6.在家の幸福





1970年4月24日

 四時四十五分になりました。今日は、在家の幸福と題して講義させていただきます。

 今まで話して来たいろんな話を初めから思い返して見ます。前置きとして人間全般についての話は、一般に在家は世界(俗世)で生活しています。世界は「この命に二頭の水牛を繋がなければならない」と言うまで、「人間はなぜ生まれたのか。何を得るために生まれたのか」、そして前回お話ししたように「実践するタンマと、実践を成功させる道具であるタンマの実践と、タンマの行動の話を知る」とある目的に至るまで、知識と知識に応じた実践のための力がなければなりません。

 次に受け取る結果は在家(ガラーヴァーサ、あるいはガルハサ)の幸福です。しかし言話す葉が複雑に混乱させる点に問題が生じます。

 ガルハサ(在家)の幸福と言えば、ガルハサとはどの人たちを指すのかという問題があります。言葉を捉えるのと言葉の意味を捉えるのとでは、広さに大きな違いがあり、そして本当にある事実を掴めば、どういう人がガラーヴァーサか、タイ語について話すのは非常に難儀です。

 みなさんはまだ考えたことがないかもしれませんが、タンマの実践、あるいはタンマを教える時に生じる問題なので、私などは慣れるまで考えなければなりません。ガルハサである人は出家ではなく、いろんな種類があると、このように考えて見てください。

 ヤクザな人もガルハサで、善い庶民もガルハサで、学者、知識者で賢く能力がある庶民もガルハサで、ガルハサである預流、一来、不還もいます。これらの話を読んだことがなければ、みなさんは知らないかも知れません。ヴィサーカー大清信女、あるいはアナータピンディカー長者の名前を聞いたことがあれば、それは預流であり、聖人と知ってしまってください。

 しかしその方々は在家で家で暮らし、夫や妻や子があり、子や孫と暮らしていました。そしてその時代には、預流や一来である在家は、他に何百、何千人もいました。

 次に高くなって有名な不還がいます。パーリ(ブッダの言葉である経)の中にカティカーラプッタという名前の人がいます。彼はそういう名前の不還で、土鍋を作って売り、盲目の両親を扶養していました。パーリには「彼は土を掘って来る必要がなく、動物が掘った土の塊を持って来て、捏ねて鍋やいろんな食器を作って売り、盲目の両親を扶養した」とあります。これは不還で、ブッダの父君など、まだ他にもたくさんの不還がいました。

 みなさん、在家の意味は何か、探して見てください。アナータピンディカー長者、ヴィサーカー大清信女は在家でしょうか。これは問題はありません。まだ家を治め、子や妻や夫と暮らしているからです。しかし不還である人たちは、子や妻や夫がいる類の家は治めません。しかし家にいて、お寺にいないで、普通の在家の服装をし、性の用事をしない点だけが違います。

 彼らの心は、怒ったことがないほど高いです。それで誰が心のことを知るでしょうか。家で食べて、普通に着ています。私たちの普通の感覚では、あるいは普通のタイ語で言えば、彼はガラーヴァーサ(在家)、あるいはガルハサ(在家)であると言わなければなりません。みなさん、最高に悪いやくざ者から、普通の人、賢い人、善人、それから預流、一来、不還まで、どの人が在家でどの人が違うか、追って見ることもできます。

 普通に言えば全部家にいるので、ガラーヴァーサ、ガルハサと見なさなければなりません。どういうのを在家の幸福と呼ぶかという問題になると、答えに詰まります。それは同じでなく、雲泥の差があるからです。土鍋を作って売って盲目の両親を扶養した人は、どんな幸福があったでしょうか。妻もなく、その日その日を、土鍋を焼いて売って両親を扶養する以外には、財産もありません。

