3.在家であること





1970年4月22日

 二十時三十分を過ぎました。前回は前置きだけ、つまり一般的な初歩の理解の状態で、中途になっている話について話すことができます。今回も、もう一度前置きの形で述べる機会をいただくのは、「在家であること」という題目で話して、一般の理解を、更に完璧にするためです。

 みなさんが書いてきた問題は、在家のための話ばかりなので、在家という言葉の意味を知らなければなりません。在家という言葉は幾つか誤解していることがあるように見え、一般にタンマ、あるいは宗教と反対と理解しがちです。あるいはタンマや宗教より非常に低すぎる性(訳註:男女だけでなく、在家、出家も性と呼ぶ)と見積られています。このように理解していれば、理解を新たにするべきです。

 前回は「生まれたのは、タンマを持つため。私たちはプラタムから生まれ、プラタムが私たちを創ったから」と、共通の理解になるまでお話しました。プラタムの目的は私たちにタンマを持たせることです。だから「生まれて来たのはタンマをもつため」より善いことは何もないという状況を受け入れなければなりません。

 ここで生まれる時、胎内では僧も出家もなく、在家の状態で子供になり、大人にならなければならず、一度も出家して僧になることなく、死ぬまでそのままの人もいます。それなら在家である時にタンマがなければ、タンマがある時はありません。

 生まれて、そしてどんどん成長して死ぬまでのすべての時間を、学習することで、実践することでタンマがなければならない時間と見ることができます。だから私たちは、タンマの勉強をする学校へ入学する状態で生まれて来ました。プラタムの学校へ入る、神様の学校へ入ると言ってもいいです。私たちには、今あるような学校や大学はなくても、人生はそれ自体が学校へ入ることであると、これを善く理解しなければなりません。

 そうでなければ、石器時代の人が私たちの先祖になる術はありません。石器時代の人はどのようか、子を産んで、どうして私たちにまでなれたのか、みなさんは良く知っています。それは生きることは学校であり、課題であり、試験だからです。人間は、現在のような学校の設立を知ったばかりで、つい最近です。しかしあまり多くは知らず、あるいは「なぜ生まれたか」を知らないように、知るべきことを知りません。

 みなさん「在家でいても神様の学校に入る」と見なしていただきたいと思います。それは、みなさんが大学で学んでいるように、校舎も先生も授業時間も要りません。生活、つまり日常生活に生じるすべてのものから学びます。それは最高に良く教えるので、本当に知り、本当に明らかになり、本で学ぶのと大違いです。本で学ぶのは記憶の類、あるいは理論に理解を任せる類で、みなさんのような記憶の奴隷、理論の奴隷になります。

 本当の生活から学べば、それらは関係ありません。例えばみなさんが手を切ったら、それは何を教えるでしょうか。記憶や理論に関係なく、どう痛いかを良く知り、どう注意しなければならないかを良く知ります。あるいはもっと大きな過ちをしても、どう善いか悪いか良く知ります。「これが本当の学習」と見てください。

 ここはプラタムから、あるいは自然から、サンカーラ(行。この場合は体)が崩壊するまで、休まずタンマを学びます。在家であること自体に学習の意味があるので、私たちは生まれた時、生涯タンマを学ぶために生まれました。

、  タンマという言葉は、私たちが知らなければならない意味がある言葉 、あるいは重要な言葉として生まれました。みなさんはタンマという言葉を良く憶えておかなければならない、と言いたいと思います。タンマ。この言葉の一般的な意味は「義務」です。聞いたことがなかったら、今「タンマとは実践しなければならない義務という意味」と聞いてしまってください。タンマという言葉が、世界の人間の話し言葉の中でどのように生まれたか、考えて見てください。

 石器時代の人間にはこの言葉はありません。その後の人間が進歩し、この言葉を話して使うまで進歩し、彼らは何を狙ったか。この言葉が人間の唇で生まれ、初めて話された時、それはしなければならない、しなければいけない義務という意味を狙っていました。だから最高に善いものになりました。しなければならず、しないのは駄目だからです。だからタンマとは義務という意味です。

