滅させる義務も、同じ義務だということを忘れないでください。すべての立ち居振る舞い、動きは何らかの義務の遂行です。ここから立ち上がって向こうへ行くのも義務と見なければなりません。そしてそれを正しいと考えます。それ以上ここに座っていることはできないからです。

歩く行動、つまり「歩かなければならないのは正しい」と満足して歩かなければなりません。座ったり寝たりする義務を行なうにも、これくらいの知性があればタンマがあります。あるいはいつでも、すべての瞬間、すべての刹那、助けてくれる神様がいっぱいいます。これ以上細かくするには、どう数えるか知りません。だからいつでも、毎秒、刹那毎に幸福な気持ちになります。

言い変えれば、一挙手一投足、あるいはすべての動きに幸福の意味があり、何もかも極楽であり、満足と安心があります。一銭も掛けずに。分かりますか。一銭も掛かりません。今している仕事だけです。何も増やす必要はありません。する時にタンマーヌサティがあるようにするだけで、お金で幸福を買わなくても、している間中幸福になります。

真の幸福なので、騙してお金を使わせません。心がこのように本当の幸福で満たされていれば、ソープランドのような歓楽施設にある偽の愉しさを求めに、どこかへ行く気持ちになるでしょうか。常に幸福で満たされ、幸福を求めるためにお金を使う必要がなければ、仕事の結果であるお金がたくさん残るので、あとで適切な使い方をします。要するに本当の幸福はお金を使う必要がなく、その上お金が残ります。

 これを知らない人は、いつも生き地獄に落ちた人のように苦しんで働き、お金を貰うと歓楽施設やソープランドに持って行ってしまい、その結果生活費が足りなくなって、また地獄に落ちます。つまり、絶えず地獄に落ちています。仕事をしている時は嫌々働くことで地獄に落ち、働いた後は、お金で偽物の愉しさを買うので、それがますますお金の問題を深刻にします。そしてさらに深い地獄、健康の地獄に落ち、経済の地獄に落ち、社会的な地獄に落ちます。まったく極楽ではありません。すべての行動に極楽があるとだけ、言ってはいけません。

 この項目を明確に理解してください。カーラーマ経の原則を使って、私の言うままを信じないでください。すぐに信じてはいけません。真実が見えるまで、あとでじっくり考えてください。真実が見えたら、試しにやってみるだけ信じます。試しにして見れば、本当にできます。始めの段階は、たぶん難しいと思います。

したことがない人は、「なんて大変なことだよ、おい」と考えがちです。何でもかんでも、タンマは義務、義務はタンマと考え、いつでもタンマーヌサティにして、大便をするにも小便をするにも、皿を洗うにも、家を掃くにも、いつでもタンマーヌサティがなければならないので、彼らは非常に大変なことと見ます。そして試したがりません。したがりません。

だから「それはできる」と、理を熟慮して見てください。そして少しずつ練習する努力をすれば、慣れて来ます。自然に慣れが生じていっぱいになり、その結果タンマーヌサティの考えのある人になり、すべての瞬間、すべての刹那、すべての仕事の挙措に知性があるようになります。

 これが今日二つ目の贈り物である、すべての行動の極楽です。どうぞみなさん全員が、この種の贈り物を受け取って、生活のすべての行動に極楽があるようにしてください。実践項目は、サティを欠かさないこと、うっかりしないこと、「タンマは義務。私たちが関わって実践すれば、一日中助けてくれる神様」と、タンマーヌサティである完全なサティがあります。寝るまでこのようにします。

一日の生活を、一度振り返って見てください。落ち度があり、うっかり地獄が介入したら、懲りることができます。すべてが正しくてすべてに満足すれば、自分に満足して、自分を拝むことができます。本当の極楽がそこにあります。

 もう一つ付け加えさせてください。毎日ブッダとタンマと僧を尊敬している人は、尊敬する四つ目のものを加えてください。つまり自分を尊敬します。寝る前、朝起きた時、正しいと感じて満足し、自分を拝むことができ、その日の極楽とします。起きている時も満足し、寝れば熟睡して悪夢を見ず、起きればまた満足します。このようにすべての立ち居振る舞いが極楽になります。仏法僧を敬う意味が集約されているという理由で、自分を拝むことができます。

