問題を作る改革

 

                                                 1969年4月17日 

  今日は、ボロマタム(ブラフマダンマ。梵法)と世界の改革と題してお話します。私は問題として、あるいは問題の当事者であるボロマタムについて続けてお話してきました。いま非常に必要とされているにもかかわらず、世界にないからです。タンマの問題、あるいは宗教の問題は、ボロマタムがないことです。すべての社会問題は、これ次第です。世界のいろんな望ましくない状況は、これに欠けていることにあります。

 現在もっとも哀れで嘆かわしいことは、いろんな状況の根源を解決しないで、末端だけ解決していることです。世界は今、誰も所有者がいない物のような、誰も責任を持つ人がいないような状態になっています。誰も所有者がいないことの、責任を取る人がいない問題の解決は、寝言やうわ言であり、腕試しであり、なりゆきまかせなので、「病人」つまり世界は、重篤になり、あるいは死んでしまいます。

 現在世界で最も複雑困難なことは、世界の病気、あるいは重要な問題の治療、解決が、このように複雑な状況で、末端でしか行われないことです。つまり問題は、解決する人の誤りから生じたのに、これらの困難な状況はすべて、人間が著しい物質主義を崇拝し溺れたことが原因なのに、それでも気づきません。その結果困難に陥って、そして末端の解決をし、根源ではありません。

嘆かわしいこと、悲しむべきことです。これは苦ですから、笑うことではありません。私たちは自分を見て自分を批判して、自分を改革する形、あるいは自分を告発する形で、これを見て学ぶ努力をしなければなりません。だから今私が話しているのは、大衆への非難でも、世界の人に対する非難でもなく、自分自身に対する批判です。

私たち誰もが、全体の一部なのですから、私たちにも責任の一部があります。あるいは同じように失敗の結果を受け取ります。ブッダは、「自分で自分を批判しなさい。自分で原告になりなさい。あるいは自分で自分に抗議しなさい」と言っています。

 こうして皆さんと世界の行動について考えるのは、悪口でも、誰かへの罵りでもなく、自分自身を熟慮します。どうか心の中をそのようにしてください。このように正しく理解してください。そうすればタンマに到達するまで、順に理解できます。それが目的です。つまりいろんなことを良く解決できます。あるいは世界の苦が消滅します。

 末端だけの解決は非常に多く、どこででも、何でも、と言うことができます。私たちはそれを見て、その原因を発見するまで見て、そして出口、あるいはそれの正しい解決法を見つけなければなりませんそして今人間がしている行動はどうかを見ます。これは物質的な話、あるいは世界の物質的な状況ですが、深い部分、つまり心に関係があります。そしてその解決に関して物質しか見なければ、それはどれも末端の話です。

非常に苦労して、必死でこれらの問題の解決策を探し、これらの問題を解決するために資本と労力を注ぎこんで、あの機関、この機関と、たくさんの機関を創設します。すべての時間とすべての資金を、このために費やしているように見えますが、結果は出ないで、問題は増えていく一方です。一つ一つ見てみます。

 良く話題になるのが世界の飢餓の問題です。世界の飢餓を解決する機関は、どこの国も智恵と力を合わせ、本当に実施しない国も、世界の問題、あるいは国際問題と捉え、会議の一員として参加しています。しかし、今世界の飢餓の問題が何から生じるのか見てください。人間の自然破壊によって生じています。

 人間が自然を破壊していることを、もう少し詳しく見る必要があります。農業にとって重要な要因である世界の湿度などは、人間による自然破壊によって減っています。人間が増えれば増えるほど、人間のエゴが増大して自然を踏みつけ、世界の樹木や植物を伐採し、どんどん減らしてしまうので、農業環境は大きく変化しました。

今まで種を蒔けた土地も、蒔けなくなりました。大地の一部分を自分の土地として所有管理することを、良い発展と理解してはいけません。それは自然の元々の状態、あるいは神様の元の状態を身勝手に変えてしまいます。

