22.在家と仏教学





1970年5月16日

 四時四十五分になりました。まだ話し途中になっている講義を続けることができます。前回在家と呪術について話したのを復習してください。今回は在家と仏教学について話します。

 呪術と仏教学は、人間としての仏教教団員と関連があります。呪術というものを私は「道理を使うことに関わらない人間の知識」と定義しました。知識という言葉を、道理を使わない種類のものを呼ぶのに使ったのは、教えて伝承してきた知識、あるいは行動して見せて、同じようにさせて来た知識という意味です。一時的な滅苦のための知識と呼ぶこともできます。

 あるいはまだ道理を使うことができない人間の文化、あるいは普通より深遠なものに関わる知識でも良く、まだ教育がない昔の人間から継続して伝承してきたもの、あるいはその知識の道理を使うことも、全部まとめて呪術の知識と言います。これが一つです。

 今日は、正反対の仏教学というものについてお話します。ブッダとは「知る、覚める、明るい」という意味なので、それ自体が知識に関わりがあり、十分な教育があり、十分論理を使用する種類の知識に関わりがあるという意味です。

 「学」という言葉について言えば、語学的な意味を掴んでください。パーリ語のサッタという言葉は「良い」で、サンスクリット語のサータラも「良い」で、武器、あるいは刃という意味がある点が興味深いです。

 刃のある武器を、私たちはサータラーと呼びます。刃があるとは、切ることができるという意味です。だから重要な意味は「切る」、あるいは「望まないものを消滅させる」、特に「苦を消滅させる物」です。原因について述べれば、煩悩、あるいは愚かさで、結果について述べれば苦です。これが切らなければならないものです。

 呪術は呪術式に、呪術なりに切ります。私が「頓服薬」と言う一時的な結果です。仏教学は原因を断つ方式のように、鎮痛剤を飲んで一時的に痛みを静めてから、原因を調べて知識、あるいはそれ以上の行動で根本を解決します。サータラーという言葉は、このように二種類の意味があります。

 次に在家であることを見て行きます。前回は、在家は呪術とどのような関わりがあるかをお話しました。ここでは在家、特に仏教教団員である在家は、仏教学と呼ぶものとどう関わらなければならないかについてお話します。

 仏教教団員である一般の在家、あるいは仏教教団員でない在家は、昔から呪術と呼ばれるものと分かち難いほど関わってきました。しかし今、正しい仏教教団員にならなければならない段階になりました。呪術しかないレベルから、仏教学があるよう、あるいは本当の仏教教団員になるよう移動しなければならない話に変わり、自分のレベルを正しく移動させると言います。

 しかし、これもあまりできません。習性である癖があるので、あるいは臆病と愚かさがある人の習性で停滞していると簡単に見えるからです。これが一つ。もう一つは、臆病と愚かさを治すには、知識や教育が不十分なので、呪術から仏教学に変えることができません。

 「私たちはどれだけ仏教教団員か」、つまり「どれだけ本当に正しくできるか」という問題があります。完璧な仏教教団員になりたければ「呪術を完全に捨てなさい」という規則があります。一般に完全に捨てることはできないので、「ブッダがサイヤに混ざった」という症状が至る所にあります。外側、世界の部分を見ることも出来ます。本気で治療して病気を完全に治す人より、一時的に鎮痛剤を飲むのを好む人の方が多いように、世間一般の人間のようにもできると言います。

 しかし仏教、あるいはブッダの目的はそれだけでなく、目標である涅槃に至るまで次々に捨てて、十分知る人、覚めた人、明るい人になるよう望まれました。これが「私たちの仏教教団員であることは、まだ暗く曇っているか、あるいは半分くらいか、それとも明るく明瞭か」と、今思わなければならないことです。

 次に、それをどのように少しずつ変えて善くするか、あるいはどのように少しずつ捨て、最高にするかを見て行きます。

 呪術と呼ばれるものは道理の威力下になく、そして外部の物を信じます。仏教学と呼ぶものは道理の威力下にあり、道理の威力になり、そして内部である自分自身を信じ、道理を信じ、知性を信じ、道理である面の自分の人生で遭遇したことを信じます。だから正反対です。

 「仏教教団員は道理を信じ、自分を信じる」と言うのは、ブッダも信じる必要はないという、非常に広い意味があります。これを聞いた人の中には、びっくりする人、あるいはそれを妨害と見る人がいます。

