三蔵の中のダイヤモンド   

  

                                                                                                       1985年5月27日

 信仰心が篤く、またタンマに関心をお持ちのみなさん。善意でもってこのようにお訪ねくださったことに、心から喜びと感謝を申し上げます。生憎私はあまり元気ではありません。医者は「何もしないで安静にしていなさい。二か月くらい安静にしていれば病気が良くなるかも知れない」と言うのですが、医者の言いつけに背いて、みなさんがご覧になっているようなこのような格好で、皆さんに会いに来たことをお詫びしなければなりません。

 医者も遠慮があるので、私は我を張ることができます。今血圧は上が二百の下が百で、ほとんど話せる状態ではないと言いますが、みなさんへの感謝の気持ちで、結局話しに来ました。

 それ以上に私はプッタタート(ブッダの奴隷という意味)なので、すべてブッダの望みに応えなければなりません。だからブッダは最期の一秒、つまり涅槃の瞬間まで、ブッダとしての勤めを果たされたと言わせていただきます。

 この話は良く知っている方もいると思いますが、ブッダが間もなく涅槃に入ろうとする時、異教の僧が訪ねて来て、「お目に掛ってタンマについてお尋ねしたい」と言います。弟子たちはみな、「ブッダはご重篤なのでお引き取りを」と言って追い払おうとしますが、その様子を耳にされたブッダは、追い返してはいけないと言って傍へお呼びになり、その僧の疑問に懇切に答え、短時間でタンマの最高点に導かれ、その後数分して般涅槃されました。

ブッダはこのように最期の一秒まで、自分の勤めを果たされたことを考えてください。私はブッダの奴隷なので、ブッダを見倣わなければなりません。ブッダに倣って最期の一秒まで己の勤めを果たすために、どうなろうと、なるに任せます。みなさん、今医者から話すのを禁じられている状態ですが、忠告も聞かず皆さんの前に現れ、いつもの年のように最後まで勤めるという、この真実をご理解ください。

まず初めに、みなさん遠方から、北部や南部、そしてたくさんの県から連れ立ってお出でくださったことに感謝申し上げます。二番目に、致し方ない理由であれ何であれ、十分おもてなしができないことをお詫びします。そして最後にお願いですが、いつものように良く聞いて、このような機会に聞いた内容を、できるだけたくさん、しっかり受け取って行ってください。

今日のお話は、「二五二八年(西暦一九八五年)の齢を笑う日(註:自身の誕生日をこう呼んだ)の贈り物」です。贈り物は、自分の信条とするタンマを受け入れ信奉する上での最高の自由です。どうかみなさん、この贈り物を受け取ってください。

つまりタンマを信奉して自分の拠り所にすることに、自由であってください。そのような自由のために差し上げるものを、仏教の中のダイヤモンドと呼ばせていただきます。仏教のダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具の両方を差し上げます。つまり、これから順にお話するような、タンマを受け入れ信奉する最高の自由です。

仏教を信奉する自由、つまりパーリ経典(直接ブッダの言葉である経)「カーラーマ経」には、最高の自由の付与、最高の民主主義のように話されています。この話は何度もお話したことがあります。要旨は、カーラーマの人々がブッダに、「いろんな教義を教える人がいるので、どう信奉したら良いのか分かりません。どうしたら良いでしょう」と質問したのに対し、カーラーマ経の十項目と呼ばれるもので答えています

十項目の最初の三項目は聞いたこと、あるいは勉強したことに関してです。

1.言い伝えて来たという理由で信じてはいけない。

2.伝承し行動してきたという理由で信じてはいけない。

3.噂で持ち切りになっているという理由で信じてはいけない。

4.四は経典、あるいは教典、あるいはピダカ(籠)についてで、ピダカの中にあるという理由で信じてはいけない。

ここでのピダカ、私たち仏教で教典・テキストと呼ぶものは、タラバヤシの葉に書かれた教えをセットにまとめたものをピダカと呼びます。仏教の初期には、まだそのようにしないで、何百年もの間、記憶して口で誦えるだけでした。その後文字で記された時、ピダカが編纂されました。初めはただ「ダンマヴィナヤ(法律)」と言い、聞いたとおりにしっかり記憶しました。教典、あるいはピダカについては第四項だけです。

つぎの四項は考え、あるいは考えるときの理由に関してです。

5.現在 logic と呼ぶ論理的方法で考えて、信じてはいけない。誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の使い方が誤っていることもあるので、すぐには信じてはいけません。

6.ナヤの理論に合っているという理由で信じてはいけない。ブッダの時代に「ナヤ」と呼んだのは、今西洋で言う Philosophy、タイ語で哲学と言いますが、これは間違った呼び方です。哲学は Philosophy ではありません。

 Philosophy は個々の見方であり、まだ哲学ではありません。しかしそのように呼ばれているので、そう呼んでおきます。Philosophy のような考え方を、実践する教えとして信じる道具にしないでください、とだけお願いします。

7.状況的に考えて、つまり、現代「常識」と呼ぶ、習慣になっている安直な考えで信じてはいけない。現在人は好んで常識という言葉を使いますが、仏教では、ブッダがこの項目で禁じているので、使えません。

8.自分の見解で注目に耐えられるという理由で信じてはいけない。自分に何らかの見解がある場合、相手が自分の見解に合うような教えを教えても、すぐには信じてはいけません。自分の見解が間違っていることもあるからです。

最後の二項は話し手、あるいはその教義を説く人に関してです。

9.話し手が信頼できそうという理由で信じてはいけない。この項目は、話す人の言葉や態度が信頼できそうだという意味です。

10.話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけない。

 この十項目は、タンマを自分の拠り所として信奉するうえでの自由と、どうぞ憶えておいてください。これは非常に大切なので、もう一度復習します。しっかり聞いてください。

第一項は、みんなが言い伝えて来たという理由で、信じて実践規範にしてはいけない。第二項は伝承され実践してきたという理由で、信じて実践規範にしてはいけない。第三項は、大評判になっているという理由で信じて実践規範にしてはいけない。

