私たちは仏教徒です

 

ブッダとはどんな意味でしょう

 

ブッダとは、智者、覚者、明るい人という意味です

 

私たちは仏教徒として

 

自分の生活に、智慧と目覚めと明るさが

 

最高にあるよう、努力しなければなりません

 

仏教徒という名にふさわしく

 

つまり私たちは登録して仏教徒になるのでなく

 

努力することで仏教徒になります

 


 

 目を閉じて学ぶ

 

1987年12

 今日はお寺に泊まる最後の日です。みなさんの実践も十日を超えました。若い男女のみなさんがお寺へ来られるのを見て、私も嬉しく思います。

 

実践をする人にはある特徴があります。それは影日向がないことです。みなさんは世界のことを話さず、自分の考えや好みを言わず、世間の価値観や時代について言及せず、タンマでないことを話さず、タンマでないものを自分の基準や計る道具にしないで、自分の態度がいつも一定であるよう努めなければなりません。

 

ブッダの教えであるタンマは、苦を消滅させる学問です。私たちは誰でも苦しい時、苦を取り除く方法を探します。今はいろんな方法があり、正しい方法も、正しくない方法もあります。簡単で楽しい解決法として、習慣性薬物や酒を飲んで苦を消す方法も沢山あります。

 

苦には耐えがたいという特徴があります。たいていは気に入らないことや不満があると、苦になり困窮します。そして急いで苦から逃れる方法を探しますが、探し出した方法がほんの一時的な解決でしかないことがあります。そして良く見ると、長い間に苦が倍化して戻ってくるよう促進していると見えます。

 

私たちが世界の幸福と呼ぶもののはこんな調子です。私たちが幸福と呼ぶものは一時的に苦を軽減するだけで、完全に消滅させる訳ではなく、幾らもしないうちに、元の苦が戻ってきます。人生の問題解決をしないで、苦を一時期だけ何かで隠したり、誤魔化したりしているにすぎないからです。

 

タンマは人間の心と命に関する、本当の理解と知識です。問題をすっかり消滅させることができるのは、仏教の智慧と呼ばれるものだけです。人は誰でもみんな問題を抱えているのですから、みなさんは人生の問題を消滅させることに関心を持つべきです。なぜ人間は人生の問題があるのでしょうか。それを知るには、調べて見て、問題の原因を良く熟慮しなければなりません。問題の原因を解決しなければ、表面的な症状だけを解決することになるからです。

 

たとえば体の一部分が痛むと、賢くない人は、ちょっと苦痛を感じただけで直ぐに湿布薬を買ってきて、外部の症状を抑えるためにだけ塗りますが、これは病気の原因を治す訳ではありません。何か病原菌がいるのかもしれないし、内臓の病気がいろんな器官の痛みになって現れているのかも知れません。問題を解決するどころか症状を隠してしまい、知らないうちに病原菌を蔓延させ、あるいは猛威を振るうチャンスを与えるので、何もしないより危険かも知れません。薬の効果が症状や原因を隠すからです。

 

なぜ苦があるのか、よく理解しなければなりません。親のせいで苦しいのでしょうか。子供や友達のせいで苦しいのでしょうか。他人のせいで苦しいのでしょうか。勉強ができないから苦しいのでしょうか。家が恋しいから苦しいのでしょうか。なぜ苦しいのでしょう。心の修練をしたことのない人のほとんどは、苦を外部のもののせいにしたがります。しかし智慧のある人は、問題は内面の原因、つまり「自分の考え違い」によって生じると理解しています。これは私が最も感銘したルアンポー・チャーの教えです。

 

その当時私はノーンパーポン寺に来たばかりで、タイ語をあまり知らなかったので、ルアンポーは教える時は易しい言葉を使わなければなりませんでした。そしてその言葉は、今日まで私の心の中に美しい響きを残しています。それは「考え違いするから苦しい」です。何かのせいで苦しいのではありません。他人のせいで苦しいのではありません。外部の出来事のせいで苦しいのではありません。自分のいる場所、あるいは関係のある人たちのせいで苦しい訳でもありません。考えが間違っているから苦しいのです。

