問題を作る政治

 

                                                            1969年4月14日 

   今日は「ボロマタムと政治制度」というお話をさせていただきます。もしかしたら、「ボロマタム(ブラフマダンマ)と政治はどんな関係があるのだ。まったく別問題だ」と考える人がいるかも知れません。真実を言えば、そうではありません。非常に関わりのある話です。世界の政治制度が悪ければ、この世界がボロマタム(素晴らしいタンマ。涅槃に至るタンマ)を受け取ることはおろか、普遍的な道徳さえ望めません。

普遍的な道徳のようなボロマタムは、現れている状態と原因を意味し、幸福に暮らすこと、人間性の充実、義務のための義務、そして普遍的な愛に分けられます。

一方仏教の教え、あるいはインドの一般文化のボロマタムは、ただ苦しめないことを意味するだけでなく、自分自身を苦しめないこと、最高のものである涅槃という幸福、少なくとも一時的な涅槃であり、他人に関しては傷つけないことを意味します。一般的な道徳のボロマタムも、インド国内の本来の意味も、反目し合う政治制度の世界にはありません。

今日の政治体制はどうかと言えば、誰にも分かるのは、自然が望む世界の政治はどんなかということについて、あるいは深い意味で、語る興味がある人は誰もいないことです。これは非常に分かり難い問題です。なぜなら真実というものは、人が感じるだけしか存在しないからです。それ以上、あるいはそれより深いことは、知ることができません。だから私たちがどんな政治体制を崇拝しても、それだけ、それきりしか分かりません。

それは小さな沼、あるいは水牛の足跡にできた水溜りの中のカエルのような状態かもしれません。つまり知るだけです。あらゆる角度から人間を勉強せず、利益だけを追求する勉強に夢中になっているからです。

政治は利益を求める道具になり、最高の利益である、平安に暮らすための心の問題ほど、高いもののためではありません。それは最高の利益を知らず、知っているのは物質的、肉体的な利益を求めることだけということです。だから現代の政治はこうなのです。つまり物質的、肉体的な幸福という利益のためです。

政治について話す時、政治をよく理解するために、タンマの面から見た主権について、少しお話したいと思います。なぜなら私たちは、たとえば民主主義、王権政治、独裁政権、寡頭政権というように、何にでも主権という言葉を使うからです。何千年も昔の古いタンマの原則では、何があるでしょうか。タンマの原則での主権は三種類あります。

独裁主義は自分の利益、あるいは考えを重視する。

世俗主義は社会全体の利益、または考えを重視する。

タンマ主義は自然の正義を重視する。

みなさん、これがどうか、どう違うかを比較して見てください。自分の考えまたは利益を重視するのと、たとえば全世界のような社会全体の考え、または利益を重視するのと、自然の正義を重視するのがあります。これを主権と言って、タンマの原則では三種類あります。

現在の統治制度には、どんな主権があるでしょうか。昔は絶対君主制の王制でした。現在は、かつて立憲君主主義と呼ばれた制限された王制です。それから王制民主主義と呼び方を変えました。それと王制のない、普通の民主主義があります。

しかしこのすべての主権制度はどんな状態か、それらの何が本当の主権か、本当に世論主義か、本当に民主主義か、どこが本当のタンマ主義か、国を統治する制度の原則として、どんな原則を捉えているかを見ると、世界にはいろいろ異なったものがあります。だから呼ばれている名前は、ただ名前だけに見えます。なぜなら彼らの狙いは利益にあるからです。

現代人がどんな統治制度を実施しようと、狙っているのは利益です。どの国のどんな制度も、目指しているのは利益だけで、内容的には利益主義です。それで民主主義と偽称してしまいます。それで、「人民の、人民による、人民のための」と定義し、あるいはスローガンにします。しかし人民がどんなか、という問題があります。人民が物質主義なら、利益も物質主義で、人民がタンマ主義、あるいは精神主義というような精神的なものなら、利益もタンマ主義になります。

しかし現代の世界を見てください。物質狂いです。「狂い」と言います。物質主義に血眼になっています。だから政治が民主主義と言っても、物質主義のためです。誰もが物質主義なので、世界はいま、物質主義の、物質主義の化け物の威力の下に陥っています。だから人民の、人民による、人民のための、というのも、確実に物質主義のものであり、タンマ主義には無関係です。タンマ主義は物質でなく心の問題だからです。

