24.在家のためのタンマのコツ





1970年6月1日

 二十時三十分になりました。今日は最後のまとめとして、在家のためのタンマのコツについてお話します。今私は元気がなく非常に弱っているので、講義を休まなければならないと感じるからです。まだ残る人で、まだ興味がある人は、聞いたことがない最初の講義のテープを聞いてください。だから今回の講義を全部のまとめとし、そして有益に使えるコツとしてまとめておきます。

 コツという言葉はどういう意味か良く知っているので、ほとんど説明は要りません。「コツとは、彼らが現代の言葉で美しく、テクニックとか何とか呼ぶもの」と指摘したいと思います。あるいは観察点を提示したいと思います。みなさんはテクニックに興味があり、崇拝するので、コツを見落としてしまうこともあります。

 要旨としては、自分が望んだように簡単に成功させる方法で、少ない投資で非常に良い結果があるとか、何かそのようなものです。つまり仕事を確実に成功させ、そして十分良い結果があり、疲れが少なく、苦労が少なく、少しの投資でたくさんできます。

 コツの目的とテクニックの目的は、この点で一致します。コツは小さな問題解決の話と理解しないでください。私たちの先祖が知っていたのはコツだけで、テクニックは知りませんが、十分なテクニックがあり、何をしても成功しました。現代の子孫には造れない、あるいは造れても非常に困難なものを造ったことを思ってください。現代人は月に行くことができますが、できないこともあります。

 それには、他のいろんな理由があります。アンコールワットのような世界の不思議な物は、現代人は造れません。造れても高価で困難で、非常に苦労します。だから私たちの先祖は智慧と賢さがあり、テクニックがあり、コツがあったから、私たちが生まれるまで生き延びて来られたと見てください。

 先祖にコツがなく、十分な何かのテクニックの知識がなければ、変化やいろんな理由で絶滅してしまい、今日まで種が残っていません。そして私たちに造れないような何かを建造して、私たちに見せません。怠惰でないこと、勤勉、犠牲、身勝手でないこと。これは、私たちは先祖に敵いません。

 だから私たちがテクニックと呼ぶ物は、人間が世界に現れた時から休みなく進歩し、この土地のものになっています。コツと呼ぶものも同じです。だから私は「コツには利益がある。少ない投資で、素早くたくさんの結果があり、望んだように成功する」と、短い要旨だけを掴みます。

 次に「在家のためのタンマのコツ」という言葉になりました。私は生計を営む話や、そのような話はしません。しかし在家にふさわしいタンマがあるよう援け、そして苦をなくすことができる、隠れた方法がある、という話をします。この種の方法を、パーリ語で「方便」と言います。しかし残念なことに、タイ語の方便という言葉は、悪い方、低い方、あるいは不正を表す意味があります。しかしパーリ語の本当の方便は善い方の意味があり、コツと同じ、成功させる道具です。

 さて、「方便は騙す話」と捉えてもいいです。しかしそれは、煩悩を殺すために騙す話、サターンを殺すためにサターンを騙す話、閻魔大王を殺すために閻魔大王を騙す話です。こうでも良いです。

 しかし本当は騙すことでなく、コツである知性です。テクニック、特に広すぎる知恵、頭から溢れる知識は危機を脱せない話です。そこでそれだけの、そして危険と遭遇している短い時間に成功させることができる、適度な知恵を、パーリ語でウバーヤ(方便)と言います。

 タイ語になると意味が変わりました。パーリ語、サンスクリット語のほとんどの言葉は、タイ語になると多少意味が変化し、中には反対の意味になったのもありますが、今は話しません。今は言葉や文字を教える話なので、観察して見てください。

 前に何度も話して聞かせたことがあります。タンハー=欲望は、パーリ語とタイ語は同じではありません。タンハーは愚かさから生じる欲望を意味し、知性から生じる願望はタンハーと言いませんが、タイ語では全部欲望と言い、一緒になります。

 方便はコツやテクニックと同じで、成功させるために最高に重要です。パーリ語では何も形容詞を足す必要はありませんが、タイ語では「善い方便」など、形容詞を付けなければなりません。パーリ語でも、これは彼らが新しく造った造語で、本来は方便だけで十分です。タイ語ではコツ、方便、テクニック、何と呼んでも良いです。つまり早く、そして少ない投資で多くの結果があり、望んだように満足できる成功をさせます。

 それなら在家は、出家して僧にならないで、僧のように実践しないで、どうすればプラタム、あるいは仏教から最高に多くの利益が受けられるかという意味です。これを「在家のためのタンマのコツ」と言います。

 コツという言葉を使いたくなければ、コツである言葉を述べたいと思います。まだ出家できなければ、出家したのと同じにしてしまいます。まだ出家できなければ、出家したようにしてしまうことができます。これは新しいコツです。観察して見てください。

 在家は家にいて、そして出家のような衣食をしません。出家しようにも、子がいて妻がいて、家族がいて、義務があり、仕事があって出家することができませんが、それ自体を出家してしまっているようにするコツがあります。在家でいながら、それ自体の中で出家してしまっています。

 これは、初めの頃の何回もの講義の言葉を思うことを忘れないでください。精神面の滅苦なら、それには僧も在家もないので、僧も在家と同じように実践し、在家も僧と同じように実践しなければならないと教えた項目です。欲が苦を生じさせる原因なら、欲を消滅させなければならいだけです。