たとえば午年だか未年だか知りませんが、その年生まれの人は、あれこれ決まったことをしないと閻魔に連れ去られるなどという噂が、クルンテープ(バンコク)にも蔓延したことがありました。これは噂になっているものの項目で、信じる必要はありません。外部から聞いたことに関する三項目は、自戒しなければなりません。

第四項は、ピダカの中にあるという理由で信じてはいけない。この項については大変重要なので、後でお話します。現代人はピダカと呼ぶもの、あるいは三蔵を妄信するあまり、ブッダの教えであるこの項目に反して、三蔵の一字一句の奴隷になっています。

第五項は論理に依存して、理論的に合うという理由で信じてはいけない。第六項は Philosophy に依存して、 Philosophy の論理で合うという理由で信じてはいけない。第七項は常識で、あるいは状況的に考えて信じてはいけない。第八項は、本当は間違っているかも知れないので、自分の見解に耐えうるという理由で信じてはいけない。

第九項は話す人の風貌や態度が、いかにも信頼できそうだという理由で信じてはいけない。最後の第十項は、話し手である僧が、自分の先生だという理由で信じてはいけない。

この項目の「自分の先生」というのを良く考えてみてください。自分の先生であるサマナ(出家)でも信じないで、言っていることで滅苦ができるか、如実正智で推測して見て、それから実践してみなければなりません。ブッダは、ブッダを信じることに関しても最大の自由を与えています。ブッダ自身サマナであり、たくさんの弟子が先生として尊敬していたのですから。

それでも、「このサマナは自分の先生だから」という理由で信じてはいけません。私は敢えて言わせていただきます。このように教える宗教が、仏教の他にあるでしょうか。どこにもありません。どれもこれも、一方的に信じなさいと押しつけるものばかりです。

これを良く理解して、この十の愚かさの奴隷にならないでください。しかしここで、ブッダはこの十種類に関わるなと禁じてはいないと言わせていただきます。適度に熟考するためにそれらと関わり、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいです。

しかしまだ信じないで、それで滅苦ができるかどうか熟慮して、滅苦ができそうなら実践してみてもいいです。真実を検証できたら、そしたら信じます。

第四項は現代の教育にとっては最悪です。「ピダカにあるという理由で信じてはいけない」ですから。ブッダはピダカという言葉を使いましたが、この言葉はタイ語では教科書という意味です。つまり文字で書かれた物であり、文字になっていないものはまだ教科書と呼びません。

しかしこの教科書という言葉は、宗教のものにも、一般のものにも使うことができることを忘れないでください。後の時代に生まれた三蔵も、文字として書かれた、あるいは刻まれた時から、ピダカにあるからと信じてはいけないと禁じている、ピダカに含まれるもの、長く深く関わって、後で話すものになりました。

第五項の、理論的な理由で信じてはいけないという項目は、理論というのは、子供にも子供の理屈があります。あれも理論です。大人の理論でも、学問的に認められている理論でも、その理論が正しければ、全部滅苦ができると、固定的に信じてはいけません。

だから六項目の理論的、哲学的( Philosophy )原則を引用するのは、正しくありません。現代人の多くの人がそうなっているように、理論や哲学の奴隷になります。何でもかんでも理論、あるいは哲学を引用するのは、奴隷で、自由がありません。

しかし、その理論的方法を試してみてもいいです。知識があれば、論理的考察に関する知識があれば、その論理でタンマの原則を捕えることに挑んでも良いです。挑んで見れば、その論理が正しか正しくないか証明できます。時間があって挑戦したければ、試してもいいです。しかしブッダを信じれば、時間が無駄になりません。

第七項の常識、あるいは状況で考えるというのは、常識で考えてみてもいいです。だた、良く考えずに「それはそうだ」と決めつけてはいけません。ヤターブータサンマパンヤー(如実正慧)と呼ぶ最高の知性、つまり真実を正しくありのままに見る智慧で、滅苦ができる話にしなければなりません。

第八項は、一定の見解や信仰のある人が、自分の見解や信じるものと合うものに出合っても、すぐにそのように信じるのは正しくありません。しかし自分の見解や信じるもので計って見て、掴んで見てもいいです。

話す人に関しての第九項、第十項は、試してみてもいいです。信頼できそうで、聞く価値がありそうだったら聞いてみてもいいです。禁じません。ただ、話しているサマナが自分の師で、何を教え何を話しても聞いていいですが、すぐに信じて受け入れてはいけません。

プラサーリーブッタはこの徳行があり、ブッダに確認して、これはブッダが私たちにくださった最も崇高なものであると喜びました。

この十項目の自由を、齢を嘲笑う日の贈り物としてお話します。命の常備品としてタンマを受け入れ、信奉し、あるいは実践する自由と言います。みなさん。今までまだ持したことがないなら、私がブッダから頂いたものを、これからは、私の贈り物として持ってください。

ブッダが教えられたものすべてに依存していたら、その中に、ブッダが弟子たちに渡したいと本当に望まれたものを見つけました。三蔵と呼ばれるものも、この十項の原則を使わなければ、本当の三蔵を手に入れることはできません。

ダイヤモンドと呼ぶものを考えてみましょう。三蔵の中にダイヤモンドはあます。それは仏教の要旨である滅苦、すべての苦を断つもので、ダイヤモンドと呼ぶにふさわしいです。おまけに三蔵には、ダイヤモンドを掘り出す道具や、ダイヤモンドを入れる蓋つきの箱や、大小様々な箱や道具、麻袋や包装紙や紐類などもあります。

三蔵のどの部分が何で、どのようで、どれだけで、どの程度か見えますか。見えればふさわしい物を適度に正しく掴むことができます。でなければ、外側の麻袋をしっかりと掴むばかりで、中の小箱にさえ届かない恐れがあります。おまけにダイヤモンドを掘り出す道具がなくては、ダイヤモンドを見つけることはできません。だからこの話に、たくさん興味を持ってください。

