ヴィパッサナー労働者

 

 仕事の話は、もう何度も話しています。まだ理解できないのはその人の自由です。私は常に、仕事の中でヴィパッサナーをしたいと思います。今でも、ブッダの時代でも、ヴィパッサナーの話はただ一つ、つまり必ず真実を見、事実を見、身勝手を消滅させる真実を見なければなりません。憶えるには、短く「本当のヴィパッサナーは、身勝手を消滅させる真実を見ること」だけで十分です。これが身勝手を消滅させる類の真実を見る方法です。

他にも何種類もいろんな形がありますが、すべて同じである必要はありません。時と時代に合わせて調整することができます。これはタンマだけでなく、律についても、ブッダは、ふさわしくないものがあれば廃止して良いと許可しています。涅槃に入る日に、このように許可しています。私たちテーラワーダは改革を望まず、言葉どおりにして、大乗の人たちのように改革しません。改革するならできますが、変えたくないので言葉どおりに維持します。

 

これは、いろんなものを時と場所にふさわしく改革するという意味です。今の僧たちは、この二千年の間に世界が変化したので、ブッダの時代のような暮らしをしていません。世界が変化し、いろんな変化をしましたが、ほとんどは、私たちがもっと利益のあることをしなければならない方向の変化で、ブッダの時代のようにモタモタしていられません。

正しくするのも間違ってするのも、みなさんの自由です。しかしブッダの時代のもので、今は捨ててしまったものも多少あります。暮らしの部分、あるいは他人の利益のためにすることのようなのを、私たちは捨てました。

しかしその教えは捨てることはできません。ヴィパッサナーの教えは捨てることはできません。身勝手を消滅させ、身勝手を抜き取り、自分という感覚を抜き取る教えでなければなりません。最後に一つを残し、成功させる方法は、調整できなければなりません。時と時代にふさわしく調整できるものでなければなりません。そして、あの僧たちのように気まぐれでない、目的を正しく理解している人でなければなりません。私は率直に言います。彼らは気まぐれで非常に身勝手です。

私はブッダが話した教えでし、それにはいろんな方法があります。ニミッタターヤタナ経の五種類のニミッタの所を読み直してみると、勉強すること、聞くこと、教えること、考えること、様々な努力する方法がありますが、その間中、自分は正しいことをしていると満足できるようにしなければなりません。 

 ピーティ=満足を生じさせる=と呼ばれるものは、気持ちを正常にさせ、心が正常なら必要なだけサマーディ(三昧)に、あるいは「何が何か」を知るのに適したサマーディになります。有り余るサマーディではなく、その時にふさわしくなります。すべてが自然が求めるだけになるので、多すぎずちょうど良く、その時タンマに到達する知識、悟りである知識を得るのに、あまり時間はかかりません。。

 

ヴィパッサナーの仕方の比較

 次に簡単な例をお話します。材木をたくさん集め、レンガやセメントをたくさん集めても、家や僧房を作るにはどうするか知らないので、どうしたら良いか分からなくて、何も作らず、何にも使わないことがあります。。あるいは夢中になって材木を集めレンガを集め、鉄を集めセメントを集め、資材を集めるだけで、何も作らないで腐らせることもあり、このように家も何も造りません。

 もう一つは反対で、材木を四、五本探してきて全部使い、もう四、五本探してきて全部使い、レンガを百か二百探してきて全部使い、瓦か何かを探してきて全部使い、使い終われば完成するので、探すのを止めます。こういうのもあります。こういうのを「ちょうど良い」「ちょうど良くする」と言い、そして常識、つまり簡単で自然な考えでします。たくさん集めず、そして何も造らないで、これから造ろうとする物に陶酔しないからです。

それに黒板に書いたような形のヴィパッサナーやアーナーパーナサティは、今、サマーディが膨れ上がる余地があります。つまりサマーディがあることだけを目指し、そして非常に広すぎる範囲の努力をするので、簡単ではなく、そのサマーディを、ヤーナ(智)を生じさせるために熟慮するヴィパッサナーに使う日は来ません。