 私たちが「教え」と訳すのは後になってで、何を教えるかは、義務を教えます。聖向聖果涅槃であるタンマと言えば、義務の結果なので、人間の義務に関わっています。すべての人間に義務があり、誰でも最高に良く義務をしなければなりません。普通の最低レベル、例えば食べたり、水浴したり、排便排尿など、何でもしなければならない、そして善くしなければならない義務です。

 次に私たちには自然の義務があります。つまり生きることを正しくしなければなりません。配偶者を持たなければならないなら、それは普通の人間、あるいは普通の生き物の義務であり、それも正しくしなければなりません。家族ができたら正しくしなければならず、どれも正しくしなければならない義務ばかりです。

 高くなって、心の面まで高くなっても心を正しくしなければならず、死ぬにも「正しく死になさい」と言います。すべては義務という一語の中にあり、パーリ語でダンマ、サンスクリット語ではダルマ、タイ語ではタンマと言います。「タンマとは義務」と、このように知れば、在家にはどんな義務があるかを知るのが簡単になります。

 彼らが昔から言っている教えで、一度に全部見てしまう方が良いです。タイが受け入れた文化の源流であるインドでは、世界で最初の最高に賢い人間はマヌ神で、四住期の教えを述べました。四住期とは、梵行期(学生期)、在家期、隠遁期、遊行期です。

 第一住期: 梵行期はまだ所帯をもっていない、まだ夫や妻がいない若い男女で、私たちは梵行者(学生)と呼びます。生まれた時から独身の最後の時までを梵行者(または学生)と呼びます。

 第二住期: 梵行者の次の、夫や妻を持ち、所帯を持つことを在家と呼びます。

 第三住期: 知性がある在家は在家であることの繰り返しに倦怠を感じ、嫌気を感じて静かな場所に隠遁して、出家者の条件を満たし、その後は家と関わりません。これを隠遁者と呼びます。森に住むという意味で、静寂な場所で暮らします。

 第四住期: このようであることに満足すると、最後に再び人間の群れの中で教え回りますが、家を治める人のようでなく、現代人のように還俗して家を治めずに庶民に教えて歩きます。これを遊行者と呼び、庶民に混じって教え歩きます。

 「人生が本当に完全なら、梵行期、在家期、隠遁期、遊行期の四つの期間に分かれる」と熟慮して見てください。今みなさん全員は梵行期にいる人で、学習しなければならない、いろんな規則を最高に厳格に実践しなければならないという意味で、彼らは梵行期と呼びます。

 一つの社会、あるいはこのレベルの人生の一つの状態、このように独身である間の一つの段階を正しく呼べば在家ですが、彼らは在家と呼ばず「梵行者」と呼びます。聞いて響きが善いですが、私たちは彼らを、在家と呼んでしまいがちです。みなさんのように大学にいると、自分を在家と見なしますが、本当は違います。

 在家とは家を治める人、つまり家族がいるという意味で、みなさんはまだ学生で、その段階に至っていません。誤解をすれば、何か間違いをするかもしれません。だから新たに知ってしまえば不注意にならず、梵行の状態の慎重さがあるようになります。

 それにここでのブラフマチャリー(梵行。普通は純潔という意味)は、一般の人が話している意味とは違います。教育が狭くて少ない人は、まだ家族を持つ前の女性が伝統習慣でする何らかの厳格な振る舞いと理解していますが、この言葉はそういう意味ではなく、男も女も、生まれた時から若者までを意味します。

 ブラフマチャリー(梵行)とはブラフマーのような振る舞いという意味で、異性や配偶者と関わらず、純潔で本当の、あるいは十分な教育にするために異性の話に関わらない慎重な人として行動しなければなりません。だから彼らには、異性の話に関わるブラフマーのような振る舞いをさせる規則があります。

 今子供たちは自分を知らず、小さな頃から好色に振る舞い、小さな頃から異性と関わります。これは、自分が何の住期にいるか知らず、ブラフマチャリー(梵行期。あるいは学生期)にいると知らない人です。