次に、三蔵には、どんな価値があるか、どの部分にどれだけ価値があるかをお話します。何も考えない人は、すべて同じだと言います。外側の麻袋や包装紙や紐類、大小様々な小箱や道具まで、全部仏教の要旨だと言います。これは正しくありません。滅苦ができるダイヤモンドであるものだけを、仏教の要旨とするべきです。

しかし仏教の要旨はたくさんあります。聖諦も、アッサジカターも、縁起も、タターター(真如)も、あるいは空も、すべて仏教の要旨と言うことができます。しかしそれは学習の要旨だったり、実践の要旨だったり、成果の要旨だったりします。

では、学習と実践と成果すべての要旨とは何でしょうか。それは、『サッペー ダンマー ナーラン アピニヴェサーヤ』、何ものも、(私、私のものと)執着するべきではない、というブッダの言葉です。これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。それが解説されていろんな模造の形になりました。

ブッダは『誰もすべてのものに執着すべきではないという言葉を聞いた人は、仏教のすべてを聞いた人であり、執着しないために実践する人は、仏教のすべての実践をする人であり、執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教のすべての実践の結果を受け取る人である』と言っています。

だからこの項目は、学習、実践、成果のどの面からも仏教の要旨です。どうぞこの、仏教のすべてを集約したダイヤモンドである言葉を、しっかりと受け取ってください。八万四千あると言われるのは、後世の仮定です。

極言すれば、ダイヤモンドは一粒しかありません。これがいろんな話になって、ダイヤモンドの状態、価値の話、そしてダイヤモンドの何から何まで、何十何百というダイヤの掘り出し方の話まで話されています。

 

つぎに後世のアーチャンの話をしましょう。それがいつの時代かは後で話すとして、そのアーチャンは三蔵のダイヤモンドと、それを入れる箱を掴み、それからずっと後、外箱と包装紙も詰め込みました。

三蔵は、まだピダカでない初期から経過してきました。最初のサンガーヤナ(結集)の時には、まだ三蔵はありません。まだ文字で記録されていないのでピダカと呼ぶことはできません。だからまだありません。

その上、後世の人を理解させるために解説したアッタカターダンマパダ(発句経)の言葉が生まれました。善意による虚偽と呼べる状態ですが、そうは呼びません。善意、あるいは純粋な気持ちでしたからです。

次のような話があります。出家したばかりの僧が、出家したら何をさせるのですか、とブッダに質問すると、ブッダが、「カンタドゥラ」と、「ヴィパッサナードゥラ」の二つだと答え、カンタドゥラとは何ですかと、問い返すと、カンタドゥラとは三つすべてのピダカ、あるいはピダカのいずれか一つを学ぶことだと、ブッダが言われたように書いてあります。まるで三蔵はブッダの在世時からあったみたいです。

これは良く調べずにデッチ上げた話です。ブッダの時代に三蔵はあり得ないからです。また、作る必要もありませんでした。あったのは、教えられたように口から口へ伝承した「ダンマヴィナヤ」だけです。

ブッダが涅槃に入られると、最初にしたのは、サンガーヤナ(結集)と呼ばれるものです。つまりブッダが話された話を全て残すために、弟子たちが集まって、こう聞いた、ああ言われた、と主張する人たちの言葉を尋問審査して、確実で正しいと認められたことを、全員で唱和(サンガーヤナ)しました。

それから正しいと見なされた話を種類別に、長い話を集めたものを一部、中くらいの話を一部、短い話を一部、数の順に編集したものを一部の四部にまとめました。この四部が重要な教えとしています。

そしてもう一つ、予備のような状態の部があります。つまり好きなように増やしたり減らしたりできるように、「その他」としてまとめられています。この第五部が、三蔵のある国によってマチマチで、多かったり少なかったり、同じでないことが分かりました。それで最後の回(サンガーヤナ)で、三蔵のある国々が、互いに欠けている部分を追加して、全部同じにしました。

最初は四部、あるいは四ニカーヤ、あるいは四アーガマしかありませんでした。これはテーラワーダにも、大乗のテーラワーダに関した記述にも痕跡があります。その後、述べたように第五ニカーヤ、あるいはアーガマができました。大乗は今でも、上座部には四アーガマの教えがあると見ています。

三蔵については、後に行われた結集は、三蔵にいろんな物を加えることができる機会になり、大きな三つのピダカ、あるいは後に認められているように八万四千のタンマになりました。ブッダの時代には、三つのピダカはあり得ません。

あり得るのは、しばしば言われている言葉、「すべてのスッタンタ(経)」だけです。タンマに関わる言語学と考古学と歴史に詳しい西洋の学者たちは、Old Sutta とうい言葉を考え出して使っています。古い経、あるいは最初の経、つまり仏教の最初に記録されたものという意味です。

この言葉は「ヴィナヤ(律蔵)」や「アビダンマ(論蔵)」を呼ぶものではありません。特に「アビダンマ」は新しい物と見なします。この時代にはヴィナヤピダカもアビダンマピダカもありません。しかしサマンタパーサーディカ(善見律毘婆沙)の中にあるように、小部にいろんな形であります。

「アビダンマピダカ(論蔵)」という言葉はブッダの言葉にありません。アッタカターの時代になって、初めて出てきます。何百年も後に綴られたにも関わらず、「ブッダが言われた」という言葉で繋ぎ合わされたので、三蔵はブッダの時代からあったと、後世の人に理解させてしまいました。

初めに述べたカーラーマ経の教えでそれを捕えれば、裏返えされ、散り散りに吹っ飛んでしまい、残るのは、何が正しいかという問題が生じた時判断の基準として使う、大涅槃経の四大法教にあるように、「スッタとヴィナヤ」だけです。