 だからこのように学んで実践すれば、出家しているのと同じです。次に在家は僧より不利で、自分の腹や口を養わなければならないので、一つ話が増えます。だから在家は、同時に二つのことをしているということです。口や腹を養い、子や妻を養う体の問題、国の問題も一つの問題で、そして心の問題、煩悩から苦が生じて苦しくさせ、熱くさせる、これがもう一つの問題です。

 出家するかしないかは心の問題なので、仏教の教えで実践を始めれば出家しているのと同じです。しかし別種の出家で、ゆっくり這って行きます。房状に下がっている錘があり、家を出て財産がなく、妻子がなく、そして自分で口や腹を養う必要がなく、僧の実践をするのに軽快便利な出家と違います。出家は庶民が養うので、田畑を耕してお金を得なくても、消費する物があります。違いはこれだけです。

 まだ出家できなければ、稼ぐことに時間を費やすので、行くのが遅いだけで、同じ教えで実践し、それ自体を出家と同じにします。しかしここで見合う利益があります。お金や何かを稼いて口や腹を養い、家族を養う在家の義務を行うのは、熱さが生じる道、あるいは機会、あるいは最高の苦です。次にこの苦や熱さが生じないように、タンマで管理しなければなりません。そうすれば在家の生活は火のように熱くなりません。

 援けるタンマがなければ、在家であることは火のように熱く、考えも正しくなく、決意も正しくなく、何をしても正しくなく、心の面の問題が生じれば死ななければならないような、そのようです。みなさん、子を亡くした人の伝記を読んでみてください。自分は食べ物も食べず水も飲まず、毎日、何週間も、自分が死ぬまでこのようです。これがタンマがないことです。上流の王族の伝記です。

 だから宗教の話、タンマの話は、世界で暮らす在家があまり苦しまないで、あるいは苦がまったく現れないで、世界で暮らせるようにするためにあると捉えてください。ダンマがなければ、在家であることは極めて苦です。だからパーリ(ブッダの言葉である経)に「在家は苦の巣と言われるのは、ダンマのない在家を意味する」という教えがあります。ダンマがあれば預流、一来、不還にまでなる機会があります。

 こういうのは初めの頃の講義で、「在家は不還にもなることができ、一段移動すれば阿羅漢になる」と話したことがあります。しかし阿羅漢になってしまったら在家であることは終わります。あるいは僧である意味も終わります。だから人は僧になったと見なします。阿羅漢は在家の中にはありません。

 これをコツと言います。あと幾日もしないで、みなさんは還俗して在家になり、そしてまだ出家できません。しかしみなさんは自分の中で、心の面、精神面で出家でいることができます。俗世の在家の義務である、日常の仕事から苦が生じないよう、貪・瞋・痴が生じないよう執着を管理する教えがあります。

 「在家がキヒパティバッティ(在家が実践すべき項目を書いた本の題名)で実践すれば苦が無くなる。ナワコワーダ(得度した人が読むべき本の書名)で述べられている項目で苦が無くなる」と理解しないでください。それは体(行動)の話だけです。キヒパティバッティの全項目を実践できても、心の苦からは脱せません。その本が役に立つのは、どうお金を稼ぐか、どう善友を持ち、どう交際どうするか、そのことで間違わないだけです。

 しかし手に入れたお金が苦を生じさせることもあり、手にした成功が苦を生じさせることもあります。成功しないことについては言うまでもありません。だから私たちは何にも苦を生じさせない類の、正しい生活の知識がなければなりません。ダンマの知識が十分あれば、得ても失っても苦を生じさせません。生も死も苦を生じさせません。

 これをコツと言い、一度で二種類手に入れるという意味です。体の面の在家であることもあり、それも善くできます。家を治める人のように学習する人、仏教教団員である在家として家で暮らしている人もいます。つまり正しく善い清信士、清信女で、仏教のダンマがあり、そして清信士、清信女でない一般の人と同じように、正しく生計を営んでいるという意味です。だからみなさんは普通の庶民でなく、清信士・清信女にならなければなりません。

 普通の庶民はダンマがなく、宗教がなく、あるのは生活すること、普通の人のような物質と皮膚の話だけで、清信士・清信女ではありません。次に、みなさんがそうするならそれもできます。そしてまだみなさんには、それらの物が苦を生じさせないようにするための、ダンマの面の知識と行動があります。だからみなさんは清信士・清信女であり、普通一般の人ではありません。これが仏教教団員であることです。

 このことに間違った理解をしないでください。そして仏教教団員であること、あるいは清信士・清信女であることに無関心にならないでください。清信士・清信女として十分なダンマの実践者なら誰でも、僧より遅いだけで、僧と同じ実践行動の一部、一つをしているということです。みなさんは子を牽き、提げた物を牽かなければならないので、ローラー車のように遅く、汽車や飛行機のように早く走ることはできません。しかしそれにも「行くこと」はあり、行きたい時は前方へ転がって行きます。