 一段階高くなると在家期で、家族を持って家を治めると、義務も変化します。例えば、若い男女が学ばなければならないような教育は終わり、学生のような勉強の義務から、家長や主婦の義務や仕事になります。家長や主婦の義務があるので、家長や主婦の義務をすることから子や孫を持つことまで、私たちの人生で最高に重い話である「在家」と呼ぶ住期に分けました。

 そうしているうちにそれ自体が教え、自然に倦怠を感じることができ、「こういうのは苦しい。死ぬまでこのようでいるべきでない。休むべきだ」、あるいは「もっと善い物を手に入れるべきだ」と見えます。だから生き方を変え、体も心も遠離した人になり、家にいても庶民と付き合わず、誰とも関わらない暮らしに変わり、家の塀際の竹藪の下、バナナの木の下の静かな一角に隠居します。

 あるいはヒマラヤの森に住んでも自由で、文句を言う人はいません。しかし仕事はすっかり変化します。ほとんどは人生の話、徳や罪の話、善や悪の話、煩悩や苦の話を一人で思い返すために行って住みます。彼らは座って人生を見、人生の深い部分の真実を探求し続け、今まで知らなかったことを発見し、あるいは今まで考えなかったことを考えます。


 考える data や material はどこから持って来るか、みなさん、考えて見てください。それは、生まれて若者になり、家長や主婦になり、子や孫を持つまでの間に経験したことでなければなりません。いろんな詳しいことは人生で経験したことにあるので、正しく考えることができ、人生の真実を知り、人生の秘密を知り、人間は何をするべきか、何を得るべきか、どの目標に行くべきかを知ります。

 だからこれくらいの年配の人は、梵行者より、在家より、人生の話に輝きがあります。だから便宜のために家を出て出家者のような暮らしをし、「サマナダンマをする」「念処をする」「ヴィパッサナーをする」と言う、何でもこれらを熟慮するのに都合が良い出家者の暮らしをします。出家者、あるいは隠遁者の話はこのようです。

 今、特に若いみなさんが(在家期を)飛び越して出家者になっても、彼らが順に到達した理解や感覚に至ることはできません。学生になり、在家になり、そして出家になればそうなる道があります。十分に知性があれば若いうちから出家することもできますが、都合が悪く、順に人生を過ごしてきた人のように善くなく、本当ではありません。

 だから若い僧が出家して来ても、まだ試してみたいこと、知りたいことがあり、妨害や疑念がたくさんあるので揺れがあり、往々にして還俗して妻子やら何やらを持ちます。このタンマの義務で順に正しく経験して来た人たちには敵いません。

 満足される人になるまで、あるいはこの話の探求の終わりに至るまで出家して、それでまだ生きていて、まだ死ななかったら他人のことを考えます。自分のことは終わったので、他人のことを考え、他人のために利益を成します。私は「物を配り、ランプで照らす」という言葉を使います。「物を配る」とは、他人の利益になることをして回ることで、「ランプで照らす」は、死ぬまで人々に知識や明かるさを与えます。

 それが完璧か完璧でないか、そして「比較にならないほど違う」と考えて見てください。梵行期、在家期、隠遁期、遊行期。これが完璧な人生で、四つの時期に分かれています。愚かすぎる人以外は誰でもできます。

 あるいは愚かすぎるようにさせるものがあれば四住期を通過しません。愚かすぎれば魅力的なものに夢中になり、これらの住期を順に通過できません。一度生まれても、人間として得るべき最高に善いものを得られない、あるいはプラタムが規定した人生の目標に到達できない点で、本当に気の毒です。

 私が「タンマを持つために生まれた。タンマの行動をするために生まれた。プラタムが生まれさせたから」と話したことを忘れないでください。ここでの「タンマがある」とは最終目標まであるという意味で、学生のタンマがあり、在家のタンマがあり、隠遁者のタンマがあり、遊行者のタンマがあれば最高です。人間はここまでしか行けません。

 みなさんが卒業して公務員になり、あるいはどんな仕事をしても、財産、名声名誉、家族、欲しいもの何でも手に入れることができても、隠遁者になれるかどうか想像して見てください。そして照らす物を配って歩く遊行者になる十分広い心、十分な慈悲があるかどうか、考えて見てください。

