何もしなくてもよい

 

 

 今回は、苦から脱す修行に励むためのアドバイスが欲しいという方がおられましたので、それから始めたいと思います。

 空について話すことは正しいことです。勤勉の話は難癖をつけることです。滅苦、苦がないことは何もしないことです。しかし聞いて意味が分かりません。これは「何もする必要がない」と分かるように言わなければなりません。人々が聞いたことがあるのは「急いで真面目に勤勉に実践しなさい」です。そればかり言われています。

 いま初めて聞いて、どちらがいいですか。何もする必要がないのと、いろいろしなければならないのと、どちらがいいですか。これが、私たちの理解が一致しない基本的な問題です。だから何かをしなければならないのと、何もする必要がないのはどう違うのか、よく分からないのです。

 今日は何もする必要がない話をしたいと思います。こう言うのには六処拠があります。まず、いま私たちは二種類の、二つの理解があることを、知らなければいけません。つまり、タイのほとんど九十九パーセントの人は、煩悩はいつでもあると理解しています。いつでも苦が生じている、あるいは心は火事のようにてんてこ舞いしているという意味です。これが基本的に煩悩があるという考え方で、タイではこう教えるので、そのように理解しています。

 もう一つは正反対で、基本的に煩悩はないとします。基本として煩悩のない空があり、煩悩が生じる時間はほんの少しです。一日一晩に一回か二回。何度もありません。合計しても、煩悩が生じていない空の時間よりも短いです。煩悩が生じていない時間の方が長いです。

 こうお話する時、まず初めの段階として、「人間は基本的には煩悩がなく、時々煩悩が生じる」というのと、「人間は寝ても覚めても、昼も夜も休みなく煩悩がいっぱい詰まっていて、時々、抑圧した時だけ消える、あるいは止まる」というのと、どちらの言い分が正しいか、よく分かるまで熟慮しなければなりません。これが一つの言い方です。どちらが正しいでしょう。

 教えられたこと、あるいは聞かされたことを基準にしないでください。いま心に煩悩がないだろうか、と自問してみます。心に煩悩があるという答がでたら、どんな煩悩かを追及します。あるいは煩悩がなければ、心には煩悩がないと理解します。そのように心で感じたことを基準にしてください。

 煩悩があるのは、何らかの刺激がある時です。何もない時は煩悩はありません。だから何かを作らないでください。静かに、何も作らないようにサティを維持します。感情が目・耳・鼻・舌・体、あるいは心を刺激して考えが生れると、煩悩が生じます。それを刺激があったと言います。

 刺激があると、その先は二手に分かれます。一つはサティで常自覚があり、もう一つは常自覚がありません。常自覚があれば、作ることを阻止することができます。形が目に触れ、声が耳に触れても、常自覚があれば反応を防ぐことができます。

 気に入っても、気に入らなくても大丈夫です。しかしその後で欲望に、つまり何らかの願望にしないでください。好きも欲望の一種で、嫌いも欲望の一種です。パーリ語ではそういう意味です。好きなら欲しい、所有したい、なりたいで、嫌いなら叩きたい、殺したい、攻撃したい、逃げ切りたいで、これも「何々したい」と言われます。愚かさで望めばすべて欲望です。

 だから欲望になります。サティがぼんやりしなければ変化はありません。つまり元からある空っぽです。欲望にならないので、取でも、俺、俺のでもありません。つまり生もなく老いもなく、死もないので、苦はありません。

 サティが薄れれば、あれが欲しい、これが欲しいという欲望に変わります。それが自我、生まれるものです。生まれるのは欲望のある自我です。欲望があれば取があります。取すれば臨月の妊婦のように、「界」や「生」という自我を分娩しなければなりません。

 手足をバタバタして大声を出すか、それとも何か他のものか、火に支配されるか。こういうのを俺、俺の、が生じたと言います。大混乱です。混乱というのはこういう時です。煩悩が生じたというのはこの時です。こうなっていなければ、まだ空があると言います。煩悩はまだ生じていません。だからここで注意するだけです。こうならないように注意すれば、ずっと空でいられます。

 空にするというのは、常自覚をしっかりもつという意味です。ぼんやり何かをしないように良く注意します。この「する」という言葉は、無明、欲望、取ですること、つまり行動する主体である俺、俺の、があります。混乱と言います。だから何か問題を起す目、耳、鼻、舌などを刺激するものがあっても、必ず心の元々の状態を維持しなければなりません。つまり問題にしてはいけません。

つまり変化させないことです。管理する常自覚があれば、他に何もする必要はありません。元々あるものを維持するだけです。元々あるものとは、基本である空で、それをしっかり維持します。これは最高に適切で最高に短く、最高に賢く、最高に時間のいらない、何でも最高の方法です。かならず基本に空がなければなりません。

混乱しないように注意してください。このように理解したことがある人は、簡単に役立てるために、正しいと見なします。しかしいつでも煩悩があって混乱していると理解しているなら、本当にそうかどうか、もう一度考えてみてください。

 ここで「空」と「混乱」を観察して見ることを知らなければなりません。無明や欲望に従っている考えを「混乱」と言います。無明、欲望、取が介入していれば混乱です。目が形を見たり、耳が音を聞いたり、鼻が臭いを嗅いだ時には俺、俺の、があります。

 六六処が刺激を受け取った時無明が介入してくれば、サティがぼやけます。無明が生じると欲しがらせる、つまり欲望させ強く取させ、つまり取させる働きがあります。そして界が生じ、生が生じ苦が生じるので、これを混乱と呼びます。

