4.在家のためのタンマ





1970年4月23日

 四時四十五分になりました。前回に続いて講義ができます。今までは毎回前置きの状態で、みなさんの問題に関わる広い概要をお話してきました。今日は直接タンマの話をします。本当は前置きもタンマの話ですが、簡単に、そしてタンマと呼ぶものの概要を理解させるために、あのタンマ、このタンマを関連させるだけの話で、特にどこかの部分を知りたければ、それからその部分を話します。

 みなさんが在家のためのタンマである「在家のタンマ」を知りたければ、特に在家のためのタンマについて詳しく話すことができます。

 次はダンマ、あるいはタンマという言葉について理解しなければならないことがあります。タンマと呼ぶものには二種類あり、一種類は、特に色んな目的で直接実践しなければならない教えで、二種類目は自分が望む実践を成功させる道具のようなタンマです。タンマがこのように違う働きをするのは、どう実践するかを知れば本物だからです。

 だからもう一度、何としても望みどおり実践するために、自分を支配するタンマがなければなりません。率直に言えば、みなさんは自分の心を支配できません。禁煙、禁酒などの教えがあり、これは実践しなければならない教えですが、自分を支配できず、知っていても支配できないので、自分を管理できるようにする、もう一つのタンマがなければなりません。

 ほとんどのタンマをこのような二種類に分け、そして更に必要に応じて細かな部分があります。だから知らなければならないことは、実践しなければならないタンマはどのようか、それで実践する助けになるダンマはどのようかです。高いレベルの話ならサマーディなど、心を先に鎮めるタンマがあり、それからそれを使って聖向聖果涅槃に到達するまで知らなければならない部分を知るために実践します。

 みなさんは、今自分が成功しないのは、一般にこうしなければならないと知っているように、自分を支配できないからと、自分で観察します。例えば怠けるのは善くないと知っても、自分を支配できずにまだ怠けているのは、後者のタンマ、道具であるタンマがないからです。特に誘惑が多い在家にとって、しようと決意したことをするよう自分を強制するのは極めて困難です。だから道具であるタンマにも、強い関心をもってください。

 ここでは実践しなければならないタンマについて先に話し、それから道具であるタンマについて話します。ガラーヴァーサ(在家)は所帯を持つ人、ガルハサ(在家)は家にいる人で、ガラーヴァーサダンマ(在家のダンマ)と呼ぶ特別な規定があります。しかし在家のタンマにも、すべてのタンマの終わりまで行く目標があることを忘れないでください。昨日話したように、在家は実践して到達しなければならないすべての過程の一つにすぎません。

 つまり梵行者(学生)になり、在家になり、それから隠遁者になって遊行者になります。善い在家になれなければ中等教育の試験に落第したことを意味します。初等教育である梵行者を通過できても、この段階は落第なので、最高に善くしなければなりません。そうすれば最後の段階まで行けます。このような状態を見れば、在家のタンマは涅槃へ行く人にとって必要な話と分かります。

 聞くと可笑しいです。あるいは在家の道と聖向聖果涅槃へ向かう道は別だと人々が言っていることと矛盾します。私は「同じ道で段階が違うだけ」と言います。聞いて、持ち帰って考えてください。そして「善い在家になれなければ、涅槃へはい行けない」と言いたいと思います。そして在家の段階の学習こそ、涅槃へ行くことができる知識や話を増やすものです。

 この在家の生活には何でもいっぱいあり、どれもみな強烈、あるいはずぶ濡れ、あるいは何かそのような類ばかりで、この人生は魅力的だと、あるいは飽き飽きすると知るに十分です。普通に放置しておけばどのようになり、私たちはどのようにしなければならないでしょうか。「イロハ」からしっかり勉強しなければ次の段階の勉強が良くできないように、最初の段階から正しくしなければなりません。

 ここでは、直接在家のタンマについてお話します。それも低いレベル、中間レベル、高いレベルの三つに分けたいと思います。

 低いレベルの在家に関わる教えは、生計を営むことと交際です。これは、仏教の教えも、生計を営むことも、交際も正しく善くしなければならないと認めていると言うことです。財産を求める努力をし、財産を維持する能力があり、正しく消費することができ、そして適度な生活を維持し、そして善い友人がいます。これらの話の詳細は、その種の本を探して読むことができるので、それを取り上げて話して、少ししかない時間を無駄にする必要はありません。

 初めの項目は財産の探求にデタラメでない人で、まとめて言えば、財産の探求に成功するには、財産があるようにし、名誉があるようにし、友人がいるようにします。彼らは財産、名誉、善友の三つの項目があり、三つ全部できればその人は進歩し、この段階に合格したと言います。この三つを遊び半分にしないで、財産、名誉、善友あるいは善い交際が揃っているか、自分で観察して見てください。