 本当は私たちにできます。例えば定年と言われる適度な年齢まで仕事をすれば、何とか暮らせる年金があるので、隠遁者の生活がしたければ、家の隅の竹藪、バナナの藪で、一人で内面の生活に入ることができます。しかし今の定年退職者、年金生活者はまだクラブへ遊びに行き、まだ子供のように遊び歩き、隠遁者の生活をする機会と見なさないので、遊行について話す必要はありません。

 人生の話に本当の知識や明るさがないので、誰かに何を教え、他人を照らせるランプはありません。みなさん。このタイに、四住期で人生を完璧にしている人がいるか、自分自身は今どのようか、想い描いて見てください。予言して見ても良いです。

 私が四住期について長々と話してきたのは、「在家はどの住期よりも神様の学校に入学した人」と知っていただくためです。小さな子供が少年少女になり、梵行者になると、人間が作った人間の学校に入り、所帯を持って在家になると神様の学校に入ります。つまり最高に重い、最高に緊迫した、闘わなければならない、あるいは最高に冒険である生活が神様の学校です。

 みなさんもこの時期の問題に非常に関心があるので、質問するのは在家の問題ばかりです。だから「在家とは神様の学校に入学した人」と理解してしまってください。これを理解すれば問題はありません。私はそう挑戦します。

 みなさんが質問した問題は、「在家は子供の学校より、あるいは卒業してもなぜ生まれたかを知らない、みなさんが今学んでいる高等教育である大学より高い学校、神様あるいはプラタムの学校に入学している人」と私が言うのを理解したら、どちらが本当の高等教育か考えて見てしまってください。

 梵行期も一つの段階の教育で、在家期も一つの段階の教育であり、隠遁期も一つの段階の教育で、このように三つの段階があり、どれを高等教育と見なすべきでしょうか。遊行期はもう教育ではなく、教育を配り、照らす物を配って歩きます。

 だから私は、梵行期は初等教育、在家期は中等教育、隠遁期は高等教育と仮定すべきだと思います。みなさんは今から、自分は何も知らない人間の高等教育の学生であり、神様、あるいはプラタムの高等教育ではないと見てください。私は今、前置きとして話していることを忘れないでください。広い範囲を知るため、高等教育はどのようか比較して見るため、広範囲の人生を知るために、広い範囲で話しています。

 ヒト語の高等教育、人の感覚ではこれだけで高等教育ですが、神様は認めません。プラタムはこれを高等教育と認めません。まだタンマの理解が少なすぎ、「何が何か」を知らないからです。これについてたくさん考えるようお願いします。前置きだけですが、今後の話、特にその話を正しく深く知るために重要で、隠遁者になった時、静かな一角に座って、一度に世界や人生を見ることができ、そうすれば完璧な学生になります。

 今は何が何かを知らず、広い世界を知ることができないので、小さな泉の中の知識しかないカエルと同じです。だから子供に「人生は何か。なぜ生まれたのか」と質問すると「食べて楽しく遊ぶために生まれた」と答えるので滑稽です。若い男女も同じように、異性に関わる最高の感覚を探求するため、あるいはそのようなことのために生まれたと言います。恥ずかしがってハッキリ言わなくても、内心では、そのために生まれたと感じています。

 義務に厳格な家長や主婦に聞けば、鋤を引く牛や水牛のように苦に耐えるために生まれたと感じます。もっと年配である隠遁者たちに聞けば、「そりゃあ、すべてを真実のままに知るために生まれたんだよ」と答えられます。彼らは静かな場所に座ってすべての物を見ているので、自然に「自分はタンマを知るため、タンマを身に付けるため、タンマの実践をするため、タンマの結果を得るために生まれた」と知ることができるからです。

 最後の部類の遊行者に「なぜ生まれたのか」と聞けば、他人の利益になることをするために生まれたと答えます。これです。なぜ生まれたかという問いの答えが、このように違います。だから一人の人も昔は愚かで、そして賢くなり、初めは愚かで、最高まで次第に高くなって行きます。