これらの気まぐれな僧たちは、サマーディの話しか聞かないので、一貫した正しい教えを掴むことができません。しかし、まだサマーディ(止業処。瞑想)をしたがり、非常に望み、何としてもしたがり、サマーディで誰よりも素晴らしくなりたがりますが、できないので、努力をするだけです。だから智慧の実践をすることができません。つまりこういう話を聞いて理解できないほど愚かです。

前の日曜日にはそれくらい愚かでした。前の日曜には私が話したことが理解できなかったので、これから、ブッダに会いに行ってその場でタンマに到達した、ある在家を振り返って見ると、ブッダの前で、その場で聖向聖果に到達し、サマーディ(瞑想)をしにどこかへ行っていません。

どこにもヴィパッサナーをしに行かずに、その場で涅槃に到達しています。こういうのはどうなのか、考えて見てください。材木や何やら家を建てる資材を集める時間がなくても、ニミッタターヤタナ経で言っているように、解脱するタンマを知る方法はたくさんあります。

ヴィパッサナーの智慧の話にできるまで理解することに興味を持ってください。目を閉じるサマーディ(瞑想)や必要以上に多いサマーディを考えなくても、いつでもこの(例の在家)ようにすることもできます。本気で熟慮すれば、それ自体にサマーディ(集中力)があるくらい強くなります。この話は以前にもいろんな所で何度も、いろんな例で話したことがあります。熟慮、つまり考えようとすれば、自然にサマーディ(集中力)が生じ、これはちょうど良くて、多すぎも少なすぎもしません。

 ヴィパッサナーヤーニカとしてまとめられたものを使う方が良いです。熟慮してサマーディを導きます。「サマーディでヴィパッサナーを導く」のを、「サマタヤーニカ」と言い、サマーディをたくさんたくさん、何種類も何通りもしてサマーディを生じさせ、それからヴィパッサナーに傾けます。少ししか使わないのでたくさん余り、使い切れません。こうすることもできます。つまりたくさんサマーディをして、それからヴィパッサナーを引き寄せるのを、サマタヤーニカと言います。後で分けて、後で名付けます。

 「ヴィパッサナーヤーニカ」は、先にどんどん考え、先に熟慮します。考え熟慮し始めると、自然にサマーディ(集中力)が引き出されます。熟慮が自然にサマーディを引き出し、引き出すサマーディは必要なだけで、必要以上に引き出すことはありません。これが在家の人の、あるいは現代人にできる一番の近道です。彼も、この二つのタイプのどちらも使いものになるとしているので、僧は、どちらのタイプを選ぶこともできます。

私は、背負い過ぎないでくださいとアドバイスさせていただきます。たくさん背負い過ぎても、使いようがありません。これを「梯子タイプの人」と言うこともできます。常に梯子を担いで歩き回り、どこの誰の家に梯子を使って登るのか分からず、絶えず梯子を担いで歩き回ります。サマーディ(瞑想)をする人は全員この人のように、熟慮するためにどの点で止まるのか知りません。

サマーディを導くヴィパッサナーの手法を使いたいと思います。つまり注視して考えた分だけサマーディが生じ、強く考えればサマーディも強くなり、パンヤーヴィムッティ 、「智慧の力による解脱」と呼ばれるものの原因になり、こうすれば結果は、煩悩を消滅させます。これをする方が、「富豪のようにすれば、結果も多い」と言われるものより良いです。ブッダの前に座って何分もしないでタンマに到達した人たちは、すべてこのタイプ、熟慮して考える方式、あるいは先導するヴィパッサナーです。

しかしその人は、十分豊富なサマーディにふわさしい習性、性質、心の状態があるので、サマーディを欲しがらないのかもしれません。満足できるタンマに到達すれば、苦は何もなくなるので、それ以上サマーディの練習をする必要がなく、サマーディの訓練に興味を持つ人は誰もいません。その人がサマーディの訓練をすれば、すごくサマーディを得ることができますが、滅苦ができる類のタンマに到達した人は、もうサマーディの訓練に興味はありません。

