在家と出家共通のタンマ Ⅱ

 

 

 

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 四時三十五分になりました。今日は前回に引き続いて、在家と出家に共通のタンマについて述べます。

まだ終わっていないからです。前回は、直接実践である在家と出家の共通のタンマについて話し、今日は道具であるタンマ、あるいは道具として使うことができるタンマについてお話します。

 

 在家のダンマ、四如意足などの道具であるタンマは、道具であると明らかに見える状態があるタンマです。一方道具として使うことができる状態があるタンマは、普通は道具として使わないけれど、道具として使うこともできます。そしてもう一つ、特に関心を持たなければならないのは、出家が道具として使い、あるいは常に使って実践しているので、出家のタンマと仮定されているタンマでも、在家も道具として使うことができるタンマです。

 

 そしてこの種のタンマが、反論し合う問題、あるいは受け入れられない問題になります。しかしそれは人の考えであり、往々にして自分の考えだけの人です。知性のある人なら、「どう使えるか」、あるいは彼らにあるいろんな考えはまだ狭すぎ、まだ正しくないので一致しないと、自分で広く見ることができます。今日、これを熟慮して見ます。

 

 広く言えば、煩悩あるいは苦は、在家、出家と限定しない原則を忘れてはなりません。たとえば生老病死は、在家あるいは出家でなければならないとどちらかを選ばず、一般的な意味の「人」のものです。これを、「苦は在家にも出家にもなれず、それは苦である」と言います。共通の苦、つまり生老病死から生じるいろんな問題で、そして望んだようにならないこと、あるいは望まないものに遭遇すること、あるいは欲しいものと離れることから生じるいろんな苦、悲しみなど、それだけ、その時だけ、その人だけの問題です。

 

 これらを考えて見てください。それは出家も在家も同じです。自然の大きな原則がこのようなら、ここで当然煩悩を駆除して苦を消滅させる方法は、大部分は在家も出家も同じ、ほとん、あるいはほとんど百パーセント同じ原則があります。

 

 ここでみなさんに、広い、あるいは深い、あるいは賢い、あるいは人が話しているより真実である状態で見ていただきたいと思います。つまり仮定で話し、あるいは執着して在家と出家を分け、このように別の世界にしてしまうように見ないでください。このような状態で見れば、問題が多く、本当の苦を生じさせ、そして最後には、問題を解決できない愚かさが生じます。あるいは、

 

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 だから本当は、人生は旅という項目では在家も出家も同じです。どこが違うかは、違うのは、一人は遅く歩き、一人は早く歩く所が違います。ここで誰が遅く歩いても、誰が早く歩いてもどちらも旅をしている人で、旅の友達です。「遅く歩く」「早く歩く」という言葉は、仮定で話す言葉で、「在家は遅く歩き、出家は早く歩く」と言うようになります。一般にこのような原則を持すこともできますが、人によって例外もあります。ウサギとカメの話は、ウサギは僧のように早く走りますが、油断が生じてカメに負けるように、在家はノロノロ歩きますが休まず一定なので、その結果僧より早くなります。

 

 だから私は、「現代のほとんどの出家あるいは僧は、心の面、心の境地の面で在家より後ろにいる」と、明らかに見えます。在家の中には、身勝手であるものが少なく、苦が少なく、高い心があり、僧の誰かより、あるいは大部分より高い人もいます。だから人生が旅なら、僧は早く歩く人、在家は遅く歩く人と、一般にこのように認めることもできますが、「それは旅である」という、最高に重要な面を見てください。

 

 みなさんが在家の側になったら、つまり還俗すれば在家になり、自分を在家の仲間とするので、「人生は常に旅」と認めてください。妻を持つなら旅の道連れとして持ち、ブレーキではありません。子を持つなら自分の後を引き継ぐ人として、あるいは旅の道連れである支援者として持ってください。ブレーキではありません。財産を持つなら旅を支援するものとして所有し、名誉名声、何を持つにも同じ話に、つまり旅を支援するものにしてください。だから友達が何人いても旅を支援する善友にし、ブレーキ、あるいはそのような障害物にしてはいけません。

