10.在家にサティがあること





1970年4月26日

 二十時三十分になりました。残っている話ができる時間です。今日は「在家にとってサティがあること」について話します。提出された質問の中に、「在家はサティが持てるのか」という問題があったので、今日この機会にお話します。

 在家はどうサティを持てるのかという質問は、まだ完璧で明らかな質問でないので、何にサティがある話なのかという説明をしなければなりません。何にサティがあるのかは、在家に関わるすべてのことにサティがあると答えます。次に在家のすべての話は、「理想」という一つの重要な言葉次第です。

 理想という言葉は、みなさんきっと聞いたことがあり、何度も話したことがあると信じます。しかしそれでも、まだ理想がある人にはなれていないと考えます。つまりいつも理想について話しても、なぜ生まれたのかなど、理想である重要な意義を知らないので、理想を持つことができません。みなさん、なぜ生まれたかを知らずに理想が持てるでしょうか。

 なぜ生まれたかを知らなければ、人として生まれた理想がなく、なぜ生まれたかを知れば、人間の理想はどのようか知ります。誰かが「あなたは理想を知らない。理想がない」と言えばみなさんは怒りますが、みなさんは理想を知らず、知っているのは言葉だけという事実があります。なぜ生まれたかを、まだ知らないからです。理想の話は遊び半分の小さなことではないと考えて見てください。だから理想について少し話すのも善いです。

 共通の意味の理想は、人は理想を持たなければならないとあります。そして理想と呼ぶものは、目的に到達することを繋ぎ止めておく杭であり、目的への到達を常に繋ぎ留めておく杭です。次になぜ理想が無くてはならないかは、理想がなければ漂流するからです。

 常に理想が変わる人がいますが、これは理想がない人で、漂流しています。理想を知って漂流しなくなるには、まだたくさんの時間が必要です。何のために理想を持つかは、繋ぎ止める杭にし、揺れない確かなものにし、気力にし、気力の支えにし、そして常に明かりにするためです。利益はこのようにあります。

 次に「どう理想を持つてるか」を話し、その後「どんな方法で」をお話し、これはサティと呼ぶものになります。だから今日「サティ」というものについて話すのは、自分が望む理想がある人にする道具だからです。そしてその理想を言葉だけ、口先だけでなく、本当にあるものにします。本当にあるものになるのは、サティが十分あるからです。ここでは「人が何かの実践を安定してできないのはサティがないからで、知識がないからではない」と観察して見るようお勧めしたいと思います。

 初歩の智慧、初歩の知識、初歩のレベルの智慧と呼ぶ知識を、私は知識と呼びます。「私たちは、どのように自分の理想を持つか。どのように持つべきか」という理由は、分かるまで欠かさず、有り余るほど聞いているので、この部分はあまり難しくありませんが、それを維持しておくサティがないという点が難しいです。

 みなさんが学習のためだけ、つまり心を維持するタンマとしてサティを知れば、そのサティは維持管理する働きのある徳行です。みなさんがうっかりするのはサティに欠けるからで、知識がないからではありません。頭に溢れるほど知識があってもサティに欠けるので、だからサティについて話さなければなりません。

  在家はどうすればサティが持てるかは、最高に善い在家になるためのサティを、どのように持つかと、ハッキリさせなければなりません。

  サティに欠ければ在家ではいられません。善い在家と言わず、普通の在家でもいられません。

  だからこれから理想について「それはサティによってあるもの」と話さなければなりません。

  それは心を繋いでおく杭で、サティが無ければならない理由は、サティが無ければ、漂流するからです。

  だからサティがある利益は、杭があり、力があり、光があることで、それらがあるのは、十分なサティがあるからです。

 次に在家の理想になりました。何が在家の理想かと言えば、「在家」という言葉より先に「人間」という言葉を思うのを忘れないでください。いずれにしても在家も人間、出家も人間なので、在家について話すには、先ず人間に狙いをつけ、人間について思わなければなりません。