 つねにサティがあれば、無明が出てくる機会はありません。欲望も生じることができません。目が形を見ても、耳が音を聞いても、無明には機会がなく欲望も生じません。欲望が生じなければ取も生じません。俺、俺の、もありません。これをいつでも空と言います。しかし考えたり行動したりは、とても良くできます。だから考えでも願望でも仕事でも、取や俺、俺のなしにすれば、空の心ですると言います。

 混乱した心というのは、あれが欲しい、これが欲しい、ああいう取、こういう取で何かをします。これを混乱した心と言います。これは苦です。空の心ですれば、苦はありません。ですから今年のニューイヤーカードに、「どんな仕事も空の心で働け」と書くのはどうでしょうか。

 良く考えてみてください。意味は、いまお話したとおりです。そして、「仕事の報酬は全部空にやり、空の飯を僧が食うように食い、そうすればハナから死んでい」ます。ハナからとは初めから。初めから、生じた時、意味が分かった時から。つまり死の前に死んでいます。

 「どんな仕事も空の心で働け」とは、心が空の時は、今ここに座っているように空ならば、何を考えても、何をしても、立ち上がって何かをしても、空のままでいなさいという意味です。

何が起こっても、いろんな刺激があっても、いまのような空の心で反応してください。怒った心で人と連絡をしないでください。惚れ込んでその人に連絡をしないでください。いまのような心で、元々からある空の心でしてください。何かが刺激として入ってきた時に、間に合う常自覚をもってください。

 混乱している時、ぼんやり話したり、ぼんやり行動したり、ぼんやり何かを考えたりしないでください。心、をサマーディにして、常自覚を立て直してからにしなければなりません。そうでなければ、十数えてから何かをする、昔話の中の子供に敵いません。昔話は、不満を感じたら十数えてからものを言いなさいと教えています。昔のおとぎ話やことわざなどの躾の本の中の兄弟の、下の子はこのように教えられました。

 だから上の子が何か気に入らないことをした時、下の子はじっと座って必死で十まで数え、それから口を開きます。もしその子の心が混乱していれば、十まで数えないうちに心は再び混乱、あるいは怒りになります。「ほら、もう一回、初めから」。そのように頑張って心を普通に戻します。

 十まで数えます。それで怒りは消えますから、怒らずに話すことができます。こういうのを空の心で話すと言います。もし貪り、怒り、迷いなどで話せば、混乱した心で話す、あるいはすると言います。

 次に「どんな仕事も空の心で働け」は、その時欲望と取が混っていないという意味です。空の心で働く時は、俺、俺の、が混じっていません。みなさんがここに座っている時は、空の心に出合う、いつでもこのように空だということを良く観察してください。立ってどこかへ何かをしに行って、何かが生じても、そのままの空の心で、いつでも普通にしておいてください。これを空の心ですると言います。

 あの人たちは意味をはき違えています。だから非難し侮辱し罵倒するようなことを書きます。上手に空で働くことができないからです。あの人たちは正反対の教えだからです。人間は誰でも基本的に混乱した心、煩悩でいっぱいの心があるという教えだからです。

 だから彼らは空の心で働くことができません。空の心で働くのが難しく、心を空にするのが難しいのです。基本的に煩悩で混乱しているので、途切れる暇がありません。私たちは反対の教えで、心は基本的に空で、時どき混乱します。

 私たちは「比丘たちよ、心は澄んで輝いている。しかし時々訪問して来る煩悩ゆえに憂鬱になる」というブッダの言葉を信じます。だから煩悩を訪問者と呼びます。時々、ちょっとだけ私たちの家を訪れる客と同じだからです。そこに住むのでも、寝起きするのでもなく、訪問者です。だから「訪れた煩悩ゆえに憂鬱」と言います。

 だから心は澄んで輝いています。つまり目・耳・鼻などを通して何かが起こり、サティがぼやけて無明が生じ、無明が欲、取、界、生を作るように働くまでは、煩悩取がないとしてください。この「生」が、俺、俺の、で苦になります。

 これを、我々はそれぞれ違うものを基本にしていると言います。私たちはいつでも基本に空があり、良く注意して、いまのような空で、空の心で働くようにします。話すにも何をするにも空の心でします。

 人が働く時、サムロー(客を乗せる三輪の自転車)をこいだり、舟を漕いだりする時、心をどう空にするのかと言えば、こうやって空にしてください。ひたすら舟を漕ぎます。サムローも同じです。疲れる仕事、貧乏人の仕事も、空の心でしなければなりません。ぼんやりしてはいけません。怒って当り散らしたり、神経質になり過ぎたり、いろいろ考え過ぎて、財産や力のある人を妬んだりすれば、混乱した心で働くと言います。

 空の心で働くには、そう考えないでください。空のままで、常自覚をもったままでいてください。空で働けば仕事は楽しいです。だから鼻歌を歌いながら舟を漕いでいる人を見かけることがあります。そうあってほしいです。これを、空の心で働くと言います。

 「仕事の結果はすべて空にやる」とは、お金や名誉や名声などを手にしたら、自分のものにしてはいけないということです。愚かにも自分のものと勘違いしないでください。元どおり空のものにしておいてください。自分という考えも一緒に、空の心にやってしまいます。それには体も含まれます。俺のない心と体を自分のものと取せず、全部空にやってしまうという意味です。

 貰ったものは何種類でも、どんなものでも、空のものにしてしまっておきます。例えば金庫にお金をしまっておくにも、空の財産と考えます。そうできなければ、私は執着していない、と考えるようにしましょう。人が何かを自分の物にすることはできないのですから、空のものです。空に預けておきます。その時空の心があれば、誰のものでもありません。