 ナワコワーダのような教科書を開いて見れば、在家の幸福は四つあると言及しているキヒパティバッティ(在家の実践)の類のタンマがあります。つまり、

1.財産があることから生じる幸福、

2.財産を使って消費することから生じる幸福、

3.借金がないことから生じる幸福、

4、罪のない仕事をすることから生じる幸福です。

 多くの方が勉強したことがある、あるいは大学にいる時に勉強したことがあると思います。タンマの名前を勉強させるからです。財産から生じる幸福、消費から生じる幸福、借金がないことから生じる幸福、罪のない仕事から生じる幸福。善い在家である一般の在家は、このようです。

 つまり財産を探して来て、財産を使って消費し、それから借金がないので気の重さがない心で暮らし、している仕事は、刑務所などに囚われなければならない罪がない。私は、これは一般的で初等の教えでしかないと見ることができます。在家はもっと善い、もっと高い幸福を探求することができます。

 お話したように、レベルの低い在家は生計を営む実践をし、タンマがある中間レベルの在家はプンヤービサンダ、あるいは預流支に関わる実践をし、これは、もっと高い幸福になります。

 レベルの高い在家は、ブッダの提言どおり空の実践をし、これは、時々一時的な涅槃の状態、あるいは在家に生じがちな様々な苦を軽減できるくらい、極めて高い幸福になります。そして彼らは、これを在家の幸福と、あるいはどのような幸福と見なしません。

 預流である在家には四項があります。ブッダへの固い信仰、プラタムへの固い信仰、僧への固い信仰、そしてアリヤカンタシーラ、つまり聖人が満足する善い戒があります。これも在家です。そしてこの四つのタンマから生じる幸福は、財産があって消費し、借金がなく、刑務所に入らなくても良いだけより高いです。

 次に例として挙げた不還について話せば、盲目の両親を扶養しなければならないので、日々土鍋を焼いて生活する以外に財産は何もありません。話は盲目の両親を扶養しなければならない点にあります。でなければ出家するとか、他の何かになるとか、違う暮らしがあります。これを「財産がなく、日々働いて、死ぬまで両親を扶養し、そしてその後は財産を持つ必要はない」と言います。

 これは言葉から生じる厄介な問題です。私は「言葉が毒を生む」、あるいは、私たちがどういうのを在家の幸福と言うか分かるために、「言葉が、どういうのを在家と呼ぶかという問題を生じさせる」と言います。彼らは基本として言い、そしてブッダがある人に、「在家の幸福は、財産があり、財産を消費し、借金がなく、そして罪のない仕事があることだけ」と規定して答えたブッダバーシタがあります。

 これは一般の在家のための標準だけを捉えたに近いです。しかし在家は、述べたようにこれ以上の幸福を求めることができ、それは本当の心の中の感覚として心の中にあります。

 ここでみなさん「何が在家の幸福か」、あるいは「在家が得るものは何か」という問いにどう話すべきか、どう答えるべきか、自分で考えて見てください。前回、低いレベルの在家、中間レベルの在家、高いレベルの在家と三段階に分けたように分ければ、幸福は述べた意味の違いがあり、在家にも、人間が持つことができるすべてのレベルの幸福があると言うことができます。

 次にこれをハッキリ知るには、心のことを理解しなければなりません。つまりブーミ(境地)の話、すべての心のレベルについて知らなければなりません。もしかすると、仏教の心の境地について聞いたことがないかもしれません。あるいは心の境地を四つ、つまり欲界動物、形界動物、無形界動物、ロークッタラブーミ(出世間)と規定したのは、仏教以前、仏教以外ということもあり得ます。

 カーマヴァチャラブーミ(欲界地)は、まだ愛欲を回遊する心という意味で、

 ルーパーヴァチャラブーミ(形界地)は、愛欲には関わらず、形があるもの、形がある物を回遊する心で、

 アルーパーヴァチャラブーミ(無形界地)は、一層愛欲に関わらず、形のない物を回遊する心の境地で、

 ロークッタラブーミ(出世間地)は、世界より上にある心です。

 初めの三つの境地は世界の下にあるという意味で、欲界地・形界地・無形界地は世界、つまり愛欲界・形界・無形界の下にあります。世界より上にあるのは一つだけで、これは分けません。分ければ分けられますが、分けるのを好みません。世界の下にあるのは、欲界動物・形界動物・無形界動物の三つに分けます。私はこれをブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味。仏説)と信じません。