 だから私たちは人間の理想について思い、それから在家の理想について思わなければなりません。人間の理想は、以前に話した内容で理解できます。人間の理想は目的である涅槃以外にないので、人間が生まれて二頭の水牛を繋いだ旅である暮らしがあれば、人間の目的である涅槃に到達します。

 涅槃は人間の理想になる。聞くと喜ばしいですが、在家の理想を聞くと、悲しむべき、飽き飽きする、おぞましいのもあります。在家の意味を、世俗のことだけで忙しい低すぎる意味にしているからです。この項目を良く観察すると、人間の理想について話すと、それはまあ喜ばしく、得ること至ることは誇らしいですが、在家の理想について話すと暗くなり始め、躊躇い始め、時には悲しいと見えています。

 次にどの理想にするかは、在家も人間なら在家の理想を高くし、人間の理想にします。人間という言葉は「高い心」という意味にも、「マヌ神の子孫」という意味にもなります。マヌは高い心がある人なので「高い心のある人」という意味でも良く、「高い心の人の子孫」でも良いです。次に世界より上になるほど高くします。だから在家にそのような理想があれば、きっと人間の理想です。

 「目的地に到達するために努力なさい。沼に落ち水たまりに沈んでいるだけの在家ではいけません」と、何度も私が話しているようなのは、それは物質の話、物質的幸福の話、体の話ばかりです。在家の理想は人間がなり得る最高に善い人間です。この部分は僧も在家もなく、最高の善、あるいは人間がなれる最も高い所へよじ登って行く人間だけ、と捉えなければなりません。このような意味にすれば在家の理想も喜ばしく、恐ろしくなく、あるいはおぞましくありません。

 私たちが今何であっても、この状態の人間の理想がなければなりません。しかし子供が生まれて、この種の理想の感覚を明らかに持つことは難しいです。それでもすべての子供たちが「人間が得るべき、到達すべき最高に善いものに到達する」と強い目標を持つよう託すこともできます。

 私たちが今「それは何か」知らなくても、子供たちもまだ「それが何か」を知らなくても、彼らは何とか理解できます。「人間が得るべき最高に善いもの」という言葉を使うので、まだ何か知らなくても、彼らも善くなりたいので望むことができます。そして成長するにつれて理解します。子供が成長すると、だんだん何が高いかを知り、梵行まで高くなり、若者や娘は必ず知ることが増えます。

 人生は教育であり、失敗は最高に善い教師なので、それ自体が教えます。次に家長や主婦になると、家長や主婦であることの苦から、非常に多くを知ります。家長や主婦を適度に通過した結果、清潔で明るく心が静まった人が「涅槃である涼しさ」と言う終点に行かなければならないと知ることができます。これが順に移動して、そこに目標がある理想の流れです。

 学生であるみなさんは試験に合格する理想、あるいは卒業して使うお金があり、子や妻を持つことに理想があります。これだけではどこまでも子供のレベルで、まだ最後の理想、最高の理想ではありません。しかしそれでも在家は、これはまだ最高の理想ではないと思っておくサティがなければなりません。

 お金を手に入れ、財産をたくさん手に入れ、気に入った配偶者を得、何を得たとしても、少なくともこれはまだ、人間が手に入れるべき、あるいは望むべき最高に善いものの最高ではないと思い出すサティがなければなりません。

 次にみなさんは、サティで思い出すことで、今美味しく楽しく幸福な目前にある物に溺れず、常に高い段階に移動して行く理想を掴むことができます。このように大きな教えでもサティと呼ぶものを欲しがり、サティがぼやければいつでも、理想でないもの、あるいは低劣な理想、指しゃぶりをしている子供の理想に迷います。私は食べる話、性の話、そして名誉の話を、憶えやすいように(タイ語の頭文字で)三Kと言います。

