5.道具である在家のタンマ





1970年4月23日

 二十時三十分になりました。今日は「道具の類のタンマである在家のタンマ」についてお話します。前回は直接在家のタンマについて、低い・中間・高い、三つのレベルがあると見えるよう指摘しました。在家は三つのレベルの在家のタンマがなければならず、あれば幸福な在家です。

 低い在家のタンマは、生計を営むこと、交際、六方の話などであり、必ず善く実践しなければなりません。そうすれば財産があり、名誉があり、善い交際があり、在家の一つの部分、低いレベルの在家のタンマがある、在家のための在家の義務の話は終わります。

 次に在家は中間レベルの在家のタンマ、つまりブッダ・プラタム・僧を知り、そして善い戒がなければなりません。これは、タンマの面で心を高くするための高くなった話という意味で、これを中間レベルの在家のタンマと言います。仏教の教えを正しく知らなければならず、そしてブッダ、プラタム、僧に信仰があり、堅固な帰依があり、善い戒がなければなりません。

 そうすれば高いレベルの心の幸福があります。しかしこれだけではまだ十分でなく、例えば事故が起きるなどいろんなことが望みどおりにならない時、あるいは他の苦が生じた時に在家が悟るために、「空」あるいは「無我」と呼ぶもう一段高い在家のタンマが必要です。

 病気でさえ、空や無我の知識を悟る道具にすれば、事故や自然の成り行きで生じる苦を振り払ってしまうことができるので、苦はありません。さもなければ愚かな在家で、いろんなことが望んだようにならない時苦があります。

 在家は「何もかも、自分の思い通りになるものは何もない。望みどおりになることは非常に少なく、そして非常になり難い。だからこの問題を解決するために、子が亡くなった時、夫が亡くなった時、妻が亡くなった時、あるいは盗難や火事や治療できない病気などが生じた時、在家が生き地獄に落ちて泣いてばかりいないために、高いレベルのタンマがなければならない」と知ってしまうべきです。

 そうすればその在家は、それほど苦はありません。在家には、このように三段階の在家のタンマがなければなりません。しかしこの教えを持たせたがらない人がいて、空などの高いタンマの話を在家の話と捉えさせませません。しかし三蔵のパーリにハッキリあり、ブッダは「空の話は在家にとって永久に利益になる話」と言われています。

 みなさん、持ち帰って後で考えてください。タイの、他でもないクルンテープ(バンコク)で、在家が空の話などを知らなければならない、勉強しなければならない話を、彼らは「高すぎるから教えるべきでない」と非難して反対し、そして「在家の発展の妨害になる」と言います。

 このように違います。低いのは生活するため、中間のは心の面、精神面、宗教面の徳や善を身につけるため、高いのは子や妻が亡くなるなど望みどおりにならないことが生じた時悟るために、在家は三段階の在家のタンマがなければならないと常に主張しています。三つ揃えば、生き地獄に落ちない在家です。これが、是が非でも実践しなければならない話と主張させていただく話です。

 次にみなさんは往々にして実践できないので、タンマには二種類あり、実践しなければならないタンマと、実践しなければならないタンマを実践させるタンマがあると説明したように、ここで何としても実践させる道具になる、在家のためのもう一つのタンマがなければなりません。今日は、述べたように三つのレベルがある在家のタンマを実践させる、道具である在家のタンマについてお話します。

 道具である在家のタンマも、サッチャ=誠実、ダマ=自制、カンティ=忍耐、チャーガ=心の中にあるべきでないものを棄てる、の四項あると、パーリ(ブッダの言葉)で明言しています。この四つ全部を、道具である在家のタンマと言います。この四つはどのような道具か、一つずつ説明します。

 初めのサッチャは「真」で、その実践をする本当の決意をサッチャと言います。最高に固い決意をパーリ語で「アディッターナ」と言い、あるいは「サッチャーディッターナがある」、つまり「自分がする何らかの本気の決意がある」と時々耳にするように、二つの言葉を合わせてサッチャーディッターナ(誓願)と言います。これがどのように重要か、みなさんは理解できます。誠の決意がなければならないのが初めです。