 

 ブレーキと言うと、あまりぴったりしませんが、遅れを生じさせるおもりです。ブレーキは、時には善い意味のこともあり、つまり、危険を防ぐ自動車の breke のように、危険なほど速い時に止めます。しかし時にはそれは障害を意味し、ブレーキになり、賛成する物になりません。だから人生を旅である状態にして、そしてすべてを旅を支援する物にしてください。そうすれば在家は、妻や子や孫やひ孫がいる在家の家族全員が旅をします。

 

 今人の父親、あるいは家長は愚かで、目を瞑っていて、何のために生まれたかを知らず、あれこれ掴んで、特に皮膚の味に耽溺します。こういう言葉を使います。これは最高に広く、何でも良く、何も知らず、人生は旅と知らず、命があり何があると知らず、目・耳・鼻・舌・体・心の味だけ、口の話、腹の話、お金の話、性の話、名誉の話だけに夢中になっているので、知って、そして飽きるまで、その愚かな人が「何が何か」を知り、そしてそれらに飽き、そして脱して、それらの障害をなくしたくなり、人生は旅と見え始めるまで、これらの物を旅の道具に使いません。

 

 まだ家族を持っていない梵行者(学生期)の類の在家なら、「人生は、本当は旅だ」と知れば、正しく準備でき、人生を旅にして常に前進できるので、非常に幸運です。世俗的な進歩も旅であり、世俗の物に迷うより善いです。そこで独身生活を捨てて、家庭の生活に入ると、それが標準に合うように処理することを知り、行動することを知ります。妻を持つのは、旅を支援する二人旅にするためで、遅くなるか早くなるかは、その人の愚かさ次第、賢さ次第です。

 

 誘い合って溺れてしまえば遅くなり、このタンマの真実を知れば援け合うものに、つまり相談相手、あるいは支援者になります。子が生まれたら人生は旅と知るよう薫陶し、あるいは、大きくなったら、父よりも母よりも善く旅ができるよう準備します。これが本当の人間で、その人生は見事な旅です。本当の人間だからです。

 

 長々とお話したのは、出家と在家は、中身は何も違いはないと指摘するためです。早いか遅いかの違いがあるだけで、常に旅である生活があり、早さは重要ではなく、重要なのは、休まず旅をしなければならないことです。そして時には交互でも良く、今遅く歩き、今早く歩き、今遅く歩き、今早く歩き、在家にも出家にもなれます。特に現代は、在家が出家より善く歩くこと、たくさん歩くことができます。

 

 一般に、教えと規則と目的で正しく実践すれば、保証されているように出家の方が有利なのは当たり前です。配偶者がいないから、つまり確実に独身であることが早くする理由の一つで、そして何人も扶養しなければならない仕事の負担がないこと、これも早く歩けます。

 

 しかし弟子が多い出家で、僧や沙弥や養う子供が多く、犬猫まで飼っていれば、それはどうか、自分で考えて見てください。正しい方法でしなければ、これらは障害物、ブレーキ、あるいは何かになります。賢いか、あるいは正しい方法、あるいは目的まで心で歩いて行く人、あるいは安全なレベルにいる人以外は。

 

 それは他人を援けることと同じです。そして家族に近い話で、妻と夫から生まれた家族でないだけで、タンマによる家族です。戒師は弟子が沢山いて、それは家族と同じで、助け合わなければならないタンマによる子、プラタムによる子です。これは、ブッダに弟子が多かったように、これは誰でも認めるところです。

 