 だから初めの梵行期にいるなら、「自分は人生を良く知っている」と己惚れないでください。これからを見る方が善いです。このように言うのは、「自分は何かを正しく完璧に知っている」と、迂闊に考えないよう注意させるためです。まだ一つの住期、一つの段階しか経験してなく、そしてまだ失敗し、そのように、このように、あのように熟す前にもぎ取ってしまうので、梵行期の知識も完璧に得られません。


 不正直な人は自分の段階の義務、タンマに不正直で、ますますデタラメになります。少しずつ見れば、少しずつ正しい真実、あるいは厳格な真実を知ります。少なくとも三番目の段階、つまり在家を通過し、あるいは正しい在家になって、何が何かをすべて知ります。

 注ぎにそれは何か知らなければならない、理解しなければならないことを例として挙げタイと思います。例えば「本当は愛とは何か。家族とは何か。職業とは何か。財産とは何か。名声とは何か。社交とは何か。徳や善とは何か。宗教あるいはタンマとは何か」と質問するような、みなさん誰もが持ち帰って、問題として考えるにも良い問題です。

 家族とは何かというような問題は、何パーセント正しいか答えて見てください。家族と言うものは何か。みなさんは「百パーセント答えられる。いろんな家族を見ているので、自分の家族も両親がいて子がいるので、家族とは何かを知っている」と己惚れるかもしれません。私は、まだ非常に己惚れた答えと、あるいは非常に傲慢と感じます。家族を持って通り過ぎなければ、家族とは何かを知る、正しく完璧な方法はありません。

 愛とは何かという言葉になりました。幾つもの例を上げて、それはどうあるべきか、みなさんに選んでいただくようにお話します。「自分は愛というものを知っている」と言う人がどこにでもいます。こういうのは私も、「彼は知っている。彼はそう言うべきだ」と認めます。しかし正しさが少なすぎます。私は、長く世界を通過して来た人である老人で、昔の話に残っている人を例にします。

 ギリシャ人が知性で繁栄していた時代に、ある人が家に哲学者と友人たちを招いてもてなし、その中にソクラテスもいました。心行くまで楽しく食事をした後、哲学者の性分で「愛とは何か」という話題でお喋りをしました。そこに座っている人は白鬚の老人ばかりで、若者はいません。一人が「愛とは、彼らが昔から信じていたように、人が一体になりたい要求だ」と言いました。

 人というものは元々は丸い動物で、船長が握っている操舵輪のような突起が八つありましたが、神様がそのような形の人間を見ると、力が強すぎ、威力がありすぎて神様や天使を消滅させると見て、人間を二つに割ってしまったので、男と女になりました。八つの突起とは、両手両足で、四つの突起しかなくなり、力は半分に減って、神様に対して何もできません。

 しかし人間の男女は、昔のような力を持つために元のように一つになりたいと望みました。だから愛は「神様が畏怖するような威力をもつために元の一つになりたい想い」です。

 彼らはこのような理解があり、とても深いです。愛は男性の力と女性の力を合わせると、いろんな問題を解決する強力で特別な力になります。その愛と呼ぶものは崇拝すべきです。「愛は力」という人とは違います。それはバカを意味します。愛が耳に入ると偉大な力が出て、死を恐れない狂気で、普通以上の力があります。

 各人が一つか二つの意見を述べ合って、ソクラテスの番になると、「愛とは神様に導く威力」と言い、「まだ愛がなければ、神様を理解する十分な力がないので、人間は神様を理解するために生殖する」と説明しました。

 彼は卑猥な意味、あるいは目を瞑っている(頑固な)惑溺の意味にしないで、愛とは子孫を残すため、最終的に神様に至るために両性が結合したい要求です。あるいは両性が一つに結合しなければ、どちらの性も神様、あるいは最高のものに到達できません。そしてこれ以上に善い話をする人がいないので、この会は終わりました。

 みなさんが彼らに「愛とは何か」と質問されたら、何と答えるか想像して見てください。それは世界をそれしか知らない、人生をそれしか知らないみなさんらしい夢の話だけです。若い男女は愛と呼ぶものを、自分にとって危険な状態で知っているだけで、愛で自殺するほど愚かです。それもたくさんあります。