 仏教教団員(比丘・比丘尼・清信士・清信女)は、知る人、覚めている人、明るい人という意味があります。知るとは本当のことを知ること、覚めるとは愚かさから覚めること、煩悩の目隠しから覚めること、明るいとは正しさと満足だけを感じることです。このようにすべての行動に極楽があります。手におえない意味のない饒舌だと思われる方は、どうぞそう思ってください。しかし私は、「無駄話ではない。限界を超えた困難なことではない。できる範囲にある」と主張させていただきます。

 だから、タンマーヌサティ(法隋念)というカンマターン(業処)を受け入れて身に付けてください。常に身に付いていれば、それが発展してブッダーヌサティ(仏隋念)、サンガーヌサティ(僧隋念)、そしていろんなアヌサティ(隋念)になり、完璧に滅苦ができます。初めはたぶんぼんやり、あるいは不注意かもしれません。しかし厳格にし、厳格にしていけば、幾らもしないで、何日、何カ月もしないで、すべての行動に、非常にタンマーヌサティのある人になります。その結果、確実に何でもサティでする人になります。

 つぎに、病気になったら、どうすればすべての行動に極楽があるようにできるかをお話します。ここに座っている人の中に、病気になったらどんな極楽か考えられる方がいるでしょうか。考えられる人がいれば、その人は「病気は自然になるもの、自然に従って正しく来るもので、真実を教え、自然を学ばせる」と考えるだけのサティがあります。涅槃に到達する話を早く理解させるので、病気から学んでタンマの勉強が深くなるので、幸運と見なします。そうすれば最高に利益になる病気です。このようにできれば、最高に善い病気です。つまり常自覚による病気のタンマーヌサティです。

死ななければならないなら、あるいは死の兆しが確実に現れたら、「ああ善かった。滅亡するための最後の勉強だ。生死を繰り返してはならん。私はみんなより先に休める。他の人は我慢を続けてね。体が滅びる私は、休むことができる」と考えれば満足します。そして勇敢に死にます。極楽があるように、あるいは続いて涅槃にがあるように死んでもいいです。これを「病気の中に極楽がある」と言います。「生まれたら死ななければならない義務」に満足するからです。

 何か、生涯私たちを苦にしている秘密があるに違いないと、良く見てください。それは、タンマと呼ばれるものを知らず、タンマに満足せず、タンマを尊重せず、タンマを大事にせず、タンマを実践して身に付けないので、すべての行動に極楽があるようにできず、苦を追い出して涅槃である穏やかな命にできないことです。苦のない状態が涅槃です。自分が行なうすべての義務を知性で行なうことで、生きているうちに到達できるかもしれません。

このような状態は、自然の法則で経過します。新しい話ではありません。それに、まったくお金を使う必要もありません。買うため、投資するためにお金を使わなければならないなら、それは正しいものではありません。「涅槃はただで与える。お金は要らない」とパーリ経典にあるように、涅槃はただで与えるものです。涅槃に関する自然の法則で心を正しく維持する行動をするだけで、お金を使う必要はありません。

良く聞いてください。僧がみなさんの家へ行ってブッダの経を唱える時、気をつけてしっかり聞けば、「ラッター ムター ニップタン プンチャマナー」という一文があります。要旨は「涅槃は正しい実践をした人にただで与えるもの。お金は取らない」という意味です。常自覚がある形の正しい実践は、すべてをタンマーヌサティのある心でし、タタンカニパーン(彼分涅槃)という完璧な涅槃になるまでは、小さな涅槃である満足と安心をただで味わいます。あるいは取り敢えずサマージカニパーナ(三昧の涅槃)になり、それから増やして完璧な涅槃、アヌパーティセサニバーナタートゥになります。

  ここのところを良く理解してください。私は、今していること以上に何も負担を増やしません。ただ、現在していることをする時、義務はタンマ、タンマは義務と知る常自覚があり、満足して行動し、行動することに幸福を感じてください。それがタンマだからです。義務を行なっている間中このようなタンマピーティ(法悦)があれば、満足し、喜びがあり、すべての行動が極楽です。