 戒師である一人のアーチャンは、面倒を見て責任をとらなければならない人がいて、例えばみなさんが出家して来ると、丸五年になるまで世話をし、監督する戒師がいなければならず、そうすれば離れて行くことができます。このようです。しかしそれは足払いを掛け合うのではなく、家族全員で一緒に旅をすることができる点が素晴らしく、何でも同じことをし、全員同じ方向へ行きます。これが、在家と出家は精神も心も同じという項目で、人生は常に旅であり、早いか遅いかは成り行き任せです。

 

 ここで言い訳のように見たいと思います。あるいは少し利己的に見ても良いです。手漕ぎボートやカヌーのように小さくて軽い舟は一人乗りで、軽く早いので早く行くことができますが、大きな船、汽船は荷物が多く、あるいは筏も荷物が多いので遅いですがたくさん運べます。こういうのも見事です。それです。在家の誰でも、たくさんの人を抱えて人生を前進させることができれば、それは達人です。

 

 筏のようなのはたくさん荷物を積むことができ、ぐずぐずと遅いですが何人も乗れ、荷物もたくさん持って行けます。ここで、流線型で早く走る一人漕ぎの小さな舟は、利益や他人を援ける面で大きな差があります。

 

 さてここらで一度、「在家も出家も、人生は旅なので、同じでなければならず、あるいは道具として借りて使うことができる」とまとめます。だから出家が使う道具であるタンマを在家が借りて使うこともできます。例えば四如意足は、パーリ、ブッダバーシタ(ブッダの言葉)では在家について話してなく、最高に早く聖向・聖果・涅槃に到達するために実践する比丘のために話しています。

 

 しかし今、在家もそれについて話し、それを使います。それは共通の道具であり、使えるので、米作りにも使うことができ、学校の勉強に使うこともできます。これです。直接比丘のための道具を、在家のために使うこともできます。

 

 ここでブッダが規定された直接在家のための道具、たとえば「サッチャ(本気)、ダマ(自制)、カンティ(堪忍)、チャーガ(棄てる)」などは直接在家のために規定しましたが、出家が涅槃に行くにも使うこともできます。涅槃へ行く実践にサッチャがあり、常にその軌道上にいるよう自分を支配するダマがあり、煩悩の抑圧で困難が生じたら忍耐して、同時にチャーガで休まず煩悩を排出します。涅槃へ行く道具です。サッチャ、ダマ、カンティ、チャーガは、聖向・聖果・涅槃のために実践する道具で、使えます。

 

 このタンマ集は、ブッダが直接在家に与えたので「在家のタンマ」と呼びますが、僧が使うこともできます。四如意足のように直接僧のために規定したものも、田を耕すにも、お金を稼ぐにも、勉強にも、在家が使うことができます。このように道具を交換できるのは、僧も在家も、人生は旅だからです。

 

 次に最高レベルの道具を、どの場合にも使うことができます。ここでの最高の道具とは、七覚支と言い

たいと思います。聞き慣れない言葉なら、憶えておいてください。七覚支を耳慣れない言葉にしないでください。みなさんはアーナーパーナサティ経を唱える時、「アーナーパーナサティ十六段階は四念処を完璧にするもの」と言い、「四念処が完璧になれば、七覚支を完璧にし、七覚支が完璧なら、明と解脱が生じる」と言っています。

 

 だから七覚支(ボッチャンガ)は、実践で最高のものです。ボッチャナ+アンガで、ボッチャンガ。ここでのボッチャナは菩提がパーリ語の接続規則で変化し、ボーディがボッチャナに変化し、ボッチャナに形を変え、そしてアンガで、ボッチャンガ。ボーディの部分という意味です。

 

 ボッチャンガという悟りの部分は七つあり、第一項はサティ、思い出せること。第二項は択法、タンマを広く調べて、タンマを選ぶことを択法と言います。第三項は精進=勇敢に精進努力すること。第四項は喜悦=満足。第五項は軽安=制止、あるいは軌道に乗ること。第六項はサマーディ=安定。第七項は捨。これが悟りの部分で、智見である何かを明らかに知るという意味です。まだ悪化する類も、再び悪化しない類も、この七覚支を欲しがり、あるいは七つの部分の実践をします。

