7.在家の苦





1970年4月24日

 二十時三十分になりました。前回に続いて講義をする時間です。前回は「在家の幸福」と題してお話しました。今日は質問に答えて「在家であることの苦」と題してお話します。

 前回は在家の幸福について話し、今日は在家の苦について話すことができます。見ると正反対のように見えます。そして一般に人は「在家の話は、苦がある苦の話でなければならず、出家の話は苦がない話」と知っていて、話しています。

 これは、私が「話す言葉から混乱が生じ、話す言葉から生じたいろんな可笑しな理解をさせます」と言ったのを思い出してください。だから私たちは話し言葉、あるいは話す言葉、特にヒト語とタンマ語に注意しなければなりません。普通のヒト語にも幾つか例外があり、同じ言葉でも別の意味があります。

 次に「カーラヴァーサヴィサヤ」、あるいは「在家の生活」という言葉について話します。話すために言えば、あるいは規定して言えば、在家の生活は苦に満ちていると言わなければなりません。みなさんも聞いたことがあり、そして時にはそのように信じているから「どうすれば苦を解決できるか」、あるいは「苦を防止できるか」と質問しました。

 だから仮定では、規定では、習慣的には、在家の生活は苦であると規定しています。しかしここで実情、つまり実際にあるように見れば、そのように一定でなく、苦もあり、苦でないのもあり、どれだけ善い在家かによりけりです。これを「実際には、在家は押しなべて苦であると言うのは真実ではない」と言います。

 もしかしたら出家より困難が多いかもしれませんが、一様に生き地獄のように苦しいという意味ではありません。正しくする在家、善くする在家なら苦がないこともあります。私の言葉では「正しくする人」と言います。あるいは次のように広く言います。

  手に入れる時は、手に入れ方を心得れば苦はない

  なる時は、正しい手段でなり

  死ぬ時は、上手な死に方をすれば、善い終わりに見える

 上手にできれば苦はありません。つまり苦は仕方を知らない、考えることを知らない、生き方を知らない、死に方を知らないことにあります。だから全部苦になります。現代の出家は在家以上に苦になり、狂う人もいます。今の出家は、大勢神経の病気になっています。だから言葉や、そういう規定で苦になるのでなく、上手にできるかできないか、慣れているか慣れないかという、事実次第です。

 だから実情としては、在家は一様に苦がなければならないと言いません。預流、一来、不還など聖人である在家なら、苦でなくても良い例外が沢山あります。だからみなさんの「在家はどのように苦を滅すか」という質問は、どの種の在家か見なければなりません。簡単に言えば、愚かな在家、賢い在家に分けることができるからです。これが、熟慮して見なければならない最初の項目です。

 愚かな在家か賢い在家、あるいは善人である凡人かヤクザな凡人か、ヤクザな人か博識者かで、実に大きな違いがあります。ヤクザな凡人なら苦にならなければならない話が山ほどあり、ほとんど聖人に近い善人である凡人は、苦になる話はあまりありません。

 次に「善人・非善人」という、もう一組の言葉を憶えておいてください。非善人とはヤクザな人で、善人とは知識者ですが、彼らは静まることを基本として狙い、善人(サッタブルット)は静かさがある人、非善人(アサッタブルット)は静かさがない人です。庶民は、サッパブルットと言いがちですが、サッパブルットと言うのはお寺ではサッタブルット(善人)で、静かさがある人という意味です。そしてアサッタブルット(非善人)はヤクザで静かさがありません。

 これは在家でもなれます。愚かな在家はヤクザな凡人であり、非善人であり、賢さにふさわしい善い振る舞いをする賢い在家は、善い凡人であり、善人です。どちらも在家です。だからまとめて言えば、在家の苦、あるいは在家はすべて苦でなければならないと言うのは、あまり正しくなく、どの種の在家かを良く見なければなりません。