 食べる話・性の話・名誉の話の三つは、非常に多くの人が理想としていると思います。みなさんは同感ですか。同感でないと言うなら、食べる話・性の話・名誉の話に迷っていないか、善く注意してください。同感せず、理想でないなら、なぜそに迷うのでしょうか。食べることは動物の理想でなければなりません。昔の箴言では「動物の心を繋いでおくには、食べ物で繋がなければならない」と言います。

 性の話は心を管理できないどうしようもない人の話で、天人と呼ぶこともできます。天人はどうしようもない人たちで、心を支配できず、性の話、欲情の話だけに夢中になっています。そして人間もそうで、そうなりたいと志願します。それはバカみたいな人の話で、それを理想にすることはできません。しかし人は何より惑溺します。みなさん、自分で見てください。「十分」「満足」と言うことを知らず、お金を求める問題のほとんどは、性の話のためです。

 次は名誉の話で、名誉はそれほどたくさん見る必要はないので、「それは何次第か」を見ると、人がどれだけ持ち上げているか次第です。名誉に意味があるのは、人が称賛し持ち上げるからで、善行をしても人が称賛しなければ名誉はありません。次にほとんどの人は食べる話、性の話にガツガツしているので、食べる話・性の話・名誉がある人を非常に称賛します。

 だから名誉の話は、目を瞑り耳を塞いでいる流行によって決まるものの一つで、それが本当に善いという意味ではありません。その人がいろんな物のために命を犠牲にできるほどの人で、彼は名誉のある人と称賛されても、その人がしたことにどんな利益があるか、良く見てください。それに目を瞑って命を犠牲にする類の名誉は、それだけでなく、狂気の人でもできます。

 ある種の動物は死ぬまで噛み合い、降参しません。それは名誉と同じ種類の優越感のせいです。みなさん。コウロギや闘魚を戦わせると、降参することなく死ぬまで戦います。それは優越感である、身勝手である一つの感情があるからです。しかし人間は声援する人、拍手する人がなければならず、そこが違うだけです。

 食べること・性の話・名誉の話は理想ではありません。もっと善いものがなければなりません。だから結局涅槃の話である清潔、明るさ、静かさがある話、あるいは純潔な心、人を支援すること、自分と他人の穏やかな幸福がある人間であることにふさわしい最高に高い心があることから脱しません。このようにできれば、名誉と見なします。このような理想を受け入れれば、みなさんは「私たちの教祖は最高に名誉がある人」と思います。

 世界中のすべての人間の中で、ブッダは最高に名誉のある人に見えます。ブッダは何をされたか、自分で見てください。称賛する人、頭上に頂く人なら、ブッダを称賛する人は非常に多く、誰にも負けません。あるいは誰よりも多いです。

 ある時ピサヌロークで、学生、高学年の生徒の集団に、「この世界で一番多く記念碑を作られた人は誰ですか」と、質問したことがありました。他の子たちが目を宙に浮かせて黙っている時、一人の賢い子が「ブッダです」と答えました。私が、どう多いか問い返すと、「仏像は数えきれないほどあります」と答えました。

 仏像の数は、タイ国内だけでも何百万か分かりません。小さな仏像やお守りは、更に何百万もあります。記念碑を一番たくさん作られた人は、ブッダで、見れば本当です。次にブッダはタンマでの名誉があり、タンマでのとは、ブッダには善があり、そして世俗的な名誉もあることです。つまり人に好まれ、称賛され、最高にたくさん記念碑を作られるのは、ブッダは最高の理想があるからです。

 ブッダはなぜ出家なさったか、ブッダの理想を知りなさい。あるいはそれ以上の心、ブッダの人生のすべてのまとめれば、ブッダはなぜ生まれたかが見え、みなさんは、そこで人間の最高の理想を発見します。

 さて次は、どのレベルの理想を維持するサティがあるか、一つ一つ見て見ます。このサティの話は理想を維持してくれることを忘れないでください。「サティは理想を維持する」あるいは「理想があるのは、サティが維持してくれるから」と端折ってしまいます。理想はサティによって維持するもの、あるいは反対に言えば、サティは理想を維持しておくもので、分けることはできません。分ければ崩壊します。サティがなければ理想は崩壊し、理想がなければサティは何を維持するか知りません。このようです。