 何が何か、あるいはどうしなければならないか知っていても、それだけでは十分ではなく、そのことにサッチャーディッターナ(誓願)がなければなりません。だからある種のいろんな儀式、つまりあれこれする誓願の儀式にも利益があります。成功するまで止めようとしないなら、例えば「必ず成功する。成功しなければ死ぬ。二つに一つしかない」とアディッターナ(誓願)します。

 ブッダが大悟するために努力なさった時、このようなサッチャーディッターナがあり、菩提樹の木の下に座ると、「何もかもなくなり、残るのは骨だけになっても、サンマーサンボーディニャーナ(正菩提智)に到達しなければここから立ち上がらない」とアディッターナ(決意あるいは誓願)され、最終的にその日、サンマーサンボーディニャーナに到達しました。

 他の人の話も同じで、心の話ならサッチャーディッターナがあるのは、最高にふさわしいです。心の話は自然の外部の物質より、あるいは他人に関わることより簡単にできるからです。外部の物質と他人に関わることの二つは支配できないか、少ししか支配できませんが、自分の個人的なこと、更に心の話なら、サッチャーディッターナの範囲内にあります。

 次に学校や大学でみなさんが勉強しているような最も低い話をすれば、サッチャーディッターナがあり、本当にすれば今より善い結果があります。今あるのは決意だけで、決意をしても、いつでも毎日、気まぐれで当てになりません。本気で決意すればこれより善くなります。考えて見てください。

 みなさんが勉強で本気で決意すれば、少なくとも二三十パーセント、今より必ず善くなります。どうしようもなく、当てにならず、何でも一日延ばしにする、あるいは怠けている時間があるので、それが見えたら、このタンマを尊重しなければならない重要な教えの一つと見なさなければなりません。これが最初で、アディッターナ(誓願)というほど本気の決意です。

 二つ目はダマで、自制する、自分を制して支配する、自分の心を支配するという意味です。心と呼ぶものは支配し難いと誰でも知っていて、支配し難いと理解できます。しかしブッダは支配しなさいと教え、降参させません。ダマに関するブッダバーシタは、非常に興味深いです。つまり「自分を苦しめなさい。盛りがついた象を支配できる賢い象使いのように、自分を支配しなさい」と言われました。

 これをイメージして見れば、理解が簡単になります。普通の象でなく盛りがついた象で、「賢さがある」象使いなら、盛りがついた象を支配できます。同じように私たちも自分の心を支配できなければなりません。賢い象使いでなければなりません。愚かな象使いなら象によって死にます。心は盛りがついた象以上だからです。

 みなさん。心は盛りがついた象以上で、それに触れなければ何も毒が無いように見えると、良く観察して見なければなりません。このように座ってこのように考えていると、心は支配下にある、あるいは管理しやすい、支配しやすいように見えますが、支配し始めると抵抗し始め、盛りがついた象以上に暴れます。そして正しい方法でしない愚かな象使いなら、狂うなど、死ななければなりません。

 間違った方法で心を支配することは、その人の体を狂わせます。賢さが足りない象使いが盛りのついた象を支配すると、死ななければならないのと同じです。

 私たちは心の話について賢くなければなりません。そうすれば正しい方法なので、支配できます。心を支配する方法は、一つ一つ違う特別なテクニックで、どんな状態で支配するにも、その状態の勉強をしなければなりません。たとえば支配してサマーディにする、あるいは支配して神通力があるようにするには、どれも、特にその話だけの正しい方法でなければなりません。しかし手法が間違っていれば苦になり、狂ってしまうこともあります。

 だから心を支配する話は、パッガーハ(策励)とニッガハ(叱責)の二種類に分けられています。策励は、善くするために教え、善くするために繋いで心を大事に支え、叱責は直接脅し、直接支配します。だからどの方法でどうするか、あるいは出来事に間に合うように、どのように両方を使えば心を支配できるか、場合を見なければなりません。