 もう一つ言いたいのは、この種の教えはブッダの時代以前からあり、ブッダより前から同じように教えられていました。あるいは仏教以外の他の宗教も教えていて、同調できます。みなさん勉強して、この部分を比較して見てください。

 間違った理解で「私たちの仏教は誰とも違う」と自慢しないでください。どの宗教とも共通の部分もあり、違う部分がっても表裏と言うほどでなく、同じ系統、同じ目的です。大きな教えでは、どの宗教も身勝手を無くすことで苦を排除するよう望みます。どの宗教もこのようです。観察して見てください。

 個人の部分も社会の部分も、身勝手が苦の原因なので、在家に関わる初歩の教えは、どの宗教も同じで、違うのは言葉、あるいは文字だけで、それは重要ではありません。

 次に交際というものについて話したいと思います。つまり自分の個人的な問題を排除しなければなりません。財産やら何やらの話を排除したら、交際に関わるいろんな問題も排除しなければなりません。ブッダは交際の問題を「六方向」という教えで話しておかれました。

 六方は東西南北という意味でなく、そのような方向でなく、私たちの周りのいろんな方向に例えるべき人物を意味します。そしてブッダは、前と後ろが一対、左と右が一対、上と下が一対でふさわしく話されています。六方向を物質のように、科学のように言えば、radiation、身の回り、炎の光輪のような身の回りです。前半分、後ろ半分、左半分、右半分が周囲で、上半分、下半分で、周辺全部です。六方全部に正しくすれば、どの方向も全部正しくなるという意味です。

 前方は後方と対で、父母が前にいて、子と妻は後ろで、憶えやすいです。両親に対して正しく振る舞い、子や妻に対して正しく振る舞います。両親に限定しないで、すべての親戚の年長者全員とし、兄、姉、伯父、叔父、伯母、叔母、祖父でも何でも前方にいるべき、先に考えるべきです。後ろにいる子や妻にも、正しく実践しなければなりません。

 右側と左側。右側の方が左側より重要、あるいは名誉があると見なすので、先生方を右手に、友達を左手にします。なぜ友達と先生を対にするのかは、よく似ていて、先生は精神的に私たちを支援し、友達は物質的に私たちを支援するからです。これが見えるよう見なければなりません。友達は物質的に援けてくれる人ですが、先生は精神面、深い面、心の面で援けてくれるので、精神面の友達です。普通の友達は物質面で援助する人で、力で援助し、お金で援助し、いろんな物で援助するので、物質面、あるいは身体面です。

 その意味を掴むことが重要です。友達の誰かが精神面でみなさんを援ければ、その人は先生の側にしなければなりません。その人は物質面、身体面の友達であると同時に、もう一部では精神面の友達でもあります。普通の友達の誰かが自分に忠告でき、善と悪、徳と罪の話でみなさんを護ることができれば、その人は先生に、つまり精神面で援ける人にしなければなりません。しかし厳格に義務を分ければ、先生は右側、普通の友達は左側です。

 次は上方と下方で、上方はサマナ、あるいは普通一般より高い徳のある人で、下方は下僕、使用人、あるいは自分より劣る人たちです。サマナあるいはバラモン、僧と呼ぶ上方は、先生である面に注目しません。先生は右手にいて、サマナ・バラモン、そのような何かは先生以上で、地域社会、あるいは世界の尊敬される人物です。

 先生のように直接自分に教えなくても、ただ世界に存在するだけで表敬しなければならず、心を遣わなければならず、認めなければなりません。例えばブッダや阿羅漢などは私たちに関わったことがなく、別の時代の人ですが、私たちは認め、表敬しなければなりません。


 話さなくても、教えなくても、ある種のこの話の重要な要旨があります。つまりこの世界の手本として、行動の手本としているだけで、つまり彼らは阿羅漢を見るだけで、何も話さなくても最高に善いことと見なしてしまいます。これを、表敬すべき人物の一種で、上方、高い方にします。反対の低い所、つまり徳の面で自分より劣る人、使用人、下僕、労働者など自分より貧しい人を下にします。

 みなさんはこの六方を正しく理解するべきであり、在家の大きな課題の一つです。この六方に間違いをすれば、他のことである財産を集めること、名誉名声を求めること、善友を持つことも連鎖的に失敗するからです。だから六方の話を知って十分正しく行動すれば十分、他のタンマ集全部纏めることができます。

 だから私はこのタンマ集、つまり六方の話を紹介させていただきます。詳細はナワコワーダなど、この種の本で読むことができます。ここでは短くまとめたこの言葉の要旨である意味だけを、「交際の問題」とだけ言います。(法話の頁の「シンガローワーダ経」に詳しい説明があります。訳者)