 実践面ではサティを持つ、あるいはサティにすることが残っているだけです。在家は、先ほど述べたような人間の理想を維持するサティがなければなりません。先ずは人間の理想を維持してしまい、いつでも人間の理想を維持するサティがあります。すぐに混乱するので、みなさん善く聞いてください。

 「人間の理想を常に維持するサティがあります」。みなさんが勉強する時、あるいは働く時、あるいはご飯を食べて水浴する時、あるいはどこへ行く時でも、何としても人間の理想を維持するサティがなければなりません。そうすれば過ちや失敗をしません。それは人間の理想ではないと知っているので、酒蔵へ行かず、ナイトクラブへ行かず、あるいはいろんな所へ行きません。

 だから「何をしていようと常に人間の理想を維持するサティがある」と言葉を規定します。そしてしている間中、自分が何であっても、いつでも人間の理想を想い、いつでも人間であることの高さの詳細な意味を求めます。そうすれば間違ったことをする機会、あるいは間違ったことを敢えてする機会はありません。

 サティが人間の理想を維持する状態にあれば、間違ったことをする隙はありません。あるいは敢えて間違いをしません。次に心配なのは、理想がなく、理想を忘れてすることだけです。だから人間がするべきでないことを、いつでもできます。このようにすべて無駄にします。

 次はしている仕事に理想を維持するサティがあることで、狭くなります。みなさんがしている仕事は何でも、その仕事の理想を維持しなければなりません。例えば学生、教師、検事でも何でもすべて仕事で、それぞれの仕事にどんな理想があっても、いつでもその仕事の理想を維持する正しいサティがなければなりません。このようなら学生は学生のこと以外はせず、あるいは他の何でも、している仕事の理想の敵である自分の職務を逸れたことはしません。

 次は仕事を失敗させないサティで、こういうサティは不注意でないことの代名詞です。私たちが仕事で失敗するのは、ほとんど、あるいはほとんどすべて不注意だからです。知らないからではなく、不注意、あるいは「踏んで知る」軽率さ、完璧なサティでしないからです。一時しのぎに大雑把にし、完璧なサティでしないと言います。

 だから「あら、これは簡単。大した事はない。遊びでもできる」と、不注意で仕事を失敗させないサティがなければなりません。私は、僧や沙弥が知らないからではなく、思い上がりや不注意で、最高に重要なことと見ないから失敗するのを毎日観察しています。彼らは小さなことと見過ぎています。

 「何も小さな事はない」と、みなさん全員に憶えておくようお願いします。コップ一杯の水を汲んで飲むにも、絶対に小さなことと考えてはいけません。あるいはもっと低いことでも小さな事と見なさないでください。右手でコップを掴み、水の中に沈めて汲み上げて飲むまで、全部サティでしてください。これはサティを継続させ、グラフに書けば、繋がった線になります。

 だから何をするにも、食事をするにも、水浴をするにも、大小便をし、歩き、立ち、座り、寝るにも、失敗を生じさせないでください。特に仕事で失敗を生じさせません。

 次に仕事を二種類に分けます。例えば食事や水浴など自然に、当たり前のしなければならない仕事も仕事と言い、命を管理する仕事、体を管理する仕事です。学校や事務所などでする仕事は特別の仕事で、しなければならない自然の仕事ではありません。この二種類の仕事で失敗しないでください。失敗は、小さな事と見てボンヤリすることから生じ、小さな事がその人を死に至らせること、つまりすっかり破滅させることもあります。

 だからどんな仕事も、自然の体を管理することも、職務である仕事も小さな事と見ないでください。そして休まずサティがあるよう練習します。初めはぎこちなく、あるいは煩わしいかもしれませんが、慣れて習性になれば上達し、非常に良くなります。