まとめると、初めは、長い話、中程度の話、短い話、種類別と、雑多なものに分けられた「ダンマヴィナヤ」しかありませんでした。すべて記憶して口伝えていたので、まだピダカと呼びません。なぜなら何らかの刻むための物質に刻まれていないからです。文字が刻まれた時、ピダカになりました。

 

三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドが欲しいなら、「あらゆるものに執着すべきではない」というブッダの言葉を、学習と実践と成果の、すべての要旨として注目しなければなりません。

なぜなら、これを聞けばすべてを聞いたのと同じ。これが学習。これを実践すればすべてを実践したのと同じ。これが実践。そしてこの結果を受け取れば、仏教のすべての成果を得ることと同じ。これは成果だからです。

どうぞみなさん、私が何度も何度も言っている言葉、つまり『何にも(私、私のと)執着してはいけない』という言葉を思い出して、これを、常に心にある教えにしてください。

その後の教育界は、要旨、あるいは一粒のダイヤモンドを理解させるための解説を増やしました。これらの解説を、私は「ダイヤモンドを掘り出す道具」と呼びます。ダイヤモンドとは「執着しないこと」です。その執着しないことは、知識にも、実践にも、成果、つまり聖向聖果、涅槃にも執着しません。涅槃でも、私の涅槃とか、涅槃した私と捉えません。これがたった一行の仏教の要旨です。

つまり、変化させる縁がある有為のものでも、変化させる縁がない無為のものでも、すべて、サッペー ダンマー 「すべてのもの」という意味で、ナーラン、「すべきでない」という意味で、アビニヴェサーヤ、「入り込んで執着する」という意味です。どうぞこの項目をしっかり心に刻んで記憶してください。ここから立ち上がった途端にすべて忘れて、落として失くさないでください。それでは一粒だけのダイヤモンドを受け取れません。

「自分、あるいは自分のものという執着」という言葉は、煮えたぎれば「俺」「俺の」という意味になります。

 

たった一行の短い言葉が、解説が加えられて八万四千ものタンマになりました。ヴィナヤが引き出されて、アビヴィナヤになりました。ヴィニータヴァットゥ(教導事)などは後のもので、古いヴィナヤに足して大きくなり、その結果ヴィナヤピダカ(律蔵)は二万一千あると言われます。

それからアビダンマが改訂され、ブッダの時代の六百から七百年後にアビダンマピダカ(論蔵)になりました。承認するものとしてブッダが天国の仞利天で説法をする話まで創らなければならず、増えに増えて四万二千にもなりました。それが奇妙なことに、印刷され本の形になると、二万一千項目と言われるスッタンタピダカ(経蔵)より少なくなりました。

しかしすべてはブッダの言葉を包む、箱や袋と言わなければなりません。なぜならアビダンマはすべて、古い経の解説、あるいは一つの経を詳細にしたものだからです。これは証明することができます。見識のある学者がアビダンマを調査すれば、すべての文は、古い経の何かを引用していることが分かります。

たとえば善、不善、悪事という三つの言葉を長々と説明して、本一冊分にもなっているのもあります。しかし、ブッダがウダカ・ラーマプトラに学んだことがある、非想非非想処より優れているものなど何もありません。他にも縁生や縁起を説明してマハーパダーナにしたものなどは、何冊分にもなります。しかしそれらの縁の流れを止めるために実践する道を、示していません。「カターヴァットゥ(論事)」の中には、ひどく寝ぼけたインド人の哲学の話もあります。必要のない哲学の話を加えて、仏教を完璧にしました。

これらすべてを「解説・説明した」と言います。解説して一部分にした結果、ダイヤモンドを包む箱や包装紙の状態があります。

すごく綺麗な箱を包む包装紙に夢中になっていないように、十分注意してください。ダイヤモンドを掘り出す道具を探す努力をし、何としてもたった一粒のダイヤモンドを掘り出してください。

三蔵の一番外側の包装紙を明示させていただけば、たとえば夜叉が月を捕まえる「月食経」、夜叉が太陽を捕まえる「日食経」、鬼の国の話である「阿曩胝(アターナディア)経」などです。どれにもブッダの言葉は入っていません。

すべては、「夜叉が月を捕まえて口の中にくわえしまい、月は泣いてブッダに助けを求め、その声を聞いて夜叉は月を解放する。夜叉は夜叉王のところへ行って、月を解放しなければ頭が八つに砕けてしまうので解放したと話した」と語る、三蔵を唱和するために集まったアーチャンたちの言葉です。日食経も同じで、違うのは月と太陽が入れ替わるだけです。

三蔵にあるので、現代でもある宗派では、太陽や月は神々の一人で、夜叉に捕えられて口にくわえられ、泣いてブッダに助けを求めると信じています。

このようで、核の時代の学生たちに三蔵を渡すことができるでしょうか。これらは度を越している、あるいは過剰なものと言えないでしょうか。これらはただ、その時代にそのように信じていた人々に信仰心を持たせるために増やしただけです。

また中部に「阿曩胝経」というおかしな経があります。鬼の話で、ある鬼の頭がブッダに拝謁して、鬼の国の話をこと細かく話しました。何時間も話すと、「どうかこの話を弟子である比丘や比丘尼に話してやってください。鬼たちは、鬼の国のことを知っている方たちを攻撃しません」とブッダにお願いしました。

鬼を知れば鬼も攻撃しないというのはもっともらしく聞こえます。今では、鬼の話を信じさせているもの、そして人の信じやすさが、元の鬼よりもっと恐ろしい鬼を生じさせているということが分かります。

カーラーマ経の教えに依存しないで、聞いたことをそのまま伝承し、それが鬼の経を読経する習慣儀式になり、僧は首をしならせて声を張り上げ、三蔵にあるという理由で在家の人に聞かせまず。

カ−ラーマ経の第二項、長く伝承してしてきたという理由で信じてはいけない、という項目を考えないので、そこを唱え、ここを唱え、そうやって受け継いでいることを止められません。これはどういう種類の仏教教団員でしょう。まだ鬼に頼り、鬼のお経を唱えることに頼って鬼に管理されている人は、うっかりすると鐘を叩いてお月さまを助けます。

