23.在家の仏教学Ⅱ





19705月17日

 四時四十五分になりました。引き続き「在家と仏教学」という題目で、中途になっている話について講義します。そして「学」という言葉は、一般に使われているように広く、膨張した意味ではないと、繰り返し復習させていただきます。

 私たちの「学」とは、自分の中にあるべきでない物、あるいは各種の障害である物を切る刃のある武器を意味します。だからここでの仏教とは、呪術と呼ぶものを切って少しずつなくし、私たちの仏教教団員であることを正しく清浄にする武器という意味です。彼らが嘲笑して、傷つけ打撃を与える状態で話すような、呪術と混合した仏教学を掴む必要はありません。

 前回、問題であるものを判断する道具であるマハーパデーサ、律のマハーパデーサ四項、スッタ(経)のマハーパデーサ四項について話しました。そして信じることに関わる問題を判断するカーラーマスッタについて話し、正誤に関わる問題を判断するゴータミースッタについても話しました。もう一度復習して、今回の講義と繋げてください。

 一番大切なことは「私たち世界の人間の行動は、この教えにどのように反しているから、在家は複雑で困難なことがいっぱいで、大部分はこの世界を混迷させ、戦争などで蹂躙し合いる」と見えるまで熟慮して見ていただくことです。

 これは、私たちはまだ正しい教えがなく、特に「智慧を拠り所にする」仏教の教えの正しい規則がない種類の在家だからです。信じることによる信仰しかないのを、智慧から生じた信仰だけがあるようにすれば、煩悩から自由があり、煩悩の威力に引き回されません。だからゴータミースッタなどの正しさの中で、あるいは正しさの範囲で暮らせます。

 次に仏教教団員であるための重要な教えについて、直接ダンマの話をします。今日初めに話すのは、空、あるいは似ている何もかも含めた無我の話です。この話の重要な目的は、執着しないことにあります。無我の話、空の話などの理解があれば、それが、呪術式の迷信の行動に執着する原因である執着を無くします。

 無我の話は、大原則ではすべての種類の身勝手を生じさせる原因である、すべての種類の egoism 、あるいは egotism を消滅させます。個人の苦は身勝手に由来し、世界全体に関わる苦も身勝手に由来します。だから大きな問題、世界全体の問題で、詳しく話すには、このように短い時間では足りません。そのことについて詳しくは次回にお話します。ここでは在家が関心を持たなければならない仏教学と一緒にします。

 誤解して、在家を「空の話」「無我の話」に関わらせるのを認めない人がいます。しかし「在家にとって永遠に利益がある話は何ですか」と質問する人がいた時、ブッダは空の話をされています。これは、講義として、あるいは大学式講義として何度も説明したことがあります。要旨は、在家は執着させる話が多いので、成り行き任せにすれば生き地獄に落ちます。どこの何に執着しても、その時そこで苦になります。

 だから用事や仕事が多い在家が生き地獄に落ちないよう、あるいは生き地獄に落ちすぎないよう、無我の話、あるいは空の話を教えます。ほとんどの執着を軽減できるように、そして仏教の目標、つまり涅槃に向かって前進する善い出発点にするために、無我の話、空の話を教えます。

 これは「間違った執着でするべきでないことをする」という短い重要な教えを理解しなければなりません。執着というのは、いつでも愚かさで執着するという意味です。無明に根源があり、それで欲望-願望、取-執着が生じます。しかしそれが勤勉にしたい望みであり、本当の知性の決意なら、正しい方に歩き、そして執着と言いません。タイ語では言うかも知れませんが、パーリ語では言いません。そして厳格に区別しています。

 執着は愚かさから生じたものでなければなりません。知性から生じた勤勉は、話によって「努力」「真実」「固い決意」、あるいは「発願」などと言います。だから一緒にはできません。一つは無明、愚かさ、無知から生まれ、もう一つは明、知性、あるいは知識から生まれます。