 ブッダは、ブッダも信じないよう教えました。「ブッダが言われたという理由だけで信じない」という意味です。それは正しい、あるいは真実だ、あるいはブッダが言われたとおりだ、教えられた通りだという知識、見方、自分自身の理解がなければなりません。それから信じます。サーリプッタなどの弟子も、ブッダが望まれたように、このようにブッダに主張しました。

 これについて私は、ブッダは多分「真実に教えさせ、自然に教えさせれば結果があり、人が教えるより善い」という点を狙われたと見ます。人物同士で教えるのは善くなくはありませんが、あるいは利益がない訳ではありませんが、あの人が話したのを聞いた、あの人が教えたのを聞いただけで信じれば、そのように信じることは麻痺し、そこで停滞するので、持ち帰って理解するまで、そして理解以上、つまり洞察するまで考えなければなりません。

 そうすれば、その途端に内面の信仰になります。こういうのを「自分を信じる」、あるいは「内部に本当にある明らかに現れているものを信じる」と言います。こういうのを「自分を信じ、他人を信じない」と言います。

 ブッダはこのように、真実である自然に教えさせるようお願いしました。たとえば私たちに煩悩がない時、一時心に煩悩がない時はどのように感じるか、どのように快いか、それを心の中に出現させ、そして検証するよう教えました。だからその信仰は本当の信仰で、目を瞑って信じるのではありません。最初の段階の理解の信仰であり、理解以上です。

 つまり明らかに知って心に沁み込んでいて、心の中の証人であり、最高度に至った信仰、ニャーナ(智)と見なします。あるいはそれ自体が信じる知識で、それは同じものです。私たちが聞いて、関心を持って、それから考えて、検証しなければならない最初の段階の信仰。こういうのはまだ信仰と呼ばなくても良いです。聞いただけで、まだ納得して信じていないからです。理解すれば洞察になり、信じることに納得すれば、信仰があると言います。

 仏教教団員は学んで、このように自分のものを信じる方法があります。これは他の人たちの方法と違うかもしれません。中には信じることを初めに持って来る人たちもいますが、そういうのを私は、時代遅れと見なします。それは呪術の時代のもの、あるいは大昔のタブーの時代まで後退するので、人は時代遅れと見なします。呪術の形やタブーの形の何かを聞いたら、道理が見えるまで熟慮し、それから私も呪術をしていると話して聞かせたように、実践しても良いです。

 朝水浴をする時は頭から先に水を掛け、昼に水浴をする時は顔から先に水を掛け、夕方や宵の口に水浴する時は足から先に水を掛けると、とても良い風邪の予防になります。しかし「朝は頭に吉祥があり、昼は顔に吉祥があり、夕方は足に吉祥がある」と言えば、こういうのは呪術になります。しかしその真実を見れば、科学になります。

 これです。仏教教団員は何を受け取っても教えにします。呪術の形の教えも熟慮して見て、あるいは少なくとも試して見て、科学的な経験にして「それには道理がある。こういう真実がある」と知ってから実践することもできます。そして大昔の知性の感覚を楽しそうに笑います。それも利益があります。しかしあり得ないこと、道理が無いものは採用しません。採用するなら、いつでも試験として採用します。

 これが、少しずつ呪術と呼ぶものを捨てさせるという方法です。すると代わりに仏教学が生じます。「彼らが大昔から実践しているもの、それは全部バカみたいな話」と、あるいは「全部道理がない呪術だ」と括る必要はありません。だからそれはどのようにできるか、あるいはどれだけできるか検証するため、試験して選り分ける教えがなければなりません。

 みなさんが仏教教団員なら、これらの問題を解決するブッダの教えを使い、呪術を拭き取って少しずつ無くし、仏教学を増やします。在家にとって、それは極めて必要です。次に私は仏教のいろんな決まりを集めて、一つ一つ見本にして説明します。

 最初の決まりは、規律あるいは法律、あるいはこれらの物に関してで、仏教教団員には試験するため、判断し決定するために、「律の側のマハーパデーサ」と呼ぶ四項の規則があります。この規則は、

1.ブッダが禁じていないもので、熟慮して「これは禁じられているものと適合できる」と見えるものは何でも、それは適切でないものになる。これが一つ。

2.禁止していないものと一致、あるいは適合するものなら何でも、それは適切なものになる。

3.もう一組は、ブッダが許可していないものでも、許可されている他のものと適合するものは何でも、それは正しいと見なし、適切と見なす。

4.しかし許可されていないものと適合するなら、適切でないものになる。

 二組、四種類になります。

 何らかのもの、あるいは何らかの行動、いずれかの人、あるいはいずれかの場所でも、「いずれかの」ものが、新しいもの、珍しいもの、あるいは規定にないものなら、それはブッダが許可されたものと、あるいは禁止されたものと適合するかどうかを照合して見なければなりません。どちらかの側と適合すればその側と見なします。つまり禁じられたもの、あるいは許可されたものになります。