 「膨らんだ、萎んだ」などの念処やヴィパッサナーは、このような目的があります。つまりすべての挙措にサティがある人にしますが、目的を正しく理解しないので、バカみたいに座ると理解します。そのようなのは、誤解して間違ってするからです。しかし本当は、あらゆる種類のサティがあるよう望みます。

 みなさんがこれをここに置いて、置いたことを忘れて探しても見つからないのと同じで、どこにあるか分からないのはサティが無いからです。時には掛けている眼鏡を、掛けていながら何処にあるか忘れる日もあります。このようなことを防ぎ、健忘や失敗をさせません。だからこれから、記憶するサティについて話したいと思います。

 記憶するサティがあることは、一般に重要と知られています。記憶できなくなれば何もできません。今「これは何、これは何」と記憶できるからいろいろでき、食事もでき、水浴もできます。記憶できなければ、何も正しくできません。これを「自覚しない記憶」と言い、想がある、あるいは意識があると言います。想=記憶、意識=普通に感覚があること。つまり何でも記憶できます。何も記憶できないか、あるいは止まると、意識がないと言います。

 このような自然の記憶に関心を持ったことがなく、あまり関心がないのは、私たちはまだ記憶できるからです。「これは何、これは何」と記憶でき、それで歩いて来、立ち上がり、あるいは何かをしてもできるので、自然の自動的な記憶に関心がありません。

 ここで勉強を憶え、何かを憶え、あるいは仕事を憶えるように記憶したいことを記憶するのは、記憶が得意な人なら最高に利益があります。学者、知識者、何になるにも何かを記憶できなければなりません。そうでなければ正しく話せず、正しくできません。

 だから知恵が多い人は記憶が得意で、たくさん記憶しています。次に記憶はたくさん記憶できることが一つ、そして広く記憶し、遠く記憶できることが一つです。たくさん記憶でき、遠く記憶できることを、「生を思い出せる」「過去世を思い出せる」と言います。つまり昨日何をしたか、一昨日何をしたか、そして先一昨日何をしたか、先週何をしたか、先月何をしたか、前年何をしたか、それが思い出せることです。

 人々が「過去の幾つもの生を思い出すことができる」と話すのは、この項目に含めます。しかし私は多すぎると言います。「昨日何をしたかを憶えているか」だけにし、三時間ばかり座って考えさせても、全部は思い出せないでしょう。一昨日になるとお手上げで、先一昨日なら降参です。それは、そのように遠い記憶があまりないからです。

 みなさんが規定されている方法でサティの訓練をすれば記憶でき、過去のことがどんどん思い出せ、前世まで思い出すことができ、十生、二十生でも思い出せます。どの「生」を基準にしても良く、タンマ語の生、「俺、俺のもの」が一回生まれることでも、一回棺に入る生でも、もしあれば一つ一つの生、それでも良いです。つまり同じ方法、記憶で過去を思い出す同じ方法を使わなければなりません。

 次に私たちに記憶するサティがあるのは現世だけで十分で、裏面も憶えているくらいハッキリさせ、そしてタンマ語の生にします。つまり「俺、俺の物」である感覚、貪り、あるいは怒り、あるいは何でも、一度生まれたら生と呼び、今日三回怒ったら三生で、五回貪ったら五生で、他の愚かさが七八回、合わせれば二十生です。

 その日のその生には何があったか、この生には何があったか、何としても遡って思い出さなければなりません。サティでできます。規定されているサティの訓練法でできます。これを「想、意識、習性で自然に記憶できるサティがある」と言います。子供の中には、自然の習性で記憶が得意で、勉強も仕事も憶えなければならないことを記憶して増やす子がいます。

 記憶を使うことばかりで、年をとると呆け、薄れ始めます。私のようなのは、記憶も薄れ始めたと言います。記憶する器官をたくさん使ったので、このように性能が悪くなるからです。しかし訓練するよう教えている方法で訓練しなければ、これよりもっと酷いです。