 次に、両手で魚を掴むことができるコツを見なければなりません。私たちは両手で魚を掴むことができます。両手で魚を掴む話は、昔は禁止しました。しかし別の意味で、今話しているような意味ではありません。昔のは、両手で魚を掴むと滑って上手くできないので、二つとも手から逃げてしまうという意味です。しかしそのように魚を掴むのではありません。これは、同時に二つのことをして両方とも成功させるという意味です。

 世界(世俗)の話も失敗せず、ダンマの側も失敗しません。体の側の話も失敗せず、心の面の話も損ないません。在家の人たちは本職も欠かさず、国民の仕事も欠かさないようにすることができます。彼らは同時に二つのことができるという意味で、両手で魚を掴むのと同じです。こういう魚獲りは禁止しません。そしてできる範囲にあります。

 水中で両手で魚を掴むのは、両手が滑って抜け落ちる希望があり、何も得られませんが、先の例えのような話はできます。愚かな人と傲慢な人だけが、愚かさと傲慢で「できない」と戯言を言います。学者、哲学者と仮定されている先生でも、愚かさと傲慢で「世俗の利益とダンマの面の利益は同時にできない。財産が豊かで、ダンマが豊かで、両面豊かで涅槃に行くことはできない」と戯言を言います。それは愚かであり、彼の傲慢です。

 ブッダが在家に空の話をしたことは、詳しく説明しました。ブッダが在家に空の話をされた話は、在家が「在家である私たちにとって、永遠に利益があるダンマは何ですか」と質問すると、ブッダは「空の話は在家のための聖向聖果へ行く話、涅槃へ行く話です」と言われました。だから在家は生計を立てると同時に、空の話の実践をしなければならないという意味です。

 涅槃の話は確実に得られる希望があり、口の話、腹の話は小さな話になります。みなさんがこの言葉を忘れなければ、そのコツはできます。この言葉を忘れてしまえば、口と腹の話が重要になり、ダンマの話は小さなことになり、このコツは失敗すると思います。

 だから「なぜ生まれて来たのか」という、前の講義を思い出してください。そして「人間が得るべき、人間が得なければならない最高に善いものを得るために生まれて来た」と思い出してください。

 だからそれは生計を維持する話でなく、口と腹の話でなく、食べる話、性の話、名誉の話でもありません。これらは小さなことで、それは何かを教えるだけ、あるいは危機を脱すだけあります。そして人間が得るべき最高の善いもの、つまり心の面の最高に高尚で素晴らしい状態を、何としても得るよう専心します。

 職業の話、給料の話は職業だけ、生きて生活することでしかありません。そしてその生きている間に、人間の最高に善いものを得なければなりません。この教えがぼやけなければ、そのコツは成功します。反対になれば物質主義だけで、皮膚の面の美味しさのために生まれます。他には何もなく、ダンマは小さな話、愚かな人を騙すための話です。こういうのは希望はありません。

 今世界は著しい物質主義になり、全世界がどんどんそうなっているので、間違った方、理解できない方へ引っ張られている問題があります。自由に選択でき、このように知性がある人間として、人間が行き着くべき目的である、物質主義でなく、皮膚の話でなく、口と腹の話でない心の面の最高の目的に到達すべきです。

 今彼らは、急いで食べて飲んで、思い切り楽しんでしまおうとしています。明日は死んでしまうかもしれないからです。それは物質狂、皮膚狂の話です。ブッダの時代以前から現在まであり、今、急増しています。ブッダが現れた時、心があり、善があり、幸福、最高に高尚であることにおいて、人間が得るべき最高に高尚なもの、そして自分自身で知ることができ、誰も教える人は必要がない、簡単に言うと、涅槃と言うものを説かれました。

 涅槃についても「今極めて愚かな人が多く、物質・皮膚に非常に迷うので、最高に愚かになり、涅槃は人間に関係ないと見る」と、もう一度まとめて話さなければなりません。これはどちらも間違っています。

 つまり寺に長年暮らしている宗教に厳格な人たちは、涅槃の話を誤解し、どこにするのか知らず、何万生、何十万生先の未来にするのか知りません。どこにするのか知らず、どこにあるのか知らず、それが何なのかも知らないので、できるのは「遠い未来に涅槃に到達させてください」と望むだけです。これも間違いであり、そして最高に愚かです。

 もう一つのクループは、涅槃を理解しない現代の教育で、「涅槃の話は愚かな人、昔の人のためのバカみたいな古臭い話」と非難します。これも、涅槃とは何かを知りません。みなさんは今、西洋の尻を追っているので、必ずそのようになります。涅槃は自分のための話ではない古臭いものになります。これは、良く注意してください。

 涅槃とは涼しいという意味です。詳しくお話したので繰り返す必要はありませんが、「涅槃とは、六処が涼しいものである状況」と明言します。短く「涅槃は、六処が涼しい物である状態」です。六処とは目・耳・鼻・舌・体・心で、外部にある形・声・香・味・触・考えと連絡する道です。私たちには外部の物と連絡するための内処である目・耳・鼻・舌・体・心があり、涅槃とは、六処が涼しい物である状況です。

 私たちが貪り・瞋り・迷いを放置すれば、六処はいつでも熱い物で、一時目が熱く、一時耳が熱く、一時鼻が熱く、一時舌が熱く、一時体が熱く、一時心が熱くなります。私たちが貪り・怒り・迷いの威力のままにすれば、つまりダンマが無ければ六処は熱い物で、その時私たちは輪廻である熱い物に落ちています。