 これが、新しく生まれた珍しい物がたくさんある現代に、本当にある問題です。経典の中にない、今までの規則にない問題は、この教えを使って判断して実践すれば、みなさんは善い仏教教団員になれます。

 受胎調節、あるいはその類の騒々しい問題は直接規定にはありません。私たちはこのような行為は禁じられている、あるいは許容されているどの話と適合するか照合して見て、「禁じられていること」、あるいは「許容されていること」と見なします。これが律の規則の話、つまり強制するものです。

 二番目の決まりは、教育、あるいは律に関わりのないスッタという学問知識に注目します。スッタ(経)は人間が実践するべき規範、あるいは指針です。こういうのにもマハーパデーサと呼ぶ規則があり、これも四項あります。つまり律のマハーパデーサも四項あり、スッタ(経)のマハーパデーサも四項あります。スッタのための四項は、


1.何かを話し、忠告し、教え、そして「これはブッダが話された」と主張する人がいたら、こういうのもすぐに信じてはいけません。その人が言ったことを、私たちが知って理解している、あるいは何とか知り、何とか理解している大部分のスッタ・律の内容と照合して見なければなりません。その人が話したことが、スッタ、律の大部分と適合すれば「多分ブッダが本当に言われたこと」として聞きます。そしてその後実践して検証して選り分け、それから信じます。これが一つです。

2.「これはブッダのサンガが教えている」と言う人がいれば、ブッダは教えてなく、その人は「ブッダのサンガが教えた」と主張しているという意味です。聞き手である私たちは、すぐには信じず、受け入れません。しかしその人が言ったこと、あるいはその人が話して聞かせた教えは、スッタ・律の大部分の教えと一致するかどうか、つまり仏教の教えのすべてと照合して見ます。適合しなければ採用せず、適合すれば聞き、それから信じるため、その後実践するために検証して選り分けます。

3.彼らが「そのように信じている」、仏教の信頼できる集団が「このように話している」、「このように教えている」と言ったら、私たちはすぐには信じず、受け入れません。先ず、その内容を大部分の規則、スッタ、律と比較し、照合し、試験して見ます。適合性があれば受け入れて検証し、選り分けて実践します。

4.名誉や身分や信用のある人が「信頼できる人が言った」という話を、私たちはすぐには受け入れません。その内容をスッタと律のほとんどの決まりとすべて照合して見て、もしそれが適合すれば、それから聞き、検証し、選り分け、実践します。

 この四つをマハーパテーサ(大法教)と言います。初めの項目は律の規則に関しての禁止か承認、実践すれるのは間違いか正しいかで、律の部分のマハーパデーサです。禁止と言われていないものは二つあります。つまり適切なものと適合し、不適切として禁止されているものと反対なら適切と見なします。不適切なものと適合し適切なものと反対なら、これは不適切と言います。

 許可されていないものも同じで、適切なものと適合せず、不適切なものと適合すれば不適切と言います。適切なものと適合し、不適切なものと適合しなければ適切と見なします。

 律は二種類あります。禁止しているものと許可しているものと、大きく二種類あり、一つを更に二つに分けることができます。みなさんが現代式に使うこと、まだ問題である物のために使うこともできます。

 スッタ(経)の側、教えの側も、ブッダ、あるいはサンガが教えた、あるいは団体が言った、あるいは「智慧のある人たちが教えた」という理由だけで信じてはいけません。全部を仏教である大部分と比較して見て、試して見て、仏教の教えのほとんどと適合しなければ、その人が「ブッダが言われた」と言っても、信じてはいけません。

 良く考えて見てください。そうすれば更にブッダに対して信頼、帰依する気持ちになります。つまりブッダはどんなに知性があったか。どんなに緻密で周到で、安全にするためにどんなに私たちを護っているか。遠い昔に般涅槃されても、今も私たちを護っているのと同じと見えます。律に関した話、スッタに関した話はこのようです。


 次は直接信じることについてです。信じることについての教えを、簡単に「カーラーマスッタ」と言います。カーラーマスッタという経は、ブッダがカーラーマという町の人々に信じることについて話された経です。そして仏教教団員である現代人の誰にも、極めて必要であるという点が最高に不思議です。