 考えて見てください。どこかにお金をしまっても、金塊をしまっても、牛や水牛、田畑があっていても、それらは空の財産です。これを「仕事の成果をすべて空にやる」と言います。自分のものとして残っているものは何もありません。

 次に食べなければならない、使わなければならないなら、空のものを食べると捉えましょう。つまり財産の所有者である自分がありません。あるもの何でも空のものを食べます。こういうのを「空の飯を食う」と言います。意味が分からなければ、髪の毛が山を隠しているので、どうやったって分かりません。

 ちゃんと分かれば簡単なことです。空の飯を僧が食うように食う。出家したことがない人には分かり難いかもしれませんから、お話しましょう。「空の飯を僧が食うように食う」というのは、出家したことがない人は、聞いて意味が分かりません。

 規律で行動する比丘や沙弥は、教えの言葉で、「ヤターパッチャヤ、パワタマアーナ、タートゥマッタメヴェータ」と熟慮します。これは重要な教えです。そして「ヤティタ、チーワラ、タトゥパ、プヤチャコー、チャ、プッコロー」と続きます。パーリ語で言うので意味が分かりません。

タイ語で言えば、「これ、あるいはそれ、あるいはあれは、ただ因と縁によって絶えず変化していく自然の要素でしかない。私ではなく私のものでもない。そして「スンニョー」、何もない。自分、あるいは自分のものである物は何もない。「ニッサトー」、動物だ、人だ、自分だと捉える部分はない。「ニッチャチウォー」、自分ではない、自我ではない、自分の命ではない。

何のことを言っているのでしょうか。食べ物のことです。「ピンタパトー タトゥパプンチャコ チャ ブッコロー」そして、食べる人も、という意味です。

 もう一度言うと、「食べる食事も、その食事を食べる人も、どちらも原因と縁で変化し続けるただの要素でしかない。自分がなく、生き物でも人でも自分でも私でもない」。彼らはこのように言います。いつでもこのように熟慮しなければならないと言います。

 ですから托鉢に出掛ける僧は、まだ食べる時間までは間がありますが、朝鉢を持って托鉢に出掛けたら、一足ごとにこのように熟慮しなければなりません。ですから道を間違えたり、人にぶつからないように、少し遠くに視線をやります。そして托鉢している間中、帰って来るまで、ずっとこのように熟慮しています。食べるずっと前から防いでいるのです。

 ただ食べ物を求めに行っただけです。托鉢も、托鉢する人も、生き物ではなく人間ではなく、自分ではないと熟慮しなければなりません。住んでいる所に戻って、鉢を食べる前にも同じように熟慮しなければなりません。食べる時にも同じように熟慮します。僧が食べる時はこのように食べます。自分も空、食べている食事も空、自分と捉えるべき意味がありません。僧はこのように食事をします。

 「空の飯を僧が食うように食う」というのは、このように食べるという意味です。食べるものを自分のものと捉えず、空で食べるからです。お勤めをするように食べます。つまり自分のない心で食べることです。「空の飯を僧が食うように食う」というのは、こういう意味があります。

 在家でもできます。誰かに強制されてするのではありません。このようにすれば快適です。食べることから苦が生じることも、問題が生じることもありません。だから僧だけの問題でなく、在家も実践できます。こういうのは心の問題ですから、どうやっても良いのです。苦がないように、ということにしましょう。

 仕事をする時も空の心でし、仕事の成果をもらった時は空にやり、空のものにしてしまい、食べる時、使う時は空のものを食べ、空のものを使います。これを、いつでも空であると言います。いつでも空の心がある人、俺、俺の、がない人です。最後の行、「そうすればハナから死んでいる」というのは、そのようにすれば既に死んでいる、という意味です。

 空の心で働き、仕事の成果を空にやり、空の飯を食えば、その時自分はいません。これは激しい言葉、死という言葉を使いました。死んでいるという言葉は、まったく自分がないので、初めから死んでしまっていること。だから「そうすればハナから死んでいる」と言います。

 仕事をするにも、死んでいるようにし、仕事の成果をもらった時も死んでいるようにし、食事をする時も死んでいるようにします。食べる人、する人、使う人である俺、俺のがないという意味です。この四行の言葉の意味は、激しい、激しい言葉で断言している空の話です。このようにできれば苦はまったくありません。

 ただ良く理解できないだけで、少しも空になれないと理解しています。いつでも煩悩があって混乱していると、初めから誤解してしまったからです。これは新しい勘違いであり、無明であり、このような不可能にします。それで、いつも心が混乱している人になります。そして、自分は混乱している人になりたいとか、混乱に堪える、苦に堪えるなどと、いい加減なことを言って、お金を稼ぐために世俗で楽しい事をして、ますます混乱がひどくなります。

 これを仏教の教えから見れば、悪質な誤った見解です。ブッダのタンマは、世俗の人の苦をなくすためにあるからです。苦を受け入れて堪えるために、何かを手に入れるためにあるのではありません。このタンマは、生きなければならない、働かなければならない、食べなければならない、すべての人の苦を取り除くためにあります。この世にいる人が苦しまなくても良いように、という意味です。

 タンマに欠ければ、この世で生きることは苦に違いありません。この世にタンマがあれば、苦はありません。だからタンマは、苦が多い在家のためにあります。欲望を生じさせないで、取と呼ぶ俺、俺のという感覚が生じないように管理して、苦しまずに暮らせるようにしましょう。

