21.在家と呪術





1970年5月10日

 今日は、在家と呪術と題してお話します。今まで話したすべての部分は在家に関わる話ばかりで、全部在家のダンマと呼べると観察してください。そして前回は、在家であることの下賎な心について話しました。

 次に呪術について話すなら、呪術の中に下賎な心があるかどうか判断するべきです。一般常識で見れば、呪術のような低い心と、現代の下賎な心があることは非常に違いがあると見えます。現代人、あるいは現代文明の中の人はどのようか、理解できるまで長々と話したので、下賎な心があるのは、皮膚や物質的な幸福を渇望するからと見ることができます。

 呪術を信じる人、あるいはまだ世界が呪術に依存していた時代の人は、物質、あるいは皮膚の渇望はありません。気づかない臆病と愚かさがあるだけで、皮膚の面の幸福を渇望する意図がある現代人のように、臆病で愚かになる意図はありません。

 呪術の話は精神面の話、心の側で、物質の側ではありません。物質である結果を欲しがっても、霊験のある物の話から、最高に呪術であるカンマがある心のサマーディまで、強い心の力がある信仰の威力から神通力を表すことまで、心の側の話です。だから現代文明の下賎な心の状況と、呪術の低い心、あるいは愚かさは同じではありません。

 だからそれは大きな違いがあります。そして呪術は在家の生活と極めて関わりがあるので、在家に関わる話として「それは分けることができないほど在家の暮らしと関わりがある」と見えるまで、熟慮するべきです。

 今私は、呪術という言葉だけについて話します。時間の節約のために、「呪術は理由がない在家の感情と夫婦の関係である」とまとめたいと思います。ここでの感情という言葉は、理由に関わらない、自然に感じるままの感覚、あるいは考えという意味です。理由がなく沸いてくる考え。こういうのを感情と言います。そしてこの感情と呼ぶものは呪術と呼ぶものと夫婦です。夫婦という言葉を使うのは、今まで一緒にいて、分けることができないから最高に密接という意味です。

 道理が生じれば呪術と呼ぶものはあり得ません。だから私は、呪術と理由のない感情を夫婦と見なします。理由を使うことを知らず、あるいは理由がなく、あるいは道理を使う範囲にないからできるので、「呪術は理由に関わる知性に関わらない話」と言うことができます。知性があれば、それは他の知性、道理を使う必要がない知性になります。私たちが良く呪術を知るのは、過去の話、あるいは考古学の状態で見る時で、考古学の面を勉強すれば呪術と呼ぶものを広く知ることができます。

 呪術は、まだ教育がない時代の素晴らしいもの、最高に良いものと言うことができます。教育がない時代に呪術は何よりも良いものでした。まだ教育がなく、道理を使うことを知らない時代にあった学問知識であり、良いものです。だからこれは素晴らしいものに違いありません。

 呪術は、言語面ではこのような意味があると推測します。ほとんどの言語学者は呪術という言葉が何か、あるいは言語学的にはどのようかを知らないので、呪術という言葉の意味を把握することができません。

 しかし私たちがサイヤと書く、この言葉は「良い」、あるいは「より良い」という意味です。パーリ語なら、この言葉は最高にふさわしいと推測します。それは「より良い」という意味です。教育がない時代、あるいは道理を使うことがない、知性がない時代の何よりも良いものです。

 より良いという言葉は、二つの面で良いです。つまり臆病を静めるので個人的により良いです。臆病は人間の最高の問題で、臆病を排除することができれば良いものと感じます。そして社会にとっても良く、教育がなく、道理を使うことがない当時の人を治める道具です。この科学の時代でも、現代でも、道理がなく騙され易い種類の人がいます。

 教育はこれらの人にとって教育でなく、彼らは他の方向の勉強をし、騙され易さを無くす教育になりません。今でもいます。だから呪術というものは科学の時代の世界にもあり、そして迷信のように信じます。臆病を排除することができる道具だからです。

 現代の科学は物質だけの話で、すべての分野のテクノロジーで発展していますが、心の面、精神面にはなりません。だから恐怖はまだ残っていて、皮膚面の渇望の時代には、たくさんあります。以上の理由で呪術はこの世界に住む場所があります。そして迷信的な恐怖と臆病を静める助けになるものは、現代社会に必要と言うことができます。