 盗みをする子供を常に棒で支配するのは大騒ぎで混乱しますが、お金や菓子を与えるとか、移動させるなどして支配し、あるいは何かしてみる方が解決できるように、心のことも、策励と叱責があり、叱責は鞭を使うように脅し、策励は菓子で支配するように大事に支えます。

 心を子供に例えると、非常に真実である部分があります。つまり子供は何も知りません。象に例えても非常に真実があり、頑固になると危険なほど力があります。観察して良く熟慮して心のことを知り、心の自然を知り、心の策略や欺瞞を知れば、最後には支配できます。宗教の話なら教科書として、教えとしてすべて漏らさず書かれていますが、庶民の話なら心を支配する方法を自分で探さなければなりません。

 みなさんが、ふさわしくない場合に映画を見に行きたくなった時などに、心と闘って見てください。そうすれば心の自然に出会う機会、あるいは心を支配する機会があります。

 この心を支配することをダマと言い、二項目のダンマです。一項目はサッチャ、本気の決意で、この本気の決意は、往々にして維持し難く、いつまでも本気ではないので、ずっと本気であるようにするために、本気の決意の枠内にいるよう強制する二項目がなければなりません。

 三項目のカンティは忍耐という意味で、これはもう一度引き継ぐために、必ずなければなりません。心を支配するのは大混乱で大騒ぎで、痛みがあるから、大騒ぎだから、耐えなければなりません。

 忍耐がなければそこで破滅するので、忍耐でもう一度受け止めなければなりません。沈着さと忍耐が必要で、そうすればそれほど大騒ぎにならず、狂わないで済みます。心に対して厳しさがあれば、我慢できるよう、待てるよう、心を制止できるということです。

 すべての成功は思っているほど早くなく、時間を必要とし、時にはたくさんの時間が必要なので、我慢できなければ破滅します。まだ結果を受け取る時が来てなく、そして我慢できなければ止めてしまいます。だから我慢ができ、待てなければなりません。仏教の比丘については、「涙で梵行をする」という、とても響きの良い言葉があります。

 比丘、出家は、実践しなければならない教条、律があり、それは私たちの心情に逆らうので我慢し、涙を流すほど忍耐しなければならなくても、実践項目を無にしたくないという意味です。だからこの忍耐は、正しく言えば「煩悩の抑圧に耐えること」です。

 学校では大抵「他人の非難に耐える。自然の暑さ寒さに耐える。病気の時の苦受(苦である感覚)に耐える」と教えます。私は「こういうのは難しくない。これは子供の遊び」と言います。一番難しいのは煩悩、貪りでも怒りでも愚かさでも、心を焼き炙るものの抑圧に耐えることです。

 みなさん、貪りがあったことがあれば、どれほど毒があるか、どれほど忍耐しなければならないか、観察して見てください。映画を見に行きたい、何か放蕩をしたいでも、望みどおりにできなければどんなに毒があるか。それが煩悩の抑圧です。ここでもっと凶悪な種類の煩悩は、私たちの破滅だけを待っています。

 煩悩の抑圧は、愛の話、憎しみの話、嫉妬や恐怖、その他何でもあり、抑圧ばかりです。特に災害、別離、望み通りにならないことなど、煩悩の望みどおりにならないことは、最高に抑圧します。だからアディヴァーサナカンティ=最高の忍耐であるカンティと呼ぶ忍耐をしなければなりません。

 低い忍耐は、自然の暑さ寒さに耐え、病気の時、苦受が生じた時に耐え、人に非難され侮辱された時にも耐えますが、自分の内部の煩悩の抑圧ほどではありません。いずれにしても何でも耐えなければなりません。簡単な忍耐、普通の忍耐もしなければならず、最高の忍耐は、煩悩の抑圧を忍耐します。