 ブッダがその町に行かれた時、その町の人たちが「私たちがここに住んでいると、アーチャンや教祖と名乗る人がやって、みんな違うことを教えるので、誰を信じたら良いでしょう」と質問しました。そこでブッダは、これらの人々にカーラーマスッタと呼ぶ十項目を話されました。内容は、

1.マー アヌッサヴェナ=みなさん、代々教え伝えて来たものだからという理由で信じてはいけません。マー アヌッサヴェナとは、聞き伝えて来たという理由だけで信じてはいけません、という意味で、聞き伝えるとは、昔から教えて代々伝えて来ました。 

2.マー パラムパラーヤ=彼らが行動して伝承して来たという理由で信じてはいけません。

3.マー イティ キリヤー=それが町中、国中、世界中で噂に、評判に、ブームになっているからという理由で信じてはいけません。

4.マー ピダカサムパダーネナ=それが教典にあるという理由で信じてはいけません。

 本当は初めのこの四つは似ていて、一度に熟慮することができます。「昔から教え、伝承してきたという理由で、その教えを信じる、あるいは受け入れてはいけません」。これは話すこと、教えることに注目しています。二項目は、伝承して来た、あるいは見えていて教える必要がない実践行動です。サーンプラプーム(精霊のための祠の信仰)などは、代々してきた、あるいはするように教える観点で見ることもできますが、今明らかに見えています。

 「大評判になっている」は一時的なもの、その時その時期だけ、一時波のように、国中、世界中噂になります。これはクルンテープ(バンコク)でも時々ブームになっている精神面のものがあります。「四番目のテキストにある」、あるいは「テキストを主張する。テキストを根拠にできる」は疑わしい言葉を使い、ピダカサムパダーネナとは、教典、テキストにあるという意味です。

 ピダカはテキスト、みなさんの学校にあるようなテキストで、三蔵にもこの言葉を使います。つまりテキスト、律蔵、経蔵、論蔵です。論蔵は後世のものですが、ピダカと呼びます。ブッダはご自身の教えをピダカと呼ばれませんでしたが、ピダカとして(文字で)書かれればテキストになります。これも、テキストにあるからと言って、あるはテキストだから、教典だからといって信じてはいけません。これは「聞いた、話した、見た、読んだ、何かしだ」という理由で信じません。

 次のグループは、5、6、7で

5.マー タッカヘトゥ=論理で信じてはいけません。文字を見る方が良いです。訳すともっと厄介です。

6.マー ナヤヘトゥ=意義で信じてはいけません。

7.マー アーカーラパリヴィタッケーナ=状況で考えて信じてはいけません。

 五項目の「論理で信じない」は、私たちが現代風に logic と言うような l論理に合うという理由で信じてはいけません。今現代人、あるいは学生は logic は素晴らしいと言い、 logic で正しければ受け入れます。ブッダは「待ちなさい。まだまだ」と禁じています。論理的手法は reasoning の手法で、reasoning は原因と結果次第です。

 次に原因と結果は変化します。あるいは気づかないで全部でないこともあり、完璧な理由でないこともあります。だからブッダは「論理で信じてはいけない。 logic で、つまり現代でもまだある logic のような論理で信じてはいけない」と言われました。

 六項目は、意義(ナヤ)で信じてはいけません。このナヤという言葉は、ここでは推測した要旨という意味があります。何かあると、あれこれ仮定を引き寄せ、証拠だったもの、あるいは現れている理由で推測します。つまり inference (推論)で、induction (推定)、あるいは deduction (推定)も「何はどうだ」と知っている事からまだ知らない真実を知るためです。これを「意義で」と言い、このように意義だけの理由で信じてはいけません、

 七項目は、状況で考えて信じてはいけません。これは現代の哲学的手法である speculation (推測)です。だから仏教のダンマに到達するには、哲学的手法は使い物にならないと捉えください。哲学的手法は聖向聖果に到達するには何の援けにもなりません。そして仏教は哲学でなく、宗教でなければなりません。何かなら、哲学や論理、あるいは心理学か何かより、むしろ精神面の科学です。

 だから論理学も心理学も哲学も、確実な判断のために使うことはできません。これが二つ目のグループで、5、6、7です。短く言えば、論理で信じない、心理で信じない、あるいは哲学などで信じません。