その人にはもう自分にふさわしい家があるので、それ以上材木やレンガやセメントなどを集めません。こういう状態です。そして特別の場合もあります。つまり、森かどこかでヴィパッサナーをせずに、ブッダの前で阿羅漢に到達した人で、彼らは奇跡を起こすことができ、無礙解やら何やらいろいろ得ることができました。その人の心は初めから特別なので、滅苦に関わるタンマを知り、それに関連した他のことを知ると、特に訓練をしなくても自然に神通力が現れるほどサマーディのある心になります。

 今みなさんは智慧が尽き為す術が無いので、成り行きで引っ掴みます。成り行きで引っ掴むというのは、儀式的、形式的、風俗伝統として教えられ勧められているものなので、先ほど「それは滅茶苦茶です」と言ったように、私は「滅茶苦茶」と言います。

 材木やレンガやセメントなどの資材をたくさん集める人のように滅茶苦茶なのは、材木を幾つどこに使うか、セメントをどれだけ使うか、レンガを幾つ使うか、という知識がない点が滅茶苦茶です。集め過ぎの物も、足りない物も、全然ない物もあるほど滅茶苦茶で、本当のタンマに到達することに関した知識や理解は、今滅茶苦茶です。

このタイプは、パリヤッティ(三蔵の学習)も拡大しすぎて終りがなく、ヴィパッサナーをするにもアビダンマ(論蔵)を勉強しなければなりません。そのアビダンマは説明が多いので、非常にパリヤッティで、実にパリヤッティの中のパリヤッティです。ヴィパッサナーをするにもアビダンマを勉強しなければなりません。こんな状態です。

それにヴィパッサナーの教えは三蔵にあるだけでも膨大ですが、本当に必要なのは幾つかの経の教えだけで、それだけで十分です。パリヤッティのように、界(有)の話、地の話、世界の話、蘊の分類、元素(ダートゥ。大種)の分類と増やした説明は必要ありません。その結果何も分からない学問になり、自分自身も理解できないで暗誦するだけです。

 

スアンモーク式ヴィパッサナーの仕方

 次に、特に現代の問題に合う話をしたいと思います。本当は一、二回話したことがあり、現代人にふさわしい方法にすると言ったのを憶えています。そして「沙弥は庶民より悪くてはいけない」という大切な言葉、教えを強調しました。まだ憶えているでしょうか。

 「沙弥は庶民より悪くてはいけない」というのは、経典の中に、在家でもブッダに拝謁してその場でタンマに到達した話があるように、庶民は働いて妻子を養わなければならなくても、仕事をしながらタンマに到達できるという意味です。在家でいながら預流になり、一来になって、家にいる人が数え切れないほどいました。庶民が聖果を得ながら働いて妻子を養っているのに、僧が聖果に到達できないのはだらしない話で、何も善い点がありません。だからあまり威張らないでください。在家と同じにできるだけでも、すごく善いことです。

 この機会に、ヴィパッサナーを仕事と捉える考えを生じさせてください。仕事の中にヴィパッサナーがあり、あるいはヴィパッサナーを仕事にしてしまいます。これを「ヴィパッサナー労働者」、あるいは「スアンモーク式ヴィパッサナー」と名付けます。私のヴィパッサナーは労働者式のヴィパッサナーです。いつどこで誰に質問されても、スアンモークのヴィパッサナーは労働者式のヴィパッサナーで、仕事をヴィパッサナーにし、仕事の中にヴィパッサナーがあると答えます。しかし私式の仕事でなければなりません。

 そして大原則は、絶対に身勝手でないこと、思い上がらないことです。身勝手にならないでください。どんな手法でも、これ(身勝手)を脅すことができれば、何でも使い物になります。仕事は疲れることと犠牲が基本です。まだ自分を犠牲にして奉仕する気になれないなら、非常に低級で使い物にならない泥の船です。だから最初に、最低でも身勝手でないこと、あるいは身勝手を犠牲にする気持ちを十分表明して見せなければなりません。それからいろんなものにしないで、同じ方向で大きくします。