 欲望が生じなければ取は生じません。欲望を生じさせないためには、心を空にしておきます。常自覚を今のように、もとのままにしておきます。立って何かをしたり、立って働く時も、心を空にして、空の心ですれば、どんな苦もありません。

 する時も、結果をもらう時も、結果を食べる時も、空の心でします。どの部分も空の心の中にあるということです。昼も夜も、寝ている時も覚めている時も、仕事は然るべき良い結果になります。苦はまったくありません。これは、自分がないことで、自分という感覚を生じさせないことで、苦しまないようにする方便であり、コツです。

 これなんです。だから先ほど言った、それこそが何もしなくても良いことです。ここのところを、もうちょっと聞いてください。それが何もしなくても良いことです。

 なぜ何もしないと言うのかと言えば、する人がいないからです。行動の主体と感じる自分、自分の、がなければ、何もできません。空の体と空の心ですれば、しないのと変わりありません。何度も読んだことや、聞いたことがある人は、「する人がいないようにする」あるいは「歩く人がいないように歩く」あるいは「行動する人がいらないように行動する」というブッダの言葉や、いろんな長老、長老尼の言葉を思い出してください。

 良く聞いてください。行動する人がいないようにタンマを実践します。これが一番の近道です。もし実践する人がいれば「良くなりたい。優秀になりたい。こうなりたい。ああなりたい。阿羅漢になりたい」となります。こういうのは実践する人がいます。こういう実践者には望みはありません。あるのは混乱ばかりです。もし実践する人がなければ、つまりそれが空です。すぐに到達します。なぜなら既に空なのですから。これを何もする必要がないと言います。

 行動はあっても行動する人はいません。行動すれば仕事は終わりますが、行動する人はいません。あるいは実践という意味の旅は、旅があり到着がありますが、旅する人も到着する人もいません。これらの言葉を憶えてみてください。本当は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。しかしすぐに忘れ、すぐに薄れて、いまその話を聞き、いまあの話を聞き、すぐにみんな埃を被って薄れてしまいます。だから何も憶えていません。何も理解できません。

 重要なタンマはどれも必ず憶えておいて、いつでも熟慮する教えにして、いつでもそのタンマが見えるようにすれば、簡単で、近道で、最短で最速です。そのために「何もない。あるのは空だけ」という恐ろしい言葉、あるいは理解できない言葉を言うのです。「何もない。あるのは空だけ」です。

 ある人たちに言いたいのですが、黄檗希運の本を読んで理解できないのは、空という言葉、あるいは基本的に空であること、あるいは「すべてのものの自然な状態は空である」ということが理解できないからです。だから賢い人たちのことを思い浮かべてください。禅宗とか禅宗でないとか考える必要はありません。

 考えなくてもいいんです。いつでもあるのですから。行動がない、何かをする人がいないというのは、行動する人がいなければ行為がないのと同じです。こういうのは深くて凛としています。

 「行動する人はない。しかし行動はある」と半分に分けて言うのは、タイのテーラワーダです。ブッダの言葉風に言えば、「行動だけがあり行動者はいない」で、禅風に言えば、大乗のように賢く言えば「一切何もない」、すべて切り捨ててしまいます。行動も、行動する人もありません。つまり空です。

 どれも正しいのですが、意味をしぼります。はっきりと断言すれば、空という意味です。行為者はいません。行動も行動とは呼びません。行為者がなく、ただの動き、あるいはただの動作があるだけです。業(わざ)ではないからです。行為ではありません。折れた木の枝が落ちるのを、行為と呼ぶことはできません。樹木は行為者ではないからです。それはただの純粋な動きでしかありません。

 常自覚があればそのようにできます。この手で何をすることもできます。行為の主体である俺、俺のがない、ただの動作にします。正しいのは、何もする必要がないということです。自分がなければ何もする必要はありません。一方の「した仕事」は、純潔な体、純潔な心、純潔な知性、純潔な自然がしたことです。その中には自分、自分の、という考えがありません。俺、俺の、がありません。だから苦はありません。

 ブッダが『取は苦である。俺、俺のという取がある時に苦がある』と言っているのが理解できます。俺、俺のという取がなければ、何も苦はありません。もし俺、俺のという取がなければ、生まれることも苦ではなく、老いることも苦ではなく、死ぬことも苦ではありません。

 みなさんはブッダの言葉を聞いても良く理解できません。生は苦、老いは苦、死は苦と聞くと、何もかも苦だと誤解します。ブッダがここで言っているのは、自分が生まれたと捉えている生、自分の老いと捉えている老い、自分の死と捉えている死という意味です。それが苦です。そう捉えなければ苦ではないからです。どの生老死も、みんなただの動作でしかありません。掌握する意味がある時、生老病死としての意味があります。

 ブッダは、『生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦』と、正しく言っています。しかしブッダの言っている意味は、その中に取があるというところに意味があります。これは、『苦である取がある五蘊』というブッダの言葉で知ることができます。取がない五蘊は苦ではないという意味です。心身が純潔、あるいは空なら苦ではありません。心身に俺、俺のという取があれば、途端に苦になります。

 このように正しく理解してください。これはブッダが言った正しい真実ですが、人は理解できません。五蘊と名がつけばすべて苦だというのはバカです。間違いです。ブッダの言葉を勘違いしています。それで動きや行動があると、すべて煩悩だと理解します。願望があるとすべて煩悩と見なすタイの仏教徒の誤解です。仏教が繁栄していると言われるタイでも、これほどの誤解があるのです。