学生や現代人は、物質主義を心の問題にしています。血眼と言うのは、こういう意味です。つまり肉体的物質主義を心の問題にしてしまうほど、何も見えません。心の問題について、タンマについて、何かについてたくさん話しても、そうではありません。自然の正義を基準にしたタンマ主義と一致しません。

だからただの世論主義になってしまいます。人々の考えや見解や要望を基本にするので、結局自慢はできません。つまり善人、言行一致の人、正義公正の人にはなれません。群れに集められた水牛や牛でもないのに、群れています。

それでも必ず誰か一人に、大統領、あるいは何でも権力を委ねなければならないので、知らないうちに独裁主義になります。民主主義のレッテルを貼っても、考え方としては独裁主義です。何年間か、あるいは永続的か、人民が権力を委ねた誰か一人の知性が基準になります。

だから世界の政治制度、あるいは統治制度にはこうである、と言い難い複雑さがあります。たった一つ、「煩悩主義」と言える外は。つまり世界中の人々の煩悩に主権があります。こういうのを、本当は煩悩主義と言います。

煩悩について言えば、悪魔か魔王です。それ以外の何物でもありません。だから今日の世界は悪魔に支配されている悪魔主義です。だから至る所に困難があります。体に問題がなければ心に問題があり、心に問題がなければ精神に問題があります。

一般の人、つまりまだ解放できない人の結果は、不眠になります。今の人が揶揄して言うところの、心を空にできない人は、どこでも安眠できません。統治体制を擬人化して言えば悪魔主義だからです。事象を主体に言えば、煩悩主義、世界中の人の煩悩に主権があります。ちょっと科学者風の言葉で言えば、「物質主義」、つまり materialism に主権があります。

 比べて見れば、タンマあるいは仏法を基本とするタンマ主義、つまり自然の正しい真実、私たちが神様と呼んでいる自然の深い規則を基準にする、仏教の教えでのタンマ主義とは大きな隔たりがありことが分かります。このタンマは神様と呼ぶこともできます。自然の法則を神様と呼ぶこともできます。神様に主権があれば、世界には問題はありません。

今は、神様は口だけです。軍隊で神の名を出しても、口だけです。家の中で神の名を出しても口だけです。教会で神の名を口にしても、言葉だけです。本当の神様がどんな状態かも知りません。

仏教教団員はタンマとかプラタムと言いますが、仏教教団員もほとんどは口で言うだけです。民主主義や他の何かの教科書の元祖である西洋人の後を追っているので、すべてが錯綜混乱して、どれにして良いか分かりません。

 タンマ主義という言葉は、善や美や誠実や公正を意図しているので、簡潔に善と呼びます。そしてみなさんは、現代の世界には、善や善人が欠けている点を考えなければなりません。つまり善人に欠け、いるのは物質主義者か、自分や自分の利益を追求する人ばかりです。善があり善人がいれば、どんな統治制度の、どれもみな正しくなります。どれもみなタンマ主義になります。

本当の善人が一人でもいれば、善人の集団を探すより簡単です。独裁政治をさせても、最高に善い独裁になります。そして早いです。もし善人の集団があって民主主義になれば、それだけ善くなります。同じだけ善くなります。それ以上に善いものはありません。善い人がいるだけで、とたんにタンマ主義の治世になります。一人で統治しても、集団で統治しても。

 この問題を熟慮してください。善人を作る薬がないので、ほとんど絶滅したと言えるほどです。多少はいても、現れません。あるいは権力を持つような出世をしないで、潜んで埋もれています。だから世界を支配する義務を負っているのは、煩悩です。世界中の人の煩悩の集まりで、善人や善に機会を譲りません。

だから私たちは、これは残虐な独裁体制であり、一瞬の間に世界を地獄にする民主主義と捉えなければなりません。世界中の人が物質主義で、肉体のことしか考えず、そういう人たちが全員国会議員になり、何かになり、世界の支配者になれば、すぐに世界をひっくり返して地獄にします。つまり競い合って奪い合い、苦しめ合う世界です。

物質を神様として崇め、誰の顔も立てません。だから現在のように、するべきでないことが何でもできます。そして、我慢の限界と言われる道徳の問題が起きます。我慢の限界と言われるような礼儀の問題が起きます。そして、善人は世界から絶滅してしまったのか、と思わせます。