 他のものではなく今までの人生でこれほどの忍耐をしたことがあるかどうか、考えて見てください。、他でなく、今までの勉強で、自分を尊敬したくなるほど崇拝すべき忍耐をしたことがあるでしょうか。今自分を支配する人は誰もいません。自由で、したいようにできるので、あまり忍耐がありません。「今夜これを終わらせる」と決意して、そして自分を支配して眠気を我慢し、いろんなことを我慢して、忍耐できるでしょうか。

 眠くなったらいろんな方法で眠気を解決し、そして勉強を続ければ、忍耐でそれを終わらせることができ、それから眠ります。こういうのをしたことがありますか。すべて忍耐と言います。抑圧を受け止め、簡単に挫折しないで自分を支配しなければなりません。つまり継続して忍耐すれば、自分を支配することも継続できます。

 次は最後、四項目のチャーガで、耐えなければならないものを排出することです。チャーガは「与える」、あるいは「寄付する」という意味です。しかしここでは物を意味しません。チャーガは物を与える意味もあり、物以外を与える意味もありますが、ここでは、自分の心の中にあって欲しくないものを寄付する、善の敵であるものを棄てる、あるいは自分の心から出してしまうことを「チャーガ」と言います。

 これは耐えられないほど、あるいは庶民が「堪忍袋の緒が切れる」と言う、忍耐で死ぬほど耐える必要はないという意味です。カンティは忍耐ですが、どんなに忍耐ばかりしているか知りませんが、堪忍袋の緒が切れ破産します。そこで堪忍袋の緒が切れないように、常に排出する弁がなければなりません。つまり常に何かをして、我慢できないほど忍耐しなくても良いように、休まず排出させます。

 だから減らす助けになる物があれば減らします。私たちは心を慰めなければならず、経を唱えなければならず、休息やいろんな正しい方法で変化させることも含めて、何とか耐えられるようにするために、絶えず抑圧を排出させる穴になる、ふさわしいことを何かしなければなりません。

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 パーリ語には憶えやすい言葉があります。初めの言葉はアパーヤで、アパーヤは悪、あるいは捨てなければならない頽廃です。二番目はサパーヤで、サバーイディー(タイ語でご機嫌、あるいは元気という意味)が生まれました。そして私たちはウパーヤ、つまり悪を消滅させ、サバーヤを生じさせる方法(方便)がなければなりません。

 三つの言葉の語尾は全部「パーヤ」(タイ語ではバーイ)で、アバーイ、サバーイ、ウバーイ。パーリ語ならアパーヤ、サパーヤ、ウパーヤです。

 これらは普通の生活の話ですが、勉強したことがないので知りません。一方捨てなければならない物は捨てます。アパーヤムッカと明示されている物のリストはテキストで読めるし、あるいは勉強したことがあるので、話して時間を無駄にする必要はありません。サパーヤは正しい、正しい行動、あるいは発展で、私たちはいろんな物を創造して義務を行い、財産を作り、名声名誉を成し、交際があり、善友がいるようにしなければなりません。

 これは、創らなければならない側です。幾つあるかを自分で見てください。そうすれば在家は何を捨てなければならないか、何をしなければならないか、知ることができます。煙草を捨て、酒を捨てる話は、このようなダンマ、棄てる方のタンマを使わなければなりません。

 次にあるようにしなければならない方は、例えば勉強して何としても試験に合格するには、サッチャ(本気の決意)、ダマ(自制)、カンティ(堪忍)、チャーガ(棄てる)、この四つのタンマを使わなければなりません。他の話をする必要はありません。この四つがあれば、他の話をしなくても良いです。他の名前のものもありますが、中身は同じなので話す必要はありません。話さない方が善いです。話すなら後にします。

 「道具である在家のタンマ」を尊重することに関心を持って、サッチャ、ダマ、カンティ、チャーガの四つを、心の中、耳の中に響かせてください。サッチャ、ダマ、カンティ、チャーガは、悪魔を追い払う道具であり、どんな場合にも、特に在家の望ましいものを創り出す道具です。聖向聖果涅槃に到達するために実践する出家も、このように使わなければなりません。