「仕事はヴィパッサナー」と捉え、ずっと仕事をヴィパッサナーにします。その仕事を、本当の犠牲である仕事にしてほしいと望みます。だから、「何も見返りを求めない」と、はっきり決めておき、見返りである何かを期待してはいけません。「有難う」の一言でも、感謝の言葉を期待しないでください。褒めて喜ばせるようなことも期待しないでください。私が病気の時に世話をする人に見返りはあるのかは、それは同じ宗教の同朋として病人を助けなければならない、律にある義務と考えてください。しかしタンマではありません。

だから、苦労した人は何も見返りを貰わないと、今までどおりに捉えてください。物も、「有難う」の一言も、賞賛も、何も期待しないで、ただ身勝手を削り落す行動にしてください。仕事のための仕事だけ、道徳での義務のための仕事で、私は、「空っぽの心で働くだけ」と言います。

 次に「する仕事」についてお話します。必ずしも気分屋の僧が言うような彫刻、彫塑、あるいは絵を描くことに限らず、どんな仕事でも構いません。これは不動の教えで、何の仕事でもいいです。砂運び、土運び、石運び、何でも良く、そして「汗で煩悩を洗う」というのを教えにしましょう。私がこの言葉を言うと、西洋人の大学教授はヤキモキして手を高く挙げ、理解ができません。どうぞ、汗で煩悩を洗う類にしてください。「身勝手でないことで身勝手を洗う」という意味にしましょう。

あの仕事、この仕事である必要はありませんが、働かなければならない時は、得意な仕事にするべきで、得意でないことより得意なことの方がいいです。良い仕事ができるので、苦労が無駄にならないからです。そして得意な仕事を広げることもできますが、仏教にとって最大の利益になる方向にしましょう。他の仕事をすることになるかもしれませんが、それを仏教に最大限の利益がある状態で関連させましょう。

 私のような人は他に智慧が無いので、絵を描くか、彫刻の下絵を描くのが一番良いと思います。「今は」という言葉を使いました。憶えておいてください。他の時は保証しません。今最もふさわしい仕事は、広めるべきことを広める仕事が、苦労以上の結果があります。この仕事は、タンマの面でも、歴史的にも、考古学的にも、芸術の面でも、タイの文化の面でも利益があるからです。

タイの文化は、どのようにインドの文化から発展してきたかという面の、いろんなことを教えるので、賢い耳目がある人は、これらの石碑を見て知ることができます。芸術の面から見ることもでき、仏教史の面から見れば、タイにそれまであったものより多くを見ることができます。

 タンマの視点から見る珍しいものは、「本当のブッダは形で表せるものでなく、形のあるものではない」という教えで、彼らはブッダの姿を表現せず、空のままにしておいたので、空っぽであることが良く見えます。これはタンマの側になります。

 次に話であるあの歴史、この歴史は、読んだことがあるブッダの伝記本にはありません。見てください。ブッダの伝記の部分に、考古学の面やら何やらが増えました。熟慮して非常に利益があると見たので、私は汗をこのような形にしました。

これを「一撃で鳥を何羽も獲る」と言います。仕事をして汗で煩悩を洗い落とせば、その汗の結果は自分自身だけでなく、人間同朋の利益になります。だから私は、自分の利益と他人の利益を取ります。そしてこの方法は、核時代の人間にとって、意味もなく二十四時間座っているより、非常に適している方法だと言います。頑固に座るのは夜だけで十分なので、昼間は、汗で煩悩を洗う方法ですれば、その方が広く深い利益があります。

だから、後で職業にするために絵や彫刻の練習をしようなどと考えないでください。そういうのは、自分を低くし、駄目にすることです。それにその汗は、何も見返りを求めないで他人を前進させることだけを望む場合以外は、煩悩を洗い落とせません。これを「死んでいるのと変わらない」と言います。この自分は死んでいます。だからあの詩は、いつでも使えます。