 無我、空について話せば、それは知性の頂点です。つまりすべての物を真実のままに見る、執着しない原因です。そしてかつて執着した愚かさ、迷い、執着に倦怠させる原因です。このような倦怠は、挫折して力を後退させる種類の倦怠でなく、望ましくないもの、望むべきでないものに倦怠し、そして望むべき物に向き変えさせます。率直に言えば、苦、あるいは苦を生じさせる原因に倦怠し、そして滅苦である物に勤勉を生じさせます。

 だから仏教の倦怠という言葉を良く理解しなければなりません。パーリ語ではニッピダーと言い、倦怠を意味します。動揺、焦燥、苦である倦怠ではありません。そういうのは正しい倦怠ではありません。

 正しい倦怠は、今まで愚かだった物、かつて迷った物、かつて非常に苦だった物を本当に知り、取り合わないで、遊ばないで、その後は何もしないで反対の方向を向きます。つまりそれらを愛さない、迷わない執着しない方向に向き変え、そして静かさに行くという意味です。だから倦怠の結果は快適で、息苦しい煩悶ではありません。

 誰でもありがちな息苦しい倦怠は別の意味で、普通の言葉、庶民の言葉です。何かを繰り返し食べると、毎日顔を見ていると飽きる。こういうのはタンマで欲しがる倦怠ではありません。

 この倦怠は、必ず無ければなりません。無ければ自分を世界から抜き出すことはできません。今、世界の皮膚の味、楽しさに満足していて、飽きることを知りません。そしてどんどん酷くなるだけなので、この世界はどんどん皮膚の面の味に貪欲な世界になります。だから個人も社会もどんどん苦になります。

 良く見れば、今世界に常にある大戦争も、飽きるべき物に飽きることを知らないことから生じます。その原因は、すべて皮膚の面の陶酔の基盤である物質を掻き集めることにあります。資本家がこれを欲しがり、労働者もこれを欲しがるので、終わりのない奪い合いになると見えます。

 全員が皮膚の幸福について十分に理解すれば、これらの危機を止めることができます。だから必要な話です。空の話、無我の話について、ブッダが「この話は、在家にとって永遠に利益がある」と言われたように、在家にふさわしく、正しく良く知らなければならない重要な話です。

 空や無我から生じる倦怠について、アヌプッビカター(次第説法)について知って欲しいと思います。ブッダが、この人はこの話を素早く理解するに十分ふさわしい知性があると見ると、この話をされ、まだとても愚かで、まだ(煩悩が)厚く未熟で、この話を素早く理解できないと見れば、話しませんでした。理解できる人に素早く話した話を、アヌプッビカターと言います。それは、

1.布施をすること、人助けはどのようで、どのように善いかという、布施、人を助ける話。

2.戒の話は、大きな教えと細かい教えの行動はどのようで、どのように善いか。

3.布施と戒の結果である天国について話します。布施と完璧な戒があれば、死んだ時でも、生きているうちでも、誰もが欲しがる天国を手に入れます。幸福に満足し、自分を拝めることもこれに含まれます。しかし人は愚かで迷って執着し、非常に愚かです。つまり天国の話、欲情の話、死んだ時の天国の御殿の話、誰もがそれに注目していて、布施、戒は天国を手に入れる原因です。

4.天国の低劣な話。天国は、望んだような最高の皮膚の面の味を与えます。しかし欲情は殺し合いを生じさせることを初め、それ自体が低劣さを表しています。今、毎日新聞紙上で、一日に幾つも、何十もの事件を簡単に見ることができるように、欲情が原因で殺し合います。こういうのを天国の害と言います。

 友達を殺し、子が親を殺し、親が子を殺すことも、天国に酔えば生じることができます。これも天国の害です。死んだ時の天国の話なら、目を瞑って皮膚の面に夢中になっている最高の愚かさで、聖向聖果涅槃について何も知りません。最高に愚かで酔っているのは天国です。

5.欲情から出てしまう話で、天国の束縛から出て自由になります。心は歩く道を選ぶ自由があります。この人生の生き方を正しくし、欲情の奴隷にしません。

 みなさん、五つの話を素早く理解できる人にだけブッダが話された、このような話を聞いて見てください。酷く狂った人、著しい陶酔、すごく愚かな人は聞いても意味が分からないので、皮膚の面の味、彼らの天国の話だけで止まっています。それを脱ぎ捨てることができません。