 次になぜ彼らは、在家は必ず苦があると言うのでしょうか。もし私がこれを認めるなら、それは愚かな在家、ヤクザな在家、非善人である在家を意味しているということです。次に善い在家でも、その善い在家は出家よりいろいろ非常に厄介な話が多いので「在家は苦がいっぱいあると見なさなければならない」と詳細に考えることもできます。こういうのも正しいです。

 しかし在家と出家が混ざり合うこともあること忘れないでください。今、同じように善い在家、善い出家でも、在家は妨害が多いと見なさなければなりません。つまり出家より苦が多いです。ね、このように結論できます。しかし在家なら、生き地獄に落ちたような苦がなければならないと捉えないでください。善人である善い在家は、このようである必要はありません。あるいは聖人であれば尚更、このようではありません。

 今私たちは、その仮定で誤解し過ぎているかもしれません。それば、「愚かになれば苦を受け入れ、頑固に『在家は苦』と認める結果になる」という害である結果があります。私は、そうするのは正しくないと言います。普通私たちは、必ずしも在家でない心、出家でない心がある方が善いです。「在家だ、出家だ」と捉えれば、知らないうちに彼らが言う轍を踏むか、あるいは抵抗なく、自らそうなります。

 だから「在家だ、出家だ」ということを忘れてしまっても良いです。それは人間で、生まれてきて何かの問題があるら、何としても解決してしまわなければならないと捉えてしまいます。そういう方がまだマシです。最初から挫けず、あるいは最初から悲しみません。そして私は、人は生まれた時は在家で、生まれた時から出家の人は誰もいないので、それは選ぶことができるものと見ています。

 出家のようにしたければ選ぶことができ、そして後でします。そしてこの在家か出家かは、「家にいる、お寺にいる」を基準にしないで、心がどのようかを基準にしてください。これも詳しくお話しました。

 現代のお寺にいると、家にいるのと同じ心があり、あるいは家にいる以上のこともあります。現代家にいる人で、僧のような心があり、あるいは出家のような生活をしている人もいます。その人に智慧があり、賢さがあり、徳があり、財産があり、家の中のことを処理する権力があれば、それでもできます。そうすれば自覚なしに出家になって在家より混乱し、そして反対に在家のようなことをする類の出家より善いです。

 在家は家を治め、在家は家族があり、子や妻がいて、財産があり、非常に複雑で込み入った付き合いがあるので、必ず出家より多くの問題があり、一般原則として、在家は複雑困難、混乱、大騒ぎの巣と言います。しかし「それは苦になるためにあるのではない」、あるいは「試すため、人間のレベルを上げるためにある」と、前に話したように考えなければならない出口、あるいは道があります。

 出家して出家者になった人、あるいは森の中の仙人や行者になった人は、在家に飽きたから、在家であることが倦怠を知るよう教えたからです。だからそれを課題、あるいは学校と見なさなければなりません。愚かすぎる人で倦怠を知らなければ、そこで耐えていなければなりません。倦怠を知る人なら出て行くことができます。それでもそれらのもの、つまり財産、妻子、仕事、すべての問題が「教える」ことを忘れないでください。

 苦の面から見れば苦ですが、善い面を見れば公正で、教えるもので、私たちが早く進歩するよう後押しします。だからこのように標準である在家の暮らしがなければ、私たちはどんなに賢くないでしょうか。その障害や苦は、どれも後に賢さを生じさせるよう援ける物ばかりだからです。

 次にパーリを見ると、知識者、あるいはブッダも「在家はむさくるしく、埃が来る道」と、一般の人が言うように言っています。サムバードーは、むさくるしいという意味で、そして埃が来る道。ここでの埃とは煩悩です。むさくるしく窮屈とは、四方から衝撃があり、今この話、今その話、今あの話がまるで試練のように、そして埃、つまり煩悩が来る道。これは真実ですが、埃が来るか来ないかはその人次第です。彼らはこのような一般原則を作りました。