世界の問題を難しくすることと関係のある話がたくさんあります。私たちには見えない深い部分、その大部分が変化していますが、悪い結果が現れてから見て、解決を迫られるので、状況解決と言います。その結果土地や肥料の問題を重視して、人間による自然破壊の補償をします。

つぎに当面の解決、支援を見てみます。たとえば食糧の配布、食糧配布機関を設立するのも滑稽です。世界の所有者である神様がいたら、笑います。それは問題を作り出すことで、滑稽な形で解決します。

食糧を配ることと、彼らが自分で食糧を得られるようにすることは別問題です。彼ら自身で食糧を得ることを教える解決をしていません。それでも夢中で食糧を配っているのは、すごく滑稽です。つまり物質面だけの支援で、精神面の支援ではないので、解決になりません。

次は病気の問題です。世界の病気、あるいは健康の低下の問題にも、大々的な解決策が図られています。体の病気のための機関がありますが、本当の原因、つまり心の病が見えていません。精神の病は、あらゆる種類の体の病気の原因です。私たちの心はボロマタムがないので十全な善い心でなく、執着と心配がいっぱいで、急激に精神面が悪化することがあり、それが神様経に出てきて、体に出てきます。

神様経の病気は、精神面の正しい休息がないことから生じます。それから体の病気になり、高血圧になり、慢性の、つまり一生胃炎になります。精神の休息が不十分だからです。すべてがダメになってしまいます。血液も機能が衰えて、十分な役目を果たす機会がありません。だから胃病になります。こうした病気の種類は多種多様です。これは精神が病むことに起因しています。

精神が病むというのは、貪り、怒り、迷い、あるいは愚かさという意味です。この愚かさが人間を病気にする原因です。医薬を間違い、衛生を誤り、刃物による傷や側溝に落ちることなども、精神の病、つまり愚かさ、粗暴と関わりがあり、精神の病と無関係の病気は何もありません。世界機関、あるいは世界の疾病解決機関は、すべての病気の原因である精神の病について考えたことがありません。

集めて注いで、物質面を解決するだけです。物や資金、何もかも注ぎ込んでも、解決できません。追いつきません。精神が病む原因を解決しないので、精神面、肉体面の病気が次々に噴出し、つねに形を変えています。人間はいつでも、昔の教科書にないような、変わった珍しい病気に遭遇しなければなりません。それは心の変化が原因です。

世界の状態も変化していて、繰り返しません。自然破壊、自然保護、この自然妨害も変化し、増えているので、病気も新しく変化して、いつでも問題になり、いつでも新しい方法を探し続けなければなりません。だからこの病気は、精神の低下が原因と捉えてください。精神の病気が刻々と増えているのに、体の解決だけに没頭するのは、末端の解決でしかありません。

この問題は非常に深いので同情します。ボロマタムがない世界には、死の恐怖があるので何をやっても正しくなりません。正しく解決できません。昔の人は精神的に健全だったので、あまり病気になりませんでした。それに死を恐れませんでした。死は珍しくも何でもないことと笑って、ごく当たり前のことの一つと捉えていました。だからそれほど、現代人のように何をやっても失敗するほど恐れませんでした。

次に識字の問題ですが、文字を知らないことは、大した問題ではないということを忘れています。文字を知っている人は大盗賊になって、文字を知らない人より出世します。つまり社会に害を与えます。あるいは文字を知らない人より社会にとって危険です。しかし彼らは反対に、文字を知らないと社会にとって危険だと言います。

この場合の文字を知っている人とは、文字だけしか知らないで、知識面だけで賢い人という意味です。タンマが無く、ボロマタムがありません。ボロマタムがなく文字を知っている人は、文字を知らないだけの人より、社会にとって危険です。昔のように、文字は知らないがタンマがある、あるいはボロマタムがある方が、ずっと良いです。知識や賢くなることは管理できないので、知識が却って社会の害になります。

今私たちは、文字を教えることを急いでいますが、ボロマタムを教えることは急ぎません。みなさん考えてみてください。良く知られていることですが、大学は、猥褻なもの、恥ずべき物の発生源です。利己主義もそこには多いです。知性が多いので、何でもできるからです。

