自然の方法で洞察する

 

7回講義の参考図

ピーティとパーモッジャ(喜悦と歓喜)     タンマの満足

パッサッディ(軽安)            鎮静

サマーディ(三昧)             静かな心

ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)  世界の真実を知る

ニッビダー(厭離)             倦怠

ヴィラーガ(離欲)             弛緩

ヴィムッティ(解脱)            解けること

ヴィスッティ(清浄)            純潔。不潔でないこと

サンティ(寂滅)              穏やかなこと

ニッバーナ(涅槃)             苦のない状態

 

 この章では、サマーディには自然に生じるものと、理論に従って実践して生じさせるものがあるという話をします。結果は同じで、心がサマーディになったら熟慮に使います(ヴィパッサナー)。〔197〕

 しかし一つ注目すべきことは、自然に生じるサマーディは、熟慮する智慧に適していますが、理論で訓練したサマーディは往々にして強すぎて持て余し、そして迷ってそのサマーディ(三昧状態)だけで満足してしまう原因になります。心が十分サマーディになると、当然ある種の快い幸福な状態になり、その幸福に満足してそれを聖向聖果と勘違いし、あるいは夢中になるからです。以上の理由で熟慮に適した天然のサマーディは、技術的な方法で訓練したサマーディと比較してあまり遜色はないので、大切にサマーディを生じさせ、そして良く経過させていただくようお願いするだけです。〔198〕

 三蔵のいろんな話には、後世に書かれた教典にあるように山に行って座って儀式的にいろんなものを熟視する努力をすることなく、ブッダの面前、あるいはブッダが他の人に説明している傍でいろんなレベルの聖果に自然に到達する話があるだけです。特に五比丘、あるいは千人の修行者がブッダが説く自我相経とアディッタパリヤーヤ経を聞いて阿羅漢果を得た時など、どんな理論で努力したようにも見えませんが、本当に自然の方法で洞察しています。〔199〕

 これは、天然のサマーディはいろんなことをよく理解しようと努めるうちに自然に生じるということ、そして洞察することの中に非常に深いサマーディが張り付いていることを理解させる良い例です。計算をしようとすれば自然に心が集中し、銃を撃とうとすれば瞬時にサマーディが生じて的中させるように、自然にそうなります。〔200〕

 これが、あまり不可思議にも奇跡的にも神技にも見えないので、普段見過ごされてしまう天然に生じるサマーディの状態です。しかし実際のところ、人が危機を脱して来られたのも、この天然のサマーディによるところが大きいです。聖向聖果涅槃に到達して阿羅漢になるにも、ほとんどはこのような天然のサマーディに依存しています。〔201〕

 だから自然に生じるサマーディを見過ごさないでください。この方が早くできるかも知れないし、ほとんどは既にできています。阿羅漢に到達したほとんどの人たちは、今ブームになっている現代のサマーディの仕方を知らないように、大事にして正しい方法に最善にすれば結果は同じになります。〔202〕

 ここで世界、あるいは五蘊を真実のままに順に洞察するまでの、内面のいろんな感覚に関した自然の神秘になりました。最初は喜悦あるいは歓喜で、タンマの面の清々しさ、あるいは満足を意味します。私たちが何らかの善を行えば、初歩のレベルの徳と見なされている布施をしても、喜悦歓喜を生じさせることができ、戒の段階で自らを尊敬できるくらい自分の体や言葉に汚点がなければ、更に喜悦歓喜は増えます。サマーディの段階になると、初禅と呼ぶ初等のサマーディの中に、疑うべきもなく喜悦があります。〔203〕

 この喜悦歓喜には、それ自体に静かさを生じさせる一つの威力があり、通常人の心は常に外部の魅惑的なものの考え、あるいはいろんな感覚の奴隷になっているので、心はあまり鎮まることがなく、内部は乱れて落ち着きませんが、いつも心に十分なタンマの喜悦歓喜があれば、必ず心の落ち着きが生じ、多いか少ないかは喜悦歓喜の威力の多寡次第です〔204〕