 次に出家は家を出て、家族、財産、親戚兄弟、いろんな付き合いから出て正反対の方向、空のように広々として、あまり埃が来る道でない方へ行きます。ある西洋人がこのパーリ(ブッダの言葉)を、非常にぴったりした詩に訳しました。

  A den of strife, is household life,

  And filled with toil and need

  But free and high as the open sky

  is the life the homeless leads

 みなさん、聞いて見てください。正しくて美しい響きです。household life は「在家の生活」、den of strife は「掻き集める」、filled with toil and need は「欲望でいっぱいの大混乱の洞窟」、あるいは密林で、『在家は欲望と掻き集めることがいっぱいなので、密林であり、衝撃であるものが山積みされた洞窟』です。みなさん目を瞑ってみましょう。それは何とか見えるイメージです。

 在家は非常に toil and need で、非常に欲しがっていると見えています。自分のためにも非常に欲しがり、妻子や夫のためにも非常に欲しがり、あのようにこのように、非常に欲しがります。

 僧は、鉢と衣があれば十分で、どこへでも遊行できます。このように違います。だから僧は、翼だけあれば足る鳥に譬えられます。鳥の財産は翼だけで十分で、翼で飛んで行くことができるからです。飛んで行くことができれば食べ物が見つかり、生きるために必要なものを探すことができる。それだけです。僧の生活も、財産は翼だけの鳥と同じです。

 在家は何もかも財産であり、数えきれないと言うこともできます。動物の何のようだと譬えるのも難しいです。出家を鳥に譬える時、在家を何に例えるか、みなさん考えて見てください。私は、譬える智慧がありません。いろいろありすぎるので、牛や水牛以上です。

 「在家なら必ず苦があり、出家は必ず苦でない」というのを原則にするならこのようでなければなりません。この観点がなければなりません。正しくする出家、正しくする在家もこのように不利な点があります。だから何でも埃が来る道で、そしていろんな煩悩は本当に生じるので、在家の苦の方が多いです。

 みなさんが「どのような僧になるか」と質問しないで、「どのような在家になるか」と質問した問題に、私はこのように答えます。つまりそれにはたくさんの苦があっても、課題、あるいは試練と受け止めれば、最後には善いものになるので、「どのように苦を防止するか。どう苦を解決するか」というみなさんの質問には、短く「課題として受け止める」と答えます。

 在家の話で苦が生じたら、苦と受け止めず、解決しなければならない問題、学ばなければならない課題、そして必ず受からなければならない試験と受け止めてください。この方法で、在家の苦と闘うことができます。愚かに頭を垂れて苦と受け止めれば、多分耐えられません。しかし一般の人は、そういう状態で受け入れるので可哀そうです。

 私たちは、在家は二種類になれる観察点があります。つまり荷車を牽き、頸木を牽き、鋤を牽く牛や水牛のように目を瞑っている愚かな人になってしまう、これが一種類で苦が多いです。次に学生のように、学ぶ智慧がある人のように自分自身の試練に勝つ人、これも一種類で、同じではありません。

 その人は見られる在家、あるいは見事な在家になれます。何をしても達成させる達人で、これも見事です。苦が生じても勝利させるために現れ、敗北させるためではないので、この点が見事です。

 避けて捨てて出家して、鳥のように自由になるのはまた別の話ですが、鳥のように自由である人は何人もなく、還俗して戻るくらい別の陥穽に落ちる人もいます。これは本当の出家ではなく、形だけ、形式だけ、伝統習慣だけです。だから自分の智慧で「在家の苦とは何か。どのようか。そして今自分はどのようか。そしてそれを学習として最高に善く受け止めるには、どうするか」熟慮して見てください。

 そして話は何か、どこにあるか、それは心次第であり、心を基準にすることを忘れないでください。だから在家は、日常生活の中で避けて、あれこれになることができます。この時間は十分に在家で、次の時間は、二三時間僧になってみることもできます。念のために言っておきます。