 

 聖向・聖果・涅槃への到達の話なら、一般にサティが高いレベルのタンマを選び、択法も高いレベルのタンマを選び、精進は高いレベルの努力をし、全部同じようになるので、高い方の説明があり、借りて来て、在家の低いレベルのタンマに使えば、低いレベルのタンマの話だけで、そしてその七項を使います。例えば稲作、野菜作り、庶民、商人でも、彼らの目的で彼らの職務の実践をする時に、この七項目を使うことができます。そして使い方を知って良く使えれば早く成功します。あるいは苦が少なく、あるいは苦はありません。

 

 仕事は苦が多い、非常に大変だ、あるいは在家たちは重荷を背負っていると捉えられているのは、タンマがなく、タンマを使うことを知らないからです。そのタンマは簡単にし、同時に苦でなくする義務があります。みなさん、生活に必要なタンマは、人生の仕事を援けて簡単にし、平坦にし、順調にし、そして同時に苦が生じるのを防止すると、良く憶えておいてください。

 

 これは、みなさんが、「どうすれば苦を防止でき、そして生じた苦を消滅できるか」と質問した問題と一致します。在家が日常の仕事をする時に七覚支のようなタンマがあれば、仕事は簡単に、早く、そして苦を生じさせないで終わらせることができます。

 

 次に苦が生じても、このタンマが全部消滅させてくれます。悟るための、直接涅槃のための最高のタンマを在家の生活に使うには、意味だけ、原則だけにし、あるいは意味を話に合わせて正しく使います。例えば高い物、高価な物を切る道具で値段の安い物も切れるのは、意味が切る状態で使われるからです。七覚支はどのように使えるか、しっかり憶えてください。

 

 サティ。これは、何が幾つあるか、何十あるか、周辺全部を見て、残らず思い出します。サティはすべてを思い出します。

 

択法は、ピッタリのものを選んで、それ以外は掴みません。択法とは自分の話、あるいは自分の仕事、特にそのもの、その話にピッタリのものだけを選びます。

 

 精進は、そこに、していることに、能力の限りに奮闘努力します。

 

 喜悦は、していることに常に満足させると、それが精進を涵養します。精進は重くなると疲れ、疲れると挫け、あるいは傾くので、涵養する物が必要です。精進の力を弱めない、あるいは傾けないのは喜悦、その時していることの満足です。例えば農夫が陽射しや風に曝されて土塊を耕していれば、それが精進で、精進は喜悦に涵養されて一つの塊を潰し、別の塊も潰して行きます。

 

 このように喜悦に涵養されるので、休まず精進できます。喜悦で涵養されなければ怠惰が生じ、「まだまだたくさんある。夢中になって潰しても、いつ終わるのだろう」と思い、それで仕事を投げてしまいます。だから満足、つまり喜悦は精進を涵養します。

 

 次は軽安、つまり順調、いろんな問題が静まることで、彼らは「心の静まり」と訳しますが、私は「心に関わる全てのものが順調であること」と訳します。ここでは仕事に関して、問題に関して、義務に関してで、現代の言葉で簡単に言えば「軌道に乗った仕事」で、軽安と言います。細々した問題に関わる混乱が静まり、全部静かになります。

 

 ここでサマーディになり、あるだけすべての力を総動員し、あるだけの心の力をそれだけに注ぎます。つまり専心です。

 

 最後の項目は捨で、意に関しないこと、つまりそのままに放置し、待つだけ、何もしないで待つだけです。すべてが軌道に乗り、力もすべて注ぎ、到達するまで何もしないで待ちます。捨は、ただ手綱と鞭を持っているだけで自然に経過する状態に譬えられます。昔の車に例えれば馬車をきちんと準備し、馬も良く知っていて、道や何やらも良い状態なら、御者は手綱を握っているだけで馬は道を走って行きます。

 

