8.在家と出家共通のタンマⅠ





1970年4月25日

 四時四十五分になりました。今日は、在家と出家のタンマについてお話します。今まで在家について話し、高度なタンマについて話しても、在家に関わる状態で話し、出家のためのタンマと区別し、そして正反対のような状態、別個の種類のようですが、本当はそうではないと、初めから観察して見てください。

 本当の宗教本体であるタンマと呼ぶものは、在家も出家も一緒に使うことができます。煩悩と苦は、誰にとっても同じです。次にタンマの教えも、誰でも使うことができます。特に在家の話と分けるものは、非常に少なく、本当は少しです。仏教全体を一掴みとするなら、ほとんどすべては在家と出家のもので、特に在家のためのものは指先の一つまみだけです。

 みなさん善く考えてみてください。六方など、直接在家の実践項目の話でも、「多い」と言うほど長々と読んでも、仏教の大部分と比べればほんの少しで、全体を一掴みと仮定すれば、指先についた一つまみです。だから今日私は、出家も在家も使うことができるタンマはどのようか、どれくらいあるか、ハッキリ見えるようにお話したいと思います。

 そしてタンマについて話す時、他の実践を成功させる道具であるタンマが一つ、そして私たちが道具であるタンマを使って実践しなければならない実践項目であるタンマ、これがもう一つと、大きな種類について思うのを忘れないでください。そして次に、特別にもう一つ加えることもできます。つまり道具として使うタンマでもあり、直接それ自体がタンマであるのもあります。

 今日は、一緒に使えるタンマであるタンマについて話し、そして道具であるタンマ、あるいは道具として使えるタンマにつては後日お話します。

 在家も出家も一緒に使えるタンマ、あるいはこの部分の真実は、一般の人に見過ごされていて、先生方もこのように教えています。彼らは、在家はこれを実践しなければならない、出家は別のものを実践しなければならないと分けて、共通点が何もない、別々の種類の人間のようです。

 だから私は罰を受け、あるいは日常的に非難され、「高度なタンマを在家に教える。極めて愚かで、極めて仏教の教えと違う」と非難され、罵られます。

 私が仏教の心臓部である教えを、農民や庶民に教えるのは、これは最高に賢く、そしてブッダの望みと合って正しいと見ます。これから良く見えるようにお話します。短くまとめて言えば「涅槃のための実践である話を、田んぼを耕している人に使う」と言います。みなさんが言えば、彼はみなさんを非難するに違いありません。だから前もってこのようにお知らせしておきます。

 出家も在家も一緒に使える実践原則であるタンマは、最初のタンマ集から始めてください。非常にたくさんありますが、最初に取り挙げて見せるのは、サラナーガマナです。

 サラナーガマナとは、帰依するものである三宝に至るという意味です。拠り所であるブッダ・プラタム・サンガに至り、「プッタン サラナン カッチャーミ、タンマン サラナン カッチャーミ、サンガン サラナン カッチャーミ」と、朝夕唱えているような決まり文句があります。みなさんもこれはどのようか、どういう意味か、良く知っています。これは、在家も出家も使うことができます。

 これは在家のため、これは出家のためと分ける必要はありません。分けるブッダ・プラタム・僧はありません。同じであり、そして同じ方法で到達しなければならないからです。だから内心でどのようにブッダ・プラタム・僧に到達しても、在家も出家も同じようにします。誰の方が遠く、良く、多くできるかはまた別の話ですが、教えでは、同じ方法で能力の限りしなければなりません。口だけで受け入れるにも同じように受け入れ、イティピソー バーヴァナーなどで、心の中でブッダ・プラタム・僧に到達するのも同じです。

 本当に出来ればみんな同じブッダ・プラタム・僧と同じ心の状態の、清潔で明るく静かな心があります。だからこのサラナーガマナに至ることは、在家も出家も同じように使う教えです。これを出家も在家も同じ、一緒のタンマと言います。みなさんは詳細を探して、学習しなければなりません。