 次は間に合うサティがあることです。サティが遅れれば何も使い物になりません。間に合うサティがあれば助けてくれるので、間に合うサティがあるようにサティの訓練をします。自動車の運転やスピードボートの運転などは、サティがなければなりません。早く仕事をしなければならない人たち、あるいは決断など、早さに関わる何でも。

 自動車の運転は早ければ早いほど、生じる出来事に間に合うサティがなければなりません。心の中に生じる出来事も同じで、貪り・怒り・迷いが心に生じたら、速い自動車の運転には間に合うサティがなければならない物質面と同じように、内面、心の面も、間に合うサティがなければなりません。

 そうでなければ怒こってしまい、いつ果てるともなく怒鳴り散らし、人を叩いてしまってからサティがあります。こういうのはどうしようもありません。特に試験や面接試験、あるいは何の試験でも、一瞬の時間しか与えられない時は、サティ、あるいは思い出せる記憶がなければできません。

 だから在家は、間に合うサティがあるよう訓練をしなければなりません。そして間に合うサティは、すべてのサティの基礎と見なします。サティとは「間に合うように駆けつけて助けてくれる知識」を意味するからです。このような義務を行わなければサティではありません。

 サティと智慧は同じではありません。智慧は知識で、サティは、そのことだけに間に合うように生じ、間に合うように駆けて来た時の知識です。もう一つ常自覚という言葉があります。これは基本である休みなくあるサティで、智慧は知識と言います。欠けた部分がない基本である種類を、常自覚があると言います。

 間に合うよう早く、十分にしなければならない種類もあり、これらは本当はサティです。常自覚はまだ維持しているサティ、長く留まっているサティです。ね、常自覚があれば私たちは安全で、サティが間に合うように駆けつけ、そして適度に長い時間自覚の形であります。この二つとも知識です。

 これ以外にも、サティを狂わせないサティがあることについて少し述べたいと思います。狂わないサティがあります。これは同じようですが、別の種類に見えるよう分類します。前回のように、つまりみなさんは知識があり、何かが適度で正常であればサティがあります。

 しかし脅されると、怒鳴られると、あるいは目の前で何か生じると、サティが狂ってしまいます。これを「サティが狂う」と言います。既にあるサティ、あるいは常自覚でも、それが狂ってしまうのは何かが生じるからです。だから私たちには、サティを狂わせない義務があります。

 例えばみなさんに歩いて行くにもサティがあり、一匹の犬が突然吠えると、どうして良いか分かりません。サティはどこへ行ったら良いか分かりません。間違ったことをすると、犬が噛みつくこともあります。こういうのは非常に重要で、日常生活に問題があります。何か大きな音がするとサティが狂います。非常にサティが狂えば、結果はそれだけ悪くなり、サティが長く狂っていれば、それだけ結果は悪くなります。

 試験をする部屋の外にいる時、私たちは朗らかでしっかりした常自覚がありますが、試験する部屋に足を踏み入れるとサティが狂い、試験問題を受け取るとサティが狂い、あるいは問題を見て、質問を見て混乱するとサティが狂い、他の問題もすっかり混乱します。だからサティが狂わないようにするサティの訓練をしなければなりません。

 私はここで恐怖についての例を話したことがありますが、信じる人は誰もいなかったかも知れません。虎に出合ったら恐れないサティがなければなりません。とりあえず恐れないで、それから木に登っても良いです。つまり恐れないで登り、走って逃げることもでき、恐れないで走って逃げ、追い詰められたら虎を殴ることもでき、恐れない心で虎を殴ります。恐れないサティがなければなりません。つまりサティを狂わせないサティがあります。

 恐怖で木に登れば、すぐに失敗して落ちます。だから智慧と知識、能力、サティが一緒になければならず、そして恐れずに木に登ります。あるいは走って逃げるにもサティで逃げ、虎を殴るにもサティで殴り、サティがある状態を失ってはいけません。