 これが軌道に乗った順調な人生で、人はただいるだけで、そのまま走らせます。こういういのを、彼らは捨と言います。初めから何もせず意に関しないことと勘違いしないでください。それは、すべてが順調になったら、意に関しないことです。

 

 みなさんが自動車の運転をする時、すべてが順調ならエンジンも良く、車の何でも良く、道も良く、天気や何かも良く、すべてが順調ならハンドルを握っているだけで車は走って行きます。だから捨とは、何もせずにジッとしていることは事実ですが、初めからジッとしている訳ではなく、つまり何もしないのではなく、すべてが順調になり、軌道に乗ったらそのままにし、そして結果が出るまで待つことができます。

 

 木を植えるには土を掘らなければならず、いろんなことをしなければならないので非常に大変ですが、すべてが揃ったら、あとは花や実をつけるまで待ちます。

 

 これをボッチャンガ(七覚支)と言い、涅槃に至る道具として、このような教えがあります。みなさん、短いまとめを聞いてください。

 

 サティが洩らさず思い出し、択法はぴったりしたものだけを選び、精進は力を集めて奮闘努力し、喜悦は精進を涵養するために満足し、間もなく軽安で、軽安は軌道に乗ることで、ここですべてのサマーディを総動員して大きな力、あるいは十分という力にすることもでき、ここで放置し、つまり捨、放置すること、つまり待てます。これが涅槃に到達するテクニックで、それはこのようで、七覚支と言います。

 

 みなさんがアーナーパーナサティの十六段階の実践をすれば、それは完璧な四念処であり、体、受、心、タンマが揃いっていて、そしてそれを実践でき、そして全部揃っていれば、見てください。その中に、この七覚支を発見します。見なければ見えず、見れば見えます。知りたくなければ、見なくても構いません。それはあります。見なくても、この七つがあると知らなくても、聖向聖果涅槃に到達できます。

 

 スッカヴィパッサカ(乾くまでヴィパッサナーをした人)の阿羅漢は、煩悩を無くすこと、滅苦だけを望み、パリヤッティ(三蔵の学習)、あるいはアビダンマ(論蔵)、あるいは何かを夢中になって勉強しません。しかし今私は、心は今どのようか、山ほどたくさん指摘して見せるパリヤッティの側面で話しているので、七覚支の話に出合います。

 

 この七覚支を見ると、涅槃に到達することから畑の耕作や稲作まで、何でも成功させるにはこのようだと分かります。みなさんが学校の勉強をするにも、試して見てください。聖向聖果涅槃のための如意足をすべての仕事の如意足にできるように、涅槃のための七項目を使って、試験勉強をすることもできます。涅槃に行く人である出家の道具であるタンマを借りて使って、このように田畑の仕事でも何でもする庶民の道具にできます。

 

 次も、道具として使えるタンマがあります。彼らは道具としていませんが、私たちは必要があれば道具として使う、あるいは代わりに使う、本来の目的と違う場所で使う道具もあります。使えます。釘を打つ金槌が無ければ、金槌でない物で釘を打っても、釘を打ち込めるのと同じです。しかしそれだけのための正しい道具を使うほど良くはありません。

 

 みなさんは、間もなく在家になるので、いろいろな例を上げます。このように僧でいれば四依、衣、食べ物、住まい、治療薬のパッチャヴァーカナ(省察)を唱え、みなさんが唱える文句は、彼が比丘のために設定したものばかりです。パッチャヴェーカナの四つは、チーヴァラ(衣)をそのように熟慮し、食べ物をそのように熟慮し、そして最高でもあります。例えば「動物でなく、人物でなく、自分、私、彼でもなく、ダートゥ(元素)だけ」と熟慮しますが、これは、涅槃へ行く最も高いレベルです。

 

 このパッチャヴェーカナは、還俗しても、極めて有益に使うことができ、そして必要でもあります。それを良く知るまで見れば、必要と見えます。みなさんが還俗した後、僧が熟慮するように衣服、着る物を熟慮することは、装いに関した美しさに狂わないようにし、少なくとも非常に利益があります。