 みなさんが理解している交際の問題と、仏教にある交際の問題は同調できるかどうか照合して見ると、大学で教え、勉強している交際の問題について話す時それが何を意味するか、みなさんは知っています。しかし仏教の教えで言えば、交際の問題はこのような意味です。前方との交際、後方との交際、右側との交際、左側との交際、上方との交際、下方との交際。自分より善いものは上方に集め、徳でも何でも自分より優れた、自分より高い人は上方に集め、雇用主は上に入れなければなりません。

 自分より低いものは下に集め、自分を産んだ人は、忍耐して恩に報いることに専念する義務がある前方にします。つまり初めに両親を思わなければならないのは恩があるからです。以前に受けた恩がある人は誰でも、先に考えなければなりません。

 だから六方の教えには理由があり、意味があり、それ自体にテクニックがあります。だから関心を持ってください。そうすれは交際の問題はすべて解決します。そして在家の話での在家であることは正しくなります。私はこれを、低いレベルの在家のタンマと言います。

 まだ幾つも、何十ものタンマ集が細かく分かれ、あるいはあれこれ規定されていますが、結局重要なのは、この六方の話を正しく実践することにあります。そうすれば他のタンマ集は簡単になり、あるいは連動して自然に正しくなります。六方の話に、特に関心を持ってください。

 ここで中間レベル、あるいは最高レベルと呼ぶ、それより高い在家のタンマになりました。この二つのレベルは、一度に話してしまう方が良いです。最高レベルは、聖向聖果涅槃の話まで高く、それより低いのが中間レベルです。ある在家の一団がブッダに拝謁して、「所帯を持ち、妻子に囲まれている在家を永遠に支援する利益があるタンマを教えてください」とお願いすると、ブッダは「空に関わるタンマは、在家にとって永久に利益があります。空の話は自分が無い話、自分が空っぽの話です」と言われました。

 その在家たちが「それは私たちには高度すぎます」と申し上げると、ブッダは「それなら低くして、四つのタンマにしましょう。ブッダに安定した信仰があり、プラタムに安定した信仰があり、サンガに安定した信仰があり、そして阿羅漢が満足する善い戒があること。この四つです」と言われました。

 するとその在家たちは「それはもう実践しています」と答え、ブッダは、「それは善い」と言って喜ばれました。三蔵の中に、このように明らかにある話はどのようか、みなさん、この話を熟慮して見てください。

 ブッダは、空の話は在家にとって永久に利益になると言われています。彼らが高すぎると言うと、プンニャービサンダという四つにしました。プンニャービサンダとは、「徳が流出する管」という意味で、「ソターパティヤンガ=預流にする実践項目=預流支」と言うこともあります。この四項の実践項目は二つの名前があり、一つは徳が流出する管で、もう一つは預流の条件です。このレベルの実践を、私は中間レベルに持ってき、そして最高レベルは空の話です。

 在家のための中間レベルの実践項目は四項のダンマで、「ブッドヴェッチャッパサッダー」という、ブッダへの揺らがない堅固な信仰、「ダンモーヴェッチャッパサッダー」というプラタムへの揺らがない堅固な信仰、「サンゴーヴェッチャッパサッダー」というサンガへの揺らがない堅固な信仰。そして、アリヤカンタシーラ、つまり聖人方が満足するほど善く維持している戒です。これが高くなるまで、預流になるまで、つまり涅槃の流れにたどり着いた人になる準備が整うまで休まず善が流れ出すものです。

 もっと高ければ聖向聖果涅槃の話で、中間にいれば、ブッダを良く知り、プラタムを良く知り、僧を良く知り、信仰心があり、信仰があり、確固たる帰依があり、ブッダ・プラタム・僧に、グラグラ揺るがない信仰があるので、どんな悪も過ちもできません。そして実践している実践、非難できるものがない純潔な戒、アリヤカンタシーラ=聖人が喜ぶ戒の実践で証明します。自分で自分を非難できず、他人が見に来ても非難できない戒を、アリヤカンタシーラと言います。

 みなさんが在家なら、どうすればブッダ・プラタム・僧に揺らがない信仰があると言えるか、良く見てください。今私は疑わしく、危なっかしく感じます。ブッダ・プラタム・僧への信仰心は揺れ、自分はブッダマーマカ(仏教徒を自認する人)と表明しても、何と表明しても、毎日受戒して帰依していても口先だけで、何かちょっと気に入ったものがあると帰依を捨てて、それを手に入れることもあります。ブッダ・プラタム・僧の目前で、悪を行うという意味です。これを「まだ確固としていないで、まだ揺らいでいる」と言います。