 「恐怖は願望から生じる」。ブッダバーシタにはこのようにあります。私たちが恐れるもの、死の恐怖、幽霊の恐怖まで、これらは願望から生じます。あれが欲しい、あれから離れたくない。だから恐怖があります。現代は願望が多いので、最高に恐怖があります。そして呪術と呼ぶものも、現代の世界に住む場所があると言います。凧の尾のように長い学位を取るほど教育を受けても、それは物質面の話なので、精神面の話である恐怖を駆除できません。

 次に公正に言えば、呪術の話は十分な精神の輝きがなかった時代の、心の面、精神の側の話です。応用である問題の最高に重要なことは、呪術の話を在家から切り離すことができないことです。みなさん、在家の重要な意味を知らなければなりません。

 在家は問題が多く、問題が多ければ目が回り、目が回れば簡単に妄信する機会があります。教育が十分でない、あるいは何でも十分でない在家は問題が多く目が回り、どう解決して良いか分からないので、呪術の方法で解決します。だから在家の生活と切り離すことはできません。

 私たちも、現代の在家も関わっているのを良く見るべきです。これが言語学的にも、要旨でも、在家の生活に実際にある行動でも、呪術と呼ぶものの状態、あるいは意味です。

 次に呪術を信じることは一つの制度と言うべきと見て行きます。つまり良く知っていて、どのようか受け入れられ、本格的と呼ぶ以上に身に着いている実践があります。だから呪術の制度は証明する必要がないと免除され、あるいは持ち上げられています。呪術は証明する必要のない物でなければならない権利を要求します。

 だから証明してはいけません。そして人間に証明させないという程まで要求します。神様のもの、精霊、悪霊のもの、証明できないものと除外してください。憑依するもの、あるいは証明できない人や物の話。こういうのを呪術と言います。こういうのが呪術です。しかし結局、それは幽霊や神々、あるいは星など、人間の威力より上にあると信じられているいろんな物の効力など、説明できないものまで注目します。

 次は私たちが知ることができないもの、幽霊、神々、あるいは人間が恐れるこれらの物、星、あるいは、吉祥時、あるいはいろんな兆しでも何でも見えない物、あるいは私たちに見えるよりもっと隠されていて、知ることができない物から、いろんな儀式の形の物まで、首に提げるお守り、あるいは他の物など、物質だけの形の物まで、呪術に関わる話を見て行きます。

 これらは呪術と呼ぶものの最後に現れた物で、それらは恐怖を静め、安心を生じさせることだけを目指します。呪術は良い結果があります。良い結果がなくはありません。心を安心させる点では良い結果があります。だから彼らは彼らの満足で呪術、あるいは善がある学問、あるいはすべての学問より善い物と呼びました。

 これは別の意味、あるいは別の真実があるかも知れませんが、今理解できる、あるいは簡単に見える、あるいはこれを理解する上で利益がある状態で「臆病な人を安心させることができる」と話します。

 皮膚にガツガツしている現代人は、まだ臆病で愚かなので、呪術で安心できます。この臆病の話、愚かな話が増えると、また別の変化が生じます。私は、今の人は原始人より臆病で愚かなので、ブッダが「恐怖は願望から生じる」と言われたように、「現代人が何かを昔の人より望めば、愚かさが昔の人より多く生じる。だから呪術の機会が増え、あるいは現代人にふさわしい状態に変化する」と良く見てくださいと言います。

 現代人は臆病、愚かさが増えているので、一方で混合、混乱する機会になり、そして呪術と呼ぶものが覆って、功徳より、宗教より、あるいは宗教儀式より、神様より威力があります。良く見れば人間の臆病、愚かさが増え過ぎ、呪術でない物が呪術に支配されることが多くなり、幽霊やお化けを信じるように神様を信じると見えます。

 仏教教団員の中には、全員ではありませんがブッダを神様や精霊のように信仰し、あれこれ懇願する人がいます。クルンテープ(バンコクのこと)にも玉子や魚の塩漬けを仏像に供える人たちがいます。これは宗教を覆うほど増えた呪術です。仏教もこのように覆われています。