 

自分の考えが間違っていたら、どうするべきでしょう。練習しなければなりません、ブッダの教えを学んで、考え方が正しくなるようにし、内部に生じた問題を解決することを知ります。

 

これはとても大切なことです。どこに居ようと、家から離れ、親元から離れたら尚のこと、しっかりした人生の基準がなければなりません。もし生き方の教えがなければ、いい加減で優柔不断な人間になってしまい、定住する家があり、沢山の友達に囲まれていても、しっかりした生きる基準がなければ、安定した快適さはありません。

 

では、何を人生の基準にしたら良いでしょうか。これは、自分自身に誠実に問わなければならなりません。何を生活の基準にし、何を以て自分の生き方が正しいか間違っているかを計る物差しにするのでしょうか。時には善意で、あるいは良いと思ってやしたことが悪い結果になって現れることもあります。

 

しかしこれは、一度に大きく誤ったのではなく、知らないうちに少しずつ誤差が生じています。つまり一日一センチずれたら、百日で一メートルずれ、長期間には誤差が一キロにも広がってしまうかも知れません。一日一センチずれても私たちはまったく気づきません。心の中にしっかりした基準がないからです。

 

現代人は何を基準にしているのでしょうか。美しさを基準にしたり、友達の称賛を基準にしたり、時代を基準にして、時代に合っていれば良しとしたりしています。現代人は時代に遅れることを恐れています。時代遅れを恐れるあまりに、風変わりなことや、いろんな愚かなことをしています。

 

しかし時代に合っていることを拠り所にできるでしょうか。時代に合っていると言われていることが、時には時代を超えていることもあり、衰退になることもあるので、時代は当てにはなりません。私たちはもっと確かな基準がなければなりません。

 

今タンマについて考え、タンマの功徳について語ると「アガーリコ」という一語に出会います。つまり時や時代に左右されない永遠の真実、ブッダが二千五百年前に到達された真実です。そして今私たちの生活の中にある真実と、少しも変わらない同じ真実です。ブッダがこの世に生まれても生まれなくても、この世界のすべての物は無常であり苦であり実体はなく、「無常、苦、無我」の教えは確かな真実とブッダは言っておられます。「

 

仏教、仏教の教えは、ブッダが人類の利益のために考え、定義したものではありません。ブッダは世界の真実を観察した人であり、自然の法則を見る能力があっただけです。

 

ブッダは言われました。「私たちの心に苦や抵抗があるのは、私たちの行動や言葉や考えが自然の法則に反しているからで、体と言葉と心を自然の法則と一致するよう調整すれば、平安が得られるのだ」と。

 

行動や言葉が自然の法則と合致していれば、心に矛盾はなく、ブッダが「病気」と言われる症状もなく、あるのは正しさだけです。タンマとは正しいことで、害がないという意味の正しい体、正しい言葉、正しい心です。

 

体と言葉と心は、それによる害がないように、練習するべきもの、学ぶべきものです。つまり後で自分が困らないように、後で他人を困らせないように、他人も自分も困らないようするために、たくさん学ばなければなりません。

 

人間には体と言葉と心があります。社会生活をする上で、後で自分が困らないように、後で他人を困らせないように、他人も自分も困らないようにするためには、どう行動したら良いのでしょう。

 

どうしたら自分の世俗出の行動が、害もなく、苦もなく、束縛するタンマから解放され、穏やかに暮らすことができるか、どうしたら言葉で他人を傷つけないようになれるか、どうしたら悪意のない心になれるか、どうしたら自分と他人のために生きることができるか。これは熟慮なければならないことです。

 

ブッダは「簡単に信じてはいけない。簡単に否定してはいけない」とおっしゃっています。大切なことは、一つひとつの教えを熟慮熟考し、利益になると思うことは実行し、利益がないと思うことは実行する必要はないということです。

 