 次に仏教の本体を見ます。私が仏教の本体と言えば、みなさんも大体理解できると思います。論理の部分である仏教を四聖諦と言い、「苦の話」、「苦が生じる原因である煩悩の話」、「苦の絶滅の話、つまり煩悩を残らず消滅させること」、「滅苦のための実践は八つの正しさにする実践」で、八正道、あるいは中道と言います。論理あるいは教えの状態で言うと四聖諦と言います。

 このような四項に分けても、在家も出家も同じ教えを一緒に使うことができ、何も違いはありません。在家も出家も、どんなに増やしても良いです。つまり理解できればできるほど良く、そして実践することができます。これが論理としての仏教です。

 直接実践である部分の仏教は、八項目の道と呼ぶ、四聖諦の最後の項目である「八正道」の実践です。ブッダが初めての説法である初転法輪経を説かれた時、ブッダが発見されたばかりの、それまで聞いたことがない仏教を説かれ、中道の話である八正道の話をされました。ブッダは、今まで誰からも聞いたことがない悟ったものを与え、まとめて中道と呼ぶ八項目の正しい実践に言及しました。

 つまり正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい体の行動、正しい生業、常に正しい努力をし、いつも正しいサティがあり、正しい自覚があり、正しいサマーディである正しい心の安定があり、八つすべてが揃うと中道と言います。

 彼らが一般に言うのは、仏教本体であるこれについてあまり言及しません。しかし良く見ると、ブッダは初めての説法で、これについて話されています。そして同じ時に四聖諦について話され、苦の話、苦の原因の話等々は、「知らなければならない」「実践しなければならない」、そして「実践し終わったと知らなければならない」と言われています。

 四聖諦に関しては、どうしなければならないかを知らなければならず、そして実践を始め、そして「し終わった」、「正しくした」と知らなければならないと、ハッキリと分けています。つまりこれはこのようだと知り、これにはどのようにしなければならない義務があるかを知り、そしてその義務を終わらせます。これが四聖諦に使われ、全員がこのようにするように教えられた原則です。

 私たちは四聖諦の各項目を、それはどのようか、その項目に関してしなければならないどんな義務があるか、そしてし終わった時「正しい」、「完璧だ」と知らなければなりません。これが四聖諦も含めた中道の教えで、僧も在家も使います。特に八正道、あるいは中道が出家の身に着いてなければならないように、在家の身にも着いてなければなりません。だからみなさん、暗記しておいてください。

 正しい理解、正しい希望があり、正しい発言があり、正しい振る舞いがあり、正しい生業、正しい努力、正しいサティがあり、正しいサマーディがあり、八つの正しさです。

 これは、口で唱えられるだけでなく、その実物を見なければなりません。それ以上に最高に重要なこと、つまり全部揃っていなければならないと知らなければなりません。つまり関わっています。一つでも欠けて八つ揃わなければ「中道」、あるいは「聖道」と呼ばず、全部揃って同時に働けば「八聖道」「八正道」、あるいは「中道」と呼びます。

 この聖道でブッダは正しい理解、正しい見方、正しい知識を初めの項目にし、「正しい見解」と呼んでいます。私たちは正しい理解、正しい知識、あるいは正しい見方がなければなりません。そして次の項目は望み、願い、夢、思いでも呼び方次第ですが、それも正しくします。私たちは正しく知るので間違った望みにならず、正しい望みになり、「正しい理解なら、正しい望みになる」と言います。望んだ後は行動があり、その行動もすべて正しくなります。

 発言である行動も正しく、体の行動も正しく、生活も正しく、努力も正しく、そして正しく知っているので、正しいサティがあり、常に感覚を正しく管理します。これを正しいサティがあると言います。そして冷静沈着で安定している心は正しい知識、あるいは初めの項目である正しい理解に導かれているので、全てが正しい道になります。

 これはみなさんが日常生活で使わなければならない教えです。夕方になったら、あるいは一日の終わり、寝る前に、今日は正しくないことが何かあったろうかと反省しなければなりません。そしてその後簡単に正しくするために、大いに悔やみ、大いに恥じます。在家も出家も同じに実践できます。