 だからこの種の人の愛は狂気で、愚かで、盲目のように愚かです。あるいは「愛とは皮膚の幸福を追及したい要求」と言うほど低劣です。これはラーガ(欲貪)の話、欲情の話、つまり最低の欲望の話になってしまいます。

 次に人間が愛というものを正しく完璧に知るのは何時で、そしてソクラテスが「愛とは人間を神様に会わせるもの」と言ったように深く知り、見えるのは何時でしょうか。今みなさんは賛成できないかも知れません。あるいは最高のバカと非難する人もいるかも知れません。結局誰がバカか考えて見てください。現代社会の人は愛をどの角度で知っているでしょうか。西洋の尻を追っている人たちは愛をどの角度で知っているか、西洋人を見てください。

 北欧の国々には愛に関した猥褻がたくさんあり、たくさん生まれていて、人間が愛に関してどれほど狂い、あのように、このように移動しているか、みなさんも新聞で読んだことがあると思います。そしてそれは小さなことではなく、実に世界の人の全身全霊を捉えています。特にこのような物質主義の時代、あるいは物質主義の人の集団では、性の話、愛の話は何よりも大きな問題です。

 好きなように選ばせて放置すれば、このような話だけを選びます。これは、みなさんがどんな状態で、どれだけ知っていて、どうすれば善い在家になれるか、これを判断材料にして自分で考えることができる一つの例です。

 家族とは何かと問えば、まだ家族を持ったことがない人は、あれこれ楽しく幸福な夢を描きます。しかしそれは人生の極めて重い物で、在家期にいる人は闘い、忍耐し、いろんなことに「どれほどの重荷か」と言うほど極度の重さに満ちています。これが一般の教えです。愚かな若い人は、家族は楽しい物の一つと考え、家長や主婦を経験した人は、苦しい物の一つと感じますが、ソクラテスが言えば「神様へ向かっていること」という形になります。

 家族を持つこと、子や孫を持つことは、どんどん神様に近づくことです。自分が先に死ねば、自分の子が、人間の名で何としても神様に至るまで歩き続け、何としても人間を神様に到達させます。だから家族は、何としても人間を神様に到達させるために善く維持する子孫で、彼らは何としても神様に到達しなければならない状態で、子や孫やひ孫にしつけをしました。

 子や孫やひ孫が自分のことだけを考えず、自分の一族のことを考えるよう薫陶しました。現代人のように何でも自分のことだけを考えるのは、自分自身も神様を訪ねることを知らないので、それでどの智慧で、子や孫に神様を訪ねて行かせることができるでしょうか。だから子や孫を、自分よりもっとバカで、そして他に何もないようにしつけます。

 みなさん。両親が今何を望んでいるか、目を閉じて考えてみてください。良くなるよう、美しくなるよう、高く売れるよう望んでいます。私の言葉で言えば「息子は出世させ、娘は美しくして高く売る」と言います。子や孫やひ孫を持つことで人間を神様に至らせるためと、神様についての言及はありません。家族とは何かという問いの答えも、このように大きな違いがあります。

 財産とは何かという問いは、人生のすべての瞬間に、楽しさ、美味しさを探求する縁と見るので、財産を欲しがります。だから強欲極まりなくなり、下賎になります。「アティローボー ヒ パーパコー=貪欲は下賎」。今、そのように非常に貪欲です。財産という言葉を間違って理解しているからです。正しい理解なら、私たちを生かす、神様を訪ねて行く縁にすぎないと見なします。キリスト教徒の言葉では「神様を訪ねて行く」と言い、私たち仏教教団員の言葉では「プラタムを訪ねる」と言い、プラタムの最高点と神様は同じです。

 財産は生きる便宜のため、人間の心が神様に至るまで成長するためにあります。酔って強欲極まりなく、百万手に入れて満足せず、一千万欲しがり、一千万手に入れると足りなくて、一億、十億、百億、一千億欲しがるのではありません。この状態で財産を理解すれば餓鬼になるだけで、常に飢えていて、終わりがありません。