 最後のグループは

8.マー ディッティニッジャーナカンティヤー=教義、自分の信仰と一致するという理由で信じてはいけません。語句は「自分の考えで検証して耐えられるという理由で信じてはいけません」と言います。それが自分の考えでの検証に耐えても、ここでの自分の考えはまだ愚かで、まだ迷っているという意味です。まだ自分が愚かで迷っていれば、新たに近づいて来る何でも、たまたま一致することがあり、自分の疑念にも耐えられます。こういうのも愚かな人の検証なので間違いです。

 仏教のプラタムは、検証に耐えなければならないと、注意するよう忠告させていただきます。検証に耐えなければ「仏教のプラタム」と呼びません。しかしここでの検証は智慧のある人、あるいは智慧の王者の検証という意味で、愚かな人の検証ではありません。言葉が同じなので注意してください。この「検証に耐える」は、愚かな人の検証に耐えるのか、あるいは博識者の検証に耐えるのか問わなければなりません。

 博識者の検証に耐えれば「使い物になる」と見なします。しかし今、一般人は使い物にならないので、自分の元々の考えと合うからという理由で信じないでください。自分が何かを信じていて、新しく来たものと適合しても、それだけの理由ですぐに信じてはいけません。いつでも細かく切り刻まなければなりません。「切り刻む」と言うのは熟慮熟考、復習、あるいは検証して見、実践して見るという意味で、本当にそのような結果があると見えたら「信じるべき」と言います。

 九項目は

9.マー バッバルーパターヤ=信じるべき立場の人が話したという理由で信じてはいけません。私たちは話す人を見て、この人は信頼できそうだと見ると、夢中になって聞きに行って信じがちです。これはクルンテープ(バンコク)でも実践されている方法で、「話す人は信用があり、信頼できる立場にある」と夢中になって言います。しかしブッダはそうしないと言われ、これが九項目の忠告です。

10.マー サマナー ノー グルーティ=このサマナは私の先生だという理由で信じません。みなさんは、私を先生の一人と見なして、そしてこのように信じるのは、この項目の教えで誤りです。これは最高の話です。つまり話す人は出家、サマナであり、庶民同士ではありません。話し手が出家であり、サマナであり、そしてそのサマナが自分の先生でも、と言います。

 この項目は、その方が何を話しても、聞いてはいけないと禁止していないので、聞いて、そして細かく刻んで、それをしたらそういう結果があるか、あるいはそういう害があるか、自分の心の明らかな知識で切り刻んで、それから信じます。

 十項まとめてカーラーマスッタと言います。みなさんパーリ語も訳語も暗記しておかなければなりません。そうすればこれは、「清浄で疵がない」と言うような仏教教団員であるよう援けてくれます。

 みなさん、次のように見えるよう復習してみます。代々聞き伝えて来たという理由で信じてはいけない、代々行動して来たという理由で信じてはいけない、噂に熱狂してはいけない、テキストを引用してはいけない、テキストにあるからと言って信じてはいけない、これは聞くことに関した初めのグループです。

 二つの目グループは論理的手法、あるいは心理的な思考、哲学的な思考に依存した理由で、と言います。

 三つ目のグループは自分の主義に合っても、そして話す人が信じるべき立場、あるいは自分の先生でありサマナであっても、と言います。

 私はブッダが取り上げなかった、まだ残っているものは何もないと見ます。それは最高に良い洗剤で、最高に良い保険です。信じることについてはこのようです。

 次は正誤の話です。どういうのを誤り、正しいと言うのでしょうか。哲学的手法、あるいは論理を使うと別の方へ行って、非常に厄介です。どういうのを間違いと言い、どういうのを正しいと言うか、ブッダは絶対にそれらの手法で話されません。

 正誤についてはゴータミースッタという経があります。ゴータミースッタでは、どういうのが誤りで、どういうのが正しいか、どういうのが可で、どういうのが不可か、自分で判断できる教えに言及しています。全部で八項目あります。この八つの状態で正しくなければ、「すべきでない」「正しくない」「ブッダは教えない」と見なし、反対なら「正しい」、あるいは「すべき」、「それはブッダが教える」と捉えます。

1.その行動が欲情のためになるなら、これは言葉どおり訳しています。それが欲情になり、四方に執着が増えるなら、こういうのを「適切でない。正しくない。ブッダは教えない」と言います。

2.その行動が苦になるなら、つまり無用の困窮をさせ、困難を増やし、車軸(価値のないもの)を蓮の花(素晴らしい物)と見る行動をさせるなら、こういうのは「正しくない。適切でない。ブッダは教えない」と言います。