 このタンマ集を「在家のタンマ」と言います。在家のタンマと言っても、出家も使うことができます。どの段階のどの部分の実践項目にも、常にサッチャ、ダマ、カンティ、チャーガがあれば、段階的に成功し、涅槃に到達します。

 その行動を成功させなければならないタンマである在家のタンマにするために、道具であるタンマとして、このタンマ集の説明をしました。低い在家のタンマ、六方の話を善く実践しなければならないことも、善く生計を営むことも、前に話したことを振り返って見ると、この四つを使わなければなりません。次に高くなった在家のタンマは信仰心、タンマの面の智慧があり、聖人方が喜ぶ戒がなければならないといのにも、これらがあるようにするには、この四つがなければなりません。

 次に空の話の知識がなければならない、あるいは空で自分の心を訓練して、それを明らかにする最高レベルで、あれこれ執着して苦にしないには、この四項目の道具を使わなければなりません。その在家のダンマがこの在家のダンマを道具にすれば、成功させることができる範囲になり、この部分は終わります。

 次にまた別の角度から、「道具」と呼ぶこの四つの在家のタンマを裏返して、実践しなければならない在家のタンマにすることもできると言いたいと思います。ナックタム(僧試験のための学校)の学校の初等では、実践しなければならないものとして、この四つの在家のタンマを教えています。私が話したように、道具と見るよう教えないで、彼らは実践しなければならないタンマの項目として教えています。どのようか聞いて見てください。

・友達、子や妻、時間、仕事に対してサッチャ、正直があるようにしなさい。

・そして脅す道具であるダマがあり、沸騰して怒らないよう、あるいは愛さないよう、何かを嫌わないよう、自分の心を脅す道具であるダマがあるようにしなさい。このようになります。

・カンティは暑さに耐え、寒さに耐え、疲労に耐え、病気に耐え、他人の誹謗に耐えなさい。こういうカンティがあります。

・チャーガは近所の人や友人を支援し、分け与えることを知りなさい。チャーガも、このようになります。

 この四項のタンマをこのように説明すれば、実践しなければならない普通のタンマになり、さっき説明したように説明すれば、実践しなければならない何らかのダンマの実践を成功させる道具であるタンマになります。このように見ると迷わないで、同じ名前のタンマも実践しなければならないダンマになる場合もあり、実践を成功させるタンマである場合もあると見えます。

 この四項のタンマの例は、実践するための低いタンマにすることもできます。サッチャは真の人(真人)、ダマは自分を支配する人、カンティは忍耐する人、チャーガは支援する人。しかし道具であるタンマにすると言えば意味が違い、サッチャは心の誓願、ダマは心を支配すること、カンティは忍耐して支配できること、チャーガは心の中にあるべきでないものを排出することです。

 パーリ語はこのようだと理解しておいてください。同じ言葉にも幾つものレベルの意味があり、まったく別の話ほど違うこともあり、同じ話でレベルが違うこともあります。だからこのような物を見ても、奇妙に思わないでください。こんがらかる必要も、疑って時間を無駄にする必要もありません。

 道具である一つのダンマ集、つまり「サッチャ(本気の決意)・ダマ(自制)・カンティ(堪忍)・チャーガ(棄てる)」についてお話してきました。これから、道具であるタンマの例として、別のダンマ集を熟慮して見ます。みなさんが聞き慣れ、使い慣れたタンマ集かもしれません。それは如意足(イッディバーダ)です。学校の子供に教える教科にあるように、四つの足と呼び、足(バーダ)とは、台、足、脚など支える物で、体を支える物なので足と言います。

 如意とは成功という意味で、如意足は成功の足という意味です。彼は四つ、つまり「チャンダ(満足)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(心)、ヴィマンサー(思惟)」に言及しています。

 チャンダは自分がしなければならないことに満足すること、ヴィリヤは努力で、自分が満足することに努力します。チッタはそれだけに専念し、他のものに変えません。ヴィマンサーは問題や障害を解決するために、いつでも研究し、広く調べることをヴィマンサーと言います。このようにすれば、どんな場合にも、必ず成功します。チャンダは満足して、したいこと、あるいは結果が欲しいことを愛すという意味です。