 心が静まれば当然サマーディと呼ぶ状態が生じ、心が静かに落ちついて、望みどおり特に煩悩を断つのに軽快で敏速で便利な状態になります。体を岩のように硬直させて心を黙らせるのではなく、体には普通の感覚があり、しかし心は最高に澄み切って最高に穏やかで最高に静まって熟慮考察に適した特別の静かさがなければなりません。カンマニヨー(適業性)と言うのは知る準備ができている状態で、これが私たちが求めるサマーディの状態で、感覚のない石の人形のように体を固くした禅定にはありません。〔205〕

 そのような禅定にいると何も熟慮できません。禅定に溺れている心はタンマを熟慮することができず、次々と幻覚に陥って熟慮に使えないので、直接ヴィパッサナーの障害と言えます。人がタンマを熟慮できるようにするには、禅定から出て、禅定を得るほどサマーディがある心の威力を道具に使って熟慮しなければなりません。〔206〕

 自然法で洞察するには、自分の体を硬直させるような定に入る必要はありませんが、静まってサマーディになり、自然の状態で世界のすべてを真実のままに知る(如実智見)カンマニヨー(適業性)の特徴がすべて揃っている心が要求されます。ブッダの説法を聞いている時洞察した人、あるいは聞いた後でどこか適当な場所へ行って、洞察できるまで熟慮して洞察した人のように、いろんな儀式も、誤った考えを正しいと見る神通も、いろんな耽溺も何もありません。〔207〕

 しかしこれは、急速に正しく洞察して阿羅漢になれるという意味ではなく、時には初等の知識しか生じないかも知れません。これはサマーディ次第で、間違って学んで来たか、あるいは間違った見解に囲まれ過ぎると、時には真実と一致する正しい知識や見方が生じないこともあります。いずれにしても生じてくる知識は、例えば明るさは深く澄みきっているなど普通でない特別なものです。その知識が真実で正しければ、つまりタンマになれば、すべての行に関わる知識や見方も真実で正しくなります。少しだけ生じれば聖人の最初のレベルに達することができ、もっと少なければ善いレベルの凡人です。〔208〕

 ふさわしい環境と精いっぱい積んできたいろな善があれば、阿羅漢になることもあり得、これは場合によりけりです。いずれにしても心が自然にサマーディになれば智見というものが生じ、多少は真実と一致します。私たち仏教教団員は、当然世界やすべての行について真実のままに理解しようという気持ちで聞いたり学んだりしたことがあるので、心が鎮まってサマーディになっている時に生じた知識が無駄になることはなく、当然いつでも確実に利益になります。〔209〕

 ここでの如実智見という言葉はすべてのものを真実のままに見ること、つまり無常・苦・無我を見るという意味で、「欲しいものは何もない。なりたいものは何もない」と見、何であれ自分の物とか、いいとか悪いとか、可愛いとか憎いと執着するべきではありません。満足でも不満足でもただ感じ考え思うだけでも、何らかの感覚があればここでは執着と見なします。「要らない、なりたくない」というのは「執着すべきものは何もない」という教えから生じます。〔210〕

 「要る」の例は、心を満足させるものである財産やお金、動物や物などに深く心を埋めることで、「なる」は、私はあれだこれだと見なすことで、夫、妻、金持ちになり、意思が強い、勇者、敗者、勝者、人間、私自身などになります。深く熟慮して見るとこの「人間」であることは苦の基盤なので何も楽しくはなく、飽き飽きします。「人間」と捉えずにすめば苦はありません。これを「なりたくない」と言い、「何になっても、その種属であることの苦がある」という点に要旨があります。何かになることはその立場に耐え、維持することに耐え、立場を維持するために闘わなければならず、少なくとも自分の立場を維持するために内心の闘いがあります。〔211〕

 自分があれば、その外側に必ず自分の物があるので、自分の子、自分の妻、何やかや自分のものがあり、夫として妻としての義務が生じ、私の雇用主、私の従業員、私のこれ、私のそれになります。すべてはそれであることを維持するための悪戦苦闘に依存しない立場はないということを指摘しています。その悪戦苦闘は無知でいろんなものに惑溺、執着した結果です。〔212〕

 何も持たせず、何にもならせないで生きられるだろうか。これはこの問題について考えたことのない人にとって大きな疑問です。この場合の「要る」「なる」は煩悩欲望や取で、「欲しい」「なりたい」という執着で手に入れ、そして本気で夢中になることです。だから必ず心が重く、焦燥し、悔しさ口惜しさがあり、少なくとも最初から最後まで心が重いです。この真実を知れば、執着の威力で「要ること」「なること」の奴隷に落ちないよう心を管理する常自覚があり、いろんな物の上にいる知性があります。〔213〕