善人が絶滅してしまったら、タンマも世界から無くなり、タンマ主義もあり得ないという意味です。あるのは物質主義の形の独裁主義、世論主義だけです。物質が重要となり、物質を求める人の煩悩の餌食です。それは、述べたような煩悩主義であり、悪魔主義です。

 次に、本当の昔、ブッダの時代には、どんな政治体制、あるいは統治制度があったのかを考えてみます。当時の世界や同時代には、インドのチョンプータヴィープにしても、ギリシャなどの西洋にしても、興味深い、つまり今とは違うタイプの政治制度がありました。インドにはカースト制度があり、クシャトリア、バラモン、べーシャヤ、スードラの四段階に分かれて、四段階の身分の人がいました。

クシャトリアが一番上で、私たちが良く知っている王という意味です。統治する、あるいは守る義務があったからです。平常時には統治し、戦いの時には守る、つまり戦って国を守ります。だからクシャトリアの階級は、統治あるいは政治制度の中で重要な階級でした。クシャトリアの階級によって統治されていました。

バラモン階級は、著述家、学者、初級から最上級、つまり心、精神、宗教までの先生です。普通の学問知識から、心や精神や宗教の面まで、バラモン階級の手中にありました。

いろんな職人などの職業、現代呼んでいるようないろんな技術的な分野から、商売や経済活動なども含めたすべての分野は、ペーシャヤ階級です。彼らは元々ヴァイシャと呼んでいましたが、タイ語になってペートに変わりました。つまり職務として手工芸や技術の腕のある庶民です。

四番目の最下級は、シュードラ階級で、知性のない人たち、技術のない人たちで、雇われて働く労働者や奴隷や下働き、知性を必要としない下等な仕事です。このような四つの階級に分かれていました。

 このような階級に分けて、職業による階級の中で生きることができました。その後、職業で分けるのではなく、生まれで分けるようになり、どの階級に生まれたかによって、階級が決まるようになり、高い階級の人たちが身の程を忘れてしまい、職業を基準にしなくなりました。

生まれや血統や、その類の何かを基準にするあまり、自分を他の人たちより上に、他の階級より上にしたので、結果は違います。みなさん、このカースト制度には、四つの意味があるということを良く理解してください。

非常に悪いことは、生まれを基準にしていることです。もう一方は、非常に自然に適っています。つまり職業を基準にすることです。後者は自然が職業を基準に編成しました。人間に煩悩があると、生まれを基準にします。生まれを基準にした階級をブッダは非難して、廃止するように教えました。そしてカンマについて説き、カンマがすべての生き物を種類別に、あるいは仲間別に分類すると言いました。

 これは、職業による階級は未だに存在しているということです。国を治める任務に就いている人はクシャトリアで、さまざまな分野の教師をしている人はバラモンで、国の背骨である仕事をしている人はヴァイシャで、それ以外の知性のない人たちはシュードラです。

この制度はギリシャのある時代にもありました。彼らにもこのような制度がありましたが、職業で分けていました。そして人々が仕事に慣れるように準備を整えました。どの階級のどの人も、自分の仕事を完璧に、十分に、完璧に職務を果たせるよう準備をしたので、職業による四つの階級のどれも、完璧に職務を行うことができました。国の基礎は盤石で、あるいは安定して越権しませんでした。

 これには良い点があるということが分かります。現代のように混合しません。クシャトリアの階級は国を治めることだけを教育訓練され、自分の任務、自分の信頼を維持するので、統治や支配するにふさわしい人ばかりです。たとえばブッダが生まれたシャーキャ国やリッチャヴィ国のような、小国でも戦いに強いと言われる国は、まだ他にもたくさんあります。このような小国は、クシャトリアの階級によって統治されていました。

クシャトリアの階級も大勢であることに変わりはありません。クシャトリア階級はクシャトリアとして教育され、国の議会はクシャトリアだけで、他の階層の人が混じることはありません。国会はクシャトリアの会合であり、百人も千人もいました。そして国王は、規定次第です。

たとえばシャーキャ国などは、誰か良い人一人を選んで国王と定めました。あるいは王権制度か何かで、シャーキャ国のように、生涯国王とした国もあるし、リッチャヴィのように決められた数年間だけの国もあるし、あるいは何か月かで交替のこともありました。国会の議長のようなものです。