仏教は自主性による宗教で、強制する宗教ではありません。私たちは仏教を学ぶことに利益を見るので、自らの意志で仏教を学び、自分の心はまだ純潔でなく、自分でコントロールできないと認めます。心は、怒りと憂鬱と混乱で満ち、すぐに性的なものや美しいものに欲情し、疑いや躊躇いに陥ります。これらのすべては蓋と呼ばれるもので、心が善に至るのを妨害し、私たちの心を覆い隠すものです。蓋に支配されたくなければ、持戒し、自分の人生を自由にし、最終目的に向かって生きていく能力、あるいは力を発揮できる強い心にするために、サマーディパーワナーの実践をして、心を訓練しなければなりません。

 

人間が求めて得るべき最も崇高なものは何かを、何としても考えなければなしません。みなさんは何のために勉強するのでしょうか。高収入を得て、家を買い、車を買い、大きな財産を残せる良い職業につくためでしょうか。それよりもっと崇高な目的を持たなければいけません。そういうこともブッダは禁じてもいませんし、非難してもいません。しかし道徳的な範囲内にしてください。しかしそれだけでは、生きる目的として不十分だと、ブッダは言っておられます。これらは生きることの副産物のようなものです。私たちが人間に生まれて来たことは、非常に稀で、幸運なことと言えます。

 

私たちが人間に生まれることは本当に難しいです。ブッダの教えを実践し、苦から脱して自由になるために、この非常に得難いチャンスを無駄にすべきではありません。この世界のすべての動物の中で、人間だけが仏教の真実に到達し、苦から解脱できる賢さと、その他の条件が揃っているからです。人間以外の動物や地獄や畜生では苦が多すぎて実践できず、天人たちは幸福すぎて油断し、興味を持ちませんが、私たち人間は苦と幸福がちょうど良い加減にあり、するべきことをする能力と体があります。

 

滅苦学には三つあり、初めは罪を避け悪を捨て、第二に十分なまで善を積み、第三に心を清潔に純潔にします。これは私たちが人間に生まれたことの義務のようです。

 

この三つをしてもしなくても良いことでなく、しなければならないこと、義務と捉えれば、義務は仕事のようなものなので、仕事なら朝起きて「仕事に行こうかな、よそうかな。もう少し寝ていようかな」などと考えず、仕事に行かなければ解雇されてしまうので食べていけないと考えます。

 

私たちのも同じで、タンマの実践を義務と考えてください。どの会社も事業や営業をしなければ破産しますが、仏教教団も教団員がその義務を果たさず、仕事をしなければ破産し、仏教はこの世から消滅します。仏教教団員の仕事は罪を避けること、徳を積むこと、心を純潔にすることです。そうしなければ、心の中のいろんな善であるタンマを捨て、心が欲と怒りと迷いと嫉妬と復讐心が溢れるのを放っておくようなもので、外側だけ美しくても、綺麗な服やスーツを着て、体は美しい香りを振り撒いても、心は腐って悪臭を放ちます。清潔にしなければ心も腐ります。私たちは体も心も清潔にしなければなりません。内面を清潔にすることは、努力しなければならないことです。

 

そうでなければ、腸内に病原菌を抱えている人と同じで、どんなに綺麗で手の凝った美味しい料理を食べても、身体は身体を維持するために必要な栄養として有益に利用できません。病原菌を太らせ、繁殖させる栄養源になってしまうので、お腹に病原菌がいればどんな食事も意味がありません。

 

みなさんは大学を卒業したら大学院へ入ることもでき、博士号をとることもできます。大学教授になっても、大実業家になっても、総理大臣になっても、欲と名誉と称賛と、何百万の銀行預金を所有する運に恵まれても、心が憂鬱だったら幸福ではありません。この真実についてもっと深く考えなければなりません。

 

信じられなければ周囲の人を見ても良いです。お金持ちと言われる人を見てください。彼らは幸福でしょうか。幸福は財産次第でしょうか。みなさんはここでお百姓と一緒に過ごし、お百姓の暮らしを見ました。もし幸福が財産次第なら、お百姓は生涯幸福になれそうもありません。

 

しかしお寺へ来る人たちは人柄が良く、気立ても良く、心から明るく微笑んでいます。この事実は、幸福は心から生じるものだと、簡単に見せてくれます。これは重要です。私たちは、自分の心に悪や煩悩がないように、もっと善で満ちるようにしなければなりません。