 希望や願望は、無明、欲望、取と関りがなければ、煩悩ではなく苦もないと理解を改めましょう。もう一度聞いてください。みなさんの希望や願望は、何をしたいと望んでも構いません。無明、欲望、取に関係がなければ煩悩ではありません。その希望、願望、願いは煩悩ではありません。欲望とは呼ばないし、取とも呼びません。そして苦ではありません。

 もしその願いが無明に関連していれば、その願いは煩悩です。欲望であり取であり、苦です。ですから知性で、明で、空の心で願望してください。無明や欲望や取に支配された心で願ってはいけません。無明、欲望、取のない心、つまり良く訓練された知性で希望してください。こういうのは欲望でも取でもありませんし、苦ではありません。阿羅漢の方々が私たちよりたくさんの仕事ができ、良い仕事ができるのと同じです。行動があれば、阿羅漢の方たちはあそこへ行ってあの人に教えたい、ここへ行ってこの人に教えたいと、このように願っていました。

 阿羅漢にも願望があり、あれをしたりこれをしたり、往き来したり、行動がありました。しかし阿羅漢の方々は欲望、取、無明のない空の心で行動しました。私たちも少しずつその後を追うよう努力して、阿羅漢のように完璧になれるようにしましょう。

 しかし本物の自然があるので優位です。自然が便宜を計らってくれます。つまり既に空なのですから。みなさんはいま無明、欲望、取がないので、空と同じです。無明などはまだ作られ生じていません。この状態を維持するだけで、何を願っても、何の仕事をすることもできます。

 例えばお金を出して本堂を建てるにも、無明、欲望、取でするのと、無明、煩悩、取のない知性でするのとあります。もし無明、煩悩、取で寄付すれば苛立ちが燻ります。あれこれ結果を期待するからです。お金持ちになりたい、自分の来世の保証がほしいなどたくさんあります。だから混乱で頭がいっぱいです。こういうのを無明、煩悩、取で寄付して本堂を建てる、と言います。

 もし正しく理解し、なぜ本堂を建てるのかを分かれば、特に人間同胞への光明のために、愚かさから脱すために建立すると知れば、みんなで協力して、タンマを教える場所として建立します。そして光明以外には何も期待しません。このような寄付は、無明、欲望、取による寄付ではありません。いま話しているような知性による寄付です。つまり、俺、俺のものとして何も求めることがありません。

 こういうのを、お金を出して徳を積むにも、正反対の違いがあると言います。人に誘われて寄付をしても、一方は混乱した心でし、もう一方は空の心でする違いがあります。ですから何をするにも注意深く、元々ある空の心でするよう心掛けてください。

 みなさんがこうして座っている今、心は空です。良く観察してみてください。立ち上がって寄付をしに行くと、ほら、混乱してしまいます。仕方が間違っているからです。立って寄付をしに行く時でも、空のままでいてください。そうすれば何も害はありません。あるのは苦がないこと、望ましい結果ばかりです。これなんです。何でも空の心でしてください。簡単にできるからです。すでに空なんですから。ほんの少しの不注意で心を混乱させないでください。

 次は、非常に問題が多いことです。目を通して問題があり、耳を通して問題があり、鼻を通して問題があり、六六処ぜんぶの問題があります。ですからサティをしっかり維持してください。そうすればサティで見守ることに成功します。混乱させないようにすれば、心は空でいられます。そしてその静寂を、水の本来の状態と捉えましょう。何も妨害するものがない時の水は、いつでも静かに鎮まっています。何か妨害するものがあれば、波立ちます。あるいは沸騰します。

 ですから水の本当の自然の状態は空であり、静かであり、輝いていて、何か妨害がある時、つまり無明、欲望、取によって煩悩が生じます。その人のサティがぼんやりするから、波立つのです。あるいは沸騰するのです。だから元の状態が失われてしまいます。ここで元の状態を維持するよう注意をすれば、ほとんど何もする必要はありません。ただ注意深く見守るだけです。何も大げさな儀式めいたことをする必要はありません。何もしないだけです。何もする必要がない、の方が正しいでしょう。

 賢い人は、嘲笑するような、愚弄するような、まるで慧能の言葉のように、「大人しくしていなさい。突飛なことをしてはいけない。何でも奇妙にしてはいけない。なぜって普通では空なのに、何だって混乱させなきゃならないんだ」と教えています。注意ぶかく空を維持し、それを断固としたものにすれば、つまり知性が途切れないようにすれば、混乱することはあり得ません。そうすれば混乱は止まるだけです。それが、人の言うところの「何もする必要がない」です。

 もし勤勉なら、勤勉にジッとしています。作り出すことに勤勉ではいけません。勤勉にジッとして、静かな状態を勤勉に維持し、空の状態を勤勉に維持します。この言葉を仮に「何もしない」と言います。期待や煩悩、欲望、取ですれば大混乱です。このように教えを知らなければ、自分が何を求めているのか分からないので、間違って混乱を求め、誤解して混乱を求めてしまうので、空にはなれません。

 正しく理解して空を求めれば、それはある種の良いこと、正しいことです。ここに自然の状態では心は空である、というのがあります。これは非常に優位です。大混乱しなくても良いのです。これは最良で最短で、最高に賢い実践項目だと思います。

 自然では空でありそれが基本なら、サティや注意力を磨いてその状態を維持し、その状態が絶対に変わらないようにします。習熟すればまったく途切れなくなり、すべてが空になります。このような空の状態には煩悩はありません。苦もありません。ですから、強硬な金言風に言えば、「それこそがブッダである。空こそがタンマであり、空こそがサンガである」です。