正しいタンマの実践だけが、苦を滅すことができます。だからこの種のお経は排除するべき、あるいは引き千切るべきだと思いませんか。多くの方は、三蔵を核の時代の学生に手渡す前に、三蔵の一部を切り捨てるなど思い上がっていると、一斉に私をお叱りになるでしょう。

しかし考えてみてください。今のままにしていたら、つまりダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具と、小箱や木箱、包装紙や麻袋まで維持して、しかも外側の麻袋だけに夢中になっていたら、何の利益も得られません。内部に到達するために、外側を包んでいるものを壊すべきだとは思いませんか。

後世のアーチャンたちは、人々が太陽や月や夜叉を神さまだと信じているのを見て、そのすべての人々を呼んでブッダを信奉させるために、そのように言いました。それも方便です。信じやすい人々全員にブッダを信奉させる、手っ取り早い方便です。そうすることは、夜叉を追い払って、太陽や月を助けることができるのですから。

月の表面に降り立ち、月の土を足の裏に付けて持ち帰った宇宙飛行士たちがこれを聞いたら、どう思うでしょう。滑稽ではありませんか。

クルンテープ(バンコク)にも、日食や月食の時に、鐘を叩いたり銃を撃ったりする人が今でもいますか。クルンテープに、今でも日食や月食のときに、鐘を叩いたり銃を撃ったりする人がいます。田舎だけではありません。タンマサックモントリー閣下が道徳大臣だった時に、このことについて書いた文章があります。

ある晩、人が喚く声や鉦や太鼓をたたく音、銃声などにびっくりして目が覚め、何事かと尋ねると、クルンテープの人々がお月様を助けるためにやっているとのことでした。タンマサックモントリー閣下は、実施が見合されている小学校教育を義務化する法律を、そろそろ施行する時になったかと独りごちました。

クルンテープがこの有様では、小学校を義務化する理由は十分あるし、その時が来たと思いました。そして人々が教育を受けるようになれば、こんな風に月や太陽を助けることがなくなるよう期待して、この法律の施行が宣言されました。西洋人に対しては、天文学の予知が見事に当たったことを祝っているのだと言い訳しました。

国民が教育を受けていろいろなことを知り、月や太陽に地球の影が重なって月食や日食が起こると、自然や科学を知れば、それまで人々がやってきたような、喧しい月や太陽の救出は行われなくなるはずですが、小学校が義務化されて何年にもなる今でも、鉦や太鼓を叩き、銃や何かを撃って太陽や月を助ける人がまだいます。

「智慧と覚醒と明るさの仏教教団員」ではないと言います。三蔵にある経を根拠に、これからも大事に守っていきます。これは、三蔵の中にあるという理由で語り継がれ、終わることなく伝承されます。

そうです。確かに三蔵の中にあります。しかしそれは、ダイヤモンドをいろんな物で包む形で作った、後世の人の三蔵です。この種の三蔵の中にあれば、三蔵にあるという理由で執着して、末代まで日食や月食の度に鉦や太鼓を叩き続けることができます。

国中の人に謗られようと、私は甘んじて罰を受けます。三蔵はこのようです。つまり何かをするための根拠に使われるもの、仏教の教えでないものはこのようです。

しかし俗人である核の時代の学生と話すなら、あなた方にとっての三蔵は、排除するべき、あるいは切り捨てるべき部分が三割ほどあると言います。つまり夜叉が太陽を捕まえたり、月を捕まえたり、鬼の国の話やその類のもの、僧に対してだけ語られたもの、常見つまり世界は常住不滅であり、人は死んでも魂は不滅というものなどは、仏教の考えではないので切り捨てると、残りは七割になります。

核の時代の先生、西洋人、科学者、本当の考古学者で、三蔵を学んで精通していれば、その人は何が何かを自分で知ることができます。この種の先生方は、三蔵の全部が、仏教の初めからあったとは信じていません。どれが古い部分で、どれが新しい部分か知っているので、カーラーマ経での判断と一致する、オールドスッタと呼ばれる古い部分、本物の部分だけを、選んで信じることができます。

だから科学者や考古学者、特別なレベルの先生方を基準にするなら、これらの人たちに渡すためには、あと三割ほど切り捨てることができます。特に、すでに説明したアビダンマ(論蔵)です。

前の三割と、もう三割足して六割を切り捨てると、残りは四割になりますが、それでもまだ膨大な量です。つまり聖書より、コーランより、他のどの宗教の教典より何倍もの多いです。六割捨てて残り四割になれば、そうすれば選び易くなります。ダイヤモンドを掘り出す道具を見つけて、三蔵の核心、つまり、たった一粒のダイヤモンド、「何にも執着するべきではない」という教えと、その実践と、実践の結果を発見します。

罵るなら罵ってもいいです。三蔵の大部分を侮辱する異教徒と罵られても構いません。しかし良く見てください。三蔵を侮辱するわけではありません。みなさんに三蔵の核心に到達していただきたいだけです。三蔵を侮辱していません。ただ、三蔵全体には、外側の袋も、箱も、ダイヤモンドを掘り出す道具も一緒にあるということを、知らせだけです。

迷信めいたことをするために、外側の包むものばかりに夢中になっていないでください。どうぞ外皮を突き抜けて順に中へ、ダイヤモンドを掘り出す道具に、つまりどう実践すればダイヤモンドを得られるか、つまり解脱して執着しないことに、進んでいってください。

実践すれば、それはダイヤモンドを掘ることです。それを、仏教教団員として問題がなくなったと言います。しかしまだ鐘や太鼓を叩き、爆竹を焚いて夜叉を追い払い、鬼の経を唱えているなら、三蔵に根拠があるのですから、勝手におやりください。

カーラーマ経の十項目で三蔵のこの部分を捕えれば、この部分は全部砕け散ってしまうと信じます。跡形もありません。これは、ブッダ入滅のずっと後のサンガーヤナ(結集)で加えられたものだからです。