 次に独身である在家はもっと簡単にできますが、私は独身者を在家と呼ばないことを忘れないでください。昔のマヌ法典では、独身者は梵行者(学ぶ人)であり、在家ではありません。これはもうお話したので、みなさんも憶えています。独身者、つまり子供から若者までは本当は在家ではなく梵行者(学ぶ人)で、まだ見られ、まだ美しく、まだ苦が少ないです。

 年がていって在家になり、家を持って家族を持てばめいっぱい在家で、四方八方問題に遭遇します。これは、本当の在家の暮らしは、牛の生活を持って来て二十年にしたと、楽しく語られる作り話を思い出させます。

 神様が牛まで低くしたのは、愚かで欲張りだからです。だから二十年ほど牛になります。つまり荷車を牽く牛のようにすごく重い家長や主婦になります。それからおもむろに自分を引き出して別のもの、つまり隠遁者、遊行者になり、一旦危機から脱します。

 しかし犬や猿に生まれたら大変です。つまり在家は二十年の間非常に重いのに、もっと年を取っても心配事があり、子を心配し孫を心配し曽孫を心配するのは、財産を守って眠れない番犬です。これは善くしなかったからです。この人生で善い教育と訓練を受けなければ、高齢になると呆けて霞んで、完璧な常自覚がなく、猿になります。つまり滑稽なものになって子供たちを笑わせます。

 だからみなさんは、正しい学生にならなければならない、在家も正しくなければないと知っておかなければなりません。そうすれば、在家の時代が終わったら隠遁者になる努力をし、在家の面倒な問題を最大限に捨てる努力をして静かに暮らすことができます。在家と呼ぶ家で暮らす人も二十歳の在家のようにはなりません。私たちは考えて新たに善く訓練する人で、晩節は一般の人のように呆けて不鮮明にならず、最後の一秒まで常自覚があります。

 そして晩年・最後の最後まで生活できる機会があり、老いて、立ち上がってどこかへ行くことはできなくても、そこに座って遊行者になることができます。つまり子や孫に、ひ孫に、知らなければならないことを教えます。自分はほとんど百年の間、世界を正しく通過してきたからです。

 この種の年寄りは、子供たちのどんな問題にも答えられ、とても利益があります。家にいれば、光を与えるための生き神様がいるようです。九十歳の老人は当然非常に博識で、気力は薄れず、常自覚を失いません。善く訓練してきたからです。九十歳、百歳になったら、見えているほとんどの人のように呆けて霞んでしまわないかと心配な人は「防ぐ方法がある」と言わせていただきます。

 在家の時代に苦がないこと。それがサティの訓練と呼ぶ、仏教の教えの心の訓練の努力です。

 毎日サティの訓練を規則にすれば、九十歳、百歳になっても呆けません。毎日煩悩が自分の心を支配するのを放置すれば、疑うまでもなく、九十歳、百歳には迷って呆けます。だから私たちは犠牲にしなければなりません。高齢になったら、仕事も十分したら、時間を犠牲にして、正しい方法、特にアーナーパーナサティなどで、日常的に心の訓練をすれば、本当かどうか分かりませんが、百五十歳、二百歳になっても混迷はないと信じます。

 体が耐えられなくなって、先に腐って駄目になるだけで、二百年生きられたとしても迷いませんよ。毎日、心の話の規律のある心で生活すれば、混迷はありません。

 みなさん。怖いと見ますか。怖くないと見ますか。呆け老人のように八十歳くらいで混迷してしまい、食べるにも食べられず、何でも知らないと言い、服を着ているか着ていないかも分からず、昼も夜も分からず、何もかも分からず、自分の名前も知りません。これほど混迷します。怖いですか、それとも怖くないですか。これも非常に苦しい在家です。日常的に仏教の教えで常自覚の訓練をし、そして年を取ったら、たくさん訓練をすることで防止できます。