 在家でお金が欲しい、名誉が欲しい、善友が欲しいなどは満足していて、聖向聖果涅槃に到達するまで高くなる話は満足し難く見えますが、それ以外は簡単に満足できると見えます。私たちが満足している目的があることをチャンダと言います。

 ヴィリヤは努力と困難に立ち向かう勇気です。努力という言葉はいろんな呼び方があるので、知っておくべきです。ヴィリヤは、勇敢、強靭という意味がある努力で、ヴァーヤーマは、努力で、アディティは止まろうとしないこと、アッパティヴァーニは後に退かないこと、パラッカマは勇猛に前進すること、まだたくさんありますが、どれも努力の代名詞です。

 しかしここで、「男として生まれたら、目指す目的を達成するまで努力をしなければならない。成功するか死か、二つに一つだ」というのはヴィリヤと言うことができます。

 ここでのチッタは心情という意味ですが、それだけに心を注ぐ「専念する」という意味ではなく、目的を変えず、話を変えずにそれだけに専念するという意味です。私たちは絶えず変化しがちで、今農業をしたがり、今商売をしたがり、今官僚になりたがり、これを「このようにチッタがない」と言います。

 今勉学が上手くいくよう、今スポーツが上手くいくよう、今付き合いやら何やら他のことが上手く行くよう願い、それは本当ではありません。これほど専念しても、まだ障害があるので、ヴィマンサーで解決しなければなりません。

 ヴィマンサーは。いつでも詳細に冷静に調べることで、そうすれば障害を解決できます。

 要するに四如意足というタンマは、直接実践しなければならないタンマではなく、道具の類のタンマで、述べた在家のタンマ四項と同じ、実践を成功させる道具です。このダンマ集も、在家と出家のどちらも使うことができ、如意足は聖向聖果涅槃に行くことも思いのままにできる道具です。

 今日私が話すのは道具であるタンマです。これを使って実践しなければならないタンマを実践すれば成功します。観察した限りでは、彼らはごちゃ混ぜになっていると見えます。実践するタンマと、道具であるタンマが一緒くたになっています。これでは実践するテクニックがないので、実践にふさわしく正しく実践できません。

 これが関心を持っておいていただきたい言葉「ダンマーヌ ダンマパティバッティ=タンマにふさわしく、つまりタンマのテクニックでふさわしくタンマの実践する」です。こんがらかっていれば可哀想で、目を瞑って(何も知らずに)することです。だから何が何かを知らなければならず、話に合わせ、義務に合わせれば目を開けてするので、進歩し成功します。

 だからみなさんは、何がしなければならない話、学ばなければならない話で、何がすることを成功させる道具、あるいは学習を成功させる道具か分けて見れば、正しく使えます。こういうのを「本当にタンマを知り、本当にタンマの実践をし、そして本当に結果を受け取る人」と言います。このように本物になります。それが既にあり、既に実践しているなら、更に善く調整してください。

 まだ無く、何も訳が分らないなら、どうするべきか、どんな方便を使えば成功するか、手本に合わせてください。出家している間に使うのは、勉強するのは、在家のタンマ四項、あるいは如意足のようなブッダの道具です。みなさんの大学でどのように教えているか、私は知りません。大学に入ったことがないので、彼らが成功する方便、あるいは成功させる道具をどのように教えているか知りません。

 しかしブッダが言われたこれは、勉強も、運動も、交際も、あるいはする事何でも成功させるために、大学でも使えると主張させていただきます。だからこの休暇中に出家したことを無駄にしないでください。

 何日でもないのは確かですが、良く調整し、良く行い、良く学習すれ、何でも見合うものが返ってきます。これが前回お話した実践であるタンマを援け、目的に到達するのを成功させる道具であるタンマです。双子のタンマで、どんな場合にも一緒です。

 今日はこれで終らせていただきます。




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