 呪術は功徳まで支配し、功徳をカンマの話にしないで、恐怖や危険を防いで心を温かくする物である状態の霊験の話と捉えます。これは、意味が呪術に傾いています。いろんな宗教儀式が知らないうちに呪術になり、宗教面、仏教の儀式も呪術が混入し、時には宗教より多いこともあります。

 だから神を招く呪文を読む役目をする比丘もいます。私も公務で経験したことがあります。これが呪術と言うものの拡散です。臆病と愚かさが増えると、時々威力を増し、私たちを混乱させ、複雑に絡み合って分けられなくなります。

 臆病と愚かさが重くなると、かつては光明であったもの、教育であったもの、あるいは理由の正しさであったものも呪術が支配すると言います。例えば道理で正しい、あるいは理由があると見なすカンマの話も、臆病と愚かさが増えると呪術になり、秘された物の一種になり、祈願になり、実体であるカンマになってしまいます。次に見て行くと、それは人間の臆病と愚かさで変化していると見えます。

 ブッダ、あるいはブッダの仏教教団員は「臆病と愚かさがない」という意味でです。ブッタという言葉は「知る人、目覚めた人、明るい人」という意味だからです。毎日唱えているブッダという言葉を憶えておいてください。ブッダとは「知る人、目覚めた人、明るい人」という意味です。臆病、恐怖、愚かさは、この種の人の心に居場所がありません。

 今仏教教団員は、登録しているだけ、あるいはそのような何かだけの人が増えています。仏教を信奉するにも盲信、あるいは恐怖、あるいは人につられて信奉し、ダンマを見る智慧、タンマの目がないので、初めての人のように仏教を信じます。

 だから述べたような仏教教団員、この種の臆病、愚かさがある、この種の普通の人が仏教に関わると、かつて呪術に関わった時と同じ目的で、恐怖をなくすため、心を温かくするために仏教に関わります。それは多少善いです。正しいブッダ、プラタム、僧と関われば次第に善くなります。そうすれば臆病と愚かさを捨てることができ、呪術の状態を脱し、最後にはブッダ学、あるいはそのようなものになる点が少し善いです。

 次にどこで別れるかを見ると、呪術も信仰に依存し、仏教学も知識、あるいは智慧に依存するので、二つは途中で出合うことができます。だから何が何を導くかという問題が生じます。信仰が智慧を導ければ、智慧は小さな力しかないので、それはまだ呪術です。智慧の力の方が大きければ、智慧が信仰を導くので呪術から脱し、最後には仏教学、あるいは何かになります。

 だからみなさん、信仰が智慧を導いているか、あるいは智慧が信仰を導いているか、自分の全身全霊の感覚を見てください。智慧が信仰を導いていれば、みなさんは仏教教団員です。信仰が智慧を導いていれば、みなさんは相変わらず呪術の一員で、それは頓服、つまり一時的に痛みを静める薬である信仰です。

 呪術に、頓服のように一時的に静める状態があれば、私は「頓服」と言います。それも一時的に痛みを静めるので飲まないより良く、それからX線や何かの治療をして完全に治します。

 私たちが毎日唱えている、ケマーケマサラナディーピカガーターの「バフ ヴェー サラナン ヤンティ云々」という文で、『樹木、山岳、神聖な物、神聖な薬、神聖な動物、何でも神聖なものを信じている人も世界にたくさんいる。「バフ=世界にたくさんいる」が、「ネータン コー サラナン ケーマン=それは安全な拠り所ではない』と言っているように、ブッダも、呪術はまったく利益がない物と貶しませんでした。

 安全な拠り所ではないというのは、理想の拠り所ではないけれど、まったく拠り所でない訳ではなく、安全でない、理想でない拠り所で、人の臆病や愚かさを抑止するだけです。

 苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至る道の話である四聖諦を明らかに知れば、いつでもその時は「エータン コー サラナン エータン サラナ ムッタマン」になります。だから本当のタンマでは、それは完全に病気を治す薬、あるいは病巣を切除してしまうことができる手術と同じです。

 だから拠り所にできるのは二種類、つまり①安全でなく理想でない一時的な拠り所と、②安全確実で、永遠に理想の拠り所です。だから呪術は一時的な拠り所、つまり安全でなく理想でない拠り所に依存する人たちの中に、まだ居場所があります。