 つまり他のものを犠牲にして、心を善くする時間を増やします。そうすれば保証できます。若い時からできれば、若いほど善いです。どこが善いかは、強く賢く堅忍不抜な在家になり、在家の義務を良く行う家長や主婦になり、そしてその後頭が冴え、心が明るい老人になり、他人の拠り所になる点が善いです。

 みなさん。在家の問題を何でも解決したかったら順々にします。梵行期(学生期)にはどのようにしなければならないでしょうか。間違えば、学生期から苦が生じます。私たちの子供は第一段階から間違ってするので、狂ったり、飛び込み自殺をしたり、他にもたくさんみっともないことをします。こういう話は大いに恐れ、大いに恥じてください。防止になります。

 次に第二段階の在家になります。もし梵行期に良くして来れば、在家の段階も必ず良くなり、必ず賢く、必ずタンマの中に、ヴィナヤの中に、善いものの中にいる人になり、強さと忍耐があり、高い気力があり、動揺、挫折させるものは何もなく、その人のすべての時代で最高に大変な仕事、つまり善い家長、主婦になると信じます。

 その後は隠遁者になり、心の静かさの話だけに多くの関心を寄せます。そして家にいる遊行者は、あるだけ、あるいは子供たちの質問に正しく答えられるだけ子に教え、孫に教え、何かを教えることができます。

 このようにできれば、在家もほとんど苦はありません。あるいは何らかの苦が生じても、滑稽なものになります。つまり私たちを賢くし、通過させます。苦になる必要はありません。苦しまなければならないことはないので、何でもたくさん断つことができます。

 しかし心をこのように高く強く訓練しなければ、受け止められません。だからみなさんが大学で勉強しているのは、若い人がこのように勉強するのは、私は「術がない。人生の苦を課題と受け止める術はない。むしろ座って泣いたり、飛び降り自殺をしたり、ピストル自殺をしたりしてしまう」と言います。

 だから大学での教育は、この理由でまだ高等教育でなく、なぜ生まれたかを教えてやることができません。心に生じる苦を微笑で解決できません。恐れ、常自覚を失い、強靭さや何かを失い、そして頭痛がし、頭が痛いと言います。偉くなって管理者になると、更に頭痛がするので、何でも雑にします。

 この在家は梵行者(学生期)から正しくし、そして在家になり、隠遁者、遊行者になると一度まとめてもいいです。この四つの言葉は、他に良い言葉がなかったら使ってください。善い言葉があれば自由ですが、私は、これは教えにできると思います。人間の命が生まれて死ぬまでの間を四つの部分に分けて、梵行(学生)期が一つ、在家期が一つ、隠遁期が一つ、遊行期が最後です。

 そして在家の時代を正しくすれば、四つの時代すべてに勝利がある人、勝つために生まれた勝者、生涯勝者になります。そしてこれを、仏教の目的と言うことができます。

 仏教の目的は、生涯、勝利だけがある人にし、敗北する日はなく、生涯勝利と共に世界で暮らすようにすることです。私がこう言うことに、誰も関心がないかもしれませんが、私は「これがすべて」と言います。仏教のプラタムは、世界から逃げて森へ行って住むよう誘うためにあるのではありません。私の感覚では、世界に立ち向かう勇気がなく逃げて出家するのは、それは敗北です。仙人、行者、ムニー、比丘、何になっても、それは敗北です。

 仏教は、すべての人が世界から逃げずに、世界に勝利して暮らすためにあります。生まれた時から、どの分野でも勝利して世界で暮らします。だからこのような状態でタンマを見、このような状態で受け入れます。みなさんの大学の勉強も勝利だけに遭遇し、大学を卒業して職業に就いても勝利だけに遭遇し、その後家長や主婦になっても、外部も内部も勝利だけに遭遇してください。

 内部とは心で、先に勝利に遭遇させます。そうすれば確実に外部、つまり周辺のいろんな物に勝利し、交際でも病気でも、私たちの妨害をする何にでも勝利し、死が訪れても大声で追い払い、そして笑い飛ばすことができます。