 

私たちは仏教徒です。「ブッダ」という言葉はどんな意味でしょう。ブッダとは「智者、覚者、明るい人」という意味です。みなさんも仏教徒として、知性と目覚めと明るさがもっと日常生活に生じるよう、努力しなければなりません。

 

私たちは登録して仏教徒になるのではなく、努力することで仏教徒になります。仏教徒として登録し、登録したことで仏教徒と見なすことはできません。私たちは悪を捨てる努力をし、人生を善で満たす努力をし、サマーディパーワナをして人生の問題を解決する智慧を生じさせることで、仏教徒になります。

 

善意だけでは人生は不十分で、善意は煩悩に敵わないこともあります。あるいは何かをしようと考えて、それが善いことと分かっていても、激しい感情に邪魔されて実行できないこともあります。

 

つまりみなさんが説教を聞いて、怒りは良くない、悪いことで非難されると知っていても、私たちを怒らせる気に入らない事があれば、病気のように我慢できなくなります。怒りは心を覆い、自分を失わせ、善悪正誤の感覚を失わせ、善意を忘れさせるので、怒っている時は何でもできます。怒っている人は親も殺せます。聖人も殺せます。怒っている時はどんなことでもでき、怒りが収まった時に後悔し、困窮します。

 

ここでどうしたら良いでしょう。歩いていても立っていても、座っていても寝ていても、今自分が何をしているかを自覚しているサティと自覚があるよう訓練しなければなりません。今何を喋っているのか。今何をしているのか。言うべきことか、黙っているべきか。言うべきでないことなら話すのを止め、言いたいのを堪えなければなりません。我慢できるようもっと努力しなければなりません。これをブッダは「忍耐は煩悩を燃やすもの」と言われました。つまり忍耐は、この世界で安楽に生きるための大切な武器です。

 

現代のアメリカでは、自殺者の数は殺人による死者よりも多いことが分かっています。自殺を企てる人が年間十万人もいるのはなぜでしょうか。アメリカの暮らしは我慢がいらないほど快適便利すぎて、我慢を知らないので、ちょっと人生に失望すると、我慢できずに首を吊って、薬を飲んで、死んでしまいます。生きていけません。忍耐に欠け感情に迷うからです。忍耐は非常に大切なことです。忍耐力がなければ弱い人で、社会でもタンマの実践でも、進歩がなくなってしまいます。

 

勉強はいつも楽しいという訳にはいきません。時には意に逆らわなければなりません。友達から映画に誘われることもあり、あっちへ行こう、こっちへ行こうと遊びに誘われることもありますが、楽しいことだけを考えてはいけません。楽しさだけを考えれば、遊びや映画に行く方が楽しいです。しかし利益について考えれば、映画を見ることの利益は少なく、遊びから得る利益も僅かですが、読書から得る利益は大きく、生涯私たちを助けてくれる利益です。

 

親のことを考えると、両親はみなさんを遠くの町の大学へやるために一生懸命お金を作ってくれました。みなさんも親の恩に報いるために、努めて自分の責任について考えなければなりません。幸福だけを考えれば、幸福も当てにならないものに変わりありません。たとえば十年前の幸福と今の幸福とはきっと違います。五年前のものと、その五年前のもの、十年前のものもみんな違います。だから表面的な幸福を求めず、利益を重要とします。それは忍耐によって得られます。

 

サマーディで心を読む練習をすると、実践者の手腕である一つの能力が生じ、「心と感情」が別々のものに見えます。普通の人には心と感情の区別がつきません。

 

他人に悪口を言われると悔しがり、褒められれば嬉しがり、行動や感情に自由がない操り人形と同じです。他人に操られて踊らされている操り人形で、心は休みなく外部の出来事に左右されていて、人に良いと言われれば喜び、悪いと言われれば悲しみます。これは他人に操られているのであって、自由がなく、心と感情がまるで一体のようです。

 