 次のタンマ集は本当は同じダンマ集ですが、彼らは三学と別の呼び方をします。しかしこの状態の学習を、彼らは実践という意味にします。学習とは本当に実践して結果を出すことで、彼らはそれを学習と言います。「戒、サマーディ、智慧」に分け、八項目の道を「戒、サマーディ、智慧」に分けることもでき、初めの二項は智慧、真ん中の三項は戒、最後の三項はサマーディです。しかし今私は別の角度から、論理の面から、戒を初めにします。

 「戒・サマーディ・智慧」という呼び方には注意してください。論理では低いものから並べるので、戒・サマーディ・智慧になりますが、実際に実践を始めるとそうではなく、智慧が先でなければなりません。そうすれは智慧が戒とサマーディを牽引します。戒とサマーディが暗礁に乗り上げてはいけないので、智慧を前に持って来れば「智慧・戒・サマーディ」になります。

 実践すれば「智慧・戒・サマーディ」になり、教えで話せば「戒・サマーディ・智慧」です。なぜそうなのか。答えは簡単です。智慧がなければ戒の意味が分からず、そして戒を嫌うからです。

 智慧がなければ戒を嫌い、サマーディを嫌います。だから私たちは、人生はどのように苦か、どのように解決しなければならないか、どういう規則があるか、見える智慧がなければなりません。ね、このように智慧が先にあれば、体の面も言葉の面も正しい実践を始めると分かります。だから八項目の並び、あるいは関連を見て、述べたように正しく理解し、正しく望み、そして正しくします。

 「戒・サマーディ・智慧」と言う時は、広い意味にすることができます。自分にとっても社会にとっても正しい体と言葉の振る舞い、行動。これが戒です。次にふさわしい十分な心の力をサマーディと言います。正しくふさわしい、そして十分な心の力があること。それがサマーディです。そして初めから終わりまで知るべき知識があり、まだ知らなければ知り、少し知っても知り、今度は何を知るべきかを知ることを、智慧と言います。

 現代風に、あるいは多少広く普遍的に言い、ブッダとか何とか言わなくても良いなら、簡単に戒とは自分を支配できること、サマーディは心を支配できることで、このように違います。

 戒は自分の外部を支配し、サマーディは自分の内部、つまり心を支配し、智慧は、人間のすべての問題を解決するために知らなければならないものを知ることです。戒・サマーディ・智慧は、世界中の人にあることもでき、何の宗教、何の教義を信奉していても、世界中の人にあるべきで、共通語にできます。このように広い意味はどうか、自分で考えて見てください。

 在家、あるいは出家は、当然同じ「戒・サマーディ・智慧」がなければならず、違うレベルに分ける必要はありません。同じ「戒・サマーディ・智慧」があります。次に子供たちは「沙弥は十戒、僧は二二七戒、在家は五戒か八戒で、どうしてみな違うの」と質問するかもしれません。彼らは知らないので、主旨である教え、あるいは要旨を知らないので、違って見えます。

 本当は要旨はすべて同じですが、より良く、より早くする出家のために、説明を増やして詳細にしました。それでも主な教えである五戒から離脱せず、詳細に解説しました。例を挙げれば不殺生は他人を苦しめないことです。次にレベルにより境地により違うのは、周辺の理由です。例えば在家は「殺さない、苦しめない」ことにもこのように限度があり、農業をする中で生き物を死なすのは除外できます。

 田を耕す時、鍬の跡を見てください。田蟹などが千切れて、たくさん死んで散らばっています。人は「在家は戒に欠ける。在家の五戒がない」と見なしません。しかし僧はそのようにはできません。「殺さない。苦しめてはいけない」という同じ目的でも、在家はそのようにでき、僧はそのようにできません。僧は善くし、早くするので、述べたようにします。

 そのようにできないばかりか、植物を殺すこともできません。在家は植物を殺すことができ、構いませんが、僧は緑の植物を殺すことはできません。そしてまだ、手を振り上げて誰かを叩くことはできず、罪と見なす細かい教条があります。まだ他に殺さないこと、苦しめないことから派生したことがたくさんありますが、要旨はこの項目の「殺さない。苦しめない」で、同じです。