 アビダンマの人たちはブッダバーシタだと言いますが、私は信じません。後世になってできたものかも知れません。こういう規定は、ブッダ以前かもしれません。彼らは「愛欲・形・無形」について知っていたからです。そしてロークッタラブーミは、夢見たことがあるかもしれません。到達しなくても、少なくとも、世界より上のものを夢見たかもしれません。

 次にこのように規定したものに、あるいはその経典の中で、往々にしてロークッタラブーミは、預流、一来、不還、阿羅漢だけと説明されること、そのように決められた教えに問題が生じます。預流も二つ、預流向と預流果があり、一来も二つ、一来向と一来かがあり、不還も二つ、不還向と不還果があり、阿羅漢も二つ、阿羅漢向と阿羅漢果があり、これで八つ、涅槃を足して九つをロークッタラダンマ、つまり世界より上のタンマと言います。

 だから預流、一来、不還、これらは世界より上のロークッタラと規定されています。そしてみなさんは、預流や一来には、例に挙げたような、まだ在家であり、子や妻や夫と暮らしている人もいることが理解できません。教えではこれらの人もロークッタラブーミで、まだ在家で出家していません。

 次に彼らの幸福は何かです。心の境地についてお話して基礎にすれば、他のことが理解し易くなります。欲界地の人たち、あるいは欲界地の意味は普通の領域であり、まだ愛欲と呼ぶもの、あるいは欲情に満足する心で、まだこの部分の通常範囲である満足があります。

 形界地の人たち、あるいは形界地の意味は、心が愛欲、あるいは五欲と呼ぶ普通の領に満足するという意味で、この部分の普通の領域に満足があります。形界地の人は愛欲の話、五欲の話は欲情を妨害するものと見、欲情の妨害のない生活を望むので、背を向けて愛欲出ないもの、例えば芸術品や自然の美しさなど、純粋な形のあるものを、形のある物から生じる幸福が得られるまで求めます。

 愛欲に関わらない動物の飼育や、植物の栽培をする人もいて、愛欲に関わらないほど満足すると言いたいと思います。ね、心がもう一つの境地へ移動します。

 次の人たちは形の話を、これもまだ複雑で厄介なものと見て、背を向けて形がない物、形がないこと、空、識、何もないことについて思います。こういうのを目指します。彼らの教えでは、空、識、無、死んだのと変わらない心、つまり何も感じない心と明示していますが、その幸福を欲しがる「俺」「私」という感覚はまだあります。

 これはとても深遠で、何もない物である空の話、識の話、緻密なものである名の物(抽象)の話に興味があり、何かに興味がなく、何もないことに興味があります。

 そしてその無への関心を心の感情にし、その無形のものから幸福が生じるまで、心を無だけに埋め、あるいは無だけを感じます。彼はアルーパーヴァチャラ(無形界動物)である境地と言います。アルーパ+アヴァチャラ、アヴァチャラとは遊ぶ、そこで遊び回るという意味で、無形であるもの、あるいは形がない物で遊びます。

 このような三つが世界であり、感じる物であり、そしてそれは変化するものです。世界とは崩壊があるものという意味で、あるいは世界に関わっているので、ローキヤと呼ぶこともあります。ローカは世界で、ローキヤは世界に関わっているという意味です。ロークッタラブーミは、どんどん自分がなくなり、俺がなくなり、最後にはまったくなくなる心で、「私がいる。自分がいる」という感覚は残っていません。