 この二つの違いを、呪術は信仰に基盤があり、あるいは信仰が智慧より前にあり、あるいはまったく智慧がないのもあると、ハッキリ見ることができます。仏教なら信仰より智慧を前にし、そうすれば信仰も正しくなり、理由がある智慧になります。

 基盤として信仰に依存する呪術の話は、信仰でしなければならないので、呪術の実践の形は二つあります。祈願と信仰の実践で、信仰で祈願し、そして信仰で実践します。実践、あるいは信仰での実践は、決められているようにあれをし、これをし、そして検証せず決まっているようにするので、儀式的になります。

 例えば水を掛けて顔を洗う呪術から、こちら側を向かなければならない、あちら側をむかなければならない、朝はこのようにし夕方はこのようにする、気づかない科学であるものまであります。私もしているのもあります。私がしていると言うのは、「このようにしなさい」と呪術で決められているようにするという意味です。

 朝水浴をする時などは最初に頭に水を掛け、昼間、昼に水浴する時は最初に顔に水を掛け、宵の口に水浴する時は足から先に水を掛けます。祖父母たちも呪術の状態でこのように言い、説明しないで、検証を禁じました。

 しかし本当にして見ると科学です。時間帯に合せてそのように正しくすると、風邪を予防し、あるいは風邪を引かない良い結果があります。夜中に水浴をする時は、私は最初に足に水を掛けてびしょ濡れにします。最初に頭に水を掛けると問題が生じます。

 昔の人は「朝、吉祥は頭にあり、昼、吉祥は胸にあり、宵、吉祥は足にある」と言いました。こういうのは、説明を禁じ、検証を禁じました。しかし科学です。こういうのは直接呪術ではありませんが、賢い人、智慧がある人の呪術で、賢い人が呪術に委ねたのかもしれません。つまり学問知識、あるいは仏教学を呪術に委ねたのかもしれません。

 あるいは原始人が偶然知って、学問的理由は無いけれど誰かが偶然知って、同じように実践し、そして呪術として実践してきたのかも知れません。しかし中身は科学で、面つきは呪術です。私も今日まで、今まで、水浴をする時だけ呪術を守っています。他の物を含めるという意味ではありません。

 私は「それは何か」を知り、科学として実践します。しかし呪術が先にそのように言っているので、呪術でしていると認める方が良いです。こういうのを「祈願ではなく、実践もある」と言います。座って合掌して、天を拝んで何か祈願するのは祈願だけの話です。このように実践しなさいと規定した実践もあれば実践します。それは実践です。

 だから、昔から現在まで、呪術には祈願するだけのと、実践があるものと、二つの様式があります。次に祈願するだけのは恐怖をなくす道具で、それも利益があります。実践もあるものは、恐怖を消すだけでなく、水浴について話したように、物質的、身体的な結果を受け取ることを忘れないでください。

 次に実践もある呪術はその中に科学があるので、迷信のようでも、呪術の意味、あるいは呪術の神聖さを維持する援けになります。みなさんにこの知識がなく、吉祥は朝は頭にあり、昼は顔にあり、夕は足にある話を信じて迷信でしても、それでもその行為から結果を受け取ります。だから呪術は常にライバルとして、世界に居場所がありました。だから「科学である呪術」と、もう一つ新たに信じてください。

 この系統の文化に関して、私たちは文化人類学を学ばなければなりません。世界の人間に、まだ現代のような教育がなかった時代は、迷信で探求してたくさん発見しましたが、理由は知りません。彼らは結果を見つけましたが、その理由を発見する必要はありませんでした。つまり reason、reasoning は発見しませんが、結果である result を発見しました。例えば「このようにすると安心なので、集団が信じなければならない神聖な物とする」と規定しました。

 この種の実践は、理由を使うことに関わらないので、霊験のあるもの、神聖なものと見なします。これが、強制して人を従わせる motive で、タブーと言います。タブーとは検証することを許さないように規定したもので、原始人のために始まりました。彼らは「こういうのはタブーだから絶対にしてはいけない。そういうのはタブーではないのでしても良い」と決めました。何語かは知りません。今でも、文化や宗教で使っています。