 次にみなさんがどの人たち、どのグループに入るかは、「私はこの五つの物を、一度にすべての流れを見ることができるかどうか」考えて見てください。布施と戒で善や美を行い、そして自分が望んだ結果、望んでいる欲情を得ます。そして「それには害があり、低劣が混じっている」と見て、そして愚かになってそれに迷いません。もしそれを食べ、使用し、関わるなら、愚かに迷わない知性、奴隷にならない知性でします。

 愛欲は人間の生活に必要な縁である物です。しかし欲情として関われば毒であり、苦であり、熱さです。しかし生活を維持する縁としてだけ、あるいは食べ物としてだけ関われば、こういうのは正しく、快適便利で正常に暮らすことができます。

 だから以前に「異性のことに関わるにも、一種の食べ物としてだけ、つまり欲望をなだめるため、あるいは教育のため、あるいは純粋な生殖のためにだけ関わるように」と話したように、愚かな惑溺陶酔の話にしないでください。

 私たちには、六処をとおした満足を欲しがる目・耳・鼻・舌・体・心があります。そして物理面のいろんなリンパ腺の威力で、心の威力でなく物理面だけの話でリンパ腺が十分熟すと、生殖などの感覚が生じます。これは物理的な話、物質の話です。「最高に高尚な話」と迷うバカにならないでください。そして正しい方法で解決、あるいは抑止すれば、こういうのは心の正常さを育てるものになります。これも食べ物と言います。

 そして命の秘密に関わる知識や理解をもたらす物も、食べ物と言います。そして生殖、子が生まれる結果をもたらす物、これも食べ物です。食べ物とは何らかの結果をもたらす物という意味です。これをすべて食べ物と言います。だから目・耳・鼻・舌・体・心の面の食べ物があり、それが良い結果、あるいは得るべき結果をもたらせば、それら全部を食べ物と呼びます。

 たとえば私たちがご飯を食べると、ご飯は結果をもたらし、満腹、あるいは空腹が消えるなどします。これを食べ物と言います。私たちが善や美や、その他の正しいことをすると、口の面でない別の面の結果をもたらし、彼らはこれも食べ物と呼びます。

 だから世界にある物にしないで、つまり形・声・臭・味・触・考えを感情の餌にしないで、得るべき、私たちに与えられるべき結果をもたらす食べ物にしてください。そうすれば感情の奴隷にならず、これらの感情の縁である物より上にいる主人になります。自分に危害がないように使い、欲情面の愚かさが多いことが原因で仲間を殺すほど、親戚友人を殺すほど、親を殺すほど愚かではありません。

 これらの知識、これらの理解は、空の話、無我の話、執着しない話に根源が無ければなりません。しかし今みなさんの学校、大学では教えないので、みなさんも良く知っているように、大学の敷地内で乱闘があります。これは、「空の話は在家にとって永遠に利益がある」と言われた、ブッダを信じない罰です。

 私は、題目として、見本として述べました。詳細は他でたくさん話しているので、自分で探して読んでください。しかし、特にこのことについてもう一度話します。

 要するに空の話、無我の話、執着しない話、これらをまとめれば同じ話で、停止させ、愚かさを止め、自然の世界の欲情を煽る物への迷いを止めます。自然は正しく使うために与えたのに、間違って使うので間違った結果が生じます。それで自然を責めることはできません。自然が与えたのは欲情のように使わせるためでもあり、普通に害がなく自然の食べ物として使わせるためでもあるので、アヌプッビカター(次第説法)の五つを原則にしてください。


 次は、仏教のカンマについてお話します。

 仏教にはカンマ(業)の話があり、特別に教えてカンマを信じさせます。それはかなり科学です。現前を見、行為と行為の原因、行為の結果を見、正しく行動させます。これは科学の状態です。しかし別の形で話せば、あるいは他の人間たちは別の形で話したがり、神様を信じる話にします。神様を信じれば、そのような悪いカンマを作りません。それもできます。あるいは呪術の形で話すこともできます。