 初等の三つのブーミ(境地)は自分が濃厚で、濃厚な自分があります。私はこういう幸福を探す。私はそういう幸福を探す。これはすべて濃厚な自分があります。ロークッタラブーミは、なくならなければならない、確実に尽きるという状態で、自分が薄くなり始めます。これがロークッタラブーミの話です。

 彼らが話して教えているのは、住んでいる場所で分け、欲界地は人間と畜生、あるいは人間や畜生のように狂っている天人もこの世界にします。この世界は人間、あるいは畜生、地獄の生き物までいます。地獄の動物はどんなに苦しく大変でも、彼らはまだ欲情を求めています。天人になると別の世界にして、みなさんも聞いたことがあるように天人を別の世界にし、「天人はどこにいるか言うことはできない」と言います。

 そして四大王天人、樹神など、人間界と天人界に関わっている半分天人の類の天人もい、そしてまだ、兜率天レベルの天国、五欲の最高度に至る他化自在天までいるので、どこにいるか言うことができません。しかし、ここより上の別の世界にいると言うのを聞きます。彼らがこのように言うのには注意してください。

 次に形界地、あるいは形梵天になり、彼らは梵天界と呼びます。どこにあるかは、彼らも言うことができませんが、この世界の外、欲界地である天人界の外を指します。梵天界、別の世界がありますが、彼らはどこにあるか言うことができず、あると主張するだけです。

 無形界地のレベルになると、この無形界地もまた別の世界に分けます。ロークッタラと涅槃になると、彼らは死んだ時と言い、あと何十生か知りません。死んでまた死んで、死んでまた死んで、何万生後に涅槃に到達するので、どこにあるかは、まったくもって知りません。

 そして「涅槃は宝石の国」と話して物質にする言い回しがあります。シヴァモッカシヴァーラヤとも言い、違う方の言葉の意味を持ってきます。だから子供は、涅槃の国はどこにあるの?と、益々こんがらかります。年寄りは「おやまあ、まだ知ってはいけないよ」と言い、不死やら何やら、あれやこれやの状態にし、「質問してはいけない。知ってはいけない」と先送りにします。彼らはこのように説明します。こういう人たちもいます。

 人間界はここにあり、畜生と普通の人間を詰め込み、そして地獄と悪趣は下の方にし、地下を指さし、天人界は上を指さし、梵天界になるともっと上を指さします。そして最高の梵天界はもっと上を指さします。涅槃はどこにあるのか正しく指させないので、「あと何生も後に、いつか到達するか知らない」と、このように話す人もいます。心を四つのレベルに分け、それらの人はどこにいるのかと問えば、彼らはこのように指差します。

 次に賢い子供は「預流や一来や不還、阿羅漢の方々はどこにいるの」と質問します。ヴィサーカー大清信女、アナータビンディカ長者の話をしたように、この世界にも不還がいますね。彼らは物質に偏りすぎる規定をするので撚り合わせるのが大変です。阿羅漢はロークッタラブーミ(出世間地)にいると言い、どうしてここ人間界で私たちと一緒になるのか答えられません。だから問題は、そこで宙ぶらりんになります。このように体を基準にして彼らが物質の状態で話す厄介な問題が、まだ沢山あります。

 私は、心のブーミ(境地)の話は心次第で、心がある所に世界があり、心の有り様が世界の有り様と見ます。だからこの世界、人間の世界は、すべての境地(ブーミ)とすべての界(バヴァ)が揃っていて、心が今どのようか、心の有りよう次第と見ることができます。

 心が愛欲に埋もれ、欲情を崇拝していれば、世界はその人にとって欲界地になり、心が形界地、あるいは無形界地の人は、その人にとってこの世界は形界、形界地であり、あるいは無形界、無形界地です。私たちが何かに関心があり、あるいは執着すれば、他のものは無いのと同じだからです。心を基準にします。

 残っている問題は、その人は永遠にそのようか、あるいは一時的か、だけです。永遠にそのようなら問題はありません。たとえばこの人は欲情を嫌い、生涯欲情でない物を好む心があれば、問題はありません。その人にとって、世界全部は形界、無形界で確実に変化しません。