 それは欲しがったり、なりたがったりする物ではないと本当に知っていて、どうしても所有することや何かになることが避けられなければ、十分な自覚がなければなりません。そうすれば良く考えもせず手に入れる愚かで騙され易い人のように、愚かさと執着の沼に突き落とされ、自殺に追い込まれるほど苦しみません。例えば虎や毒蛇は高く売れるので、他に仕事が見つからなければ虎を捕らえて売らなければなりません。しかし正しい方法で捕えれば当然虎を売って身を養うことができますが、方法正しくなければ虎ゆえに命を落とさねばなりません。〔214〕

 世界あるいはすべてのものは不変でない状態があり、苦で、誰の自分でもありません。それらは欲望や取で執着する人を初めから、つまり「欲しい、なりたい」と考えた時、手に入れた時、手に入れた後まで、すべての時で苦しめます。目を瞑って執着する人は、世界中どこにでもいる大勢の愚かな凡人のように目いっぱい苦があります。〔215〕

 誰もが崇拝する善でも間違った考えで関わり、そして執着しすぎればその善から苦が生じます。それの自然はどのようかを知って関わる場合以外は。〔216〕

 「欲しがる物もなりたがるものもなかったら、職業に就く人は誰もなく、自分の財産を守ることもできないだろう」と疑問に思う人がいるかも知れません。この項目を理解できれば「正しく理解してから何かをすると、愚かで何も調べず何も理解せずに野望でするより、何でもずっと良くできるので、最初に良く理解するべきだ」と知ります。短い要旨は「いろんなものに関わる時は知性で関わり、煩悩・欲望・取で関わってはいけない。結果は正反対」です。〔217〕

 ブッダを初めとする阿羅漢のみなさんは、煩悩・欲望・取がまったくありませんが、それでも私たちよりはるかに利益のあることをたくさんすることができました。ブッダがどんな一日を送っていたかをブッダの伝記で見ると、一日四時間眠るだけで、後の時間はずっと仕事をしていたことが分かります。私たちは休息だけでも四時間以上とっています。ブッダは「なりたい、欲しい」と望ませる原因である煩悩の威力が消えた後、知性と慈しみの威力で仕事をしました。〔218〕

 体の自然の要求ですること、たとえば食べ物を托鉢することなども智慧で行動し、ああなるため、これを得るために生きたい欲望煩悩はなく、善悪正誤を弁える智慧が托鉢に行かせる力で、食べ物があればいいし、なくても構いません。〔219〕

 病気の時もどうするべきか知る智慧があり、あるだけの智慧で治療をし、大病なら死ななければならないのは当たり前です。ブッダは治療法を求める気持ちが少なく、生きることも死ぬこともブッダにとって意味はありません。あるいは価値は同じでした。命や体の所有者である自分がなく、体を自然の成り行きに任せる智慧しかないことは、苦がないことにとって最高に正しい考えと見なします。〔220〕

 私たちは、純潔な智慧と純潔な慈しみだけがすべての阿羅漢たちをこの世界で生かせ、そして欲望や煩悩のある人よりもっと多くの、純粋に他人のためになることを成すことができると見ることができます。煩悩のある人は身勝手なので自分の得になることしかしませんが、すべての阿羅漢は身勝手でしないので、結果はより大きくより純潔です。〔221

 「欲しい、なりたい」は著しい愚かさの一つであり、蓮の花と思って転輪(回転する円盤状の武器。地獄の責め具)を拾うほど「何が何か」真実を知らない思い違いです。だからみなさん、いつでも「欲しがるものはない。なりたがるものはない。溺れて執着するものはない」と述べたように知っている知性で、自分の義務を実践してください。それらは自然では「欲しがるもの、なりたがるものではない」と知っている人にふさわしい行動をし、それらと関わらなければならない時は正しく、そして適切に関わってください。この項目はいつでも私たちの心を清潔で明るく、澄んで清涼にし、そして世界あるいはすべてのものと自分にとって毒や害にならないように関わります。〔222〕