人口過剰で受胎制限をしなければならない問題には、タンマの知識の欠如、道徳の欠如が多分に潜んでいます。人間にタンマがあれば、宗教の形のタンマが身についていれば、別の受胎制限を知っています。つまり心をコントロールして、行為そのものをしません。それに心が高潔なので節度があります。

物質的、物理的受胎制限は、人間を低劣にします。こういう防ぎ方を知っていると、不道徳を行うために使います。この問題を解決するためでなく、むしろ性的快楽のために受胎制限します。それは不道徳を増やします。

解決ではなく、一つの方向からもう一つの方向へ後押しして、問題を増やすことです。人間が善い人間で、道徳があり寛仁で、慈しみや思いやりがあれば、人間が多いことは心配ありません。今人間が多いのは、身勝手な人が多いので、多いことは危険であり、害があり、難しい問題です。

昔のタイ人は、「草で散らかっている(草ボウボウになっている)より、人が散らかっている方が良い。しかしバカな人なら、草で散らかっている方が良い」と言いました。私のお爺さんお婆さんはこう言いました。正しいか正しくないか、取りあえず聞いて、これから考えてみましょう。

善い人なら問題を解決できるので、食糧が無くなることを恐れる必要はありません。今は身勝手な人ばかりなので、この点だけを考えると、失敗を恐れて道徳に反する受胎制限をしなければならなくなります。

キリスト教徒は、神様は受胎制限を望まないとして、「宗教に厳格」という形で抵抗しています。それは彼らの正しさです。自然に反するし、このタイプの道徳を衰えさせます。しかし彼らは、神様が望まないという宗教的規定を信じています。これも正しいです。後に続く道徳の衰退を見ているので、神様は望まない、神様は物理的な受胎制限を認めないと信じます。私たちにボロマタムがあれば、世界に人が多くても大丈夫です。善人が多いのは草ボウボウより良いです。

犯罪が増える問題、いろんな種類、いろんなタイプの犯罪が増えているのは、道徳がないこと、ボロマタムのないことが原因です。特に物質主義と、誰もが肉体を崇拝し、自分の肉体の幸福を崇拝していること。それが犯罪の原因です。

彼らはこの点を見ないで、識字率や食糧不足、品不足の面を見ています。これでは駄目です。物質主義、つまり無用な肉体崇拝という点を見ません。社会が道徳や宗教の体系の中にあれば、そういう問題はあり得ません。かならず食べる食糧は得られるし、何とか文字も憶えられます。だからそれは末端の解決で、犯罪多発の根本的な解決ではありません。

今しきりに話題になっているのが、物資が足りない問題です。世界は今、物資が不足していると言います。食糧ばかりでなく、いろんな必需品、たとえば家を建築する道具や、いろんな乗り物に使うガソリンなど、何でもどんどん足りなくなって、後少しで無くなりそうです。重大問題です。これも、これらを必要もなく浪費してしまう己の愚かさが見えません。

たとえば世界の石油は、何のために掘り出すのかと言えば、火を燃やすためです。何のための火でしょうか。他のことより、むしろ戦争のためです。そして車に乗ったり、飛行機や船に乗ったりという、自分の体を大事にするために使います。これは勘違いです。これはむしろ楽しみの旅行です。

あるいは道路を駆け回る用事に使います。事業のためです。用事で駆け回わっている心の中は、ガソリンが燃焼している車のように熱くなっています。彼らの企業は、彼らの資本家の体のためです。企業がたくさんあるのは、最終的には彼らの肉体のためです。つまり必要のない部分です。

なぜなら彼らが際限なく拡大したいと望むからです。際限がないのは、力と権力を独占するためです。それもすべてを混迷させます。交流をどんどん拡大させる制度は、利己主義もどんどん拡大させ、独占もどんどん拡大させます。