 ブッダはご自身を「勝者」と呼ばれました。パーリの何か所かに、ご自身を「勝者」と、つまり「ジノー」、「ジナ」と呼んでいるのがあります。みなさんはブッダの弟子なので、そうでなければなりません。そうでなければブッダの弟子ではありません。毎時、毎日、毎月、毎年、勝者になり、そして生まれてから死ぬまで、述べたような状態の善い在家である準備がなければなりません。

 お寺の言葉で話しても良いです。善人であるお寺の言葉で話してもいいです。善人である在家になり、非善人である在家にならないでください。善人は出家でも良く、何にでも使え、阿羅漢でも善人と呼ぶことができます。善人という言葉の意味はこのように広く、出家でも良く、阿羅漢でも良く、静まった人を善人と呼びますが、今私は、家にいる在家だけにします。これも善人です。

 みなさんは何で測りますか。私は三項の測る物があると考えます。良く憶えてください。

〇人生の問題を解決できる。苦を脱ぎ捨てることができるという意味。

〇在家が得るべき幸福がある。

〇自分の人生を、常に学習、あるいは良い旅にする。在家の生活を常に正しい教育、あるいは正しい旅にします。

 今私たちは苦がなく、述べたような在家が得られる最高の幸福があります。そして人生は増えて行く教育であり、そしていつでも正しい旅で、学生から在家へ、在家から隠遁者へ、隠遁者から遊行者への旅です。ハッキリ言えば、善である凡人から預流になり、一来になり、不還になり、阿羅漢になります。

 最期に心が滅すこともでき、最期の一瞬に阿羅漢になる希望もあります。簡単な方法は、「俺、俺のものを持ちたくない」で話を終わらせ、そして体が消滅すると同時に滅します。これでも最高点に到達できます。これが善人である在家で、この言葉は初等の善人から聖人、阿羅漢まで意味します。

 他の人は、私が話す「阿羅漢は善人」を認めないと、みなさんは知っておかなければなりません。彼らは聞いたことも見たこともありません。彼らが教えている学校、ナックタム(僧試験のため)の学校、アビダンマの学校では阿羅漢を善人と呼びません。彼らは見たことも聞いたこともないからです。私は見たことがあります。モッガッリープッタの骨が納めてあるパオプ石碑に「サップリサッサ モッガッリープッタッサ(善人モッカリープッタ)」と彫ってあり、彼は阿羅漢と見なされています。

 何人もの阿羅漢の肩書に「善人」という言葉があります。このように考古学を勉強したことがなければ、善人という言葉は阿羅漢にも使うことができ、家やお寺にいる清信士、清信女にも使えると知る機会がありません。信じないなら、パーリ語の学校やアビダンマの学校でも、そう教えているクルンテープの人たちに聞いて見てください。

 今私は「善人である在家であれば十分」と言っています。それは善人から聖人まで、そして阿羅漢までいます。在家の最期の一瞬は、阿羅漢になることもできます。そしてこのように実践していれば、出家しているのと同じで、それ自体が出家です。子のこと、妻のこと、財産やお金で心が憂鬱になる在家の時間は、非常に少なく、あるいはまったくないこともあり、払い捨てることもできます。

 だからそれには、家にいる出家者のような状態があります。これを「善人の類の在家」と言い、善凡人から阿羅漢まで非常に融通性があり、深遠な説明ができます。

 このようでなければ反対で、非善人である在家は、疑うまでもなく、生き地獄に落ちます。そのような愚かな在家にふさわしく、すべて生き地獄に落ちたような症状しかありません。しかし例外があり、彼の愚かさが変化を知っていれば、変化することもできます。一度生き地獄に落ちた時、賢さが生じて何かを知れば、すぐに変化し、死ぬ前にも変化できます。