 あるいは本当の心があると仮定すれば、空こそが本当の心です。こう考えたり、ああ考えたり、何十にも変わるのは本当の心ではありません。空が本当の心です。だから本当の心という言葉を追加しなければなりません。

本当の心なら空にします。作り出す心なら、単なる波にすぎません。みなさんがしようと考えているような大混乱は、ほとんど何もする必要がなく、注意深く空を維持するだけでいい、ということが見えない心です。もし勤勉に勉強するなら、これを真面目に勉強して、空の話、空の状態を元どおりに維持することを理解してください。

 ブッダは基本的に煩悩があると言っていない、ということを理解してください。初めにお話したように、ブッダは『煩悩は時々来る。通常心は空であり輝いている』と言っています。

もっと確かな六処拠を求めるなら、縁起を六処拠にしましょう。ブッダは『触、つまり目、耳、鼻などの刺激があると受(感情)がある』と言っています。触がある時受があるのであって、基本的に受が生じているのではなく、かならず触がある時に生じるのです。一日二十四時間触がある訳ではありません。空きがあります。触があった時だけ、その時だけ受があります。受がある時だけ、欲望などがあります。

 ブッダは無明を発端にしているので、もし無明が家主なら、

   無明が行を生じさせ、

   行が識を生じさせ、

   識が色名を生じさせ、

   色名が六処を生じさせ

   六処が触を生じさせ、

   触が受を生じさせ、

   受が欲を生じさせ、

   欲が取を生じさせ、

   取が三界を生じさせ、

   三界が生を生じさせ、

   生が生老病死、つまり苦を生じさせる。

 これは、受がなければ欲がないことを意味しています。ですから受がない時は欲望も苦もなく、つまり空です。もし欲望だけが増大して取になり界になるなら、それが生老死の苦になります。いつでもここで触の部分を取ってしまい、受にしないようにしましょう。あるいは受が生じてもサティをもって欲にしないようにし、明にしてください。無明にしないでください。そうすれば苦がないということです。

 ここで言う苦がないとは、生・老・病・死・所有できない・損・得などと呼ぶ行動に意味がないという意味です。だから苦がないのです。もし愚かなら、生・老・病・死などは苦を生じさせます。問題を生じさせます。私たちを臆病にさせ、怖がらせ、苦しめます。

正しい理解があれば、つまり空の心があれば、生・老・病・死・得・損などは、すべてバカらしいもので、苦ではありません。もし無明から始まれば苦があります。明が六処源なら苦はありません。どんな場合にも笑い飛ばせます。得も損も、望ましいことも、望ましくないことも。

 これは、『煩悩や、欲望取は基本的にあるものではない』とブッダが明言していることを表しています。欲望は受がある時だけ生じます。受も同じです。始終生じているのではありません。触がある時だけ生じます。触は六処が無明の教えで働いた時だけ生じます。もし触が無明の法則で働かなければ、その六処は六処ではありません。無意味です。無能です。無明の威力で働く六処は、色名が無明の配下にある時です。

 名形、つまり私たちの心身は時どき無明の支配を受け、時どき何の支配も受けません。たとえばいま誰でも名形があります。つまり無明の支配を受けない心身があります。それは空です。ぼんやりして無明に支配された時はいつでも、触を生じるところの六処を生じさせる名形があります。苦である類の受があります。

それが空であり無明に支配されていなければ、体と心、あるいは名形は六処、あるいは苦である種類の触を生じさせないということが分かります。六処があり触が生じても、空の形になります。苦ではありません。ですから大丈夫です。嫌わなくてもいいです。

 その先へ進むと、名形は行から生じます。つまり作り出すことの威力です。これらのものは苦があるもの、あるいは苦のないものになります。つまり空か空でないかです。それは行ですから、必ず空でないようにします。

 識と呼ばれるものも同じです。この識とは、いつどの瞬間にもあるものと理解しないでください。受は六処を通して刺激があった時に生じたばかりです。たとえ生涯の識、界を通しての識と呼んでも、六処を通して刺激があった時だけ識の働きをします。

 ですから明と無明だけだと見ます。無明があれば空でない方向へ経過し、混乱して苦があります。空は、それ自体を明とします。苦がないからです。混乱は愚かなので、無明であり苦です。

 空は天然の賢さですから、苦がありません。ですからこの天然の状態をいつでも維持します。それ以上のことはありません。つまり天然の空、天然の静寂、天然の清潔、天然の純潔、呼び方次第です。いつでも何も作り変えられていない元々の天然の状態にします。行が作り出さなければ空です。行が作れば作ります。無明が介入するからです。ですから正反対のものを持ってきましょう。つまり常自覚です。みなさんは賢くて、日に日に智慧が増していると言われるように。これを智慧があると言います。

 何かを知る智慧、周到に知る智慧が非常に敏捷で、出来事の発生と同時に働けば、それをサティと言います。その知ることができるものを、よく知っている、考えることができる智慧と言います。目や耳などを通して事が発生し、刺激があった時に間に合う、事態に間に合うようなのをサティと呼びます。本当には智慧と呼ぶ知識です。それが基本にあれば、勉強することで増えます。

 このように思考したり熟慮するのを智慧と言います。目が形を見たり、耳が音を聞いたりすると同時に、駈け付けて来て事態に間に合う時だけ、サティがあると言います。このようなサティの勤めが終わると、また元の智慧に戻ります。ですからいつでも形勢を見張っているサティがあり、サティがぼんやりしなければ、その時はいつでも空です。サティは空であり、空のものだからです。