 戒と名がつけば何でも同じで、実践を細かく細密にしただけです。これは遅く行く人、早く行く人、非常に早く、少し早く行く人の目標です。だから一般の在家は五戒を守り、清信士・清信女は八戒を守り、沙弥は十戒を守り、僧は二二七戒を守ります。そしてそれは、五戒を細かくすることでできます。そしてパーティモッカ戒以外にも、まだ僧が守らなければならない何千もの戒があります。

 数えて見ると何百、何千で、全部守らせます。もしそれが何らかの「苦しめる話」ならすべて該当します。だからみなさんがこの要旨を掴めば、自分で何百何千にも拡大することができます。次にお話してきたような、基本である五戒について話します。

 第一項は不殺生。他人の体や命に意図して危害を加えない。「他人の命や体に、意図して危害を加えない」を、私は絶妙で不変の定義として使いたいと思います。そしてこれは、何百何千の項目に拡大することもできます。命や体に危害を加えない。これは最高に広く、どんな方法でも「悪意で」です。

 農家が田を耕すと千切れた田蟹が散乱するのは悪意でなく、殺意でなく、自分の命を守る意図、つまり生業を営む意図でしています。こういうのは悪意と言いません。だから「悪意で」「悪の意図で」という言葉がなければなりません。

 二つ目の戒は不偸盗。どんな方法でも、他人の財産に危害を加えません。これは「悪意で」と言う必要はありませんが、加害は必ず悪意によるので、つけても構いません。これは財産全般を意味し、銀、金、荷物、牛や水牛、田畑、子や妻、これが財産です。しかし最愛の人のように愛す物という点で分かれます。このような庶民の言葉を使う方が良く、そのようなら三つ目の戒になります。

 三つ目の戒は不邪淫戒。この戒はどんな種類でも、他人が愛している物に危害を加えません。これは私たちが授かった「カーメースミッチャーチャーラ」というパーリ(ブッダの言葉)と一致します。カーメースとは、すべての愛している物、欲しがる物という意味です、すべてという言葉は、愛欲、つまり最愛というほど愛して欲しがる物、非常に大切にしている物なら何でも、この戒に入れます。

 二番目の戒は一般の財産に加害することを禁じていますが、この項目は、財産を意味せず、「愛して惜しみ、大切にしている物」を意味しているので何でも構いません。子や妻や夫は「最愛」のように愛していればこの項目になります。しかし何まで拡大するかはその人が何を特に愛しているかによります。子供はまだ性の話も何も知らないので、人形や玩具などを特に愛しています。愛して大切にしている物はこの第三項です。

 だから子供は、他人が最高に愛している人形を侵してはいけません。ある子供が誰も指を触れてほしくないほど愛している物に、誰かがわざと指で触れて悔しがらせれば、小さな子供でもこの戒が欠けています。

 教戒師の人たちは、今までこのように説明しないで、私がこのように説明すると、初めは「間違っている。勝手に言っている」と反論しました。しかしその後たくさんの人が同意し始めたようです。そうすると、幼稚園の子供にどう教えるか、不邪淫戒をどう持たせたら良いか分からないので、彼らは子供たちに「密通してはいけません」と教えます。幼い子供に密通しないよう教えるのは、最高に笑い話です。

 ブッダは「カーメース=カーマであるほど愛している物すべて」と、広く規定されています。カーマとは男女の話、あるいは性の話だけでなく、愛欲するすべての物を意味します。カーマとは欲のこと、欲の基盤、あるいは愛欲の基盤であれば何でもです。ある人が何かを最愛の人のように愛していると知っていたら、それが何でも、どんなに小さな物でも、手を触れてその人の心を傷つけてはいけません。

 妻や夫、あるいは娘、孫娘のような最愛の人は何でもこの中に含まれ、直接の目的です。彼らが「密通してはいけません」と教えているのは新しい規定で、本当の文句は「すべての愛する物に、間違った振る舞いをしてはいけない」です。

 ミッチャーチャーラは間違った振る舞い、カーメースはすべての愛欲である愛しているすべての物という意味です。これも在家、清信士、清信女、沙弥、僧のために「他人が愛している物に触れない」と拡大することができます。