 こういうのはまだマシと言います。闇から始まって、最後に明るい所に行ければ善人になります。善人であるその在家は多少聡明になり、早く知り、簡単に知り、早く変化し、死ぬ前に善人になれます。

 みなさん、outl-ine 評論を見れば、このような状態の評論は、「この命が何になれるかは、それは多分命の虎のシッポを、最高に良く掴め、近道をし、回避し、いろんな危険である岩礁に掴まって、危うく危険から脱すことができること」と言っています。「在家のタンマ」と呼ぶダンマを学ぶにも、私が二三夜お話したような、このような状態のタンマを学んでください。

 彼らが話しているように学ばないでください。それは初めから降参していて、初めから降参するのは恥ずかしいです。彼らは「在家なら必ず苦」とし、在家なら何もなく、あるのは暮らしていくこと、口と腹を養うだけしかありません。彼らは、自分をそれだけと規定しています。それは自分の根をここだけ、これだけに下ろし、止まるので、初めから降参しています。だからそれらを信じないでください。

 ブッダに質問した人がいた時、ブッダが「空は、永久に在家を支援する利益がある」と答えられたように、私たちはブッダが教えたような在家になります。ここまで、段階的に善人の目的まで、善人の最後の段階まで、阿羅漢まで行くという意味です。厚い罪があり、埃が沢山あればそこに留まり、死ぬまで生き地獄です。しかし私は、このような状態にはなり難いと思います。

 私たちは痛みを知り、懲りることを知るので、変化しなければならず、変化して行き、最後の結果は節を抜けて、妻子を捨てて出家することもあるからです。だから私たちは、行き詰っている在家の生活はどのようか、そして善処している、善くしている在家は詰まらず、先端まで出て行くことができると、良く見なければなりません。

 重い船のように、重い荷車のように遅く進んでも善くすれば達成でき、多少遅くても非常に賢いです。だからその飛んで行ける人は、かつてはもっと愚かで、歩いたことがある人より愚かだったかもしれません。だから「苦はいつでも悪い物」と、苦を見下さないでください。苦は私たちを賢くし、苦は人をサンマーサンブッダ(自力で悟ったブッダ)にします。

 だから在家が苦に満ちていれば、苦をその状態で、賢くする状態、あるいは人をサンマーサンブッダにする状態で迎えてください。人の暮らしに苦がなければブッダは生まれなくても良く、生まれる必要がなく、あるいは生まれられません。苦が絞り上げるから、ブッダが探求して発見し、サンマーサンブッダになりました。次に私たちは自分で探す必要はなく、ブッダの説明、忠告の言葉を受け取れば、滅苦はより簡単な点が有利、あるいは恵まれていて非常に幸運と言います。

 だからそれを無駄にしないで、正しく迎えて、ブッダが自分の利益になるようにしてください。普通の言葉で言えば、ブッダ、あるいはブッダが悟ったことは、私たちにとって利益があります。今みなさんは全員、出家して剃髪し、黄衣をまとっていて、みなさんにとってブッダの悟りに利益がなければ、このように出家をしていても、みなさんはバカみたいです。

 これを良く聞いて、持ち帰って考えて理解するようお願いします。そうすれば正しくなり、有益に使えます。何日も出家していなくても、それでも十分な利益が得られます。どうぞ関心を持ってください。

 今日の話をまとめると、在家の苦は、愚かな在家か賢い在家か、善人か非善人か次第で、愚かな在家ならすべての種類の苦が狂うほど山積みにあり、賢い在家なら障害を除けて脱出でき、そして苦より上にいる賢い人になると言います。

 だから在家の苦は、その人がどの種の在家か次第で、善いとも悪いとも言うこともできます。世界に生まれたことの勝者になり、世界に勝ち、すべてに勝つために、そして人間に生まれて、仏教に出合ったことを無駄にしないために、在家の生活の苦をこのように知ってください。これだけで十分です。

 今日はこれで終わります。



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