これについて私は、「小さい村に住みなさい。都市のような大きな街に住んではいけない。それが多くの問題解決になる」、と言ったマハトマ・ガンディーに賛同します。今私たちは、世界全体を一つの町、一つの村にしようとしています。

交通によってそうなりつつあるので、こういう状況になります。何でもそうです。拡大して、ぐんぐん「手の長い人は手繰り寄せる、掻き寄せる、掻き集める」という方向に向かっています。集まっているので、可能な限りそうできます。

しかし先回りして優位に立ち、競争し合う都会である今のクルンテープ(バンコク)のように、掻き集めるために連絡を取り合わないで、小さな部落のように静かに暮らし、必要最小限しか連絡を取り合わなければどうでしょう。小さな部落のように暮らし、幾つもない部落も離れていて、必要な時だけ連絡を取るのと、どちらが静かでしょうか。

枯渇する問題は、枯渇させるような生活をしているから起きます。自然資源を掘り出して混乱させるために、複雑な問題を生じさせるために浪費します。静かさのためなら少しだけ求めるので、静かさのためではありません。だから不足します。

世界の物不足は、際限なく拡大したい人間の欲から生じます。つまりタンマを好まず、物質を好み、体を崇拝するからです。物質主義が増えれば増えるだけ、世界の物資は不足する一方です。タンマを崇拝し、精神的なものを崇拝すればするほど、世界の物資は有り余ります。欲が少ないからです。私たちは根源、つまり身勝手を解決していません。貪欲が末端の解決をさせ、末端しか見せません。

次は戦争の問題です。熱い戦争と冷たい戦争のどちらも意味します。冷たい戦争とは、政治や何かを使って、表面下で制裁をすることです。熱い戦争とは、武器を使って直接闘います。戦争には熱いのと冷たいのがあります。この二種類の戦争を見ると、この世界にはいつでも、一秒も休まず戦争があるという意味です。この世界には、一時一秒も途切れることなく戦争が続いている、と見なければなりません。

次に解決する努力をします。戦争を鎮め、戦争を止めるにはどうしたら良いでしょうか。それは分かり切っています。滑稽です。戦争は人間の愚かさ、物質主義への陶酔、神様より肉体を崇拝することなどが原因です。だから神様が罰を与えて、何も分らなくさせました。知っているのは戦うこと、奪うこと、体を奪うことだけです。

資本家と労働者、あるいは国境問題などの紛争も、すべては体の奪い合いです。神様が悪魔の形で人間を罰します。ときどき神様は、人間に仕返しをするために、神様を無視し、神様を信じない人間を試すために、一部分を悪魔に変えます。神様が悪魔の形で与えただけで、人間は永遠の戦争に遭遇したように木端微塵です。神様はすべてのもの全部であり、戦争で人間を困らせるために、悪魔の形でほんの一部を寄越しただけです。

だから深い部分を解決しなければなりません。つまり神様を見くびってはいけません。神様をバカにしてはいけません。神様と戦ってはいけません。そうすれば人間同士の戦争は終わります。人間は神様と戦うほど、タンマと戦うほど低劣で罪深いのです。

つまり神様よりも、あるいはタンマよりも体を崇拝しています。これを、神様と、あるいはプラタムと戦うと言います。神様も、「神様ならばほんの少し。悪魔の形でちょっとからかっただけ」と言われる行動で報いてきます。それが人間にとってはどうか、戦いの結果を見ることにしましょう。みなさん目を閉じて良く見れば、戦争が世界に与えた影響がどんなかが分かります。

 戦争に関わる様々な危機はたくさんあります。戦う前にも、戦っている最中にも、終わってもあります。みなさん理解できますか。戦う前にもある戦争による悪い影響とは、戦争の準備をしなければならないことです。戦争中は破滅して何もなくなり、戦争が終わっても様々な結果が返ってきます。簡単に残骸を排除できません。

永遠の危機になる前は、つまり人間を苦しめ、人間の心を苦しめる身勝手が、最後には戦争を始めなければならなくなります。戦争のずっと前にも、それも戦争の結果があり、戦争中も戦争の結果があり、戦争が終わっても、何十年も永延と続く結果があります。これらの危機に対して、目前のことだけの、一つの問題だけの機関を設置して、滑稽な解決をしています。