ハッキリ見える世俗の例では、スポーツをするように楽しく働くことです。重労働でも仕事によっては楽しいです。しかし今、私はどんな仕事も楽しくしてしまいます。重労働も軽作業も同じように価値があるので、一日中、いつでも同じ種類の幸福にします。偽物の愉しさを求めて歓楽施設へ行かなくても、している仕事の中に、いつでも本当の幸福があります。「すべての行動に極楽がある」と言います。

このような実践原則を捉えてください。そうすれば、最高のペーディンタム(タンマの地)になり、自然にペーンディントーン(金の地)になります。そうでなければペーンディンタム・ペーンディントーン構想は、臼を転がして山を登るように大変になります。あるいはカニを捕まえて箕に入れるようで、つまりキリがありません。

 ここでペーディンタム・ペーンディントーンの発展をさせる人たちに知っておいていただきたいことがあります。「タンマは義務、義務はタンマ。タンマは、義務を楽しく行なわせ、本当の幸福に満足する助けになるもの」と明らかに知っている心でしてください。そうすれば自然にアパーヤムッカ(破滅への門)に厭き、嫌いになります。そうなれば完璧にペーンディンタムが現れます。そしてすべての行動の中の極楽としてペーディントーンが、現れるのは、すごく簡単です。

 今、タンマの使い方を今までより良くしなければならない時代になりました。今まではタンマを知らなすぎたので、何の援けにもならず、その結果国中が神経症になりました。仏教教団員の中にタンマが正しくあればこれらを防ぐことができ、正しさで生活し、すべての行動が極楽になります。国が危機を脱す道はこれです。つまり国民がタンマを知り、タンマである義務があり、義務であるタンマがあり、すべての行動に幸福があり、疲れを知らず働き、働けば働くほど満足し、昼も夜も、すべての行動に喜びがあります。

それは何でしょうか。それは、髪の毛が山を隠すくらい最高の秘密、仕事を、幸福の享受に変える最高の秘訣です。少なくとも幸福を生じさせる道具です。しかし今は働きたくなく、仕事を嫌い、仕事を避け、仕事でズルします。仕事というものを正しく知らないからです。つまり仕事はタンマと、あるいは危機を脱す助けになるものであり、すべての行動を極楽にすることができると知りません。

「タンマは義務、義務はタンマ」、これだけを理解できれば、タンマで働くことに満足できます。タンマの喜びから生じる幸福が、心を幸福に養います。この人たちは自然に偽物の愉しさ、つまり破滅への門(酒・女・博打・悪友)を嫌いになります。破滅への門を排除する非常に難しい計画は必要ありませんが、破滅への門を嫌いにさせる計画があります。破滅への門と反対の物を好きになってそれに夢中になり、そして日常的に働いている時に、正しい幸福になるからです。これが冒頭で言った、髪の毛が山を隠す類の秘訣です。

 最後に、今まで私たちの知識、あるいは教育は尻尾を切られた犬のような状態なので、働くことは知っていても、仕事から生じる苦を防ぐことができない、あるいは働いている時幸福になれないという話をします。どんな仕事もタンマであり、助けてくれることができる神様であると知っていれば、楽しく働くことができ、苦はまったくないと知らないからです。これは尻尾が切られていない知識です。

今の知識は、尻尾を切られた犬で、働いて苦になる知識しか知りません。完璧な知識なら、働いているとき幸福を生じさせることを知っています。すぐに「それは不可能だ。できない」と決めてしまわないでください。そう考えないでください。自然にある可能な種類のものであり、生き物がしなければならない義務です。

 タンマは生き物の義務です。これから言う要旨を憶えてください。「タンマは義務」の義務は、誰の義務かといえば、生き物の義務です。どんな種類の生き物かは、あらゆる種類です。人間の命があれば、人間の義務を行なわなければなりません。動物の命があれば、動物の義務を行なわなければなりません。植物の命があれば、植物も植物の義務をします。義務を行なった時は、みな同じタンマです。

しかし植物の方が上手なように見えます。植物は毎日静かに生きていますが、一日中、自分の義務を行なっています。植物は一日中酸素を吐き出し、一晩中炭素ガスを吐き出していると、本を読んで聞かせてくれた人がいました。植物が毎日働かなければ、どこからそれらのガスを持って来て吐き出しているのでしょうか。一日中吐き出しているということは、一日中働いていることを意味します。植物を先生と見なすのもいいと思います。植物に恥ずかしくないようにしてください。