『空っぽの心で働き、 

仕事の結果は空にやり、

空の飯を空で食い、

そうすればハナから死んでいる』。

死んだ人は、傲慢にならないでください。これを「死んだ人」と言います。傲慢がいっぱいある所に問題があり、思い上がりがいっぱいある分だけ問題があります。傲慢を追い払うには、自分を低い人にし、自分を敗者にして身勝手を無くす外に方法がなく、負ければ僧、勝てば悪魔です。これが最高に善いです。思い上がっている時はいつでも悪魔で、負けている時はいつでも僧です。

 これは気まぐれな僧以上だということが分かります。この種の人は私の理想を理解できるので、問題はありません。彼らに話さなければならないことは何もありません。だから二、三人の僧には、一言も言いません。話しても何の利益もないからです。みなさんは、仕事をすることでヴィパッサナー労働者を志し、仕事がヴィパッサナーになるよう調整する以外に、話したくてもあまり話さないでください。

カンマターナ(念処)とは仕事という意味なので、その仕事が身勝手を増やさなければ、仕事を念処にすることができます。仕事が身勝手を増やさないように、期待を増やさないように注意し、死んだ人のように、いつでも一文なしでいることを受け入れてください。常に死んでしまっていれば最高に善いです。「思い上がらない」という簡単な実践原則である教えです。

 要するに、私はこの方法だけが最高に効率が良く、最高に無駄がなく、そして最高に早く、最高に簡単な方法と見ています。そして初めに述べたように、この方法ですれば僧は庶民に負けません。だからこの方法は、核時代の人間に、核の時代の比丘や沙弥にふさわしいと信じます。

バターの瓶に布芯を入れた灯の代わりに、しゃれた電灯を使うのはどんなに変化したでしょうか。だから仕事も変わり、住まいもブッダの時代から変化しました。僧房には、溢れるほど本があり、ありとあらゆる道具があります。僧でなくても、核の時代の人間にとっても大きく変化したと言います。僧房を見ると、大物の長老の僧房には、ここにいる人よりも、もっとブッダの時代と違うものがあります。

これは大変なことになり、人工衛星の時代にもなったので、心の煩悩を根絶させるために実践する人は、このようにバタバタした時代でも、煩悩の滅亡が間に合うようにしなければなりません。そうすれば仕事をヴィパッサナーにする方に調整できます。だから仕事をヴィパッサナーしなければなりません。仕事の中で汗で煩悩を洗い落とすヴィパッサナーがあり、三通りのヴィパッサナーヤーニカの教えがあります。パンヤーヴィムッティ式に解脱するのでもいいです。

それ以上望まないでください。そしてこれは人工衛星の時代にふさわしいです。毎日、煩悩を断てるだけの智慧があるだけで十分です。木の根元へ行って目を閉じて座るのは、機会があったらしてください。この言葉が理解できないと言った僧のように、そういうことだけに夢中にならないでください。私はこの言葉に四十年、彼が生まれる前から関心を持ってきたので、話し合いはできません。

 

ヴィパッサナー労働者の生活

 今日のこの機会に、このような暮らし方を「ヴィパッサナー労働者」と呼びます。みなさんも見ていると思いますが、ここへ来た人のほとんどが、「ここではヴィパッサナーをしますか」と質問するので、「ヴィパッサナー労働者」と言います。理解してもしなくても彼らの勝手です。彼らには説明を聞く時間がありません。

 汗で煩悩を洗います。庶民のご飯を無駄にしません。一年中、一生モタモタして、何をやっても物にならなければ、何も見えるようになりません。肉体的にも精神面にも知性の面でも、何でも本気になってしっかりやらなければなりません。そうすれば人工衛星の時代の世界に間に合い、そしてふさわしくなります。お願いするのは、「どうぞ正しい方にしてください」と言うだけです。食事をすることから始まって水浴、トイレ、何でも身勝手を無くす方向になるように管理し、そして身辺に良く注意して、身勝手を消滅させるようにします。