 次に「ブッダの教えで正しく実践していれば、結果が現われる」という方便、コツ、テクニックがあります。つまり六処は涼しい物になり、目・耳・鼻・舌・体・心に関した熱さは生じません。違いはほんの少し、その涼しさが永遠の涼しさか、あるいは一時的な涼しさかだけです。まだ普通の人であることが多ければ一時的な涼しさで、すぐに再び熱くなります。そしてまた一時涼しくすることができ、一時熱さが戻り、また涼しくできます。

 私たちが実践して聖人になれば、非常に涼しくすることができ、再び熱さは戻って来ません。その違いだけです。しかし涼しさはそのように涼しく、同じ涼しさで、熱さはそのように熱いです。今ここで、現世で、すべての仕事で、目・耳・鼻・舌・体・心の涼しさを生じさせることができること、それを涅槃と言います。

 試験に落ちると熱くなり、執着が生じて、最悪の被害がある俺になり、それで熱くなり、後悔、悲しみが生じ、嘆きか何かが生じます。これも熱さを生じさせ、輪廻になります。正しい考えなら「すべてはその因と縁で経過する。因と縁が十分なら試験に受かり、因と縁が不十分なら試験に落ちる。それを苦にすることはない。落ちたらまた勉強すれば良い」と、自然の法則で考えることができます。これも「それを涼しくする」と言います。

 しかしこれからは勉強と試験の話だけでなく、あらゆる仕事の話です。社会の仕事があり、いろんな仕事はすべて熱さを生じさせます。そこでみなさんが、どんな場合にも涼しくできれば、その場合の、一部分の、一時的な涅槃で、二度と熱くならなくなれば完璧で正しい涅槃で、正しく、そして完璧です。

 だから涅槃は、私たちと切り離さなければならない話ではありません。いろんな物が熱さを生じさせないよう防ぐために、知性と一緒になければなりません。死んであと何劫、何百生、何千生後に涅槃するのではありません。そのようではありません。ブッダはそのように望まれません。「涅槃は、あればあるだけの六処の涼しさ」と明言されています。永久にあれば本当の、そして完璧な涅槃です。

 だから私たちは最高に関心を持たなければなりません。そうでなければ生き地獄に落ちます。一日に目・耳・鼻・舌・体の面の熱くなる話が幾つもあり、最も多いのは心の話です。非常に素早く考えられるからです。特に現代の教育の結果は、考えるのが得意な人にするだけです。正しい考えか誤った考えかは保証しません。だから考えるのが得意なのは誤った方に得意になり、非常に熱い話があります。そして感じていない熱い話です。

 ヒッピーのような「冷たい火」、「濡れた火」と呼んでも良いです。焼いて火ぶくれにする火である必要はなく、冷たい火、濡れた火もあります。それは熱く、同じ熱さの意味があります。

 真実のままに見なければ、「涅槃は、家で暮らしていても、身についていなければならない物」と感じないので、「涅槃は在家には必要がない。ブッダは在家に空の話をしていない」と見ます。これには理由があります。ブッダが在家に空の話をなさったのは、在家に、家で暮らす人のための涅槃を得させ、そして熱さを消すことができるようにするためです。だから「できない」と言う人は、世界(世俗)のことをする時は世界のことだけで、ダンマの面はできません。だから愚かさプラス傲慢です。

 愚かでもあり、傲慢でもあります。愚かを止め、傲慢を止めてしまえば、「ブッダは、在家は空の話に関心を持ち、目・耳・鼻・舌・体・心の六処に、適度の涼しさがあるようにしなければならないと、正しく言われた」と見えます。そうすれば神経の病気にならず、精神異常にならず、自殺をする必要もありません。そして最後にヒッピーのように煮えたぎらないで済みます。

 みなさんが涅槃を古臭い物と見るなら、仏教全体を古臭いと見るのと同じです。すべての仏教は現世での涅槃を望み、輪廻の中に涅槃があるよう望むからです。在家の生活は輪廻の中にあり、善があり、悪があり、徳があり、罪があり、幸福があり、苦があり、上がったり下がったりする物があります。それは輪廻です。そうならなくても良いこと、安定、静穏、清潔、止まれること、自由、これが涅槃です。

 ナリケー椰子の池の「ナリケー椰子は、蜜蝋の海にただ一本、雨が降っても濡れず、雷も届かない。蜜蝋の海の中、行くことができるのは、徳を越えた人だけ」を思い出して、暗唱してください。

 これを、みなさんが在家でも、涅槃に関わることができるコツと言います。そして失敗する「両手で魚を掴む」ことではなく、種類の違う魚を両手で掴むことで、成功します。つまりその魚と、もう一匹の魚を熱いものにしません。だから「厳格に分けなければならない。今は在家で庶民なので、口と腹の話、生計を営む話にし、宗教の話、涅槃の話に関心を持つ必要はない」と言うのを信じないでください。

 講義の第一回で、「人生は二頭の水牛に牽かせなければならない」とお話したように、私たちは同時に、この二つがなければなりません。二頭の水牛を憶えておいてください。一頭の水牛は仕事のテクノロジーで、もう一頭の水牛は spiritual enlightenment、精神の輝きです。