 しかしここで、心はまだころころと変わり、この一時間は欲情を好み、次の一時間は休憩を好んで欲情と関わらず、向きを変えて物質である話、あるいは物質である物に関心を寄せます。その時です、複雑な界の変化、境地の変化と言うのは。そして非常に混乱します。そして自然では、四つすべての境地があることもあります。(「自然で」という言葉を忘れないでください)。

 A氏は普通の人で良い教育があり、良い地位と生活があり、年もとっています。一時間は欲情の話、性の話、したことがある何かの話に興味をもち、また別の一時間は飽きて、物質、芸術品、あるいは飼っている動物、あるいは欲情と関わらないものに埋没します。時には何時間も、何日にもなることもあります。

 時にはこれらのバカみたいなものに飽き、心を抑え、功徳の話、来世の話、あるいは名誉名声、美、善の話に満足し、どっしりと落ち着いて別人のようになります。時には何もない暇な時間を好み、心を妨害するものがない、空であることを好みます。あるいはヴィパッサナーの実践を勉強したことがある人なら、時々、心を妨害するものを無くすことができます。

 ね。A氏は四つのプーミ(境地)全部ありますが、厳格で永遠でなく、時々で、今はこのプーミ、今はそのプーミと変化してばかりいます。あるいはその人がうっかりすれば、悪いレベルの欲界地になることもあります。あるいは過ちを犯して焦燥すれば地獄に落ちたようになり、あるいは刑務所に入ることもあります。凡人はこのように変化するので、悪を行えば心が苦になり、この世界にいても、悪趣に落ちます。人間界で生きていても、心は悪趣の境地に落ちるので、不善である欲界地と言います。

 だから一人の人が、いつでも地獄の動物、畜生、餓鬼、阿修羅になれ、普通の人間にもなれます。そして形界地になり、天国の天人になり、一時天国の天人のような幸福と満足を得ることもできます。そして述べたように、見本として話したように梵天界の梵天になり、今味見の聖人になることができます。私は味見という言葉を使いますが、一時聖人のような心になることもあります。妨害するものが何もない心があり、何も執着がなく、味見の聖人になることもできます。

 本当の聖人は二度と戻らないという意味で、味見の聖人は元に戻ります。つまり一時だけ空に、自分がないことに満足を感じます。普通の人は、このようにどれにもなることはできませんが、善いレベルの在家はこれほどになれます。涅槃という言葉は、いろんな重さの、あるいはいろんなレベルの意味のいろんな言葉があるからです。

 例えばタダンカニッバーナ=偶然の涅槃などは、涅槃と呼ぶこともできますが永久ではなく、たまたま執着がないすっきりした心になります。例えば自然に囲まれた場所へ行くと、心が空っぽですっきりして、タダンカニッバーナである心になることができます。あるいは善人や聖人と話をすると、一時的にすっきりした心になることができます。こういうのを、偶然の涅槃と言います。そして本当の涅槃と同じように冷静で快適な心になりますが、一時だけの話です。

 何かの念処をすることで自分を支配し、心を長く空っぽにし、涼しくできれば、それはヴィッカマバナの涅槃、自分で作った、自分で調整した涅槃です。

 次は本当の涅槃、本当の阿羅漢で、それも幾つものレベルに分けることができます。そして、生きているうちに自分で知ることができる涅槃と、後で、そのうちゆっくりなる涅槃の、大きな部分に分けることができます。

 だからこの世界にいる在家は、時には涅槃の味見をするにふさわしい心になることがあり、何時間、何日、何か月でも一時満足すると見なします。今その人を、ロークッタラプーミの範囲にいる、あるいは偶然のロークッタラプーミにいるとするべきです。

 家に住んで、子があり妻があり夫がある在家でも、四つすべてのプーミに変化し、まだ死んでこの世界を去ってどこへも行かなくても、一時欲界地に、一時形界地に、一時無形界地に、一時ロークッタラプーミにいますが、それは一時だけで永久ではないと理解しておいてください。