 四つ目の戒は虚言で、これは言葉を使って他人の公正や正義に加害しません。この戒は言葉だけに言及しています。他人の正しさや公正、あるいは何らかの正しい権利を侵害する言葉を、この項目で禁止しています。範囲が非常に広く、言葉をどんな形に変化させることも、それが他人の正義や公正、あるいは正しい権利を消滅させるなら、すべて危害を加えることです。

 五項目の戒は不飲酒です。これはサティや意識に危害を加えないことです。酔う物を嗜めば、自分の意識と智慧に危害を与えます。彼らは酔う物という言葉を使い、酔う物なら水でも、液体でなくてもです。嗜むとは、どんな方法ででも摂取することで、すべての種類の酔う物を嗜めば、自分自身の意識と知性に危害を与えます。意識(サムプルディー)とは、サティのことです。

 サンプルディーはパーリ語でサティですが、タイ語になると使い方が違います。酔う物が体の中に入ると意識が欠落し、酔った人はぼやけ始め、ぼんやりし始めます。これを「死人のように倒れて眠るまで、意識が欠落する」と言います。

 「知性が欠落する」とは、正しい、ハッキリした、何かを解決できる感覚、あるいは進化している感覚でも、直接このような知性が欠落します。つまり酔う物によって危害を加えられ、嗜み続ければ変化が生じ、低下し、衰退します。だから「自分の意識と知性に危害を加える」とハッキリ言います。この項目は飲む物、食べる物、吸う物、あるいは行為だけ、あるいは関わるだけ、あるいは近寄っても同じ結果がある物、何でも網羅することができます。

 みなさん。善く聞いて、この五戒の要旨を掴んでください。そうすれば拡大することもできます。意識が損傷するのは、例えばみなさんが軽率な比丘で、鉢や衣に気を使わずに放り投げて、鉢や衣に欠ければ、これは意識の欠落、不注意です。少しも酒を飲んでいなくても、このような症状があれば意識が欠落、知性の欠落と言います。

 これも、飲酒の項目に含めることもできます。だから直接僧のための律もいろいろ沢山あり、サティや意識の欠落を防ぐためにあるものは、どれもこの五番目の戒から来ています。だから五戒を在家の低い戒と見下してはいけません。それは戒の目的、あるいは戒の本当の精神を知らないからです。

 だから、先ほど私が話したような状態で憶えておいてください。

 第一項 命や体に危害を加える。

 第二項 他人の財産に危害を加える。

 第三項 他人が愛している物に危害を加える。

 第四項 言葉で正義公正に危害を加える。

 第五項 自分の意識と知性に危害を加えることで、他のすべての過ちをさせます。

 第五項で自分の意識と知性に危害を加えれば、他のすべての項目の戒の善くないことをし、そして他人、あるいは自分に危害を加える人は、どれほど使い物にならないか、考えて見てください。初めの四項は直接他人に危害を与え、最後の項目の不飲酒は直接自分自身に危害を与え、敢えてこの戒を犯す人は極めてバカで、極めて狂っていて、極めて愚かです。

 五戒は八戒にも、十戒にも、二二七戒にも、あるいはパーティモッカ以外の何百何千もの戒になります。戒の話を長々と話して時間を費やしたのは、在家も出家も同じ戒があり、一緒に戒を維持すると知らせるためです。在家の戒、僧の戒と分けるのは外皮で、中身は同じです。

 次にサマーディになりました。みなさん、私がたくさん話したことがあるサマーディの話の講義を読んだことがあれば、サマーディ、あるいはサマーディである心とは何かを掴むことができます。先ほどの戒の話のように短く定義すれば、サマーディである心とは、彼らは「パリストー サマーヒトー、カンマニヨー」という言葉を使っています。パリストーとは、清潔、清潔な心で、サマーヒトーは揺るがない心、カンマニヨーは義務を実践する準備が整っている敏捷な心で、三つをまとめてサマーディと言います。