 タンマは空です。たとえ本当のタンマでなくても空です。それは水が波立つように、無明の働きによって混乱します。しかし風が吹き付けているだけで、水には変わりありません。波の形になっているだけです。心も同じです。どちらも同じ心ですが混乱しています。私たちは苦である混乱は要りません。空の方を取ります。

 本当の空なら、自分だ、自分のだと執着しないでください。空のものは自分、自分の、と執着しません。混乱しているものにも自分、自分の、と執着しません。空にも執着しない、混乱にも執着しない、と言います。そうすれば天然の空のままです。だれも空の所有者はいません。これが仏教の核心である教えです。これだけです。ちょっと話すだけで、それで終わりです。しかし理解できたか理解できないかは、あとで考えてみてください。

 「サッペー タンマー アナッター」「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」という言葉はここにあります。このような心にあります。すべての物に執着するべきではありません。すべてのものは実体がなく、空です。だから他のことを話したり、考えたり、憶えたりして堂々巡りし、時間を浪費してはいけません。空の話しだけを考え学び、憶えるよう努めてください。もし何かを聞いたら、必ず空の問題と照合してください。

 三蔵経の八万四千項目を、正しく理解すれば空の話しになるので、何もかも空の話しに集約されます。もし間違って理解すれば、あちこちに分かれ、地獄だ極楽だ、神だ梵天だ、善だ悪だ、だれのよりも良いなどと執着します。それは間違いです。正しく理解すれば、すべて空の話しになりますから、私、私のという取はありません。これを空と言います。

 どんな心でも、自分、自分の、と執着するべきではありません。心のどんな感情も、自分、自分の、と執着するべきではありません。どんな形も無形もすべて、自分、自分の、と執着するべきではありません。ですから空の話しは本当のタンマです。あるいは本当のアピタム(アピダンマ。深遠なタンマ)、究極のアピタンマ、最高のアピンマです。あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたい、素晴らしい、という話しなら、どんな風に解説してもアピタンマではありません。まだ輪廻を回遊する話です。

 アピタンマとは最高のタンマ、それ以上に高度なものがない至高のタンマです。空が涅槃です。つまり究極の空は涅槃です。空の極致は涅槃です。だから今みなさんは涅槃、の味見をしています。心が空っぽの時、みなさんの心が空の時は、一時的な味見の涅槃があります。ですからこの空を大切に維持してください。そして完璧な空になるようにしてください。それを完全な涅槃と言います。

 「究極の空は涅槃」というのは、私たちは基本的に空ですから、基本的に味見の涅槃があると捉えて、大切に維持して、更に安定したものになるようにしてください。そうすればいつか変わることのない完璧なものになります。空が無くならないように、混乱と入れ替わらないように注意をするだけです。「俺、俺の」を作らないで、じっとしているほかには何もしなくても良いと言います。

 重要なことはこれだけです。これ以上のことにしないでくだい。どこか分からない所があれば、質問してくださって結構です。しかし他の話ではありません。この話しだけです。

 

質疑応答

1.静まっている時、心が空になってピーティ(喜悦)が生じたらどうしたらよいでしょうか。

答 : ピーティには二種類あります。自然に生じたピーティなら、それは天然のものです。そのピーティに囚われないでください。それはご飯を食べると満腹を感じ、ご飯を食べないと空腹を感じるように、自然に生じたものです。その空腹や満腹を自分、自分の、と捉えなければ問題はありません。ピーティが生じても、笑い飛ばして生じたままにしておきましょう。

 もし迷って素晴らしいと捉えれば混乱します。すぐに消えてしまいます。すぐに惜しくなります。すぐに以前と同じように怖くなります。以前と同じように心配になります。何が生じても自分だ、自分のと捉えてはいけません。ピーティでも幸福でも、すべては有為としましょう。ピーティも有為です。幸福も行、つまり作られたものです。作られたものとは一時的に存在して、そして変化して行くものです。

 

2.積善について

答 : 徳を積むこと、徳を積むということは、良く聞いてください。俺、俺の、を増やすためにするのではありません。俺、俺の、を減らすためにします。減らして減らして、取を減らせば、正しい徳になります。取を増やすようなら正しいものではありません。なぜなら徳というのは、洗うもの。洗うべきもの、つまり煩悩を洗うもの、という意味だからです。煩悩は汚れたものなので洗うべきです。その徳が正しければ、煩悩を洗うもので、その徳が間違っていれば、煩悩を集めるものなので煩悩を増やします。

 もしかしたらある種の煩悩を落として、別の種類の、もっと粘っこい煩悩を増やすかもしれません。ですから徳は、何か重みのあるものと捉えないで、石鹸か洗剤などのように、洗い落とすものと捉えなければなりません。清潔になったら満足してもいいですが、執着しないでください。執着すれば汚れたものになるだけです。執着すればまた汚れたものになります。いくら洗ってもキリがありません。

 ですから淡々とすること、あるいは空なら苦が無いのです。つまり涅槃です。空ですれば却って智慧が生じ、何でもすべて正しくなります。心が空の時は自由で、心が混乱している時は自由ではありません。何をしても間違いばかりです。全体的に見れば間違いの方が多いです。勉強をするにも空の心でし、仕事も空の心でし、結果をもらう時も空の心でもらいます。結果を食べたり使ったりする時も空の心でします。聞いて意味が分からなければ、バカみたいな話ですが、正しい意味が分かれば最高に良い話です。

 