全員がクシャトリアであり、クシャトリアにふさわしい教育を受けているので、統治と防衛の二つの義務を、立派に果たさなければなりません。任務の訓練を受けているからです。リッチャヴィについてお話したことがあるように、朝の三時四時に起きて武器の練習をし、現代人のように眠りをむさぼらず、女性を尊重しました。それは最高の紳士であり、最高の武士でした。

だからマガタ国のような大国と戦えるほど強かったのです。国会は全員クシャトリアだったという点を見ると、その人の専門で立派に勤めを果たすことができるので、それは最高の自然の原則です。

良質の牛乳がたくさん欲しければ、乳牛になる品種を選ばなければなりません。牛肉が欲しいなら、肉質が良く、肉量の多い品種を選ばなければなりません。牛を仕事に使うなら、田を耕し車を引かせるための品種を選ばなければなりません。そうすれば最良です。

インドで牛を見たことがありますが、乳房が石油缶より大きくて、小さな水甕ほどに見えました。一回搾ると缶いっぱいありました。混血種のようで、牛と水牛の掛け合わせなのかどうか知りません。

その種類の牛は、体もそれなりに大きいのですが、それほど大きいという訳ではないのに、乳が大きいのです。足が閉じられないほど乳房が大きく、あちこち歩き回れない種類で、ほとんどその場所で寝ているしかありません。なぜならそのために選別されて乳牛になったからです。

 人も同じです。クシャトリアやバラモンや、ヴァイシャやシュードラになるには、特別に準備されていなければ、良い結果は得られません。現代は田舎の人を集めて国会議員にします。これはバカな話か良い話か、考えて見てください。

それに「民主主義、民主主義」と叫んで、権利でも何でも平等に与えますが、それは可能でしょうか。乳牛に荷車を牽かせることができるでしょうか。車を牽く牛から牛乳を搾って、足りるでしょうか。だからすることを選択する制度は、私は良いと言います。他の人が違うことを言っても、それはその人の自由です。

だから私は、政治家になる人たちを良く選ぶことができるなら、それは良いことばかりだと、内心でクシャトリア階級を尊敬しています。だからクシャトリア階級は、述べたようにブッダの時代の政治家です。議会には、そのために作られたクシャトリア階級しかいないからです。

クシャトリア階級にも、どうしようもない人間になって、家は没落し一族が絶滅するようなのもいましたが、それは原則を踏み外した、原則に反した問題です。原則通りならば良くなります。

そして厳しく選考されれば、サパタールの人たちのように良くなります。それくらい激しくても良いです。しかし過ぎれば低下します。そういうことです。ある時代のギリシャやローマは、治世と防衛によって繁栄しました。それは、特別な選別をしたからです。

 現代は教育のない田舎の人も国会議員になり、資本家も国会議員になり、労働者も国会議員になるので、混合して大混乱です。闘争分裂の場になります。それから政党が生まれて、政党制度になり、犬も聞かないような罵り合いになります。何を話しても罵り合います。仏教の言葉で言えば、ああいう言葉は、犬も聞かない、と言います。これが政治の物質的な、あるいは利益主義的な進歩です。

手が長い人は手繰り寄せ、羽振りの良い人はお金やら何やらを、政治的権力を集める道具に使います。こういうのはタンマ主義ではありません。誰かの手が長ければ偉い人を引っ張りこみ、すべての階級の人が国を治める権力を掴むために、議員になるためにお金を使います。

道路を掃き、ゴミを捨てる義務のあるシュードラ階級も、国会議員になりたがります。あるいは投票したがります。国会議員を選出する投票も、気分や好みや利益で選びます。だから益々利益主義になります。それ以上のものは何もありません。

 ブッダの時代の政治制度をみると、クシャトリア階級はたくさんいて、特別な教育をされ、国の議会として集まり、誰か一人に、限られた範囲で独裁権を委任します。つまり一定期間だけ議長になります。

正義や清潔になり易いかどう違うか、みなさん見てください。それに国会に闘争分裂は見られません。現代は罵り合いがあり、インク瓶を投げたり、靴を投げたり、議会中に銃を発砲したりします。これは悪魔主義、つまり権力を重要視しています。

私は、率直に敢えて言いますが、善人による独裁、タンマによる独裁、ブッダの行動を正しいと見、タンマのある善人による独裁が好きです。ブッダは独裁でしたから。ブッダが生存していた時は、法的にも、律的にも、百パーセント独裁でサンガ(僧集団)を治めていました。