腹の垢を落とすことしか知らない子供と同じです。目を閉じて子供のことを思い浮かべてみてください。水浴して石鹸で垢を落としなさいと言うと、腹だけを撫でます。腹を撫でることしか知りません。体全体の、他の汚れた所を知りません。戦争の危険や戦争の結果の解決は、これと同じです。

 いま反応として返ってくる結果がたくさんあります。前も後も、最中も。精神や心の病気も、以前より酷くなっています。クローンサーンへ入院しなければならない種類の心の病気、あるいはパヤタイ病院へ入院しなければならない神経症が、手に負えないほど増えていることが証明しています。これが煮えたぎっている物質主義の毒です。あるいは下品な言葉で言えば頭に上る、です。物質主義が頭に上るので、人は神経症や心の病気になります。

これは、欠乏や家族が原因の話ではありません。それは末端です。深く複雑な物質偏重主義が、家庭の経済を悪くし、何でもカンでも悪くする根源です。これは結果で、原因ではありません。しかしこの結果が、心の病気や神経症などの、その後の原因になります。

この原因と結果について、ちょっと繰り返させてください。原因だけの物、あるいは結果だけの物は何もないと、付け加えさせていただきます。みなさん、原因は必ず結果になり、その結果もまた次の原因になると憶えておいてください。原因だけの物、あるは結果だけの物は何もありません。

原因だけ、あるいは結果だけという理解は、全体を見ず、非常に短い限られた時間しか見ていないからです。全体を見れば、すべては原因であり結果でもあります。もしそうでなければ、それは何でもありません。原因を深く、良く見てください。鎖のように、時々複雑になっています。

次に美しい物、あるいは崇拝している物を見ます。いま崇拝しているもの、それは例えば美術、文明、文化、あるいは文化的な哲学などです。美術には問題がたくさんあります。魅惑的だからです。美術(パーリ語のシーラパ)という言葉は、この種の美を見た人の心を魅惑して変える美という意味です。本当は、正しく用いれば、人の心を捉えて望ましい結果にするので、利益があります。

しかし現代は美術で人を釣り、猥褻で恥知らずな方へ引っ張り、あるいは美術でなく猥褻だったりしますが、彼らは美術と呼びます。本当の美術は、人をどこへでも導くことができる最高に良い道具として使うことができます。

しかし原題の美術は正しく導かないで、静かさの敵、ボロマタムの敵である所へ導きます。精神の美術(美学)について言えば、それは非常に素晴らしいです。物質的な美術、現象である外部の美術も、正しく使えばボロマタムに導くことができます。手法を間違えば正反対になり、肉体のこと、猥褻なことになります。

もう一種類の美術があります。つまり物ではなく、考えや知性の面の美術、美学です。精神面の美は、人をボロマタムに導くことで、非常に素晴らしいです。そして人をボロマタムに導く方法こそが、至高の美です。Buddhist Artと呼ばれる仏教の美術を求めて来る西洋人たちは可哀そうです。私は、「困ったものだ。間違っている。私たちを侮辱している」と言います。

Buddhist Artとはそういうものではありません。物質ではありません。Buddhist Artとは、人の心を苦から無苦へ変える、最高に絶妙な、非常に深遠な、非常に驚異的な方法です。八正道などだけに示されているのが、ブッダの、そして仏教徒のBuddhist Artです。

ブッダは仏像や物質である美を知りません。それをBuddhist Artと言うのは、彼らが勝手に呼んでいます。ブッダは、人間を苦しめる煩悩を殺す美を知っています。残虐なやくざ者を正直な人に変え、阿羅漢にします。これがBuddhist Artです。