 例えば霊験や神聖の形で「こういうのはしてはいけない。タブーだ」と言います。こういうのもカンマの話ですが、別の motive (動機)に依存し、神様がさせたがりません。あるいはタブーか何か知りませんが、精霊か何か知りませんが、それがさせません。

 仏教の教えでは、直接「行動はどうか。行動させる原因はどうか。そして行動の結果はどうか」という点に知識があるようにさせます。これが基礎として智慧に依存するカンマの話で、善いカンマ、悪いカンマ、善悪より上のカンマの三種類があります。

 過去の悪いカンマは悪い原因である煩悩があり、そして結果は苦、あるいは悪趣です。善いカンマは善い原因、良く知ることから生じ、そして満足する幸福、快適である結果を得ます。しかしまだカンマの結果を味わっています。例えば天国などは善いカンマと規定されていますが、善悪の話は執着の基盤です。悪人は悪人の苦があり、善人は善人の苦があります。

 この世界の善人も別の苦があり、善人としての苦があります。たとえば善に関して生じる、善に関した問題、これもまだたくさんあります。有名で、善があり、豊かさでも何でもあるのに、別の苦があって自殺する人が沢山います。天国の天人も、天国の天人の苦があります。

 だから善いカンマだけでは最高ではありません。善悪より上でなければなりません。つまり何物にも「自分、自分のもの」と執着しません。善悪より上のカンマは、聖向聖果涅槃に到達させます。悪いカンマは悪趣、苦の中を輪廻させ、善いカンマは財産、名誉、名声、あるいは天国を輪廻させるので、まだ輪廻します。善悪より上のカンマ、つまりいろんな物より上に心があれば、何物の奴隷にもならず、その後輪廻する自分はありません。こういうのを涅槃に到ると言います。

 「善行は善を得、悪行は悪を得る」は一部です。そして宗教全般の教えであり、仏教だけではありません。しかし仏教の教えの行動で高くなった三番目のカンマは、執着せず、八正道で行動し、そして執着しないで涅槃へ行きます。「自分、自分のもの」と執着する感覚がなくなる結果があるので涼しく、快い心があり、苦はまったくありません。これを「善悪より上」と言います。このように三種類あるカンマの話を理解してください。

 悪行をすれば生き地獄に落ちたように熱く、善行をすれば持ち上げられたような喜びを感じます。しかし時々静かな時間があり、静かな時は「善い悪い」を感じません。それが正しい休息です。だから私たちは、心を休ませて静かにするために、悪の妨害を空っぽにします。これは快適です。自然が心を取り囲んで善悪の妨害を空にするために、海辺やスアンモークのような場所へ避暑に行くのは、空の話、涅槃になる話です。

 「苦い物はとても食べられない。甘い物も初めは良くても休まず食べることはできない。そうすれば死んでしまい、最後には水を飲まなければならない」と理解してください。だから自分に、味がないこと、あるいは善でも悪でもないこと、甘くも苦くもないことを教えれば、それが静かさ、休息です。カンマの話はこのように知らなければなりません。この形のカンマの教えを遵守すれば完璧な仏教教団員であり、涅槃へ行きます。


 次に生まれること、あるいは新しく生まれることについてお話したいと思います。

 生まれること、あるいは生には二つの意味があると憶えておいてください。体、皮膚の面、物理面の生は、母の腹から生まれ、そして百年足らず生きて棺に入ります。これを皮膚の面、物理的な生と言います。それは「体が生まれること」と良く憶えてください。

 もう一種類の生は心の話、心の面の生で、心の中で生まれます。それが、「俺」が生まれることです。どの部分を意味するかで、egoistic conception (利己主義な考え) あるいは perception (理解)であり、パーリ語で「アハンカーラ、ママンカーラ」と言う「俺、俺のもの」という感覚です。このような気持ちが生じれば、いつでも一回生まれることがあり、すぐに消滅し、その話が終われば消滅すると言います。一度死んで、すぐにまた生まれます。