 

 若い男女は服装にたくさんお金を掛け、ネクタイなど最高に狂っていて、結ぶ必要はなく、西洋を真似る愚かさでネクタイを締めます。この教えを見れば、「おお。これは最高にバカだ。ネクタイを締める必要はない。西洋を真似て、西洋の後を追うバカの話だ」と見えます。パッチャヴェーカナの威力が、家までみなさんに付いて行けば、還俗した時、服装に関したいろんなものを、もっと正しくできます。

 

 食べることは、私たち僧は、砂漠の中で我が子の肉を食べるように食べ、車軸に油を垂らすように食べます。しかしみなさんが家にいる時、あるいは今家に戻ろうとしているみなさんは、砂漠の中で我が子の肉を食べるように食べ、車軸に油を垂らすように食べると、そのように考えないので、必ず以前のように、非常に狂った話になります。食に狂うと、わざわざ車を運転して、昼食を食べに他県まで行きます。

 

 これがとてもオシャレですが、非常に狂った話だと知りません。みなさんが日頃唱えているパッチャヴェッカナ(省察)の言葉で、常に僧のようにパッチャヴェーカナをすれば、そのように食べることはできません。車の車軸に垂らす油のように、車輪の回転を良くするための油のように、ちょうど良いだけ食べます。

 

 住む場所、住まいの中の什器備品についても同じです。病気のための薬も同じで、化粧品はありません。全部をまとめると、みなさんは病気と死に勇敢な人になり、死を恐れず、そして、病気や死のために使うお金がない問題もありません。今みなさんは、愚かさを拡大するよう教えられています。

 

 例えばみなさんが心臓移植をしなければならない病気で、何十万、何百万ものお金を要求されると、みなさんはどこかから工面して来て、そして死を恐れます。ここでこの項目のタンマを知れば、心臓移植を考える必要はなく、死には意味がなく、「時が来た。これまでだ」という状態でそれを知ります。

 

 昔の人は、治療できる範囲外の病気なら、あるいは経済的に自分が治療できる経済力の範囲外でも、その人は、「時が来た」と言い、その時が来たので、自分の人生は十分であり、これだけと決めてあるので苦はなく、微笑んで心を消滅させたように、心臓の弁を交換する、あるいは何かをするお金がなければ、ジタバタしません。今観察すると、困っている人がたくさんいます。このような病気があればクルンテープ(バンコク)へ行かなければならず、そして高額で、散財し尽くして、それで汽車賃もなく、悲しんで気が変になります。

 

 だからパッチャヴェッカナ、アビナハパッチャヴェッカナなどの熟慮は利益があり、私たちに苦が生じないように、あるいは生じた苦に苦しめる威力が無いようにしてくれます。ね、みなさんは苦に対処、あるいは苦が生じないよう防ぐことができます。みなさんは、直接比丘のためのパッチャヴェッカナのようなブッダの知識を、在家でも使うことができるからです。私たちが病気にならなければならないのは当たり前で、死ななければならないのも当たり前で、動物も人物も、自分も私もあの人もありません。

 

 これらをまとめれば、僧と在家が一緒に使うことができる道具で、僧のためにあるものを、在家式に使うこともでき、在家のためにあるものを僧式につかうこともでき、涅槃に行くためにあるものを農業や商売や勉強に使うこともできます。

 

 みなさん。何のために勉強するのか分からないほど、アビダンマ(論蔵)に精通する必要はありませんが、私が今話しているようなアビダンマ(無上のタンマという意味)には精通してください。つまりすべての問題解決ができる最高のタンマ、最高のプラタムであるアビダンマです。話すことに夢中になって、計算して数字を使わなければならないなら、膨れ上がったアビダンマです。