他人に怒鳴られると「私は怒っている」と怒りが生じますが、本当は私が怒っているのではありません。怒りは自然に生じて心に現れるもので、心は感情を発生させるもので、心と感情は別です。心を静かにする練習をすれば、少しずつ心と感情の区別ができるようになります。

 

心と感情は、空と空にあるものに置き換えるころができます。空には飛行機が飛び交っているかも知れないし、雲があるかも知れません。鳥がいるかも知れないし、多種多様なものがあるかもしれません。しかし雲があってもなくても、飛行機が飛んでいてもいなくても、鳥がいてもいなくても、空はそのようにあり、空は飛行物体によって変化することはありません。みなさんの心に感情が生じたときも、何があっても変わらない空のように、心を維持してください。

 

感情は不確実で、自分自身ではなく、自分のものでもなく、ただ生じてくるものと理解しなければなりません。感情と取組まなければ、相手にしなければ、感情と争わず、強く思い込まなければ、感情は消えます。怒りでも愛でも、羨望でも倦怠でも、本当にあるように生じるので「私は怒っている。私は愛している。私は嫌いだ。羨ましい。飽き飽きした」という気持ちに騙されます。私は勉強に飽きたというのも、本当は私が飽きているのではありません。これは誤解です。

 

倦怠は苦です。倦怠が生じたら「私は飽きた。この倦怠感は私のものだ」と思い込まないで、倦怠は苦と考えます。「なぜ苦しいのか」。それは考えが間違っているから。では「どう間違っているのか」と次々に探究を続けます。

 

そうです、みなさんは勘違いをしています。苦であるもの、不確かなもの、誰のものでもないものを自分のものにし、確実不変にしています。

 

倦怠は自然に生じ、原因と縁によって生じます。私たちが長時間勉強をしていると、原因と縁があるので飽きてきます。自分の心の中で作られたものです。そのとき私たちは、倦怠の誘いに乗らないよう堪えなければなりません。たとえば友達から映画や遊びに誘われても、「いや、我慢をしよう」。私たちが倦怠に耐えれば、倦怠の方が疲れてしまいます。感情も生き物と同じで、食べ物や支援に依存しているので、私たちが相手にしなければ悔しくて堪らず、自分からどこかへ消えてしまいます。替わりに勤勉努力が現れるので、そうしたら勉強を続けます。

 

倦怠などの感情に一度勝つことができれば、それからはそれまでのように感情の言葉を信じなくなり、「あー飽きた飽きた。もういい。今日は休もう。テレビを見よう」と言われても、前に騙されたことがあるので信じません。私たちが気に掛けなければならないことではないので、耳元で囁かれても無視します。そうすれば感情はひがんでどこかへ行ってしまいます。これが座ってサマーディをする功徳です。私たちはこれを見ます。つまり、心の中に絶えず生じては消えていく不確かなものを、簡単に信じません。

 

心をそそのかして煩悩を生じさせるものは全部無常で、無常についての考えは、その人の智慧を現すもので、いつも心に「不確実「無常」」という言葉があれば、その言葉はいつでも私たちを助けてくれます。

 

床に油を撒いておけば、敵が襲撃して来ても滑って転んで立っていられないように、一つの方便として「不確実」という言葉を心に撒いておけば、感情が利益にならないこと、他人を困らせること、愚かさを増すだけの悪事をしようと誘いに来ても、誘いに乗りません。それは不確実で、自分でも、自分のものでもないからです。感情は生じては消えます。内面に生じる出来事の発生と消滅を見れば智慧が生じます。そして智慧は少しずつ生きる知識を生じさせます。つまり生きる知識は、見ること理解することによって生じ、内面を見ることは自分の心を見ることです。

 

自分自身を守ることについては、外国や危険な地域へ行く時、カンフーやボクシングを習う必要もないし、気功を身につける必要もありませんが、いつでもどこでも、体の隅から隅までサティが行き届くサティの訓練をし、自分自身の心を常に見守っていれば、他人の言葉を信じなくても「これはいいから進めるべきだ。これは悪いから止めるべき、捨てるべきだ。これは増やすべきだ」と自分で見えるようになります。

 