 いま庶民の美術、一般の美は物質だけで、それしか知りません。本当の美を知らなくて気の毒です。そのうち物質主義の道具になり、猥褻なものになります。文明や文化も同じです。良く気を付けてください。どんどん物質主義の奴隷になっています。文明や文化と呼ばれる、この非常に話題にされ、崇拝されるものは、どんどん落ちて物質主義の、あるいは肉体の奴隷になります。

そして苦がいっぱいになります。平和でいっぱいにしません。哲学も滑稽です。つまりキリもなく話すことで、酔っ払いやアヘンや大麻を吸う人のようにたくさん喋りますが、内容はありません。物質主義の力、あるいは威力で喋っているからです。

 次は最も気の毒なもの、つまり宗教についてです。最高に崇高なもの、あるいは神様への階段と見ることができる宗教は、美術や文化が肉体の奴隷に成り下がったので、名誉を飾る物に、物質主義者の名誉の飾りになりました。

運や権力のある人は物質主義に酔い痴れ、宗教はそういう人の名誉の飾りになりました。道案内、あるいは精神の導き手ではなく、物質主義者の名誉を飾る物になりました。権力や運のある人は、子供を遊ばせるためにお寺を建て、子供を遊ばせるために競います。自分の子は他の金持ちのお寺では遊ばせません。自分の子供を遊ばせるためにお寺を建てます。

率直に言えば、権力のある人が僧を自宅に招いて徳を積むのは、むしろ名誉を飾るためです。みなさん自身で見てください。面目や名誉、偉大さを維持するため、自分の基盤のためです。宗教はこのように物質主義者の名誉の飾りになってしまいました。

人類を精神的な方向へ導く宗教の形をしていません。世界の物質主義者たちは、自分が宗教によってボロマタムに導かれたいと願わないで、反対に宗教を自分の名誉の飾りにします。多少マシなのは、自分の今後の基盤のためです。

世界を広く見て、使われている宗教、行動されている宗教、言われているよう状態で踏みつけられている宗教がどんな状態かを見てください。だから宗教は世界を救うことができません。そして人は、いま宗教は衰退していると嘆きます。宗教を改善するにはどうしたら良いのでしょう。物質主義者に宗教を改善することはできません。自分自身のバーラミー(波羅密。高度な徳)の飾りにするだけです。

次は教育です。私は以前の講義で、何度も教育についてお話してきました。ここで、いま私たちの教育は、人があらゆる方法で神様と戦う力をつけるためと結論させていただきます。現在の教育は、人があらゆる方法で神様と戦う力をつけるためとは、タンマへの抵抗、物質主義でない物への抵抗です。教育は物質主義の味方です。物質主義でないものに抵抗するためにあります。

それはあらゆる方法で神様と、あるいはタンマと戦うことです。物質主義にするために、いろんな言い訳する賢さです。いま教育は、物質主義の悪霊の奴隷に成り下がり、あらゆる方法で神様と戦う能力をつけるためにあります。

しかし、本当の教育がそうだという意味ではありません。いま私たちは迷い、間違って使い、間違った総仕上げをしている最中です。あるいは間違った機会を与えています。だから子供たちは今どんなか、自身で見てください。今の子は肉体を崇拝しています。つまり益々神様と戦争をしているのです。

いまの教育には研究という結果があります。教育と研究、新しい発見をする研究が非常に崇拝されているからです。しかし現在の世界の研究は、休まず物質主義的探求をするための研究である結果があります。新しく、珍しく、可能な限り美しく、豪華な煩悩の餌を探す研究という意味です。

この方面の研究ばかりなのは、世界の人がそれを求めるからです。こうしたものを得られれば、お金になり、物も手に入り、権力や運も得られ、因も縁も得られ、他人より優位に立てます。だからこの方面の研究ばかりします。

以上の理由により、世界の研究は、自分自身を騙して休まず探求する範囲にあります。前より夢中にさせるために、常に古い物と新しい物を入れ替えます。だから関連のある製造業は、人を益々熱中させる物ばかり造ります。最高に良くて他人を鎮圧する、つまり他人に勝ち、他人より優位になるための物です。こういった物が世界に蔓延しています。