律に関しては、ブッダは律の上にいて、独裁であり、ブッダが言えば、取り消すことも加えることもできました。それに、比丘なら触れる破戒行為も、ブッダは触れません。つまりそのように独裁でした。タンマの方の独裁は、つまり大悟したとおりに原則を規定しましたが、その正しさについてブッダ自身が、「タンマラージャー(法王)」と呼んでいます。

 ブッダは、頭の天辺から足の先まで、全身独裁でした。私はそれを見ると、善人の独裁は善いなあ、と思います。現代人たちは、善人はほとんどいないと言い訳します。それはそうです。集団で独裁をするのですから、善いはずがありません。

一人の善人も見つからないというのに、善人の集団など見つかるはずがありません。めちゃくちゃになります。だから準備して、タンマを基準に議員になる人たちを準備して、タンマが国を治めるようにすれば、タンマ主義になります。

ブッダは涅槃に入る時、「私が規定して説いた法と律が、私が去った後の教祖である」と言っています。管理制度として律を原則にすれば、滅苦の実践であるタンマを原則にすれば、法と律が教祖です。律を原則にするということは、サンガは律を原則とした民主主義の形になるという意味であり、人の意見や世論が原則ではありません。

サンガに委ねたと言っても、智者であり年長者であるテーラ(長老)の意見を聞くように諭したのは、年長者、長く生きている人というのは、経験が多いので、相談し、話を聞きなさいという意味であり、律を原則にし、律と法に教祖は生きていると捉えさせました。

これは非常に正しく述べています。つまりタンマ主義であり、いつでも原則であるタンマがあり、そしてタンマと律が独裁をします。それには常に独裁の精神があります。だから私たち仏教教団は、いつでもタンマによる独裁で管理されています。すべての項目において、全身タンマ主義です。

今は気をつけてください。仏教教団員でもタンマを捨てつつあります。律を捨てつつあります。タンマがある、律があるというのは、ほとんど口だけで、変転自在で定まらず、庶民の後を追い、庶民式の議会ができます。庶民式のサンガ議会議員ができます。それで西洋の後を追います。だから非常に哀れになります。

ある時サンガに民主主義への陶酔が生じて、庶民の方式を取り入れたのですが、上手くいきませんでした。つまりどんどんタンマ主義でなくなりました。庶民のマネをしたので、タンマ主義が難しくなりました。

自分自身がなければいけません。自分がタンマ、タンマが自分です。そうすればタンマ主義があります。だからこういう問題が生じた時は、仏教教団員の精神を思い出さなければなりません。タンマと律が原則であり、タンマと律による独裁です。

今言ったようになればタンマ主義です。原則であるタンマがあり善人がいれば、管理は個人でも部会でも構いません。個人の独裁でも、議会の独裁でも、可能なら全体の独裁でも構いません。しかしそれは、不可能です。先ほど話したように、集団を作れるほど大勢の善人は見つかりません。

現代は特に、誰も個の特別なものを認めず、すべて同じようにする民主主義なので、良く考えずに行動し、何も考えずに話し、良く考えません。クシャトリア階級も、クシャトリアとしての機会がなく、教師の階級も、教師になる十分な機会がありません。

職業を営む人である技術者や職人たちが政治家になっても、自分の義務にふさわしくすることがありません。昔は謙虚で口を慎んだシュードラ階級にも、非難する権利があります。今はどんな職業の階級の人でも、罵り怒鳴る権利と、武器を持って戦う権利があります。これはどういう種類なのか知りません。

だから私は、「悪霊主義」「悪魔主義」と言います。正しいか正しくないか、考えて見てください。それで、人民の、人民による、人民のための、と、素晴らしく響きの良い豪勢な宣伝をします。それでも人民は煩悩や悪魔の権力の下にいるので、それが何かを見破ることができません。

だからタンマが入り込めず、義務のために義務を行う人は誰もいません。普遍的な愛がある人は誰もいません。人間性を満たしていないので、人間が求めるべき穏やかな幸福がありません。これが、何が何だか分からないほど混乱した政治の結果です。

だから涅槃と呼ぶものは、たとえ一時的な、一時だけの涅槃でも滅多にありません。これは自然より劣ります。自然のままにすれば、一時的な涅槃は十分見られるくらいあり、自然に、偶然に、折よく静まることも良く見られます。