 この二頭の水牛を憶えておけば人生は快適で、大騒ぎをする必要のない最高の穏やかさがあります。これがコツです。こういうのがコツでなければ、智慧に詰まり、これ以上話すことはありません。これが、少ない投資で最大の結果を得るコツです。

 誤解は、共有できないほど僧と在家を区別しすぎるということにあります。私は「在家でいながら、僧になってしまいなさい」と言います。今みなさんはあれこれ高度な仏教の教えを聞き、全部僧のものばかりです。だから戒・サマーディ・智慧、聖向・聖果・涅槃の話をすると、「おい、僧の物を使ってバカだなあ。僧の話を勉強して実践するのはバカだよ」という考えや理解が生まれます。本当は僧の物でなく、僧の物を使うという愚かな理解です。それには僧の物も在家の物もありません。

 心の苦、精神面の苦を消滅させる話は、僧の物、在家の物と分けません。執着を消滅させなければならない話、欲を滅す話、四聖諦、八正道の話は全部同じで、これらの話には僧も在家もありません。在家も僧と同じように、ブッダ・プラタム・僧を敬い、僧も在家と同じようにブッダ・プラタム・僧を敬います。そして僧も在家も同じように戒・サマーディ・智慧、煩悩・欲望を消滅させる実践をします。

 ただ、遠くまで行けるか、たくさん行けるか、あるいは少ないかだけです。僧の話は全部、内容的には、要旨、意味は、在家の話です。しかし彼らが僧仲間で呼ぶ名前を規定し、そして僧の仲間内だけで聞いているので、僧の物と理解します。

 みなさんは、パーティモッカ(二二七戒)をするのは僧の話と考えていると思います。そうです。ブッダは、僧は半月ごとにパーティモッカを読まなければならないと規定されました。しかし僧だけで、在家はしてはいけないと限定したわけではありません。みなさんが毎週、半月ごとに律の規則を読めば、法律で、何かの規則で間違いをしないよう自分に忠告することができます。だからパーティモッカサンヴァラ(具足戒律義)は、僧も在家も使うことができます。

 僧は僧のいろんな規則で慎重にし、在家は在家のいろんな規則で慎重にすればパーティモッカサンヴァラと呼ぶことができます。僧に根律儀があれば目・耳・鼻・舌・体・心を慎み、触れて来る物に平静でいられるので、在家もするべきです。そうでなければ生き地獄に落ちます。だから目・耳・鼻・舌・体・心を通して私たちと関わる話が、危険な毒にならないように注意しなければなりません。僧と同じだけでなくても、僧と同じようにします。ただ多いか少ないかがあるだけです。

 僧の話はもっと重く、パッチャヴェッカナチーヴァラ、ビンタバータ、セーナーサナ(衣・食べ物・住まいに関した省察)などは、僧は毎日唱えますが、在家は関係ないと理解しないでください。在家もしなければなりません。しなければ悪い在家で、苦があります。

 「このチーヴァラ(衣)を使うのは、暑さ、寒さ、あるいはアブや蚊、風などを凌ぐため」、あるいは「チーヴァラを使う人も、チーヴァラも、それは動物でなく、人物でない」というパッチャヴェッカナチーヴァラ(衣の省察)の文句を、在家がこのように思い出せれば善い在家で、衣服のために浪費せず、着る物や装いの話で焦燥しません。だからどう実践するかは、在家もそのように実践します。衣服に関して必要を越えず、必要なだけにします。

 食べ物について、パッチャヴェッカナビンタバータ(食べ物の省察)は、必要なだけ食べ、放漫、あるいは過剰にならないよう、あるいはガツガツしないよう、あるいは美しさを愛すからでないよう、自分に忠告するためです。在家も食べ物に関して、快適に義務や仕事をするにふさわしくする実践ができます。クルンテープ(バンコク)にいるのに、美味しい昼食を食べるために、車でノンタブリー(隣接する県)などへ行く必要はありません。

 それは狂っている話です。そういうのを標準にすれば、在家は生き地獄に落ちます。しかし僧のような教えを守り、パッチャヴェッカナビンタバータ(食べ物の省察)を順守すれば、食べることは体が求めるだけで、仕事をするのに快適です。みなさんは唱えて記憶しているので、私が話す必要はありません。お願いするのは、パッチャヴェッカナを唱えるのを、還俗しても忘れてしまわず、今までどおり唱えられることだけです。

 住まいの話も同じです。住まいに依存するのは人間として快適さを受け取り、そして人間の目的に到達するまで歩いて行くためだけです。家を建てることに夢中になりすぎれば、必要以上の重責が生じます。それを手に入れるまでにたくさん投資しなければならず、非常に苦労しなければならず、時には最初から破滅することもあります。

 もしそのようなら維持しなければならず、維持修繕の費用がたくさん掛かり、全部は面倒見切れません。できても心配で気掛かりで、不安で心が憂鬱になります。だから「小さな鳥は体に合った小さな巣を作る」という箴言があるように、必要なだけの家を持ってください。大きくしすぎれば人が笑います。人間の義務を行うために暮らす、必要性にふさわしい快適さにしてください。

