実践の近道





 一歩一歩実践を進めることは、先に死ぬことです。それで私は、いろんな大物たちから、「関係ないこと、手本外のことを教える。ローグッタラ(世界を脱すこと。出世間)の話、世界から解脱すること、世界を超えることを庶民に教える」と罵られ、非難され、何でもされます。いつも反論者が「ローグッタラの話を庶民に教える」とからかい、なじります。在家ばかりでなく、大物の長老にひどく叱られたこともあります。

 何十年も解脱の話を、タンマを庶民に教えて来ました。私も自分の考えだけを押し通す人間ではありません。誰が何を言ってもよく聞き、その人が言っていることは正しいか正しくないか、真実か真実でないか好く聞きます。そしてそれは正しい、そうするのは正しいと思うので、だからこれからも続けます。

 誰に何と言われようと、何と謗られようと意に介さないことは、実践の近道であり、進歩を早めます。いろんなことをして面倒な問題にしないで、空っぽの心で暮らし、空っぽの心で働き、空の食べ物を食べ、死んでしまったように生きるという教えを掴めば、このように一度に飛び越えられます。

 そしてずっとこのようであってください。最後には、先ほど天人も人間も世界のために働くと、一つの文章が残ると話したように、他人のためにすることだけを残してください。何でも他人のためにします。他のことはすべて納得し、他の問題はすべて答えを出して納得し、最後に残るのは、するのは、他人のためにするだけです。

 こういうのが一番良い方法です。最高に近道で、最高に簡単で、最高に便利です。しかし私が言う「他人のためにする」は、他の人たちが言うより意味があります。他の人が話しているのもたくさんあります。他の人の他人のためにする話は、指しゃぶりをしている子供の道徳で、ボーイスカウトの「他人のため」もあります。

 しかし私が他人のためにするというのは、ブッダが言われたようにします。つまり「自分」がありません。指しゃぶりをしている子供の道徳には「自分」があり、「私」が他人のためにし、みんな幸福になります。あるいは人に感謝され、あるいは誇らしいです。それは子供の「他人のため」です。

 しかしブッダや阿羅漢の「他人のため」は「自分」がありません。自分がないので自分のためにすることはできません。自分がないのでいつでも他人のためにします。どこでどんな行動をしても、いつでも他人の利益になります。これを、本当のタンマの実践と言います。

 ヴィパッサナーと呼ぶものより何より、最高のタンマの実践です。今はヴィパッサナーという言葉に困惑し切っています。以前にも人に聞かれたと話したことがあるように、どこへ行っても「スアンモークではヴィパッサナーをするんですか」と聞く人がいます。

 考えて見てください。私はどう答えれば良い意のでしょうか。スアンモークではヴィパッサナーをするんですか、と聞きます。敢えてこのように尋ねる人がいます。質問者が言っているようなヴィパッサナーは、私の所にはありません。私はしません。したくもありません。

 私に質問した人が言っているような意味のヴィパッサナーは、あってほしくないし、したくもありません。しかしこのような実践、私が「これがヴィパッサナー」と呼ぶような、あるいはヴィパッサナー以上と言うような実践は、ヴィパッサナー以上の成果がある行動です。私の所にあるのは、彼らがヴィパッサナーと呼ばない物ばかりです。

 彼らはヴィパッサナーを別の物と理解しているので、先生やアーチャンを敬う儀式から始まって、いろいろな形式や規定があり、いろいろな姿勢があり、ゆっくり歩いたり、腹の動きを感じたり、山ほどあります。他人に見える形式、他人が理解できる形式であり、規定です。こう見ることもできます。

 誰がしても構いません。それもヴィパッサナーです。そしてその様式は、その様式のヴィパッサナーは「俺」の様式で、自慢するヴィパッサナー、他人に見せる「俺」のヴィパッサナーなので、どうしようもありません。それが「俺」「俺の物」を増やすと、彼らはまだ知りません。




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