 だから一日に何十回生まれるか知れません。egoism と呼ぶこともできますが、彼らは、それは egoistic conception と明言しています。つまりほとんどは煩悩の側で、selfishness (身勝手)になります。selfishness とは、煩悩がいっぱい、煩悩である「俺、俺のもの」がいっぱいという意味です。そしてその人に噛みついて苦にします。一日に何度も生まれられます。

 だから二種類の生があり、体の面の生、つまり物理的な生が一つ、そして精神面、spiritual な面がもう一つで、二種類です。体の面、物理的な生は問題でなく、問題はありません。それは複雑困難にせず、地獄にならず、火にも何にもなりません。それは成長し、ご飯を食べると自然に成長して大きくなり、体の面の話は、それしかありません。

 しかし精神面の話はたくさん生じ、広く生じて世界を支配し、世界を覆うこともできます。世界の主人になりたい。俺は世界の所有者になりたい。こういういのも、精神面の「俺、俺のもの」が生まれることです。だから苦が生まれるのは心の面、精神面の生が原因です。

 生まれたばかりの赤ん坊は何も考えることができません、体が生まれただけで、精神面の生ではありません。周囲のいろんな物を理解できるようにさせられ、俺という気持ちが生まれ、俺の父、俺の母、俺の家、何でも俺のものになった時、何にでも取で執着することを知った時、それが精神面の誕生です。だからそれは苦があります。それまでは体の話だけで、執着を知るまでは問題がなく、苦もあまりありませんでした。

 そして執着が増え、執着する習性が増え、そしてそれはカンマ種の面で、あるいは本能に引き継がれます。例えば動物が生まれると執着することを知り、どんどん執着が増えるのは、自然が体と心をこのような状態に創ったからです。それですべての動物は、煩悩を知ることが次第に増え、そして次第に苦が増えます。「体の面の誕生は、直接苦とは関わりがない」と、この自然の秘密を良く知っておかなければなりません。

 直接の苦は、心の面に関わりがあります。だから知性と心の面の知識があり、心の面の話を正しく処理しなければなりません。体は外皮、あるいは容器のようなもので、体は心の(有り様の)ようになります。私たちは心を善く管理しなければなりません。そうすれば外皮である体も正しくなります。

 心の面の誕生、あるいは変化が問題です。仏教ではほとんど心の面の生に注目します。だから仏教の本体であるブッダの教えは、心の面、精神面、spiritual な面の問題解決を目指しています。本当の体の面の問題が生じると、みなさんは体の問題解決のために、どの医院や病院へ駈けて行くこともできます。それが体に関わっている心の面、神経の面、mental な面なら、パークローンサーン(精神病院の名前)のような病院へ行くこともできます。しかし spiritual に関わる問題は、ブッダを訪ねなければなりません。

 つまり、それは全部煩悩の話なので、これらの精神面の問題解決の手助けができるお寺など、ブッダの病院を訪ねなければなりません。それは、私たち人間の苦の真犯人である、spiritual な面の生の話です。

 現代の科学の進歩は、体の面の問題解決ができるほど非常に進歩し、心臓移植ができるほどですが、mental な問題の解決はできません。だから人は神経の病気になり、世界に精神異常が増えています。この部分の心は体だけで決まる訳ではないので、体だけで解決することはできません。それは spiritual の側、あるいは精神の側次第だからです。

 それは「間違いか正しいか」の知識、見方、理解の話なので、誤りを知り、正しさを知り、心を調整して神経系統を良くしてくれる、仏教の教えを訪ねなければなりません。そうすれば神経の病気、あるいは精神異常になりません。私たちは、物質だけで悩みや憂いを静めることはできません。神経を静める薬を飲むのは、一時騙すだけなので、もっと良い何かがなければなりません。

 話して聞かせたのは、私たち(の心身)は良く見ると三重になっていて、体だけの物理面の系統が一つ、そして半分体、半分心である、mentality と呼ぶ神経系統が一つ、そして誰も関心がない、あるいは知らない人もい一番高い部分は spirituality、最重要な部分である精神面が一つです。人間の核心である部分ですが、誰も関心がありません。だから誕生の話は体の面、体に関わる mental な面の誕生に興味があるだけで、spiritual な面の「俺、俺の物」が生まれる話は、訳が分かりません。そしてこれが原因で苦があるのは感じません。