 その時代の人間は、何が害で何が恩恵かを知り始め、例えば老人が「これは食べられない」と発見すると、理屈で食べてはいけないと規定する代わりにタブーと規定しました。妊婦がこれを食べてはいけなければこれはタブーで、妊婦は食べる気にならず、手を触れません。

 次に規定が増えて良くなり、体系的に整ったタブーになりました。人間がどのように初めたのでしょうか。母親が懐妊した時から、その間中タブーがあり、妊婦がしなければならない行動規定があり、それをタブーと言いました。してはいけないことをタブーと言います。

 受胎の前の月経も道理の説明を必要としない、月経に関して実践しなければならないことがあり、タブーと言います。女性はこのように実践して妊娠、出産し、大きくなるまで子を育てる、年代ごとにタブーがあります。神聖と霊験があるとして守らせ、説明はしません。反論できず、検証もできません。どんなタブーがあっても、若者になるまで厳格に実践させます。だから性の道徳があり、欲情にガツついている現代より善いです。

 年を取って死んでどのように棺に入るかまで、全部タブーです。彼らは百パーセント信仰でしました。そしてこの信仰は、信仰に依存せず、皮膚が基準の理由に依存する現代人より、厳格に実践しました。だから「当時の人は悪人で上品でない」と理解しないくでください。本当は、私が下賎な心に満ちていると話した現代式文明の時代、現代人よりはるかに上品です。

 このようなタブーの形で呪術が始まった時、それは人間が危機を脱す支援をする道具になり、そして子孫、つまり私たちが生まれるまで発展しました。次に私たちは枠を越えて物質の話、皮膚の話になり、呪術の利益がある部分も消滅し、現代に増えている臆病、愚かさ、恐怖と遭遇すると、現代人は知らないうちに別のタイプの呪術を持ちます。

 留学してきた科学者たちが吉祥時を信じ、何でも強く信じて聖水などを掛けるのは、どうしようもありません。外国で科学を勉強し、書ききれないほど長い学位を取っても、別の部分に臆病と愚かさが非常にあるので、まだ聖水を掛けます。

 しかし見てください。タブーの時代の呪術は、公開されていない、道理の使用に依存しない、あるいは検証して公開しない科学です。しかし呪術と区別しなければなりません。それは検証することなく、恐怖や愚かさによってそのように探求し、儀式を発見し、しきたりか何かにしたからです。それも呪術です。

 その後袂を分かって道理の方へ進化をしたのもあり、霊験の方、神聖の方、迷信の方にどんどん進化したのもあります。後者はめいっぱい呪術で「臆病と愚かさで自分が恐れ、望み、理解できないものに依存しようと考える」広い基本の定義に依存して残っています。明らかな意味がある物が見つからなければ、明らかな物を自分の拠り所にできなければ、何か分らない物に転向します。これしかありません。

 脱出口、出口は、信仰、強い信仰の力に依存すればサマーディの類の強い心の力があり、それは誤ったサマーディでと言います。その誤ったサマーディの力で神通力と呼ぶものを生じさせることができ、それは誤った神通力で非常に不可思議です。不可思議な話なら客を集めることができ、信仰・崇拝する人を集めて教団員にすることができます、だからこれも大きな教団になることができます。

 みなさんから在家について説明を求められたので、「在家は呪術に落ちることがあるので、いつでも、幾らでも迷信になるので、気を付けてください」と、このように言います。私たちは「仏教は知る人、目覚めた人、明るい人で、智慧が先にあるので、呪術になる道はない」と、仏教教団員の名誉を維持しなければなりません。神様を信じる他の宗教は、気を付けてください。

 それは危うく、うっかりすると神様を呪術にすることがあります。仏教には神様はなく信仰に依存しないのに、うっかり茹で玉子と魚の麹漬けを仏像に供えることがあります。次に神様などを信じる宗教は、更に簡単に機会があります。だから私は「危うさ」という言葉を使います。神様を信じる人たちは、注意深くなければ、呪術になる危うさがあります。

 プムリエン(町の名前)の古いスアンモーク(プッタタートのお寺の愛称)の仏像は、子供を授かるよう祈願する人がいます。子のない人が願を掛けたら、一人か二人願いが叶い、それで評判になり、何十人、何百人もが願掛けすると、一人もいないかも知れません。これは偶然子が出来て、そしてそれをブッダの威力にしたのかもしれません。これほど大きな成り行きになります。だから信仰は、仏像を呪術の道具にする方向に歪ませます。