 だから「アティローボー ヒ パーパコー=貪欲は下賎」という教えがあります。「この財産は、生活を便利にする物にすぎない」、そして「私を生かすのは神様を訪ねて行かせるため」という気持ちがある人は、強欲になる余地はありません。その人は「財産と呼ぶ物は何か」を正しく知っているからです。

 次に職業とは何かと問えば、財産とは何かを知ってしまったので、簡単に答えることができます。ここで職業とは何かと簡単に答えられるのは、職業は財産を得る道具だからです。だからそれは財産の目的次第です。職業は、財産を持つことで快適に暮らすための道具の一つにすぎません。だから限度以上に望まないでください。下賎になります。

 ふさわしい、そして善人にふさわしい職業を探すことを知れば十分です。その職業は人間が得るべき最高に善いものを得るため、自分が生活するためにあると言うだけの範囲にあります。その職業は人間が得るべき最高の物ではなく、人間が得るべき最高に善い物を得るために生きる道具にすぎません。

 次に名声名誉は何かを見ると、みなさん全員が非常に名誉名声を求め、そして名誉名声を崇拝していると、敢えて言うことができます。これは「良い」という言葉次第で、誰でも「良い」のが好きで、「良い」ものを愛し、良いという言葉の意味の良いものを欲しがります。それを私は名誉と言います。

 それは私たちを傲慢にさせるものです。私はあまり説明する必要はありません。みなさん自身の心で感じられます。しかしそれを何に使うでしょうか。その名誉は、快適さ、権力や幸運、更に財産を求めるために使います。名誉は、財産を探求する道具になるので、反対に低いもの、あるいは不潔なものになるだけです。

 名誉は気分を良くするため、「自分にある」と満足するためと、このように言うなら、まだ狂気から脱してなく、名誉の問題で自殺することもあります。お金でも何でもあって名誉がなく、あるいは名誉を失うのを恐れて自殺するのは、まだ名誉とは何かを知りません。間違って理解し、間違って使い、そして間違って求めるので、偽物の状態の名誉、偽物の名誉を求めます。多くの人が正直でない正当でない方法で、自分のために名誉を掻き寄せます。

 名誉には、非常に多くの種類があります。本当に善い名誉もあり、幸運の威力が強制するものもあり、他人の口を封じることができるのも名誉です。名誉にはいろんな種類があるので、最高に善い種類は何か、注意してください。人間が得るべき最高に善いものではないと分かっても、執着している人を困窮させるので、みなさんは限界を越えて迷わないでください。迷ってしまわないでいられれば善いです。だから名誉とは何かと問えば、みんな知っているので、自分で考えられます。

 友達、仲間、社会とは何か。私はまだ友達、仲間とは何かを理解していないと感じます。正しく理解していてても、全部ではありません。私は、「友達とは、神様あるいはプラタムに連れて行くもの」と言いたいと思います。この友達(ミッタ)という言葉は、むしろ遊び友達、楽しい友達、食べる友達、放蕩無頼の友です。

 みなさんはよく「一緒にタバコやお酒を飲まなければ友達を失う」と言います。それこそ、どれほど目を瞑っていることか。ミッタ(友)は、私たちを人間の最高地点へ連れて行く道具であることを望み、手を繋いで人間の最高地点、つまり神様の所へ行きます。ブッダは「カルヤナミッタ=善友は成功のすべて」と言われました。プラアーナンダは「善友は人生の成功の半分」と理解しましたが、ブッダは「人生の成功のすべて」と言われました。

 善い友達がいれば、本当に善い友達は地獄や悪趣へ引っ張って行きません。あるいはどこででも時間を無駄にしません。ブッダは「道がある人、八正道がある人は正しい見解があり、正しい望みがあり、正しい発言があり、正しい行為があり、正しい生活があり、正しい努力をし、正しいサティがあり、正しいサマーディがある」と明言されています。この八正道と呼ぶものは涅槃へ連れて行く善友です。

 だからカルヤナミッタ(善友)である人は、神様、あるいは涅槃へ連れて行く人です。しかし今みなさんは、一緒に飲みに行かなければ、彼は私と友達でなくなるとだけ考えます。比べて見てください。あるいはその人と一緒にあちこちで放蕩しなければ、その人は自分と友達でなくなります。私はここにいて、こういう言い訳を最高にたくさん耳にします。