 これは、本当の誕生は精神面の誕生であり、一度俺という concept (概念)である理解が生まれること、と理解しなければなりません。それが一つの生で一日に何回も、一か月には何千回、一年には何万回も生まれ、死ぬまでには、何万回、何十万回、何百万回、何阿僧祇にもなります。どうぞこの種の生(誕生)を見て、理解してください。そうすれば仏教を理解します。これを「生(誕生)」と言います。

 次に「新たに生まれる」というのは二番目の生という意味です。だから一日のうちに何十回も死んでは生まれ、死んでは生まれます。新しく生まれることは前の生と関係、繋がりのある結果があります。前回の俺が何かをして、それはまだ副産物である二回目の俺の生のための reaction (反応)が残っています。

 カンマ-カンマの結果は、二つの生を跨いで届けることができると、このようにハッキリ見えています。重い悪をすれば悪くなり、たくさん善をすれば善くなり、その結果生に飽き、死んでは生まれることに飽き、静かで自由で、これらの支配より上にある心が欲しくなるので、私たちは心を涅槃に、このような輪廻の終わりにしたくなります。仏教の生まれること、あるいは新しく生まれることは、このようです。

 簡単に憶えるために「善い考えをすると善い人に生まれ、悪い考えをすると悪人に生まれ、大学生のように考えると大学生に生まれ、好色のように考えると、ナイトクラブやバーや、いろんな悪い所で好色が生まれ、学者のように考えると学者が生まれ、強盗のように考えると強盗が生まれ、どのように考えても考えたように生まれる」と、このように憶えましょう。これを「生まれて死んで、また生まれる」と言います。

 この十五分に大学生のように考えれば大学生になります。その後盗賊に生まれる考えをすれば、大学内で殴り合いができます。このようです。

 ブッダが教え、何としても勝利させようと目指した生(誕生)の話は、このような精神面の生を意味します。みなさん、詳細は縁起の話、四聖諦の話などで読むことができます。


 次は因と縁、あるいは因果についてお話します。

 仏教は道理(因と果)の宗教です。これも「仏教は道理の宗教で、道理の範囲にあり、道理に依存しない話、呪術の話である外部を信じない」と記憶して、口癖にしてください。道理に依存しなければまだ呪術家、呪術を信じている人で、道理を信じれば仏教教団員になります。だから道理のある話、そして道理を使えること、これが仏教教団員であることです。道理の話は、因と果の二つに分けるとハッキリ教えています。

 因は別の物を生じさせるもので、果は別の物から生じたもので、その後因になります。だからこの世界のすべての物は、時によって因(cause)になり、時によって果(effect)になります。例えば食べ物を食べると、食べ物は満腹の因になり、満腹は果です。しかしその満腹は他の考え、たとえば泥棒をしたい、あるいは集めたい、何かをしたいなどを生じさせる因になり、その満腹が因になります。

 美味しさなども果を生じさせ、続いて別の行動を生じさせます。だから因であるものが果を生じさせて果になり、果であるものが因になって別の果を作り、そして因になって別の果を作るので、途切れることを知らない鎖のようです。

 私たちの生活はこのように繋がっている因と果がいっぱいで、みなさんが毎日何を望んでもこれを作り、手に入れればそれが別のものを欲しがらせ、そして別のことをし、次々と途切れることなく繋がっていると見ます。

 だから私たちは座っていられません。座って尻を床につけていられません。因果であるものが途切れることなく連なっている威力で、考えさせて行動させ、次々に考えさせて行動させるので、止まっていられません。眠くなれば寝て、寝ればそれは初めの結果です。寝ることは眠気が覚め疲れが取れる原因であり、疲れが取れれば起き上がってまた別のことをします。だから「寝ていても休みがない」と言います。

 このように因と果があることを、良く見て理解しなければなりません。そうすれば因果だけに依存し、他の物に依存しない仏教を理解します。だからブッダは仏教の核心である四聖諦の話を、私たちが良く知っている「苦はこのよう。それは因つまり愚かさから生じた結果」と話されました。愚かさは欲しがらせる原因で、欲しくなると、俺、俺のものである執着が生じ、それは苦です。