 みなさんは、幸運にも人間に生まれて仏教に出合ったので、初めに智慧に依存して正しく、真っ直ぐに、しっかり信じてください。愚かな人、臆病な人を援けると言うなら、呪術に仏教を預けても良く、呪術の形で何かを話しても良いです。

 そうしなければ彼らは信じないし、厳格にしないので、仏教を嫌らしくない、何とか見られる呪術に託して呪術を信じるように霊験のあるものと信じさせても何とかなります。当面の問題解決のために、頓服薬のように、こういうのもできます。道理のある知性ですれば許容できます。あるいはするのを許すことができます。

 今、仏教を呪術にするほど臆病で愚かすぎるのは恥、あるいは危険で、呪術が仏教を支配する好機になります。目を開けて、いつでも仏教に呪術を支配させなければなりません。

 そして呪術を道具、物質、容器、外貌として使いますが、中身は私が水浴の例で話したような知性です。みなさんが子供たちに「このようにすれば最高に完璧な吉祥です」と教えれば、子供たちはできます。そしてそれは科学であり、風邪を引かないなどの良い結果があります。それに仏教学であり、知性の話です。

 今非常に憐れなのは、後退して現代人の流れに入ることです。人が非常に物質に迷い、それが望みを増やすからです。望みが多いことが臆病と愚かさを増やします。どうぞ持ち帰って良く考えてください。私たちが願望を増やせば増やした分だけ、臆病、愚かさが増えます。いろんなテクノロジーは願望に原因があり、テクニシャン、テクノロジストであるのに願望のためで、知らないうちに更に呪術になります。

 つまり恐怖の領土が支配するので、呪術を信じるように神様を信じ、何もかも呪術のように信じます。科学者や技術者も神様に祈願し、軍隊も祈願し、何もかも呪術になります。臆病と愚かさが原因で、臆病と愚かさはものすごく欲しがる望みから生じるからです。その事業が世界中で殺し合うほど大きくなれば、臆病や愚かさも増え、迷信ですることが増えます。

 個人的に、科学者やみなさんのような学生が、反対にタブーの時代の人のように騙され易いのは滑稽ですが、それはあり得ることです。防止、あるいは恥を雪ぐには、智慧を迎えなければなりません。急いで智慧を持つにば、急いで妨害をなくし、時と人と場所にふさわしい機会にします。それば社会的な問題を解決するよう助けになります。

 臆病と愚かさがあるすべての人間の基礎に依存して、普通では理解できないもの、見えないものに依存します。私たちは神聖を受け入れますが、根源に知性がある神聖といいます。臆病で愚かな神聖ではありません。在家が来られるのはここまでです。

 その後も旅を続けたい在家は、聖人になるより外ありません。次に呪術に関わる弱さを捨て始めてしまいます。みなさん、聖人であることへ旅する八正道について、私はたくさん話しているので、本を探して読んでください。

 サンヨージャナ(動物を輪廻に結びつける煩悩。十結)を捨てることから始め、初めの段階で有身見、疑念、そして戒禁取を捨てます。これは仏教の最高に善い教えですが、在家、あるいは凡人を捨てて聖人になることに関心がある人はあまりいません。これが呪術の信仰を捨てる話の最初の項目であり、最初の課題であり、最初のテストです。

第一項 サッカーヤディッティ(有身見)は「俺がいる」「霊はある」「生まれ変わる魂がある」という愚かさです。同じ人が生まれることを繰り返す。こういうのは愚かさなので、最初に捨てなければなりません。

第二項 ヴィチキッチャー(疑)は科学と呪術の間の躊躇いです。道理の威力下にいることと、道理がない威力下にいることが忙しくせめぎ合うことを疑と言います。みなさん、自分は道理の威力内にいる人間だと、すぐに威張らないでください。元々の臆病と愚かさがある、人間の本性に埋もれている原因である種があれば、いつ道理の威力下にいなくなるか分かりません。そしてこの二つの間に conflict (闘い)があるのは、道理があることもあり、道理がないこともあります。これが捨てなければならない二項目です。