 これが住まいの話です。什器備品でも何でも、家に関わる物という意味で、僧がするようにパッチャヴェッカナ(省察)してください。このような小屋に住まなければならないという意味ではありません。在家になったら小さな小屋に住まなければならないという訳ではなく、適切ならどのようでも良いですが、その意味を知って、心を溺れさせないでください。

 最後の項目は治療薬の話です。パッチャヴェッカナはあまり大変にしないためで、正しいだけ、適切なだけにします。必要以上で不可能なら、死なせても良いです。体は困難すぎるほど苦闘しなくても良いです。しかし他の生活の規則を正しく実践していれば、病気もありません。

 そして病気も、高価で特別でない薬で軽減できます。心臓移植をしなければならないほどの話は狂った話で、する必要はありません。自然のままにするべきです。死でも何でも自然に任せ、命を治療する薬にもサンドーサ(知足)である人です。

 僧の四つのパッチャヴェッカナ(省察)は、在家のものでもあります。しかし僧の物のような名前で呼ぶので、在家が聞くとびっくりして、僧になってお寺に住むのかと心配します。本当は、内容も意味も同じです。食べ物の量の話は、また別の話です。

 僧が心の努力をしたい時は在家より少量食べ、在家が体力を使いたい時はたくさん食べなければなりません。しかしそれでも適量があります。食べ物を食べる適量は、僧も在家も同じに、厳格に実践しなければなりません。

 本当の僧の話はもっとで、たとえばジャーガリヤーヌヨガ(眠らない努力)少眠は、心の面、精神面の訓練があるので、少眠の僧にとってふさわしいです。在家は体力を使わなければならないので僧のように短い睡眠では足りませんが、それでも少ない眠りにしなければならないのは同じです。在家は在家にふさわしいだけ、短い眠りになさい。

 散らばって頭陀に行く話は、誰でも僧だけに規定されたと理解します。だからみなさん、熟慮して見てください。一回だけ食べる。一つだけの食器を使う。そのようなことは、その意味だけをとれば「無駄遣いをしない」です。

 必要以上に食べないで必要な回数だけ食べ、必要で適切な食器だけを使い、放漫にしません。三枚のチーヴァラのように、在家も必要なだけの、適切なだけの衣服で、過剰にしないでください。他のことも同じです。要するにサンドーサ(知足)の話で、在家が頭陀を遵守することで、誤る道はありません。つまり有り余る生活でなく、仕事に便利なちょうど良いだけ、生きて行けるだけ。これを頭陀と言います。在家も頭陀をすることができます。

 他の話も同じで、全部は話しきれません。最後に「菩薩の理想」の話は在家こそ菩薩になれると忠告したいと思います。広い世界が駄目なら家庭内だけにしましょう。能力の限り、技量の限り、家の中の人、あるいは近隣の人まで援けてバーラミーを積むことを「菩薩の理想がある」と言います。だから家にいる在家でも、仏教の要旨で何でもできます。これがコツです。

 次に実践を趣旨で、意味で、中身で、あるいは間接でなく要旨で捉えるよう忠告したいと思います。みなさん、一緒くたにしないでください。要旨は間接ではなく、間接は要旨から外れ、要旨は直接です。在家が僧の話を要旨で使えば、それは直接の実践で、間接ではありません。間接と言わないでください。僧が実践するためのいろんな実践項目を、在家は間接でなく、直説実践することができます。

 要旨を正しく使うだけです。量や何かは、同じである必要はありません。レベルも同じである必要はありませんが、要旨は何時でも同じです。だから私たちは、僧も在家もきっと同じ重要な要旨があり、苦から滅苦へ歩いている人です。それが要旨です。在家は両肩に担いでいるので遅く歩かなければならず、僧は片方だけ、あるいは何も担いでいないので早く行きます。

 要旨と呼ぶものが最高に重要です。何もかも要旨で正しく、要旨と一致するよう捉えください。今の仏教の教えは真っ直ぐ捉えてなく、間違った要旨、間違った教えなので、非常に厄介です。要旨を捉えることができず、要旨を掴めないので、偽物の仏教、肉芽の仏教です。たとえ宗教面の物質で繁栄していても、仏教はなく、あるいは滅苦ができません。国中にお寺を建て、国中に仏塔を建て、国中黄金に輝かせても、要旨を間違って捉えればどうしようもありません。

 その要旨は清潔で明るく静かな心があることにあり、菩薩堂・本堂・ あるいは塔・黄衣、あるいはそのようなものが溢れることではありません。だから要旨が重要と捉えてください。文字も重要でなく、いろんな儀式も重要ではありません。要旨を正しく把握すること。それが重要です。

 今、彼らは伝統を強調しています。「仏教学と伝統」という協会など、伝統の話は注意してください。皮を掴まされることもあります。仏教学も気を付けてください。それは膨れ上がった哲学かも知れません。要旨が正しくありません。仏教が哲学になれば、要旨ではありません。苦は消滅しません。伝統儀式も同じで、目的が間違い、要旨が間違えば迷信になります。

 「仏教学は宗教であり、哲学ではない」という要旨を掴まなければなりません。宗教であるサータラ(学)は、宗教の武器でなければなりません。宗教学は刃がある武器で、愚かさを切り、身勝手を切り、煩悩欲望を切る刃があります。本当の武器なら、貪り・怒り・迷いを切る刃がある物でなければなりません。これを要旨と言います。