 私は、それは言語ゆえに難しいと言います。在家はどんな幸福があるか、在家が得られる幸福と言うものはどの種類かと言えば、欲界地・形界地・無形界地・ロークッタラプーミの四つのレベルがあります。在家は身体を基準にすることはできません。在家のほとんどは欲界地を回遊する心の所有者なので、欲界地を在家の標準にします。そしてその在家の人も、時には形界地・無形界地・出世間地に行くことを忘れないでください。

 だから私自身も進んで在家を話したような三つのレベルに分けたいと思います。低い在家・普通の在家・高いレベルの在家。あるいは普通の部分だけの在家が六方のような低い在家のタンマの実践をすれば、述べたような幸福を受け取ります。使うお金があれば幸福で、お金を得るのも幸福で、借金がない快適さもあり、そしてこの世界の在家であることに関わる、関連する罪がなければ快適です。

 次に中間レベルの在家になると、ブッダ・プラタム・僧に安定があり、善い戒があり、その人は高くなった幸福によって幸福です。つまり善や徳、あるいは初めの物より価値が高い善による幸福です。ここでブッダの空を実践できる高いレベルの在家、これらの在家は聖人のようにすっきりして快適な心になる機会があり、聖人に入れることもできます。そしてその人が出家していない在家の預流、一来、不還なら、全身この中です。

 在家はどのように幸福を探求できるかと言えば、このようにロークッタラまで高くなります。永遠のロークッタラも一時的なロークッタラも全部ロークッタラです。心が世界・愛欲・形・無形より上にあればロークッタラで、他になる余地はありません。五分そうなれてもまだ善いです。在家の幸福は、人々の標準では食べること、遊ぶこと、何でも在家式で五欲の話です。彼らがそう言うのは、一般大多数を基準にするからです。

 しかし事実は、世界が在家と呼んでいる人は天人にもなれ、梵天にもなれ、味見の聖人にもなれ、例を上げて聞かせたように、本当の預流、本当の一来、本当の不還など、本当の聖人にもなれます。何も財産がなく、動物が掘った土で鍋を作って売り、盲目の両親を扶養した人は聖人ですが、在家の形で暮らしていました。

 ここでヴィサーカー大清信女の話を見て見ると、子が三十二人あり、それぞれの子に三十二人ずつの孫があり、それぞれの孫に三十二人の曽孫があり、生きているうちに子や孫や曽孫で何百人にもなり、時にはこの孫が死んだ、この孫が病気だと泣くことがあったと言います。この大清信女は預流で、教典にはこのように書かれています。アッタカターダンマパダには、このように書かれています。

 預流でもまだ生計を営み、夫がいて在家の仕事があり、子を育て、何百人もの孫を育てて、時には泣いてブッダを訪ねました。こういうのも在家と呼ぶことができ、そして預流の幸福があります。だから私は、話す言葉と真実は違うと区別して話し、事実はどうかと訊かれれば、また別です。

 在家は、彼らが規定しているように、不潔で下品である必要はなく、不還に到達することもできます。しかしほとんどすべての在家はどうかと言えば、また別です。どの点を在家とするかは、ほとんどは普通の在家にするべきです。そしてその人はどれにでもなれることを忘れないでください。在家は、そのような心があれば、地獄の動物にも何にでもなれ、そして普通の人間にもなれ、天人にも、梵天にも、聖人にもなれます。

 みなさんがこの世界を「人間の世界には全部揃っている」と見るために、この人間界にはこのように全部揃っています。そしてそれは世界の中でなく、人の心の中にあります。天国は胸に、地獄は心に、涅槃は人の心にあります。

 だから世界は人の心の中にあり、悪の世界、人間界、あるいは天人界、梵天界、いろんな種類の世界全部は心の中にあり、人の心が世界です。在家であることはどの点にあるかは、彼らが話す言葉で規定した在家のような心がある時です。