つまりブッダが「自分が自分の拠り所」と言われている状態になります。自分が自分の拠り所なら安心です。寂しい所へ行っても心配なく、人混みへ行っても安心で、どこへ行っても快適です。自分が自分の拠り所なので、人生の幸福は外部の出来事に依存せず、他人や他の出来事にも依存しません。それらは自分の管理下にないこと、生じては消える不確実なものだからです。

 

私たちの幸福が、それの昇降に応じて上がったり下がったりしている外部のものに依存していれば、不確かな外部のもの次第なら、人生に確実も安定もありませんん。そして自分の行動に自信も持てません。たとえば何かをする、あるいはしない、何かを話す、あるいは話さない時、その理由が欲や名誉、称賛、幸福、他人や友達のことを考えての理由なら、私たちには自信も安定も確実性もありません。

 

しかしブッダの真実、変わることのない真実について言及すれば「百獣の王」のような自信があり、自分はどんな天候にも動じることのない、どんな外部の出来事に動揺することもない「山」のようだと感じます。私たちは自分の拠り所である自分がなければなりません。罪を避け、善を積み、心を清潔にすることで自分自身の拠り所とならなければなりません。

 

次に自分の目標は何か、その目標を達成するためにどのように生活するか、そしてその目標は自分にとって可能かどうかを知らなければなりません。世界の勉強でもタンマの学習でも、自分の目標は何か、そのために採るベき方法は何か、そして自分の能力で足りるがどうか、いつも考えなければならなりません。

 

自分に出来ないことを努力すれば、失望やひがみが生じのるで、自分の能力を良く知らなければなりません。たとえばみなさんが三百キロのものを持ち上げたいと思っても、持ち上げられません。みなさんには重すぎるからです。その物の実状を知らなければ「自分は駄目な人間だ。何をやっても何一つできない」と考えてしまうかも知れません。これは愚かな希望、過大な希望です。高すぎる目標は立てないで、自分の能力を弁えて、一歩一歩少しずつ進みます。

 

重要なことは比較しないことです。自分の善い所や得意なことを他人と比較しないでください。苦の原因になり、そして誤った考えだからです。みなさんが勉強をすれば、自分より成績の良い人も悪い人も必ずいるので、私たちは生涯このような状況に遭遇し続けます。比較ばかりしていたら、自分より出来の良い人を妬み、自分より出来の悪い人を軽蔑します。心の中で比較をしないで、心の中で競争をしないで、すべての人を友達と、共に生まれ、老い、病み、死んで行く友達と見ます。

 

たくさんに分けようと考えればたくさんになり、あの人はアメリカ人、タイ人、フランス人やアフリカ人と区別すれば複雑になりますが、どの人もみな、共に生まれ老い、病み、死んで行く友にまとめられます。

 

人は誰でも、一人残らず生まれたら老い、病み、死ななければなりません。私たちが怒らなければならない人は世界中どこにもいません。私たちが嫌い、苦しめなければならない人は世界のどこにもいません。悪人でも、私たちや他人を傷つけ、危害を加えた人でも、この世に悪人はいない、いるのはただ、私たちが感情に溺れるのと同じように、感情に溺れた人だけと考えます。

 

私が先ほど説明したように、心の中に強い感情、「したい、話したい、欲しい」という欲望がある時、私たちはその欲望を「私、私のもの」という感情に迷っています。怒っている時はその怒りを「私」「私のもの」と迷っています。私たちは感情に従い、感情と一つになった心でしてしまうので、世界の人は善くないこと、みっともないことをし、国を攻撃します。

 

誰でも同じように感情に迷い、ある時は貪欲の、ある時は怒りの、ある時は迷いの感情に迷います。このように見れば、社会の問題、世界の問題も、初めは人間の心で生まれ、自分自身について分かっていないこと、自分の心の問題を理解していないこと、自分の感情を理解していないことから生じると見えます。

 

だからこれらの知識や理解を深めることは、私たちが最高に努力しなければならないこと、絶対に必要なことです。心が爽やかで澄みきっていれば、貪りや怒りや迷いより上にいるので、煩悩の威力に対しても自由でいられるからです。