 出世したい、秀でたい、お金が欲しい。これは愚かさ、願望、執着から生じます。そして苦になります。だから愚かさからそれを生じさせないで、賢さから生じさせます。知って望まず、執着しないで行動することもできます。これが初めの対、つまり苦と苦の原因です。

 二つ目の対である苦がないことは、正しい実践である八正道から生じます。八正道は、停止、静寂、無苦である結果を生じさせる知識、賢さ、すべての正しさです。このように二つの対です。

 初めの対は「苦」と「苦の原因」についてです。二番目の対は「苦がないこと」と「苦がないことに至る道」で、四聖諦は全部因と果の話です。薄切りにすれば縁起の話で、愚かさから願望になり、そして執着になり、それからどのように苦になるか詳細な process を見せ、詳しくなるばかりです。これを、細かく切り分けると言います。縁起の話は本当は四聖諦の話です。

 これを全部科学と言います。しかし、physical (身体の)、あるいは mental (心の)の側の科学ではなく、spiritual (精神)の、つまり最高の科学です。次に spiritual 側の、あるいは philosophy (哲学)側の話しか学んでいない人たちは、spiritual な話を理解できないので、spiritual の側の科学を、philosophy、あるいは何か理解できない物の話にします。

 philosophy は科学ではありません。彼らはまだ理解できない話、今知りたいと飢えている話、これから探求しなければならない話をという意味にします。それが philosophy の話です。だから涅槃の話、spiritual な話を聞かせても意味が分かりません。そして科学でない philosophy の状態で聞いてしまいます。しかしブッダ、あるいは阿羅漢は、この話を物質の話のように良く理解し、沁み込んでいます。

 だから涅槃の話、何かそのような話は、ブッダにとって、阿羅漢にとって philosophy ではなく、科学ですが、普通の人は、哲学者でも大学教授でも理解できないので、深く隠されたもの、philosophy にします。だから「それは philosophy の話、あるいは科学でない何かの話」と、迷って誤解しないよう注意してください。仏教は心に明らかに現れる因果の法則を基盤にしているので、科学でなければなりません。spiritual な側の科学です。

 物質面の科学は物質面の実験を基本とし、そして検証に耐えます。こういうのが科学です。しかしこの原則を精神面の話に使うこともできます。しかしこの世界の物質面の教育で理解できないだけです。それだけです。秘密はそれだけです。

 だからこの問題を解決するために、みなさんは自然の因と果の話、自然の因果になることを、物理から mental に、mental から spiritual に高くして、理解する努力をします。そうすれば仏教を完璧に理解し、「おお、このように道理の宗教だ」と、明白に見えます。

 話してきたすべては心臓部であり、知らなければならない、理解しなければならない仏教の教えです。それでこそ呪術を排除する類の仏教徒と言うことができます。そうでなければ成功しません。みなさんが出家して黄衣をまとうだけで知ることはできません。

 仏教徒、仏教教団員の登録をするだけでは成功しません。それは登録の話だけです。仏教教団員の登録をしても、それは仏教を知るようにできません。だから仏教教団員の登録をしなくても、このように学習し、このように歩けば、その人の心は、このように進化して仏教教団員になれます。

 ブッダも大悟してブッダになるまでは学生、探求者で、そして初心者でした。これです。それは登録によって成功したのではありません。これを知ることで、これを理解することで、これを深く理解することで成功しました。この規則で変化した心があり、その後は苦がない種類の新しい心があれば、仏教教団員です。

 そしてブッダという言葉は「知る、目覚める、明るい」という意味であることを忘れないでください。なぜそのように訳すのか、語学に関心を持つ必要はありません。関心を持たないでください。それは「知る人、目覚めた人、明るい人」という訳語を受け入れてください。

 知るとは、述べたようなすべての真実を知り、述べたようなすべての自然の秘密はどのようかを知ります。これを知る人と言います。苦を知り、苦を生じさせる原因を知り、苦がないことを知り、そして苦がないことに至らせる道を知る。これを「知る」と言います。そして「覚める」は現代人があれこれに夢中になり、熱中して月の世界に行き、そのような色んなことに夢中になるという意味ではありません。