 みなさん。目を瞑って座って丸太のように固くなればサマーディになる、とだけ思ってはいけません。本当はどんな威儀でも良く、心が清潔で、安定して、そして仕事に対して敏捷なら、歩いていても、立っていても、座っていても、寝ていても良いです。仕事に対して敏捷。これはみなさんも毎日話していますが、それが世界中どこででも話されている active という言葉と同じだと知りません。

  誰でもアクティブネスを求め、アクティブであることは、義務に敏捷で、準備があることです。義務をする用意があり、そして義務をすることに敏捷ならアクティブと言い、パーリ語ではカンマニヨー、カンマニヤと言います。カンマは行動という意味で、ニーヤとはふさわしい、仕事をするに適しているという意味です。

 パリストーは無垢で、サマーヒトーは steadiness、あるいは Firm、あるいは何とでも言う安定で、こういうのがサマーヒトーという言葉に相当します。そしてパリストーは無垢で、汚れである煩悩、あるいは暗さ、あるいはその時妨害する物がありません。この教えは、サマーディにする時に、在家も出家も同じだけ使わなければなりません。

 最後の智慧ですが、正しく危機を脱す智慧で、得をする知恵ではありません。パーリ語の智慧は二種類あり、低いレベル、家庭のこと、そのようなことだけの知恵は変化する知恵、チェコーという不正に使う知恵、賢く、いろんな物を改革し、不正に使う才気がある知恵もあります。これが一つ。もう一つは本当の智慧で純潔で、知るべきことを知らなければならない分だけ知り、そして滅苦ができます。

これが本当の智慧で、滅苦のためになります。チェコーの方は、多くなれば限度がない狂人で、狂ったように求め、狂ったように食べ、狂ったように遊び、狂ったように何かを掻き集め、そして最後にはずるい狐のように、必ず cunning になります。このような知恵はこれに含めません。戒・サマーディ・智慧に含めません。直接「戒・サマーディ・智慧」なら、在家、出家と限定しないで使うことができます。

 これが在家と出家が一緒に使う「戒・サマーディ・智慧」の同一性です。だから在家もこの三つである「清潔な心、安定した心、仕事に敏捷な心」が揃った状態のサマーディにすることができます。在家はできるだけたくさんなければなりません。特にみなさんのような学生である梵行者は、僧にあるだけ、同じだけたくさんなければなりません。しかし使い方は違います。みなさんは勉強中なので、それを使って勉強をし、僧はヴィパッサナーをするのでヴィパッサナーに使います。

 智慧の話になったら、心の火を消せる物を知らなければなりません。みなさんも、あるいは子供も、無常・苦・無我の話を知らなければなりせん。だから子供も子供なりに無常・苦・無我の話を知らなければなりせん。しかし規則、あるいは要旨は同じです。例えば子供は「無常はね、人形を落として壊れたら、それでも泣いちゃダメ。泣かなくてもいいよ」と知ります。これも無常の話です。

 だから子供は「何かを愛すと苦になる。何かすると苦になる」と見ることができます。これを「その子は苦(ドゥッカ)を知り、苦であること(ドゥッカン=三相の苦)を知る」と言います。子供は「すべては自分の威力下になく、神様の威力下、自然の威力下にある。だから、望んだように得られなくても、望んだようにならなくても、悲しむ必要も、泣く必要もない」と知ります。小さな時から両親がこのように子供に教えれば、私は「最高に素晴らしい」と言います。

 しかし今は反対に、ほとんどは目を瞑ってしまい、ほとんどは執着するよう教えます。仏教の本当の文化は今より非常に善いです。つまり昔は家の中の子や孫を、仏教の教えと並行するよう教え、仏教の教えがあったので、彼らには家庭内に静かな幸福が、今より非常にたくさんありました。

  子供は可愛らしく、あるいは親孝行で、あるいは両親を神様のように尊敬し、こういうのが沢山ありました。今の子供は、静かさの反対である身体文化と呼ぶ西洋の文化に変わったように、善・正しさ・真実・清潔を前面にする代わりに、美しいこと、お金持ちであることを前面にします。