 今挙げた例は、すべて在家が訓練しなければならず、無ければならず、しなければなりません。人間の理想はどのようか、人間とは何か、そして今現在している仕事の理想、在家の理想を維持するサティがあれば、仕事で失敗しないサティがあり、記憶するサティがあり、間に合うサティがあるようにするサティがあり、そして狂わないようにするサティがあります。

 最後にもう一つ、死ぬ時にサティがある話をしたいと思います。幕を下ろして死ぬ時サティがあるのは、死ぬ時はすべての帳簿を閉じて、決算か何かをする時なので、極めて重要な時だからです。この時にサティがぼんやりすればすべてが台無し、あるいは非常に大きな破滅です。この時サティがあれば「非常に善い。非常にしっかりしている。非常に安定している」と言います。

 みなさんはきっと「ああ、まだずっと生きられる。長く生きられる。まだ死なない。まだ若い」と考えるでしょうが、それはあまり正しくありません。死はいつ来るか分かりません。クルンテープ(バンコク)に住んでいれば、更にいつ事故で死ぬかもしれない状態にあります。あるいは老いるまで生きるのも自由ですが、最高に善く死ぬために準備しておかなければなりません。もう一度言えば、理想の死、理想がある死です。

 理想の死、善い人間の死は阿羅漢が死ぬように死にます。つまり煩悩、あるいは悪などを捨てられないなど、タンマの面でまだできないことがあれば、こういうのは死ぬ時に、何としてもしなければなりません。もう終わるので、すごく簡単です。悪い考え、悪い何でも捨てて死んで行きます。あるいは最高にし、「私は滅尽したい。輪廻の中をあれこれ回遊するのは十分だ。私の心は滅尽を望んでいる。終わる。止まる。十分だ」。

 こういうのは消滅できます。あるいは理想の最高に善い状態で死んで行きます。次のように分けて話したいと思います。死というのは普通の死、愚かな人の死で、そういうのを死と言います。厭わしい物、嫌らしい物、おぞましい物、普通の人の死、サティのない死、ジタバタしながら死ぬ、死にたくない死は非業の死です。死にたくないのに死ななければならない人に、突然死なせるものがある事を非業の死と言います。

 それも死と呼ぶべきです。しかし私たちは知識があり、今からサティがあるので覚悟があり、決まりがあり、ふさわしく規定して置かれたのがあります。それは極めて完璧なサティがあり、「死にたくない」という闘い、あるいはその類の何かはありません。

 私たちは知識があり、十分な賢さがある人で、年齢で、寿命で、何かそのような病気で死ななければならないので死を志願し、サンカーラ(行。原因と縁で生じたもの。つまり身体)の当たり前のこととしてそれを死なせ、そして常自覚で生活します。こういうのを人は死と呼ばず、「涅槃」「阿羅漢の涅槃のような、そのような何か」と言います。

 つまり「私」という執着が終わり、皮だけが残り、抜け殻だけが残り、自然に消滅します。執着しない人のサンカーラはこのように死に、彼らはそれを涅槃と呼び、死と呼びません。死は愚かな人のもの、死にたくない人、意に反して死ななければならない人のもので、これを死と言います。

 しかし死ぬ前に「俺、俺の物」という煩悩を抜き取ってしまった人は、そういうのは、その後死はありません。だから体だけ、あるいは心だけが残り、それは自然に滅します。こういうのは死なないと言い、死でなく、自然の消滅、あるいはそのようなものです。しかし普通に話す言葉では死と呼びます。私たちが、阿羅漢が涅槃するように死ぬには、サティがなければなりません。

 若いみなさんの利益のために、少しお話したいと思います。タイの昔の文化では、昔の老人はこのように死ぬ人ばかりでした。そしてこのように死んだ人を非常に尊敬し、崇拝しました。彼らは病気を恐れず、当たり前のことと教えられたので当たり前の物と見、死が近づくと、彼らはこのサンカーラ(行、つまり体)は死なければならないと知り、俺は死にたくない、私は死にたくないと足掻きませんでした。