 

心が善ければ、言葉も善くなり、行動も善くなり、世の中の変化を恐れなくなります。私たちには保証できるものは何もありません。この先また世界戦争があるかも知れないし、核爆弾が投下されるかも知れません。みなさんが修士号を取ろうと博士号を取ろうと、どんな資格を取ろうと、働く所がなくて資格を生かすことができないかも知れません。

 

しかし私たちの安定は、これからの人生がどうであろうと「自分は自分の拠り所」は外部のことに振り回されず、あるのは心の中の幸福だけで、どこへ行くにも持って行ける幸福です。

 

これは心の中にお寺があるようなもので、ワット・パーナナシャート(寺の名。直訳すると国際森の寺)から遠く離れていても、あるいはお坊さんの傍にいなくても、心の中にお寺があり、心の中に世俗の騒々しさから離れて一人静かになれる場所をもってください。

 

だから、初めは痛みがあっても、時々サマーディの練習をするべきです。初めは足が痛んだり、背中が痛んだり、心はあまり静まりませんが心配ありません。少しずつ少しずつ、ずっと続け、挫けることなく精進をすれば、最後には心が多少は静かになります。そしてその静かさは、何か面倒なことが起こった時頼りになります。

 

どうしたら良いのか分からない時は、しばらくの静かに座ると、心が静まれば複雑に絡んだ問題は少しずつほぐれて、そして「ああ、こうするべきだったんだ。ああするべきではないんだ」と分かります。人生の問題の答えが、自然に浮かんできます。あまり考えなくても、あまり心配しなくても、答は少しずつ現れてきます。智慧はすでにあるからです。「智慧を作らなければならない」というのは、既にあり、ただ認めないだけ、背を向けているだけで、天然の智慧はあります。

 

サマーディをして心が静まり、取り留めもない考えを止めることができ、心がしっかり安定すれば、問題を解決する智慧が自然に生じます。これはとても利益がありますが、市販されてなく、どこかで教わることもできないので、ここで学ばなければなりません。つまり外国へ勉強に行くのも良いですが、国内でも学ばなければならず、どちらも十分でなければなりません。

 

外国を旅行したら国内も旅行し、周到で広い知識を身につけてください。高い学問があるからと言って、幸福になれるとは限らないからです。心にバイ菌がいれば、まだ身勝手で強い欲望があれば、その欲望によって他人の頭を踏みつけ、すぐに善くないことをするので、だから私たちはタンマについて話し、平和になることについて話さなければなりません。

 

世界の幸福にはいろんな種類があり、剃刀の先に塗った蜂蜜のような幸福もあるとブッダが言われています。どんなものか考えてみてください。剃刀の先に塗った蜂蜜。嘗めれば最高に美味しいけれど、舌が切れてしまいます。

 

世界の幸福はこのようです。だから「愛欲の幸福」は、特に気をつけなければなりません。みなさんは自分を守ることを知らなければなりません。「恥」という言葉は、英語にはほとんど訳すことができません。恥を理解できない人たちに対して、みなさんは自分を護ることを知り、良く注意してください。一晩限りの幸せで、すぐに苦になり、そして生涯苦しむこともあります。何人もいます。私の友達にもいます。幸せは一晩、生涯苦です。この点にはくれぐれも注意してください。

 

現代人の主義や流行を基準にし、現代的なものを重視することはできません。現代のものは幸福になりません。利益になりません。精神病はとても現代的で、エイズもとても現代的です。現代的なのになぜ良くないのでしょう。くれぐれも身を守ることを知ってください。

 

いつでも身を守る道具であるサティがなければなりません。朝起きてから夜眠るまで、今自は何をしているのか、何を考えているのか、意識を前進に張り巡らすサティがあります。このような自覚を勤めととらえてください。意識して内面の出来事を受け止めれば、心に生じては消えていくものに関しての理解が深まり、最善の対処ができます。

 