 この「欲しくない。なりたくない」というのは、普通の人には信じ難く聞こえますが、本当に理解した人は、反対に明るく勇敢になります。つまり主人であり、すべての物に対して独立自由な心があるので、それらの奴隷にならない確信でいろんなものに接することができ、煩悩欲望の威力で関わって、それらの奴隷になるほど暗い顔になりません。〔223〕

 現在何を所有していても、今何であっても「本当は所有できないものを所有している。本当はなれない立場にある」と自覚していてください。私たちの思いどおりに本当に所有できるもの、本当になれる立場など何もなのですから。それらは常に無常であり苦であり私たちの自分ではなく(誰のものでもない)、私たちが自分のバカみたいな欲望煩悩で執着しているだけなのです。だから私たちはそれらに正しくないこと、真実と一致しないことをし、真実のままに知らないで関わるので、あらゆる苦や困難が生じます。〔224〕

 一人一人が自分の義務を純潔に実践できないのは、煩悩欲望の威力で限度を越えた物や立場を欲しがってしまうからで、だから自分自身を善や美や正義や公正の状態にいさせることができません。誰の破滅の原因も欲望の奴隷に陥っていることにあるので、すべてのものを真実のままに正しく知ること(如実智見)は、仏教の最も重要な要旨です。これはほとんどの危機を切り抜けることができる道で、財産や名声など世俗の利益を期待する世俗的な結果でも、天国など来世を期待することでも、世俗を脱すこと、つまり涅槃に到ることでも、すべてこのような正しい知識、正しい見方に依存しなければなりません。〔225〕

 人は誰でも智慧で発展することができます。ブッダは「智慧で純潔になれる」と繰り返し言われています。他のものではなく智慧でです。私たちの出口は「執着するべきものは何もない」と、つまり命や体を捧げるほどのものは何もないと明らかに見る智慧にあります。今ある物、今ある立場は「あの人はああだ、こうだ」と仮定している世俗の成り行きに任せてください。それは名前や名誉や職位や職務などが分かるようにする、あるいは社会生活の便宜のための仮定です。〔226〕

 みなさんは人が仮定したように「自分は何々だ」と思い込まないでください。それは顔に印をつけられ何が何か分からなくさせられると、お互いに噛み合って死んでしまうコウロギなどの小さな生き物が、顔に印をつけられるのと同じ状態があります。人間も顔に印を付けられ、あるいは酷く騙されると酔ってしまい、世間一般の人が普通ではできないようなこと、たとえば殺人などもします。だから仮定に溺れないで、それは社会になくてはならない仮定と気づくべきです。体と心は何か、体と心の本当の自然はどのようか、特に無常・苦・無我と本当に感じ、常に自由な状態を維持しなくてはなりません。〔227〕

 財産その他必要ないろんなもの何でも仮の物と考えて「この人、この人の家、この人の田畑」としている習慣に任せてください。法律が所有権を守っているのは心を財産の奴隷にさせるためではありません。このように明らかな理解があればいろんなものは私たちの奴隷になり、私たちはそれらより上にいます。〔228〕

 欲望執着の気持ちがあり、何を所有し何になるにも強い執着ですれば、それらは私たちの頭上にあり、私たちはそれらの奴隷になります。このように正反対なので、私たちはすべての物より上にいる自由な状態を維持するよう、注意しなければなりません。でなければ自分が非常に憐れな状態に陥ります。多少は自分を憐れむべきです。〔229〕

 欲しいもの、なりたい立場はないと本当に見えれば、続いて明らかに見えた分だけ倦怠(ニッビダー=厭離)が生じます。執着することに揺れが生じるという意味で、例えれば、長い間他人の奴隷(日本の奉公人)になっていた人が自覚すると、奴隷から抜け出さなくてはいけないという動きがあるようなものです。これが倦怠(ニッビダー=厭離)で、奴隷であることに飽き飽きし、いろんなものを「欲しい。なりたい」と考えて執着していることに嫌気がさします。〔230〕