3.ラジオで空の話しを聞きましたが、よく理解できません。

答 : あと五年か十年すれば空の話が理解できると思います。その時役に立つように話しておくのです。ラジオで話しているのも、そのためです。五年か十年すれば人は理解できるようになります。いま理解することを期待していません。しかしいま理解できる人がいればそれも良いことです。後で反論したり、たくさん討論すれば、早く理解できるようになるので、それもいいです。

ですからあの人たちが反対意見を書いたり喋ったりするのは良いこと、反対に良い結果になります。人々の理解を多少早くします。もし誰もが無関心だったら、あと百年たっても理解できません。保証してもいいです。あと百年しても理解できません。この深遠なタンマは難解です。言葉が十分にないので、どう話したら良いか分からないからです。だから少しずつ話し、いつでも話し、分かるまで話します。

 忘れないでください。ニューイヤーカードには次の言葉を書いてください。

    どんな仕事も空の心で働け

    仕事の結果は何でも、空にやり

    空の飯を僧が食うように食い

    そうすればハナから死んでいる

 空は、髪の毛が山を隠すようなものです。ちょっと不注意でも理解できません。正しい手法なら、難解で深遠と言われるタンマも理解できます。ブッダが法を説くのを止めようかと考えたのは、この話があるからです。

4.空の話は智慧と関係があり、智慧の多い人が理解できるでしょうか。

答 : この話は智慧が多いか少ないかとは関係ありません。時には智慧のある人の方が、髪の毛が山を覆い隠してしまいます。智慧のある人の方が髪の毛で山を隠すのです。しかし髪を除くことができれば他の人より広くなります。智慧の少ない人がタンマを聞いて、早く到達してしまうこともあります。智慧の少ない人はあまり考えないので、時には智慧の多い人より早く到達することがあります。しかし到達した時には、智慧のある人の方が精通し、役に立ちます。

5.心を見るといつでも混乱を見るばかりで、空の心を見たことがないと言う人がいますが。

答 : それはまだ見えないからです。混乱している時ばかり感じているので、見えません。混乱していない時は見たことがないんです。考え直してください。みなさんが見るのは混乱している時ばかり。それは苦です。空には見ません。実際には一日のうちでも空の時間の方が多いのです。

6.空が痴のようになることはありますか。

答 : 痴は作った時に生じます。貪欲、瞋恚、痴は感情を刺激するものがあった時に、無明によって作られます。しかし空は、快適な、明るい、清々しい、すっきりした空には、痴は混入しません。つまり天燃の空です。これはみなさんで考えてください。煩悩は常時生じているものではなく、ほとんどの時は、心に煩悩がないということを。

7.サティがない時は煩悩でいっぱいなのではないですか。

答 : もちろんです。サティがなければ煩悩がいっぱいです。しかし自然を思い出してください。煩悩、あるいは空と呼ばれる煩悩でないものは、自然の状態では水のようなものです。自然は空であり、痴でも何でもありません。空というのは、俺、俺の、を生じさせるものでない、としましょう。これが基本です。

 取を基本にしたらやってられません。サティは中間にいることができます。もし考えが取の方に傾けば、そのサティは誤った見解になります。かならず正しいサティでなければなりません。つまり執着しないことです。誤ったサティか正しいサティかを考え、誤った見解か正しい見解か弁えなければなりません。

8.「サティで世界を空と見る」というのは、当然サティと関係あるのでしょうか。

答 : それはサティです。いつでも世界を空と見るのはサティです。これは、世界はそれ自体が空だと言っているのに、取と見ているようなものです。世界は本当には空です。世界を真実のままに、空と見てください。世界は空なんですから、みなさんに正しく見ていただきたいだけです。空でなく混乱しているのは煩悩が生じた時だけです。煩悩がない時は空です。

 ですから煩悩の刺激がある時、作り出している時だけを見て、息をしている間はいつでも煩悩があると理解しないでください。サティがぼんやりした時だけ作り出されます。刺激があると作り出され、そしてサティがぼやけます。刺激がなければ心の中では作り出されません。

 心の中は外と同じように、一呼吸毎に刺激がある訳ではないので、一呼吸毎に目が形を見、耳が音を聞いているのではありません。時々刺激があるだけです。サティがぼんやりしなければ、何も刺激がないのと同じです。サティがぼんやりすると刺激があります。

9.心では、どういうのを刺激と呼ぶのですか。

答 : 心には考えがあります。それは刺激の後から生じます。タンマーロム(心が意識しているもの)が心を刺激すると何らかの感覚が生まれます。それからはっきりした考えになります。ですから考えは欲望の後に生まれます。願望があると考えます。願望がなければ考えません。たとえば有名になりたいというような思いは、考えの元になります。これは感情、あるいは感情の状態、特質という意味です。つまり名声が心を刺激するので、心はそれを好み、欲しがり、欲望の威力によって考えます。そこでキリもなく(考えを)作り出します。

 そのように次々と、一呼吸毎に作り出していると、必ず気が狂います。いくらもしないで気が狂います。そして止めるか、死んでしまいます。ですから休む時間がたくさん必要なのです。そうすれば狂わずに済みます。あるいは、休まなければ神経の病気になります。重くなれば狂います。重くなれば死ななければなりません。

 空はみなさんを守ってくれます。命を正常に守ってくれます。これを痴と呼ばないでください。それは空です。気づいていませんが、空は人間を助けています。神経症にならないよう、気が触れないよう、自殺しないよう守ってくれます。涅槃である特質があります。小さな、一時的な味見の涅槃が私たちを守っています。

                                              (1965年1月16日)


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