 伝統なら、そのような行動に便宜を生じさせるだけで、伝統がなければそうする便利がありません。伝統で始めておき、朝はこのようにし、夕はこのようし、今月はこのようにし、来月はこのようにする。それは正しく規律のある伝統です。こういうのは利益のある伝統です。しかし目を瞑って迷信ですれば、更に利益はありません。だから「正しく、適度に、そして全部揃って」と憶えてください。

 聞くと哲学のようですが、そうではありません。私は哲学の話は大嫌いですが、これは聞くと哲学の原則のようです。正しく、そして「適度に」、そして「全部揃えば」使いものになります。要旨はそこにあります。要旨は正しさにあり、そして適度にあり、揃っていることにあります。みなさん。何をするにも、この三語を思い出してください。正しく、そして適度でなければならず、正しすぎるのも堪りません。

 正しすぎるのは誤りで、良すぎるのは悪です。正しさは確実に正しくなければならず、正しさも適度で、過ぎてはいけません。そしてあるべき物すべてが揃わなければなりません。これが要旨です。

 私が「仏教の要旨」と言えば、正しさ、そして適度、そして一人の人が実践する、在家の一人が実践する仏教の教えが揃っていることを意味します。こういうのを「仏教の要旨である仏教の心臓部を掴める」と言い、外皮ではありません。

 もう一度「間接でなく要旨で」と復習します。

 「意味で」、あるいは「要旨で」は、間接ではなく直接です。「要旨で」は正しく、適度に、そして全部揃っています。在家がこのような教えを遵守すれば、在家でいながら僧になることができます。つまり話の要旨、仏教、あるいは僧の要旨を心の話、精神の話として、自分の生活に入れておきます。本当の在家の話、口の話、腹の話、子の話、妻の話、生計を営む話は体の部分で、体の部分にします。

 私たちは二頭の水牛を、命である体と心に繋ぎます。そうすればこの命は全部揃うので、完璧に正しく順調になります。このようにすれば、森の中で脇目もふらずに何かをしている愚かな僧より、早く聖向聖果涅槃に到達します。ちょっと下品になったことをお詫びします。しかしそれは最高に真実です。

 正しく実践している在家は、僧の話に執着しすぎているバカみたいな僧より、早く聖向聖果涅槃に到達します。森の中で一人で何かをしている人は、この在家より遅れています。だから目を開けて「正しさ、適度、揃っていること」に明るい知性がある在家になり、要旨である仏教を身につけて下さい。

 私はコツについて話しています。それはこのようなコツで、何としても要旨を掴むこと、それが最高のコツです。これ以上のコツはありません。何としても心の箱を掴むことがコツです。


 少し時間があるので、心を掴むコツについて、もう少しお話したいと思います。もう一度簡単にまとめると、何度も講義で話した言葉を、思い出すよう忠告させていただきます。私は何十年も、仕事で休まず何かを観察して来て、彼らに短く要約してやるのも非常に利益があると気づきました。だから使っているような、まとめた言葉が幾つも生まれました。

 この要約した言葉は、いろんな種類の人にふさわしくするので違いますが、どの種類の人にも使えるのは、いつも聞いているような「死の前に死んでしまう」です。スアンモークに来て滞在する人は誰でも、「死ぬ前に死んでしまう」学位をもらうため、身勝手になる egoism の類の「俺、俺の物」を、体が死ぬ前に死なせてしまうために来ます。

 体がまだ死なないうちにアハンカーラ、ママンカーラ、「俺、俺の物」を死なせること。これを死の前に死ぬと言います。死ぬ前に死んでしまう努力をして、傲慢で頑固で、貪り、怒り、迷う「俺、俺の物」をなくします。これを「死ぬ前に死んでしまう」と言います。

 「死ぬ前に死んでしまう」教えを守れば非常に涼しく、六処は非常に涼しいです。みなさん、自分で考えて見ても良いです。これは持ち帰って考える見本でも良いです。しかし私はこのような考えがあり、庶民、住民、清信士、清信女に話すにも、死ぬ前に死んでしまう話をします。この「死ぬ前に死んでしまう」を、一日に何回話して教えるかしれません。これはたった三語にまとめた一つの教えです。

 率直に言うと、楽しくなく、心を捉えない時は、間接的になぞとして話します。今、もう一つたくさん話している言葉は「滅苦では、口と心は違う」です。庶民が聞いているのは、「口と心が違うのは、付き合えないずるい人、信頼できない人なので、付き合ってはいけない」です。しかしタンマ語の「口と心は違う」は、別の意味があります。

 口は、他人が話すように話さなければなりませんが、心はそのようではないという意味です。口は庶民が話すような言い回しで話し、心は真実が明らかになっています。ブッダもブッダ自身について「如行(ブッダの一人称。行ったようという意味。漢訳では如来)は庶民の言い回しで話さなければならないが、心は、庶民が執着するように取で執着しない」と話されています。

 庶民が「私の家」と言えば本気で自分の家で、「私の体」も本気で私の体です。それは愚かさ、迷い、欲望、取で、本当に自分の物にしてしまいます。しかしブッダが「私の体」「如行の体」と言うのは、口ではそのように言いますが、心の中では「如行の体」と執着せず、自然の物で、「その体は俺の物」という取による執着はありません。庶民は話したように執着しているので「口と心が違う人になる練習をしましょう」と教えます。