 還俗すると「今はお酒を飲んでいます。友達に逆らえず、友達を失うのが怖いから」と白状します。彼らはこう言います。いい年をしてそれなりの職位もあるのに、まだこのようなことをしています。だからみなさん、これらのものを、「何が何か」正しく知ってしまってください。

 最後の問題、功徳とは何か、あるいは宗教とは何かになりました。古臭い時代遅れのものと見ないでください。大学生になると、宗教は時代遅れのものと軽蔑しがちです。子供の頃はブッダを拝み、読経をするよう誘うとしましたが、大学生になるとしようとせず、時代遅れの話、子供の話と文句を言います。宗教は古臭いもの以外何も意味がないと見るので、子供の頃とは比較になりません。

 子供の頃は両親を信じ、罪や悪を恐れ、善を欲しがり、功徳を欲しがり、宗教に依存することを望みましたが、大学生になると西洋人の後を追って宗教を時代遅れと見ます。

 功徳とは何か、宗教とは何か、考えを改めて見て下さい。功徳、あるいは宗教、あるいはプラタムと呼ぶものは、古臭くなる時、あるいは時代遅れになる日はなく、どんな時代のどんな人にも必要です。だから「どんな在家になれば最高に善くなるか」という問題があるみなさんに、私は「これらの物を正しく知れば、どうすれば生まれたことが無駄にならず、望ましい状態の最高に善い在家になれるかが分かる」と言います。

 今、これらの物は古臭い物、プラタムはお寺だけの古臭い物、家で発展している人のための古臭い物と考えるので、それらの人にとって宗教は不毛です。しかし同時に、これらの人たちは宝石を手に入れた愚かな鶏です。

 みなさんは出家したのですから、出家したことは仏教教団員の家に生まれた仏教教団員であることの証と理解します。

 それなら気を付けてください。今宝石を貰った鶏になろうとしているので、注意してください。出家したみなさんは、注意深くしてください。一粒のご飯にも抵抗できない宝石を貰った鶏になります。この宗教をバカみたいな話、古臭い話と考えるので、宝石より一粒のご飯を選ぶ鶏のように、ちっぽけな放蕩、派手な服装の女性たちの話に勝てません。

 不注意な人、あるいは愚かな人は仏教のタンマを聞いても鶏が宝石を貰った以上の感覚はなく、更に古臭い話と感じ、理解できません。今みなさんは出家し、いろんなものを犠牲にして休み中に出家したことはまだ善いです。どうぞみなさんが善い在家になるために、つまりみなさんが私に質問したように、望みどおり苦がなくなるよう、これらの問題を解決して薄くする時間にしてください。

 最後に「何が何か」を知り、在家とは何かを、彼らが理解しているような卑猥で不潔で低劣な話にしてはいけないとまとめます。在家は最高点への旅の一つの過程と捉え、梵行期は初等教育、在家期は中等教育、隠遁期は高等教育と、先ほど話したのを忘れないでください。

 このように見えれば、在家は「何が苦か」、あるいは「何が在家の問題か」分かるまで神様の学校で勉強している人です。何が在家の出口かは、みなさんが最高に善い在家になり、そして在家を通過して、更に高い隠遁期に至る道という意味です。それはこの二つしかありません。

 何が問題であり障害であり苦か。これが一つ。そして何が苦から出る方便であり好機か。これが一つです。だから在家は中等教育まで進んだ学生です。このことで自分を卑下しないで、善くしなければならない、正しくしなければならない、進歩の一過程と捉えてください。

 質問した問題は私も同意し、質問することを知っていること、自分の在家であることが、あるべき善い状態にならないのではないかと危惧することを知っていることを嬉しく思います。だから今日私は「在家であること」あるいは「在家であることとは何か」について、もう一度前置きとしてお話しました。後日、本論である問題に答えます。

 前置きは十分です。あるいはこれで終わります。次回は直接「在家のタンマ」についてお話します。さて、今日はこれで終わります。




次へ ホームページへ 法話目次へ