第三項 シーラッパタパラマーサ(戒禁取)は直接呪術、道理の威力下にない行動をすることです。この三つを捨てることができれば預流であり、最初のレベルの聖人です。

 人間が高い方の精神面の進歩をするには、最初に呪術の話に出くわします。これを通過できなければ聖人になること、あるいは仏教の精神面の文明(アーラヤダンマ)を望む必要はありません。現代の物質文明ではありません。同じ名前なので、気を付けてください。アリヤとアーラヤは同じ言葉、同じ語句で、パーリ語とサンスクリット語の違いだけです。

 しかし本当のアーラヤは精神面で高く正しくなければなりません。一方低下して下賎になったアーラヤ、物質面のアーラヤは、飲めば飲むほど酔い、酔えば酔うほど思い上がるので、下賎な心がある方になります。だから物質面の現代式文明と言います。ブッダの精神側の文明は精神面の文明なので、呪術と直面し、そして捨てる、あるいは何としても消滅させることができ、何としても通過しなければなければならない課題があります。

 要するに十分な道理がないことです。有身見は道理のない心、精神の傲慢です。そして疑は道理がなく、道理と愚かさの間でせめぎ合っています。戒禁取は道理がないことです。これを通過できれば「聖人の世界へ行くのを妨害している関所である、最初の妨害する物を捨てた」と言います。最後の段階の最後の呪術と呼ぶものは、聖人の世界へ行く道を阻む物、と知ってください。

 次に私たちは、船や筏のように、乗り物のように順に依存してきたことがあるので、感謝してください。しかし「ここまで来たら別れなければならない」とし、船や筏を陸へ、あるいはもっと良い乗り物に、あるいは他の船や筏に担いで行かない方が良いです。本当に陸に着いたら何も担ぎません。船も担がず、筏も担ぎません。だから最初の筏や船、つまり呪術は捨てて、もっと良い船や筏や飛行機を探さなければなりません。最後の目的地に着いたら、全部捨てます。

 だから私たちは、何は善くないと、一方的に言うことはできません。その善くない物は、その時の自分にとって利益になる時と場合にふさわしくないという意味です。人間は愚かさ、無知、原始人、あるいは人に達しない半人半動物から始まりました。それから休みなく高くなりました。しかしそれも一方的に言うことはできません。その当時は善かったもので、今は善くないこともあります。

 だからいつでも善いものは、時に応じて、時代に応じて、場所に応じて、変化に応じて有益に使えます。最後に善より上に行き、善の囚われから脱して聖人になり、ロークッタラ(俗世から出ること。出世間)になります。

 善いことと悪いことは常に入れ替わっていて、前には悪いと考えたことが人を賢くするので、利益があります。悪は噛みついて痛くするので、人は賢くなるからです。善はやりすぎ、身の程知らず、呆けた人にするので、それは別の状態で思いきり噛まれます。最後にはすべての善悪の話の中で人間に噛みつく話になります。だから私たちは(善悪を)超えて(善悪の)上に行く道を探し、脱して、超えて、聖人の話、聖向聖果涅槃の話になります。

 だから呪術の話は、小さな危険を防止する些細な話、頓服薬です。このように良く知ったら、ぼんやりして呪術の奴隷、下僕にならないでください。それを頓服薬のように使います。あるいは使うべきでなければ使うのを止めてしまい、捨ててしまいます。しかし人間は今日まで、分かちがたく関わって来たことを忘れないでください。

 在家は、支配する呪術に関わる在家であることを知ってください。在家は、常に呪術に支配される範囲にいるからです。みなさんは仏教教団員である在家なので、「智者、目覚めた人、明るい人」のように目を開けて、次第に呪術を脱ぎ捨てることができ、闇から脱した人になります。安全でも最高でもない拠り所のある人から、最高に安全な拠り所のある人になり、最後には、拠り所を信じなければならない人から脱してロークッタラ(聖人)になります。

 長々とお話したのは、呪術は現在まで、分けらることができない噛み合い絡み合いがあると指摘して見せるためです。みなさん善い在家になりたいなら、これらを正しく見なさい。私は在家と呪術に関する話を、このような目的でお話しました。

 ツグミと蝉が、時間の終わりを教えています。




次へ ホームページへ 法話目次へ