 口で「俺の物」と言っても、心は「俺の物」にしないでください。口で私と言っても、心は「私」にしないでください。すぐに傲慢になります。これを「口と心は違う」と言います。口はいつものように「俺」と言っても、心は口のようにならないでくださいね、みなさん。

 ね、新しい絵の下に書いてあります。口で「私、私の物、私の子や妻、私の責任」と言っても、普通の言葉で話すだけで、心はいつでも、「すべては自然の物なので、正しくそれと関わり、利益があるようにすれば苦がない」と知っています。それです。目指す結果は苦がないことにあります。そしてそれは私のものにできません。

 そして、バイブルで同じように教えているキリスト教徒より不利にならないよう、あるいは恥じないようにと、忠告したのを忘れないでください。「妻がいても妻がないように。財産があっても財産がないように。苦があっても苦がないように。幸福でも幸福がないように。市場へ買い物に行っても、持って来る物は何もない」など、外部の行動はどのようでも勝手ですが、心の中はそのようでなく、口で言ったのと、あるいは行動に現れているのと違います。

 仮定では「俺、俺の物」「俺が買って来た俺の物」とこのように言っても、心は「俺、俺の物」と執着しないという意味です。本当は、自然の物です。心は「俺の物」と執着しません。「俺、俺の物」と執着しなければ、どのように使っても食べても良いです。

 これを「愚かさ・迷い・煩悩・欲望で生きているのではなく、知性で生きている」と言います。知性は「すべては自然の物」と見せるので、自然の物を盗んで自分の物にする泥棒にならないでください。自然の物として食べ、使い、関われば、生涯幸福で快適です。自然から盗んで自分の物にすれば泥棒になります。こういうのは自然からしっぺ返しをされます。つまり、執着による気の重さや焦燥があります。だから自然を盗む泥棒にならないでください。

 これは仏教教団員の場合です。神様がいる宗教では神様の物なので、神様の物を盗んではいけません。食べるにも住むにも、何を使うにも、俺の物と執着して神様の物を盗まないでください。神様が罰を与えます。これしかありません。

 これを「口と心は違う」があれば、あるのは涼しさだけ、六処の涅槃である涼しさだけと言います。悪い方の「口と心は違う」話は、どうしできるのでしょうか。そしてできています。社交面では嘘をついて、口と心が違う話があると聞きます。顔が合うと手を握って気持ち良く笑い、何か感謝して快いですが、心の中は悪意と復讐心がいっぱいということもあります。

 競技場で、ボクシング選手に握手をさせ、選手は握手をしますが、それは嘘で、口と心は違います。現れている行動と心は違います。競技場の真ん中で殴り合いができることで、明らかに見えます。こういうのは身勝手を増やし、身勝手を無くしません。これを偽物のスポーツと言います。口と心が違うからです。そのようなことができますが、心のように言ってくださいと言えば、反対に言いません。その方が本当で正しいです。

 自然の物を「俺の物」と言わないでください。神様の物を「俺の物」と言わないでください。借りて使うと捉えてください。自然は与えるので、神様は与えるので、私たちは生涯快適です。だから私たちの暮らしは苦がなく、恐怖がない生活です。「苦がない」という一語にすべて集約されると言います。つまり問題がなく、恐怖がなく、驚愕がなく、心配がなく、何もありません。

 これが「人間にできる最高に善く生きるコツ」です。人間が得る最高に善い物と言います。これだけで終わり、何もありません。人間が得るべき最高に善い物を得るために生まれて来ました。これはすごく簡単です。しかしみなさんの大学では簡単なことを教えないので、みなさんはなぜ生まれて来たかを知りません。

 なぜ生まれて来たかを知らなければ、全部知らないと言うことです。善の話、悪の話、徳の話、罪の話、何の話も全部知らず、そして関心もありません。なぜ生まれて来たかを知ることに関心がないからです。

 今回私は、学校が休みの間に出家したみなさんのための、最後のまとめの講義なので、戻って在家になるに際して何か知るべきと思い、このような望みのあるみなさんにふさわしい話は何だろうと、最高に善い物を選ぶ努力をしました。

 だから「在家のタンマ」と題してこの講義をしました。在家のタンマは、在家にとって必要なだけの在家のためのタンマです。そして在家が最大限に利益を得ることができるだけ、特にここにいるみなさんだけの「在家のタンマ」と言います。

 彼らが他で「在家のタンマ」と呼ぶ物と同じでないかも知れません。それは狭すぎ、生計を営むことだけかもしれません。私のは「在家のタンマ」と言っても、仏教を捨てることを認めません。一方は体が生計を営む話で、もう一方は心の面、精神面の話です。明るさ、明らかさがなければなりません。そして両立しなければなりません。それが善い在家で、それ自体いつでも僧ですが、ゆっくり歩く僧です。

 要旨を「世界で最高に善い在家は、支えとして仏教の教えがある、仏教教団式の在家」とまとめさせていただきます。これを理解し、述べたような要旨で正しく実践を進めてください。そしていつでも教祖の仏教の方面で、発展、成長、前進がありますよう。




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