初めての結集の時にはまだ三蔵はありませんでしたが、今では、初めての結集の時からあったと言います。後世の人の言うことに惑わされるからです。三蔵が現在のような形になった時、結集の説法で、初めての結集時から三蔵があったと理解させるように話したのは、事実と一致しません。

カーラーマ経の教えに依存すれば、「口で唱えて記憶する形のダンマヴィナヤがあっただけで、文字で記録されたピダカ(籠)はなかった」と言わなければなりません。あったのは長編、中編、短編、種類別、そしてその他諸々だけです。

まだ三蔵という言葉はありません。ブッダが涅槃に入る時、「ダンマヴィナヤに関して問題が生じた時には、スッタを探索して見て、ヴィナヤを調べて見なさい」と言っています。ブッダは二つの言葉しか言っていません。つまり「ダンマヴィナヤで探索し、調べて見なさい」です。三蔵、あるいはアビダンマも探索し調べて見なさい、という言葉はありません。

これは、ブッダ在世時、あるいは初めての結集時には、まだダンマとヴィナヤと呼ぶものしかなかったことを表しています。後に文字で書かれた時、ピダカ、あるいは教典と呼べるようになりました。初期にはまだ文字で書かれることはなく、人間の肉と体と心を、ダンマヴィナヤを書き止める紙にして、みんなで記憶するだけでした。

これまでお話した限りは、私はみなさんへの贈り物として、三蔵の中のダイヤモンドを、掘り出す道具と一緒に差し上げたと言います。しかし箱や、箱を包む包装紙を差し上げるつもりはありません。それが欲しい方はそうしてください。鐘や太鼓を叩いて太陽や月を救け出し、これからも鬼のお経を唱え続けることができます。それも三蔵に、八万四千項目もある後期の三蔵に根拠があるのですから。

要旨である本元は、「タンマ、あるいは誰も、執着するべきではない」という、ダイヤモンドのような短い文章です。

 

つぎに実践方法についてお話したいと思います。十項目の禁止事項で述べたことは、それらのものにまったく触れてはいけないと禁じている、という意味ではありません。話しに来たものは聞いて、見せに来たものは見て、噂になっていることは聞いて、それでもすぐには信じません。つまり実践するものとすぐには捉えません。

滅苦ができるかどうか良く熟慮検討して、苦が減りそうな糸口が見えたら実践してみて、滅苦ができたら、それから信じ、あるいは信奉します。三蔵も引用しても構いません。しかし三蔵の要旨と一致する、あるいは本当に滅苦ができる部分にしてください。外側の箱や、箱を包む紙にしないでください。

西洋人の卓絶した Logic あるいは論理を使ってもいいです。、時間が十分あるなら、三蔵全体の中にあるダイヤモンドを見つけるために、三蔵を掴んでみます。哲学、あるいは philosophy も同じです。好きなら、あるいはその手法を崇拝するなら、それで仏教の教えを掴んで見てもいいです。

しかし仏教は philosophy ではなく、科学であることを知ってください。科学のような教えと手法があり、科学的検証に堪える宗教です。哲学的手法で仏教の要旨を発見できますが、発見してもすぐには信じないで、実践をして見なければなりません。

つぎに自分の考えや見解については、どう苦が滅すかを、ヤターブータサンマッパンヤー(如実正慧)で経過させなければなりません。信頼できそうな人の言葉を聞いたら、聞いてもいいです。自分の先生の言葉も、聞いてもいいですが、すぐには信じません。後で熟考して、あるいはヤターブータサンマッパパンヤー(如実正慧)が生じるまで熟考、あるいは実践してみます。サーリープッタはこの教えを遵守し、勇敢にもブッダの面前で「このように教えを遵守しています」と言いました。

このような発言は強烈で鋭いので、カーラーマ経の教えを順守していない一般の人に話せば、きっと謗られるに違いありません。さて、私は何でも受け入れます。何百万の人が謗るなら、どうぞご勝手に。非常に散らかっている包装用品の中から、一粒だけのダイヤモンドを見つけられるようにするために、喜んでこう言います。

夜叉が月に噛みつくと信じるように、タンマを信じたらいいです。夜叉が月に噛みつくのを見ると、神様が夜叉に噛みつかれたと信じるので、鳥肌が立つと聞いたことがあります。信じるから鳥肌になります。しかしタンマは、なぜ鳥肌が立つほど信じないのでしょう。それは知らないから、まだ理解していないからです。

だから三蔵の中に本当のダイヤモンドがあると信じてください。掘り出す道具も、研磨する道具も、他の関連するものすべてが揃っています。おまけに入れる小箱や中箱や大箱、そして外側を幾重にも包む包装紙もあります。これらの包装用品は、教育のない人々の好みに合わせて信仰に誘う宣伝の状態があります。

日食や月食の話、そして鬼のお経などを、国中の人が信じています。教育と発展の中心と見なされているクルンテープ(バンコク)でも、鉦や太鼓を叩き爆竹を鳴らし、喧しく鬼の経を唱えています。これで、どれほど仏教教団員の意味があるでしょうか。良く考えて見なければならないことです。

だからみなさん、カーラーマ経の十項目に慣れて、慣れて、慣れてください。そして有益に使ってください。そうすれば、私はみなさんに素晴らしい贈り物を差し上げたと言えます。

つまり帰依するタンマを信奉することの自由です。それが、何としても三蔵の本質であるダイヤモンドを見つけること、包装しているもの、つまり、道徳面の職業を掴ませる利益のために後からどんどん増やした、風俗習慣や伝統儀式などから脱すことです。

まだパラマッタム(第一義諦)、つまり無常、苦、無我を学んで知らない人には、外側のものを掴ませ、だんだんふさわしいものにします。子供や教育のない人は、大きくなったら、あるいは教育を受けたら移行して、三蔵の本質に近づくことを期待して、取りあえず掴んでおきます。そうすれば、三蔵の核心を見つけるまで、自分で移動していきます。しかし今観察すると、大きくなっても、教育があっても、まだ移動していないのが見えます。これはどうしたら良いでしょう。