トイレに入ることだけでも身勝手な人がいます。言い訳はしなくてもいいです。手伝ってくれる人なしにトイレを使って汚して、そして身勝手なのは、沙弥の他にいません。これは一例です。他にもまだ、たとえばきちんとしていない、あるいは利益がないなどが一つ、そしてもう一つは必要もないのに、まったく利益を無くしてしまいます。これも身勝手。身勝手の話です。何の利益にならないのは身勝手で、他人が生み出した利益を消滅させてしまうのも身勝手です。何かを消費するにもそれらを節約しないで、思い上がった状態で使う。これも身勝手。身勝手の問題です。

このお寺全体を、身勝手があるかないか計る道具、あるいニミッタにしてください。そして、このお寺が話せるような、石に話ができるような、木々も話ができるような、何もかもが話をするような、つまりそれらを見た人の心を捕えるような何かを表し、そして静謐、静寂、停止、空、何でも、これらの感覚を生じさせるようなお寺を造る、という大原則があると知っておいてください。

だからそのような状態を表すいろんな物があったら、不潔や乱雑にならないように、あるいは、木に話をさせ石に話をさせる、こういう目的と違う方向の考えを生じさせないようにしてください。

だから石一つ置くにも、意味を生じさせるように置きます。愚か過ぎれば、それはその人の罪であり、私の罪ではありません。私は意味があるように置いたのに、その人がその意味を知らないのは、私の罪でなく、そうした人の罪です。ほとんどの人が今、これほど利益を損なっているのは明らかです。

ここにあるいろんな物から強い印象を受ける人は、千人のうち何人かしかいません。それに「止まること、掴まないことは善い」と感じ、知る人はあまりいません。

石に心があり、何かを感じ考える心や魂があるという訳ではありませんが、利益になる状態があるので、それには利益があります。アッタカター(シンハラ語からパーリ語に翻訳して三蔵に加えられた経典)の中に、野生のジャスミンの花が散るのを見ただけで、阿羅漢に到達した比丘がいます。ジャスミンの花に心はなく、自然に散りますが、その僧は、「変わらないものではない。これらの味、美しさには希望はない」と無常の観点で見たので、心のないものが自然に落ちるのを見て、阿羅漢になりました。

みなさんは不毛で、このようにしません。落ちる物があっても何も感じません。みなさんの心はどこかへすっ飛んでしまっているので、野生のジャスミンが散るのを見て阿羅漢になる好機がありません。心が頑なで、そして遠くへすっ飛んで行っているみなさんには、汗で煩悩を洗い落とす方法が合っています。ガサガサしているだけで、例えにした比丘のように繊細で柔軟ではないからです。しかし一般的には、それは静止している、それは静かと見せています。植物はこのように執着しないで食べ物を食べています。

みなさんは、今日は何がある、どんなカレー、どんなおかずがある、という執着で食事をし、口では言わなくても、内心で「これは美味しい。もっと欲しい」と思い、このように食べるだけで、自然に規則的に安定して吸収し、人のように「俺、俺の」がない植物のようではありません。今言ったような面を見る人は、木が話すのを聞く、木が話しているのが聞こえるということです。

これは譬えで、植物に関しても、石に関しても、まだたくさんあります。だから良く見ておいてください。私たちは植物よりたくさんの義務があります。私たちには植物より多いものがあるので、より注意をし、もっと価値のある時間の使い方をしなければなりません。「しなければならない」という言葉を使うのは正しくありませんが、使わなければなりません。なぜなら非常にガサツ過ぎるので、「べき」と言います。植物よりたくさん、植物より善く「するべき」です。

森にいて森が見えません。知性がなければ、木の根元に座っても木が話すのが聞こえないので、知性を十分育ててここに住んでいれば、木が話すのが聞こえ、あるいは何か、植物がタンマを説いているのが見えます。木の中に潜り込むような、穴を掘って入るような執着をすれば、木を知ることはできず、木から利益を得ることを知りません。