だからこれからは「タンマ主義、タンマ主義」と叫ぶようにしなければなりません。知性のある人は、タンマ主義を叫ぶべきで、民主主義を叫んではいけません。曖昧だからです。人民が悪魔の民か、タンマの民か神様の民か分からないからです。神様の民なら素晴らしいです。悪魔の民ならすべてを失ってしまいます。

悪魔は神様が試している状態で、扇情して行動させ、間違った行動をすれば、罰を下して満足し、正しければ褒美を与えます。神様は悪魔を遣わして、このように人間を試しています。今人間は悪魔の陥穽に陥って、利益や肉体を重要視しています。神様も笑っています。そして人間に罰を与え続け、いろんな種類の危機を作っています。

私たちはタンマ主義を要求しなければなりません。正しい神様を呼んで、悪魔の威力から逃れてしまいます。正しいタンマを要求すれば、ボロマタムが繁栄し、静かな幸福があり、人間性に満ち、義務のために人間の義務を行い、何の権利も要求せず、人間の義務を行う権利だけを求めます。

このようになれば、利益でも食糧でも何でも、消耗品も食料品も、何でも余ります。つまり食べきれず、使いきれません。必要以上に食べる人も使う人もいないので余ります。今は破壊して五欲の餌にします。

何百何千の中から、一つ例を挙げます。たとえば毎日消費している自動車のガソリンは、何のためでしょうか。人間生活の必要性は、一パーセントにもなりません。その他は五欲、異性の友達と遊ぶ楽しさ、あるいは他の楽しさのためです。

そして一番多いのが、自分の物質的利益のために、殺戮、闘争、あるいは人間を掃討する戦争です。最終的には五欲のためであることに変わりません。みなさん、戦争は、最終的には五欲から始まり、五欲のためにするものと見なければなりません。

彼らはいろんなものを手に入れて、良い生活をするために勝利したいのです。だから自然のレベルが五欲のレベルです。これは人身御供と同じで、すべては女性のためと言います。今世界の人が苦闘しているのは、物質と皮膚のためです。だからあらゆる種類の燃料は、九十九パーセント悪魔のために消費されています。本当に人間の必要のために使っているのは、たった一パーセントです。

それから、何でも拡大するのは、五欲のため、必要以上の贅沢のためであることを考えることを知らなければいけません。あれを拡大、これを拡大しますが、本当には人は行かなくても、どこへも飛んで行かなくても、安楽にできます。

わざとと同じです、わざと拡大して増やすので、あちこちへ飛ばなければならず、あちこちへ走らなければならず、ガソリンを使います。しかし本当は行かなくても良いのです。考えて見てください。あなたが外国へ行きたいと思うのは、考えて見てください。本当は行かなくても良いのです。それほど多くの物がなくても、今までどおり穏やかな幸福で暮らせれば、自然はそれほど多くは望みません。

今は、物事を餓鬼の話に、つまり際限のない飢えの話にしてしまいます。だからいつでも足りないほど、たくさん必要です。石油も足りません。何でも足りません。果ては米も足りません。これは物質主義が際限なく拡大したからです。だから生活も職業も、何でも足りません。お金を増やし、給料を増やし、あといくら収入を増やしても、いつでも足りません。なぜなら餓鬼の制度、つまり際限なく飢える制度だからです。 

 この政治制度は、煩悩の威力の下にあるので、際限もなく餓えています。際限なく餓えているので、国民は餓鬼ばかりと言います。だから統治制度は煩悩主義で、際限なく飢えさせます。それは、タンマ主義を要求することで解決できます。神様を要求し、タンマを要求し、ボロマタムを要求するのは更に良いです。これらの言葉は、前回の講義で理解していると思います。

 これから、本当の政治制度、統治制度は何かということを良く見ていきます。ある知人の友人が、素晴らしい結果を目指していると、手紙で知らせてきました。今政治はタンマに向かっている、タンマの方向へ転換している、と言います。そしてタイは、政治がタンマに戻る初めての国であり、発生国だと言っています。

私も共に喜びました。そうあって欲しいと心から願っています。政治制度がタンマに戻り、タンマで成り立ち、このタイが初めての、タンマである新しい政治制度を樹立する初めての国であるようにと。

それから煩悩主義である世界中の国が、タンマ主義になります。タイが、タンマである政治の発祥の国になるなら、共に喜ばせて頂きます。非常に願い、祈願させていただきます。もしみなさんも賛成なら、一緒に、そうなるように一緒に祈ってください。