 だから子供も、出家と同じ系統の無常・苦・無我が見える智慧があるべきです。ここで若い人、家長、主婦も、心の中の火を消す物であるこれがなければなりません。若い男女から家長、主婦まで、人の心にはたくさん火が生じるので、出家と同じ種類の、同じ形の、同じ規定の智慧がなければなりません。

 同じだけない、同じ高さでない部分はまた別の話ですが、同じ物がなければなりません。例えば現代は、在家は誰でもお金がなければならず、十バーツでも百バーツでも、何百万バーツでも、能力次第でいくらでも良いですが、確実に無ければならないのは変らないのと同じです。

 仏教の本体、あるいは仏教の要旨である「戒・サマーディ・智慧」は、在家も出家も共通の教えと捉えて、全員が要旨に到達してください。「在家も出家も、同じように実践しなければならない実践である教えは、在家も出家も実践しなければならない」という話までしました。ここで「空の話は、在家も出家も、知識と理解がなければならない」と最高にまとめることができます。

 空とは煩悩がないこと、「俺」「俺の物」という執着がないこと。それが空です。ダマディンナを長とする在家の一団がブッダに拝謁して、「在家を援ける利益があるタンマを説いてください」とお願いすると、ブッダはこの空の話を、次のように説かれたとパーリ(ブッダの言葉)にハッキリあります。

 「スンニャタッパティサンユッター スッタンター=空に関わる実践規則のどれも」、「タターガタバーシター=如行(註)が話した言葉であり、ガムピーラー=深遠で」、「ガムピーラッター=深遠な意味があり」、「ロークッタラー=世界より上にある。これは在家を非常に支援する利益があります」。

それにはタターガタバーシターという言葉があり、「如行が公開した」と明言しているので、他の話は「如行は公開していない。教えていない。教えたのは空の話だけ」という意味です。だから空はすべての実践項目にあり、戒・サマーディ・智慧も空になります。

註: ブッダの一人称で「このように行った」と言う意味。漢訳では如来。

 執着があれば戒の実践はできず、サマーディがなく、智慧がありません。だから「俺」「俺のもの」という執着を空っぽにすれば、それが心に染み込んで、すべてのタンマの中にあると、この空の話を良く見てください。すべての実践は執着しなくなるためで、戒も執着しないためになり、サマーディも、サマーディの手法で支配して執着を止めてしまい、智慧は執着しないほど賢いです。

 だから空の話はブッダが話された話で、他のことは話しませんでした。聞いても信じられません。私はこの内容を講義で話しています。時々この講義をしています。そして「ブッダは、空の話以外に、他の話はしなかった」というのがあると西洋の言葉で印刷すると、スエーデンだったかどこだったか良く分かりませんが、「どこに現れていますか。ブッダは空の話以外の他の話はしないと、パーリのどこにありますか」と手紙で質問して来ました。

 その人は「全部読んだことがない」とすぐに分かりました。サンユッタニカーヤには「スンニャタッパティサンユッター スッタンター タターガタバーシター」に関したものがたくさんあります。彼はこれを読んだことがないので、返事を書きました。怠慢なのは勝手にさせておきます。だから、ブッダは執着しない話だけ、「俺、俺の物」の話だけ話されたと理解してください。しかし違う名詞で話で話されました。

  しかし私は、どの名前のタンマにも空の意味が隠れていると言うことができます。どの項目のどのタンマも何らかの形で、執着しないよう教えたいと望んでいるので、空の話と見なすことができるという意味です。掴めば空でなく、何も掴まなければ空。私たちはそのような心がなければなりません。

 だから空の話は、在家と出家が一緒に使うタンマです。そしてそれはこれほど高く、これ以上に高いものは何もありません。こう話すことで、誰かが私を「バカみたい」と非難しても、喜んでこの種のバカみたいな人になります。そして空の話はブッダが「これは在家であるみなさんにとって、永遠に支援する利益があるものです」と言われたように、在家も使わなければならないと主張します。

 最も低い実践から最も高いタンマの実践まで、この話す言葉の意味で、出家も在家も一緒に使う話で、このようになっているということです。

 ツグミが時間の終わりを告げたので、今日はこれで終わります。




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