ブッダは、私たちに滅苦の学問を教えました。ブッダが説いた真実を実践する気持のあるすべての人に、無料で教えました。闇を犠牲にする勇気のある人には光があり、重いものを犠牲にする勇敢な人には軽さがあります。誰にでも出来、決して不可能ではありませんが、どこに幸福があるのか、本当の幸福はどこにあるのか、常に自問自答しなければなりません。

 

みなさんはお寺へ来られて勉強になったことが沢山あったと思います。大きなベッドはなく、床の上で寝、食事は一日一食だけ。質素な布をまとい、何もかもが質素ですが、幸福で喜びを感じます。俗世へ戻れば白衣を着ることもなく、毎日一日一食ということもなく、いつも床の上に寝るわけではありません。しかし良く憶えておかなければならないことは、いろんな便利な道具は、私たちの生活に必要ではないということです。あっても良く、なくても良い。つまり自分が便利な物の主人で、便利な物を主人にしません。

 

今人間の生活を便利にするいろんな道具は、本来は人間が主人でしたが、長い間に道具が主人になって、人間は道具の奴隷になってしまいました。それらの道具は便利ですが、道具がなくなっても、あるいは身近になくても、何も変わらず快適でいられると憶えておいてください。人生の幸福はそれらのものに左右されません。最も重要なのは心です。自分の心に、知識と目覚めと明るさがあるように努力します。

 

デンマークの童話で、ある人が夜寝ていると、天女が来て遊びに行こうと誘いました。その人がどこへ行くのか尋ねると、天女は「天国と地獄に行きます。一緒にいきますか」と聞きました。その人が「行きたい」と答えると、天女はその人を連れてある場所へ行き「地獄へ着きました」と言いました。大きな部屋に長いテーブルがあって、上には豪華で美味しそうな料理が、皿や鉢に盛られておいてあり、そして沢山の人が食卓についていました。

 

「これが地獄の動物です」と天女が言いました。人々は世界一美味しそうな料理を目の前にして座っていますが、体は黄色く哀れなほど痩せていました。「えっ、どうしてこんなに痩せているの」と思って観察すると、地獄では豪華な食事を食べるのは許されていますが、一つ条件があり、一メートルの長さのスプーンを使わなければなりません。料理を掬って口に運ぼうとする度、料理は床にこぼれて口に入りません。人々は困って、凄まじい形相で料理を掬いますが、料理は床にこぼれて口には入りません。だから痩せ細っていました。美味しい料理を目前にして自分の口に運ぶことができない。これが地獄です。

次に天国を見に行きました。天国へ行くといっても隣の部屋で、二つめの部屋も様子は地獄とまったく同じでした。人は地獄と天国はまったく違うと考えがちですが、実際には地獄と天国はそっくり同じでした。同じ大きさの食卓があり、豪華な食事もみな同じで、周りにイスがあって人々が座っていますが、不思議なことに、天国の人は丸々と丈夫そうに太って、明るい微笑みを浮かべていました。

「どうしてこうなんだろう。どうやって食べるのだろう」。見ていると、一メートルの長いスプーンを使うことまで同じです。「えっ、なぜ地獄と違うの」。よく見ていると、天国の人たちの作法が見えました。一方の側の人が料理を掬って反対側の人の口に入れてやると、反対側の人がもう一方の口に入れて返すので、みんな料理を食べることができます。何も不自由はありません。

地獄と天国の違いはどこにあるでしょうか。状況はすべて同じです。外部はすべて同じです。食卓も、料理もイスも、外部はまったく同じですが、地獄の人は自分が好きな物を食べることだけ、自分の幸福だけしか考えていませんが、天国の人は助け合い、愛し合い、協力し、他人の幸福を考えて助け合います。

ですからお寺に住んでも、バンコクに住ンでも、どこに住んでもみなさんの心次第で、そこを地獄にも極楽にもできます。自分の心が利己的なものがいっぱいで、欲しいものがいっぱいあれば地獄になり、心に利己的なものがなく、他人を思いやれば天国になります。地獄極楽はどこにあるか、それは人間の心にあります。これは大切なことです。

 異国で危険に遭遇した時身を護る武器にするために、持ち帰って熟慮していただくために、今日は記念にブッダの言葉を贈ります。

 


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