 

 apply として使えれば、本当のアビダンマ、つまり本当に問題解決できる最高のタンマです。だからこの種のアビダンマを、田畑の仕事や商売など、在家の日常生活の話に使うことができます。お願いするのは、それを本当のアビダンマ(無上のダンマ)であることだけです。

 

 みなさんは、 アビ、preffix、 あるいはその障害は、「過ぎる」「極めて大きい」という意味だと知っていますか。アビは、「極めて大きい」でも良く、「過ぎ」でも良く、それを最高の利益に使うことができれば、それは最高のアビダンマで、偉大なアビダンマです。しかし何にも使えなければ、過剰な部分であり、知識であり、哲学であり、過剰な何かです。そこで私は、過剰な部分にしないで、生活に応用できるタンマにして欲しいと願っています。

 

 涅槃へ行くための最高のタンマを、勉強や生計を営むこと、家族を持つことなどのために使います。この七覚支の教えも、みなさん善くなさい。そうすれば日常のどんな問題も解決できます。日常生活の問題が幾つあっても、取り上げて明らかに見て、そしてこの七項目の教えを使って、それぞれの話に合った解決をします。そしてみなさんに家族があると仮定して、そして家族全員で涅槃へ行く目的があれば、それはのろのろでなく、涅槃へ走って行かせます。

 

 私は、在家と出家と共通のタンマについて二回話し、本当のタンマと道具であるタンマについても話しました。道具のタンマは、僧と在家で交換して使うこともでき、例えば八正道のような本当のタンマも、在家も出家も使うことができます。在家も出家もブッダ・プラタム・僧があり、在家も出家も三学があり、在家も出家も、八正道があり、他にも同じものがあります。

 

 今私たちは、在家も出家も道具、つまりサッチャ(真)、ダマ(自制)、カンティ(忍耐)、チャーガ(棄てる)があり、あるいはチャンダ(満足)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(心)、ヴィマンサー(審理)があり、サティ、ダンマヴィチャヤ(択法)、ヴィリヤ(精進)、ピーティ(喜悦)、パッサティ(軽安)、サマーディ(三昧)、ウペッカー(捨)があります。

 

 私は、出家と在家に共通のタンマはこのようにある、と指摘して見せるには十分と言います。煩悩や苦には、在家も出家もないからです。それは自然による自然であり、タンマは自然による自然であり、在家でも出家でもある必要はなありません。話に合った使い方をすれば、家にいて預流、一来、不還になれるので利益があります。家にいて土鍋を焼いていた人のような心があれば、現代の出家より遥かに上で、聖人になれば、出家以上です。分かりますか。つまり本当にタンマがあればただの出家、つまりタンマに到達しない出家より優秀です。

 

 だから僧であるかないか、サマナであるかないかは、タンマに到達したかしないかだけの違いで、家にいる、寺にいると決めません。だからパーリ語では、みなさんもっと笑わせます。長老は、タンマに到達する点にあるので、在家も長老になれ、時にはすっ飛んで、バラモンという言葉を使うこともあります。

 

 阿羅漢は罪が無くなったのでバラモンで、バラモンとは罪を洗い流すこと、罪が終わったことを意味します。だから、罪が無くなれば、罪が少なくなれば、あるいは罪を洗い流していれば、僧でも良く、在家でも良く、バラモンでも良いです。言葉はこのように、私たちの目を眩ませます。

 

 特に在家、出家という言葉は、正しく理解しなければ混乱し、自分にとってブレーキになり、自動車を持っていても、夢中になってブレーキばかり踏んでいればどうにもならないように、最高の愚かさになります。

 

 在家であること、あるいは出家であることを知らず、在家であること、出家であることをすっかり抜いてしまい、苦の自然と、滅苦の自然だけを残すために使う道具を知らないので、今それは自分のブレーキになり、自分が自分にブレーキを踏めば、「輪廻に根を張り、輪廻から出られない」と言います。

 

 

 

 今日はこれで終わります。

 

 

 


 

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