木の根元、あるいは、人が静寂と呼ぶ静かな場所は、心を静止させ、空にし、鎮める環境という意味で、今みなさんは森に住んでいるので、こういう利益がなければなりません。「感じない」ということがないようにしてください。それを「森に住んで森が見えない」と言います。森に住んだら自然を見、森に関わる何らかの真実を見れば、「森に住んで森が見える」と言います。

これは機会がある時にし、余っている力は、身勝手を無くす課題に使います。余った力をどこかへ捨ててしまうんですか。庶民のご飯代を、どこかへ捨ててしまうんですか。使える時間があったら、地域社会の利益になる方向に使い、一日二三時間でも、地域社会の利益になることをします。

 

仕事は適度な利益のため

 絵を描くことと彫刻は、新しく描くことではない、今話したバカみたいな僧の彫刻ではないと主張したいと思います。「公正を好む」と言われる人は、絵を描く話、彫刻の話だけと見ないでください。人間同朋の利益のために犠牲にする話にしてください。何でもいいです。価値があるものを選んで、すぐ利益になるものを選んで、得意なことをしてください。

 私は、「タイになかったものを仏教教団員が見られるようにする仕事をしてください」と言います。それだけです。それ以上は何も望みません。

 私一人では何もできません。みんなで力を合わせて、余った体力を全部使い切りますが、その時、そういう時にヴィパッサナーがあることを忘れないでください。注意しなければならないことは、思い上がらないことです。今言ったような理由で、ヴィパッサナーは、流れ落ちる汗にもあります。木の根元に座って涼むことより善いし、それに重要です。

 それ(木の根元で瞑想すること)は他のことに陶酔し、おまけに身勝手の穴を掘っていないとも限りません。すぐ静かさに陶酔し、恍惚となり、そして一種の眠りになったら何も得るものはありません。サマーディ(瞑想)をして定を生じさせ、禅定を生じさせても、使い切れないので利益がありません。

 だから、仕事に必要なだけのサマーディにします。たとえば小さな精米機があるとして、それは十馬力しか必要でないのに、大きな馬力を出す機械を買うのは、良いかバカか考えてみてください。十馬力しか必要でないのに、十二馬力出る機械を買うのは、バカでしょうか、良いでしょうか。

だから「ちょうど良くしてください」と言います。自然にそれに合うようにすれば、ちょうど良くなります。そうすれば精いっぱい、最高の結果が得られます。それにお金を探して発動機を買ってくるより早いです。わざわざ用意するのは大変で、買っても何も役に立ちません。本当の利益は、精米することにあります。だから何としても「俺、俺のもの」を攻撃する時、これだけの知識でも、これだけのサマーディでも、何もかもこれだけでも、必ず実践します。それが善いです。

庶民にはちょうど良いサマーディがあり、ちょうど良い智慧があるので、在家の生活をしながら預流、一来のタンマに到達でき、あるいはブッダに拝謁しただけで、すぐ心は阿羅漢になります。バカみたいな人達と違い、ちょうど良い労力があったので、いろんなものがあるバカみたいな人と違います。

彼らにはあの面この面のものがあり、すべて膨れ上がります。現代は気をつけてください。必要のない知識が溢れていて、現代人は何でもかんでもたくさん知っています。私に届く郵便物は、書物や書類で溢れているように感じます。これです。これらは自分を発展させると考えていますが、反対に、気付かないうちに自分を害しています。

 要するに私が、「私のやり方」あるいは「私の理想」と呼ぶものを、ヴィパッサナー労働者と言います。他の労働者とは違い、空に養われている労働者、空の労働者は、何も要求することはできません。何かを要求して「俺、俺のもの」にすることはできません。すべてを空のものにすれば、少なくても軽くて爽快で、犬の子に負けません。遊んでいる犬の子には「俺、俺のもの」がないので快適です。

 


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