彼らが精神を高めるものとして、道徳や宗教や、道徳を高めるものについて話しているのを見ると、それは反対に誤解で、期待外れで、精神を低い方へ押しやる物を、精神を高めるものと勘違いしています。だから現代社界の心の発展は、物質の話ばかりです。それでも彼らは心の発展と言います。本物の心、あるいは本物の心の発展を知らないので、精神の状態を良くしようと決意しても、反対になってしまい、もっと沈めてしまいます。

要するに、蓮の華の形をした転輪(地獄の責具の一種)が、ますます世界に増えていると言います。これは「転輪を蓮華と見る」というタイの言葉で、つまり、現代はますます転輪を蓮華と見ているということは、世界の害になる物を、世界を育て、世界を助ける物と見て、物質主義を神様と崇めることです。それが転輪を蓮華と見ることです。人間を滅亡させる物を人間が求めるべき物と見るので、略奪や掃討、転輪を蓮華と見るので、世界は真赤、どこも血で真っ赤です。

次にボロマタム(素晴らしいタンマ。梵法)が、誰も振り向かず、誰も欲しがらないものになり、誰も世界の状態の解決に使う人がいないことについて考えます。いま世界にあるすべての悪い状況は、ボロマタムで解決しなければなりません。自分で分類して見てください。幸福、人間性を満たすこと、義務のための義務、普遍的道徳である普遍的な愛、あるいは涅槃、仏教の意味で、自分と他人を苦しめないこと。

これらのボロマタムは、世界のさまざまな状況を解決できますが、彼らはまったく関心がなく、求めもせず、理解しません。そして肉体よりボロマタムを求めません。役に立つものは不毛です。あっても飲まない薬のように、何の意味もありません。

次に、物質主義の奴隷になってしまった現代人は、至高なボロマタムを子供のおもちゃと見、子供が道徳について話せるように、道徳面でちょっと話すものと見ているということを、もう少し詳しく見ます。だから学校の社会や道徳の小さな知識です。世界の重要人物は、ボロマタムは個人的なこと、個人の小さなことと見て、自分で求めればいいと考えています。取るに足りない心理学と捉え、タンマの実践、あるいは宗教、あるいは神様と捉えません。

彼らは宗教や神様を、子供が勉強する詰まらない心理学と一緒にします。たとえば子供を煽ったり騙したりするために、正直にしなさいとか、仕事のために働きなさいとか、少しだけ話します。大人はしません。道徳を教えること、道徳のしつけは、子供たちを騙すもので、子供を騙して、大人はしません。

これは新しいタイプの世界を作っているのと同じです。この種の子供がいっぱいになったら、世界にこの種の子供しかいなかったら、世界は様変わりします。神様から、危機の世界という褒美を貰います。永遠の危機です。最後にはタンマがない、ボロマタムがない世界になり、欺瞞の世界、悪魔の世界、魔王の世界、神様に罰せられている世界になります。人間が物質主義の奴隷になり、神様より自分の肉体を崇拝するからです。

この種の人間は、泥の中に沈んで泥にまみれながら、俺は世界の状況を解決すると傲慢に叫んでいます。これは泥水で泥を洗うことです。洗う水は、初めの水より汚れています。みなさん目を閉じてイメージしてください。薄い泥汚れを、もっとひどい泥水で洗います。これが今実際に行われている、世界の状況解決です。後から持ってきた泥水は、初めに体を汚している泥よりももっと汚いです。これが現在の世界の状況の解決のまとめです。

ブッダ、タンマ、僧を崇拝して、あるいはボロマタムを崇拝して、この宗教で出家したみなさん、彼らのように迷わないでください。勘違いしてそれほどひどくない泥を、もっと酷い泥で洗わないでください。煩悩、貪り、怒り、愚かさは、泥と呼ぶべき汚れという意味です。貪りと怒りと愚かさの結果である肉体を崇拝する人の原則で貪りと怒りと愚かさを洗うのは、情けないです。普通の泥をもっと酷い泥水で洗うのは、哀れです。

 


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