 倦怠が生じれば、強く縛っていた紐が解かれたように、あるいは濃い染料の液体に脱色剤を混ぜたように、自然に色褪せや解け(ヴィラーガ)があります。世界やそれまで執着していたすべてのものへの執着が薄れること緩んでいくことを、ブッダは「ヴィラーガ(離欲)」と呼ばれ、もっとも重要な過程と見なします。最終段階ではなくても解脱のために最も重要な過程です。述べたように薄まり解ければ、苦からの解脱と言われるものが確実にあるからです。〔231〕

 奴隷であることから脱して、二度と世界の奴隷に陥らなくなれば清浄(ヴィスッティ)があります。ここでは憂鬱でないという意味で、それまでいろんなものの奴隷になっていたので、どの方向も憂鬱で、体と言葉と心が憂鬱で、どっちを向いて憂鬱なことばかりでしたが、世界の味の奴隷から脱せば純潔な状況にいて、その後憂鬱はありません。〔232〕

 このように本当の純潔があれば、続いて本当の心の寂滅が生じます。混乱や妨害、争いごとや煩悶のない静謐で、この苦しめ合いや混乱のない状態を、ブッダはまとめて「サンティ(寂滅)」と呼ばれ、すべてが穏やかに静まることで、ほとんど最高レベルに達した、あるいは涅槃と同じレベルと言うことができます。実際、寂滅と涅槃は区別する必要がないほどで、区別するのは「寂滅した時が涅槃」と説明するためです。〔233〕

 「涅槃」という言葉には突き刺すものがないという意味と、もう一つ絶滅という意味があります。だから涅槃の新しい意味は二つ、苦を生じさせる種がすっかり消滅するという意味が一つで、もう一つは突き刺すものがないこと、縛り巻きつけ焼き炙るいろんなものがないことで、苦がまったくない状態を表しています。涅槃という言葉は他にもいろんな意味があり、苦が滅すことを意味することも、煩悩が絶滅することを意味することも、タンマあるいは道具、あるいは国、あるいはすべての苦とすべての煩悩とすべての行が消滅することを意味することもあります。〔234〕

 涅槃という言葉はいろんな宗教いろんな教義で使っていますが、意味はまったく違います。ある宗派は形禅定、無形禅定から得られる静謐を涅槃と呼び、ある宗派は完璧な情欲の陶酔を涅槃と呼んでいます。ブッダはこのような意味の涅槃を否定し、世界の状況、すべてのものの真実を見ることでいろんな物への欲望執着を止めてしまうことができ、煩悩に突き刺され縛られ焼き炙られることと、苦がない状態を意味します。〔235〕

 だから私たちはすべてのものを真実のままに正しく見ることの、偉大な価値を知らなければなりません。そしてどんな方法ででも、そうなる努力をしなければなりません。つまり順にいろんな美徳が生じるまで、昼も夜もいつでも一呼吸ごとに純潔な生活をする自然の方法、これが一つで、もう一つは心を強制する性急な方法で、サマーディの仕方を学んで実践するか、特にヴィパッサナーに励みます。ふさわしい資質のある人は、環境と手法が正しければ早く上達できます。〔236〕

 しかし自然のヴィパッサナーは何時でもどの瞬間にもでき、タンマの満足が生じるまで日常生活が純潔清浄になるよう注意するだけで心の鎮まりがあり、すべての物に真実のままの知識があり、倦怠、執着の緩み、脱出が生じて純潔になり、憂鬱でなく、自然に静謐な味見の類の無苦の状態になり、毎日、毎月、毎年、本当の涅槃に近づきます。〔237〕

 まとめると、人を聖向聖果に到達させる自然のサマーディとヴィパッサナーは、毎日日常的に「欲しいものはない。なりたいものはない」という項目の真実を熟慮することに依存しなければなりません。この結果を望む人は自分を清潔にし、自分を尊敬できるくらい心に満足できるものがあり、仕事をしている時も休息している時も常にタンマの喜びがあるよう努力しなければなりません。この喜悦歓喜が心を明るく爽かにし、静謐にし、それが心に自然に考える能力を持たせ、いつでも「欲しがるものはない。なりたがる立場はない」と本当に見させ、強くなれば心が倦怠して欲望が緩み、二度と煩悩欲望で何かを求めて執着しなくなり、住む場所を失った苦は絶滅します。そのような人を滅苦の実践の終わりに達した人と呼び、すべての人間にとって本当に自然の贈り物と見なします。〔238〕

 


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