 だから死ぬべき時が来て、死の七八日前には食べ物を食べても利益がないので、「食べるのを止める」と言い、もっと近づくと薬も飲まず、静かにしていたいと望み、薬を飲ませて妨害しないよう、あるいは何でも妨害しないよう望み、サティに集中するためにジッとしていたいと望み、そして油が切れたランプの火が消えるように滅しました。このようです。

 先祖たちの死の文化はこのようでした。私が見聞きしたのもあります。それは、このような死が最も善いと教えられたからです。私の祖父もこのように死んだと、祖母から聞きました。祖母は死ぬまで何日も看病し、死んで阿羅漢か何かになったと自慢しませんが、祖父は死に関して、仏教教団員の最高に善い文化を維持しました。つまり仏教教団員の様式で死に、述べたような理想がある死でした。

 今このように志願して死ぬ人は誰もいません。いるのは最期の一秒まで薬を飲み、注射をさせ、点滴をさせる人だけです。それで刺激されるので死に切れません。だからサティが狂い、サティを維持できず、それでも死ななければなりません。

 次に年寄りはそうしたがらず、彼らはサティだけを望み、他は何も望みません。欲しいのは死ぬためのサティだけでした。こういうのも知っておいて、昔はこのようだったと話して聞かせてください。それは、かつての仏教教団員として最高に高い精神文化で、これほどです。死ぬためのサティがあると言います。

 在家でもこのようなサティがなければならないと、お浚いして見てください。在家にこのようなサティがあれば、人間の理想があり、見事です。あれを惜しみ、これを惜しみ、子や孫を惜しみ、お金を惜しみ、欲情を惜しみ、いろいろ惜しむ愚かな在家は、死を受け入れず、ジタバタし、そしてサティがなく滅さなければなりません。これが一般の意味の、愚かな在家の死です。サティがあるようにできれば、善人である在家、あるいは善い人間です。

 要するに、最初から最後まで在家はどのようにサティがなければならないか、というサティの話をしたということです。そして、私がほとんど全員にしょっちゅう書いてやる金言を使ってください。その金言は理想をもたせ、サティを持たせることができます。

  手に入れる時は、手に入れ方を心得れば、苦にならず

  なる時は、正しい方法でなり、

  死ぬ時は、死に方を心得て死ねば、善い終わりに見え

  このようなら、どの瞬間にも 苦はない。

 何かを手に入れる時は、手に入れ方を心得ているサティがあれば苦はありません。何かになる時、何かの職務や職位に就く時は善い状態でその地位に就くサティがあり、なり方を心得、最期に死ぬ時は死に方を心得ているサティがあれば、サンカーラ・身体の終わる時まで、いつでもサティがあるということです。

 私たちタイ人の群れの中で、仏教教団員の家族で、子供にいつでもサティがあるようしつけをし、次第に若者になり、大人になり、最期の瞬間までサティがあるようにできれば、最高に素晴らしいです。それはすべての損失の話、苦の話を防止し、そして人間が得るべき最高に善いものを手に入れる援けになります。他の時間にできなければ、人生の最期の一瞬に行くことができます。つまり心を消滅させ、心で死にます。

 今、サティがなく死んで行く人ばかりなのは、病院が沢山あるので治療をし、いつ死ぬか知らないほどあらゆるもので刺激し、そして死ぬための部屋に入れて、寝て死なせるからです。こういうのは誰も知りません。これは現代の新しい文化で、物質の奴隷、物質的な奴隷です。昔は精神の話で精神の高さを求め、常自覚で死に、死より上にいました。

 これからはこれより善い、今より善い物質文化があるかもしれません。つまり死が確実と見えたら銃で撃って死にます。物質主義が増えれば、ここまでになります。

 在家はどのようにサティを持つか、という話はこれで終わります。




次へ ホームページへ 法話目次へ