 それは「実践項目、あるいはタンマを損なうくらいなら、死を受け入れる」というほどでなければなりません。そうすればグラグラ揺らがないと言います。今はちょっと雇うもの、誘惑するもの、騙すものがあると、ブッダ・プラタム・僧を捨ててそちらを取ります。若くても年寄りでもそのようです。良く見てください。アリヤカンタシーラが持てず、戒は汚れてデコボコです。

 中間レベルの在家のタンマは、三宝に確固とした信仰があり、そして、自分で自分を非難できない、自分を拝める、自分を尊敬できる状態の実践があります。その人は最高の徳を満たす人で、休まず前進し、預流になる準備が整いつつあります。私はこれを、中間レベルの在家のタンマと呼びます。

 高いレベルの在家のタンマは、スンニャタッパッティサイユッター=空だけに関わるタンマです。スンニャターとは空という意味で、たくさんの話があるので、後で詳しく話します。今回は、空とは「私」あるいは「私の物」という感覚がない心の空っぽの状態と教えたいと思います。egoism の類の感覚が「自分」という感覚で、自分と関わるものを「自分の物」と言います。在家でも出家でも深い苦があるのは、すべて「自分」あるいは「自分の物」の威力によります。だから在家も「自分。自分の物」の話による苦がたくさんあるので、多少は軽減するにふさわしいです。

 だからブッダは「空の話は在家にとって、永久に最高に利益になる」と言われています。このように提言すると、住民は高度すぎると言って受け取りませんでしたが、もっと低くして話すと、既に実践していました。こういうのは、空の話の実践をする以外に道はありません。他に道はありません。

 今、この話は高すぎるので、在家に教える必要はないと理解してしまっています。私も反対されました。お偉方から「無我や空の話を庶民に教えてはいけない。それは難しすぎる」と禁止されました。中には「空の心など高すぎる話を庶民に教える」と皮肉を言い、嘲笑する人もいました。しかし私は、在家も在家が知るべき空の知識、あるいは空っぽの心の知識があるべき、あるいは心の面の苦や困難を非常に軽減することができるとブッダが提言されたことと一致するよう、最高に善くする努力をしました。

 人は善に執着し、善に関わる強烈な苦があるという真実、あるいは事実があるからです。みなさんが試験に落ちると、非常に苦に感じるのは、合格あるいは善に執着するからです。あるいは善の方の期待通りにならないので、残念で苦になります。中には自殺で自分を消滅させる人もいます。このようなら、空の知識以外に、助けられるものはありません。

  空は子供が試験に落ちても泣かなくても良いようにし、大人も大きな期待が失望に変わった時に泣かなくても良いようにします。ブッダはこのように見られたので、在家にとって永久に利益にあると言われて空の話を取り挙げました。後でもう一度、詳しく無我の話、空の話を勉強します。

 今は、それがどのような順か、見えるように取り挙げるだけです。低い在家のタンマは六方にまとめた交際に関した正しい実践で、高くなるとプンニャービサンタ、預流支の話で、最高は空の話です。これが在家のタンマです。

 空の話は、直接聖向聖果涅槃の話で、一部の人たちは、在家の話ではないと反対します。三蔵のブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味。ブッダの言葉)に、このようにハッキリ根拠があります。みなさん、認めるか認めないか、考えて見てください。ブッダバーシタを根拠にすれば、三蔵にそのようにあります。

 ここでもう一度個人の道理で言えば、在家が火のように苦しければ、火を消す水が必要で、執着しないことより善い水は何もないと考えて見てください。だから在家は空と呼ぶ執着しない知識、あるいは執着がない知識がなければなりません。そして在家にふさわしい空っぽの心があれば苦がない在家、尊敬すべき在家、最高に善い在家になります。

 もう一度自分の道理で考えて見てください。つまり引用したパーリ(ブッダの言葉である経)にも理由があるので、そのように真実と見えるので実践できます。しかし本当のことを言うと、ブッダは「自分の道理で考えなさい、パーリにあるからと信じてはいけない」と言われています。(経典は)いつ誰が書き加えたか知れないからです。自分の明らかな見方を判断する道具にしてください。

 今日は在家のタンマという大きな題で、低い段階、中間の段階、高い段階の三つの段階がある在家のタンマについてお話しました。今日の時間は終わりになりました。後で詳しく話す題目、特に空の話と把握しておいてください。残っている、実践して目的に到達させる道具であるタンマの話も、彼らは直接在家のタンマと言い、サッチャ、ダマ、カンティ、チャーガの四つがあります。これについては後日お話します。

 今日は、時間になりましたので終わらせていただきます。



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