非常に大きななダイヤモンドを掘り出す道具、つまりカーラーマ経の十項目の使い方を知ることは、いつでも私たちに関係があります。カーラーマ経を適用すべきことは身の周りに溢れていますが、使い方を知りません。

だから言い伝えて来たとおりに信じ、して来たとおりに実践し、噂や評判を信じ、そして三蔵の中の、自分の考えに合う部分を、夢中になって引用します。賢い人は理論や哲学や philosophy を使い、頑固な思想家は自分の見解だけを基準にし、自分の見解と一致すれば正しいとします。それが論争や紛争の原因です。

ダイヤモンドを掘り出すことができれば、ブッダと、ブッダの教えと、ブッダ式の滅苦の実践方法に出合います。でなければ、『私の衣の角を掴んでも、タンマが見えない人に私は見えない』とブッダが言われているように、三蔵の皮しか見つけることはできません。三蔵の皮にしか到達できません。ブッダを人物として、あるいは象徴、代表と捉えている人と同種類です。仏教教団員として非常に哀れです。

ブッダはご存命の時、まだ元気に旅ができる丈夫な体を、如来ではないと否定されたのに、私たちは現在でもタンマが見えず、タンマに到達できません。

智慧のある人がこれらの人々を助けたいと願って、取りあえず仏教の外皮を掴ませるために、仏舎利や仏像や仏足石などを信仰の対象として作りました。それから順に、中へ入って行くためです。みなさん、「私は何十年もこの種の仏教徒として生きてきて、そろそろ棺に入る年だ。中間あるいは中へ移動した方が良い」と考えなくてはいけません。現代の世界は核心レベルの仏教を、問題解決の道具として求めています。

今、私たちに関わる問題は、聞いたように伝え、しているようにし、噂を信じ、信じるだけの信仰心があるので、この話を理解しているものにするために話さなければなりません。カーラーマ経の十項目で実践すれば、三宝、つまり本当のブッダ、タンマ、僧に到達します。外皮だけに夢中になっていません。十項目の原則を有益に使うよう熟慮してください。そうすれば仏教のたった一粒のダイヤモンドはどこへも行きません。

さて、外の広い世界、科学の世界の話をしましょう。カーラーマ経の十項目を使えば、仏教を、核の時代にふさわしい、際立った物にすることができる、と言わせていただきます。

このレベルまで科学が発展した核の時代には、幾つかの宗教は、名を挙げる必要はありませんが、弱体化し、衰退し、あるいは消滅に近いものもあります。それは日に日に、核の時代にふさわしくなくなっているからです。仏教は核の時代にふさわしく、そして対峙できる宗教です。

特別の道具、つまりカーラーマ経の十項目に依存して仏教の外皮をすべて剥ぎ取れば、外皮である行動振る舞いはないので、核の時代にふさわしい仏教にすることができます。だから私たちはカーラーマ経について話し、学び、実践し、核の時代にふさわしい純潔清浄な状態の仏教を支え、護持しなければなりません。

仏教の護持者だと表明していても、闇雲にしているので、護っているのは外皮だけの人たちがいます。中身を護るには、カーラーマ経の教えを使うことを知れば、確実に仏教の本当の中身、あるいはダイヤモンド、あるいは本当のブッダを護ることができます。

もう一度外部から見ると、カーラーマ経は様々な迷信を洗い落とし、正しさを守ることができる道具です。ヘロインのように強い中毒になっている迷信は洗い落としにくいので、同じように効き目の強い薬、つまりカーラーマ経の教えでなければ落ちません。魂のヘロイン、宗教のヘロインである迷信は、カーラーマ経で駆除できます。カーラーマ経の教えに依存して洗い落とせない迷信もありません。

私たちは、未来永劫存在する本当のブッダを、現在の教祖としています。人物であった教祖も、仏舎利も、仏足石も、教祖としての仏像も必要ありません。しかしそれらを貫通して本当のブッダ、つまり「苦を滅すことができるタンマ」に到達し、それをブッダとします。このようにできれば、「本当のブッダがまだいるようにした」と信じます。

「ブッダは涅槃された」という人の言葉を、愚かに口真似しないでください。それは、ブッダを知らない人の言葉です。正しくありません。本当のブッダは涅槃に入っていません。そしていつでも私たちと一緒にいます。

涅槃に入ったのは煩悩、あるいは身体です。涅槃である蘊、本物のブッダは、知性で苦を滅すことができるタンマ、つまり何にも執着しないことです。ダイヤモンドは今もあり、永遠に、限りなくあります。

仏教教団員は、「知る人。明るい人」、つまり滅苦ができるタンマがある教団員でいてください。そしてプラタムの形の静かさ、明るさにしてください。以上の理由で、みなさんに理解していただくためにカーラーマ経のお話をしました。

しかし同時に一部の人たちは、庶民の信仰の土台をなくす、あるいは三蔵への執着をなくすと言って非難します。書かれているとおり一字一句にこだわるべきだと言う人もいます。

一字一句に執着しないでください、と言わせていただきます。自分にふさわしいタンマのレベル、あるいは系統から落ちます。公正にするなら、普通の学生には、三蔵の三割ほど切り捨てれば最適だと言います。考古学と科学両方に最高の教育がある、核の時代の最高レベルの先生方、三蔵に精通している人なら、私が何も言わなくても、核の時代である現在、どれくらい切り捨てるべきか、自分の考えを言いますが、聞かれれば、あと三割、合計六割を切り捨て、残り四割にし、ダイヤモンドを掘り出し易くするべきだと言います。

どうかみなさん、記憶して証人になってください。私は、一般の知識人や学生に対しては、三割は切り捨てるべきだと言います。考古学や科学、三蔵に精通している学生になら、もう三割切り捨てるべきだと言います。しかしお爺さんやお婆さん、それに誰でも、月を救出するために志願して鉦や太鼓を叩いている人には、切り捨てなくてもいいと言います。