政治がタンマになるように。タンマが世界を治めるように。そうすれば素晴らしいものであるボロマタムが、どこにでも溢れます。現在のように、どこにもかしこも困難と苦しみはありません。

 しかし見てもまだ、期待できそうにありません。犬も聞かないほど、腸を手繰り寄せて怒鳴り合う政治制度が、政党制にまで発展したからです。こういうことで上手くいくか、みなさん見守ってください。

 時間が無くなりました。ちょっと話したいのですが、私の話は emotional ですか。私は感情で人を罵る、emotional だと非難する人がいます。私は感じたままに話し、心を感情に委ねず、あるいは感情的になって恨みで人を罵ることがないよう、本当に見えた真実で話していと主張できます。私は片時も休まず、ブッダのことを考えています。そしてブッダのように、ブッダが示し望んだように、早くしたいと思います。

ブッダは手本を示されました。独栽の形で世界を治める法王がいる方が、早く、良く、簡単です。一人の善人を探す方が、善人の集団を作るより簡単です。牛乳を採るための牛の選別、肉にするための牛の選別、労働に使う牛の選別をするように、選別制度を導入するよう努力してください。

私たちの政治制度にこのようにする目的で、早く結果が出ます。国会にどんな議員がいるのか分からないほど、混合させないでください。そうすれば正しい議員になります。

「その集会に善人がいなければ、議会ではない」というブッダの言葉があります。善人とは、タンマがある人、静かな人を善人と言います。その会合の中に善人がいなければ、議会と呼びません。

身勝手で血眼になっている人の集まりであり、利益だけが大切で、ボロマタムがありません。国会にボロマタムがなくて、国を治める権力のある人たちにボロマタムがなければ、国中のすべての集団がボロマタムを持つことはできません。考えて見てください。

 善い世界の住民、国民になりたければ、タンマ主義である良い統治制度、良い政治制度について考えなければなりません。他は全部消えても大丈夫です。タンマ主義だけ残します。独裁の形でも、どんな形でも、善い人なら構いません。今はどこでも誰でも、善人がいません。そう思いませんか。

計画や原則や技術は正しくて良いのに実践できないのは、善人がいないからです。だから、静めるのは非常に難しく、混乱させるのは簡単です。どこの国も続いています。どの国も大騒ぎをしながら乱雑な発展をしています。

 この「発展」という言葉は、乱雑という意味です。みなさんは大学生でも、発展という言葉の意味が「散らかる。ひどく散らかる」という意味だということを、ご存知ないかもしれません。もし良い意味の散らかるなら良いですが、悪い意味で散らかるなら堪りません。

髪が燃えてチリチリになり、散髪しなければならないような場合も、パーリ語では発展と言います。髪がくしゃくしゃに乱れて、剃らなければならないような場合も、髪が発展したと言います。草が伸びすぎて何の役にも立たなくなった時も発展したと言います。発展という言葉は、散らかること、非常に散らかることを言います。

だから「発展した世界になってはいけない」という言葉があります。つまり「世界を散らかす人になってはいけない」です。ブッダの言葉の本を開くと、「世界を散らかす人になってはいけない」とあります。この言葉は「発展した世界、世界をぎゅうぎゅうに散らかしている、世界を散らかす人」です。

文字通りの意味では、みなさんの知識では、「世界を発展させる人になってはいけない。そう言うのは目いっぱいバカだ。世界を発展させてはいけない」という意味になります。正しく訳せば、「世界を散らかす人になってはいけない」です。つまり散らかって何の利益もありません。

今私たちは、あれが発展した、これが発展したというように、発展という言葉を使いますが、気を付けてください。世界を散らかしています。つまり大騒ぎで散らかしていて、静けさが求められません。

食べる物、使う物が十分豪華に揃っていても、静かな幸福ではなく、それまで以上の大騒ぎです。だから精神面の発展を超えた物質的な発展は、悪い結果をもたらします。私は敢えてこう言います。

どこの国も、大々的に大規模な発展をしています。もし精神の発展以上の発展なら、悪い結果ばかりです。だから私は、現在人々が驚嘆して騒いでいるような発展を崇拝しません。タンマ主義でない政治制度なので、政治家は世界を散らかす発展を目指します。そして世界を、今まで以上に大混乱させます。

 


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