3.それが煩悩を集め、煩悩を減らそうとせず、煩悩を減らすためにならず、望みが増えるなど煩悩が増えるなら、これは正しくなく、適切でなく、ブッダは教えません。

4.それが大望になり、意味もなく、キリもな渇望し、例えば月の世界へ行くとか、その後他の世界へ行くとか、月以上の世界へ行くなどは、大望の話です。

5.サンドーサ(知足)でなく、あるいは常に飢えていて、常に餓鬼です。幾ら手に入れた物も満足を生じさせない、あるいは望みに応えることができないので、常に欲しがり続けるからので、休まず餓鬼です。

6.集団と交わる。文字では「その僧は群れて暮らさない」とあります。つまり自由な心、知るにふさわしい自由な心であるために、集団から離れて努力します。一般の人は勉強のためでも、何のためでも、クルンテープで混み合って暮らすのが好きで、集団と混じっています。しかし恐ろしい深い部分は、むしろ皮膚の面の楽しさ、熱中、満足の類の何かがあるので集団と混じって暮らすことです。

 何か身体の面の熱中させる物があると、そこを彷徨し、集団との交わりが生じます。小さな田舎のように静かに質素に暮らせば、この田舎のように、離れた小さな村なら、こういうのは集団と交わると言いません。しかし競争と奪い合いに満ちた首都で込み合って暮らせば、それはこの意味の集団と交わることです。このように比丘に教える教えを、在家に教える教えとして使うこともできます。

7.怠惰になる。怠惰とは力の仕事を怠けることで、疲れたくありません。これはハッキリ見えます。しかし私は、人が働かなくても良い現代の省力機、これも間違いの話、害のある話と拡大したいと思います。世界に省力機ができてから、経済の問題、政治の問題、いろんな問題が非常にたくさん生じたからです。インドのような国は非常に気の毒で、省力機が持ち込まれると、すべての人が仕事を失って稼ぐ道がなく、こういう大混乱が生じました。

 人間社会に凶悪な問題が生じるのは、省力機を発明したからです。みなさん考えて見てください。自分で見れば、経済面、あるいは何の面でも、現代人が良い結果と見、素晴らしいと言い、発展と言い、進歩と言う物は裏面があり、世界を非常に困窮させる原因、苦を増やす道になると見えます。だから私は、一人一人の怠惰の話に含めます。

8.最後の項目は「養い難いこと」です。僧や沙弥で養い難いのはお手上げで、僧である意味、沙弥である意味がありません。しかし庶民、在家でも養い難ければね。今は休みなく食べ、口うるさく、食べることに儀式や形式があり、昼食を食べるのに一時間も車を運転して他県の有名店へ行かなければならない、こういうもいます。こういうのは養い難い人で、仏教の教えに反し、ブッダは教えません。正反対なら仏教の教えで正しくなり、ブッダは教えます。

仏教の教えで正しく、そしてブッダが教えたのは、

 欲情にならない。

 苦がない。

 煩悩を集めない。

 大望でない。

 サンドーサ(知足)になる。

 集団と交わらない。

 怠惰にならず、望んで働く。

 そして養い易い簡素な暮らしです。

 plain living high thinking =低く暮らして高く考えることは、この項目によってあります。

 自分たちの文明に熱狂している、あるいは迷っている西洋人は、みなさんが庭を掃いているのを見ると、大変な仕事だと言います。僧が庭を掃いているのを見て、西洋人は重労働と言います。実際私たちの規則では仕事でも何でもなく、仏教で好まれていることです。仕事ではありません。むしろ規則である律です。

 しかし彼らは重労働と見、他の人にさせるべきだ、人を雇うべきだ、あるいは使用人にさせるべき、あるいは機械を使わなければならないと見ます。心がここまで変化すれば、滅苦、あるいは聖向聖果涅槃の道に沿って行く望みはありません。

 だから仏教の言葉の一つ一つの意味を良く解釈してください。指しゃぶりをしている子供が読んでそのように感じる話のように、言葉だけの狭い話にしないでください。大人は知性があるので文字の意味を全部知り、そしてどんどん愚かになって行く現代の世界、現代の人間集団に本当にあるものと一致させなければなりません。

 みなさんは今、西洋の尻を追っているので、信じないかも知れませんが、私は西洋の尻を追わないでブッダの尻を追うので、こういう話をしました。

 今日は「在家と仏教」の話が終わりませんでした。また後日お話します。




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