しかし現代の学生には、チャンディマ経(お月様に関した経)、スリヤ経(お日様に関した経)、アーダーナティヤ経(鬼に関した経)、それに常見の状態がある部分を切り捨て、直接滅苦に関するものだけを渡します。本当の考古学者は、三蔵と呼ばれるものは、何らかの物に文字で刻まれた時に生まれ、それはブッダ入滅後五百年から千年の間のことと知っています。

それは、インドの中部、または南部で起きた論争で用いた哲学のような話が、解説であるアビダンマ(論蔵)のカターヴァット(論事)に収められていることで分かります。この真実を見た学生たちは、この種の新しいものを区別することができます。

一人例に挙げれば、リズ・デービス教授は、三蔵のすべてを古いスッタ、あるいは Old Sutta と捉えず、アビダンマと他のある部分を除外した、スッタンタピダカ(法蔵)の幾つかのニカーヤを古い経、Old  Sutta と言っています。

いいでしょう。私は犠牲は覚悟ということです。賭けとは言いませんが、そうされるに違いありません。つまり、国中の人から誹謗中傷されます。三蔵を学生に手渡すなら、三割を切り捨て、現代や未来の考古学者に渡すなら、あと三割を切り捨て、お爺さんお婆さんを含めた一般庶民、夜叉に襲われたお月様を助けるために、鉦や太鼓を叩きなさいと子供たちに教えている人には、切り捨てる必要はないと敢えて言うのは。

残り四割は科学的手法で苦を滅す話なので、それ以上捨てることはできません。これが一つだけのダイヤモンドのレベルであり、ダイヤモンドの構成要素のレベルであり、現代の科学的検証にも堪え得る、永遠のダイヤモンドを掘り出す道具であるレベルの仏教の教えです。

これが今年の贈り物です。教えを信奉する自由です。ダイヤモンドを探すため、あるいはダイヤモンドを選び出して自分の人生に役立てるために、仏教の中のダイヤモンドを見つけて身を飾る自由もあり、能力もあります。

仏教教団員は、何十万も何百万もするダイヤモンドを外国から買って、首に飾る必要はありません。重たいだけで、滅苦の役に立ちません。おまけに苦が増えてしまいます。

しかしブッダのダイヤモンド、つまり『何にも自分、自分のものと執着してはいけない』という知識、あるいは忠告をいつも身につけていてください。埃から天人や梵天のレベル、その他何でも。涅槃でも「自分の涅槃」あるいは「涅槃のもの」と執着しないでください。

涅槃は自然の一部、無為である自然のものにしてください。自分にも、自分のものにも、涅槃のものにもなれません。こういうのはブッダの望みと一致します。だから何にも執着しないでください。戒にも執着してはいけません。執着で持戒しないで、智慧で持戒すれば使い物になります。しかし戒取ならバカです。それはすべて戒禁取(誤った持戒)になります。

戒に取があれば、俺は持戒をしているがお前はしていない、と思い上がります。あるいは、戒を強調するあまり意味のない別のものになります。こういうのは戒に関して何も得られず、何もかも取になります。戒も取、サマーディも取、ヴィパッサナーも取、何もかも取で、本当の物が見つかりません。初歩の段階での戒取は、本当の戒がないので、サマーディも智慧もありません。

 

さて、医者に背いて、何分も話し過ぎてしまいました。医者は話してはいけないと止めましたが、みなさんが遠方からお出でになったお気持ちを思って、感謝の気持ちで最後の言葉を述べさせていただきます。

どうぞ今日の贈り物を持って行ってください。今年の「齢を嘲笑う日」の贈り物は、最高である鋭利タンマ、つまりカーラーマ経を道具にして仏教の核心に到達し、仏教の核心であるダイヤモンドを手に入れ、タンマで身を飾り、生きるためのダンマを信奉する自由です。

昔のアーチャンたちは、人々がカーラーマ経に依存して賢くなりすぎるのを恐れました。こういう話をしたいと思います。だからお話したように良い結果になる、つまり仏教を仏教たらしめ、仏教を核の時代の科学の発展と向き合える宗教にする、非常に重要なお経であるにも関わらず、誰もカーラーマ経を教えて来ませんでした。

アインシュタインという偉大な科学者は、この核の時代に生き残るたった一つの宗教は、 can cope the modern needs  、つまり常に科学面で進歩発展している現代人の要求に対峙できる宗教と言っています。科学の時代の世界は頂点になったので、生き残れるたった一つの宗教は、その時代の人の要求に応えられる宗教です。他の宗教は向き合えないので、徐々に人々の支持が少なくなります。

仏教はそのようになれると、私は敢えて言います。しかし他の宗教については言いたくありません。仏教が最後の宗教として生き残るには、みなさん全員がそうすることです。

みなさんがまだ鉦や缶や太鼓を叩き、爆竹を鳴らし、銃を撃って夜叉を追い払い、あるいは鬼から身を守るためにお経を唱えるのが好きなら、みんなで核の時代に世界で傑出した宗教にできる希望はありません。

みなさん、よく聞いてください。最高に素晴らしい道具、つまりカーラーマ経を使って、外皮である迷信を追放し、仏教の本当の核心に到達し、そのダイヤモンドで身を飾り、自分で自分が拝めるくらい、純潔で完璧な仏教教団員になってください。

自分自身を拝めることは、今、ここにある本当の極楽です。その他各種の極楽は、この極楽次第です。この極楽でしばらく休憩したら、その後は止めます。何も拝む必要はありません。執着である行動から解放され、何一つ執着しない命があります。

さて、午後話せる元気があったらまた来て話すことにして、医者に許可された時間を超過したので、朝のお話はこれで終わりにさせていただきます。死んでしまえば良いが、死ななかったら午後またお話します。夜の部の保証はできません。


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