アリのように、シロアリのように、ミツバチのように楽しく働きます。休まず楽しく働きます。苦はありません。働くこと、あるいは自分の義務を行なうことに幸福があるからです。強制されなければならないほど愚かにならないでください。義務は神様です。神様は、「あなたは私のためにしなさい。そうすれば私はあなたを助けましょう」と、このように強制します。それは人間が小さすぎます。強制されずにすることを知りません。考えると、動物や植物に恥ずかしくないでしょうか。

 今私たちは植物のようではありません。のらりくらりと怠ける機会を狙ってばかりいて、必要に迫られて働くので、すべての行動が地獄です。「すべての行動の地獄」と「すべての行動の極楽」の二つの言葉を憶えておいて、好きな方を自分で選んでください。問題を増やして困らせる言葉ではありません。言葉の弄びではありません。これは自然の真実です。そして可能な範囲にあります。

心が大切です。幾つの問題も、どんな種類の問題も心次第です。心を改善できれば何もかも改善します。個々の体の人生の問題、あるいは苦や幸福や何もかも、心を正しく調整できれば、すべて満足できる状態になります。

 病気も死も、そういう自然だという真実を知っていれば、苦であるものは何もありません。愚かさで「俺のもの」と捉えれば苦です。普通の凡人の感覚では、生老病死に関わる問題がいっぱいあります。あるいは心にぎっしり詰まっています。聖人の体も、老いて病んで死ななければなりませんが、どうして聖人には苦がないのでしょうか。なぜ苦しまなければならない問題より上にいるのでしょうか。

それは聖人の方は何も掴んで自分のものにしないからです。もし生じたら「それは自然の成り行きになる。それは私を賢くする訓練するために来た」と言います。地獄に落ちるほどの心の問題にしてはいけません。みなさんはまだ聖人ではありませんが、聖人と同じ手法を使うことはできます。これら(老病死)による苦にならないよう努力します。もしそれら(老病死)が現れたら、賢くなるために教えに来た、あるいは私たちを試しにきた、と喜びます。何としても合格しましょう。これらを、地獄に落ちたも同然の問題にしないでください。これを、「地獄を選ばずに、極楽があると言えるくらい満足を生じさせる」と言います。

 これは小さな話ですが、一時間もお話しました。本当にちょっとした話、つまり、タンマは義務、義務はタンマという知識のある人の、すべての立ち居振る舞いの極楽の話です。義務が生じれば、タンマの実践ができることに満足し、実践すればタンマに満足し、満足すれば幸福になります。すべては疑いのない確実なことです。これをすべての立ち居振る舞いの極楽と言います。

 彼らは一斉に私のことを、地獄を否定し極楽を否定すると罵ります。それは一面だけを言っています。私は一度も否定したことはありません。「あなたのタイプの地獄極楽は一旦置いておき、今ここ(生きているうち)の地獄極楽に興味をもつ方がいいです」とお願いしただけです。彼は聞きません。怒って、私のことを邪見と非難します。仏教の地獄極楽を否定してしまって、何の地獄極楽にするのか知りません。彼は、六根にある地獄極楽の話を勉強したことがないので、死んだ後の地下にある地獄、天上にある極楽に執着します。それは仏教以前の他の教義が教えているものです。

 これに同情する方は、「地獄極楽を否定していない。来世も他の世も否定していない。何も否定していない」と、彼に説明して理解させてください。死ぬ前にこの世界で、何としても最善の結果を出すことをするようお願いするだけです。これは、『今ここに居れば苦はない』というブッダの望みと一致させることです。これもタンマと呼ぶものの目的です。疲れてきました。それにちょうど話も終わりました。今日の二つ目の贈り物は、すべての行動の極楽です。

 どうぞこの知識を十分身に付けてください。これを十分実践してください。そして十分その結果を受け取ってください。そしていつでも自分を拝むことができる、満足できる極楽であってください。これで二回目の談話を終わらせていただきます。

 (1985527日と推測できる) 


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