 そういうのは大騒ぎをすることです。ここでの「覚める」は眠りから覚めるという意味で、眠りとは無明あるいは愚かさです。無明から覚め、眠りから覚めます。ブッダも昔は眠っている人で、それから世界で最初の目覚めた人になり、他の誰より早く眠りから覚めました。目覚めて寝ぼけ眼でなく、眠気を覚ますために顔を洗いました。このように精神面の目が覚めると、明るく清々しいです。これを「知る人・目覚めた人・明るい人」と言います。

 みなさんは出家してブッダに捧げます。何日間の出家でも、出家した人全員が、その正しい出家生活をブッダに捧げます。全身全霊を捧げ、何の目的も犠牲にし、自分の生活規則も犠牲にして、ブッダの足跡を歩く。こういうのを「出家をブッダに捧げる」と言います。ブッダが得たものと同じものである、「知識と覚醒と明るさ」を得るためには、述べたように重要な心臓部である仏教の教えを知る必要があります。そうすれば最後に得る結果は、涅槃と呼ぶものです。

 だから今、最高にたくさんいる愚かな人のように、涅槃の話を嫌わないでください。恐れないでください。仏教国タイでも、今涅槃の話を嫌って恐れ、理解できないので、教えることを禁止します。人を急停止させ、発展せず、進歩しないからです。これが、このような愚かさです。これは長い話になるので、次回にする方が良いです。

 今日の講義の最後に、「涅槃とは涼しさという意味です。どのようにどれだけ涼しくなれるかは、程度により、基準によって、段階的な涅槃と言う」と、まとめさせていただきます。熱ければ輪廻です。地獄に落ちて焼かれるとは、心の中が熱いという意味で、悪趣です。愚かなら畜生に生まれ、人の体の中で畜生になり、際限なく飢えていれば人の体の中で、大学生の体の中で、あるいは何の体の中でも餓鬼になります。

 飢えて渇望していれば餓鬼になり、理由もなく臆病なら人の体の中で阿修羅になります。こういうのは熱いと言います。涼しくありません。これらがなければ涼しく、少量の涼しさでも、一時的でも、最高に涼しくても、涼しいです。

 語学面の涅槃という言葉は涼しいという意味です。かまどの中から真っ赤な炭を出して、黒くなって消えると冷めたくなることを、炭が涅槃したと言います。あるいはまだ暴れている、まだ人間にとって危険な畜生、これを熱いと言います。良く訓練して馴らされ、犬のように主人に従順なれば、こういうのを「涼しい。冷えた。畜生の涅槃」と言います。人間は貪り・怒り・迷いで熱く、貪り・怒り・迷いがなければ、その時一時的に涼しくなります。一時の涼しさを「一時的な涅槃」と言います。

 ここへ来たように、偶々このように涼しくなることもあります。それは一時的な涼しさです。あるいは、ある種のヴィパッサナーが一時的に涼しくすることもあります。それも一時的な涼しさです。支配して一時的に涼しくするからです。煩悩を全部断つことができれば、本当に涼しく、永遠に涼しいので、完璧な涅槃、完璧な涼しさです。一時的な涼しさもあり、完璧な涼しさもありますが、「涼しさ」と言えば何でも涅槃です。

 だから時にはみなさんも、偶々環境によって涼しくなることがあります。みなさんも小さな涅槃、一時の涅槃になります。これが助けてくれなければ、みなさんは神経の病気になり、あるいは狂ってとっくに死んでいます。今ここに来て、座っていません。だから一時的な涼しさ、一時的な涅槃に感謝するべきです。それを増やすよう努力し、最高に完璧になるまで拡大させます。仏教の話は、涅槃で終わります。

 心の中から呪術の話を一掃する、刃のある武器である仏教学の教えについて述べたので、理解できる、あるいはそれを実践するための概略、あるいは指針にすることができるということです。

 ツグミが、時間の終わりを告げました。今日はこれで終わります。




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