 次に話す言葉になるといろいろ矛盾があるので、私は「言葉はいろいろ理解する障害になる」と言います。みなさん、言葉を基準にしないで、事実を基準にしてください。このように同じ言葉を使っても、バカな人と賢い人は言うことが違い、死ぬほど混乱します。幸福という言葉も、ヤクザな人たちの幸福と善人の幸福は違います。同じ言葉を使ってもね。そしてその幸福の満足は、同じかもしれません。

 ガルハサは、ガルハ=家にいる人、ガラーヴァーサとはガラ、つまり家を治めている人という意味です。この「家」とは、家屋を意味しません。そういう意味なら、私たちも家と同じクティ(僧房)に住んでいます。家というのは、むしろ欲情、少なくとも愛欲と呼ぶものを意味します。

 家には愛欲と呼ぶもの、性の話、子や妻や夫の話があり、あるいは財産やら何やら複雑で、それをタンマ語で「家」と言い、書き言葉では、家屋を家言うことができ、朽ちて誰も住む人がいない家も家屋と呼ぶことができます。高いタンマ語の家は、お金や財産、妻子や夫、名誉名声、交際やら何やらから生じる、心の中で騒がしく混乱し熱中するものを意味します。厄介な話を家と言い、建物である家を意味しません。

 家を治めている人あるいは在家は、このタイプの混乱で生活し、幸福は非常に求め難く、束縛と焦燥に満ちています。お金や交際や何でも、問題を多少は解決してしてしまわなければなりません。そうすれば息をつく暇があります。だから財産があり、子があり、妻があり、正しい名誉やら何やらが正しくあること次第です。正しくできなければ刑務所に入らなければならないので、それは罪がある仕事です。

 話してきたので「在家は混乱の話で、混乱の中の暮らしで、このような束縛を在家という言葉の意味」と、大体の意味が分かります。次に心を基準にすればもっと遠くへ行きます。このように家にいても、心はもっと高く、もっともっと高く、小さな小屋に住んで土鍋を焼いて売って両親を扶養するまで行きます。

 心を基準にすれば、このように遠くへ行くことができます。最後に普通の在家、あるいは悪いレベルの在家は正しく手に入れた財産、名誉名声を幸福とし、中間レベルの在家は善、美、純粋な徳を幸福とし、高いレベルの在家は、執着しないことから生じる幸福を幸福とすると、まとめることができます。

 私が話すと、彼らが話すことと全部違います。彼らが話すのは、執着しないことに関わりません。彼らは、在家に空の心の話、執着しない話を学ばせません。私はこれ、つまり「空の話はブッダが勧められた」と言います。そうでなければ、在家は炎熱地獄にいるような機会があります。

 今子が死に、今妻が死に、今夫が死に、今財産が焼失し、あらゆることがあり、いつ地獄に落ちるかもしれないので、空の話、無我の話を、在家を見事な在家にする防具にしなければなりません。善い凡人なら善いことがいっぱいで、見事な状況があり、地獄の動物になるほど苦ではありません。

 もう一度まとめると、在家の幸福は低レベル、中間レベル、高レベルの三つのレベルにしてください。低レベルは食べること、性のこと、ふさわしく正しい名誉の話で、中間レベルは自分を拝める高い心の面の善や徳の静かさで、高いレベルなら聖人に準じ、あるいは聖人になり、基本として執着がなく、そして在家の範囲の可能な限り執着がないことがら生じる幸福があり、それで終わりです。

 みなさんは大学で勉強して、このような話を勉強したことはありません。私は「まだ高等教育ではない」と言います。まだ「なぜ生まれて来たか」、どのように、何種類になれるかを知らないからです。だからみなさんは、自分の知識を本当の高等教育にするために、このような話を聞いて知識を増やしました。

 ツグミがもう十分と鳴いているので、これで終わります。




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